第22話 だから私は、あなたを選んだの

「違うわ楠木君。その『ed』は過去形ではなくて受動態の『ed』よ」


「え、マジ? ……あ、ほんとだ」


「ええ。だから、そのままだと『ボールがトムを投げた』ことになってしまうわね」


 大瑠璃から勉強会のお誘いを受けたあと。

 俺が案内されたのは、彼女の行きつけの店だという、音街商店街の街角にある一軒の喫茶店だった。

 店内に飾られたモノクロ写真などを見るに、どうやら横浜開港の頃よりの老舗のようだ。

 カウンターの隅に置かれた立派なサイフォンや、ホールに流れるゆっくりとしたクラシック音楽が、いかにも静かで落ち着いた純喫茶といった雰囲気を演出している。

 大瑠璃が試験前に通う店というだけあり、勉強するにはうってつけの環境と言えるだろう。

 彼女の学年トップクラスの成績には、もしかしたらこの喫茶店も一役買っているのかもしれない。


「はぁ……まさか、楠木君がここまで試験対策を疎かにしていたなんて思わなかったわ」


「面目ない……」


「授業内容はちゃんとノートに書いているし、地頭だって悪くないみたいなのに……楠木君って、もしかしてギリギリにならないとやる気が出ないタイプ?」


「うっ」


 図星すぎて言い訳のしようもないっス……。

 それに、今はいつも以上にやる気が出ない状態だしなぁ……。


「ふぅ、少し休憩にしましょう。楠木君、あまり集中できていないようだしね。何か飲み物のおかわりは?」


 溜息とともに肩をすくめ、大瑠璃は手元のカップに残っていたコーヒーを飲み干した。


「えっと、じゃあ、ココアをもう一杯」


「またそれ? ここはコーヒーが美味しいお店なのに」


「い、いいだろ別に。俺はココアが好きなんだよ」


「お子様ね。まぁいいでしょう……マスター、コーヒーとココアを一杯ずつ。どちらもホットでお願いします」


 大瑠璃の注文に、カウンター裏でコーヒーカップを磨いていた寡黙な老店主が頷く。

 ほどなくしてテーブルに注文の品が届けられた。


「ごゆっくり」


 マスターの言葉に軽く会釈を返し、淹れたてのココアを一口啜ったところで俺は言う。


「悪いな、せっかく勉強見てもらってるのに」


「ふん、まったくよ。相手があなたでなければとっくに匙を投げているところだわ」


 手厳しいんだか甘いんだかわからないそんな大瑠璃の愚痴に、俺は苦笑する。

 一応は勉強会──大瑠璃に言わせれば放課後デートの一環でもあるらしいけど──という名目ではあるが。

 実際は、ほぼ大瑠璃を先生にした個人授業って感じだ。

 ちょっとだけ、とか言っていたくせに、まさか大瑠璃がここまで本格的に俺の勉強を見てくれるとは思わなかった。

 いやまぁ、ありがたいことなんだけどさ。


「そりゃどうも。でも、大瑠璃だって自分の試験勉強があるだろ? 俺なんかに構わず、そっちを優先してくれてもいいんだぞ?」


「お生憎あいにくさまね。今回の試験の出題範囲なんて、すでに全教科復習済みです。今はそれらの最終確認をしているだけよ。あなたこそ、私のことなんかより自分の心配をしたらどう?」


 さすが学年トップ。やはりそこらの学生とは意識の高さが違うらしい。


(ほんと、つくづく俺なんかとは違う世界の住人だよなぁ)


 気位の高い猫みたいなその澄まし顔を眺めて、しみじみとそんなことを考えているうちに、


「あぁ、そうだ」


 ふと思い出し、俺は大瑠璃に言葉を投げる。


「そういえば、まだあの時の質問の答えを聞いてなかったな」


「質問?」


「前にお前に聞いたことがあっただろ? 『どうして俺なんかを恋人候補に選んだのか』って。ほら、あの赤レンガ倉庫のフェアに行ったときに」


 数瞬考え込んで、大瑠璃も「ああ、あれね」と頷いた。


「そういえば、あの時は橙子が来たせいで結局答えられずじまいだったわね」


「ああ」


「そうね……ちょうどブレイクタイムでもあるし、ええ、お茶うけ代わりに話してあげる」


 ほんのりと湯気がのぼるコーヒーの水面を見つめて、大瑠璃が打ち明けるように呟いた。


「私、将来はお父さんみたいな男の人と結婚したいの」


「…………」


 カップまであと数センチの場所で、伸ばした俺の右手がピタリと止まる。

 危なかった。

 いまこれに口を付けていたら、確実に吹き出していたところだ。


(え、何!? それを聞いて、俺は一体なんて言えばいいんだ!?)


 あまりに突然すぎるカミングアウトに咄嗟には脳が反応し切れない。

 ひとまず気分を落ち着かせる為にグイッとココアを一口飲んで、そこで俺はようやく言葉を絞り出した。


「ええっと、つまり……私はファザコンです、ってこと?」


「はぁ?」


 途端に眉根を寄せて、大瑠璃は「違うわよ」と首を振る。


「あくまでも私の理想の男性像が父のような人という話であって、別に父本人がタイプという訳じゃないわ。変な勘違いは止めてちょうだい」


「あ、なるほどそういう」


「そうよ。まったく、相変わらずデリカシーのない楠木君ね」


 俺の勘繰りをはなはだ心外そうに一蹴し、大瑠璃は語り始めた。


「私のお父さん、すごく一途な性格なのよ。お母さんとは高校生の頃から恋人同士だったんだけど、結婚するまでの十年間、ずっと母一筋だったそうよ。私の父親なくらいだから、学生時代からそれはもう女子にモテモテだったらしいの。それでも絶対に他の人になびくことはなかったって、いつかお母さんが話してくれたわ。もちろん、それは今でも同じよ」


「へぇ。カッコいい人なんだな、お前の親父さん。そりゃ憧れるのも分かる気がするよ」


「ええ。『あの人と一緒になって良かった』って、お母さんもよく言っているもの。だから私も、いつかそんな一途な人と出会いたいって……そう思っていたんだけれど、ね」


 そこまで言って、大瑠璃はあからさまにうんざりしたようにため息を吐く。


「これまで私に近づいてきた男子は、誰も彼ももう全然ダメ。告白する時は『君しかいない』だの『俺は諦めない』だの耳障りの良い台詞を言っていたけれど、大抵は私にフられた後、すぐに別の女の子と付き合ったりしていたわ。それも私とはまったく違う性格、まったく違う雰囲気の女の子と。結局、彼らは可愛ければ誰だっていいのでしょうね」


 話している内にムカついてきたのか、大瑠璃の口調は段々と愚痴っぽくなっていく。

 数多の男子の求愛をことごとく突っぱねてきた孤高の女王。

 ちまたじゃそんなクールビューティーなイメージで通っているミス帆港様にも、どうやら色々と腹にため込んでいるものがあったらしい。


「もう高校生活の間での出会いは期待できないかも知れない。いよいよそんな風に考えるようになって……ちょうどそんな時だったわ。とある一人の男子生徒の噂を知ったのは」


「とある男子生徒って?」


「それはもちろん、あなたのことよ」


 先ほどまでの苦い顔を崩し、不意に悪戯っぽい笑みで大瑠璃が俺を指差した。


「女子の間でもそこそこ人気があって、告白されることだってしばしば。その気になれば彼女なんていくらでも作れるはずなのに、決して誰とも付き合おうとしない男の子。一体どんな人なのか興味が湧いたわ。だからあの冬の日、私はちょっと試してみることにしたの。あなたが本当に誰にも……そう、この私にさえもなびかない人なのかどうか」


「じゃあ、お前があの日、『私が恋人になってあげてもいい』って言ったのは……」


「そう。本当はあなたを試すための方便だったのよ。噂が本当ならば良し。そうでなければ、あなたがイエスと言った瞬間にその場でさよならするつもりだったわ」


 なるほど、これでようやく大きな謎が解消された。

 考えてみれば当たり前の話だ。

 それまで何の接点も無かったのに、ある日突然学校一の美少女に惚れられるなんて、そんな都合の良い展開がリアルにあるわけないもんな。

 要するに、あの日の告白は俺の本性を暴くためのハニートラップだったというわけだ。

 もし引っかかっていたら最後。

 今頃は俺も「大瑠璃雪菜にフられた男」の一人として、晴れて先達の敗残兵たちの仲間入りをしていたことだろう。

 ……え、何それ怖い。あれって実はそんなスリリングなシーンだったの?

 なんだか今さらになって妙な冷や汗が吹き出してきたんですが。


「でも楠木君は……あなたはだったわ。正直、いざすっぱりと断られた時にはそれはそれで面白くなかったけれど、それでもあの時はそれ以上に嬉しかったのよ。ようやく私の理想の相手に出会えたのかも知れないと思ってね」


 カップを置いた大瑠璃が、おもむろにテーブルに身を乗り出して顔を近づけてくる。


「お、大瑠璃?」


 思わずドキリと心臓を跳ねさせる俺の額に、大瑠璃が人差し指をつんとあてがった。


「だから私は、あなたを選んだのよ。今は『僕っ娘』とやら一筋のようだけれど……いつかきっと、楠木君のその一途さを私だけに向けさせてみせるわ」


 急接近したその学園一の美貌には、普段の女王然とした彼女からはちょっと想像ができないほどの、真っ直ぐで無邪気な少女の微笑みがあった。

 これまでにもう何回聞かされたか分からない、いっそ清々しいまでに堂々とした大瑠璃の宣戦布告の言葉に。

 それでも僕っ娘が好きなんだ、と。

 この時の俺は、いつものようにそう自信満々に返事をすることができなかった。

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