暖かい春風。

咲き誇る色とりどりの花に若草の匂い。

柔らかな光の中に少し癖っ毛な少年が立っている。

「黒曜様!」

しっかり者で、どんどん弁が立つようになった賢い子だ。

その子が楽しそうに笑いながら手を振っている。

「中太郎」

それに応えて、黒曜はおや?と首を傾げる。

目隠しが無い。

これはいけないと顔を隠しながら周囲を探す。

「黒曜様!」

中太郎が走って寄ってくる音がする。

「すまんの。目隠しをなくしてしまったようじゃ。中太郎も探してたも」

黒曜がそう言うと、中太郎は声を上げて笑う。

「黒曜様、これは夢の中だからそんなの気にしなくて良いよ」

そして中太郎は黒曜の手を引く。

「夢………?」

黒曜は周りを見る。

これは見慣れた山の中だが、そう言えば全ての感覚が遠い。

花は艶やかに咲いているのに、何の花なのかわからなくてぼんやりしているし、よくよく嗅いでみると若草の匂いも薄いような気がする。


黒曜は恐る恐る腕を下ろすと、目の前で中太郎が笑っている。

少し褐色を帯びた黒い瞳が黒曜を見つめている。

「そなたは……そんな目の色じゃったのじゃな」

黒曜はしみじみと呟く。

能力を隠さねばならなかった黒曜が知っている中太郎の姿は、いつも眠った所か、人間と少し見え方の違う右太郎たちの目を通してだった。

「ふふ、違うか。これは夢じゃったな」

黒曜は中太郎の頭を撫でる。

「今頃は大きゅうなって、さぞ立派な青年になったじゃろうな。中太郎は賢かったから学者先生になっておるかもしれんのぅ」

夢なのに押し返してくる髪のコシの強さは現実のようだ。

中太郎が嬉しそうに笑うのを見て、黒曜は目を細める。

「夢でも会えたのは僥倖ぎょうこうじゃ。………会いたかったぞえ……」

小さな中太郎は黒曜を見上げる。

「俺に会いたかったの?黒曜様」

黒曜は袖で口を押さえて笑う。

「勿論じゃ。そなたが居らぬ山は火が消えたようじゃ。右太郎も左太郎もいてくれるがの。……そなたが居た毎日はあまりに楽し過ぎた」

夢でしか言えない本心に黒曜の顔は歪む。


「……黒曜様は俺が呪いに喰われるのが不憫で、仕方なく育ててくれていたわけじゃないの?」

夢なのに不思議な事を聞いてくるものだ。

「まさか!……しかし七年……七年もそなたを手元に置いておける理由があって良かったとは思うておる。……妾は人を狂わせる。普通の人であればすぐに離れてしまわなくてはならぬ。それが逆風さかかぜが収まるまでは、と、理由をつけて、そなたを手元に置いておけた」

黒曜は中太郎を抱きしめる。

「妾が只人ただひとであればのぅ……一緒に年をとって、そなたが一人前になる姿も見られたのにのぅ………」

今頃この子は、どんな立派な青年になり、どんな道を歩んでいるのか。

「別に妖でも一緒にいれば良いだろ?」

中太郎が驚く程しっかりした力で黒曜を抱きしめ返す。

「それは駄目じゃ。言ったであろ、妾は人を狂わす。どんな善人も妾の不老不死を求め、恐れ、憎しむ。……そして破滅するのじゃ。中太郎はそんな物には関わらず、健やかに人の世で暮らしてたも。それが一番じゃ」

頬に当たるしっかりとした髪の感覚に、黒曜は切なく微笑む。

もう二度と得られぬと思っていた感覚が、夢の中でも得られた。

嬉しくて、同時に、失った物を再確認して、胸が潰れそうなほど切ない。


「俺は黒曜様が居ない人の世になんかにいても、ちっとも健やかになんかしていられなかった」

「?」

胸に抱いていた、小さな中太郎が驚くような力強さで黒曜を持ち上げる。

「生死不明のまま俺を突き放して。俺がどれだけ泣いたか知ってる?俺がどれだけ手を尽くして黒曜様を探したか知ってる?」

「??」

黒曜の体は段々と持ち上げられ、遂に足が地面から離れてしまう。

「黒曜様らしき鬼の目撃例を、いろんな文献引っ張り出して調べて、調べ尽くして、黒曜様の面影を探して。黒曜様が死んだ晩に百鬼夜行が出て、その中に黒曜様らしき鬼がいたって知った時、俺がどれだけ嬉しかったかわかる?」

「???」

腕に抱きしめていた中太郎が、楠の若木のようにズンズンと大きくなっていく。

「生きてるなら、いつか迎えに来てくれるかもしれない。そう思っていたのに、貴女は全然来てくれない。だから俺は黒曜様に厄介払いされたのかもしれないって、そう思って、本当に辛かったよ。会いに行こうにも貴女は俺に『ここに戻るな』なんて言うから、あの土地に入る事すら出来ない」

夢とは、こんなにも思いつかない事を綴るものだっただろうか。

「おまけに黒曜様は俺がわからないし」

「………ちゅ、中太郎??」

既に頭の大きさが一抱えになっている。

息苦しい程抱きしめられて抵抗もできない。


「『中太郎』じゃない」

抱き上げられていた黒曜は漸く地面に降ろされる。

「俺は綾藤和総あやふじかずさ。貴女を捕らえる者だ」

そして漸く正対する。

後ろに撫でつけられているが、強い癖故に波打つ黒褐色の髪。

切れ長の、涼やかを通り越して冷たさを感じる鋭い目。

細身なのに威圧感のある長身。

きっちりと着こなされた洋装。

黒曜は大きく息を吸った。



「ひっ……ひぇぇぇぇえええええ!!!」



そして叫びながら跳ね起きる。

いつもより天井が異様に低くて、跳ね起きたついでに頭を打って、黒曜はもんどりを打って倒れる。

「うぅ……」

打った頭を撫でながら、黒曜は漸く落ち着く。

夢だ。

いつのまにか寝ていたのだ。

「何と趣味の悪い……」

黒曜の可愛い中太郎。

そして「俺は綾藤和総。楽しい旅になりそうだね。よろしく」と食事をしながら笑った同室の男。

全く似てないなら良いのに、何となく似ているからタチが悪い。



あれからとにかく大変だった。

食堂車で和総と名乗った男は、黒曜が興味を持って見ていた物を全て注文してしまったのだ。

黒曜は余計なお金を持っていないので、何も払えないし、要らないと言ったのだが、

「レディに財布を出させようなんて思う男はいないよ。こういう時、女性は素直に受け入れて『ご馳走さま』と言って笑うのが礼儀だよ」

と笑って却下された。

それならばと言葉に甘えて、『カステラ』等という美味な洋菓子を楽しませてもらった。

『ミルクセーキ』も食べ物と飲み物の合いの子のようで、とても甘くてまろやかで美味しかった。


そこまでは良かったのだが、食べ物を胃に収めてしまってから、和総は妖しく微笑んだ。

「世の男性が女性に奢る理由を知っている?……下心があるからだよ」

そう言って、個室に戻ってから隣に寄り添って、とにかく色々と話しかけてくる。

くっつかないで欲しいとか、喋りたくないと伝えると、「ミルクセーキをとても美味しそうに食べていたね」とか「カステラは甘かった?」等と恩に着せられて、封殺される。

黒曜は自分の迂闊さを呪いながら彼に付き合い、疲れ果てて途中で寝てしまったのだ。


見ればもう日も高い。

もしかしたら、そろそろ到着の刻限かも知れない。

顔を洗って、服をだらしなくないように着付け直さねば。

黒曜がそう思って寝台に手をつくと、何か柔らかい物に触る。

「いけない……寝心地が良すぎて眠りすぎた」

そして低音の男の声。

「ひっ!!!!」

振り向いて黒曜は固まる。

ここは黒曜の寝台。

今まで彼女が横になって休んでいた。

それなのに何故、この男も横になっているのか。

盛大に凍りつく黒曜に、男は小さく欠伸をこぼしてから、ニヤニヤと笑う。

「いやはや、貴女の寝顔の可愛らしい事。俺に寄りかかって気持ち良さそうに眠るものだから、離れて起こすのが忍びなくてね」

「わ……妾が………寄りかかって………!?」

黒曜は信じられなさのあまり、震える。

自分がそんな破廉恥な事をするとは信じられない。

しかし、昨夜は本当に疲れてしまって、いつ記憶が切れたのかすら覚えていない。


和総は真っ青になって固まる黒曜を可笑しそうに眺める。

「大丈夫。俺は紳士だから。多少感覚を楽しんだぐらいで何もしてないよ」

そして起き上がり、寝乱れた髪を手櫛で直している。

「感覚?…………感覚っ!?」

黒曜は自身の失態に震えていたが、ハッと気がつき、口を手で押さえる。

迂闊に喋りすぎている。

この男は危険だ。

これ以上の接触は危険だ。

「不味いね。駅に着いた。俺は席を外すから……」

黒曜は大事な荷物を抱えて、脱兎の如く個室を走りでる。

「ちょっ………」

髪はよれているし、衣も少し乱れている。

しかし背に腹は変えられない。

兎に角、脅迫者の元に急いで右太郎と左太郎を元に戻してもらう。

それさえ成れば良いのだ。

多少の恥も非礼も掻き捨てだ。



黒曜は停車したばかりの汽車から走り降りる。

走りながら切符を取り出し、改札を抜ける。

煉瓦造りの美しい建物を眺める余裕もない。

頭の中の地図を頼りに人々の群れに飛び込んで、すり抜ける。

———あぁ、金が欲しい!欲しい!!

———畜生!!あの野郎!!絶対に殺してやる!!!

———何で死んでしまったの……寂しい……寂しい……

しかし田舎の駅でさえ辛かった人々の思念が、段違いに混雑する駅の中に響き、黒曜は頭を押さえる。

(あぁ……頭が痛い……)

欲望、嫉妬、殺意、失意、慟哭。

目眩がしそうな程流れ込んでくる。

(乗合バス……乗合バス……)

眩む目で案内を見上げ、歯を噛み締めて吐き気を堪える。


しかし駅は広く、駅から出ると更に行き交う人が多い。

昨日の朝までは音という音すら無い山の中に引きこもっていた者に、動く人、溢れかえる物、路面を走る電車、空を走る電線だけでも情報過多だ。

———待って!待って〜〜〜!!!

それに付け加え、黒曜には電車を追う者の心の叫びや、

———ああ、もう。この田舎者!!道を譲りなさいよ!!

偶然手が当たった者の心の声などが入ってくる。

木々のざわめきや、動物たちの鳴き声に耳を澄ましていた黒曜にとって、人間の毒気程、体に触るものはない。

(バス……二人を助けねば……バス……)

人混みを少しでも避けて手紙の中の地図を取り出し、周囲を見回す。

そして停留所を見つけてヨタヨタと歩き出す。


酷い頭痛と吐き気。

空気すら濁っている気がする。

(そう言えば……あやつは一切毒がなかったの……)

たった今、逃れてきた男の事を黒曜は思い出す。

意地悪だったが、その空気は清廉だった。

黒曜は喘ぐように息をする。

肺の中に上手く空気が入っていないような気がする。

(バス………)

バス停には長蛇の列。

止まったバスに、あれだけの人が入るととても思えない。

あれを全て入れるのなら、バスの中はすし詰めだ。

どれだけの人と触れ合わねばならないのか。

黒曜の感じる目眩は強くなる。

(しかしあれに乗るしか方法はないのじゃ……)

人々の纏う空気の色が見える、この目が憎い。

あの濁った空気の中に入るのが恐ろしい。


しかし帝都は、あまりに黒曜に辛い環境だ。

休んだり怯んだりしていたら、どんどん弱っていく。

少しでも力があるうちに飛び込むしかない。

(ここを越えれば……手紙の主に会える)

黒曜は胸の風呂敷を抱きしめる。

大事な二人を黒曜が助けるのだ。


黒曜は列の最後尾に頼りない足取りで進む。

そして年嵩の恰幅の良い男の隣を通過しようとした時だった。

———さぁ、あの女、今日はどうやって虐めてやろうか。

とんでもなく黒い、加虐を悦ぶ声が黒曜の中に響く。

それと同時に無惨絵すら見たことのない黒曜の頭の中に、傷付けられ、苦しむ悲惨な女性の姿が流れ込む。

金で買われた女。

逃げ場のない彼女に向けられる、その男の歪んだ欲望。

「ーーーーーーー!!!!」

黒曜は声にならない悲鳴をあげる。


過去に捕まって、生きながらにして喰われた記憶。

不死を確かめる為に受けた、悍ましい被虐。

黒曜の腕を嗤いながら切り落とした男たち。

昨日まで善良だった隣人に指を潰されたこともあった。

化け物と生きたまま火に放り投げられもした。

その時の痛みと苦しみ、裏切りの苦さ。

忘れようとしていた過去が、隣の男の流れ出る愉悦と、その残虐な行いの映像に掘り返される。

(一度、離れねば……妾が……助けねば)

そう思うのに膝が崩れ落ちる。

(足を……動かさねば……)

そう思うのに、突然叫び出した黒曜への周りの者の感情が刺さり、意識を引き裂く。


「黒曜様!!!」


身体中の力が抜けて倒れる。

不思議なことに痛みはなかった。

闇は彼女を暖かく包んだ。

(右太郎……左太郎………)

彼らを助けなくてはいけないのに。

黒曜は自身を包み込む、暖かな闇に意識を呑まれた。

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