誰かの話し声が聞こえる。

「……ろう。私は反対だ」

「お山暮らしが御方様にあってるのは知ってる。御方様は呑気で繊細で鷹揚過ぎて、その上少し頭が弱い。下の人間には合わせられねぇ」

何か酷い事を言われている。

「そう。その上、御方様は他者の心から耳を塞ぐことも、目を閉じることもできない。今までどれだけ痛めつけられても、迫害されても人を憎む事すら考えつかない。そんな御方様を、こんな俗人だらけの人の世に下ろしてみろ。一方的に傷付けられるだけだ」

大きなため息が響く。

「だからその辺はわかってんだ。御方様は俺らが陰日向で守ればいいだろ。御方様は寿命が狂ってはいるが人間なんだ。人間には人間が必要だ」

「だから何故人間である必要がある。山には我らを始め妖が居るだろう。皆、御方様を好いている。誰も傷付けない」

「あぁ……ったく。群れない獣は話が通じねぇな。………いいか?俺らは御方様があるじになってくれているからこうやって自我を保っていられる。飼われてきた獣に主が要るように、人間には人間が必要なんだ」

なんの話なのか。

緩やかに黒曜は目を開ける。

すると、そこにはいつも黒曜を守ってくれる頼りになる二人がいる。

元々の姿である、人の二倍はありそうな巨体に戻って、黒曜の枕元にいる。


黒曜はぼんやりとそれを見ていたが、目が覚めていくに従い、ハッと目を見開く。

「右太郎!!左太郎!!」

飛び起きた黒曜は、犬と猫の顔をした妖たちに、そのまま抱き付く。

「箱庭から出られたのじゃな!?夢じゃないかの!?」

もふもふとした二人の毛の感覚を黒曜は抱きしめる。

「御方様!」

「目ぇ、覚ましたか。心配した」

そんな黒曜を二人も抱きしめ返す。

「良かった……二人が……うぅっ……良かった……」

黒曜は涙ぐみ、交互に二人の毛に顔を埋める。


「…………はて。妾は途中で、へたれてしまった気がするのじゃが………?」

ひとしきり喜んだ後に、ふと黒曜は疑問に行き当たる。

二人のために頑張ろうとしていたのに、情けなくも倒れてしまったはずだ。

黒曜の疑問に、二人の妖は顔を見合わせる。

そして二人して後ろを指差す。

「…………ひっ!ひぇっ!!!」

その手に導かれて、後ろを向いた黒曜は、もう一度、二人にしがみ付いた。

「な、な……あ、あ、あやつが………」

二人の間にめり込んで、隠れるようにする黒曜に二人は苦笑し合う。


「御方様、落ち着いて」

「よく見てみろよ」

二人に宥められて、黒曜は再び後ろを見る。

そこには汽車で同室だった男が座っている。

後ろに撫でつけていた髪は所々が好きな方向に跳ね、洒落た洋装ではなく、落ち着いた濃紺の着流し姿だが、間違いなく同一人物だ。

黒曜が寝かされていた布団の端に、綾藤和総と名乗った男は神妙な顔で正座している。

そして何故か、祈るような目つきで黒曜を見つめている。

「御方様はあいつといる時はいつも目隠しをしてたからな」

「ご自分の目で見たら、かなり違いがありましょう」

二人に背中を押されて、黒曜は正座している男の前に行く。

「?」

この男の前で目隠しなんかしていない。

右太郎も左太郎も箱庭の中で、『目』役になってもらえなかったから、ずっと目隠しは外していた。


男は切れ長の鋭い目だが、今は少し緩い。

少し目尻の下がったその目は、不安そうに黒曜を見ている。

褐色を帯びた黒。

その色を、つい先ほど見た。

『そなたは……そんな目の色じゃったのじゃな』

そう、それは夢の中。

黒曜がそう言ったのは———


「……中太郎……?」


そう言った次の瞬間に、黒曜は男の胸の中に納まっていた。

「ふぶっ!!!」

黒曜は飛びついてきた男の、その胸でしたたかに鼻を打つ。

男の腕の中で、もみくちゃにされた黒曜は呻く。

「黒曜様……!!」

頬に直接男の声が響く。

抱き締められているのに、縋られているようだ。

黒曜をそう呼ぶのはこの世でただ一人。

「黒曜様……ごめん。気がついて貰えなくて………悔しくて……でも会えて嬉しくて………」

優しく助けてくれたと思いきや、不機嫌になったり、急に馴れ馴れしくなったり、強引だったり。

散々振り回してくれたのは、忘れてしまったと思っての意地悪だったのか。


縋り付く力の強さに黒曜は苦笑する。

まさかこんなに大きく、力強い青年になるなんて、想像もつかなかった。

細くて、いかにも文学少年という風体だったのに、相変わらず、細いは細いが、並ならぬ長身で、こうも威風堂々と育つとは。

すくすくと育つ子だと嬉しく思っていたが、別れた後も、ずっとすくすくと育っていたらしい。

もみくちゃになりながら、黒曜は子供のように縋り付く大きな背中を慰めるように優しく摩る。

そして目を閉じる。

「妾もすまぬ。まさかこうも大きくなっているとは思わんでの。散々つれなくしてしまったの」

そうすると、ますます中太郎は子供のように、黒曜に抱きつく。

「黒曜様が俺の衣を大事だって言ってくれて……嬉しかった。俺を大事にしてくれていたのは本当だったんだって……嬉しかった」

そう言って中太郎は更に甘えるように黒曜に縋り付く。

「う………もちろん中太郎は妾の愛し子じゃ」

しかしあまりに力が強くて、そろそろ潰れそうだ。


「こら!久々と思って黙認したが、ちと気安いぞ!!」

そう言って左太郎が詰め寄る。

「と、言うか、そろそろ潰れるぞ。御方様を煎餅にされては困る」

尻尾を膨らます左太郎に対して、右太郎は冷静に、中太郎の檻から黒曜を取り出す。

久々の再会を喜んでくれていたので、言い出せなかったが、潰れかけてた黒曜はホッと息を吐く。

そして顔を隠す。

「積もる話があろうが、このままではちと話辛いの。目隠しになる布はないかえ?」

目を閉じておけば良いのだろうが、驚いたりすると、ついつい開けてしまったりする。

事故を防ぐ為にも目隠しは必須だ。


「……それが、御方様……」

黒曜を膝に乗せる右太郎から、何やら戸惑う感情が流れ込んでくる。

「目を隠す必要はないよ。ここは俺が作った結界の中だ。俺以外の呪法は一切発動出来ない。……黒曜様も俺の結界の中なら、ただの人間だ」

「……………へ?」

黒曜は思わず、顔を隠した手を下ろしてしまう。

結界とか呪法とか。

唐突に似つかわしくない事を中太郎が言い出した。

目を見開いて戸惑う黒曜に、右太郎と左太郎が困ったように顔を見合わせ合う。

「えっと、御方様、戸惑うかもしれねぇけど、どうもそうみたいなんだ」

「我らもこの通り。ここでは大きさを変える事すら出来ず、妖術の一つも使えないのです」

珍しく二人が大きい姿でいると思ったら、そんな理由だったのか。

黒曜は益々目を丸くする。


「黒曜様、何か言ってみて」

中太郎がそう言うが、自らの言霊の恐ろしさに振り回されてきた黒曜は、簡単に試す気にはなれない。

「俺を信じて、黒曜様。離れてから、全ての時間をここを作るために費やしたんだ。……ここは貴女が人として生活できる場所だよ」

すると褐色を帯びた目が、真っ直ぐに黒曜を見つめる。

信じて欲しい。

その目は黒曜に訴えかけている。

汽車で出会っただけの『綾藤和総』は信用できないが、黒曜が育てた愛し子なら話は別だ。

実現しても他愛のない事ならば、と、考えて黒曜は自らを膝に乗せる右太郎を見上げる。

黒曜に見つめられた右太郎は力強く頷いてみせる。

左太郎も興味津々の体で黒曜を見つめている。


黒曜はゴクリと唾を飲む。

そして皆が見守る中、口を開いた。

「右太郎…………お手」

ポフンと黒曜の頭の上に右太郎の手が乗る。

「……………あ」

「…………おや?」

「…………御方様………」

思わず命令に従ってしまった右太郎と、やはり言霊が発動してしまったのかと首を傾げる黒曜に、左太郎は頭を抱える。

「黒曜様………右太郎の本能に訴えかける命令はナシで」

中太郎だけが冷静に指摘する。

「あ、そ、そうじゃの」

コホンと気を取り直すように黒曜は咳をする。


「右太郎……妾を上に投げてたも」

右太郎は動かない。

「右太郎、高い高いしてたも」

黒曜が両腕を上げてねだる。

主人のおねだりに、思わず高い高いしようとした右太郎は、中太郎の咳払いでハッと気がつき、座り直す。

「右太郎……と、見せかけて左太郎、高い高いしてたも」

くりっと黒曜が左太郎を振り向き、意表をつかれた左太郎も思わず主人の命令に従おうとして、やはり中太郎の咳払いで止められる。


「………驚いた………」

黒曜は目を丸くする。

黒曜の言霊は、本人の意思では反抗できない物だ。

その為、使い方を間違えれば相手の心すら壊してしまう。

黒曜を信じていない相手に『信じろ』と命じれば、相手は心を壊される。

そして壊された心で黒曜に盲従するようになるのだ。

それ程強力な力だ。

「………………」

驚く黒曜を中太郎がじっと見つめる。

「………?何じゃ?」

「俺には、確認しなくて良いの?」

「うん?」

「いや………俺には高い高いをねだらないのかと……」

後半はゴニョゴニョと口の中にくぐもらせる中太郎に、右太郎は大きくため息を吐く。

「で、お前だけ高い高いやる気だろう。その手を下ろせ、その手を。……ったく。ちょっと目を離した隙にすっかり開き直りやがって」

そう言いつつ、右太郎は黒曜ににじり寄る、中太郎の手を張り飛ばす。

「人間の世界では十年をちょっととは言わないよ。妖と違って寿命が短いんだから」

黒曜を高い高いしたかったらしい中太郎は、恨みがましい目で右太郎を見ながら、張り飛ばされた自分の手を撫でる。


黒曜は目を見張る。

昔は少し自信なげに右太郎と左太郎の後ろにいた少年が、彼らと肩を並べてやりあっている。

しかも右太郎も左太郎も、中太郎を子供扱いしていない気がする。

気安い、仲間のようだ。

そんな黒曜を見て、中太郎はクスリと笑う。

「信じてくれた?」

「もちろんじゃ。……俄かに信じ難いがの」

右太郎と左太郎も深々と頷く。

「俺らも信じられねぇ」

「まさかあの小童が、小手先の呪具で我々を封じるほどの術師になるとは思いませんでした」

長寿な妖たちにはあっという間に中太郎が変わったように見えるのだろう。

それは黒曜も同じであるが。


「悪かったとは思っているよ。突然箱庭に二人を封印したのは。でも、二人ほどの妖力になると、何かに封印しないと、跡を追われる心配があったしね」

中太郎は何気ない事のようにそう言う。

「…………はぁ!?」

しかし黒曜は目を剥く。

右太郎と左太郎を箱庭に封じ込めて、黒曜を呼び寄せた『脅迫者』。

それがまさか、この中太郎だったとは。

「中太郎が!?何故なにゆえ!?」

驚く黒曜に、今更思い至ったのかと言いたげに、二人の従僕は苦笑しあっている。

確かに、意識を失って、起きたら箱庭から出た二人と中太郎がいたということはそれ以外考えられない。


「手荒な方法で呼び立てたのは申し訳なかったと思っているよ。でも俺はあの地に足を踏み込めないし。だから俺が迎えに行ける所まで自力で来てもらえるように仕向けたんだよ」

中太郎は少し気まずそうに説明する。

そんな中太郎を黒曜は呆然と眺める。

その姿は全く知らない他人のようで、昔の中太郎の姿と重ならない。

『呪』を使う一族の末裔だが、中太郎はそんな物に触れさせず、普通の子供として育てた。

彼は春の花に喜び、夏は川ではしゃぎ、秋は紅葉を追って走り、冬は芯まで冷えきるまで雪と戯れていた。

今も思い出しても微笑んでしまうような、濁りのない姿だった。

目の前にいる、強力な結界を作り出したり、妖を捕らえる箱庭を作ったりするその姿には違和感しか感じない。

本当にこれは中太郎なのだろうか。


「………万が一行き違いになった時の為に、家までの道順は書いておいたし、黒曜様の衣も厄除けと目隠しの術を施してはいたんだよ。まさかただの人間から絡まれると思っていなかったから、その辺り配慮が足りないと言われたらそうなんだけど……ちゃんと助けたし……」

言葉を失う黒曜を、機嫌が悪くなったと見て、中太郎は言い訳のように言う。

やっている事が違いすぎるが、言い訳する時の目の泳ぎ方なんかは小さい頃のままだ。

「何故……手紙に名前を書いてくれなんだ?」

黒曜は当然の疑問をぶつける。

それを聞いた中太郎は俯いてしまい、右太郎と左太郎がニヤニヤと笑う。


「御方様、中太郎は御方様に忘れられているかもしれないと、自信がなかったそうですよ」

「御方様は頭の作りが残念だからな。あっさり忘れてても不思議はない、と」

そう口々に報告する二人に中太郎は苦い顔をする。

「………忘れられて、反応してもらえなかったら……立ち直れないというか……一度失敗したら二回同じ手に引っかかってはもらえないと思ったから……」

そして小さな声で呟く。

黒曜は呆れたように息を吐く。

「妾が中太郎を忘れるはずなどないじゃろう。ちと、育ち過ぎてわからなくはなったがの」

その言葉に中太郎の顔が照れ臭そうながら、輝く。

「うん。その……だから……さっきも言ったけど、俺の衣を大事って言ってくれて……凄く嬉しかった」

目つきは益々鋭くなり、顔の造りも冷たさを増しているが、その表情は黒曜の大切な中太郎に間違いない。

「おい、犬じゃないのに振れる尻尾が見えるぞ」

「はっ、猫じゃねぇのに咽がなってる、だろ」

そんな中太郎を左太郎たちは冷やかす。


「まぁ、それはそうとして。中太郎、大事な話をさっさとせい。ここに御方様を呼んだ目的だ」

「そうだな。御方様、中太郎が面倒くせぇ方法で俺たちを呼んだのは理由があるんだ」

しかしすぐに二人は顔を引き締める。

中太郎も重々しい顔で頷く。

「黒曜様、今、厄介な連中が『不老不死』を探しているんだ。昔から飢饉や疫病があるたびに黒曜様が山を下りるから、あの地方では『不老不死の山神』『目隠しの鬼』の話に事欠かない。その上、実際に黒曜様の姿を見た連中を、生かして返してしまったから、あの山に『不老不死を得た人間』が住んでいると確信を持たれている」

黒曜は息を飲む。

飽きる程繰り返された『不老不死狩り』。

親しくしていた人間が突如変貌して襲いかかってくる恐怖。

生きながら身を削られ、肉をまれる苦痛。

そして我が肉が相手にもたらす悲惨な死。

怯えた黒曜は、無意識に右太郎に身を寄せる。


「怯えないで。俺の式たちに探らせているけど、奴らは貴女が山からいなくなった事にも気がついていない。左太郎の妖術で隠された庵を必死に探しているよ」

その髪を宥めるように中太郎は撫でる。

「でももうあの山には戻るべきじゃない。黒曜様は鷹揚すぎるし、右太郎も左太郎も厳しいようで案外、適当だから。あまりに庵を見つける事ができなくて、奴らもついに術師を雇ったんだ。いつ、事故が起きて黒曜様が見つけられるかわからない」

「私の術は人間ごときに破られる物ではない!……が、まぁ、君子危うきに近寄らず。住む山を変えた方が安全でしょうな」

人間ごときに負けないぞと、少し不機嫌気味に左太郎が付け加える。

「最近山に入ってくる者が多いと思ったら……妾を探しておったのか」

黒曜は嘆息する。

段々と数が増えていた山への侵入者。

不自然な程やってくるその者たちに見つかっていたら、黒曜は狩られてしまっていた。


「して……その『厄介な奴ら』とは?どの様な奴らなのじゃ?」

何年にも渡って調査してくるという事は、力のある相手なのだろう。

黒曜が聞くと、右太郎と左太郎は気まずそうに顔を見合わせる。

「この『国』と考えてもらっていい」

言い難そうな二人を差し置いて、中太郎が答える。

「………国?」

黒曜は眉根を寄せる。

「正確には、今は軍部の一部。黒曜様を襲った御堂劔の配下と繋がりがあった奴らが探している」

「………ぐんぶ?」

黒曜は首を傾げる。

長年山に篭っていた彼女は世情に疎い。

「この国の戦を司る集団だよ。……今はまだ、奴らがこの国を動かすような暴挙には出ていない。しかし、遠くない未来、軍部がこの国を動かすようになる。……少し前に他の国で大きな戦があってね。その戦でこの国は潤っていたんだが、戦が終わって、今や不況のど真ん中。これを打破するには戦しかないと、声高に叫ぶ者が出てきている。それに比例して軍部の力が増している。………これからこの国は確実に戦に向かって動いていく」

中太郎の話を聞きながら、黒曜は自分の中の不安がどんどん水位を上げていることに気がつく。

大きな戦。

それを起こす『軍部』。

『軍部』が黒曜を、否、『不老不死』を探している。

戦に不老不死。

嫌な予感に黒曜は震える。


そんな黒曜を中太郎は冷静な眼差しで見ている。

「そう。軍部の目的は黒曜様を捕え、その不老不死を研究して、『不死の兵士』という最強の兵器を作りたいんだよ」

黒曜は自分の身を抱きしめる。

どんな武器にも屈しない兵士は、使う者にとっては、それは魅力的だろう。

しかし忘れてはならない。

兵士は人間なのだ。

人を殺すために人外の存在にされ、何度殺されても敵に立ち向かわねばならない。

それは現世にいながら地獄を味わうという事だ。

「そのような……何と……そのような、恐ろしい事を………」

そんな事になるならば、いっそ重りでもつけて、深海に飛び降り、溺死し続けた方がマシだ。

絶対にこの身をその集団には渡せない。


「御方様、大丈夫だ。『不死の兵』を作ろうなんて戯けた事を考える奴らに、みすみす御方様を渡すわけがねぇ」

顔色の変わった黒曜の肩を、力強い、毛だらけの手が叩く。

「当然です。この呪いは人間になど解き明かせない物。何があっても我等が御方様を守ります」

左太郎も二つの燃える尾を大き膨らませながら言い切る。

「大丈夫。奴らは黒曜様の外見も何も知らない。『目隠しの鬼』は突然消えた。黒曜様は見た目も気配も、まるでただの人間だ。軍部の奴らにはもう探す術はない」

震える黒曜の手を取って、中太郎は撫でる。

そして妙に熱心に黒曜を見つめる。

「ここなら右太郎と左太郎が一緒でも絶対にバレない。黒曜様はこのままここで、人として暮らせばいい」

———これからはずっと俺が貴女を守る

触れた手から中太郎の真摯な思いが伝わってくる。

温かく、全てを任せたくなる思いだ。

黒曜は目を閉じる。


そして再び目を開けて黒曜は切なく中太郎を見る。

大きくなった。

見違える青年に育ち、その姿は自信に満ちている。

離れてから、どれだけ苦労して数々の術を覚えたのだろう。

沢山の苦労を経て大きな結果を得た。

それがこんなにも彼を輝かせるのだろう。

短い生を、精一杯生きている美しい煌めきだ。

永遠にそのままの化け物とは違う。


「中太郎、有難う。今回は本当にそなたに助けられた。ちと驚いたが、そなたの手紙、わかりやすくて、初めてのものばかりじゃったのに、上手く汽車にも乗れた。久方ぶりの冒険は楽しかったぞよ。そなたがくれた『そおだあ』も肝をつぶしたが、面白かった」

黒曜は握られた手をそっと離し、中太郎の頬に触れる。

「昔も今もそなたは煌めくような時間を妾に与えくれる。その輝きは貴重じゃ」

触れた手から恥じらい混じりの喜びが伝わってくる。

母に褒められた子のようだ。

黒曜は頬に触れていた手で癖の強い髪を撫でる。

「だから妾のような人外の者に、その煌めく時間をつこうてくれるな。そなたの時間はそなただけの為にお使い」

そっと黒曜は中太郎から手を離す。


「御方様!!」

「何じゃ」

「何じゃ、じゃねぇよ!!見ただろう!?中太郎の力を!!俺たち大妖とも渡り合える術師なんか他にいない!!しかも中太郎は国の上の奴らへの人脈もある!!今は助けてもらうべきだ!!」

「駄目じゃ。人の時間は我らと価値が違う。儚く、消え易い、尊きものじゃ。……妾の為に消費してはならぬ」

噛み付く右太郎の膝から黒曜は飛び降りる。

「中太郎が逃してくれたから、追っ手も今はおらんじゃろう。ちぃと歩くが、高尾山の十三郎殿を頼ろうかの。何、季節折々の御文の遣り取りがあるから、次に住む山を見つけるまで間借りさせていただけるはずじゃ」

満足そうにウンウンと頷いていた左太郎が目の形を変える。

「十三郎!?あの者、過去に御方様を攫った不届き者ではないですか!!!あんな奴を頼ったら何をされるか!!」

「あの方は多少茶目っ気が有り余っておられるだけで、そう悪い方ではないぞえ。そんなに悪ぅ言うでない」

「何を言ってるんですか!!!あやつめは当代一の人間好き!!御方様が行ったら涎を垂らして喜悦に悶え回りますよ!!」

「歓迎していただけるのは喜ばしい事じゃろう」

「ズレてますよ!!歓迎は歓迎でもあんなに危ない歓迎受け手は駄目です!!」

興奮して毛を逆だてる左太郎に黒曜は溜息をつく。



「………何処にも行けないよ」



言い合う左太郎と黒曜、そして二人を説得しようと考え込んでいた右太郎が振り向き、眼を見張る。

褐色を帯びた目が暗い輝きを灯している。

「この屋敷は妖の出入りは勿論、人の出入りも俺の許可なしでは出来ない。夢での逢瀬で言ったよね?俺は貴女を助けたわけじゃない。………捕らえたんだ」

中太郎は黒曜に手を伸ばし、引き寄せる。

「人に十年は本当に長いんだよ。探して、探して、漸く会えたのに、手放すと思う?……黒曜様は全然わかっていない」

その手から言葉にならない感情が黒曜に流れ込む。

孤独。

焦燥。

渇望。

苛立ち。

絶望。

色々な物が綯交ぜになって、胸が締め付けられるように痛む。


「十年あったら人は変わるんだよ、黒曜様。……貴女は悲しいくらい変わらないけど」

初めて見る歪んだ微笑み。

「長かったよ。俺は華族の家に貰われて『綾藤和総』になって。綾藤和総はね、妖の術でズルをして綾藤家の跡取りとして養子になったんだけど、貰われたその年に、何とその夫婦に実子ができてしまってね。用無しになってしまったんだ。子供を諦めてしまった夫婦が、養子を取った途端に子宝に恵まれる。ってね。良くあるらしいよ」

軽やかな笑い声をあげるが、その目は笑っていない。

「そこから綾藤和総の周りには誰もいなかった。『中太郎』は、それは愛されて甘やかされて育てられていたからね。寂しかったよ。……でも流石、黒曜様たちが厳選した夫婦だ。邪険にはされなかったよ。学びたいことがあると言えば学ばせてくれて、行きたい場所があると言えば金はいくらでも出してくれた。礼儀を守り、俺の意思を尊重して、惜しみなく出資してくれた。……何も継がせない、愛せない代わりに、何でもしてくれた」

中太郎は手慰みのように、黒曜の髪を掬い上げては指で梳く。

その指付きは優しい。

慈しみ撫でているようだ。

何となくその手の動きを見ていた黒曜と、視線を上げた中太郎の目が合うと、彼は優しく笑う。

優しいのに、何故か狂気を感じる。


中太郎は優しくて、少し寂しがり屋な子供だった。

良く甘えて、くっついてくる子供だった。

その彼が良かれと思って託した家で孤独に過ごしていたのかと思うと胸が痛む。

「…………すまぬ」

中太郎は笑う。

「何で?お陰で俺は誰に遠慮する事なく黒曜様の影を追えた。遠慮なく散財して修行したお陰で、かなり優秀な退魔師になれたよ」

黒曜は目を凝らすが、彼の周りの空気はやはり清廉な色をしていて濁りが無い。

「そのおかげで今、奴らを出し抜いて貴女を手に入れられた」

それなのに不穏当な言葉を平然と吐く。


そしてきつく抱き締められる。

「ここは貴女を閉じ込める檻だ。絶対に逃がさない」

黒曜はその言葉に何も返せない。

驚きや恐れではない。

黒曜に縋り付くように抱きつく中太郎の、小さな、小さな心の声が聞こえたからだ。


———俺を要らないと言わないで


孤独に溢れるその声を、拒否することだけは出来なかった。

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