車窓から見えるのは、殆どが山や森、田んぼなどで変わり映えないが、時々見える街の様子に心は踊る。

一言も会話の無い空間にも慣れ、男が席を外した間に箱庭も確認したが、全く問題なかった。

〔多少揺れだけど、全然問題なかったぜ。酔っ払いも起きたしな〕

右太郎が揶揄すると、マタタビ酒が切れて、正気に戻った左太郎が気まずそうに尻尾を振る。

〔御方様、ご迷惑をお掛けして申し訳ございません〕

すっかり落ち込んだ様子に黒曜は笑う。

「元はと言えば、この荷を受け取った妾の不手際じゃ」

撫でてやりたいが、透明な壁が黒曜の手を阻む。

「親切な方にも助けていただいて、今の所、順調じゃ」

気に病むでないと言いかけて、言霊を思い出して、黒曜は口をつぐむ。

代わりに笑って手を振ってから箱を閉じる。

そして木片を口の中に突っ込みなおす。


長い間小さくなっておくのにも疲れて、大きく伸びをして欠伸をしていると、個室のドアが開く。

相席の男が帰ってきたのだ。

黒曜は慌ててまた小さくなって座る。

「……座りっぱなしで疲れないの?」

小さなテーブルに透明の瓶を置いて、男は座る。

黒曜は頷いて、男の邪魔にならないよう、出来るだけ壁による。

また車窓の景色を見ようと思っていたが、目が男の置いた瓶に引きつけられる。

(はて……この泡は何処から生まれてきておるのか……)

不思議な瓶で中から次々に泡が出ては消えている。

しみじみと瓶を見る黒曜に男が少し笑う。

「サイダーだよ。見た事がないの?」

(『さいだあ』か。唐渡からわたりかえ)

黒曜は頷きながら、は、と気がつき、視線をそらす。

あまり人様の物を見るのは不躾であった。


しかし気になる。

液体から何故気泡が生まれるのか。

ちらちらと瓶の様子を伺う黒曜に、相手はまた少し笑う。

「飲むかい?」

コンコンと音を立てて、グラスが二つ卓に追加される。

(これは飲み物なのかえ!!)

黒曜は目を剥く。

興味は深々である。

しかし見知らぬ人の飲み物を分けてもらうのは、あまりにもはしたない。

しかも口の中には木片を入れているので、飲み食いしづらい。

黒曜は首を振って小さく座り直す。


男は一つのグラスに液体を注ぐ。

シュワワワワ〜と音を立てて気泡が沸き立つ。

(何と!!)

視線を逸らしていたが、その音に再び目が釘付けになる。

「甘〜い、よ」

そう言って弾ける液体を男は飲む。

(甘いのかえ!!)

いよいよ興味がわいて、黒曜は思わず生唾を飲んでしまう。

それを見た男は、今までの不機嫌な顔が嘘のように柔らかく微笑む。

「少しだけ飲んでごらん」

そう言って指三本分くらいの液体を黒曜側のグラスに注ぐ。


(す………少しだけじゃ)

興味に負けて、黒曜は深々と頭を下げてからグラスを押し頂く。

(冷たい。湧きたての清水のようじゃ)

そして目を丸くしながら液体を口に含む。

不思議な匂いと甘み。

「ゴホッッッ!!!!」

そして舌に感じた刺激のせいで、思わず黒曜は液体を逆流させ、噴き出してしまった。

「あ!!!!!」

口に咥えていた木片共々液体が床に散らばる。

木製の床に染みが広がる。

「す、すまぬ!!」

慌てて黒曜は持っていた風呂敷を広げるが、風呂敷の中にあるのは箱庭と手紙と紙と筆と大事な衣だけだ。

紙で拭こうか。

いや、直ぐにふやけてしまう。

何か拭くもの。

焦りながら黒曜は思い至る。

荷物を入れている風呂敷だ。

荷物を外に出して、風呂敷を持ってさあ拭こうとした黒曜を、男は制する。

「待って。今、清掃させよう」

流れるように自然にドアを開けて、男は人を呼ぶ。

そして黒曜の着物にも落ちたサイダーを、自身の手巾で手早く拭く。

頂いたものを噴き出してしまうとは。

無用に慌てる黒曜に男は笑う。

「炭酸に驚いたんだね。……口も付いている」

「っっ……!!」

男の近さに黒曜は身を縮こめる。

先ほどの不機嫌から、雰囲気が一転しすぎている。


床の掃除を終えた係りの者が頭を下げて出て行くと、男はクスリと小さく笑う。

「一応婚約者と言って、ここに連れ込んだからね。それらしくして見せただけだよ」

そう言ってまた元の位置に座り直す。

距離が離れて黒曜はホッと息を吐く。

「どう?サイダー、まだ飲む?」

片頬だけ上げたその笑顔は、意地悪を楽しんでいるようだ。

黒曜は首を振って、深く頭を下げながら、グラスを押し返す。

「貴女にはミルクセーキが良かったかな」

くすくすと笑い声を上げられる。

よくわからないが、揶揄されている感覚はある。

黒曜は少し渋い顔をしながら、掴んでいた風呂敷に荷物を戻す。


「………着替えにしてはボロボロな衣だね」

箱庭の上に乗せた衣を見て男が言う。

確かにボロボロだが、大事な物なのだ。

黒曜は少し気分を害しつつ、荷物をまとめる。

「貴女はどうして喋らないの?さっき声を出してたから喋れないって事はないんだよね?」

男は馴れ馴れしく聞いてくる。

答えようが無くて、黒曜は首を振る。

「………帝都まで行くには、少し荷物が少なくないかい?」

答えない黒曜にめげずに男は話し掛けてくる。

無視してもいいが、頂いた物を吐き出し、拭いてもらった手前、そう言うわけにもいかない。

『人に会うために行くだけですので』

と紙に書きつけて相手に見せる。

「それにしても長旅だろう?今日、寝るときはどうするの?」

黒曜はきょとんとして相手を見る。

特に寝る予定なんてない。

汽車から降りたらバスに乗り換えて目的地に行くだけだ。

右太郎と左太郎の解放に成功すれば、直ぐに住処に戻る。

そんな黒曜に、相手の男は困ったなと言うような顔をする。


「えーっと……先程から貴女が座ってる所ね、そこは椅子じゃ無くて寝台なんだよ?今日はここで眠るんだ」

そう言われて、黒曜は初めて自分が腰掛けているところを見直す。

男の座っている所と違って、少し広くて、白い布で覆われ、小さい座布団と、細長く丸められた肘置きがある。

「これは枕。これは毛布」

男はその座布団と肘掛を指差す。

「………………」

夜通し汽車に乗るだけだと思っていた。

黒曜は頭を抱える。

「さっきの衣は寝巻きじゃないんだね」

男はまた笑う。

『失くしたり盗られたりしないように持ってきただけです』

黒曜は少し嫌そうな顔をしながら紙を見せる。

「……そのボロ布を?」

ボロと言われてカチンとした黒曜は、少し荒々しく文字を綴る。

『私には絶対失くせない大事な物なんです』

そして黒曜は風呂敷を抱き締める。

もういい。

笑えば良い。

これはただのボロ布ではない。

愛し子が拾った時に着ていた衣だ。

何回も修繕して袖を出して、仕立て直して、ずっと黒曜の大事な子を温めてきた衣だ。

唯一、黒曜が手元に残した、思い出の品だ。

彼にとっても思い出の品だから、本当は独り立ちさせた、あの子に持たせた方が良かったのだろうが、どうしても手放せなかった。

輝くような季節の思い出が詰まっている。


他人からはボロ布に見えるだろうが、そう言われると気持ちは良くない。

もうこの人とは喋らないようにしよう。

心が傷付けられるだけだ。

彼は勝手に眠ればいい。

自分は当初の予定通り、座って世を明かす。

黒曜は露骨に唇を曲げて車窓を眺める。

「…………形見か何か?」

形見など縁起でもない。

あの子は何処かで幸せに生活しているはずだ。

黒曜は外を見たまま、首を強く振る。

「差し支えなければ、その布の由縁ゆえんなんかを教えてくれないかな?」

やはり黒曜は首を強く振る。

「………………」

男は少し目を見開いた後、また片頬で笑う。


「手巾がわり?」

黒曜は憮然として口を引き結ぶ。

「その下の荷物に万が一にも墨が垂れないようにするための雑巾?」

苛立つが、少しきつめに相手を睨むだけで黒曜は耐える。

「雨が降った時に被る用?」

噛み締める歯が痛い。

何故先程噴き出した時、噛みしめる用の木片を拾わなかったのか。

奥歯が痛くて黒曜は後悔する。

「使い古した感じが尻にひくのに丁度良いとか」

この男、かなり失礼だ。

大切な物だと言っているのに、からかい混じりに酷いことを言う。

黒曜は怒りに震える。

「ボロ布は旅先で汚れたら捨てられるから、便利だよね」

「これは妾の宝物じゃ!!ボロなどではない!!!」

怒りに任せて口を開いて、黒曜はハッと口を押さえる。


怒鳴りつけられた男は気を悪くするどころか、ニヤニヤと笑っている。

目つきの鋭さも相まって、腹黒さが滲み出た微笑みに見える。

黒曜は急いで紙と筆を手繰り寄せる。

『これは私のとても大事な人が使っていた品だから肌身離さず持っているだけです。この品へのこれ以上の愚弄は不愉快。それをなさるようなら私は廊下にでも出て夜を明かします』

そして強い批判を紙に書き付け、パンパンと紙を叩いて強い怒りを示す。

ニヤニヤと笑っていた男は、更なる愚弄を投げかけてくるかと思いきや、真顔に戻っている。

そして何故か黒曜の手から紙を受け取り、大切そうにその紙を自分の隣で乾かすように広げる。

「???」

全く黒曜には訳がわからない。


男は急に柔らかに微笑み、黒曜の手を取る。

「失礼。隠されると、どうしても所以が知りたくなる。人間の業だね。わざと苛立たせてすみません」

そう言うと黒曜の手に恭しく口づけをする。

「なっ、なっ、な、な、な、な……」

この男、猫又の目よりもコロコロと態度と表情が変わる。

山に引きこもっていた黒曜にはついていけない。

ついでに男性に免疫もないので、混乱しすぎて倒れそうだ。

「非礼のお詫びにミルクセーキを買ってきましょう。……貴女の話に興味がある。色々聞かせて欲しい」

そう言って男は立ち上がる。

聞かせて欲しいと言っても、黒曜は特に話すことはない。

『ミルクセーキ』なる物に興味はあるが、何やら身の危険を感じる。

あの男には翻弄されて、碌でもないことを喋ってしまいそうな気がする。

黒曜は自分が間抜けな自覚がある。

頼りになる右太郎と左太郎が封じられているこの時にあやかしである事がバレたら大変だ。

捕らえられて肉を削がれるか、化け物として見世物にされてしまうか、気持ち悪がられて何度も殺されるかもしれない。


席を何処かに移れないだろうか。

人の世のことはあまりわからないが、誰かに頼めば席を代わってくれるかも知れない。

揺れる汽車の中、黒曜は慌てて荷物を持って立ち上がる。

そしてたたらを踏みながら、個室のドアを開けて出て行こうと手を伸ばした。

その瞬間、ドアはひとりでに開いた。

「…………………」

「…………………」

黒曜と戻ってきた男は、無言で顔を見合わせる。

黒曜は驚き固まるが、男の方は軽く目を見張ってから、すぐにニヤリと不敵な笑みを浮かべる。


「何方へ?」

「あ……か、厠へ………」

「荷物を持って?」

「…………………」

「ふぅん…………。場所がわかり辛いから案内するよ。戻って来て良かった。どうせだから貴女を食堂車にご案内しようと思い至って重畳ちょうじょうだった。ミルクホールを真似た造りだから、見せたいと思ったんだ」

口調は柔らかいが、逃がさないぞとばかりに袖を握られる。

男性が女性の用足しに着いてくるなどあり得ない。

そう思ったが、ガッチリと掴まった手はそんな一般論を述べても離れそうにない。

(この道行は………まずい事になった)

黒曜は天を仰いだ。

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