参
緊張した面持ちの、少女から女性への過渡期を迎えた、妙齢の乙女が、駅の構内の端っこで紙を広げながら周りを見ている。
駅を通る者は、チラチラと彼女を見る。
おろしたてと思われる桜色の愛らしい柄の着物に、菖蒲色が裾に向かって
その姿は明らかに世に慣れていない、外に初めて出た箱入り娘と言った風だ。
髪もひさし髪を結うでもなく、腰下まで伸びた豊かな黒絹の髪を、首の後ろでとってつけたようにリボンで結んでいるだけの簡素な姿だ。
街を闊歩するモダンガール達とは全く反対で、頼りなげで儚げに見える。
世に慣れていない少女を純粋に助けてあげたいという心を掻き立てられる者や、これから都会に出ようとしている騙しやすそうな娘を食い物にしてやろうと画策する者。
彼女には数多くの声がかけられるが、彼女は深くお辞儀をするだけで、話そうとはしない。
広げた紙の中から切符を取り出し、少し大きめの、古めかしい風呂敷を持ちなおす。
(やれ、知らぬうちにえらく人の世は他者との距離が近くなったのじゃな。これは喋らないでいるのも大変じゃのぅ)
そんな事を彼女が考えているなど、周りの者は知りもしない。
彼女は右と左の奥歯の間に小さな木片を渡し、両方の奥歯で強く噛んでいる。
何ら抑制力はないかもしれないが、こうしておくと、舌が思ったように動かず、喋る事ができない。
目の代わりになる従僕たちがおらず、自分の目で周りを見なくてはいけなくなった黒曜の苦肉の策である。
力のある目を封じることができないので、決して人の世では口を開けない。
間違って『お元気で』と言っただけでも大惨事になったこともある。
言霊は言葉を発した黒曜にさえ、どんな結果を引き起こすのか想像できないのだ。
その強制力には波があり、同じ言葉でも違う結果をもたらすからだ。
絶対に言霊は操らない。
そう心に決めて彼女は指示にある列車を目指す。
(まぁ、
ウンウンと黒曜は一人頷く。
駅の構内にいる女性らは、その艶やかさを競うようだ。
この中で格好だけは女学生なのに、田舎の婆様よろしく行李を担いでいたらそれは目立っただろう。
〔御方様………荷物は最小限に。近頃、そんなダサい物を背負って歩かねぇんだ。『はんどばっく』とか言う、こんまい動物の皮を剥いだ入れ物に入れるんだ。せめて持つなら風呂敷だ〕
着替えや高下駄、貴重な薬草や書物。
もう戻れない逃避行になるかもしれないと、あれこれと詰めていたら、一抱えの荷物になり、箱庭の中から右太郎に咎められた。
〔敵と相対するのかも知れねぇんだ。出来る限り身軽である事。最低限の必要な物、絶対に無くせない物だけにしてくだせぇ〕
そう言われた黒曜が持って行く事にしたのは箱庭と、相手から届いた書状、携帯用の筆、紙、そしてどうしても無くせない着物を一着だけだった。
(しかしまぁ………装いの華やかさとは裏腹に、人の世の毒気の強くなった事……)
黒曜は溜息をつく。
黒曜は通常、触れた相手の心しか読めない。
しかし時として強すぎる感情は触れるまでもなく流れ込んで来る。
喜怒哀楽。
皆が等しく持つ感情だろうが、何故か零れ出るほど強い感情は、怒りや悲しみなどの負の感情が多い。
昔からそう言う傾向はあったが、今は耳を塞ぎたくなるような感情があちこちで溢れ出ている。
———憎い。あの人をどうやったら取り戻せるのか。
———あの野郎……俺を馬鹿にしやがって……許さない
———あの土地は俺の物になるはずだったんだ。それを横から……
実際は耳から聞こえているわけではないので、耳を塞いでも意味はないのでやらないが、聞くに耐えない馬事雑言が溢れている。
出来るだけ人との間を取り、聞こえないように努めるが、何やら先程から妙な男たちが次々と近付いてくる。
———良い商品になりそうな、おぼこいのが歩いている!!
指示にある汽車に乗り込もうとしていたら、すれ違う時に触れてしまった手から、ドス黒い喜びの声が聞こえてくる。
慌てて離れようと足を早めるが、
「君も東京に行くのかい!?」
心の声の卑しさとは裏腹の爽やかな声がかけられる。
関わり合いになると厄介だ。
黒曜は聞こえない振りをして、汽車に乗り込もうとする。
「待って、君だよ!君!!」
しかし男の手が一歩早く入り口を遮り、手を握って、無理矢理振り向かされる。
身なりの良い優男だ。
爽やかな笑顔を浮かべるその顔は、一般的に見れば、見目が良い方なのだが、心の声が聞こえている黒曜の心は微動だにしない。
———やった!!これは高値で売れる!!
振り向いた黒曜を見て、男の心が黒い喜びに溢れる。
黒曜を田舎の小娘と見誤り、食い物にせんと寄って来たのだ。
顔で女に取り入り、売り飛ばす、悪質な
黒曜は冷ややかに相手を見る。
「あ、ごめんね。俺もこの車両に乗るんだけど、一人旅って寂しくて。君みたいな可愛いお嬢さんと道連れになれると嬉しいなと思って」
男は渾身の魅惑的な微笑みを浮かべてみせる。
(誰がお嬢さんじゃ。妾は齢五百を超える大年増じゃ)
と、言ってしまいたいのを抑えて、黒曜は冷たい顔のまま首を振る。
「え?ここに乗らないの?」
黒曜は手に持った切符を男に見せる。
「あ……乗るんだね。あ、じゃあ、もしかして……俺との道連れは嫌だって事かな?」
男の爽やかな笑顔が少し歪む。
黒曜が容赦なく、深く頷くと、その笑顔は完全に凍りつく。
相手が固まったのを良いことに、その手を振り解き、黒曜はさっさと汽車に乗り込む。
「ちょっ、待って、待ってよ!!俺は怪しい者じゃないよ?」
いや、乗り込もうとしたのだが、腕を引っ張られて阻まれる。
「君って汽車に乗った事とかある?東京に行くんだろ?一人じゃ危ないから声をかけたんだよ?何か君ってほっとけないんだよ。帝都は怖い人間や事件に溢れているからね」
布越しにしか触られていないが、男の内心が煮え繰り返っているせいで、聞くに耐えない男の心の声が頭に反響する。
何処かに連れ込んで犯して鼻っ柱を叩き折ってやるとか、薬漬けにしてやるとか、とにかく恐怖心を煽って操ってやろうとか、山で下界との関わりを絶って暮らしていた黒曜には毒の強い言葉ばかりが流れ込む。
吐き気を催し、黒曜は必死にその手を引き剥がそうとする。
「ちょっと……暴れないでよ……待ってよ!!そ、そうだ、あっちに行って落ち着こうよ!」
黒曜が本気の抵抗を始めたせいで、男は焦ってますます黒曜の腕を強く引く。
ドス黒い人間の毒気に当たって頭が割れそうに痛む。
吐き気も酷い。
しかし男の力に貧弱な黒曜は抵抗できない。
彼女は年を食っているだけで、これと言った能力はないのだ。
圧倒的な力の差で引き摺られ始めてしまう。
「………………っっ」
木片を吐き出して、言霊を使う。
それ以外に打開の方法が思いつかない。
「っっい!?ぎゃっっ!!!」
黒曜が口の中で噛み締めていた木片を舌で押した瞬間の事だった。
「!?」
掴まれていた腕が突如解放されて、踏ん張っていた黒曜は地面に転がる。
腕や足を打つ痛みが走るが、それより悍ましい思考の流入が止まった事に黒曜は安堵する。
そして転がしてしまった箱庭の安否を、慌てて確かめる。
「貴様、この方を誰と思っている」
そんな黒曜の耳に、底冷えする、地を這うような声が入る。
「だ、だ、誰って………」
「この方は、さるお家の姫君で、お前のような下種が触れることはおろか、目にする事すら叶わんほど尊い方だぞ」
何やら勝手に話が作られている。
ふと見れば腕を捻り上げられた優男が苦痛に顔を歪めている。
抵抗しようとしているが、頭二つ抜き出てた相手の男はビクともしない。
「いたっ!!いたっっ、痛い!!痛い!!お前は何モンなんだよ!!お姫様だろうかお嬢様だろうが話をするくらい良いだろうがよ!」
叫んだ優男は大きく突き飛ばされる。
そして黒曜よりも激しく地面に激突して男は呻く。
「話くらい……?駄目に決まっているだろう」
相手の男は鼻で笑う。
そして黒曜の方を初めて振り返った。
長身痩躯だが、頼りなさはない。
寧ろ威圧感すらある。
真っ直ぐ凛とした眉に切れ長の鋭い目。
通った鼻筋や両端の下がった口に甘さは一切ないが、整っている。
山高帽にきっちりとした洋装、その上に羽織った二重マント。
どれも生地も仕立ても良い。
恐らくは良家の者だろう。
その男は蹲っていた黒曜を、迷わずに抱え上げる。
「彼女は俺の婚約者だ。俺以外の奴がこの姿を見る事すら許し難い。……本来はお前をひねり殺したいくらいだが………特別に見逃してやる。立ち去れ」
男は冴え冴えとしたその声に、本当に婚約者を他人に触られた憎しみのような物を漂わせる。
優男はその気迫に押され、まろぶようにして、走り去る。
黒曜はこの状況について行けず男の腕の中で固まったままだ。
男は汽車の蒸気の高まる音とベルの中、黒曜を抱えたまま、悠々と汽車に乗り込む。
何か言いたいが、言葉は自ら禁じている状態だ。
せわしなく何度も男を見上げたり、自分の荷物を見たり、周りを見たりする黒曜に男は少し苦笑する。
「このままで。貴女は少し悪目立ちし過ぎている」
そう言えば揉めてしまったせいか、周りからの視線を感じる。
その視線からも庇われるようにして、黒曜は落ち着いた造りの車両に運ばれる。
一等寝台車と書かれたそこは、一室一室が個室になった車両だった。
男は迷わず黒曜の座席に入っていき、その個室の戸を閉めた所で、床に跪くようにして柔らかに黒曜を床に下ろす。
そして黒曜の汚れた裾を払いながら立ち上がる。
(うっ……)
間近で立ち上がられると、かなり迫力のある男だ。
少し怯みながらも、黒曜は深々と頭を下げる。
深い感謝をお辞儀で示して、頭を上げると、不思議そうな表情をした男の顔に行き当たる。
お辞儀だけでは謝意が伝わらないようだ。
黒曜は慌てて風呂敷を床に置いて、その中から携帯用の筆と紙を出す。
『危ない所を助けていただき、誠に有難うございます』
そう書きつけて男に示す。
「……………当然の事をしたまでだよ」
そう言って男はストンと座席に座る。
少し不機嫌そうな顔をした男に黒曜は戸惑う。
何故、黒曜の部屋であるはずのここに、この男は当然のような顔をして座るのか。
自身の切符と部屋に記された番号を見比べ、ここが自分の席である事を確認し、再び筆を取る。
『ここは私の席のようなのですが、お間違えありませんか』
そう書いて、恐る恐る、険しい顔で目を閉じる男の肩を、ちょんちょんとつつく。
男は薄眼を開くと、黒曜の見せる紙と切符を見て、呆れたように息を吐く。
「ここの寝台車は2人席だよ。俺の席でもある」
そして黒曜の切符と同じ座席番号の書いてある切符を示す。
(えっ!?)
黒曜は目を剥く。
てっきり一人に一部屋割り当てられているのだと思っていた。
こんな小さな部屋に見知らぬ男と2人。
(一難去ってまた一難………)
黒曜は立ち竦む。
五百歳を超える大年増だが、その育ち故、男性にあまり免疫がないし、そもそも一名を除いて、そんなに人間が近くにいた経験が無くて、その存在だけで息苦しい。
手紙に書いてある汽車の時刻から考えると、丸一日こんな小さな部屋で男と一緒なのだ。
「…………………荷物は卓に置いたら?」
目を閉じたまま、男は不機嫌そうに言う。
確かに小さな部屋で突っ立っていたら邪魔だ。
黒曜は床の風呂敷を持って、男と反対の席に座る。
先程転けたので、箱庭の中が無事なのか知りたい。
歩くくらいでは中は微動だにしていないと言う話だが、転けてしまったので、中の池がひっくり返ったりしていないかが不安だ。
しかし男がいては蓋を開くこともできない。
ちょこんと小さくなって黒曜は座る。
大切な箱庭の入った風呂敷は、勿論、膝の上だ。
唐突に現れて救ってくれた男には感謝しかないが、助けてくれた時の柔らかな空気が、今は凍りついてしまっていて、どうしたら良いかわからない。
黒曜は相手を盗み見る。
得体は知れないが、身に纏う空気は清廉な色をしている。
助けてくれたし、悪人でないことは確かだ。
人の世に非る物を見る自分の目に感謝しつつ、黒曜は肩の力を抜く。
少し居づらいが、彼の邪魔にならないよう気をつけて、旅の終わりにもう一度礼を述べて別れよう。
そう思いながら黒曜は車窓に広がる風景を楽しむ事にした。
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