「御方様、また入り込んだ人間が居るようです」

狩衣を着た猫が耳を寝かせながら、しかつめらしい顔をする。

「またかえ。最近2日とおかずに人が来るのぅ」

ゴリゴリとすり鉢で薬草を混ぜ合わせていた『御方様』こと黒曜は眉を顰める。

「サッサと惑わせて山から追い出せ。最近は何かキナ臭ぇ。嫌な臭いの奴ばっかりだ」

黒曜の肩に座っていたマダラ柄の犬が、不機嫌そうに吐き捨てる。

「それが……子供のようなのだ。御方様、その子は動けないようでうずくまっています」

猫又の左太郎はゆっくりと尻尾を動かす。

「子供……」

何気なく黒曜は呟いたつもりだったが、その声に思った以上の憂いを含んでいて、自身が驚いて口を押さえる。

「もうすぐ夕暮れじゃ。こんな山の中で暮れたら可哀想じゃから、下まで送ってやろうかの」

そして気を取り直したように明るい声でそう言って、黒曜は立ち上がる。


二匹の従僕は顔を見合わせる。

数百年生きても彼らの主人の心は、枯れることもなく、見た目通りの年齢のままだ。

外見だけではなく、内面も少女から女性に変わる直前の危うさと儚さがある。

何百、何千の出会いのうちの、たった一つの出会い。

妖にとっては些少なブレしか生まないが、黒曜はずっとそれに囚われてしまう。

何千と別れを繰り返しても、一つの別れを忘れられない。

それはいかにも人間らしい。

しかし妖として生きるにはたちはあまりにも哀れだ。

妖は人に執着しては、とても生きていけない。

生きる時間、世界が全く違うのだ。

元々人に飼われていた犬神と猫又である二匹は、自身の体験からそれを知っている。

彼らには今でこそ黒曜という主人がいるが、過去に大事な主人を喪っている。

喪った悲しみが大きければ大きいほど、その長い生を苦しみに変えてしまう。


心配する従僕をよそに、黒曜はのんびりと子供を探す。

「別に悲しんでおるわけではないからの。……ちぃと懐かしいだけじゃ」

そう、あの子を拾って訪れた賑やかで楽しい季節を懐かしんでいるだけだ。

黒曜は自分でそう思い込んでいる。

だからへたり込んで座っている子供を見つけて、それがかつて拾った中太郎じゃないという、極当たり前な事実に傷ついている自分に気がつかない。

心が塞ぐ自分に首を傾げつつ、黒曜は子供の前にしゃがむ。

「これ、そこな坊や。ここは危険な山じゃ。日が暮れる前に、はやお帰り」

木の根元に座り込んでいた少年は、昔拾った、やたらと目つきの鋭い子供ではない。

何処にでもいそうな、どんぐり眼で鼻の下に鼻水を固まらせた少年だ。

「あ、あ……鬼……」

少年はガチガチと震え始める。

「………そう、鬼じゃ。齧られてしまう前に家にお帰り」

少年は痙攣しているのかと思うほど震えながら、手元の大きな袋を抱き締める。

優しい声で話しかけても駄目なようだ。

とても立ち上がれそうにない。

「疲れて歩けぬのなら妾が背負ってやろうぞ。ほれ、おぶさるが良い」

そう言って背中を見せても少年は震えて動かない。


背負ってなら何とか持ち上げられそうだが、とても抱き上げる事はできない。

さて、どうしたものかと黒曜は首を傾げる。

「……御方様、この少年の包み……妙な気配がします」

「匂う……匂うぜ……呪法の匂いだ!!」

黒曜の左右の肩に、小さい姿で乗っていた従僕たちが、警戒の声を上げる。

睨まれた少年は縮み上がる。

「こ、こ、こ、これを、お、お、お、鬼に、わたっ…渡して……」

そしてガクガクと震える手で少年は包みを黒曜に押し付ける。

その時ふと触れた少年の手から、黒曜に心が流れてくる。


貧しい少年に、この包みを鬼の所へ持っていけと言っている、何者かの姿が見える。

成功すれば破格の金が貰える。

これで暫くは飢えないで済む。

鬼は怖い。

でも包みさえ渡せば、幼い弟たちも腹を空かせて泣かなくていい。

お母さんも医者に見せられる。

最悪自分が駄目になっても、家族だけは……。

そんな悲壮な決意が流れ込んできて黒曜は苦笑する。


「ふむ。お使いかえ。ご苦労な事じゃ。感心な子には駄賃をやらねばならんの。……母君はどのようなご病気じゃ?」

少年は驚いて口をパクパクと魚のように動かす事しかできないが、触れた手から母親の映像が流れてくる。

「左太郎、麦門冬ばくもんとう薄荷はっか、それから筆と紙を取ってきてたも」

黒曜に指示された左太郎は、不満そうに尻尾をパタパタと動かす。

「御方様、その包みは……」

「わかっておる。しかしこの子はこの包みの事は何も知らぬ。ただの使いじゃ。受け取りの証文と駄賃くらいくれてやって良かろう?」

左太郎は黒曜のお節介に盛大な溜息を吐いて、黒曜の肩から飛び上がる。


「坊や、立てるかの?道の緩いところまで連れていってやろう」

黒曜は少年の手を引く。

少年は生まれたての子鹿のように震える。

心の中は怯えで一杯だ。

「腹は減っておらんかえ?金平糖があるぞえ」

そう言うと大きく首を振って、唇を硬く閉じる。

黒曜は袖で口元を隠して笑う。

拾ったばかりの時の中太郎のようだ。

警戒心と恐怖で一杯だ。

何もしないと信じてもらうまで大変だった。

でも少しづつ、少しづつこちらに歩み寄ってきてくれるのがわかって、楽しかった。

嬉しかった。

そこまで思って、黒曜の袖の下の微笑みは寂しい物に変わる。

今目の前にいる子は中太郎ではない。

愛すべき家族を持った少年だ。


「御方様」

帰ってきた左太郎から荷物を受け取り、『荷物預かりそうろう 山の鬼』と書き付けて少年に持たせる。

相手が冗談を解するならばいい。

怪しげな受け取りの証文に、笑いながら報酬を与えてやってほしい。

そんな事を思いつつ、薬も持たせる。

「家族思いも良いがの、かような危ない橋はもう渡るでないぞ。そなたが思うように、家族もそなたを思うておる。……二度と山に来るではない。今回は気紛れで許したが、今度は頭からバリバリ食べてしまうかもしれんからの」

そう言って黒曜は少年を見送る。

ガクガクと震える足を踏みしめて走る少年を、黒曜は悲しげに見送る。

そんな黒曜を、二匹の従僕は気遣わしげに見る。


耳に掴まった右太郎の手から、その心配を感じ取った黒曜は、首を振って笑う。

特に心配される事はない。

「………さて。この怪しげな物はどうするかのぅ?」

そして受け取った荷物を目の高さでブラブラと振る。

黒曜の肩に乗っていた右太郎は一転して飛び降り、人間サイズになってその包みを受け取る。

「俺が捨てて来ますぜ。この匂い……人間の呪いの匂いが…………」

そう言って荷物に鼻を寄せた右太郎はふと、言葉を切り、眉を寄せる。

そしてクンクンと検分するように、良く荷物の匂いを嗅ぐ。

「左太郎、ちょっと、お前、これ、嗅いでみろ」

荷物を運ぶために人間サイズになっていた左太郎は、右太郎から包みを押し付けられて、迷惑そうに眉の毛を動かす。

「……私を嗅覚だけの犬なんかと一緒にしてもらっては……」

左太郎は受け取り拒否する姿勢だったが、何かの匂いに気がついて、急に目を見開く。

「………この匂いは!!!」

左太郎がおもむろに荷物を受け取り、迷わずにその包みを開く。

「……右太郎?何が起こっておるのじゃ?」

首を傾げる黒曜の手を取って、右太郎はその映像を見せる。


包みの中には一番上に手紙らしき分厚い封書、そして真新しい衣が入っており、その下にひと抱えほどの大きさの平べったい箱がある。

「間違いない!!間違いない!!」

左太郎は鼻をひくつかせながら、迷わずに一番下の箱に手をかける。

「お前もやっぱりそう思うか!?やっぱりこれは……」

「マタタビ!!!」

「…………は?」

珍しく、にゃぁんと鳴き声を上げながら、左太郎は箱を開く。

「ちょ、まっ………あぁぁぁぁ!!!」

右太郎が止めに入ったが、間に合わなかった。

ガタンと箱の落ちる音と共に、黒曜の手を取って視界を繋いでいてくれた右太郎が消えた。


「………右太郎………?」

目隠しをした黒曜は手を周りに彷徨わせるが、右太郎も左太郎もその手を取ってはくれない。

黒曜はしゃがんで周りに手を這わせるが、地面の感覚と落ちた荷物しか辺りにはない。

騒がしい二人はどこにもいない。

「………………」

恐る恐る黒曜は目隠しに手をかける。

「右太郎……?左太郎………?」

そしてそっと周りを伺うが、やはり周りに頼りになる妖の姿はない。

「一体……何が………」

黒曜は目の前に落ちた箱を覗き込む。


平べったい箱だと思ったそれは、精巧な造りの箱庭だ。

寝殿造しんでんづくりの豪華な建物と、その建物の中心にある雅な池。

池には中島もご丁寧に作ってあり、船も浮かんでいる。

本物と見まごう、美しい梅の木や松の木が植えられ、南には築山まで作ってある。

見事な出来栄えで、庭には、これまた精巧な狩衣を着た犬と猫がいる………。

そこまでみて黒曜は目を見開く。

「………………。え!?右太郎!?左太郎!?」

箱庭の住人に相応しいサイズになってしまっているが、間違いなく右太郎と左太郎だ。


〔御方様、やられちまった。これは封じ込めの呪法だ〕

か細い右太郎の声が箱から聞こえる。

幽鬼たちと同じような、雑音混じりの声になっている。

「左太郎が何やら……遊んでおるのかの?」

うんざりとした顔で、右太郎は引き摺りそうな低い位置で尻尾を振る。

その尻尾の先で、小さな皿を持った左太郎が、うにゃんうにゃんとご機嫌な声を上げて転がっている。

〔マタタビ酒だ。……多分、この箱庭を寄越した相手は、左太郎の事を良く知ってやがる〕

黒曜は緊急事態なのに思わず吹き出してしまう。

普段は澄ました左太郎が、子猫のように無邪気に器を舐めながら転がっている。


しかしあまりに小さくされて気の毒だ。

黒曜はそっと箱庭に手を差し入れ、二人を取り出そうとする。

「!?」

しかし手が透明な硝子にでも当たったかのように弾き返される。

〔御方様、触れちゃならねぇ。それからここから出てこいとか言わねぇでくだせぇ。内側から無理に破ろうとしたら俺らは無事ですまねぇ〕

右太郎は低く唸る。

「何と……」

これは迂闊な事を言ってはいけない。

「その、妾にできる事は無いかえ?どうしたらそなたらを救えるのじゃ?」

相手に命令せぬように細心の注意を払いながら、黒曜は尋ねる。

右太郎は何か悩んでいるようで、唸り続けている。


とんだ物を受け取ってしまった。

受け取らずに突き返すべきだったのに、また余計な事をしてしまった。

よりによって頼りになる二人が箱庭に封じ込められ、何もできない妖失格の黒曜だけが残ってしまった。

〔御方様、この呪法は厳重だが、俺たちに害を成そうという気配は感じねぇ。ここはひどく居心地が良いし、匂いも最高級だ〕

落ち込む黒曜を慰めるように右太郎は言う。

〔……恐らく、ある一定の力を持った妖だけを取り込むように作ってある。俺たちの存在を知る者が、御方様と交渉する為に作ったものかもしれねぇ。手紙が付いていたんで読んでみてくだせぇ〕

「妾たちを知る者………?」

その言葉に黒曜の心には、黒い不安の暗雲が広がる。


最近人里に降りたのは中太郎の祓いをした時だけ。

あの時、首謀者の老人は呪いにより死んだ。

しかしその配下たちには、何ら手を下してはいない。

自分たちに近寄らないでいてくれればそれで良いと思って見逃してしまった。

不安に黒曜の心臓は強く打つ。

あの老人が、死ぬ前に右太郎と左太郎の事を、配下に知らせた可能性は無かろうか。

そう言えば、山に人が頻繁に入り出したのは、あの頃からだ。

右太郎も左太郎も手を打とうと言っていたのに、呪いの鬼などに誰も興味は持つまいと楽観的に否定した。

「妾の判断が………そなたらを危険に晒してしまったのじゃな……」

みるみるうちに黒曜の顔は曇る。

いつもそうだ。

何百年生きても、何回酷い目にあわされても、黒曜は学べない。

人間の良心を過信してしまう。

手痛い目に合うのが自分だけならまだしも、いつも自分を支えてくれる者たちに害を与えてしまうとは。

己の愚かさに、いい加減愛想も尽きる。


黒曜は落ち込む自分を鼓舞するように、強く自分の両頬を叩く。

今は自省して落ち込んでいる場合ではない。

気合いを入れて、荷物の上に鎮座している分厚い手紙を開く。

自由な自分が、二人を助けなくてはいけない。

どの様な無理難題でも乗り越えて見せる。

そう決意して手紙の字を追う。


『拝啓 老春ろうしゅんの候、萌える若葉を追いかけて忙しくお過ごしの事と思います』

決意と共に、厳しい顔で手紙を読み始めた黒曜は、首を傾げる。

「………?」

どんな恐ろしい要求が書き連ねてあるのかと思ったが、書き出しは丁寧で、時候の挨拶から始まる普通の手紙だ。

しかも文字から人品骨柄じんぴんこつがら卑しからぬものを感じる。

流れる様な達筆で、淀みない筆運びから、とても妖を絡め取る呪具を使うような相手には感じない。


『そんな中、かような方法でお呼びたてする事を、深くお詫び申し上げます。諸事情により私がそちらに伺う事は出来ませんので、お許し願えればと思います。同封致した服を着て、目立たぬよう、拙宅においでください。こちらにおいでになった際に箱庭の開き方をお教えいたします』

主な文はそれだけだ。

脅迫というより要請と言った体裁だ。

黒曜の大切な二人を箱庭に閉じ込め、人質ならぬ妖質にしたとは思えない丁寧さだ。

しかもその文の後は、ひたすら細かく脅迫者の家までの順路が書き連ねてある。

山から乗合バスに乗る為の経路。

経路の詳細な地図と注意すべき所。

バスに乗るときに出す切符。

バスの乗り方、降り方。

バスを降りる停車場の名前。

そこから駅に行く為の地図。

駅の構内の見取り図に時刻表。

汽車の乗り方に、出す切符。

どのような席に案内されるのか。

ひたすら細かい。

これならば数百年山に引きこもっていた黒曜も、何とか目的地に行けそうだ。


「……妾へのご招待のようじゃ。ご丁寧に時間の指定までしてある。……取り敢えず妾は、この相手と話しに行く」

箱庭から心配そうに見上げている右太郎に、黒曜は決意を告げる。

右太郎の顔は心配そのものだ。

〔御方様を…………。御方様、俺らは箱の外には干渉できそうにねぇが、助言はできる。連れて行ってくだせぇ〕

黒曜は少し迷って頷く。

黒曜は下の世に詳しくなく、助言は必要だ。

二人を脅迫者の元に連れて行くのは不安だが、何も出来ない二人を山に残し行ったら、最近めっきり増えた侵入者に見つけられてしまうかもしれない。

持ち去られてしまったりしては、二度と会えなくなる。


「うむ。心労をかけてすまぬの」

そう言って黒曜は散らばった荷物と箱庭を持って立ち上がる。

数百年ぶりの旅だ。

決して気を許さず、目的を成し遂げるまで気を抜かない。

黒曜は一人、決意を込めて歩き出した。

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