35.内なる楽園を求めて、遥かなる眠りへ。

 かつん、と足音らしき音が響き渡る。

 互いの姿を捕らえたその一瞬に酷く狼狽える様子を見せたその人は、再び足を前へと進め始めた。

 やはり投げ掛けられた質問には何も答えてくれないままだ。

 一度は迷いを見せた足取りだったが再び真っ直ぐに火の玉の方へと歩み寄っていくと、闇の中隠れていたその姿は次第に明るみの場で露になっていった。


 よりハッキリと見えるようになっていったその姿は、何の変哲もない“只の人間”の姿だった。




 目付きを悪く感じさせる切れ長の目に、不機嫌そうに寄せられた眉間の皺。

 柄悪く思わせてくる無愛想なその顔付きと、先程暗闇から聴こえてきていた声音の低さ。

 それらに性別の特徴がはっきりと表れている事から、彼が正しく男性だと言う事が明確に判断出来た。

 しかし彫りの深さや色濃さを感じられない肌からはその人物の生まれ故郷のお国柄故か、目付きの悪ささえ無ければその顔付きが童顔っぽく見えなくもない様に思える。


 右寄りの位置から分けてはっきりと出している前髪も含め、ぐるりと頭を回って同じ目元下まで伸ばし整え切られた少しパサつきの見せるマッシュヘア。

 全体で見ればアンダー背面首もとだけを項が露になる程度に軽く刈り上げたツーブロックに、その上に浮くように比較的長めに整え垂れ流された上から下へとストレートに落ちる毛先が歩く度にさらさらと揺れていた。

 一見それらは丁寧に整えられている様に見えても、後頭部に差し掛かって垂れてい中には所々に跳ねている毛先もあるようだ。

 気まずげに頭を掻いていた様子を見た時に、くしゃくしゃと自身で乱した後に律儀に手櫛で髪を整えていた姿を思い起こせば「きっとそのせいだろう」と感じられた。

 その手入れが少々甘いらしい、その後にもまだ乱れたままの髪が彼の頭に残っていたのだから。


 その人が身に付けている衣服は見たこともない変わった装いだ。

 見ている者に異世界の知識が有ればそれが極一般的な収納箇所ポケットの多い機能性重視な“袖無しジャケット”である事は明確だ。

 しかし如何せん此処は魔法や魔物が実在する、科学未発達で時代遅れなファンタジーこそ現実である世界。

 彼が元居た魔法は実在せず神の存在とて眉唾な“向こう側普遍的世界”みたく、紙や豊富な食糧は多くを流通させる事すら侭ならず、鉄を加工する為の技術だって全然ものになっていないのだから銃や機械なんてある筈もない。

 飲み水だって綺麗なものを苦労なく口に出来るのは“御貴族様”くらい。

 故に彼が着こなすジャケットもそうだが通気性のあるシャツや厚手で破れにくくも身軽に動き回れるジーンズだって、この世界の住人達から見れば不可解で奇抜な装いになるのは当然の事である。


 そんな相対した人物からすれば可笑しな服装でも当人からすれば変哲もない出で立ちの彼は、キテレツな人物に捉えてしまいそうかと思いきや感じられる雰囲気は至って澄ましたものだ。

 しゃんと伸ばされた背筋からは生真面目さを感じられ、上着のポケットに手を突っ込んでは口を一の字に閉じてにこりともせずに愛嬌良く振る舞わない。

 そういったふてぶてしい姿を見れば、その人が気難しい人物だと言うことがよく察せられるだろう。

 その此方へと向ける視線も軽く顎を上げたまま上から見下ろす形だからか、先程と比べ何故だか敵意や嫌悪感の気配が感じられなくなった今ですら威圧感を醸し出ている様にしか思えなかった。


 一番特徴的なのは、その見上げる程に高い長身だ。

 それは大きい割には線が細く、がたいが良いとは全く言えないほっそりとしたもの。

 かと言って痩せこけているのかと言えば、それも違うと否定せざるを得ないようだ。

 きっちりと着込まれ素肌が余り日に晒されていない、衣服に包まれたその身体から所々にちらりと見える筋張った素肌。

 それを見てみれば、彼がそれなりにがっしりとした男らしい体格をしている事は誰しもが解る事だろう。

 只それもしっかり鍛えられた筋骨隆々さがあるとは言い難く、やはりこれといって普通だと言えてしまうものではあるが。


 そう特徴はあれども別段特に花がある訳でもない、全体的に見れば見る程パッとしないその容姿。

 整ってはいるけれども美形かと言われたら首を傾げてしまいそうな程には可もなければ不可もないその風貌からは、一般的な目線で見れば“丁度良い塩梅”──何処からどう見ても平凡そのものと言えそうなものだった。




 そんな彼はくったりとした火の玉の身体へとより近付いていく。

 すぐ傍まで来ては立ち止まったかと思えば、その人は一切何の躊躇いもなく火の玉へと手を伸ばしていったのだ。

 そしてそれが触れたその瞬間に飛び退く様に離れていき、その時に何故だか小さな呻き声が溢れたのが聞こえた。

 その声に驚いた火の玉はびくりと身体を跳ねらせた。




 どうしたんだろう?




 疑問符を浮かべたぼんやりする頭で、勢い良く身を引かれていったその手へと視線を向けていく。

 苦悶の表情を浮かべる彼の腕の先、自分へと伸ばされていたらしきその手には酷い“火傷”の怪我が素肌の形を惨たらしく崩していた。


 皮膚が焦げ、所によっては爛れ、焼かれて溶けて捲れ上がった皮膚からは内側の生の肉が剥き出しに。

 眉間に皺寄せている額には脂汗を滲ませており、もう片方の手でその怪我を負った腕をきつく握り締めているらしく小刻みに震えていた。

 苦悶の表情からは歯を喰い縛っているのが解り、見るからにとても痛そうなのは解る。


 どうして、と心配になる気持ちからその傍へ寄っていきたくて、どうにか抜けられないか身体を揺らしてみる。

 やはり身体はすっぽり嵌まったまま微動だにしない。

 身動き取れないまま何も出来なくて、困ってしまった彼は次第にオロオロとし始めた。




 どうしよう、どうしよう。

 どうしてかは解らないけど、多分あれは自分がさせてしまった怪我だ。

 それだけは解るんだ。

 ……どうしたら良いんだろう、とても心配で仕方がないのに……何も出来ない。




 彼は無力感からまたくたりと身体をしならせていく。

 どうしてだか、身体の奥から気分を落ち込ませる冷たさを感じてくるのだ。

 彼の気落ちしていく気分に深々と沈み始めていく感覚から、徐々に“ブルー”に……ネガティブな気持ちへとシフトさせていった。


 しかしそんな落ち込んでいく彼の目の前で、痛ましい怪我を負っていたその手に変化が起きた。




 うぞり、と蠢く黒い影が何処からともなく現れたのだ。

 先端は細く次第に太くなって延びている何本かのそれらは、その先を視線で追っていってみるとどうやら彼の影から続いてきているものだと気付く。

 管の様な長いそれが波打つ度に這いずるみたく小気味の悪い水音を響かせて、ぐるりくるりと渦巻いて彼の身体へと纏わり付いていくと彼の怪我をした腕へと張り付いていった。


 べとり、びたりとその真っ黒な触腕は擦り付ける様に彼の身体を這いずり回る。

 懐く様に、すり寄る様に、まるで彼を愛でているかの様に執拗に撫で回していったかと思えば、その触腕が触れた後の怪我のある手には這った跡を残すみたく真っ黒に染まっていた。


 どうやらそれらは彼に“色”を塗り込んでいるらしい。

 ぐじゅる、ずぷん、と音を立てて撫でて回るのを暫く続けていたそれだったが、軈てやる事は終えたらしく名残惜しげに離れていき始めていった。

 渦巻く様にとぐろを巻いて、徐々に彼の影の中へと沈み消えていくそれを見送った後、残された影の主の彼へと再び視線を戻す。

 その人が見下ろしていた先の怪我をしていた腕はすっかり真っ黒く染まりきっていた。

 そして塗り潰されていた黒が次第に皮膚の中へと溶け込んでいったかと思えば、その後に現れたのは傷一つ残されていない綺麗な手だ。




 きっと今の彼にちゃんとした“目”があったのなら、それはこの光景から大きく見開かれていたことだろう。

 目の前の人物はすっかり直ったその手をヒラヒラと振り揺らすと、まるで何もなかったかの様に振る舞いを正したのだった。


「怪我……大丈夫なの?」


 ぽつりと口から言葉が零れる。

 率直な疑問だ。

 だってあの火傷の怪我はそれ程とても痛そうだったのだ。


 目の前で起きた形容しがたい光景から思わずポカンとしながらも、殆ど無意識に口にしていたその言葉にその人は何とも言えなさげに複雑そうな声を溢した。


「ンン、嗚呼……まァ……これくらいならどうって事も無い。気にすんな。」

「本当に?」


 その人の言葉に彼がすかさず言葉を返す。

 相手はそれを聞くと、くしゃりと顔をしかめてしまった。


 答えは明確な疑問を直ぐ様投げ掛ける程に、相手へと真っ直ぐな言葉で刺したのは彼にはそれが“偽り”に聞こえたからだ。

 それを受けたその人は視線を左右に揺らしたかと思えば、深い溜め息を吐き出しながらまた後頭部を掻いた。

 足元では居心地悪そうに片足爪先立てた足首がぐりぐりと回っており、顔は罰が悪そうに反らしていく。


 互いの間で暫く無言が続く。

 その最中にもじっと彼の事を見続けて返答を待っていると、次第にその真っ直ぐな視線に堪えきれ無かったのか、小さな呻き声が上がった。

 かと思えば自棄っぽく「嗚呼もうッ……!」と吐き捨てると、吹っ切れたのか漸くその人は口を開かせた。


「嗚呼そうだ、目茶苦茶痛かったよ! ……クソッ、情けねぇったらありゃしねェ。警戒心が持てねェからつい手が出ちまったんだ。」


 憎々しげに自らの手を睨んでその人は自分自身に悪態吐く。


「だがまァ、本当にお前は気にしなくて良いんだ。これっぽっちも悪かねェからな。寧ろ、俺の方がよっぽど悪い……否、悪かった。すまん。」


 話の流れのままに突然の謝罪。

 きょとんと呆ける火の玉をそのままに、それからは口を閉ざしてしまったその人は自分の傍の石板へと掌を付けた。




 悪い? 何の事だろう?




 何をされたのか身に覚えの無い事を言うその人の言葉に、くりん、と視界を傾けて、何やらしようとしている彼の様子をじっと見詰める火の玉。

 するとその人は石板へと付けた両掌に全体重を掛けて、歯を喰い縛る程に力を込め始めたのだった。


「──っぐ、う゛うぅッ……!!」


 ギリッと軋む歯を剥き出しに、こめかみや突き立てた腕からは血管が浮き立ち出す。

 地面を踏み締める足元からは、踏ん張る足がずり下がる音。

 その代わりに反対足を踏み出していく音が時折交差していった。

 余程力を込めているのだろう。

 眉間に皺寄せ石板を睨み付けるが如く鋭い目を向けていた目がきつく閉じたかと思えば、その喰い縛る口の端から……血だろうか?

 一筋の黒い・・雫が一本の線を縦に引いて伝い落ちていくのが、火の玉の視界に映っていた。


 呻き声と足元の滑る音が続く。

 火の玉の直ぐ傍で額や頬に脂汗を浮かべた彼が唸る声は、時折途切れつつも一切失せる事はない。

 その人はずっと自身よりも大きな巨体に立ち向かい続けていたからだ。

 何分と時間が掛かろうがお構い無しに、手を変え体勢を変えと決して諦める事無く壁の如き石板へと渾身の力を込め、押してはまた抉る程に地面を蹴り上げた。


 次第に火の玉の頭上からは砂埃がパラパラと落ち始め出してくる。

 彼の無い耳に石板から小さくも鈍い音が聞こえてきたのを感じて、火の玉は「おや?」と伏せていた視界を持ち上げた。

 下方から、ダンッ、とまた足が踏み出される音が響いた時に、どうやらその反動に一瞬だけ石板の重さより彼の力が勝ったらしい。

 自身を押さえ付けて微動だにしなかった大きな石板は、それを切っ掛けにして少しずつ動きを見せ始めていった。


 身動きの取れない火の玉は何もすることが出来ず、降る砂埃の量が増していくのを只ぽやんと眺めているだけ。

 しかし、だんっと足踏みし地面に足裏を叩き付ける大きな音が聞こえた拍子に、動けなくてくたりと力抜いていた身体がほんの少しだけ、ずる、と動いた気がした。


「あ! 動いた!」


 声と共に、脱力し垂れていた丸の身体がピンと立ち上がる。

 花開く様な明々とした声音で上げられた火の玉の言葉に、一瞬チラと横目見た彼がその口の端を少しだけ持ち上げた。

 今までと違って穏やかに柔らかくも見える、その切れ長の目の視線を此方へと向けていたのはほんの僅かな間だけだ。

 直ぐ様石板へと移っていったその目線は再び鋭くなり、眼前の石壁を睨み付けるものへと戻っていった。

 それに疑問を頭に浮かべた火の玉は、また首を捻る様に視界を傾けた。


 その目線が向けられた時に、火の玉の彼は身体の奥でほんの些細な熱を覚えた気がした。

 それは自分の周りだけをそっと照らしてくれる様な、マッチ棒の頭に点された灯火程度の本当に小さな温もり。




 どうして?




 理解が出来ない。

 此方の気持ちを落ち込ませてくる、痛みを与える尖った言葉を無遠慮にガンガンぶつけてきていたくらいだった名前も知らなければ顔に見覚えもないその人。

 本当ならば一度会ったことのある人物だけども、今の火の玉にはその記憶は溢れ落ちてしまって解らない。

 覚えがないからこそ、屈託なく人を疑う事を知らなければ悪意とはなんたるかすら理解していない純粋無垢な幼子へと中身が退行して元に戻ってしまった火の玉は、突然掌を返すみたく自分への態度を変えた相手に首を傾げるばかり。

 寧ろ今ではその人から感じられるものが、労る様に頬を撫でてくる風の様な柔らかな心地にすらなっているのだ。

 彼にはその理由が解らなかった。


 そう考え込んでいる間にも、その人は石壁へと挑み続ける。

 擦れた歯が鳴り、身体から響くは骨身が軋む音。

 これでもかと力を振り絞っているその様には、絶対に揺らぎを見せない頑なさと必死さが込められていた。


 そんな彼が、不意に一瞬身を引かせる。

 壁に手を付けたままの力を緩め小休止──かと思えばそれはより反動を付ける様に壁へとぶつけていく。

 これ以上無く力を込めたその体当たりの様な押し出しに、一歩前へと前進した足が今まで以上に強く地面を踏み込んだ。




 ──ガタンッ




 今までにも聞こえてきていたあの物音だ。

 これまでより一際大きく響かせた音から、火の玉の身体を咥え込んでいた石造の口が一瞬緩みを見せたのだ。


 今なら動ける!

 そう感じるや否や、火の玉の彼はすかさず暗闇の中へと身体を滑り込ませる。

 開けられた口からつっかえの無くなった身体が離れ、するりと抜けるとそのまま彼が地面にぽてんと転げ落ちた。

 同時に後ろからは“バタンッ”と大きな音が響き、辺りへと広がっていった。


 振り返って見てみれば、そこに有った筈の隙間が失せていた。

 石板の口はすっかり閉ざされ、火の玉の彼と闇にいたその人だけが真っ暗闇の中取り残されていた。


 しかしそれについて深く考えもしない彼は、漸く入り込めた自身の知らない空間に思わず胸を高鳴らせては「やったぁ! 入れた!」と身体を跳ねさせる。

 ぽよんぽよんと跳ねるゴムボールの如く上下に頻りに揺さぶって、膝に手を付いて肩で息をしているらしいその人の周りをくるくると回って彼は嬉々とした声を上げる。


「わぁい、わぁい! ありがとぉお兄ちゃん! 一時はどうなるかと思っちゃった。あのまま動けずじまいになったらどうしよーって!」


 きゃいきゃいはしゃいでそう言う彼が飛び回る中心のその人は、暫く俯いたままだったが顔から幾つもの雫を伝い落としていっていた汗粒を腕の袖で拭いながら漸くその頭を持ち上げる。

 そして深く息を吸い込むと、その肩を上下させる程に上がって乱れていた呼吸を調えるようにゆっくりと吐き出していったのだった。


「──ふぅ……そうか、良かったな。怪我は無いか?」


 額の汗を親指の付け根で拭い取り、その手を濡らした水滴を払い飛ばす様に揺らしながら言う彼の言葉に火の玉は「んーん! ないよぉ!」と明るく返す。

 元より実体のない身体だ。

 何故だか挟まってしまっていたのだけれども、本来身の無い彼に怪我するものは何もない──只その火の玉自体が彼の剥き出しに無防備と成っている魂なだけで。


 その返答に切れ長の目を細めた彼は、どうやら安堵しているらしい。

 やはり始めと全く様子の違う彼の雰囲気に疑問を思い起こした火の玉はまた首を傾げて──そしてまた「おや?」と新たな疑問を思い浮かべた。


「あれ? あの石が立ってる。」


 視線の先の自身が通ってきた場所。

 そこには横幅は薄めに縦に高い石板が寝転がるではなく真っ直ぐに突き立っていた。


「あれ? あれれれ? ぼくは確か“寝転がった”石の間を通ってきたハズ……ううーん?」


 思えば先程通り抜けた際に自分が通り抜けたのは此方側から見てみると“横から”になってしまう。

 向こうからだったら地べたで中途半端に開き掛けて坂道を作っていた“床蓋”だったのが、おかしなことに此方から見るとそれは壁に付随する極一般的な“扉”へと変わってしまっていたのだ。


 しかもよりおかしな事他にもあった。

 その扉には地続きになっている筈の“壁”が無かった。


 他に何もない空間でポツンと佇む石板の扉。

 長方形で文字が書かれ、地べたに突き刺さったかの様な形で聳え立っている大きく形の整った石の塊。

 それを見上げている内に、その様が何処か見覚えがある気がして火の玉の彼は頭の中に浮かんだイメージからついそれが口から零れた。




「……もしかして、これは──“お墓”?」




 いつか見た墓地に在ったもの。

 それはいつだったのかは覚えていない、何処だったのかも覚えていない。

 只目の前あるそれがどう見てもそれにしか見えなくなってしまって、火の玉の彼は見上げたままに固まった。




 ぼくの“お腹”に在ったものに繋がっていた“お墓”。

 一体、これは誰のもの何だろう……?




 浮かぶ疑問、答えは解らないまま。

 普通では考えられない事象すらも目の前で起きてしまって、疑問符にまみれていく頭の中は混乱に混沌としぐるぐると回っていく。

 その渦巻く思考で思わず目までも回ってしまいそうだ。

 彼は視界がくらりと揺らんだのを感じると、炎の先を回す様に揺らめかせた。


「あう、あうぅ……なんだこれ、頭がぐわんぐわんする……?」


 闇の中で身体をゆらゆら左右に揺らして、彼の動きに合わせて辺りの暗がりまでもが視界の内で揺らぎ始める。

 くらくら、ふらふら。

 宙に浮かんでいた身体もそれに合わせて徐々に徐々にと下方へ沈み始め、軈て疲れた様に地べたへぽてんと尻餅をついた。


 何とも言えない疲労感から、はふぅ、と口もないのに溜め息が零れてしまう。

 くたりと力を抜いて地べたに身を委ねると、彼のその姿は旗から見れば空気が抜けかけたふにゃふにゃのボールみたく垂れてしぼんでいる風にも見えてしまう姿だ。

 はしゃぎ過ぎてちょっと疲れたみたい、だから休憩休憩……そう思いながら地べたに横になるみたく、てろーんと寝転がっているとその傍へと先程の人物が歩み寄ってきた。


「大丈夫か?」


 しゃがみこんで覗き込んでいる顔が、自分に向けて声をかけてくる。

 それに対して「だいじょーぶー」と返事をする火の玉。

 すると自分の口から出た声音に思わず「ふへ」と笑いを溢した。

 疲れからなのか何なのか、どうにもいつも以上に気が抜けるような間延びた声が出てしまっていたのだ。

 それが何だか間抜けそうで、思考が定まらずにふわふわぽやぽやと浮いてぼやける頭から笑いが込み上げてきた彼はまた「えへへ」と笑う声が止まらなくなっていった。


「えへ、えへへ。なんだろぉ? んふふへへ、こえがふわふわするぅ。」


 くすくすと独りでに呟いてはまた笑いが込み上げ、気分が良くなっては寝転がった身体を左右に揺らす。

 すると何だかいつも以上にかるくなっている身体は簡単にころころんと転がっていってしまって、思った以上に進んでしまったのがまた面白くって再び笑いが込み上がってきた。

 そんな自分を見下ろしていたその人は膝に肘ついた頬杖に顔を凭れかけさせたまま、徐に手を出したかと思えばそれは宙でぴたりと止まってしまった。


「んー…どしたのぉ?」


 ころんとまた寝返り打って、自分の掌を見詰めて何やら考え込んでいるらしいその人に声を投げ掛ける。

 何でも……と言いかけたその人は、少し視線を逸らしては細め、軈て此方へと視線を戻したかと思えば口角をほんの少し釣り上げた彼は自分にこう言ったのだった。


「なァ、地べたに着けるってことはお前の身体って触れるものなんだよな?」

「ううん……?」


 突然の彼の問い掛けに火の玉は頭に疑問符を浮かべた。


 自分は今地べたに臥せっている。

 感覚は無くとも地べたの形に沿って間延びてしまうくらいだ、確かに“触れられている”ようにも思えた。

 つまり実体がない筈の自分は地べたに触れているも同然であって、それはつまり身体が“在る”と言うことにもなる。

 現に先程にも扉の口に挟まって身動き取れない状況にまでなったのだ。


 おや? もしかして自分は物が触れるのでは?


「…? ……?? た、多分、そう……なのかな……?」

「ほう? んじゃあ、お前の身体は“触れても大丈夫”なものなんだな?」


 再び問い掛けられたその質問に火の玉はまた疑問符を浮かべるも、それとは別に首を振るみたく身体を揺すった。


「“大丈夫じゃない”! だって、さっききみ火傷してたでしょー?」


 先程の事は忘れた訳ではない。

 ふよん、と身体を浮かび上がらせて、その先程大怪我をしていた手へと近付いてはそれを覗き込む。

 傷は確かに残っていない。

 それでも先程感じた心配な気持ちが再び湧いてきて、いても立ってもいられずくるりとその人の周りを一周して回った。


「ねぇ、ねぇ、本当にもう痛くない? 大丈夫?」

「大丈夫だって。ほれ、見てみろ。傷一つ残っていなかろ? 痛みだって残っていないんだから、そう心配するなって。」

「ううーん……? そう……。」


 口元に笑みを浮かべて大丈夫だと答えた彼は、その証明に掌を自分へと向けて見せつける。

 その言葉には“偽り”を感じられず、本来ならばそれに安堵すべき事だと言うのに火の玉はどうにも納得しかねて複雑そうに呻いた。

 そんな火の玉に、彼は自身有りげに不適な笑みを浮かべるとその手を此方へと翳した。

 急に詰められたその距離はとても近いもので、それで驚いて飛び退いてしまった火の玉が思わず声を張り上げた。


「危ないよう! また怪我させちゃったらどうするの!?」

「大丈夫大丈夫、さっきのは俺が悪かったんだ。もうあんな事にはならねェよ。だから“触られても大丈夫”って思ってくれ。なァに、悪い事はしねェさ。」

「どういう理屈だよー!? だめだめ! また怪我させたくないもん、ぜーったいに、だめーっ!」


 ニコニコ、ニマニマと怪しい笑みを浮かべて何やら企んで言いくるめようとしてくるその人に、慌てた火の玉は距離を取るべくぴゅーっと離れ飛び出す。

 しかし少し飛んだ先でふっとまた力が抜けていくのを感じると、ぷしゅうぅ、と空気が抜けていくかのようにふわふわと地べたに墜ちていった。




 何だ何だ? 何が起きているんだ?




 混乱する頭に疑問符を浮かべど、霧がかっていくようにふわふわし始める頭は軈て考え事を持続させるのも難しくなっていく。

 くらくらする、ふらふらする。

 原因不明の不調から目が回るみたく曖昧になっていく思考の中で、何やら“お腹が寂しい”様な感覚を覚える。


 くう。


 空っぽになったお腹の事を思い出す。

 そして“ああそうか、そういうことだったのか”とぼんやりしだす頭でも理解出来たそれに、彼は思わず納得してしまう。

 そして彼は初めて感じたその感覚から、初めて口にするその言葉をぽろりと溢したのだった。




「あう……おなか、すいた……。」




 ぐうう、と身体の奥から音が鳴った様な気がした。




 お腹の中がとても寂しい。

 身体がとっても軽々しい。

 寂しいのは何だか寒々しい。

 寒いと何だか……何だろう? 解んない。




 くてぇ、とへたり込んだ玉の身体が溶けていく。

 綺麗な真ん丸だったのが地べたの上で楕円形に潰れていき、朧気な玉の身体から揺らめく炎の勢いが穏やかだったのが段々弱り始めていった。

 力一杯抜けていく身体は脱力感が次第に増していき、とろんと虚ろになり始める意識には何だか眠気を感じるようになりだした。


「んん……むにゃ……なんだか、ねむたいよ、うな……?」


 徐々に強くなり始めるその微睡みは何だか心地よさを感じる。

 身を委ねてしまえばとても気持ちの良く眠れる様な気がして、ふと自分自身ゆっくり眠れた試しがない事を朧気な記憶から思い起こす。


 疲れたなぁ、と彼は思う。

 眠たいなぁ、と彼は感じる。


 一層の事このまま微睡みに身を委ねて仕舞おうか。

 そう思い始めてうとうとと視界を黒く塗り潰しかけ──近付いてくる足音に意識が引き戻される。


「んんー……?」


 ころん、と寝転がって見上げればすらりと伸びた長い足の先に此方を見下ろす先程の人物の姿。

 じっと此方を見詰めているその様子に、どうしたんだろう? と疑問を浮かべるけども霞む頭では抱え切れずにそれもまた霧散していく。


 微睡みと覚醒の間をさ迷い続けぽやんと見詰めあうこと暫く。

 その人は切れ長の目を細めたかと思えば、静かな声音でそれを口にした。


「なァ、眠いのか?」


 その問い掛けに、火の玉は「うーん……?」と小さく呻く。

 確かに眠い、とても眠い。

 しかしまだ目は開いたままだし、そういえばさっきの──一緒に“楽園”へ行こうと誘った子を向こうで待たせたままだ、と彼は朧気になっていこうとする頭から思い出す。


「眠りたいのか?」


 再びの問い掛けに、今度は「うぅーん……」と呻く。

 待たせている人がいるのだから、勝手に一人で行ってしまっては申し訳が立たない。

 そもそも此処へ来たのは“燃料”を探しに来たからだ。

 このままこんなところで眠ってしまったら、折角此処まで来たのに時間を無駄にしてしまう。

 余り待ちぼうけにさせてしまってはいけないのだからと、彼は微睡みに委ねそうになっていた意識を無理矢理にでも引っ張り起こそうと身体を持ち上げていく。


「………手伝ってやろうか。」


 問い掛け……ではなくなったその誘いの言葉に、火の玉の彼は一瞬言葉に詰まる。

 しかし起こそうとしても力が入らず、どうやら起き上がることすら儘ならなくなってしまった身体に落ち込む様に小さな息を溢すと、弱々しく揺らめかせていた炎を小さく揺すった。


「……うん……たすけて、ほしいかも……」


 絞り出した声は自分でも思う程に弱々しくなっていた。

 くう、くう、とお腹は食べるものを求めてか細い音を鳴らし、それを聞いていると何だか身体が萎んでいく様な心地になってしまう。


 閉じてしまいそうな視界を何とか開け続ける。

 その霞んでいこうとする視界に、此方を覗き込むその人をぼんやりにでも捕らえているとその口が開くのが見えた。


「なら“触っても大丈夫”だと思ってくれ。お前の身体は決して、無闇矢鱈に人を傷付けて仕舞うものではないと。」


 その言葉に、火の玉はまた「ううん……」と呻いた。

 彼が溢したそのくぐもった声音は“納得しかねる”意志が込められており、それを聞いた相手は眉間に少しだけ皺寄せた。


「それは、むりぃ……。」

「何故? 俺が“大丈夫”だと言ってるんだ。なら“大丈夫”に──、」

「“だいじょうぶなわけがない”から。」


 遮ってまで返された否定の言葉に、目の前の彼が眉間の皺をより深く山を作る。


 聞く耳持たずな火の玉の彼だけれども、此処は彼を一番響かせる内側だ。

 本来ならば言いくるめるにも説得するにも、その場所こそ彼には一番向いている弱点弱い所とも言える場所だった。

 それ故ここぞとばかりに闇の中から現れた彼が言いくるめてでも説得し意識を改変・・しようとしていたその“厄介な事柄”には、どうしても変えることが出来ない火の玉も頑なになって逆らってしまう。




「ぼくは………ぼくの、からだは“きたない”から………」




 弱々しい声が言葉を紡ぐ。




「さわったら“よごれる穢れる”んだ、さわったら“きずつく呪われる”んだ……さわったら……“とけて腐らせて”しまうんだ……。」




 ぽつり、ぽつり、と言葉を続けていく。

 それは人の形をしていた彼の揺蕩う袖にずっと隠していた“黒い手”と、彼の身体の中に生まれた頃から在った“黒い水”、それから生前からずっと“言われ続けて”いた事。

 それら全てが、彼をずっと縛り付けていたものだった。


「ぼくは、あぶないものなんだよ……? だからね、さわっちゃだめ。けが、させたく…ないの。」

「──で? それがどうした。」


 吐き出した拒絶を叩き返す様な言葉が返ってくる。

 自分に目があればきっと驚きに大きくしていたことだろう。

 その人は堂々とした態度で迷いもなく、此方の事など御構い無しに再び手を伸ばしていく。

 それを見るや否や、身体を捩ってそれから逃れようと力を振り絞る火の玉。

 だけども中身空っぽで減る腹からはこれっぽっちも力を込めることも出来ず、彼の小さく軽い玉の身体はあっという間に抱え上げられた。


 じゅうっ、と肉を焼く音が響く。

 苦痛に零れる声が聞こえる。

 身体の中では動けない程に飢えから力が入らないくらいだったのが、徐々に温もりが点り癒えていくのを感じた。

 その感覚は状況が状況でなければ浸りたい程に心地好い筈のものなのに、それでも込み上げてくるのは焦りと恐れからの冷ややかさだ。

 直ぐ傍で自分に触れて今にも死んでしまいそうになっている人がいるのだ、身体が焼かれていく姿を見て落ち着いていられる訳がなかった。


「やだっ、やめて! さわらないでよう!」


 必死な声を張り上げて、その腕の中から逃れようと身を捩る。

 しかしその人は一向に離してくれる気配はない。

 あろうことか抱え抱き止めて、火の玉の彼を腕の檻に閉じ込めてしまったのだ。


「っぐ、……だ、いじょうぶだッ、良いから、このままッ……!」

「うそだ!! だって、だって、きみのからだがっ……!」


 その言葉に“偽り”を感じると共に、焼けた肉が燃え崩れていくのが視界に映ってより焦りが募る。

 大丈夫な筈がない。

 見るからに平気そうだと言えないその在り様に、火の玉は悲鳴を上げた。


 焦げ付き黒ずんでいく肌に、熱さに耐えきれず形すら残せず溶けていく肉。

 皮膚はどんどんと剥がれ燃え散り、血は雫を落とす前に蒸発する。

 抱き止めてしまっているから腹は外壁とも言える肉を崩し開かれてしまって、肉に護られていた筈の内蔵が露になって直接燃やされていた。

 火の玉を抱えた丸めた背中に、彼に見えぬよう腕で隠して伏せたその顔からは浮かんだ脂汗が瞬く間に蒸発し、その頬すら熱波に火傷し皮膚が黒く変色していく。


「やめて! しんじゃう、きみがしんじゃうよう! おねがいだからはなしてえっ!」

「ッ……断る! お前がッ、ぐ、認める、まではッ、絶ッ対に、逃がさんッッ!!」

「なんでぇっ!? やだ、やだっ、こわいよ! やめてぇっ! はなしてぇえっ!」


 言葉を吐くと同時に口から煙を吐くまでに、体内をも焼き燃やされている筈の彼はその言葉通りに火の玉を手放す事はなかった。

 肉が崩れて骨まで露に、更にはそれすらも炭へと変わっていこうとしていても、どんなに暴れた所で一向に離してくれない骨の檻に、捕らわれ逃げ場を失せた火の玉が心の底から泣き喚く。


「やだあああっ! ひぐっ、おねがいっおねがいだからはなしてよぉおっ!」


 目の無い身体では涙は零れない。

 寧ろ火の粉を散らして反発すればする程に自身を包む生身の肉体をより焼いていってしまう。

 次第に抜けていた力が戻り始めて、火の玉はもがき抜け出せる為の暴れるだけの力が入れられるように──けれども、そんな事出来る筈がない。

 そうしてしまうとより彼の身体傷付けてしまうからだ。

 現に今触れられているだけですら、肉が炭になり灰になっていく様をまじまじと見せ付けられている。

 それを理解してしまった火の玉は遂に抵抗すら出来なくなってしまったのだった。

 燃えていく身体を抱きすがろうとも、傷付けたくないからと拒絶し身体を押し飛ばす事すら出来ずにまた泣いた。




「わかった! わかったからぁっ!! いうこときく! おれ・・ちゃんということきくからっ! おねがいっはなしてええっ!!」




 降伏宣言──“参りました”。

 遂に音を上げて叫んだ火の玉のその言葉を境目に、檻になっていた身体が崩れ落ちていく。

 どしゃり、と至る所が途切れ、崩れ、形を成していないその姿が横倒れた所を火の玉が駆け寄りまた声を張り上げた。


「お兄ちゃん! お兄ちゃんっ!! やだよぉっ死なないでよおおっ!」


 意識朦朧としているその人、身体中穴ぼこまみれで虫の息。

 どう見たって死に体だ、骨も臓器も剥き出しの身体では生き延びれる筈もない。

 例え“そうじゃなかったとしても”現に今死にかけているのだから、そんな事は関係無い。

 その先に本来の終焉が在る筈の死が無かろうとも、死ぬ時はいつだって苦しみを伴うものだ。

 永遠に死を繰り返すのならば……それは尚更だ。


 死んでしまう程の苦しみを何度も味わされる、それ以上に辛く苦しいものなんてない──死ねない火の玉はそれを知っていた。


 こんな形で声を掛け続けるだけだなんて無力感マシマシに惨めな思いをするだけだ。

 本当はそのボロボロに崩れた身体を、倒れる前に抱き止めたかった。

 だけども火の玉は触れることも出来ずに近付くのも怖くって、どうしようもなく少し離れた場所から伏せる様にしてわんわん泣き声を上げる事しか出来なくって“空しく”なる。

 目も顔も手足すら無い身体では泣いているていで声を上げる事くらいしか、胸の内に込み上げてくる感情を表現する方法は無かった。


「うわあああんっ! ひっく、おにっ、お兄ちゃんっ……うう、ぐすっ……!」

「……その、言葉、間違いねェな……?」


 燃えかすみたいな身体から、振り絞る様に掠れた声が聞こえた。

 地べたに伏せていた視界を上げて彼の方を見てみれば、半壊した顔を苦悶に歪めながらも切れ長の目を此方に向ける姿が在った。


「お兄ちゃんっ……!!」


 思わず駆け寄りその顔の傍に出来る限り近付く火の玉。

 近くで見れば見る程、その肉の内にあった筈の骨や臓器がもろびでる程に焼け焦げた在り様はとても痛ましい。

 こんな状態で良くも意識を保てているのが不思議なくらいなものなのだ。

 火の玉はそれを理解した時、涙が零れそうな想いに「ぐすっ」と声を洩らした。


「なら……“触れても大丈夫”、だな?」

「……うう、解った、解ったからっ……もう無茶しないで……! こんな脅し文句・・・・、普通に考えたら有り得ないでしょ……!」


 馬鹿じゃないの、と彼は涙声で罵倒し吐き捨てる。

 するとその人は「ははっ…」と乾いた笑いを溢し、苦悶交じりの笑みを浮かべながらも困った様に眉を下げた。


 そしてまた火の玉へと骨身が露な手が伸ばされてくる。

 辛うじてまだ繋がっていたその右腕を震わせながらも力を振り絞るように持ち上げていたのだけれども、辿り着く前にそれは地べたに落ちた。

 その光景にびくりと身体を跳ねさせ、お兄ちゃん! と声を掛ければ、閉じ掛けていた目蓋を持ち上げた彼が「悪い」と溢す。

 もう一度持ち上げたその腕に火の玉は自ら身を寄せようと近付くも、やはり怪我をさせてしまうのが恐ろしい。

 触れる前に立ち止まってしまった。


 その心境を知ってか知らずか、彼は漸くその頭上へと上げた掌を辿り着かせる。

 身を縮込ませ怯える火の玉の上へとゆっくりと下ろしていく手を、恐れを忘れた彼は躊躇する事なくその炎の中へと沈めていった。


 すぐ傍に翳された掌に恐怖する火の玉は思わず目を瞑る。

 視界を閉ざした真っ暗闇の中、感覚のない身体では今触れられているのかどうかすら解らないまま、その手に怯えたまま身体を震わせた。


 今どうなっているんだろう、今どうされているんだろう。

 恐ろしくも浮かぶ疑問によりきつく視界を閉ざしていた火の玉だったけれども、ふと頭上から温かみのある何かが流れ込んで来るのを感じた。

 注ぐように内側に入り込んでくるそれはとても心地好いものだ。

 思わず気が抜けて溜め息を溢したくなる程のそれにつられてしまって力が緩むと、きつく閉ざしていた視界をほんの僅かに開かせた。




 開き掛けた視界の端で、筆みたいな触腕が影に沈んでいくのが見えた。

 目の前のその人物は無惨な程に崩れていた身体だったのがすっかりと修復されており、火の玉の朧気な筈の身体に触れていた。

 その表情はとても穏やかなものだ。

 威圧的だった眼差しは成りを潜め、愛おしげに細めた目は自分を見ているようでも何か“別のもの”を感じた。


 まるで自分を通して他人を見ているかの様だ。


 懐かしそうに、思い出すかの様に。

 寂しさと愛情と他にも様々な感情をごたまぜにして、しみじみと追憶に耽る様な──そんな感情がその人から流れ込んできたのだった。


 温かいものが身体に満たされていく。

 飢えなんてまるでなかったかの様に、身体の内にこれ以上なく注がれていく。

 空いていた腹は等の昔に膨らまされていた。

 今はもう満ち満ちてきて収まりきれない分が天辺から水膜の風船を作って器の上で張り詰めてしまっている。

 中身は今にも溢れ出しそうだ。


 それでも尚注ぐ情は収まりそうに無いらしい。

 炎に触れても焼かれる事が無くなった、怪我の癒えた手が自分の身体を引き寄せられていった。


「ごめんな。さっき、お前に“当たって”酷い事言っちまった。」


 ぎゅう、とゼロ距離にまで身体を寄せられた先で火の玉の身体が抱き締められる。

 当たって……酷い事? と首を傾げる火の玉。

 どの事だかさっぱり思い当たる物がなさそうに玉の身体をくるくる回転させて疑問符を浮かべている彼に「さっきの……お前が隙間に挟まってた時の、だよ。」とその人は付け足す。

 一瞬キョトンと呆けた火の玉だったけれども、それも間を置いてから「あっ!」と声を上げた。




 あの時の“ちくちくする”言葉!




 漸く彼が“悪い”と言っていた事に思い当たり、見上げるようにぐりんと彼の腕の中にあった身体を回した。

 しかし“当たる”と言うことにはピンと来ず、どう言うことなのだろう? と頭の中には次の疑問が。

 そんな彼の玉の身体を労る様にやんわり撫でるその人は、ゆっくりと頷くと言葉を続けた。


「知らない奴が苦手なんだ、想定外な事があると頭ん中がパンクフリーズするんだよ。予定狂わされるとアドリブや即興じゃ上手く立ち回れなくなっから……正直、余り関わりたくない。」


 口角は僅かに上げて笑んでいる様でも、その人の両端を釣り上げていた眉を八の字へと下がっていた。

 その声音は穏やかなままだったというのに先程とは違って優しいものというには少し様子が変わっている事に、されるがままになって話を聞く火の玉は気付く。

 最後にぼそりと小さく呟いた言葉からは、彼のその声音にあの嫌悪感がほんの僅かに滲んでいるのが解った。


 そんな彼をじっと見詰める

 軈て彼は深い溜め息を溢すと空いていた方の手で顔を覆った。

 自身の顔面を拭う様に、上から下へずり落としていったその手の下。

 そこから覗かせた顔上部を見てみれば、細める目とその眉間には皺が寄せられていた。

 その表情はなんだか苦々しげに歪むもの。


「只でさえ頭の回りが鈍くて、考えるのにどうしても時間を喰うんだ。それだから予定通りに動きたかったんだが………気付いたらこんな所にいた。」

「あっ、そうだった!」


 しかめた顔の彼はそのつり目が怒っている、苛々している様に見せてしまっている様だが、話を聞く限りどうやらそれは不安と困惑で心細くなっているだけらしい。

 そんな彼の話を聞いて、浮かんでは転げ落としての繰り返しをしていた火の玉の疑問が漸くそこで口にする事が出来た。


「ここおれのお腹の中……の、ハズ? なのに、お兄ちゃんはどうやって入ってきたんだろう? ロヴィ・・・みたいにどっかからここまで跳んできたの?」

「ん? ……嗚呼、なんだ。漸く思い出したのか。」


 くりん、と丸の身体を傾けながら言えば、その人は不安そうに上げていたつり目を緩め穏やかな笑みを浮かべた。


「俺もどうやって此処まで来たのかは解らん。このだだっ広い場所で漸く俺以外の“誰か”に会えたと思ったら、どう言う訳だか初期状態な記憶を無くしているお前だったんだ。」

「ははぁ、初期状態とな……?」

「“以前”の自分に戻ってるってこった。何だお前、覚えていねェのか?」


 確認する様な問いかけに火の玉はまたくりんっと回る。

 彼の言わんとしている事に勿論心当たりが無い訳ではない。

 只ぼんやりしているのだ。

 思い出せた記憶も、それから感じる感情も輪郭が無くぼやけてあやふや。

 何かあった事を思い返した所で「そんな事もあったなぁ」と、まるで他人事みたく遠い出来事に感じてしまう。


「……何つーか人の形をしていた時のお前と違って、そっち火の玉のお前はどうも“薄っぺらい”んだな。」

「うすー?」

「嗚呼。考え方も、感じ方も、それからその感情“表現”も。何もかもが“本気”でなく“真剣”じゃない、まるで巫山戯ふざけているみたいに言動が軽々しいんだ。」

「ほうほう……?」


 そう言って彼は掌の上に乗せた火の玉を自身の前へと出すと、それをぽんっと軽く上に上げた。

 すると掌から10㎝程の所まで放り投げられた火の玉は、直ぐ様元の掌まで戻るべく重力に沿って落ち──てくる訳ではなく、ふわふわと綿毛の様にゆっくりと落ちていく。

 ゆらゆらと揺らめきながら掌についてはまたぽーんと放り投げられ、それがまたスピードを緩めて落ちていったのだった。


 逆さまで行う鞠付きは、火の玉を“紙風船”に模して遊んでいるか様な心地へとさせてくる。

 ぽーん、ぽーん、と何度もそっと受け止めては宙へと放り投げた。

 それを繰り返している内に、お手玉にされていた火の玉からはきゃっきゃと楽しげな笑い声が聞こえてきた。

 次第に投げるのを休もうとするならば、今度は火の玉の方から「もっかい!」とねだるまでに気に入ったらしい“高い高い”。

 それに応えつつ、自身の掌で上下に跳び跳ねする火の玉を眺めながら彼は言葉を続けた。


「まんま子供みたいだ。楽を求めては邪念無く、喜を表すのは屈託なく、哀を溢すはぐずるみたく、怒を滾らすは烈火癇癪の如く。」


 きゃあきゃあ、わぁわぁと楽しげに、男も女も判別付かない幼声が甲高い笑い声を上げる。

 それが見せる仕草や振る舞いとて幼さもよく目立つ……そう感じてしまうものだが、彼の火の玉を見詰める表情は何だか複雑なものだった。


「……なのに、だ。何で、そんな“フリ”をしてるんだ?」


 ぽすん、と玉の身体を受け止めた両手の中に火の玉は収まる。

 そしてまたくりんっと身体を回した。


「ふり?」

「お前は一見子供の様にしか見えん。言動も、印象付けられるその性格も“外面”だけを見るならば。……只な、お前の“内面考えている事”を知った時、どうもお前の見えている視点は偉く“高い”所からのものだったんだ。」


 掌の上の火の玉を膝の上へとそっと置き、見上げているらしいそれを見下ろしながらに彼は静かな声で言葉を続ける。


「“親”目線なんだよ、何をするにも。拙い子供のフリをしながらロヴィオ・ヴォルグに寄り添っているお前の在り方は、子供を放っておけない……それでいて、何でも子の思い通りにしてやろうとする過保護で過干渉気味の親みたいな、そんなものだ。」

「親……。」

「そうだ。子供みたいなのに子供らしくないんだ。子供っぽい幼稚さと言えば聞こえは良いが、それっぽく見せる軽々しい態度からはどうしても中身がないのが透けて見える。それなのに──、」


 火の玉を包み込んでいた掌が片方、徐に持ち上がる。

 その手を首元へと触れさせると、大の大人らしい喉仏の浮いた喉を撫でる素振りを見せた。

 どうしたんだろう? と火の玉はそれをぼんやりと眺めているだけ……だったが、次第にその身体から揺れる焔を一際強く火花を散らした。


 僅かに呻く声が聞こえた。

 喉を強く押し込める掌、前のめりに屈む身体。

 絞まっていく首からは潰れた蛙の断末魔の様な苦し気な声が溢れる。


 一瞬動揺と困惑から思考はフリーズし、身体が強張り固まる。

 しかし次の瞬間には形振り構わず玉の身体が勢い良く飛び上がった。


「何やってんのっバカーーーっっ!!」

「──あでっ!!」


 渾身の力を込めた体当たりが炸裂する。

 ゴムボールの様な身体が顔面へと直撃、互いの身体がその勢いから跳ね返り後方へと倒れ込んでいった。

 ドサッと倒れる音とてんっと軽やかに跳ねる音とが辺りに響く。

 叩き付けられた顔面を擦りながらその人はヨロヨロと身体を起こそうとするも、そこへまた玉のタックルが胸元へと直撃し「ごふっ!」と苦し気な悲鳴がまた溢れた。


「バカじゃないのっバカじゃないの!? 何いきなり目の前で首を締めようって気を起こすの!! 自殺願望でもあるの!?」

「い、否……ちょっとばかし、例えっつーか、試しに──うぐっ!?」

「例えやっ試しでっ自害しようとっすなーーーっ!!」

「ちょ、待っ、ぐっ!? いっ、や、やめっ! ぐはっ!!」


 横たわる身体の上で自身を叩き付ける様に玉の身体が跳ねる。

 腹部を集中的に、しかも思い切りに何度と跳ねられてその衝撃にその人は火の玉を止めようと手を伸ばすも、踏み付けられる度に来るダメージから思わず身悶えてしまいながら呻き声を上げ続ける羽目となった。


「わ、悪かった、俺が悪かった! もうしないから! だからもう勘弁、うぐっ!? ……ちょっ……す、ストップ!! タンマタンマ! もう懲りたっ、懲りたからマジでこれ以上は勘弁してくれっ!」


 降参の意を示そうがお構い無しに腹へとぴょんぴょんのし掛かる火の玉に、遂に耐えきれなくなった彼が両腕を前に出して腹ガード、そして延々と降り掛かるタックルの静止を図る。

 その腕に行く手を阻まれた火の玉は、もし目があればじとりとした眼差しを送るつもりで声音を低くして、冷や汗を流し顔をひくつかせる彼へと疑念を込めた言葉を投げ掛けた。


「………本当かなぁ?」

「本当本当、もうしないって。ほんの出来心だったんだ。こうすればずっと疑問に思っていた事もハッキリするかなーって──、」

「“ほんの出来心”で普通自殺しようって気になる? ねぇ? 何その“ちょっとそこまで”みたいなノリの自殺動機、おれ怒っていい??」


 火の玉の問いかけに彼はそう返す。

 その態度は面映ゆそうな、真剣にと言うよりは“ちょっと遣り過ぎたかな?”程度にしか思っていなさそうな軽いもの。

 言葉に嘘は感じられずとも、それにしたってちゃんと反省しているのか甚だ疑わしいその態度に火の玉は鬼気迫るオーラを放つ。

 そして怒りを露にそのへらへらとしていた顔へと近付き圧をかけると、焦って身を捩った彼は間に壁を作るように掌で遮った。

 

「悪かったって! お前の“素”を引き出したかっただけなんだ! 俺はお前に“子供のままで居続ける”事を求めている訳じゃない、腹を割って“素”のお前と話をするには“怒らせる”のが一番手っ取り早いと思っただけなんだよ!」


 半ば必死そうに言い訳を叫ぶ彼。

 それに火の玉はムッとしつつも、確かに・・・そうである為一先ずは説教の口を閉ざす事にした。


「お前は怒るとその無垢な子供を模した“無邪気な鉄面皮幼さ故の厚顔無恥”のガワが崩れて、そこで漸く“本来の素の顔親としての側面”が表に出るんだ。……その自覚はあるか?」


 問い掛けに火の玉は頷く様に身体を揺らす。

 その様子に自身の見解に間違いがないか確認が済むと、彼は言葉を続けた。


「過去に絶対の不変を求める“変わらず”の願いをお前は受け止めた。只それは時が経つ程に無垢でも無邪気でもなくなっていく……軈て死した後のお前には自他共に嘘も吐け偽る事すら出来なくなった。だからこそたがった在り方へとなろうとすればする程、本来“変わらず”こそが本質であるお前は変わった“後”の性質に上乗せ・・・して“前”の性質が引っ張り出されてしまう。」


 そこまで言うと彼はまた口を止める。

 伺うように相手を見詰めるも、その火の玉からの否定はなかった。


「……結果、成ってしまったのは矛盾ばかりを引き起こす歪な在り方だ。死んでいるのに生き続けている“生と死”の共存、そこに居るのに居ない“有と無”の曖昧さ、それらに限り無く近い幽霊……或いは神霊としての在り方への変質。それから、この世に生を受けた時に得た性別も──」

「おれは男だよ。」


 初めて続けられていた言葉に火の玉が口を挟んだ。

 食い入る様に、確固たる意思を持って断言された言葉だった。

 見れば火の玉の身体から浮かぶ炎にほんの少しばかり、それでいて見れば解る程度にその様子が変わっている事が見受けられた。


 今まではゆったりとした穏やかな流れで上部へと向かって揺れていた丸の玉の端を揺れる炎のヴェール。

 薄く透けたそれが立ち上がって、炎から離れて生まれた小さな火花が散っていっては空に消えていく様は今までにも度々見てきていた。

 しかしそのパチパチとほんの僅かな音を立てて散る火花の頻度が今までと比べて目に見えて増えている。

 加えて端から立ち揺れるヴェールが渦を上部に向かうではなく、弧を描け様になっていったかと思えば渦を巻く様にして玉の身体をぐるりと回り始めていた。

 さながら青く澄んだ透明な焔を燃やす大きな火玉で出来た線香花火の様だったのが徐々に姿形を変え、玉の身体は炎の渦へとなっていったのだった。




 ただならぬ不穏さを醸し出すその姿を見た彼は、天から見下ろした“台風”の様だと胸の内に思った。

 その中心、彼が感じた台風で例えるならば“目”である部分の空間──否、そこに在ったのは“空白”ではなく“黒点”だったけれども──そこに妙に誘われる・・・・・・気配を感じながら。




 只、今はそれを本気で怒らせて対話不能の制御が利かない状態になってしまわれるのは彼にとっても困る事態だ。

 彼自身どうやって入り込んでしまったのかすら、いつから居たのかも定まらない真っ暗闇のその空間が火の玉の腹の中であるのならば、当然脱出手段を知るのも火の玉だけであるのだから。


「まァ待てって、お前が拘っている事くらい知っているとも。俺は何も全てを口にするつもりはねェし、お前の“曖昧さ”を態々確定する為に話している訳でもない。寧ろ好都合・・・だ、そのままで良いくらいにな。」


 そう言ってヒラリと掌を見せる彼。

 敵意はない、害する気もない事を表す様な仕草だ。

 その様子に火の玉はまだ疑わしく思う気持ちから雰囲気に少しばかりの剣呑さをを残しつつも、次第に落ち着きを見せ始めていったのだった。


 軈て落ち着ききって完全に元の大玉な線香花火の風貌へと戻ると、脅威は失せたと判断し再び彼は口を開いた。


「お前の性別が実際にどちらであるかなんて、そんなのお前の好きにすれば良い。お前の自由だ。そのままあやふや確定要素がないままな状態でお前が“男”だと断言し続けてくれれば、俺もそれを全力でサポートしよう。」


 彼のその言葉に思う事はあれども、それでも本人とてやはり迷いがあったのだろうか。

 火の玉は何処か不安そうな声音でポツリと言葉を溢した。


「……どうして? 性別なんて“見れば”解るもの、あやふやになんて出来る筈……ないよ……。」


 現に、今までとて……あの“女嫌い”のアーサーだって彼の姿を見て“女面”と罵ったくらいだ。

 確かにあの姿は男だと言われればとても見目の良い“中性的な風貌”と捉え方してしまうし、逆に女だと言われれば絶世の“美女”と片寄りなく捉えてしまうだろう。

 お世辞にも“男らしい”と表現するには、容姿の幼さも相まってとても言い難いものだった。


 本人もその自覚はあったのだろう。

 そのつもりこそなかったもののコンプレックスを刺激してしまった事で、怒り狂う寸前だったのも成りを潜め一転して随分と落ち込んでしまった様だ。

 彼に今の心情を表せられる“顔”があればきっと、俯き加減に頭を傾け視線を下へ落としていた事だろう。


 しかし彼には頑として“どちらでも良い”と断言し、当人が自身を男だと主張するのであれば“全力でサポートする”とハッキリ口にする理由があった。


「隠された内面も秘めたる本性をも暴く事が可能な、あのアーサーがお前に向かって“女面”だって言ったんだ。なら、お前が“女である”とは断言出来ない。……だっておかしいだろう? 女相手に“女面”って言うのは。」


 俯かせていた視線が上がる。

 自身の中で反発しながら共存する在り方への劣等感に陰鬱の深みへと沈ませていく感情を、本来暗がりでしか生きていけないと言うのに日陰にいては腐っていくばかりの成長していく心を、その全てを許容しながら“そのまま”明るみへと引っ張り上げていく言葉。

 鬱々と曇る灰色の曇天から差す一筋の陽射し……迷いばかりの彼にとってはそんなもの。




「故にこそ俺は断言しよう、お前は“男”である、と──喜ぶが良い、“少年”。お前は正しく“男”である事を、此処に証明された。」




 今程肉体が無い事を悔いた事はない。

 この火の玉でしかない身体に瞳があったのならば、きっとその空色の宝石から真珠の珠の如き雫が落ちていた事だろう。


「今は“モーガン”が傍にいないから確定こそ出来んが……まァ此処を脱出したらいつでも出来るこった。今暫くは俺の言葉だけで許してくれや。」


 何から何まで上から目線な、顎を少しだけ上げた不遜な態度にて彼は言う。

 それは他の言い分をも振り払い、誰が何を言おうとも我を通さんばかりの堂々たる自分中心さが見受けられるものだ。

 その石をも通さんばかりの意志の強さは見ているだけで自分の迷いを吹き飛ばして仕舞いそうな程力強く、彼が口にした言葉を耳にするだけで止まりかけてしまいそうな足に“負けるな”と背を押してくれる様な、そんな気持ちにさせてくる心地を覚えた。


「………そっか………そっか。おれは、男で……男のままで良いんだね。」

「嗚呼。お前が生まれた際の性別なんざ男として生を得ていようが、女として変質していようが何だって良い。元より“思い込んで”しまえば何だってなれる賢者共の一人なんだからな。」


 安心した様な声音で溢した火の玉の言葉に、彼はそう言う。

 

「人の形をしたお前の衣服の下が実際にどうなっているかなんて、お前と……それからお前に生前の肉体を写して与えたロヴィオ・ヴォルグにしか解らん事だ。確定させるまでに暴かれさえしなければ、お前が言い張る限り例え仮だとしても“男”であると世界はそう明言し続けるし物語世界もそう認識しよう。──但し、」


 そこまで言うと、彼は切れ長の釣り目を細めた。

 一言一句ハキハキと声にする自信に満ち足りた明るい声音だったのを低く変え、そして誇らしげな笑みから真剣な顔持ちへと変えていった。


「一つだけ忠告しておこう。俺が本にそれを書き綴るよりも先に、お前の意思とは関わらず“本当”の性が暴かれる事が在ったら……お前自身が何と言おうが“そう”なってしまうだろう。決まったものを覆らせる事はとても困難な事だ。お前がまた今の自分を捨て“別物”へと変貌しない限り、それは変わることはないと思え。」


 それは唸る様な、低音で響かせてくる声だった。

 ドスの利いたその言葉に火の玉も思わず息を呑み込む。

 そして承知したと頷いて見せればそれをじっと見詰めていた切れ長の目は軈てゆっくりと閉じられ、そして再び開かれた時にはその凄む様な強面の威圧感は消えていた。


 打って変わって無と穏やかの境目の雰囲気へと変わった彼はくしゃりと後頭部を掻くと、ふぅ、と一息吐く。


「……ま、俺から言えるのはそのくらいかな。」


 気抜けた表情にうっすら笑みを浮かべ、よっこらせ、と地べたに座っていた身体を起こす。

 それに合わせて火の玉も身体を浮かせ、彼の顔と同じ高さまでふよふよと近付いていった。


「お前も元に戻ってくれた事だし、良い加減さっさと此処を脱出──、」

「……その前に、おれ、お兄ちゃんに“お話”したい事があるんだけど。」

「うん?」


 火の玉のポツリと溢した言葉に彼はキョトンとした表情で見詰めた。


「お話………なんだ? 何か大事な事でもあるのか?」

「そうだねぇ、とぉっても大事な事だよ。………キミはもうその話が終わっている・・・・・・と思ってるみたいだけど。」

「んん……? 終わって……?」


 そんな“心当たり”が無さげな彼に、もし顔があればにーっこりとした笑みを浮かべていたであろう火の玉は、残念な事に肉体がないのでパッと見何を考えているのかは解らない。

 そして折角の逃げる期を逃した彼は、火の玉の悪戯っぽい声音での“それ”を受ける羽目となったのだった。




「キミはもう忘れている様だし、おれから勝手に話を続けさせて貰うけど………キミねぇ、だからと言ってあんな“真似自殺未遂”は無いよね?」




 耳元でそっと囁かれたその言葉は、決して大きく荒げられたものではないと言うのに酷くねっとりと鼓膜に張り付いて、間違ってもうっかり聞き逃すなんて事が出来なかったのは何故だろうか。

 恐怖心を失って怖いもの等無い筈の彼は、その火の玉がゆったりと穏やかに口にしたそれを耳にした時に無性に胸の内からヒヤリと冷たくなっていく感触を覚えた。

 

「幾ら死なないからってさぁ……ああも簡単に自分を蔑ろにするのは……おれ、どうかと思うなぁ……?」

「ま、待ってくれ……! 俺だって、その、ち、ちゃんと策があっての事でだな……!」

「ほう? ほうほう? 策とな? はてさて、その策って何だろうな~? それはおれに、正直に、言えるもの………だよね?」

「うぐっ………そ、れは………!」

「言える? 言えるよね? ほぅら言ってご覧よ。だいじょーぶ、何も“問題”が無ければおれは何も言わないよ。“問題”さえ、なければ………ね?」


 その人の顔からは至る所から冷や汗が浮かび始め、視線は泳ぎ、自慢の口からは言葉にならない「いや、その」「ええっと」と言ったぼやけたものばかり。

 気付けば偉く間近な所まで距離を詰められている事に気付き、それでもまだにじり寄ってくる火の玉の禍々しい雰囲気を察してはより焦りが増していく。


「まさか“自害”前提で話を進めるつもりでいた、だなんてコト……言いやしないよね……?」

「あの、だなっ…そのっ………ぐ、偶然だ! 別に元からそうしようって魂胆はなかったんだ! 只あの時は、ああするのが手っ取り早──、」

「へぇ? “偶然”と? “魂胆はない”? ……それに“手っ取り早い”だって………?」

「ひっ……!?」


 声音は、とても、明るい。

 声音だけは酷く幼さのある明々としたものなのに、そのゆったりと言い聞かせてくる言葉達からはひしひしと怒りのオーラが醸し出されていた。


 やばい、全部バレてる……!


 メラメラと炎を揺らめかせて尋常ではない様子の火の玉を見て、口に出す事なく胸の内にてそう溢す彼。

 そう解るからこそ彼は口の端をひくりと痙攣させ、そしてピンと立つ堂々とした態度から一転。

 どうにか何とか言い逃れようと、そう思う余りに逃げ腰になっていく。


「………ねぇ、ねぇねぇ? その慣れた様子じゃあ一回や二回の数回程度じゃ済んでなさそうだね? ……いつも“そんな”なの?」

「えっ? あ、いやっそ、そんな事はっ…」

「あるよね? 何ならそれが“普通”になりかけてるよね?」

「そ、んな、事は……無……」

「あ る よ ね ?」

「……………ハイ。」


 嘘を見抜く火の玉に言い逃れは出来ない。

 天才であるアーサーすら出し抜く程に口八丁手八丁な彼とて、それは口達者に言いくるめ誤魔化してナンボであるがこそ。

 故に彼の事をよく知るからこそモーガンには効かない三枚舌が、初対面の相手だろうと関係なく偽りを見抜ける火の玉にだって当然効く筈がない。


 要は、天敵……と言うよりは彼にとって絶対に敵わない相手こそ、この火の玉なのであった。


 火の玉が説教の姿勢を取った瞬間に逃亡を謀った彼だったが……見ての通り失敗に終わったようだ。

 半歩下がれば詰め寄り目の前からの圧、踵を返し逃げようとしようものなら追うようにしてその身に全力タックル渾身の一撃、何とか言い逃れようと画策しようが嘘は看破され火に油を注ぎ、次々にボロを掘り起こされていく様なねちっこい説教はよりヒートアップ。

 自慢の口は無効化され見知らぬ場所に迷い込んでいた異常事態であるが故に、練りに練った策すら今は意味を成さない彼に勝ち目などある筈もなかった。


 そして説教がより熱を増し、始めは恐ろしい程に穏やかな声音だったのが徐々に声を荒げて怒鳴り散らす様になっていく火の玉。


「おれがっ……おれが! 何が何でも生きたいと思ったのは! キミみたいな子が居る事を知ったからだ!!」


 ビリビリと響く程に彼は声を大にして叫ぶ。


「自分の事を無下にして、死ぬ事すら厭わない! そんなのっ……見て見ぬフリなんて出来る筈がない!!」


 その勢いは思わず目を瞑ってしまう程に強いものだったが、漸く吐き出してくれた本心にその人は逃げようとしていた姿勢をいつからか解いて、その声に耳を傾けていた。

 その怒鳴り散らすかの如き火の玉の思いの丈は、身に覚えがあるからこそ彼にとっては耳が痛いものであれども、同時に共感するものでもある。

 だからこそ幾ら説教される事に逃げたくなる程苦手意識があろうとも、それを無視し無下にする訳にはいられなかった。


「おれはっ…生きたくとも成長する前に死に絶えた子供達を知っている! 産まれて直ぐに死んでいった子供達を知っている! 産声すらっ……上げないまま、息堪えて逝った子供達を知っているんだっ……! それなのに、それなのにッ……!」


 生前の悪辣な生活を思い起こす。

 人が人を人と扱わず、理性も品も欠片もなく、各々が我先にと他者を貶め、上に立つ者共から“食い物”にされて潰されていく力の無い弱者達。


 知を得る度にそれを軽蔑した、理性の無いケダモノ共めと。

 知を得る程にそれを嫌悪した、見境の無いケダモノ共めと。


 情深く成ってしまったそれは“弱肉強食カースト制度”なんて受け入れ難い在り方だった。

 人は等しく愛すべきだ、そこに序列なんて付けられない。

 それなのにどうしても“嫌”だと思ってしまう、拒みたくて仕方がないあの非情なる村人達を愛そうという気を起こせなくなってしまった。

 それでも人は須く愛している、だからこそ愛した事を無かった事になど出来る筈もない。


 だからこそ嘗ての自分は、ならばそれを愛すべき人と思わない様に庇護無き“ケダモノ”だと定め、認識を変えた獣達に当てはまらない人の子達だけを愛そうと心に決めた。

 ……それでも、心は痛むばかりであったが。


「後に残された者の、涙を流す声を知っているか…? 他者を思う余りに自身を蔑ろにする、それに周りの者達が抱く思いの辛さを感じたことはあるか…? 救いの手を差し伸べておいて自分勝手に消え失せて逝く命に、何もしてやれぬままな自身の無力さを嘆く声を聞いた事があるか…? おれは知っている………何度も、何度も思い知らされてきた……!」


 いつの事だったかは解らないけれども、何処かで“消えて融けて”逝くモノを見た。

 それが誰だったのかは……それすらももう覚えていない。


 絶えず聴こえていた歌は今は跡形もなく消えた。

 心の支えで在った澄んだ音色は、その色が染み付いた身体が“それ”だけが確かに共に在った事を証明していた。

 ……誰かも忘れてしまった“その人”と共に在た軌跡は、もうそれしか残っていなかった。


「……どうしてそう簡単に自分を投げ捨てられるんだっ……! 誰がそこまで、自分を蔑ろにしてまで救ってくれと頼んだっ……おれは……おれはそんなの、求めていない……! 認められる筈がないッ……!」


 壊れていけばいく程に感じられる色が増えていく、無色ではない彩のある心。

 元の形から離れていく程に、自身を満ち足らせてくれていたその色彩の意味を知っていく。


「こんな想いをするくらいなら……一層の事、救いなんて無くても良かったッ……! 救いがないまま朽ち果ててしまいたかった……!」


 知を得てしまって何も知らないままでいられず、同時に“それ”の終わりが近い事をも悟った時。

 消えてしまう前にと与えられるものを拒もうとした所で、受け入れる事しか出来ない上蓋のない器では“もう要らない”と拒絶する事すら出来なかった。

 その色に染まっていく自分すら、止める事も出来ないままに。




「そんなに死にたくばっ…おれが“教えて”やる! 死をも救済と思う程に、絶えず生きながら死に続ける苦痛をたたき込んでやるッ!」




 一度初対面で顎を蹴り上げつき出した舌を噛み切らんばかりの怪我を負わせては「不死身なんだろう?」「ちょっとくらい痛い目に遭わせてやれば良い。」と罵っていた、まだ黒い水悪辣な感情を抱えていた頃の火の玉。

 それは“知る者”だからこそ身に染み付いていたその痛みや苦痛を、嘗ての誰かと同じ道を歩もうとする者にその足を止めさせようとする為の忠告とも言えるもの。




「間違っても自ら死にに行こうとする、死を甘く見た愚かさを悔いるまで……死の恐ろしさを骨の髄よりも深く思い知るまで、何度生まれ変わろうと癒えぬ程に魂の奥底まで刻み込んでやるんだから……ッ!」




 彼を無性に突き動かしてしまうのは、他者と寄り添って生きる誰かへの自身を犠牲にしてまで思いやるその在り方に、いつかの自分が受けた心の傷からだった。

 それが残っていたからこそ、思い出す“切っ掛け”が在ったからこそ、今までならば既に消えていた筈の彼は、まだ此処に存在していたのだ。




 その在り方は狂おしい程に愚かしく、それでいて痛々しい程に優しいばかりの、誰かの為の祟り神──人が善すぎた悪者青鬼だった。



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【没版】この世界はきっと愛で出来ている!ー転生神様、ハピエンルート開拓中ー 茜野 @yuuhi1008

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