34.腹の虫巣喰う苗床と氷の檻。

 耳を塞ぎたくなるつんざく悲鳴が鼓膜に響く。

 必死に助けを求める声が聞こえてくると共に、罪深い自分を戒める様にその声が脳裏に張り付いてくる。

 四肢を振り乱して砂利を蹴る音が、苦しみ悶える絶叫が、それを見て見ぬフリをする自分を咎めている様に感じた。


 それは自分が独り善がりに望んだ“願いエゴ”の結果せいだからだ。

 誰がそれを望んだのではなく、自分がそうして欲しかったからこそ大切にしたい筈の“その人”にそれを強いていた。




 だからこれは自分への“罰”だ。




 今直ぐにでも助けに走り出したいこの足を止めて、その悲惨な在り様をこの目にしかと焼き付けて、痛ましい悲鳴が鳴り止むまでの夜更けから夜明けまでのこの地獄の様な時間を毎日毎日過ごしていく。




「あああ゛あ゛ッ!! だすげっ、ろびいッ!! たずけでぇッ、さむい、さむいのォ! ああ゛ぐッやめ、さわらッさわらな゛ッ、ひぃああ゛あ゛ーーーッッ!!」




 助けを求める声が自分の名を呼ぶ。

 助けを乞う手が自分がいる方角へと向けられる。

 でもその場に自分はいない。

 自分は別の場所で夜明けを待っていた。




 “その人”から言われたのだ。

 「自分が何を口にしようと、助けないで」と。


 


 だから“その人”からは出来る限り離れ見えない場所へ。

 悲鳴が聴こえても決して“その人”の元へは行かないように。

 無力感に苛まれながらも黙って見守り、指を咥える思いを胸に“早く朝よ来い”と祈る気持ちで夜明けを待つ。


 本当は「見ないで欲しい」とも言われていた。

 それでも只でさえ心配なのだからと苦し紛れに「離れていては万が一あった時に直ぐに気付けないから」と無理を言って、なら“星の目”だったらと妥協案を何とか得ていたからそれを利用する。


 今も尚犯し続けている自分の罪の“結果”から目を逸らさぬ為だ。


 漸く彼は“生きる”事を選んでくれたのだ、それは自分とて望ましい事この上ない変化だ。

 しかし自分勝手に自分のエゴで手を差し伸べたせいで、折角感じられなくなっていた筈の苦しみを自分が思い出させてしまった。


 助けたいのに、助けてやれない。

 救ってあげたいのに、手を差し伸べれば手を加える程にその人を苦しめるものがどんどんと増えて与えられる苦痛を増させていく。

 “殺して”と口にする彼ならばぼんやりと佇むだけだったそれですら、“生きたい”と口にしてくれる今では泣いて喚いてもがき苦しむ様になってしまったのだ。

 それなのに自分はと言えば大切にしたい人のその姿を自分は眺めているだけ。

 してやれる事と言えば“何もしない”事なのだと後から気付く。




 亡霊達が群がって出来た山、その人はそこに埋もれていた。

 物を触れられない虚無の腕が小さな身体をまさぐり、くぐもった呻き声が腐って肉が溶けて露になった骨の口から腐臭と共に吐き出される。

 乞いすがる様にしがみついて“その人”に求めるばかりの亡霊達に、触れられない非実体が実体の身体を通り抜けていく度に助けを求める口から出るのは甲高い絶叫。


 突っぱねた細足、弧にしなる身体、地面を引っ掻く黒い手。

 「寒い」「苦しい」「助けて」──自分の名前と共に何度と繰り返される彼の声。


 見るのも聞くのも酷く痛々しい。

 助けたいのは山々でも、その苦しみを取り除く事が出来ない自分の無力さに思わず泣きたくなってくる。

 それでも彼が“助けるな”と言って、自分が“助けない”で見て見ぬフリをする理由があった。




 その惨たらしい惨事を、彼が“生きるのに必要な事”だと言ったからだ。




 彼の減る腹が求めるものらしい。


 そんな馬鹿な事があるか、と否定した。

 そんなことをしなくたっていいだろう、どうしてむざむざ自ら苦しみを味わう様な真似をしなくちゃならないんだ、と抗った。

 夜闇に紛れて亡霊達の元へと赴こうとする彼の手を引いて、夜の間駆け回り亡霊達が寄り付かぬ場所へと連れ込んで朝になるまで身を隠した。


 それはまだ出会ったばかりの頃の話だ。

 その結果がとても悲惨なものだった。


 以来、もう二度とそうしないと心に決めた。

 それと同時に、何がなんでも彼の手をもう二度と“離さない”と決めたのだ。




 溶け往く身体を見た。

 消え往く自我を見た。




 たった一晩、たった一晩だ。

 それから逃れたばかりに、翌日の昼に差し掛かる前に“その人”は自我も身体も真っ黒に塗り潰してドロドロになった。


 自分が何かも解らない。

 言葉も失せ、此方の声など届く事はなければ返ってくる反応もない。


 謂わば泥の様に朽ちた只の肉塊だ。

 死んで消え失せるよりもよっぽど酷い在り様だった。

 かき集めようにも触れた所から形崩れ、人の手にしてでもボロボロボタボタと零れ落ちる柔い固形混じりの液状化した身体。

 



 行かないで、置いていかないでくれ。




 溶けて流れていく身体に必死にすがり付いた。

 何度も呼び掛け、どうにか引き戻せないか焦る頭をぐるぐると回しに回して──軈て行き着いたその答え。




 溶けてしまうのなら、その前に固めてしまえば消えないでいてくれるだろうか。


 こんな姿になってしまう程の“何か”があったんだ。

 自分にとってとても大切な人なのだから、これ以上苦しまなくて良いように何があろうと“護り”たい。

 だからその為にも自分の目が届かない所へ行かないで欲しい。

 ずっと傍にいて自分に護られていてくれ。

 その為にももう二度とこの“繋がり”が途切れ二人離れてしまわぬように、決して逃がさない手離さないように──凍らせて繋ぎ止めなくては。



 

 そして自分は、流体の彼を身体に閉じ込めた。


 


 寒さがあればきっとこの人も温もりを求める様になるだろう。

 そうしたら一人で何処かへ行ってしまわない筈。

 だから冷たい二人寄り添って、互いに温め合って一緒に生きていこう。


 彼を呑み込んだ腹に溜め込んだ不浄から、いつか自分の身体が耐えきれなくなるその時まで──、




 ──死が二人を分かつまで。






 *****






 身体が凍り付いていく。

 寒さが自分を引き戻してくる。

 一人でも進まなくてはと意気込むこの足は前へと進ませたいのに、後ろ髪を引いてくる様な冷気が自分を離してくれない。


 それでも立ち止まる訳にはいかない。

 進まなくては、このままでいては何も始まってはくれない。

 自分を変えられない。


 呑み込んだ花の破片達が喉を通る時に、思わず込み上げてくる凄まじい吐き気。


 身体が受け付けない?

 それがどうした、これくらい“受け入れ”てみせる。


 きっとこれは大事なものなんだ。

 手放したくないと感じるものだからこそ、その理由にまだ辿り着けていなかろうと大事にする為に誰の手も届かない所にしまいこんでいく。

 自分の腹の中へ。


「(屈するものか、諦めるものか。おれはまだ、生きていたい──ロヴィと一緒に!)」


 意識が持っていかれそうになる迫る死に、自分を引き戻そうと身体の自由を奪っていく冷気に、抗いに抗って歯を喰い縛る。


 崩れていく、自分の身体が。

 凍り付いていく、逃がさないと頑なに。


 熱と色が抜けて意識が持っていかれそうになる中で、次第に感じるようになったのは“異物感”。

 自分の厚く覆われていた表面が削れて初めて気付いたそれは、どうやら身体の奥の奥に“何か”押し込まれている様だった。

 それが何か解らないままでも、どうしてもそれが“嫌”なものを感じてこれ見よがしに吐き出そうともがいた。

 自分の根っ子の様な奥深い所のそれの痕跡を引っ張っては手繰り寄せて、漸く辿り着いて見付けたこびりつきみたいなそれを溶け出す身体の内側から押し出していく。


 溶ける身体に恐れがない訳ではない。

 しかし今はそれよりも、この何か良く解らない“嫌なもの”を出さなくては。

 無我夢中になってまで、それを溶けた表面へと押し出そうとしたその瞬間びしりと身体に氷の壁が覆った。


 動けない、それから寒い。


 助けて、と誰かに手を伸ばしたくなってしまう。

 こんな思いをするくらいなら、何もしたくないと足を止めてしまいそうになる。




 そんなの絶対に駄目だ。




 止まるものか奮起する“思い”が大きく熱く膨れ上がる。

 瞬間溶け出していく壁に“異物”を押し出すべく、身体をより溶かし削り出していく。

 凍っては溶け、凍っては溶けと何度も……何度も。

 その鼬ごっこの様な繰り返しに思わず頭が痛くなりそうな感覚を覚えるけれども、何がなんでもと踏ん張って意識を保ち続けた。


 名無しには感じられずとも、その身体からは凄まじい熱波が放たれていた。

 凍る身体を一瞬にして溶かす程の熱量だ。

 故に熱波と冷気の陣取り合いは圧倒的だった。


 身体を大きく覆い隠す程の氷の棘がその限界値まで質量を持って抑え込んでも尚その熱波は閉じ込めきれず、すがり付く様な冷気は熱にも膨れ上がりすぎた自身の質量にも耐えきれなくなっていく。

 そして遂にその鼬ごっこに終止符が打たれた。




 耐えきれず、押さえ込みきれずに自壊した冷気の檻。

 溶かし押し出した身体は凍って砕け散り散りに。

 弾けるようにして飛び出た自身は白い霧に紛れていく。




 気付けば正体不明の何かを吐き出した身体はとても軽くなっていた。

 いつの間にか辺りは白く煙り見え辛くなっていて、状況が解らず何が起きているのかマーリンに訪ねようと口を開きかけた。


 その瞬間、強張る身体。

 口から音は出さずに咄嗟に息を潜め、感じた“気配”に自分の気配を失せさせる。


 血など流れていない筈の身体に、血の気が引いていく様な感覚を覚える。

 その気配を感じた瞬間に本能が自分へと警告してくる、傍に“天敵”がいるという直感。

 見付かってはいけないと自分に言い聞かせてくるその悪寒に、軽い身体が身を隠そうとして無意識に力が入っていった。


 白い霧の中、揺らめく白に紛れて漸く視界に映ったのは自分と同じ姿──だけども嫌に角張っている身体の後ろ姿。


 それが何かは解らない。

 しかしそれでも名無しには一つだけ解ることがあった。




「(あれだ、さっき身体から引っ張り出したモノは……!)」




 自分に心臓があったらきっとバクバクと喧しい程に脈打っていた事だろう。

 ひりつく緊張感に白い霧に身を隠したままその動かない石みたいな自分の様子を伺っていると、ぴくん、と此方から辛うじて見えていた後頭部が揺れた。


 それが動き始めたと同時に、その動きに合わせて響く軋む音。

 何をするつもりなんだろう、と、此方の事は気付いていないのか? という幾つもの疑問を脳裏に浮かばせながらも、その得体の知れない何かの動向を見続けた。


 そしてそれが手を翳した足元から噴き出す黒い煙。


 その黒煙を見た瞬間、疑問浮かばせる思考を塗り潰して脳裏に過ったのは身に覚えのない“記憶”。




 ──助けてッ……!!




 死に物狂いで四肢を振り乱し、必死に“何か”から逃げようと走っているらしい揺さぶる視界。




 ──お兄ちゃんっ、お兄ちゃん何処にいるのっ!? 何でぼくの事置いてきぼりにしたのっ……!?




 前後左右に頻りに視線を動かして、声を張り上げるけれども周りには誰もいないらしい。

 一瞬垣間見えた足元には、見えるものがないのに鳥の脚の足跡が地べたに作られては後方へと流れていくのが見えた。




 ──死にたくないっ……お願いっ、誰か助けてぇッ……!!



 

 涙だろうか。

 歪んでぼやけた視界に鼻を啜る音が聴こえてくる。

 見えない腕が拭ったのか、視界が遮られるとガクンと大きく揺れた目の前に“どしゃり”と倒れる音がした。


 どうやら転んでしまったらしい。

 直ぐ様立ち上がろうと傍の地面には手の跡が付いて視界が持ち上げられた瞬間、再び勢い良く突っ伏した。


 ……否、何かに背後から押し倒された様だった。




 ──ああああッ!! 嫌だッ、誰かッ誰か助けッ──、




 バリバリッ、と何かが砕ける音がする。

 身悶える視界には頭上から何か降り注いで来ているものが見えた。


 鳥の羽だ。


 ふわふわ、ふよふよ。

 何処から落ちてきているのか、辺りに散り降ってくるその羽は先程の花と同じ色をしていた。

 幾つも降り注ぐ中で、所々に“黒”にも染まっているのも混じりそれが地べたへと落ちていった。


 凄まじい絶叫が頭に響く。


 視界には羽とは別に、後方から飛び散ってくる黒い液体。

 次第に身体の下にまでその黒い液体は水溜まりを作り出し、地面を掻き毟る見えない手が作った地べたの溝に池にして溜まっていく。


 耳をつんざく騒ぎ声は時が経つ程に徐々に徐々にと弱り始め、視界に映れど見えない手も地面を掻き抉る力すら次第に失っていくのが解った。

 お兄ちゃん、お兄ちゃん、と口にする声は段々途切れていく。

 軈て遂には沈黙してしまって、頭の中響く音は肉を啜る音だけが最後に残った。


 視界が徐々にぼやけていく。

 段々黒く染まっていく様に光を失せていく中で、唐突にかくんと視界が持ち上げられた。


 そこでぐらんぐらんと揺さぶられる視界の中、目の前に映し出されたのは煙を纏った“何か”だった。


 体液らしい青黒い汁をその身体から滴らせ、実体をハッキリ映さない身体は絶えず歪に形を変える不定形。

 下方には四足歩行らしき風貌が本の僅かに見えどもその脚が本当に有るのかどうかすら曖昧模糊。

 その化物の口らしきかぱりと開かれた穴からは針のような舌らしき管が伸びてきて、それが自分の方へと伸ばされているのが見える。

 どうやら身体を持ち上げられた視界の主は、その舌らしき管に巻き付かれている様だった。


 徐々にその目の前の歪な口が視界の主へと迫っていく。

 悲鳴も失せたそれが化物の口中へと押し込まれていく最中、その意識が途切れる前に一瞬だけ視界を掠めたモノがあった。




 地べたに出来た黒い水溜まりにうっすら浮かびあがるその姿。

 視界には一切映ることはなかった視界の主の透明な身体だったのが、姿鏡の如く水面にだけはハッキリと映し出されていた。


 見えない筈のその姿、その顔。

 それは“自分”と同じ顔をしていた。

 身に纏う衣服は違えども、それは“似ている”のではなく見間違うのも難しい程に全くもって“同じ”だった。


 それを見た瞬間に“理解”したのだ。




 あれは“自分”だ。




 ずっと忘れていた、見失ったまま追い掛け続けていた喉の奥で“引っ掛かって”いたもの。

 一度は溶けて跡形もなく無くなっていた、今は亡き嘗ての自分。

 思い出したその記憶──“天敵”への危機感から自身の奥深く、根底より引っ張り出すが如く想起されたその走馬灯は名無しへと明確にそれを示していた。


 そしてもう一つ“理解”したものがある。


 今目の前に現れた自分と同じ姿でも歪な形状をしてそこに存在しているもの。

 いつからか自分の身体の内に巣喰い、毎夜毎晩腹が減れば“自分”を亡霊達の元へと向かわせ、此方の意思とは関係無しに身を捧げさせていた“腹の虫”。

 不浄を体現する存在であり、清浄を憎み喰らう獣の如き何か。




 あれは──あの“天敵”は、あの時の“犬”だ。




 そう確信を得て身体はより強張っていく。

 また・・喰われてしまう訳にはいかない。

 生き延びたいと思う名無しはより息を潜め、そして気配を失せさせていった。


 元より彼は“弱者”だ、強い者には敵わない。

 本人からすれば不本意でこそあれど彼が唯一取り柄とするのは彼が祟り神たるが由縁の“呪詛”と、ありとあらゆる“不浄”を掻き集めぐずぐずの液体になるまで溶かされたあの黒い水だけ。


 それは万能の力を持つ神ですら唯一敵わないと恐れ、そして毛嫌いし忌む程のものだ。

 たったそれだけしか持ち得ない矮小な彼が、たったそれだけで何よりも“脅威”とされる由縁だった。


 故にこそあれだけが彼だけの特権とも言える最強の“武器”であり、同時に誰の手出しも受け付けない最強の“盾”でもあった。


 それが無ければ自分の身を守る事も、外敵に噛み付く事すら出来やしない。

 しかしそれも零れ落ちて、残り僅かに残していたのもたった今全て吐き出してあの“犬”の中へと取り込まれていった。


 何も対抗出来る物は残っていなかった。

 故に名無しには“身を隠す”事しか出来なかった。


 きしきしと身体を軋ませ身動ぎ始めた“犬”に、身体はハッキリと思い出した恐怖から思わずびくりと跳ねる。

 今までとてその記憶は無くとも無意識下に根付く程のトラウマだったのだ。

 こうも傍に、しかもそれが自分の身体の中にいたという事実を知って、本当は声を上げてその恐怖を吐き出したいくらいだ。

 けれどもそんなことを今してしまえばきっとあの時の二の舞になるだろう。

 だから叫びたいのをグッと堪え、口を塞ぎ、周りに溶け込むように気配を消していく。


 決して、ヤツに見付からない様に。


 吹き出した黒煙の中へと手を浸らせた“犬”は、そのまま濃煙の中へと身体を沈ませていく。

 ズブズブと煙と同化していく様に煙に浸っていくのを見遣っていると、そこに何か映っていることに名無しは初めて気付く。


「(あれは……?)」


 そこにあったのは何処かの景色。

 この洞窟内ではない風景がその煙にはぼんやりと映し出されていて、そこには動く人影が二つあった。

 それが何なのか目を細め良く見ようとしていると、その最中に“犬”は煙の中に姿を消していった。


 “犬”の姿が見えなくなると同時に、胸の内をざわつかせる危機感が漸く治まる。

 ずっと張り詰めていた緊張感がそこで途切れ、思わず大きく息を吐き出そうとしたその矢先にその何処かの景色を映す画面から“犬”の姿が現れた。


 再び強張る身体、走る緊張感。

 一体これは何なんだ?

 その映像が一体どういうものなのか解らないままにそれをまじまじと見た。




 見てしまった。

 そして彼はまた“理解”してしまった。




「(…………え?)」


 そこに映されていたのはいつかの“自分達”。

 画面奥の方で何やらもぞもぞ動いていたのは、力を振り絞って追手を撒く為に“空間転移”し倒れたロヴィオと、それに駆け寄る自分の姿だった。


 そこへ画面の中に現れた“犬”はそのいつかの自分達である“彼等”へと真っ直ぐに突き進んでいき、そしてそれに気付いた“自分”が逃げようと踵を返す。

 四肢を振り乱し逃げ惑う自分の姿は、視点は違えど“嘗ての自分”ととても良く似ている様に見えた。

 必死になりすぎて足を縺れさせ、横倒れた自分に飛び掛かった“犬”がぶわりと姿形を歪ませ霧状に。


 同じだ。

 何もかもが、嘗てと同じ光景。


 画面の中の“自分”がどんなに声を張り上げても助けは来ない。

 生きたまま肉を貪られ、周りに飛び散っていく黒い液体。

 ばたつく腕からは徐々に力を失せていく、そんな自分の姿。


 目の前のも、過去の自分も、同じ様にそうやって殺されていった。

 自分にはあの“犬”から逃れられる術などなかった、逃げられる筈がなかった。

 だってあれは──時空を超えて何処までも追い掛けてくるのだから。




 瞬間、ぞわりと身体が震え上がる。

 どんな感情をも超えて膨れ上がった恐怖心が、今までの決意をも呑み込んで流していこうと波になって襲い来る。

 自分一人でも立たねばとあれ程奮起していたのに、それすら払い飛ばして“一人では何も出来ない”と思い知らされていく。

 そう理解してしまうと……誰でも良いからと、何かにすがりたくなってしまう。


 それで晴れてきた白い霧の向こうでマーリンの姿を見付けるや否やそこへ駆け寄ろう手を伸ばす──が、どう言うことだろうか。

 伸ばした筈の腕が目に映らない。


 あれ? おれの腕がない?


 そしてそこにある筈の腕の場所から視線で伝って見下ろした先、自分の足元にまで視界に入れる。

 そこには何もなかった。

 足も、胴も、衣服すらそこには何一つとして残っていなかった。


「ひっ──」


 引き釣った声が漏れる。

 頭の中は混乱し、顔がある筈の場所へ触れようにも手がない。

 狼狽えて慌てふためいても足がなくて身動きが取れない。


 何も、出来ない。

 何も、ない。


「おれのからだ……おれのからだがないっ……!? そんなっ……どこにあるの……!?」


 声は掠れて上手く出せない。

 口まで無くなってしまったのだろうか? いやそんなことはない筈……!

 出せば自分の声は聴こえてくるのだ、ならばきっとまだ自分は此処にいる──……多分。


「やだ、やだ、消えたくない! 消えたくないようっ、マーリン! マーリン助けて!」


 必死に声を張り上げるけれども目の前のマーリンとは視線が合わない。

 あろうことか別の場所へとふらふらと動いていってしまって、彼はちっとも此方を見向きもしなかった。


「マーリン、マーリン? どうして気付いてくれないの? おれはここだよ。ねぇこっちを見て、お願い、お願いだからぁっ……!」


 何度も声をかけても右へ左へとキョロキョロと動かすマーリンの仕草に、不安はどんどん募っていく。

 彼もきっと自分が見えていないのだ。

 その何かを探しているらしい動作はきっと自分を探してくれているのだという希望的観測に、ならばと自分の居場所を伝えるべくより声を張り上げた。

 けれども……どうしてだろうか、さっきからどうにも声を大きく吐き出せない。

 掠れてしまって蚊の鳴く様な音しか出なかった。


 なんで? どうして?


 混乱する頭で必死に考えを巡らせてどうしてこうなったのか、どうしたらマーリンに気付いて貰えるのかを振り絞って頭の中を掻き回した。


 その時に視界に映したマーリンの口が動くのを見て、彼が何やら話している事に気付く。

 きっと自分を呼んでいるんだ!

 そう感じて彼の声を聞き届けようと耳を傾けすませども、そのマーリンの声が何故だか此方に一切届いてこない。


 それどころか、自分の声以外何も聴こえてこないのだ。


 まるで自分とマーリンとの間に隔たりが出来たみたいにマーリンの姿は見えても声は届かず、更には此方の姿は見えていないらしい。

 もしかして、自分の声も彼に届いていないのでは?

 あるのかどうかも怪しくなってきた口からは、ひぐっ、と引き釣った嗚咽が零れた。


 嫌な想像ばかり脳裏に浮かんで不安を募らせていく。

 消えたくない、自分はちゃんと此処にいる。

 そう何度も口にして、うろうろと歩き回りながら少しずつ自分の元へと近付いてくるマーリンに気付いて貰おうと必死に声を投げ掛け続けた。


「マーリン、マーリンっ! おれはここだよ! おれの事見て!」


 それでも視線は一向に合わない。

 目の前まで来てくれているのに声も届かない。

 右往左往する彼の視線の動きに、不安な心はより膨らんでいく。


「おれ、ちゃんとここにいる……?」


 ポツリと溢した言葉に、身体がざわつき始める。


 誰にも見付けて貰えない。

 誰にも声は届かない。

 このまま誰にも見付からないままでいたら……自分は一体どうなってしまうんだろう?


 ……いや、それよりも──自分は今、本当に此処にいるのだろうか?


「やだ……やだぁぁ……消えたくない、消えたくないよう……!」


 掠れたか細い声で訴える名無し。

 涙が溢れそうな程心細くて仕方がないのに視界が歪む事がない。

 目まで無くなってしまったのだろうか──でも今ちゃんと前が見えている。

 こうして景色が見えているんだ、なら“目”は確かに有る筈!


「誰か見付けてよ、おれはここにいるよ、ここにいるんだ……! いるはず、なんだよ……!」


 考えれば考える程に朧気に不安になっていく存在証明に、唯一“自身”がそこに在ると示してくれる“目”に彼はすがり付く。

 見える視界の内ではマーリンが自分を探してくれているのが解っていたからだ。

 それが解るだけで、彼はまだ希望を捨てなかった。


 しかしこうして消え入りそうな声を張り上げている今でも、心細さは膨らみ続ける。

 本当は今すぐ走り出して彼にすがりついて、自分は此処だよ! と主張したい。

 だけども“手”がないからその袖を引っ張って気を引く事も出来なければ、“足”がないから動けなくて彼は立ち往生し続けるしかなかった。


 何処にも行けない。

 何処に行っても逃げ場はない。


 あの“犬”を見てからだ。

 あの“記憶”と“光景”を見てしまったからだ。

 その意識から無い身体がすっかり固まってしまって、自分の意思でも一向に動けなくなっていた。


「おれのいばしょ、おれのいばしょはどこなの……? おれはどこにいけばいいの? おれの、おれの……、」


 元より自分の肉体を弔い喰ってくれた片割れの傍でないと自分は動けない、それなのに片割れとの“繋がり”は失っている。

 傍にいる筈なのに、それでも今何処にいるのか解らない。

 自分の安らぎを得られる場所は無くなっていた。


「──……まーりん。」


 辛うじて僅かに感じられる自分と同じ気配がする先にはマーリンがいた。

 片割れの身代わりになっているからだろう。

 間接的に繋げられていた“繋がり”から、彼がまるで片割れかの様に感じてしまう。


「まーりん……まーりん、たすけて。このままじゃおれ、きえちゃうよう……。」


 声はよりか細くなっていく。

 彼はすぐ傍まで来ているのに、それでも視線が合わない。

 自分の声がちゃんと届いているのかどうかすら解らない。


 嘗ての自分はずっと今の自分と同じ状態だった。

 あの時の自分はそれでも何ともなかったと言うのに、今では不安で一杯だ。

 亡霊よりも、あの“犬”よりも、何よりも恐ろしくてこんなにも助けを求めたくなってしまう程に苦しい。


 ──自分は確かに此処にいるんだ。


 それなのに返ってこない言葉に合わない視線、誰にも触れられない無の身体。


 ──自分は“本当”に此処にいるのか?


 湧き出す疑問、膨らみすぎて弾けそうな不安。

 疑念を持ってしまった存在証明。


「ちゃんとここにいるはずなんだ、なのにどこにもいないみたいで……おれ、おれ……──、」


 ぼんやりぼやけ始める頭で振り絞って、ぐすん、と嗚咽を溢しながらも紡ぎ出していたその声は途中で途切れる。

 目の前を白くも透明な……風だろうか? それらしきものの壁が視界を包み始める中で、思考がぱちんと弾け飛ぶ。

 そして霞だす世界を見詰めながら、じわじわと薄れ行く意識の中彼はポツリと呟いた。




「──……“おれ”って、なんだっけ……?」




 ──何処にもいないのなら、自分は一体何なのだろう?


 浮かんだその疑問を境目に、彼の薄れ行く存在感の消えていこうとする速度が加速していく。


 何処にもいない。

 いないと言うことはこの景色を見ている自分はなんだろう。

 自分が此処に居ないのだとすれば、この景色を見ているのは一体誰なんだろう。

 自分は此処にいる筈だったのが何処にもいないのだとすれば、自分は“何でもない”のかもしれない。


 見えなくなっていく視界の中で、自分の……(“自分”って何だろう)……声以外音の無い世界で目の前の……(誰だっけ?)……誰かが何か口をパクパクと開閉しているのが僅かに見えた。

 それがどうも酷く必死そうで、自身が何か解らなくなった“■■何でもない”は、どうしたんだろう? 何があったんだろう? と他人事みたくぽやんと眺める。


 揺らいで不確定になった存在証明から自我が薄れ周りと同化して、それは消え入りながら記憶も意識も霧散していく。

 何かを考えていた気がする。

 でも何を考えていたのか忘れてしまった。

 何だろう、何だろう。

 曖昧模糊になっていく頭の中で、どうしたら良いのか解らなくなってしまったそれは悶々もやもやとする思考の中で一つの“答え”導き出す。




 ──そういえば、誰かに“こう”しろって言われた気がする。




「……いあ いあ んぐああ んんがい・がい──」




 それは“呪文”だった。


 誰から聞いたのかは覚えていない。

 只随分と昔に誰かからその“呪文”で願いを叶えて欲しいと頼まれた事だけは、ずっと頭の中に残っていたらしい。




「いあ いあ んがい ん・やあ ん・やあ しょごぐ ふたぐん──」




 誰だか覚えていないその人は、その“呪文”を唱えたらとても素敵な事が起きてくれると言っていたのだ。

 その魔法の様な呪文を唱えたら痛みも、苦しみも、悲しみも、飢えも渇きもない場所へと辿り着くらしい。




「いあ いあ い・はあ い・にやあい・にやあ んがあ んんがい わふる ふたぐん──」




 なんて夢の様な場所だろう。

 自分もそこへ連れていってくれると、その人は“約束”してくれた。




「よぐ・そとおす!」




 その人はその場所の事をこう言っていた


 ──“楽園”と。




『だからそこに至る為に、お前が俺の“神”になってくれ。なァ、黒い雌鶏ラプル・ノワール──俺の“小鳥”よ。』




「よぐ・そとおす!」




 いいよ、“ぼく”がきみの神様になってあげる。

 きみが望む世界はとても優しいものだから、その“手助け”をするって……約束、したもんね。




「いあ! いあ! よぐ・そとおす!」




 皆が苦しむこと無く、穏やかで平穏な永遠を過ごせる世界。

 ぼくもそんな世界へ行きたい。

 だから、ぼくも連れてって──、




「──おさだごわあ。」




 常世の聖域、死者の楽園。

 全ての命が還り逝く黄泉の国。

 永遠の死が覆らない、安寧と不滅を約束された眠りの彼方へ──。




 ──からん。




 身体の奥深くから乾いた音が聴こえた。

 それ以外変わらぬ静寂、変わらぬ景色。

 あれ? と彼は無い首を傾げる。


 どうしてだろう、何も起こらない。


 目の前では今にも泣きそうな顔をして口をパクパクしている誰かがいて、自分にも何か変わったことはない。




 ……おやぁ?




 再び無い首を傾げる。

 失敗してしまったのだろうか? 理由は解らない。




 どうしよう、どうしよう、これじゃあ“約束”を果たせない。




 彼はおろおろと慌てふためく。

 呪文を言い間違えてしまったのだろうか?

 何か忘れてしまったのだろうか?

 悶々うんうんと唸って考えても、さっぱり良く解らない。

 誰かは解らない目の前の人は、目に溜め込んでいた涙を遂にポロポロと溢し始めてしまった。




 泣かないで、泣かないで。

 どうしてきみはそんなに悲しそうなの?




 傍へ寄って零れる涙を拭いに行こうとすれど、身体は動かないし伸ばせる腕もない。

 何か言っている様だけれども、何も聴こえなくって解らない。




 大丈夫だよ、泣かなくても良いんだよ。

 きみの涙を無くす“魔法”、ぼくが今すぐ頑張って唱え直すから。

 だから、上手く行ったらきみも一緒に“楽園”へ行こう?

 そしたらきっと、その涙を溢す悲しみも無くなってくれる筈。




 長い袖に隠れた両手が涙を流す顔を覆い、その隠して俯いた頭が左右に振られる。

 どうやら此方には全く聴こえなくても、此方からの声は向こうへ届いているらしい。

 その仕草は自分からの誘いに対して“拒絶”を表している様だった。




 どうして?

 “楽園”はとても素敵な、夢の様な場所なのに。

 皆が幸せになれるところなのに。

 どうして嫌なの?




 目の前のその人は必死な顔で何かを訴えてくる。

 それでも少したりとも届かない声に、彼は困ってしまって小さく唸る。




 はてさて、困った困った……どうしたら良いんだろう。

 呪文は間違っていない筈、言い間違えも無かった筈。

 なら一体全体何が原因で……──あ。




 からん、と再び身体の奥の音を聞く。

 そしてハッとした彼は頭の中の疑問符に終止符を打った。




 ──中身がない!

 願いを叶える為に使う“蓄え”が無くなってる!




 身体の軽さの意味をすっかり忘れていた事に気付き、どひゃー! と間抜け声を出してひっくり返った──つもりだったけれども、実際にはそうはなれなかった。


 空っぽならば何も起きないのは当然だ、燃料がなければ動くものも動かない。

 呪文も願いを叶えるのだって“蓄え”が無ければ消費出来るものがなくってうんともすんとも言わないものだ。

 そして彼は再び「困った困った」と首を捻る。


 燃料は無い、集められそうなものもない。

 右を向けど左を向けども周りは岩の壁に包まれ外は一切見えない。

 一体今はいつぐらいなのだろう?

 昼なのか夜なのかすら検討も付かないその空間で、どうやって燃料を集めようか頭を捻る。


 ぐりんぐりんと首を何度と傾げる度に、振り子のように揺れる視界。

 うんうん唸って、悶々考えて、ぐるぐる頭を回す中で再び“からん”と音が響いた。




 ……おや?




 そう言えば、この身体の中に響く音は一体何だろうか?

 思った矢先に意識を“胎内”へと向けていく。






 途端、ふわりと景色が一変する。

 目の前の人の姿は無くなり、辺り一面真っ暗闇。

 上も下も右も左もどこへ向いても黒、黒、黒。


 そこは彼の“心象風景”。

 彼の心の在処を表す彼だけが持ち得る空間だ。


 彼自身が“腹の中”と言い表すその場所にはいつもならば床は黒い水に浸っていたと言うのに、見ればそこには“何もない”。

 空っぽだからだ。

 そこには水の一滴も残っていなかった。


 そして彼は辺りを見回して、謎の音の正体を探る。

 そこならば彼が動こうと思えば動き回る事が出来る、何故ならばそこは自分の中だからだ。

 何処まで行こうが自分の中なのは変わらず無限の様でもとても狭い。

 何処へ行っても景色が変わらないのだ。

 遠くまで行ってみよう! と張り切ったところで変わらない景色はまるで同じ場所を延々と歩いているみたいな錯覚を起こすだけ。

 遠くまで来たという証明は歩き疲れた事くらいにしか表せれないのだから、実際どのくらいまで移動出来たのかなんて言い表す事が出来ない──そんな世界、そんな異界だ。




 実体のない火の玉のような身体がぽーんと跳ねる。

 地べたに付く足はないからボールの様に飛んで移動し、上下に揺れる景色の中で周りをキョロキョロと忙しなく視線を動かしていく。


 先程の音は此処から聴こえた気がしたのだ。

 聞き覚えのない音、知らない音。

 それが何なのか検討も付かなくて、気になって気になって仕方がない。


 知りたがり屋の彼は好奇心旺盛に真っ暗闇の世界を飛んで跳ねて駆けていく。


 右も左も水がない以外変わり無し。

 前も後ろもこれといって何も無し。

 上も下も異常な……し?


 ぽてん、と玉の身体が宙で止まる。

 ふと見下ろした場所、そこには見慣れないものがあった。

 それはいつもならとても深い深い場所で黒い水に埋もれており、一切目が届く事がない場所だった。




 床の底蓋──否、落し蓋だ。




 何処か“石板”の様にも見えるそれは、水中で何かを塞いでいたかのように黒い水の中床敷きになっていたらしい。

 こんなのあったっけ? 気付かなかっただけだろうか?

 首を傾げてはそれに近付き、まじまじとそれを観察してみる。


 とても古いものらしい。

 灰色のそれには所々錆びているのか濃い色混じり、そしてどうやら苔むしている様だった。

 縦にも横にも幅が大きくて、更には分厚くもなっているらしく見るからに重そうな石の塊だ。

 形良く長方形に象られており、良く見てみるとそこには見慣れない文字で何やら文章が書かれている事に気付く。

 それに近付いてじーっと眺めて暫く、溜め息混じりに肩を竦める様な声で彼はぼやいた。


「困ったなぁ、何が書いてあるのか解んないや。」


 彼には文字が読めない、教わった事がないからだ。

 何だろう、何て書いてあるんだろう?

 右から見て、左から見て、色々と角度を変えてどうにかこうにか頭をぐるぐる。


「ううーっ、全っ然わかんないー!」


 降参です!

 そう言わんばかりに、弾けるようにして彼はぽーんと後ろへと跳ね飛んでいった。

 悶々悩んでうんうん唸って、地団駄踏んで癇癪を起こすみたく彼は縦横無尽に玉の身体をコロコロ転がす。

 気になって仕方がないと言うのに知ることが出来なくて、思わずやきもきしてしまうのだ。


 困った困った、自分の中にあるものなのに自分が知らないものがあるなんて!

 あれは一体何なんだろう?

 気になる、気になってしまうー!


 石板の前でコロコロくるくる、悶々モヤモヤ。

 にっちもさっちも行かない状況で、独りぼっちわいわい騒いでいると“かたん”とまたあの音が響くのが聴こえてきた。


「んー?」


 音がしたのは……やはりこの石板からだ。

 寝転がっているらしいその大きな石の板の隣で同じく寝転がった(つもりの)状態で真横から見てみると、どうやらそれが斜めに傾いている事に気付く。


 その分厚い石の板は斜めに床に埋もれているかのようで、浮いた角には少しだけ空間が覗き見えるくらいに開いていた。

 今まで上から見ていたから気付かなかったらしい。


「うーん……? 下に何かあるみたい?」


 警戒心などまるでないまま、彼はそこを無防備に近付いてみては中を覗き込んだ。

 そこにあったのは“黒”だ。

 今いる場所よりもずっともっと暗い、光も射さない程の闇があった。


 彼はそれを見て首を傾げた。


 此方の真っ暗闇は空間の形がハッキリと見える黒に包まれている。

 自我の薄れてしまった今の彼には覚えていない出来事ではあるが、人の形を模した彼自身が此処に現れた時には、真っ暗闇であろうと手も足も光がなくても影に隠れることなくしっかりと見えるのだ。


 ……それもその筈だ。

 彼自身が“光源”になっているから、彼が真っ暗闇と感じたところで見えないものは無いからだ。

 彼の心象世界に置いて、自覚はなくとも彼自身が謂わば“太陽”みたいなもの。

 日を射す彼が照らしてしまえば、暗がりなんてものそこには一つたりとも存在しなかった。


 只そんな場を明るくする彼が覗き見ても、その石板の下の真っ暗闇だけは一向に照らしてくれない……何も景色を見せてはくれなかった。


 目を凝らして、角度を変えて、通れそうで通れない隙間から見た中の様子はちっともちょっとも何も見えやしない。

 実体が無い身体ならばこの程度すり抜けられそうだというのに、えいや! と突進してみてもぶつかって・・・・・しまって“ぽいーんっ”と跳ね返って石板傍の床にぽとりと落ちた。

 ころん、と寝転がった彼が「困ったなぁ」と彼はまた独り言を溢す。


「なぁんにも見えないし通れない。ぼくだけじゃこんな重そうなもの、持ち上げれないし……ううん、どうしよう。」


 腕を組もうにも無いから身体を傾けて、また溜め息混じりの声を溢す。


 音の正体を見付けた、それは石板だった。

 見知らぬ石板には文字が書かれていた、自分はそれを読めない。

 その下に何か空間がある、持ち上げれなくて入れない。

 覗ける程度の隙間はある、暗くて何も見えない。


 万策尽きてしまい途方に暮れる。

 このまま立ち往生する他無いのだろうか?

 彼はまた「困ったなぁ」と溢す他無かった。




 ──がたんっ




 不意にその石板が微かであれども今までで一番大きな音を立てて、その巨体の如き身体を揺すり動かした。


「うわっ! ……なんだなんだ?」


 唐突に起きたその現象には流石の彼も驚いてしまい、思わずぴょいんっと跳ね上がる。


 それからはまた音は途切れてしまって、暫く様子を見ていても動く気配はない。

 恐る恐る近付いてみて、一体何が起きたんだ? とじっくり辺りを見てみる事にした。


 すると、先程の揺れで開いていた隙間がより大きく開いたらしい。

 覗けなくて、通れなくて困っていたその隙間は自分がなんとか通れる位に口を開いていた。


 しめた! これで中の様子が見れる!


 そう思えばうきうきと、探検気分でその隙間目掛けて跳ね飛んだ。

 勢い良くぴゅんっと飛んで宙を滑る様はまるでスライディング。

 まだ見ぬ新天地へ無い足を踏み入れるべく、彼は嬉々としてその空いた隙間の中へと遂に火の玉の半身を捩じ込んだのだった。


 ぐにゅっ。


「…………あれっ?」


 どうやらまだ幅が足りずにつっかえてしまったらしい。

 実体が無い筈の火の玉の身体は、まるで隙間に嵌まったゴムボールの様に形を変形させて彼の身体はうんともすんとも身動きが取れなくなってしまった。


「ええーっ!? どうしよう、どうしよう!? ええと、ええと……こう言う時はどうしたら良いんだろうっ?」


 アワアワ、わたわた、慌てふためく小さな火の玉。

 すっかり嵌まり込んでしまった身体を「えいっえいっ!」と左右に振ってみせて、一心不乱にもがきにもがき何とか抜け出そうと彼は足掻く。


 じたばたジタバタ、慌てて焦ってのたうち回って。

 きゃいきゃい騒ぎながら動けないまま暴れる火の玉の彼。


「えーんっ、動けない~っ! ずっとこのままはやだよう……誰か! 誰か助けてえぇーっ!」


 彼以外誰もいる筈もない空間で彼は悲痛そう・・に泣き言を叫ぶ。

 しかし返ってくる返事はない。

 当然だ、此処は彼の心象世界。

 彼自ら“招き入れた”者しか入り込む事は出来ないのだから、今や全て出し切って代わりには誰も誘い込んでいないその空間に彼以外が存在する筈がない。




 ──その筈だった。




「誰だ、其処にいるのは。」




 不意に、自分以外の声が聞こえて「うわぁっ!?」と口から悲鳴が零れる。

 右に左に視界を振り、真っ暗闇の中声の主を探す。

 多分だけどもこの闇の中から聞こえた筈、しかしどうにも闇の中では自分の目は役立たずらしくさっぱりその姿を捕らえる事が出来ない。


「誰? 誰っ? 全然見えないよう、誰なの、何処にいるのーっ?」


 うわぁん! と泣いてるっぽい声を上げて、身動きの取れない身体を揺すり続ける。

 じたばたもがいてぎゃーぎゃー騒いで、正体不明の誰かへ疑問をぶつけてばかりいると闇の中からは「喧しいッ!」と怒鳴り声が返ってきた。


「お前が“明るく”するせいで此方は周りが見えん・・・のだ、少しは灯りを落とせ!」


 苛立ちの籠った声が返ってきて、それを聞いたもがいていた彼がぴたりと声を止ませるとキョトンと闇の中を見詰めた。


「え……明るくしないと“見えない”んじゃなくて?」


 視界がくりんと傾く。

 相手の言葉の矛盾に頭の中には大量の疑問符が並ぶ。


 え? あれ? 普通は“明るく”しないと“見えない”のでは?


 すると闇の中からの声が溜め息混じりに返答した。


「何を言ってるんだ、此処では光の方が視界の邪魔をするんだ。こんな所にいる割に、それすらも知らんのか。」


 半ば呆れ気味なその声。

 言葉の端々からは妙にチクチクと刺さるものがある、敵意とも嫌悪感とも感じる感情が込められていた。


 それを受け取った彼は棘のある感情から「うぐ」と苦し気な声を溢した。

 此処は彼の内側とも言える世界なのだ。

 そこで響かされた音は当然無防備な彼へと届いてしまうし、嫌味ならば尚更彼に棘を刺していく。


「そんな……そんな言い方はないよぅ、どうしてそんなにちくちくする事言うの……?」


 石板と地面の間に嵌まって動けない玉の身体をくたりとさせて、見えない相手へと訴える。

 そして彼の頭に浮かぶのはまた新たな疑問符だった。




 どうして、こんなにも“言葉”から痛みを感じるんだろう?




 彼が無くしてしまった記憶も生前も含め、今までは何を言われようと響くことはなく何処吹く風だった彼。

 壊れてしまった時には嫌な感情にばかり過敏になって、響かされなければ怒り狂った感情は何処までも燃え盛って止まらない程に聞く耳持たずだったけれども、今の彼にはその事は覚えていない。

 悪意に敏感だった頃を忘れて抜けてしまった今の彼には、今受けた言葉が初めての痛みと苦しみを感じさせる“感情”だった。


 彼の弱々しく投げ掛けた疑問符に、闇からの声はハッと鼻で笑い飛ばしてはその不快さを露にしたまま言葉を返した。


「俺は“赤の他人”が嫌いなんだ。多少なり知っている奴ならまだしも、一ミリたりとも知らん奴なら尚更だ。」


 吐き捨てるような声だった。

 身体をじんじんと刺してくる程に酷く冷たい水を引っ掛けられる様な心地から、彼のくったりとした身体からはより力が抜けていく。




 痛いよう、苦しいよう。

 どうしてそんなに、自分の事を“拒絶”するの……?




 実体無く、感覚すらもない声と辛うじて目だけが残っている火の玉の身体に、只々苦しいばかりの痛みを浴びせられては弱り出す。




 赤の他人……赤……?

 自分はそんな“色”をしているのだろうか……?




 虚ろになり始める頭から、相手の言葉から拾った単語に反応してか彼の色を失せた火の玉がゆらりと炎の先を揺らめかせた。

 すると周りの黒一色だったその空間から、ゆっくりとした速度で視界が拓き始めたのだ。


 その光景からぼんやりする頭で、突然視界の様子が変わり始めた事に、あれ? と疑問を浮かべる。

 頭に浮かんだそれを口にしようとしたその矢先に、漸く人影らしきものが暗闇の向こうにいる様子が目に入った。

 それ故についうっかり意識が逸れてしまい、何故急に視界が開けたかなんて疑問は頭の中からぽろりと転げ落ちていく。

 そして新たに浮かんだ疑問から、火の玉の彼はその人へと言葉にして投げ掛けた。


「……きみは、だぁれ……?」


 彼の問いに返事はなかった。


 視界の開けた場所に奥から歩いてくる足が次第に露になり姿を現し始める。

 辺りに響く足音と共にその人物の全体をはっきりとさせていくと、迷いの無い真っ直ぐだった足取りは不意にその動きをぎこちなく止まってしまった。

 そして薄暗がりからぼんやりと見え始めていた“切れ長の目”は大きく見開いて、此方をじっと凝視しているらしいその眼差しからはどういう事なのか“戸惑い”の色を帯びている様に思えた。


 只々驚愕と動揺を感じさせるその様子からは、まるで“思いもよらぬ人物と出逢った”かの様なものだ。

 軈て気まずそうに視線を揺らしたその人はまだ薄暗がりな場所で立ち止まったまま、どうにも罰が悪そうに自身の頭を掻いたのだった。



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