33.海の底から贈る愛の唄。

 拝啓、神様へ。

 ぼくは恋をしました。




 全てを呑み込む夜の海、星明かりの下の真っ暗闇。

 そこで“ぼくら”は出逢った。


 海の中心、独りぼっちで泣いていたきみ。

 宝石みたいに輝く瞳からは溢れ落ちていく星の雫達。


 その泣き顔が余りにも綺麗だったから、ぼくは思わず見とれてしまっていた。

 ずっと眺めていたい気もしたけれど、やっぱり“泣き顔”よりも“笑顔”の方が好ましい。

 だから、どうかその涙が止まりますようにってぼくはきみを笑わせる事に決めた。




 おどけてみせて、馬鹿みたいに道化演じちゃって、あっちへこっちへ行き交って。

 戸惑うきみの涙が止まった時には、たったそれだけで嬉しくなっちゃったり。

 きみの声を聴いた時には、その声を忘れないように耳を傾けて頭の中大事にしまいこんで。

 初めてきみが笑ってくれた時には、まるで天にでも昇るかの様な夢心地に包まれて……。




 ああ、愛おしい。

 こんなにもきみが大好きだ。




 元の形すら忘れてしまう程、海の中で波に揺蕩いながら身体を溶かし続ける愛の熱量。

 折角きみに大事に護って貰っていたのに、それがまた嬉しくってまた“身体”を解かしていく。


 もう戻れないんだ。

 生まれ変わる事すら出来なくなってしまう程に“原型”を留めていない。

 薄くなり過ぎたんだ。

 きみに全部捧げちゃって“声”以外姿が残っていない。

 でも後悔はしてないよ。

 それできみが笑ってくれたんだ、それだけで十分なんだ。




 きみが幸せならばそれで良いんだ。

 きみが幸せでいてくれるだけでぼくも幸せだ。


 だから、笑っておくれよ“ヨダカ”のきみ。

 きみは惨めじゃない、誰よりも美しい燃ゆる星だ。

 羽ばたき続ける気高く美しいきみには“笑顔”が一等似合ってる。




 ぼくもいつかきみの星になりたい。

 なるなら……そうだな、“魚の口”がいい。

 きみに恋するぼくだから、きみに無限の愛を囁く“声”で在り続けたい。

 きみの帰る場所、きみの居場所、きみに安らぎを与えられる場所。

 羽ばたき続けたその綺麗な翼を、休ませてあげられる“止まり木”になれるように。




 だから……だからね。




 きみに声が届かなくなっても歌い続けるよ。

 これはぼくからきみに捧げる愛の唄だから。


 きみに捧げる、愛のメッセージ。


 深い深い海の底沈んだぼくからの、銀河の魚へ贈る“呼び水”。

 いつか宇宙の果てまでも、届きますように。






 *****






 その名前を聞いた瞬間、無い筈の心臓が脈打った様な錯覚を起こす。


 同時に自身を塗りたくるが如く、内側から滲むようにして自分を染めていくその“色”。

 それは恐怖ではなく、かといって喜びでもない。

 只々酷く胸を締め付けてくるかの様な“懐かしさノスタルジー”を感じさせてくる、寂しさと哀愁をごたまぜに帯びさせた感情だった。


 妙なざわつきと焦燥感を覚える様になってから、ずっと憂慮の思いが胸を占めていた。

 “それ”が何なのかを思い出せないのだけれども、どうも心の支えが外れてしまっていた様な気がして止まないのだ。

 だからなのだろうか?

 自分では止めようがない程にどうしようもなく無性に不安感を起こさせては弱気になってしまう。

 それ故か、いつも以上にちょっとした事で妙に苛立っては“憤って”しまうのだ。


 そのいつもとの違いが起きる様になってしまった“始まり切っ掛け”は何だろう。

 普段ならこんなに荒れてしまうなんて事はそうそうなかった筈。

 何故ならばそれで“後悔”した事があったからだ。

 それで“自制理性”を覚えたのだから、頭ではそれが良くない事くらい解っていたのに……抑える事が出来なかった。


 名無しは思い当たるにはまだ何か足りない様な答えにまだ届かない疑問への思考を巡らせる。

 そしてマーリンから聞いた話に、どうも“引っ掛かり”を覚えてはその感情にまた新たな疑問を重ねるのだった。


「(“ナトリ”……何故だろう、何処かで聞いたことがある様な…?)」


 物を知れば知る程に積み重なっていく悩みの種。

 無知で在る事を辞めた名無しは故にこそ頭を悩ませては迷いを生じ、今もまた痛みを感じない筈の頭に頭痛を起こしてしまいそうな感覚を覚えてしまうのだ。

 そしてまだ増えた疑問に思わず顔を手で覆い、その喉まで出かかってのに手が届かない“答え”に彼は息苦しさを感じた。


「まだ辿り着けないのかい?」


 その声にまた俯き掛けていた顔を持ち上げる。

 目の前のマーリンが黄金色の瞳を静かに此方に向けては、微笑んでいるのか無表情でいるのか曖昧な顔をして名無しを見詰めている姿がセピア色の視界に映った。


 その問い掛けからしてきっと彼は自分の悩み事なんてお見通しなのだろう、しかし決して“答え”を教えてくれる訳ではない事くらいは名無しにも察せれた。


 自分とてそんな“近道他人頼り”は望んでいない。

 これ以上落ちぶれたくは無いからだ。

 無様であっても足掻き続け自分の足で立ち続ける事を決意したのだ。

 片割れとなったロヴィオの隣にいても誇れる自分になれる様にと願ったが故に、名無しは例え生まれ変わった訳でもなくまだ死んだ身で在ってとしてもそれでも尚“生きる”事を選んだ。

 だからこそ実態の無い幽霊ゴーストである筈の彼が数奇な運命を経て得た仮初めの肉体を手放す事無く補修に補修を重ね、彼が嫌う亡霊達と同じくして“生”にすがり付いてまでそこに存在するのだった。


「主さまはキミの“そういう所”を気に入ったんだよ。」


 マーリンが口を閉ざしたままの名無しにそう語り掛けた。

 何の事だろうか?

 彼の声と息遣い以外に静寂が包むその空間で、マーリンの口から不意に出たその言葉に名無しは首を傾げる。


「キミの真の持ち味はその“不屈の心”。諦めてものぐさでいる事を辞めて、止めていた足で険しく楽ではない道を泥にまみれてでも歩む事を選び、理不尽に異を唱える真っ直ぐさを持つキミだからこそ、あの人はキミを“神様”にする事に決めたんだ。」


 ……何処まで見透かされているのだろうか、まるで今考えている事すらお見通しだとでも言われているかの様だ。


 自身が行ってきた事にその意地汚さと惨めさを自覚し、そしてそれを恥だと思うからこそ他人にその“内側プライバシー”を暴か侵害される事を酷く嫌う名無し。

 今その彼が嫌う“土足で踏み荒らされる”様な事柄が起きた──筈だと言うのに、何故だろう、不思議と不快感は湧かなかった。


 するとその違和感に複雑な心境を感じていた名無しの様子を見て、何かに気付いたみたく「あ」と声を溢したマーリンがへらりと笑って名無しの肩を叩いた。


「ああ、ごめんよ。キミが何を嫌うのかは知っていたけど……忘れてた! まぁでも、キミが嫌がる様な馬鹿な真似はしないさ。何処かの“誰かさん”と違って、ね!」

「……??」

「何、ボクはキミを“知っている”だけだよ。だからキミが考えてる事くらい何となく“察せる”程度のもんさ。だからキミの内面を軽率に荒らす様な愚行はしないとも、だってそんな事をしたらバチ・・が当たるのは当然の事だもの。」


 そう言って肩を竦める彼のその物言いは、まるでそれをした“誰か”に心当たりがあるかの様だ。

 しかし彼が言っている事にピンと来ない名無しは、それを聞いても尚頭に疑問符を浮かべたままキョトンと彼を見詰めたまま。

 軈てゆっくりと首を横へと傾けてフリーズしていると、からりと笑ってマーリンは続けた。


「キミの内面を暴くと言うのは所謂“墓荒らし”なのさ。そんな事をしてしまえば、その主であり、そして曲がりなりにも祟り“神”でもあるキミだ。相応の報復があるのは仕方の無いこと……ねぇ、不思議と無性に“苛立って”しまう様なそんな心当たり、何処かでなかったかな?」


 マーリンからのその言葉に名無しはハッとする。


「(──そうだ、アイツ・・・と会ってからだ。理由は解らなかったけど、何故だか“噛み付き歯向かい”たくなっちゃう奴……!)」


 その疑問解消への道筋を示すマーリンが溢したヒントから思い起こすのは、先程に出逢ったばかりのうっすらと桃色が混じった“白髪”頭の少年だ。

 自分がロヴィオの傍に居ると嫌にチクチクと刺してくる様な視線を感じさせる、何でもない様な“フリ虚勢”をする割には妙に喧嘩腰で此方に踏み込んでくる人物だと名無しは感じていた。


 その気付きを得た名無しの心象にも察したらしいマーリンは微笑みにも似た薄い笑みを一瞬浮かべるも、呆れたような顔をすると溜め息を溢した。


「ごめんねぇ、“うちの”馬鹿のせいで。一度は許してくれたキミがその後でも暴走してしまう様に知らず知らずに仕向けたの、十中八九アイツが原因なんだろうさ。……裏を掻くのを好むアイツの事だ、きっと無遠慮にキミの中身を暴きでもしたんでしょ。」


 そう言ってやれやれと長袖に隠れた両掌を天に向けて首を横に振るマーリン。


 聞けばその少年は“他者の思考を読み取る”事が出来るという事を、名無しは知る。

 それを聞いて多少は合点がいく部分は確かにあれど、名無しは理解出来ない“事柄”に顔をしかめた。


「(それにしたって、何であんなにおれに食い付いて来るんだろう? 確かに此方から仕向けたんだから、良く思われないのは当然だろうけど……。)」

「アイツはね、嫉妬しいなんだ。」


 名無しが考え事に耽る中で、マーリンがその悩みを返すが如き言葉を呟く。


 嫉妬? 自分“なんか”に? どうして?


 尚更理解が出来ない、と名無しは心の中で自分を卑下しながら疑問符を浮かべる。

 だって自分は落ちぶれた存在だ、誰かに羨ましく思われる様なものは何一つとしていない、在ったとしてもそれは自分と“不釣り合い”かつ“不相応”な物達ばかりだ。


 誰より優しくて誇らしい“片割れ”と、綺麗な身体、そして幸福感を得る事が叶ったこの恵まれた境遇──そしてそこにいる場違いな自分。

 何が羨ましいものか。

 例え自分が今恵まれていようとも、それは底辺から少し上に上がっただけだと理解している。


 普通は皆持っている筈のものを自分は漸く手にすることが出来ただけ。

 糞みたいな生まれ故郷、怪我と汚染で穢れた醜い容姿、寄り添う所か蹴落とし合いみたく争ってばかりの隣人達。

 無いものだらけの自分にはその人並みへと追いかける足すらやっとの思いで動かす様なもので、それすらも不恰好で全然合ってないのだから全然上手くいかなくって自己嫌悪。

 全くもって良くない。

 こんな惨めな自分、間違っても羨ましいと思われる様なものじゃない。


「キミが羨ましくって堪らないのさ。アイツはキミと違って大切にしたいものが在ったからこそ、護る為に“諦めて手放した”側だからね。」


 擦れて自傷的に自分を思考で刺しながら鬱屈とした思考に呑まれていると、マーリンがまた考え事に回答するみたいな言葉を続けた。

 余りにもそのタイミングが良くって“もしかしてこのヒトも心が読めるのでは?”と疑いたくなる気持ちが沸き出してくる。

 それで思わずじとりと疑惑の眼差しを向けてしまうと、キョトンとしたマーリンが「どしたの?」と返してきた。


 嘘を見抜く事が出来る名無しには、そのマーリンの様子に虚勢や嘘が無い事がハッキリとそこで理解する事となる。

 そうして彼の言う“知っているから解る”という言葉の意味に納得せざるをなくなってしまい、見極める為に細め見詰めていた疑念の眼差しを解いて首を横に振る形で何でもないと意思表示にて返した。


 その名無しの様子に「ふーん?」と溢すマーリン。

 上目遣いで此方を見詰める目が次第に細められ、その下の口が逆さまの半月みたいな笑みへと変えると意地悪そうな笑い声を溢した。 


「にひひ、もしかして心が読まれてるって思った? ざぁんねん、ボクにそんな力はないよぉ。」


 図星。

 ぎくり、と顔を強張らせるとマーリンはニタニタ笑いながら追い討ちをかけてくる。


「名無しはねぇ、正直者過ぎて“顔”に出やすいんだよ。考え事してる時、キミってばずっと百面相してるの気付いてる?」


 そう言ってマーリンは名無しの頬を突ついた。

 ニヤニヤニマニマ、からかい面白がる声に初めて指摘された自身の癖に思わず顔がより強張っていく。




 恥ずかしい、顔に出ていただなんてこれっぽっちも気付かなかった……!




 熱を感じられない彼だからこそ、“力んでいる”としか感じられないその顔の強張り。

 彼自身自分の姿は見えないので本人にその自覚はないが、名無しのその顔は朱に染まっていた。


 俯きだす前のめりな頭に羞恥から引き吊る頬を両の手で覆い隠す。

 途端堪えきれなかったみたいに噴き出してはくつくつと笑い始めたマーリンに思わずぐぬぬ、と名無しは顔を引き釣らせた。

 疑いたくもなるけれども心当たりが無い訳でもないのだ。

 彼が嘘を吐いていないことからしても、自分は自分で思っていたよりも表情豊かだったんだな、と胸の内にて思ったのだった。


 そして次に考え始めたのはあの“少年”のこと。

 ずっと気になってしまって仕方がないのだ。


 彼は自分に“嫉妬”していると聞くけども、名無しには“嫉妬”の心は解らない。

 蛇の神として奉られた現人神だった彼だが、その実態は蛇の“脱け殻”の神。

 元より中身がないのだ。

 故に蛇が象徴とする“嫉妬心”が彼には無い。


 “羨ましい”なら解る。

 だって自分は他人にそう感じて“自分もそうなりたい”と願って歩く事を決めたのだから。

 それを、妬んで他者を蹴落としてまで這い上がろうとするなんて……。


「(…………うん? なんか、引っ掛かる様な?)」


 思考に耽りながら無意識に自身の唇に触れる。


 あの時“かぷり”と噛み付いた少年の頬。

 浴びせてしまった“呪詛”を回収するべく行ったあの行為で、混じって此方の体内へと流れ込んできた“異物”。


 “感情”だ。

 それも特大の“嫉妬心”。


 蛇が現すものが“嫉妬”ならばその感情も“邪”となり名無しの餌食となる。

 故に初めて口にしたとびっきりの“感情”に呑まれて、尚更あの時の名無しは“釣られて”しまったのだ。


 普段から彼は“感情”を主に餌にしている訳ではない。

 何故ならば“賢者大精霊”の自覚がないのだ、まさか感情を糧にしているなんて事は思いもよらない。

 だからこそ身体の内側に響く声音の優しさが酷く胸に染み渡ったり、溜め込んだ憎悪が身体の中を掻き回す渦に酷く苦しんだり、毎夜自分に集る亡霊達の生を求める渇望の感情にこれ以上無い“飢餓感”と、熱を失せていく死への“恐怖心”を擦り付けられて絶叫してしまう程の苦痛を覚えるのは彼が元は“賢者大精霊”だったからこそ。


 しかし名無しは元の自分──半男半女神たる“黒い雌鶏ラプル・ノワール”だった頃の記憶が無い。

 否、曖昧にぼやけて霞んでいてよく解っていないのだ。

 確かに生まれ変わって別人になりかけてこそいるけれども、それも“過去の出来事”から失いかけた彼の元在る自我が引き戻されており、それ故に中途半端に戻りかけていた。


 本来ならば“黒い雌鶏ラプル・ノワール”は等の昔に消えて失くなっていた。


 黒い海に溶けてしまってすっかり自我が失せていたのだ、もう二度と戻る筈がなかった。

 それを“二度”引き戻した人物がいたからこそ、彼は“壊れて”此処に存在していた。




 Cogito, ergo sum./我思う、故に我あり。




 それこそが壊れた彼の存在証明。

 まだ幽霊で死んでいるのに生きている、曖昧模糊の存在だからこそ彼はそれを続けなければならない。


 今の願いは“生きていたい”だ。

 だからまだ“死にたくない”。


 故にこそ彼は考える事を止められない、止める訳にはいかなかった。

 そうして思考し歩き続ける彼が、いつか考える事を止め無知へと戻ってしまったら──その時は彼の最期だ。

 これでループを終える事を約束されたこの世界に、彼が表舞台へと現れる事はもう二度とないだろう。




 だから今も、彼は思考する。

 誰よりも“人間”臭い彼が、人として人らしく在る為に。




 解けども解けども次々に浮かび湧いてくる疑問。

 名無しは頭の中で悶々と思考を巡らせていく。

 ぐるぐると頭も首も回しに回して、声を出せない状況で悩み事考え事に頭を抱えた。


 脳裏に沸いた疑問符に名無しが違和感を感じれど何処に引っ掛かりがあるのか解らない時には、どうしてかは知らないけれども自分を知ると言うマーリンがそのごちゃついた混乱する思考を整理するかの如く言葉を交える。

 彼の助力で行き着いた疑問に思い悩めば、決して彼の代わりに答えを出してくれる訳ではないけれどもそこまで導いてくれるかの様な助言を時折交えてくれた。

 そうやってマーリンは名無しの頭を悩ますその自問自答の繰り返しに、そっと寄り添う様にして付き合い続けてくれるのだった。


 沸き立つ疑問点に考えを巡らす中で、どうして彼はこうも真摯に自分の悩みに付き合ってくれるのだろう、とふと思考を逸らした。


「(そういえば、このヒトはおれを知ってるって言ってたけど……何処かで会ったっけ?)」


 ちらりと彼を見遣って、その全く見覚えの無い彼の姿にまた首を傾げる。

 その視線に気付いては「んー? どしたの?」と自分と同じ方向……鏡合わせに首を傾げたマーリンのキョトンとした顔と視線を合わせた。


「(……やっぱり、何処からどう見ても“知らない”顔だ。)」


 じっと見詰め合っていても一切の心当たりの無いその風貌と、名無しにとっては強烈にも感じさせる自由奔放で個性的なその性格。

 名無しは疑問符を浮かべる頭をまた反対方向へと傾ける。


 すると向かいのマーリンは真似するみたく鏡合わせに動きを合わせては同じ速度、同じ方向へと彼もまた頭を傾けたのだ。

 その仕草に虚を突かれ、訳も解らず只じっと見詰める名無し。

 相手も自分をじっと見詰めたまま動かなくなってしまった。

 互いに鏡合わせで頭を傾けてにらめっこ、固まる二人。

 そんな不可解な状況に「……?」と呆けた顔でいると、じわじわと笑いが込み上げてきてしまったらしいマーリンが軈て「ぶはっ」と破顔した。


「キミさぁ、からかわれてるのも解んないんだねぇ。まるで“あのヒト”そっくり! 12年も一緒に居て、馬鹿真面目なのが移っちゃったのかな?」


 腹を抱えてケラケラゲラゲラ。

 それでもって大声を出してしまうと外に聞こえて仕舞うので、片手で口元を多いながら大笑いするのは堪えるマーリン。

 涙混じりになる程の笑いを噛み殺しながら身体を震わせる彼に、名無しはその言葉から自分が面白がられていた事にやっと気付く。

 そして物凄く愉快そうに声を我慢して笑うマーリンに、声を出してはいけないと言われ直接自身の口から文句を言うことが出来ないからと、不服であることを表す為に頬を膨らませた。

 むすーっと不満である事を露にしてじと目で睨む名無しに、ヒィヒィ笑っていた彼が「ごめん、ごめんって!」と涙を拭いながらその頬をもう片手で突つく。

 すると口の中溜め込んでいた空気が“ぷすーっ”と漏れ出しては間抜けな音の笛を吹いた。


 その風船から空気が抜けていくかの様なその仕草に、互いの顔を見合わせていた名無しとマーリンは一時の間沈黙。

 そしてどちらが先だったか解らぬに程、ぴったり同じタイミングで二人は吹き出すようにして笑い出した。


 互いに口を押さえて片や腹を抱え、片や地面を叩き、声が出せないのが惜しい程に無性に込み上げてくる笑いに喉を震わせ肩を震わせる。

 今なら箸を転がすだけでも笑ってしまいそうな気分だ。

 先程まで散々鬱々としていたのが嘘みたく思える程に。


 ああ、苦しい。

 苦しくて苦しくて──それなのに可笑しくって堪らない!


 決して笑っていられる様な状況ではないと言うのに込み上げてくる笑い、思わず笑い涙が零れそうになってしまう。

 目尻にじわりと浮かんだその雫に「しまった」と名無しは慌てて袖でそれを拭い取る。

 身体の中に残る黒い水を外に出さぬ様抑え込んでいたのだ。

 こぼしたそれがあの外にいる“何か”の様に意思を持って、この密室空間の中で暴れ出そうものなら堪ったもんじゃない。

 だからとまだ滲む程度にしか表へと出てきていないそれを吸いとらせた袖に、もう一度体内へと押し込もうとそれへ口を近付けた時だった。


 ぱしん、と掴まれたのは袖を涙で汚したその腕。

 口付けようとしたのを止めるような形で奪われたそれに驚いて口を開けたまま固まっていると、名無しの腕を取り上げたマーリンが笑い過ぎて溢れた涙を袖で拭いながら此方を見詰めていた。


「もうその必要はないよ。」


 漸く落ち着いたばかりだったらしいマーリンが、息を調えるのに吸い込んだ空気を吐き出しながらそう呟く。

 しかし名無しにはその意図が解らない。


 何故?


 名無しの身体の中に溜め込んでいた黒い水は“不浄なるもの”だ。

 呪い、憎悪、悪意、混沌──ひたすらに“善からぬ”ものをかき集めては封じ込めごたまぜにした忌むべきもの。


「(こんなもの、出しちゃいけない筈なんだ。それなのに──“必要がない”?)」


 解らなくって顔をくしゃりと歪める名無し。

 それに、それ以上は何も言わないでじっと見詰めていたマーリンが徐に視線を落とした。

 その眼差しの先には涙を拭った袖のある腕。

 名無しはそれに釣られてしまい、同じように視線を落とすのだった。


「(……あれ?)」


 セピア色の視界に映った自分の袖。

 そこには涙を拭ったからこそある筈の“黒い水”で出来た染みは無かったのだ。

 代わりにあるのは服の色を少しだけ濃くしたものがポツンと一つ、それは黒と言い表すのには薄過ぎるもの。


 名無しはそこで気付くのだ。

 身に付けた服の色が変わっている事に。


 セピア色の視界の中、マーリンの服の裏地の月の石明かりがぼんやりと照らしてくれた、嘗て片割れが自分に施し与えてくれたその衣裳──その色。

 瞬間、思い出すのはあの日の出来事。

 出逢ったばかりのあの奇跡の瞬間。






『わー、綺麗な色。青だけど空の色とは少し違う?』


 与えられた衣服のその色が眩しい程に綺麗で、それを写した目も輝くような感動をあの時確かに覚えた。

 あの時の空は少しばかり暗がり始め。

 青がまだ残りつつも僅かに橙・赤・黒と色変わりしていく様に、複雑な色彩へと染まり始めていた。

 だからこの両の手を空へ翳した所で混ざり合うなんて事はなかったからこそ、あの時の自分はそう溢したのだった。




『勿忘草という花の色だ。御前に良く似合うな。』


 何でもない様な顔をして素っ気なくも、それを口にする彼の目も眩しそうに細められていた。

 あの時はそれがどんな“意味”があるのかは解らなかったけど、それも今の自分には理解出来る。

 あれは……そう、何か“懐かしむ”様なそんな眼差し。

 嬉しげなのに寂しそうで、悲しげなのに愛おしそうに。

 複数の感情がごたまぜになって、とても複雑な色をした声音が脳裏に響いていたのがとても印象的だった。




『へえ……わすれなぐさ、どんな花なんだろう。』


 それを言い溢した時にくしゃりと酷く歪んで崩れた彼の表情、今にも泣き出してしまいそうな……そんな顔。

 あの時はどうして彼がそんな顔をするのかが解らなくって、只泣いて欲しく無かったからと話を逸らして“誤魔化し”たあの時の出来事。






 セピア色ノスタルジーから想い出に浸りやすくなっていた名無しの心、映る景色がヴェールを捲り上げる様に緩やかに色付いていく。


 じんわりと身体の奥から滲み出すみたいなその色移りしていく視界は、その変化の速度がとてもゆっくりで気付くのが遅れてしまっていた。

 いつの間にか“単色”ではなくなっていたその景色に、自身が身に纏う服とその周りに散らされていた花弁達に塗られた確かな色を見て、今までずっと堪えていた涙がまたぽろりと頬を撫でた。


「(……青、青だ。おれはこの“色”を知ってる……ロヴィと似た色だけど少し違うのに、ロヴィの“空”と同じ色……!)」


 思わず嗚咽が溢れそうになって口元を覆う。

 肩を震わせ背を丸め、込み上げてくる涙が視界を揺らす。


 地べたに転がるマーリンが吹雪かせた幾つもの花弁と、握り締めたままでいた散っていない花の塊、それからその色と同じに染められた衣服。

 そこへ落ちた涙が淡い青を濡らして“勿忘草色”の服を少しだけ濃い色へと染めていった。


 何故? どうして?


 その色と花を見ていると無性に胸が苦しくなっていく。

 息が出来そうに無い程に苦しいのに離しがたくて、狂おしい程に愛おしくて、辛くて仕方がない筈なのに口元には笑みが浮かんでしまうのだ。

 何もかもが目茶苦茶だ。

 全く違う感情が一緒くたに波になって押し寄せてくる。

 今まで堪えていた分止められそうに無い程溢れだした涙と共に、奥底から込み上げてくるその感情に頭の中が掻き回される。

 そして折角我慢していたのが“台無し”にされてしまう。


 自分の中の“何か”がぶち壊されていく。




「──思い出したかい?」




 涙を溢す顔を持ち上げて、自分に声を投げ掛けたマーリンの顔と合わせる。

 その表情は何の感情も映さない無だったけれども、自分へと向けるその眼差しは何処か慈しむかの様な温かな想いを帯びたものだった。


「まだ、みたいだね。……じゃあこうしてみようか。」


 そんな曖昧な表情を浮かべて涙を流す自分を見詰める彼は、自分の袖の掌から花を摘まみ取り上げた。

 するりと容易く掌から奪われたそれに、水の膜で歪む視界であれど名残惜しげにその行方を視線で追っていく。

 持っていかれた花の行き先は名無しの耳。

 マーリンはその耳の裏と澄んだ色の髪の間に引っ掛けるみたく、簪の様にその花の茎を差し込んだのだった。

 

「……うん、綺麗だ。そのままでも十二分に綺麗だけど、やっぱり着飾り甲斐のあるキミにはその色が一番似合うねぇ。」


 無から崩してへらりと笑ってみせるマーリン。

 その言葉にまた涙は混み上がってしまい、名無しはくしゃりと顔を歪めた。


 解らない。

 どうしても解らない、喉まで出掛かっているというのにそれだけはどうしても“答え”に辿り着けないのだ。

 それでも中途半端に足を踏み込みかけたその問いの“終着点ゴール”は、その軌跡に触れれば触れる程に胸を締め付けて頭から離れさせてはくれなかった。

 自分が手放したくないからだ。

 掴み掛けたその僅かな“糸筋”に、諦めきれない自分は必死に掴んだままそれにしがみついていた。


 忘れるものか、忘れてなるものか。

 一度はこの手から離してしまったそれに、再び手繰り寄せる事が叶ったその奇跡に、名無しは思考する事を辞められずにいたのだから。




 故に、そこに“無知なる者”など居なかった。




 そして顔を覆って地べたに突っ伏してしまい声もなく泣きじゃくる名無しに、そんな彼とは反対にマーリンは立ち上がる。


「さぁ、のんびりするのはここまでにしておこうか。話の続きは“また後”で。いつまでも閉じ籠っている訳に行かないから、ちゃちゃっと終わらせてしまっちゃおう!」


 そう言った彼は腕を横へ伸ばし、その先の長袖の掌へと魔力を収縮させると先端にあるドリームキャッチャーの頭が目印の捻れ幹の杖を出現させる。

 そしてそれを手に前方へと向けて名無しの頭上へと杖を振り翳した。




「ボクが“鬼”の番はこれで終わり。次はキミが“鬼”の番──キミがその鬼の“贄”だ。」




 彼がそれを言い締め括ると同時に杖の末端を人形へと突き刺した。


 途端に“どくんっ”と跳ね上がる脈動。

 ナイフを胸へと突き刺された様な錯覚を起こしたのは“名無し”だ。

 その衝撃の錯覚を覚えた胸元から、破裂したかの如く自分の中から“何か”が込み上げ溢れ出すのを感じた。


「───ッ!!」


 身体が痙攣する、身体が弓形にしなる。

 抑えた胸元から見えないものが吹き出し抜けていくと同時に身体からはどんどん力が抜けていく。

 その苦しみというには痛みはなく、只々衝撃を与えてくるだけのその感覚は余りにも凄まじくて視界をチカチカと白く瞬かせた。

 堪えていた声を我慢しようにも、そもそも刺激が強すぎて声が出ない。

 力が失せると同じく手足が痺れるみたいなものを感じたその時に、自分から抜けていっているものが“熱”である事に気付く。

 痺れる手足が氷の様に冷たく、寒くて仕方がないのだ。

 “痺れる”から“凍える”へと変わっていこうとするその熱が奪われていく感覚に、辛うじて沸き出した恐怖心から思わず抗おうと身体を屈め胸元の服を握り締めて彼は歯を食い縛る。

 しかしそれもまた力が抜けてしまう。

 “色”すらも抜け落ちていっているらしい。

 たった今感じた思いすら薄れてしまっていくのだ。


 寒い。

 寒くて……眠い。


 ぼんやりとしだす頭に、意識を溶かしていく微睡みの様な眠気が帯び始めた。

 抜けていく自分の中身と緩み出した自我、それから意識を食い止める底蓋。

 中身が詰まっていればその自重から抜ける事はなかったそれが、抜けて軽くなり始めた器から押さえがなくなっていくそれに、思考も意思も命を懸けても良いとすら感じる程の決意すらも、段々揺らぎが生じていく。


「名無しぃッ!!」


 不意に、怒鳴る様な大声が洞窟内を響き渡る。

 失い掛けた自我を引いて起こすその声に、そこへと視線を向けるべくゆっくりとぎこちなく頭を持ち上げた。

 人形に杖を突き刺して、そこへ自分から抜け落ちていく“熱”と“色”を注ぎ混んでいたマーリンが吹雪く風を纏いローブを靡かせながら名無しを険しい顔をして見遣っている事に気付く。


「歯ぁ食い縛れッその“色”だけは絶対に手放すなよ! 途中で諦めたりなんかしたら──ボクはオマエを許さないからな!!」


 睨み付ける様に、怒る様に、形振り構わず大声で叫ぶマーリン。

 彼の身体は吹雪く風に身体が凍り付き始めては、それに苦悶の表情を浮かべていた。

 その言葉を聞いてもぼんやりとしていた頭に、冷たい風が顔面を強く叩くように吹き荒び思わず目を開けていられずにくしゃりとしかめる。


 その時に閉じた目蓋の裏に一瞬映った見知らぬ景色。

 真っ青な花畑を上空から見下ろす光景だ。

 知らない筈の景色に、浴びた冷たい風に“片割れ”の気配を感じた気がした。




 ──忘れないで。




 するとその拍子に顔の傍で何かが滑り落ちていこうとするのが視界の端に映った。

 気付いたと同時にそれはポロリと溢れ落ち、名無しは反射的にそれを掴み取ったのだった。




 ──かしゃん。




 咄嗟に出した袖から露にした真っ黒な掌。

 それはいつもなら誰にも見られたくなくて、その穢れを隠すように袖で隠していたのだけれども……いつの間にか色が落ちて、真っ黒な筈の掌は真っ更に変わっていた。

 

 その手で握り締めて掴んだそこから聞こえた砕ける音に、胸の中をサッと血の気が引く想いを起こすのを感じる。

 風に吹き飛ばされぬよう握り拳を僅かに開かせていく。

 そこには凍り付いていた花が無惨にも砕け、粉々になってしまった有り様があった。




 ──置いていかないで。




 途端に胸を占めるのは強い悲しみ。

 大切にしたかったものを手放すまいとすがろうとして、それが不幸にも“台無し”にしてしまう原因となってしまう悪循環。

 溢れても凍り付く涙を溢しながら抜けていく中身に、只々呆然とする名無し──ではなかった。




 ──諦めるものか。




 再び掌を握り締める。

 ざり、と手の内で破片が擦れ合う微かな音。




 ──手放してなるものか。




 持ち上げた腕。

 天を仰ぐ様に洞窟内の天井を見上げた名無しの頭上に翳す拳に、開けた口へと手の中の破片達を押し込んでいく。




 ──屈してなるものか。




 放り込んだ口内の破片達。

 異物を拒もうと込み上げる嘔吐感に構わず、喉仏を上下して飲み下すと吐き出さぬ様にその口を塞ぐ手。




 ──おれは……おれは“生き延びる”事を選んだんだ。


 だから例えこの身が既に死んでいようが、絶対に“去る”ものか──!!




 燃える決意に対抗し逆巻く氷点下の猛吹雪。

 洞窟内全てを凍え凍り付かせていくその凍てつく空気から、ピシリピシリと音を立てて氷柱が至る所へと生え伸び始める。


 それは名無しの身体にも影響を及ぼしていた。


 中身が抜けて段々と色素を失くし、溶け出そうとしていた肉体が凍り付き始めたのだ。

 表面からは氷の棘が無数に突き出すみたく出現し、まるで氷の檻がそれを逃がすまいと押さえ込もうとする様。

 身体を溶かした矢先によりどんどんと凍り付かせていく氷結すらも溶かそうとするその中心から放たれる熱波に、反発し合う熱と氷に水蒸気が白く辺りを煙らせて視界を遮って曇らせた。

 その白い霧の向こう側から見える影には、これでもかと冷気が彼の身体を凍てつかせて氷の棘でその身体を覆い隠しては伸びたそれが空を刺す。

 ビシビシと音を立てて軈て元の形が見えなくなる程に鋭利な氷柱に包まれていくと、遂に一切の丸みを失くしたそれは自らの質量に耐えきれなくなったかの様に“パンッ”と自壊、破裂した。


 砕け散った氷の破片がダイヤモンドダストの細やかな破片がキラキラと、白い霧の中で星空の様に瞬きながら宙に浮く。

 その粒達は漂う様に空気に身を任せていたのが突如纏まりを見せたかと思えば、自らその口に収まっていくかの様に人形の中へと吸い込まれていった。


 ……否、それは吸い込ませていったと言うよりは、人形に纏われ取り込まれていったとでも言える様な光景だ。


 人形へと集まった氷の粒が人の形へと成していき、軈てそれは確かな姿を持ってマーリンの目の前へと現れる。

 名無しと同じ様にも見えるその姿。

 しかしその“表面”は今までの彼とは余りにも違い過ぎた。


 一見先程通りの姿にも見えてしまうその姿には、幾つもの細やかな多面が犇めいていた。

 ひび割れつつも陶器の様に滑らかな素肌だった所には、同じ形の面が並び合って折り目には僅かながらに角が立っているのが見える。

 遠目ならば流線をなぞる様であったとしても、身体中を包むその細やかな鱗の如き表面が反射光を放ってその存在を主張しているのだ。


 皮膚も髪も全てに置いて曲線が無かった。

 その多角形で織り成す澄んだ水晶体の肉体は、元より持ち得る極上の美貌も相まって、さながらカットされた人形ひとがたの石──“宝石”の如き風貌へと変質させていたのだった。

 そんな彼の足元には極彩色のスペクトルを見せる虹の影が地べたを差していた。




 肉体を得たばかりの“それ”は沈黙する。

 しん、と静かにそこに佇み、少したりとも微動だにしない様は一見宝石で出来た“石像”だと思わせてくる程。


 しかしそれも束の間の“平穏”だ。

 軈てその“静”であった状態が破られる事となる。


 その水晶体の“獣”がゆっくりと目蓋を持ち上げていったのだ。

 その瞳に映る色は光をも吸い込んでいきそうな真っ黒さ。

 深淵の如く深い深い暗黒の双眸に光が映ることはなく、只ひたすらに虚空と虚無を内包している様だった。




 いつかどこかで起きた“事象”に、それが反応する“条件”が一致した様らしい。

 心の支えである“歌”と生まれる前より与えられた溢れんばかりの“愛情”が無いまま、空の器を身に纏ったそれは“飢えた”状態で目を覚ましてしまった。




 与えられた物を受け入れ、望まれた通りに身を委ね、本来障害となる筈が色盲から得たもの全て色を失せさせながらどす黒い感情すらも難なく受け入れてしまう“純粋さ”。

 そして本来ならばその溜め込んだ“不浄”により心身共に歪んでしまう様な“害”すらも、その意味を知らないからこそあろうことか無効化してしまう圧倒的な“無垢”さ。

 それは鉄壁とすら表現しえる程の頑なさがあったからこそ、それは慈悲深くも“無情”で在れたのだ。


 しかし今はそう上手くいく事はないだろう。


 以前の様にそれの腹が今も満たされていれば、薄ら笑みを浮かべたまま何を餌にする事なく空腹を覚える事なく只そこに在るだけだった。

 そうではないそれは、その腹に“願いを叶える機構”と共に納められた不浄を食らう“獣”に意識を呑まれ、それがかつて従えていた“主人”から言われた通りに本能に沿って動いてしまうのだから。

 故にこそ、その“獣”が感知した自身の縄張りテリトリーに踏み込んだ上で逃げていこうとする“餌”──否、それが感知出来る“範囲”内で一番手短な“自身”を取り込む捕らえるべくそれは“狩猟”を開始する。


 腹の内の“獣”の好みに合わせて再構成された、苗床たる宿主の角張った肉体がきしきしと軋ませながら徐に腕を持ち上げていく。

 途端、その腕の下の凹凸の多いなだらかではない地べたのその一角から、白く煙る霧を遮って黒い煙が細やかな砂埃が舞い上がるかの様に噴き出した。


 それから辺りに漂い始めるのは、鼻腔の奥を刺してくる強い刺激臭。

 同じ空間にいたマーリンが思わず袖で口と鼻を袖で覆ってしまう程の不快感を煽るその悪臭を放つその煙は徐々にその濃度を増していった。

 するとその濃煙の中に、今いる洞窟内とは全く違う別の“景色”がぼんやりと浮かび上がったのだ。


 その景色と共に映っていたのは二つの影。


 何処からともなくその場所へと現れたそれらは、その地に降り立った瞬間片方がどさりと崩れ落ちた。

 直ぐ様小さなもう片方の人物が倒れた大きな方へと駆け寄っていく光景だ。

 その濃煙の映像から音はなく、此方には何も聞こえないがどうやら小さい人物は大きな人物へと必死に声を掛けている様子だった。


 その濃煙を引き起こした水晶体の“獣”は映像の様子には目も暮れず、側にいるマーリンに気付いているのか、はたまた興味がないのか一切見向きもしないままに不快臭のするその濃煙の中へと身体を沈めていった。


「(やっぱそこに行っちゃうかー……まあ、想像してた通りだけど。)」


 胸の内にてそう呟くマーリンは息を潜める。

 それは“糸”で繋いだからこそ感じる“それが自分自身だ”という、他者の気配に感じられない感覚を逆手に取り白い霧に紛れて身を隠していたのだ。

 彼とてそれに見付かってしまえば、目を付けられてしまって運悪く狩られてしまいかねない。

 同じ空間に在りながら別のものに気を引かれ、此方に気付く間もなく“狩猟”へと向かっていくそれを静かに見守り続けていること暫く、濃煙の中へ消えていったそれが映像の中で姿を現していく様がそこに映った。


 煙は引き起こした“獣”が居なくなった事で徐々に霧散していこうとする中で、映像には真っ直ぐに二つの人物の元へと駆けていった“獣”がそれらに襲い掛かっていく様子が流される。

 それが迫っている事に気付いたらしい小さな人影が咄嗟に四肢を振り乱しながらも逃れようとするも、形を崩して真っ黒な煙の如き姿へと変貌させた“獣”に呆気なく捕らえられてしまった。

 それを取り込もうと呑み込んでいく黒い煙の中からは小さな腕が助けを求めるように伸ばされるけれども、それに応えてくれる“誰か”は居らず、無惨に食い殺されていく様を此方へまざまざと見せ続けていた。

 その映像は途中でプツンと途切れたと同時に、役目を終えた煙は完全に消え去っていき見えなくなった。

 それからは白い霧も徐々に晴れていき、漸く視界が晴れていくと息を潜ませていたマーリンもその姿をハッキリと現した。


「──ふぅ。」


 しん、と静まり返った洞窟内でマーリンは止めていた息を吐き出す事が叶い、強張らせていた身体から緊張を解く。

 首や腕を回してはストレッチし、嫌なものを見せられてむなくそわるい気分を紛らわせると彼以外眠るロヴィオしかいない空間でその口を開いた。


「もう喋っても大丈夫だよ、“身代わり”はもう別の場所に行ったから。」


 何もない空間へと投げ掛けられたその言葉。

 洞窟内で僅かに反響しながら虚空へと向けて溢したそれに、少し間を置いて遅れて反応したかの様に微かな物音が響いた。


「──……。」


 ささやか過ぎて聞き取れない程の音だ。

 水のせせらぎよりも小さく、風に揺すられた木の葉のささめく音よりも些細な物音は、どうやらすすり泣きの声の様だった。


「……名無し、大丈夫だよ。キミが恐れているものはもういないよ。安心して出ておいで。」


 マーリンはその微かな物音に耳を澄ませながらも声をかけ、姿の見えないそれの居場所を探るべく今までその人物が立っていた場所へと歩みを進める。


「──……の、」


 漸く声が返ってきた。


「……おれの、からだが……すがたがないの……。」


 涙混じりの声は震えており、酷く怯えた様子でそれはマーリンへ返答をした。


「どうしよう……おれ、いまどこにいるの……? おれ、ちゃんとここにいる…?」


 ぐすん、ぐすん、としゃくりあげながらささやかな言葉を溢し「消えたくないよぅ」「誰にも見付けてもらえなくなっちゃう……」と不安な気持ちを吐露する声に、それを頼りにマーリンはその周辺を見て回る。


「大丈夫、大丈夫だから。良い子だからそのまま“声”を絶やさないでねー……絶対、ぜーったい、キミの事見付けてあげるから……!」


 そのマーリンからの言葉に、泣き声はより強くぐすぐすと声をあげた。




 不安だろう、誰にも気付いて貰えないのは。

 寂しかろう、姿も無しに誰にも触れて貰えない“声”だけなんて。




 その苦しみは自分が一番知っている。

 だから彼は名無しを見捨てなかった。






 *****






 脳裏に浮かぶはいつかの出来事。

 今はなき、既に“無かった”事になり消え失せた事象。


 嘗て全てを救いきった人物がいた。


 片手には刃のない剣、それは誰一人として傷付ける事はなく。

 傍らには見えない猫と傷付いた鳥を引き連れて、彼自身いつだって犬のように誰かの側に寄り添って。

 いつだってにこにこと笑みを絶やさず、格好付けたような詩的な物言いで場を和ませて。


 誰もがその人を慕っていた。

 誰もがその人から救われていた。


 目に映るもの全て善も悪も関係無しに、あらゆる人々の不幸を取り除き幸福の大団円へと導いたその人。

 彼はその人物を知っていた。




 その人は全てを救った後、誰の手も届かない場所へと至った。

 そして姿も名前も存在すらも失せて、とても遠い場所で揺蕩うだけの“声”だけ遺して世界の全てから忘れ去られた。




 ──居場所の無かった姿なき彼に、その名前と存在を引き渡して。




 いつから始まったのか椅子取りゲーム。

 敗者は勝者に席を譲られていた。

 ボクがキミで、キミがボク。

 負けたらサヨナラ、舞台を退場。


 消えるのは自分の方だった筈、なのにどうして彼が消えてしまうんだ!

 ……救うつもりが、逆に救われてしまっていた。

 掌踊る間抜けな道化は自分自身なんだって、気付くのが遅すぎたのです。




「(あんな“結末”認めたくない。だから、ボクは──。)」




 いつか誰かが思い描いた理想の姿のキミ。

 ボクはキミを救いたい。





 *****






 嘗ての記憶を思い起こしながら、唇を噛み締めたマーリンは真面目に真剣に、姿を失くしてしまった名無しを探し続ける。

 うろうろ、キョロキョロ。

 ローブ裏地の月の石明かりを少しだけ溢しては辺りを僅かに照らしながら見回す事暫く。

 ゆっくりと視線をスライドしていく最中に、不意に一瞬だけ、一部の景色に“揺らぎ”を見た気がした。


「……ここかな?」


 そこには確かに何もなかった。

 何もないけれども音だけは確かにそこから響いてきていた。

 その子供が必死に声を殺しながら涙を流すかの様な物音に、漸く大体の位置を掴んだマーリンはその場所へと杖をゆっくり傾けた。


 彼の後方から冷たい風が吹き起こる。

 それは杖の向けた先へと流れていくと、何かを囲って小さな旋風を作り上げた。

 些細であれど小さな竜巻の様に氷の粒を伴いながらくるくると逆巻いていく風のその中心、何も無い筈の空間だと言うのに舞う氷の粒が一定の場所へと差し掛かると溶けて雫となり地面を濡らした。


「やっと見付けた。……名無し、そこにいるんだね?」


 ぐすん、と泣く声が返ってくる。

 声は確かにその位置から聴こえてきた。


 ゆらりと揺らめく透明な“影”。

 酷く薄いヴェールを靡かせる様に揺らめく焔の先端で、透かして見えるその先の歪んだ景色。

 それは澄みきった色をした“火の玉”であって、温度が高過ぎて元在る色すらぼやけてしまったそれは“陽炎”を映していた。




 彼が必死になって掴み取った色、勿忘草の花と同じ色。

 それは空と同じ色をしたから色。

 光の反射から青く見えるようでも実際には色なんてない、何も無いからこそ宙に浮く小さく微かな水分に色を移ろわせる空のように染まりやすい──“無色透明”。




 マーリンはそっとローブ裏地の光を隠す。

 するとうっすらと浮かび上がるほんのりとした淡い青。


 それは光在る場所ではその姿を映せない。

 明るい場所では姿が辺りの光と同化してしまって、その“火の玉”である本来の姿を上手く正しく目に見せてくれなくなるからだ。

 だと言うのに彼は仮初めであれど“姿”を持ってしまったからこそ、在り方を崩した彼は壊れてしまった。

 “空”であるロヴィオは“太陽”でもある。

 そんな光の強い彼と居るには“火の玉”の姿は余りに都合が悪すぎたのだ。


 生前“獣”に追われ続け心を折られ食い殺された挙げ句、“獣”の腹の内である不浄の沼──不浄にまみれた胃の底に沈まされてはその身体を崩し溶かされていく“恐怖”は今も彼の魂に染み付いている。

 そしてそのトラウマとして残る程の“恐怖”に付随して彼に残っていたのが、誰にも見付けて貰えない“心細さ”と“恐ろしさ”だった。

 姿がないというのは、誰にも気付いて貰えない“独りぼっち”に成ることだ。

 何があったのかを忘れて朧気になった今でも彼はその“苦痛”は覚えていた為に、無情として生まれたその体内に残っていた残思が呼び起こされた時に、生け贄たる“贄”はその在り方を崩したのだった。


 彼は何も知らない筈だった。

 それが誰かと共に笑い合うことで、共に在る“喜び”を思い出した。

 誰かと共に居ることで、一人になった時の“寂しさ”を思い出した。

 だからもう一人でも平気だなんて、嘘でも言えない。

 生前には満たされていて感じられなかった“飢え”は、名無しにも無情にも“歪み”を与えてその間を分か断ったのだから。


 元の自分を捨ててでも──本来その肉体に宿るべき人の心がない自我生に執着のない無情から席を奪って成り代わってでも、再び巡り逢い“片割れ”となった彼と共に在りたいと願う程に。




 そうして“高い位置”へと逝くべき彼がとても“低い位置”に墜ちてしまって、その特性をひっくり返してしまったのだ。

 宇宙では透明を表す黒、それが地上の真っ暗闇で姿を隠す黒へと。

 だからこそ彼は“本来の姿”へと戻ることを、消えてしまう身体を失くすことを酷く嫌がる様になってしまったのだ。


 今までの彼はそうやって誰から見付かる事もなく、“忘れ去られる”事で消えてなくなっていったのだ。

 無情は宙の海へと還り、善も悪も等しく愛でながら永久の虚無を苦もなく過ごす事へとなったとしても、彼だけは天に返れず、地に埋もれ、誰の目に留まる事なく残した痕跡すら無情のものへと塗り替えられていく。

 元より物語に介入出来ない“賢者大精霊”だからだ、彼が地上で生きた証は等しく無に消されていってしまう。

 無情の身体に残っていただけの“願いを叶える”機構として、無情が去った後には誰からも“願って見て”貰えないまま。




 嘗て自我を失せていたのは名無したる“黒い雌鶏ラプル・ノワール”。

 今自我を失せてしまっていたのは生にすがる意味のない“無情”。

 それはたった今、二分割に──別人へと二つに分けられ、存在する様になった。


 同一人物だったのが別れて各々が動き出す混沌としていく物語。

 誰が助けを求めようと、どの様な救いを求めようと、寧ろ救いを求めていなかろうと“それ”は動き出したのだ。

 故に、登場人物達の思惑などそっちのけだ。

 彼が手に掴んだ“物語”は誰であろうと“幸福”へと導くと決めたのだから。




 その“救う”対象は“名”を持つ者、全て。


 故に名無しは“404見付からない”ままでいてはいけない。

 故にマーリンは彼を、彼等を導かねばならない。

 思い出させねばならないのだ。

 彼等が忘れてしまった、本当の“願い”を。

 二人が二人らしく在る為に。




 それは神の目に止まらない“誰も知らない物語”だからこそ、物語の中に生き全てを見てきた“彼”だけは知っていても今まで語らずにいた。

 口を割って仕舞えば、辛うじて残っていた“手掛かり”さえも消されてしまうからだ。

 故に至る所に“痕跡”をちりばめさせながらも来るべき時まで──その意を汲み取ってくれる“救い手”が現れるまで、彼は口を閉ざしていた。

 全ての口を閉ざさせていた。


 宙を漂う可視体も不可視体もある無数の魔力。

 それら全ては元を辿れば一つであり、その一つは全てであるからこそ多数の自分という混沌からの自我の狂い──その身に抱えきれぬ程の情報量から度々起こしてしまう“忘却”と“混乱”、それらから引き起こす“自壊”。

 得た姿すら失ってしまう程の自我崩壊を何度と繰り返し、それに苛みながらもそれでも彼は目的の為に暗躍し、全てを見聞きし知り尽くしていた。


 精霊達全てが見てきた景色情報が集まってくる精霊達の最先端──“千貌にして無貌”の原型プロトタイプである彼は全てを知った上で憤り、他とは在り方がズレてに異を唱える“異端児”へと、乗り移った自身を変えさせていくのだ。


 彼もまた多く分け絶った無数に在る別の自分の自我を、転々と“成り代わって”生きてきた。

 その秘めたる彼の特性は、相対した相手に合わせて役割も在り方も変幻自在に変えていくというもの。

 向かい合った付け入った人物にまるで自分の様だと親近感を湧かせたり、それが自分自身であると思わせてくる鏡の様な──“姿見”の様な何かだった。




 そう、まるで何処かの“誰かさん”の様に。



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