30.想い出の花は今も空に。

『お前は本当に良い子で素直で……可愛げがあって良いねぇ。“親”に似なくて本当に良かった。』




 それはいつか何処かで在った“筈”の出来事。

 まだ世界の歴史を書き綴る為の“物語記録”は無く、ハリボテでしかない世界から命が芽吹く前の確かに・・・在った筈の遠い記憶。




『今だけは赦された“地上”なんだ。こんな事は二度と起こり得ない訳だし……折角だ。ぼくが与えた“力”の試運転に、ちょっとばかし競走でもしてみるかい?』




 黒いローブに腕を通した口の広い袖を長い尾羽の様に靡かせながら、朽ち掛けた鳥の羽を燕尾の様に割けたローブの腰部分から生やした彼が振り返った。

 身動ぐ度にはらはらと抜け落ちて、くすんで色褪せた空色の羽が視界を掠めていく。

 前を歩いているその姿は紅葉の様な細い三前趾足では地べたを歩くのが少しばかり大変そうだ、踏みしめる度によたよたと身体を振り子の様に揺らしていた。


 時折風が彼のフードを拐いかけその度に必死に押さえて捲れ上がるのを防いでいたけれども、中から溢れ落ちた長い髪らしき糸の束を半ば苛立たしげにフードへと押し込む姿。

 それは共にいた時間がとても短くとも何度と見る事が多かった。


『だああもおおックソがッ!! 鬱陶しくて敵わないなァコレ! 女みたいに長ったらしいこの髪、一層の事引き千切ってくれようか……!』


 憎たらしそうに歯を剥き出しにして自らの髪に罵倒していた彼に、遠方からそれを制止する声が投げ掛けられる。

 するとそちらへと振り返った“彼”が呼び掛けられた声に怒鳴り声で返した。


『うっせぇ糞兄貴が!! テメーの好みなんざ知るもんか!! そっちだっていつまでも盛ってないで仕事しろッ仕事を!!』


 何をそこまで興奮して罵っているのか、気になり振り向けば砂粒程に見える程遠くから、多くの獣達に囲まれているもう一人の“親”が彼に手を振っている。

 あんなにも遠く離れていると言うのに、どうやって彼の一人言を聞き付けたのだろうか。

 疑問を持つと同時に自分には出来ない事を簡単にやってのける“親”の偉大さに感心してしまう。

 彼等を映す視界がキラキラと鮮やかに映って、どうしたらああなれるのだろうか……なんて事を黙々と考え込んでいると、傍で舌打った彼が“もう相手してらんない”とそっぽを向いては『おいで』と自分を誘った。


『ったく……あの見境無しの糞助平蜥蜴め。生真面目に不真面目で心配性な癖して放任主義だとか……あのどっち付かず、ホントよく解らないったらありゃしない。』


 ぶつぶつと文句を垂れ流しながら目の前を横揺れしながら歩いていく彼。

 それに黙って付いていくと、背中越しから自分に声が投げ掛けられた。


『……お前は“ああ”はなるなよー? 幾ら“天”を司る神聖の“素材ルーツ”を嵌め込んだからって、お前まで同じ様に生きる必要はないんだから。……あの糞蜥蜴もそうだけど、何か“天”属性の神って多いんだよなぁ性に奔放なの。』


 そう言った後に、ぽつりと小さな声が聞こえた。

 きっと自分に言った訳では無いのだろう、『ぼくもヒトの事言えないけどさァ』と偶々耳に入ってしまったその言葉。

 何だか聞いてはいけない事を聞いてしまった気がしてしまい、そこは何とか聞こえなかったふりをして遣り過ごす。


 彼に付いていった事で軈て辿り着いたのは広い草原。

 所々にぽつりぽつりと木が生えた程度、地べたを草花が覆って踏む度柔らかな弾力を感じる障害物の少ない場所が眼前に広がっていた。


『いよっし! んじゃ、一丁本気で並走ドライブデートと行きますか!』


 草原を前にした彼がそう言って両足を叩いた。

 くるりと振り返った顔は被ったフードで鼻より上は影に包まれて見えないけれども、唯一彼の表情をはっきり映してくれる口元にはその薄い唇に弧を描かせており、それで彼が笑んでいる事だけは解った。


 しかし“本気で並走”とは言われた所で、そのあしでは走れそうだとは思えない。

 腰に生えた翼とて、見たところ飛べそうかと言われたら頷く事は難しい有り様な格好。

 それもあって空気を読み過ぎてしまう自分は深く考え混んで立ち往生。

 言葉に詰まって固まって困り果ててしまった自分に、頭をこてんと傾けた彼が不思議そうに此方を見詰めてきた。


『んー? どしたの? ………え、どうしたら良いか解んない? ………ぶっ、あっはははははっ!! お前はホンット糞真面目だねぇ!』


 此方の言い分を聞くや否や彼は吹き出し腹を抱えては大笑い。

 ひぃひぃ言いながら大きく口を開けて“堪らない”とばかりに、袖から出していた細く色白な手の指先をフードの下に潜り込ませ笑い過ぎて溢れてしまったらしい涙を拭った。


『……はぁ~あ、久し振りにこんなに笑っちゃった。んふふ、ありがとね。お前からのその真っ直ぐな心配想い、とても“美味しかった心地良かった”よ。』


 ふわりと柔らかな笑みを口元に湛える彼。

 その言葉から彼等の種族は“感情”を餌にして生きるものなのだと言う事を思い出す。


 心地好い? 美味しい事は心地好い事なのだろうか?


 生まれてまだそう時は経っていない今何度か“食事”を経験してみたけれども、どうにも“作業的”な感覚が拭いきれずそこに楽しみを見出だせない。

 肉は噛めば血が飛び散って身体は汚れるし、草は青臭くて好めない。

 顎が疲れてしまう咀嚼が少々億劫に思えて進んで食そうと思う気になれないのだけれども、その中で果実ならばまだマシに思えた。

 甘くて柔らかくて“一呑み”するのが容易いものが多いからだ。


 しかし自分が無意識に与えていたらしい“想い”というものにどうやら彼は“喜んで”くれた様だ。

 心地好い事が良い事ならば、それは“もっと”与えるべきなのだろうか?

 “飢え”ては駄目だと言われたから、与えられる恵みは多く差し出した方が良いのだろうか──そして自分とて同様に、沢山摂取した方が良いのだろうか?


 ……知らないことが多すぎる、未知が多くてどうしたら良いのか解らない。


 気付けば長々と物思いに耽っていたらしく、顔はしかめて地べたに伏せってしまっていた。

 そんな悶々と考えては行き詰まっていると彼は此方へと歩み寄り、頭を撫で、喉元を掻き、背中を擦りと抱き締めてくる形で身体を密着させ自分の毛並みに顔を埋めた。

 その最中に『ああ~ふわふわのもふもふ~』だの『この毛並み最ッ高……このままお昼寝したいくらいだぁ』だのと、口元を緩めて此方を愛でる様に思わず思考の迷路から意識が弾き出された。


 撫で繰り回されている事からの気恥ずかしさに何だかポカポカと身体が熱く火照る感覚を覚える。

 それに釣られて今度は身体が溶けていく錯覚からじわりじわりと力が抜けていくと、とろんと夕陽を映す瞳から夜の帳を降ろすべく瞼は沈みかけていった。

 微睡みを誘うかの様な心地好さに頬はふにゃりと緩んでいき、身体を強張らせていた緊張感も解れて、気が抜けて──ハッと気が付いた時にはひっくり返って自らの腹を見せていた。


 腹の方からはクスクスと笑う声。

 寝そべるみたく蛇腹の鱗に頭をくっ付けているらしい彼からの声に、醜態を晒してしまった事からの羞恥と焦りに慌てて身体を起こそうと足をばたつかせる。

 しかし翼を展開させるに必要な背中の触角がつっかえてしまって、身体を起こそうとしても邪魔されてどうにも上手くいかない。

 こうなってしまうと自力で起き上がる事が出来ないのだ。

 見兼ねた彼からの援助を受けて何とか起き上がる事は出来たけれども、また吹き出してしまった彼の笑い声にカァッと顔が熱くなっていった。


『ドジだねぇ、そんなんでこれから一匹で生きていけるのかー? ……まぁ他人行儀でドライな所あるから、それくらいの愛嬌は合っても良いけどね。お前って考え事は多い癖して不器用で口数が少ないからさ、きっと今後苦労するぞー? 誤解されそうって意味で。』


 そうしてまた彼は喉を掻く。

 柔らかく指の腹で撫でられる心地好さにくらりとしながらも“ちゃんとしなくては”と踏みと止まり堪えていたら、無意識に尾を振っていたらしくて彼にまた笑われてしまった。


『……あとね、お前がぼくの事で心配する必要は無いよ。制限はあるけどまだ万能の力は残ってるんだし、それにこれでもぼくは“女神”なんだか、ら…………あっ。』


 話の途中“しまった”と口を塞いだ彼が慌てて周りを見渡し始める。

 その場所は他の者達がいる所より結構離れているので当然その場には自分と彼の二つの影しかなく、それを確認した彼が冷や汗混じりに溜め息を溢した。


『今のナシね、聞かなかった事にして………バレたらマズイんだ。すっごく。』


 項垂れている彼が……否、彼女と呼ぶべきなのだろうか?

 よくは解らないが、他言無用と言われたのでこれは誰に話す事ではないと胸に刻みしかと頷く。

 すると安心したように表情を緩めたそのヒトはもう一度首に腕を回して抱擁すると、その頬を首元に埋めて柔らかな声音で囁いた。


『変でしょう? ぼくは男なのに“それ女神”だなんて。母様の“映し鏡”だったから女に成ることも許されないで、姿形だけそっくりそのままなんだ。お陰で役割だけ押し付けられて好き勝手愛でられるばかり、羽根もボロボロになっていく一方……手垢まみれで色も落ちて、いつの間にか自分の羽根で飛ぶ事すら出来なくなってしまった。』


 耳元の声は何だか気落ちしていた。

 沈んだ声が埋もれた毛並みにくぐもらされて、撫でられる感触を感じ入りながら眼下に見える腰の翼に目を向ける。

 そのヒト……彼が通ってきた道には羽根が幾つも落ちては来た方角をはっきりと示しており、その落ちたくすんでいるらしい淡い色の羽根の根本には日に照らされて鮮やかな真っ青がほんのりと滲ませている事に気付いては元の色がそれなのだと理解する。


『矛盾にジレンマで訳解んなくなって、もうホント嫌になる……この顔だって──あ、』


 道標を作っていた羽根を眺めているとそこへ一際強い風が吹き、落ちていた羽根を巻き上げると同時に彼のフードを勢い良く拐った。


 はらはらと糸の毛が舞い踊る。

 傷一つない玉のような白い肌を隙間から覗かせながら、初めて視界に映ったぱちくりと瞬く睫毛の長い形の良い目。

 その中にはアメジストの色が鮮やかに輝かせており、その瞳の中に湛えられていたのは“十字の星”。

 フードに隠されていた髪も釣られてぱらりぱらりと溢れ落ち、僅かに波打ってウェーブして胸元まで垂らされたそれは夜の帳が降りた後の空の如く落ち着いた様を映す“藍色”。

 日に照らされて藍色に映り込んだ白のハイライトが彼の毛艶をキラキラと輝かせて、暗い色だというのに細やかな絹糸が流れる度に透明感を感じさせてくる様はまるで自分の翼と同じ星空を映しているかの様だ。

 端正で華奢な小顔を囲んで風に弄ばれる糸の束達に、折角のくりくりとした目がキッと釣り上がってしまった彼の顔には怒りの色。

 歯を剥き出しにして荒々しい言葉を自らの髪へと吐き出した。


『ああもうホンット最悪!! あの“母様糞ババァ”と同じなこの顔、誰にも見られたくなかったってのに……!!』


 乱暴に髪の毛を掻き集めてはフードの襟の奥へと抑え込み、バッとフードを再び被る。

 そして自分以外の誰に対してでもない、無機物とも言えるそれに向けた意味のない鬱憤をぶつくさと、もう二度と捲らせるものかとフードの唾を彼はぎゅっと握り締めた。

 その隠されて見えなくなってしまった姿に何処か残念だと思ってしまった自らの心に、その一瞬の内にすっかり彼に見とれていた事をふと自覚する。


 この頃はまだ“人間”なんて種族は存在しない。

 代わりに“人形ひとがた”と呼ばれていた彼等でしか、その形を知らなかったからこそ人においての男と女の区別すら理解していなかった自分。

 故に男らしいとか女らしいとかそんな思考は一切無く、純粋に綺麗だと思ったからこそ隠された顔に惜しいと感じたその想い。

 それは見るからに口出しされるのが嫌そうだと感じ取ってしまったが故にそれを本人に伝える事は憚られてそのまま押し黙る。


『はぁーあ! 仕切り直ししよう、仕切り直し! これもちゃっちゃと終わらせちゃってさ、風避けのある場所で一緒に昼寝にでも洒落込もう! ──ホラ、行くよ!』


 存分に自身の顔への罵詈雑言……というより文句を一頻り喚いた彼が気が済んだとばかりに立ち上がり振る舞いを正す。

 踵を返したかと思えば、共に羽織っていたローブを逆さまの朝顔の様に風を受けて膨れ上がらせた。

 翻ったそれは一瞬で彼の姿を覆い隠していくと漆黒色のローブだったのを翻してはひっくり返し、内側だった面が外側へとあっという間に日の元に晒されていく。


 そこにあったのは同じ漆黒色ではなく茶・白・黒の斑模様が散りばめられた柄。

 風に煽られ逆立つ表面はまるで鳥の背に生えた体羽の様──ではなく、正しく鳥の羽がそこにはびっしりと生やされていた。


『元々ぼくは食べた“鳥”の能力を身体に模して、それを駆使する事が出来たのだけれど……今じゃもう、それも出来ないからねぇ。だから“コレ”を使うしかない、かな!』


 よいしょ! と声を上げて風に吹き飛ばされないよう押さえながらそれに腕を通す彼。

 自分がそれを見て目を丸くしている間にも、目の前ではその鳥の羽が付いたローブを羽織った彼に変化が起きていくのが目に映った。


 腕を通した袖が布地らしく揺蕩っていたのが芯を得たみたく真っ直ぐ伸びていく。

 腰から生えていた古びた翼を覆い隠したローブがそこにはまるで何もなかったかの様に膨らみを押さえ付け、その代わりに二又に別れ伸びた燕尾の裾が長い尾羽を模して腰から垂れ下がった。


 目の前で“鳥”へと変貌した彼が一回、二回と羽ばたく。

 三回目上下させた翼は彼の身体をふわりと持ち上げ、大きく羽ばたく程に高く持ち上がっていくその姿は徐々に徐々に人の形を消して正しく鳥みたく──“鷹”へと変えていった。


『どうだ! 凄いだろう? どんなに力を失って自分には・・・・役に立たない“願望器”の役目しか残っていないけれど、ぼくにはこの“鷹の衣”があるから飛べる空がある限り何処へだって行けるのさ!』


 自慢げな声がすっかり鷹の姿に変わったそれから発せられる。

 そして自分を呼び掛ける声に釣られて自分も翼を広げて飛び立てば、ぎこちなく空へと浮き上がった自分の周りで自在に飛び回る彼がまた笑った。


『よしよし、良い調子だ! ほぅら前を見てご覧。コレがお前がこれから支配する……ああいや、この世界を護る為にお前だけが唯一、何不自由無く飛び回る事の出来る縄張りテリトリー──空の世界だよ。』


 くい、と顎を上げた彼の嘴が指した方へと視線を向ける。


 そこには鮮やかな青が白を交えて塗りたくられた世界。

 何処もかしこも障害物なんて何一つ無く、いつの間にか雲が足元に真っ白な絨毯を引いていた。

 身体に受ける風は冷たいけれども温かな毛並みと甲羅の様に硬い鱗が寒さを防ぎ、代わりにさんさんと振り掛かる遮るものがない太陽が自分達を温もりを与えると共に照らしていた。


 いやっほう! と楽しげな声と一緒に飛びながら宙でくるくる回る彼が緩やかなカーブを描く。

 置いていかれないように自分もまた羽ばたいて彼の後を追っていけば、右も左も、前も後ろも、ひたすらに広い空間を誰に邪魔されることなく翔んでいく。


 追い風が後ろから吹き上げて思いの外スピードが出る様に顔が引き釣ってしまうけれども、それすらも物ともしない彼の翔ぶ姿が自分の前へとスライドしてきた。

 風の受け皿になってくれたのだろう、空気抵抗が軽くなってしっかりと前を見据える事が叶った視界では、強風に靡かれて風切り羽根を震わせている目の前の彼の翼。




 軈てその大きく伸ばされていた翼が目の前で閉じられた。

 するとタイミング良く追い風はぴたりと止まり、翼を折り畳んだ彼の姿が雲の絨毯へと落ちていく。


『おいで! 良いものを見付けた!』


 そう言う彼は急降下。

 慌てて自分もそれを追い掛けていって、その先で雲が顔面にぶち当たる。

 瞬間ぶわりと、水分が多く含まれた温い空気が頬を撫でる。

 その勢いに負けて、目蓋よりも先に目を覆う瞬膜があるのにも関わらずつい目蓋までぎゅっと閉じてしまう。

 目蓋の内側の暗闇を見詰めて暫く落ち続けていると『おい馬鹿!』と怒鳴り声が鼓膜を震わせた。


『前見ろ前!!』


 その声にハッと目を開ける。

 視界の直ぐそこに迫っていたのは鋭い切っ先の様な岩の出っ張り。

 驚きの余り無駄に脚をばたつかせるけれども空中で急には止まれない。

 今日初めて空を飛んだのだ。

 空中停止ホバリングや急ブレーキなんてそんな芸当、素人同然な自分に出来る筈もなく。


 どうしよう、ぶつかってしまう!


 間近まで近付いてしまったそれにひたすら無我夢中で足掻き続ける。

 そして後少し、出立早々串刺しかと思いきや闇雲に力強く羽ばたいた翼が大きく自分を持ち上げた。


 寸でのところだったが危機一髪、回避成功。

 なんとか持ちこたえる事が出来てばくばくと跳ねる心臓に、恐怖から逃れられた安堵から大きく深い溜め息が口から溢れる。


『お前なぁ、飛んでる最中に……しかも急降下中に目を閉じる奴があるか! ……さてはお前“怖がりビビり”だな?』


 呆れながらもからかう声が飛んでくる。

 返す言葉もなく口をつぐんでいると、くつくつと笑う声が『まぁしゃーないね。初めてなんだしさ!』と気まずい会話をスパッと終わらせた。


『ほらほら、目的地はこっちだよ。今度は目を閉じて何かにぶつかったりしないでくれよ?』


 そして羽ばたく翼が地上へと降っていく。

 自分もそれに付いていって空を駆ければ、眼下に映し出されたのは今度は一面真っ青な絨毯。

 風に靡かれ、淡い青と草の緑、それから日の光を浴びて反射した白のハイライトを映して色鮮やかに彩るその美しい“花畑”は圧巻とも言える程に絶景。

 目に映る地上を美しく着飾っていた。


『おー綺麗だ、やっぱコレが一番ぼくの好きな………ありゃ?』


 地上が近付く程に露に鮮明に映し出されていく花畑の景色。

 それに対して何故だか首を傾げた彼が、降り立つと同時に翼を広げてローブをくるりと翻した。


 瞬きの内に鳥から人形へ、鷹の衣から黒いローブへと羽織り直した彼。

 何やら疑問符の付いた呻き声を溢しながら首を左右に傾けて、しゃがみこむと顔を近付けた先の花を見詰めていた。


『おっかしーなー、ネモフィラかと思ったんだけど………全然違った。コレはー……えーと、確かぁ……。』


 一輪だけぷちりと千切り、手に取ったその花と共に此方へと持ってきた彼がうんうん唸る。

 その背後からはあの古びた翼がローブの隙間から顔を出し、羽根を散らしては同じ色の花の上に降り立った。


 ──綺麗だ。


 強い日差しがある訳でもないのに、その青が眩しく感じた自分は目を細める。

 花弁の色に馴染んで、根本の鮮やかな青が無ければ一瞬で見失って仕舞いそうな羽根とその花が彩る視界に無性に興味が湧いて顔を近付ける。

 すん、と嗅いでみれば匂いはない。

 只草の香りが鼻腔を擽るだけで花の香りは薄いのか、無いのか、感じることが出来なかった。

 それでもその小さくて愛らしい淡い青を湛える花の集まりを眺めていると何だか気分が落ち着いて、花畑を踏み荒らさないように避けつつ鼻先に花を映しながら身体を伏せた。


『………あっ思い出した!』


 突然大声を出した彼に、顔を上げて彼を見詰める。

 すると持っていたその花をぐいっと差し出した彼が、口元に弧を描いて笑みながらそれを言った。




『“勿忘草”! それがこの花の名前だよ。』




 自慢気に、それでいて思い出せたのが嬉しいのか表情を明らめて彼は言う。


『偶々見付けた花畑だったけど……んふふ、どうやらお気に召してくれたみたいだね? お前の体毛のロイヤルブルーにとても良く映える色だもの、この花で着飾ったらきっとより綺麗に見えるだろうねぇ。』


 そう言って彼は自分の頭の二本角の間にそっと花を乗せる。

 じっと見詰めて暫く、彼の頬が膨らんだかと思えば『ぶはっ』と笑い始めた。


『いっひひひひ、ごめ、ごめんごめん! 何だか不恰好に見えちゃってさ……んふふふひひ、ぼくこういうのセンス無いんだよ。自分で着飾るより誰かに着飾られるばっかしで、全然慣れてなくてねぇ……ふふ、ふへへへっ……!』


 ゲラゲラケタケタと、彼が腹を抱えて笑う内に自分の頭に乗せられただけの花が鼻先を滑って地べたへぽたりと落ちた。

 それをぼんやり見詰めては千切られたそれにはもう枯れる他の未来が無いことに気付き、勿体無く感じてどうしたものかと首を捻る。

 それを拾おうとしたけれども爪が鋭く、硬い肉球のある自分の脚ではそれを掴む事も儘ならない。

 仕方がないので咥えようと鼻先を近付けたら茎が細くて咥えづらく、半ば必死になりながら漸く取れたかと思って顔を上げると随分と花弁が散ってしまったそれが目に映った。


 その無残な有り様に、がーん! とショックを受けてしまう。

 自分の身勝手な心配性が逆にその花をより早く散らせてしまったのだ。

 放って置けばもう少しくらいは持っていただろうに……と後から後悔してももう遅い。

 胸の内に広がる虚無感に何だか悲しくってやるせなくなって、一層の事と思い残ったそれをばくんと食べた。


 口の中では草独特の青い味がする。

 咀嚼する度舌の上に広がるのは苦味の様な、青臭い様な、大して余り美味しくない味。

 やはり草は口に合わないな……なんて考えながら、それをごくんと呑み込んで今度は地べたに広がった花弁に舌を這わせる。


 だってそれも今食べた花の一部なのだ。

 それを残すのは元々一緒だったものを離れ離れにしてしまうみたいで、そうさせてしまうのは悲しいかもしれない……そう思っての事だった。


 触れた瞬間舌先にぴとりとくっついた花弁、巻き添えに付いた砂利ごと呑み込むと口の中でジャリジャリと鳴らす。

 丁寧に、真剣に、半ば無心になりつつも目に見える好ましいと思ったその淡い“青”を口の中に詰め込んでいく。

 するとどうだろう。

 これでよし、と思って顔を上げたらいつの間にか自分の周りだけ、花弁一枚とて落ちていない所か、草木の一本すら生えていない土だけの地べたがそこにあった。


 はて、ここに咲いていた千切られていない花達は一体何処へ?


 夢中で口の中に放り込んでいたからだろう。

 途中から無意識に、届くもの全て手当たり次第食べていた事に気付かなかった。

 それに気付いてまたショック。

 そうして頭を項垂れて落ち込んでいると、一頻り笑いに笑って漸く落ち着いたらしい彼が目の前でしゃがみ込んだ。


『ありゃま、食べ過ぎちゃったねぇ。そんなに気に入ってくれたのかい。』


 そう言う彼は何処か嬉しげで、そんなつもりはなかったと言いたかったけれどもすっかり落ち込んでしょげてしまって訂正する気も起きない。

 それで黙って項垂れたままでいると、彼は互いの額を合わせる様に額をくっ付けた。


『そんなに落ち込むなよ。大丈夫さ、まだ花は沢山ある。あの花が枯れたら種が落ちて、いつかまたその内、お前の下で更地になった地べたにだって再び花は咲くだろうさ。』


 ぐりぐりと擦り付け合う二つの頭。

 自分もまたそれに応えて頭を傾けてすり寄ると、彼は嬉しげにくすくすと笑った。


『それにお前も、花のお陰で多少は腹が満たされただろう? ……喰うと言うことは生きる為の必要事項だけれども、同時に自分のエゴで誰かを傷付ける事でもあるんだ。』


 角を擦られ、耳の裏を掻かれ、ふくよかに身体を包む胸毛を指先ですく様に撫でながら彼は諭す。


『それを悲しむばかりで済ませるべきじゃないよ、そこは謝罪ではなく感謝で返すべきさ。花は今お前の一部になって、これからのお前を作って満たしてくれる一部となってくれるのだから。』


 彼が立てた人差し指がマズルの先をちょんと触れる。

 聞けば聞く程に納得出来るその理屈が胸の中ですとんと腑に落ちて、そう考えてみれば“それなら確かに感謝をすべきだ”と伏せた地面に感謝の祈りを送った。

 瞳を閉じて寝そべり感謝の念を込めているつもりの自分にくすりと笑った彼が優しい手つきで背中を撫でた。


 その時に感じた骨身に響く微かなノック音。

 彼に触れられる度に感じたその響きに自分は“見守られている”感覚に酷く安堵してしまう。

 そうしてその身も心も満たしてくれる身体検査ボディチェックを邪魔しないように、自分は彼にそっと身を委ねていった。


 彼から受けるスキンシップでは、時折愛でる以外でも生まれたての自分の身体を気遣う様が見て取れていた。

 使命の為にと与えられた長寿の象徴として、体毛交じりの身体に備え付けられた“亀”の甲羅の鱗と腹には蛇腹。

 それを時折撫でたりノックして不備がないか、その固さを確かめたりと愛でる最中にもそのヒトはここぞとばかりに自分の身体の具合を見ている事に気付いたのはつい先程。

 とても有り難いと思う、背中なんかだと特に自力で見る事すら叶わないのだから。

 同時に何も言わずしてそうやって気遣ってくれる彼の心遣いに、気付けば気付く程に憧憬の想いが増していく。


 そうやってチェックも兼ねたスキンシップの時間を満喫していると、不意に頬に手が添えられる。

 互いに視線を合わせる様に、優しく向き合わされた先で彼が穏やかな笑みを湛えていた。


『……ぼくからの提案でね、お前とお前の三つ巴となる同胞には“性”を無くしたんだ。その意味、解るかい?』


 問い掛けられたその質問に考え込むように自分は俯く。

 それは他の獣達には在って当然のもの──“雄”と“雌”。

 同じ種族なのに身体の一部の形や作りが変わる独特な区別で、死すべき者モータルの彼等が種の存続に必要な番を組み子孫を遺す必要な歯車の型。

 その中で不死者アタナトイとして定められた自分には同胞はいても同種はいない。


 糧の供給さえ腹を満たす事を怠らなければいつまでも生き続けられるという半永久的な寿命。

 それを組み込まれた自分には子孫を遺す必要はないからと、そう考えてそれを答えてみれば複雑そうな顔をした彼が『うーん……半分正解、かな』と溢した。

 半分? ではもう半分は?

 首を傾げて見せれば此方の頬を親指で撫でながら、そのヒトはフードの下では控え目な笑みを見せていた。


『正解はぼくみたいにならないで欲しいから、かな。お前達には好きな“性”で在って欲しいんだ。……それが劣等感コンプレックスや心の枷にならないように。』


 そして彼は立ち上がる。

 見上げた先で背後にある眩しい太陽が彼を逆光で覆い隠して、此方からはその表情を見えなくする。


『折角の永遠の命だ。男でも女でも、そのどちらに傾かなくとも、どちらであっても……お前はお前の好きなように生きなさい。その過程で好きなものが出来たのならばそれに合わせるのでも良い。繁殖の必要がなくたって心許せる者が出来たならば“ぼくら”の様に、心身共に捧げられる伴侶主従を定めるのだって勿論構わないさ。』


 くるりと踵を返した彼が空を見上げる。

 自分も身体を起こして彼の隣に並ぶと、彼に倣って同じように空を眺めた。


 淡い青が広がる大空。

 鯨の様に大きく白い雲ミルキークラウンが輪郭を溶かしながら小魚雲を引き連れて泳ぐ空の海、その中では一際輝きの強い星が空にうっすらと白い点を作っていた。

 それから一際存在感が在って、地上の自分達を見下ろし明るく暖める光と熱の根源──太陽。


 空に浮かぶ全てが“自分”なのだと、生まれた時に教えられた事を思い起こす。




『その為に、お前には男神も女神も一緒くたに組み込んだんだから………キミが使命を果たすに困らない様に“何処にでも直ぐに行ける能力”を捧げたのも、それから皆には内緒・・でぼくがお前に譲った──“食べたものを取り込む受け入れる権能”、いつかお前の力になってくれると良いなぁ。』




 風が靡いて花弁が舞い上がり、共に吹き上がった羽根が空へと拐われていく。

 ふわりふわりと浮かび上がって、空の色と同じ花弁と羽根は視線で追った先の太陽の眩しさに目を細めていたら見失った。

 もう少し時間が遅ければ、赤と橙色の色彩のグラデーションを湛えた空ならば、差し色になる青はきっと見失わずに済んだろうにと思ってしまうけれども、それは“別れ”の刻限が迫る事と同義だ。

 そのもうすぐ来る時間に“もう少しだけこの時間が続いてくれたら”と胸の内に思っては羽根も花弁も見失った空から瞼を伏せる。

 すると何が切っ掛けだったのか、自分の頭に掌を置いた彼が頬を緩めて撫でた。

 その優しい手触りに目を閉じて、彼の温もりを感じ入りながら自分は思う。




 いつか私も彼の様な──“慈父君じふくん”の様な、誰かを思いやり包み込める大空になりたい、と。






 *****






「えっ………“敢えて相手の策に乗る”?」


 背負われた彼が戸惑いの声でおうむ返しにそれを言う。

 その言葉に頷いたのはマーリンだ。


「そ! ほら、目には目を、歯には歯を、毒は毒で制すべしって言うでしょ?」

「いやそれは解るけど……良いの? 乗っちゃって、大丈夫なの?」


 自信満々に言うマーリンに不安気な名無しが渋い顔をする。

 つい先程まで、その相手の策により相当酷い目に遭ったからだ。

 彼に指示を出した“主人”とやらの様子が何だか変だからと、仕返し序でに一層の事出し抜いちゃおう! と意気込むのは“復讐”を司る祟り神な彼にとっても勿論首を縦に振りたい所存。

 だからそれは良いのだけれど自分に何か得体の知れない“何か”をさせようとしていた“一織”と言う人物の偽物。

 そんな彼が次に何を自分に求めているのかが解らない今、下手にその軌道に乗って大変な事にでもなったらそれこそもっと不味いのでは?

 そう思うとどうしても二の足を踏んでしまい、ハッキリ賛成の意思を示しかねる。


「だいじょーぶだいじょーぶ! ちゃぁんと策は練ってあるとも! ……おっと!」


 不意に身体を傾けたマーリンの隣を黒い水玉が飛んでいく。

 目の前の木にぶち当たり、煙と共に黒くぐずぐずに溶かしては支えを失った木が崩れ倒れていった。

 あれからずっと走りっぱなし、幾ら引き剥がそうと駆けて行っても黒い水は執念深くまだ追い掛けてきているのだった。


「あんの蛸野郎、まぁだ諦めてないのか! キミも変なものに好かれるねぇ!」


 うぞうぞと触手らしきモノを蠢かせながら黒い水の塊となり、通ってきた森を腐らせながら迫る“海坊主”にマーリンは悪態吐く。

 そしてその言葉を投げ掛けられた名無しが複雑な顔をして「あんなのに好かれたくない…」とぼやいた。


「あれをどうにかして消してしまえれば良いんだけど……うーん、打ち消すにしても“素材”が足りないな。一番良いのは“黄色の襤褸衣”………嗚呼駄目だ、根本が先ず先か。」

「ね、ねぇ何の話をしてるの? おれにも解るように言ってよ。」


 走るマーリンがぶつぶつと思案を重ねる中、背負われたままで必死にしがみつくばかりで彼の言っている事の意味を理解出来ない名無しがそう言ってマーリンへと顔を寄せる。

 しかし尚も考え事に夢中で返答をしなかったマーリンは、軈て一人でに頷くと視線だけ名無しへと向けては漸く彼へと口を開いた。


「ねぇ名無し、キミにやって欲しい事があるんだけどさ。」

「う……うん、何?」


 戸惑い混じりでも素直に返ってくる返事。

 外側は欠けて割れて中身が抜けて、隙間が出来たから外からの声も多少は通る様になったらしい。

 声をかければちゃんと返される様になった名無しに、マーリンはニッと笑むと“答え”の解っているお願いオーダーを口にした。




「キミの何でも叶えてくれる“願望器”の力で、今のこの“キミを助けた事”を隠蔽無かった事にしてよ。」




 その言葉に、耳元で息を呑む音が聞こえた。

 首にしがみつく腕の力が少しだけ強くなって、少し震えているのが首に伝わってくる。


「……ぁ……、」


 絞り出した様に思える微かな声は共に吐き出した息が震えており、彼の表情が見えずとも動揺していることくらい手に取る様に解った。


「………で、きな、い……。」

「何故? キミは昔、沢山の人をそれで喜ばせていたじゃないか。“雨を降らせる力”、それがどう言うものかキミ自身知らない訳では無いだろう?」

「……ッ」


 “何で知ってるの”。

 その言葉は吐き出す前に呑み込まれる。


 名無しは答えに迷っていた。

 何でもすると言った手前頼まれた事はするべきだ。

 だって彼は言わば“恩人”だ、仇で返すなんて事はしたくない。

 只……それでもだ。

 都合の悪い事に知らばっくれたくなる程“拒否”したいそれに、自身の守りたい誓約ポリシーとで揺れ動いてしまっていた。




 名無しは死人に騙らない口無し”。

 本心を隠しこそすれども裏はなく、隠し事は多くとも暴かれたのならば偽る事はしないと決めていた。




 “それ”を言えば肯定だ、否定すれば自身の嫌う“嘘”になる。

 だから黙る、だから誤魔化す、だから無視する、だから聞かない。


 何故? ──答えは簡単。

 もうこれ以上“感情”も“”も失いたくないから。


 願いを叶えるに必要なものは“生命力”。

 既に没している彼にそれに該当する要素とは糧であり──つまりは“感情”であり“心”だ。

 彼には一度得ようと思っても難しいそれは片割れの次に尊び、大切に守っていきたいもの。

 自分の中のその“熱量”が無くなってしまうと全てに置いて関心が無くなっていき、例え今までどんなに大切にしていたモノであろうと自ら捨てていく様になっていく。


 それで彼は過去に一度投げ捨ててしまっていた。

 大切だと感じていたにも関わらず簡単には投げ捨てようとして、壊して、失いかけて、後一歩で後戻り出来なくなりかけた寸での所で我に返り酷く反省した事があった。


 故に彼は失う事を恐れた。


 それからと言うものその過ちをずっと後悔していたからこそ、それを簡単に首を縦に振る事が出来ないのだった。


「……やだ………やりたくない。」


 マーリンの肩に顔を埋めて絞り出した声が要望を拒絶する。


「嫌? 良いのかな、そんな事言って。このままだとキミが罠を逃れた事が相手に丸解りだ。そうなるとどうなると思う?」


 呻く声が聞こえる。

 流せる涙はなく、逃れる術はなく、手放したくないものを手放さなければ生きる事も儘ならない自身の定めに呪いたくなってしまう。

 思わず耳を塞ぎたくなる衝動に駆られるけれども、腕を離せば振り落とされてあの黒い水の元へ逆戻り、一貫の終わりだ。

 逃げ場なんて何処にもなかった。


「ロヴィオ・ヴォルグは間違いなく、死ぬだろうね。」


 今ロヴィオを救える者と言えば治癒魔法に長けたアーサーか、或いは治癒魔術に秀でた魔導書の力を持ったモーガンだ。

 そのどちらもが今一織の傍、その手中に在って今の彼の中身が善くない何かと揺らいでいる限り気軽く助けを求める事なんて出来ない。


 中身が偽物だろうと曲がりなりにも彼は“一織”なのだ。

 逆らおうものなら世界を敵に回すと同義。

 異変に気付いているのがマーリンしかいないだけあって、下手に動いて逆に全員が敵に回られてもそれこそ困る。


 だからこそ、今の二人には名無しが持つ“願望器”の力が必要だった。


 そして名無しは苦悩する。

 この目から溢れる雫が透明だったら気兼ねなく泣けたと言うのに、自分の涙すら自分を追い詰めていく。

 これ以上溢れ落ちないようにと、堪えた身体の中の黒い水は今も尚外へ出ようと身体の中を渦巻いていた。


 吐き出せば楽になれるだろう。

 こんなものですら全て失えば自分は“元に戻る何もなくなる”けれど。

 抱えたままでは苦しいままだろう。

 大切なモノを失ったとしても、幸福だった“想い出”だけは残っていてくれる。


 どちらが良いかなんて明白な答えだ、捨てたくなんかない。

 それでも………それでも、だ。


「……ッそんなの、もっと嫌だ……!!」


 涙声の掠れた叫び。

 拒否すれば大好きな片割れが死ぬかもしれないと聞いて、どうして断る事が出来よう?

 何でもすると言ったのだ、当然ロヴィオの為というのならば尚更だ。


 何だってしてやる。


 全てを吐き出して空になった後、自分はもしかしたら過ちを繰り返すかもしれない。

 そもそも既に壊れかけの自分が耐えられないかもしれない。

 もしもそれでロヴィオと二度と会えなくなってしまったら──嫌な想像は幾らでも思い浮かぶ。

 只それでも、彼を永遠に失ってしまうよりかはずっとマシだ。

 そう自分に言い聞かせて正当化させ、胸の内に湧く恐怖心を抑え込む。

 だから………大丈夫・・・

 何があっても受け入れよう、彼が無事なら自分はどうなろうと構わない。

 例えそれが──自分の“消滅明確な死”と引き換えだったとしても。


「よーし、覚悟は決まったね? んじゃ、追いかけっこはそろそろお開きにしよう!」


 マーリンの声に名無しはずっと俯いていた顔を上げる。

 掌は拳に、噛み締めていた唇から歯を離しては固い意思を表すように一の字に食い縛る。

 そして軈て開いた口からはその“呪文”を唱えようと──、




「──と言う訳で、キミの身体の一部を頂戴!」

「……うん?」




 形の良い双眸がぱちくりと瞬く。

 あれ? 願いを叶えるのにそんなものいるっけ?

 なんて考えて戸惑いの余り固まっていると、マーリンが急かして「ホラ早く! 何でも良いから!」と声を上げる。

 それで慌てて何か無いかパタパタアワアワ探してみるけど、ちょっとしたパニック、何を渡せば良いのか解らない。


「ええと、ええと……腕いる?」

「うわおっも! キミねぇ……そんな仰々しいものポンポコ差し出しちゃったら、いざと言う時に困るでしょー! もっと軽いものだよ、軽いもの!」

「軽いもの……? うーん……目?」

「だから重いってば!! 捧げるものに対して発想が猟奇的過ぎだよう!」


 もっと軽い気持ちで渡せるもの! とマーリンが半ば疲れた顔で叫ぶので、それに名無しは「軽い……軽い……?」と疑問符を浮かべて何度も左右にと頭を傾けた。

 解らない、“自分”を捧げる上で重くない・・・・ものって何だ?

 理解に苦しむ問いに名無しは顔をくしゃりとしかめて悩みに悩んだ。


 彼自身“捧げ物”として存在する人柱“生け贄”。

 そんな彼には自ら自身を“大切に”するという概念はない。

 温もりを求める余りに傷付けてしまう程だったのだ、“命大事に”と言われたってピンと来る筈もない。

 花弁の如く千切った所でまた生やす事が出来るのだから、目も舌も手や足、勿論心臓だって彼の中では全て同じ“位”だ。

 故に全てにおいて“軽い”も“重い”も何もなかった──色と熱以外は。


「キミねぇ、もちっとだけ頭を柔らかくして物を考えたりした方が良いんじゃない? 色々有るじゃん、髪の毛とかさぁ。」

「髪………ああ、こんなので良いんだ。解った。」

「そうそう、軽いものって言ったら髪の毛の一本や二本で十分なんだからそう深く考える必要は………ん? なんか今すっごい“ぶちぶちーっ”って音が──?」


 素直に頷いた名無しにマーリンが安堵したのも束の間、背後から一本や二本所か10や20もの引き千切られる音が聞こえ始めて思わずサァッと血の気が引く。

 音からして想像するに容易い展開に止めようと口を開きかけた時、顔の真横に一束の髪の毛がずいっと差し出された。


「はい、髪の毛。」

「ぎゃあああッ!? ちょちょちょ何してくれちゃってんの!?

え、何この量、ハゲでも作る気!?!?」

「大丈夫、ちゃんと・・・・引き千切ったからハゲはない……筈、多分。」

「大丈夫な訳あるかーっ!! 尚悪いわ!!」


 ゾッとする程の毛束を差し出され青ざめたマーリンが絶叫する。

 痛みが無いのを良いことに何処吹く風な面をした名無しに怒鳴る様に突っ込むも大して気にもしてなさげな彼からそう言われてしまい、つい声を荒げてしまう。


「んもう! 折角の澄んだ白糸みたくて素敵な髪の毛、整えたらきっともっと綺麗に着飾れそうだったのにぃ………キミねぇ、折角整った見た目してるんだからもちっとくらい自分を大事にしなよ。美人なのに勿体無いよ?」


 そう言って横目に名無しを見る。

 手頃だったのがそこだったのだろう、胸元まで流れる程に唯一長く伸びていた左右の揉み上げの片方──左側の髪の毛がすっかり短くなっていた。

 思わずガックリと肩を落としてしまう程無惨に散り散りに毟り取られたボサボサな髪型に、何故だか自分の方がショックを受けて項垂れているとそれを聞いた名無しは何が面白いのかカラカラと笑った。


「“見た目”だけは、ね。“中身”はそうでもないんだから、これくらいが丁度良いんだ。」


 その渇いた笑いはどう聞いたって自傷的だ。

 半ば投げ遣りに吐き出された言葉とてそれは自らを扱き下ろすもの。

 俯いて然り気無く最後に呟かれた「惨めな方が釣り合ってるんだ」と言う一人言も、彼自身に自信が欠片も残っていない事を表している様だった。


 それを聞いたマーリンは一つ息を付くと名無しを呼んだ。

 自らを背負う背中の肩に埋めていた顔を少しだけ持ち上げた名無しに、手渡された髪束を受け取ったマーリンが口を開く。


「本当に勿体無いよ、キミは自分に自信を持つべきさ。だってキミは──、」


 しっかりと手を離さないように自身の首に回させた名無しの腕を確認すると、彼の腰を抱えていた右腕を空けて腰にある巾着へとマーリンは手を滑り込ませる。

 それを見てかさりと微かな葉擦れの音を鳴らし、そこから取り出したのは人形ヒトガタの“札”が幾つか重なった薄い束。

 後ろからは黒い波が迫り、目の前には大きな崖。

 視界がすぐそこに行き止まりがある事を示していた。

 そして彼は札を指先で摘まみ構えると、“本来”の主から伝え聞いていた事をハッキリと口にした。




「キミは“選ばれた者”なんだよ、主さまに。主さまが新しく作り出す世界の“神様”として!」




 背後へと振り返り間際、いつもの甘ったるさのない澄んだ声。

 割れて欠けた身体の中に入り込んでくる隙間風がぴいぷうと、彼が吐く音を乗せて内側を響かせてくる。


「今は底辺泥被りかもしれないけれど、大丈夫! あの人がキミを天辺まで導いてくれるさ! そうだな、主さまみたく格好付けて言うとするのならば──、」


 彼が言葉を紡ぐ度にずっと隙間から吹き込んでくる“橙色”の風から、滲んで潤ませた瞳を見開く名無し。

 彼が物を言う前に、マーリンが足を止めるや否や踵を返す。

 眼前にて迫っていた黒い波、視界に入れるや否や直ぐ様マーリンはそれ目掛けて薙ぎ払う様に札を投げ付けて、自らの主が言いそうな言葉を並べ立てて声高らかに“橙色”の──まるで“太陽”の様な色の言葉を吹き込んだ。




「『下ばかり見ているなよ“サンドリヨン”、自信を持って胸を張ってくれ。俺の“神様”になって欲しいお前に捧げたいのは、底辺からののしあがり──“下剋上”へのナビゲーション! 誰にも負けない高みの景色、お前の手に掴ませてやるよ』……かな!」




 そう言って彼は「クッサい台詞だよねぇ、芝居懸かってて!」としかめた顔で笑う。

 そのぎこちない表情は真似て口にした台詞に何処か照れ臭さがあったらしくて、それを誤魔化すみたいなものだった。


 しかし名無しにはそんな彼が恥じた台詞に、じんと目に焼き付く様な眩しさを感じた。

 浮いてぼやけていた景色に色がしゃんと立ち、輪郭も確かになりくっきり映る。

 ばら蒔かれた紙切れのシャワーに日の光を反射した白のハイライトが思わず瞬いてしまう程に目を刺激する。

 目が眩む程に白色を輝かせながら花弁のように舞う紙切れ達はまるで踊る様に天から地へ降り注いでいくと、ふわりひらりと黒い水の目の前へ流れていった。

 釣られた黒い水達がそれに手を伸ばし、そこに吹き上げた風が彼等を弄ぶように紙を拐いあげては水達の此方への気を逸らしていく。


 ふわりふわり、揺蕩う白は風のリードを受けて宙を鮮やかに舞い踊る。

 風に吹かれてぴいぷうと、雲の様に、空を泳ぐ魚の様に軽やかに流れていった。


 色褪せた視界、抜き取られた色彩から見える世界で残っていたのはセピア色。

 その明暗グラデーションが奏でる茶色の中で一際真っ先に目に飛び込む色は“白”。

 揺蕩う白は淡い夕焼けに照らされたみたいな世界では酷く鮮やかに映り、思わず目が奪われてしまっていると動き出した彼に身体が引っ張られてくらりと小さく身体が揺さぶられる。


「今だ! 隠れるよ!」


 おぶったままの名無しにそう言ったマーリンが再びくるりと翻す。

 そして迷うこと無く彼は崖の方へと走っていった。

 逃げ場が無くなるかもしれないというのに一ミリ足りとも止まる気のないその足の行き先、そこにはやはり登頂困難な絶壁の行き止まりがあり──その麓には洞穴がぽっかり口開いているのが見えてきた。


「飛び込むよー! ぃよいしょーーーっ!!」


 たんっと地面を蹴り飛び上がる。

 ふわりと浮かび上がった二人分の身体は真っ直ぐに洞穴へとホールインワン。

 その瞬間、出入口の地面が盛り上がったかと思えばその傍らに置かれていた巨石が地響きを鳴らすと共に洞穴の口を塞いでいった。






 *****






 “神様”が御隠れになった。

 軈て世界は常世の闇に包まれるだろう。






 *****






 ズシャァッとスライディングストップしたマーリンが振り返る。

 隙間無く埋められた口を塞いだ壁が光すら外界を拒み辺りは真っ暗。

 そんな中でおぶっていた名無しの足を地べたへと付かせた。


「一先ずはこれで少し時間も稼げるかな。大丈夫? 前見える?」


 背後で佇まいを直す名無しにマーリンが声をかける。


「元より見え辛くなってるからへーき……さっきから見える色が薄いんだ、何だか昔に戻ったみたいで……嫌だな。」

「自覚があるだけマシだね。よしよし。んじゃ、ちゃちゃっとやる事やって終わらせちゃお!」


 そう言うとマーリンはどかっと地べたに座り込んだ。

 真っ暗闇の中、見え辛い筈なのにてきぱきと小道具を取り出しては目の前に並べ立て、そして何やら作業を始めていく。


 殆ど見えない視界の向こうでカサカサこそこそと小さく囁くように響く音。

 素肌が擦れ合う音、草の葉が擦れる音、息遣い、それから……脈の音。

 それらは全部自分にはない音ばかりだ、生きている・・・・・者の音色。


 昔は煩わしかったそれは、少しでも感じるだけで何をされるか解ったもんじゃない“不安感”を煽るものだった。

 あの信用出来るもの等一つ足りとも無い故郷生まれの村では、まともなままでいる為には“警戒心”に神経を尖らせる他はない。

 物音一つでも近付く気配があろうものなら戦々恐々と身体を強張らせ、気を確かに持たないと自分まで食い物・・・にされてしまい奴等の狂気に呑まれてしまうからだ。


 (まぁそれも最期には崩れ落ちてしまったけれど。)


 それが今では、誰かの息遣いが傍に在るだけでどうしようもなく“安堵”する。

 きっと死んで新しく得た大切なものからの影響だろう。

 今日は随分と非日常的な出来事が度重なって、今もまだ混乱と心配事に染まってばかりで落ち着かなかった心を、それが少しずつ癒してくれていた。

 その心を荒く波立たせる水面を鎮める為に、名無しは細めた目をゆっくりと閉ざしていく。




 嘗ては心の平穏を表していた無音の静けさ。

 その鼓膜をキィンと鳴らす静寂の音に、いつからか“心細さ”を感じる様になっていた。

 “いつから”だろう? そう思う様になったのは。

 何にも耳を傾けなくなって、死に間際に壊れておかしくなって、死んだ後ですら無音・・の世界で長い時間を過ごしてきて……。


 それなのにある日突然・・・・・音が聴こえる様になったのだ。


 死後、確かに五感──視覚、味覚、嗅覚、聴覚、触覚、それら全てを失ってひたすら虚無の中を魂だけになってですら否応なしに生き死に永らえてきた……それは確かだ。

 凪の様に落ち着ききった世界では亡霊達の餌食になろうが苦は無く、逆を言えば楽とて無く、当然そこには熱も冷たさも何も無い。

 その変化のない何も影響されるものがない日々と言うは、今までを思えば平穏だったと言っても過言ではない。

 色を全て失ったからだ、あの時の自分は正しく“虚無”だった。

 死んだ瞬間塞がれていた栓が抜けて、生前得てきた色の全てが流れ落ちてしまっていたのだから。


 元より白と黒しかなかった世界。

 そこから更に色を無くしてしまえば残るは“透明”。


 澄んだ色しかない空間をずっと眠っているのか起きているのかすら曖昧なままを過ごす日々。

 その中である日からささやかに微かに聴こえてきたのは“無垢な唄”。


 ふわふわ、輪郭と感触の無い模糊の様に。

 ふよふよ、地に足は付かず浮かび浮かれて揺蕩う心地。

 くらくら、静かでも内側に轟く程に響き身体を震わせる音。


 元より腹の中にしまい込んだ“大切なもの”の子守唄が狂気と正気の狭間を食い留めてくれていたその上で、恐らく外の遠くから大気に拐われて来たのであろう囁き声。

 その言葉の意味を伝えたい誰かへの想いがとても強かった様だ。

 幼くて穢れなく純真で、つんと突き刺さる程ひたすらに真っ直ぐなその真っ更に澄んだ唄は、辛くも“巻き添え”な形で届いてしまった自分ですらとても良く響かせてくる音色だった。

 だからだろうか。

 全てを拒絶して塞ぐ耳もないのに塞ぎ込んでいた自分でも、そう時間を必要としないで自然とその音だけは受け入れていく様になっていった。

 それは、今まで聴こえてきた音の中で一等心地好いモノだった。

 今思えばあれは雲の様だった。

 決して此方側からは掴むことは出来ないのに、向こう側からなら大気に乗って湿気細やかな水気となって簡単に入り込んでくるものだから。


 その頃から少しずつ色のない世界に、白か黒かしかなかった視界に色を暈していく“滲み曖昧”が生まれた様な気がした。


「(なんで今、こんなこと思い出したんだろう……?)」


 落としていた瞼を持ち上げて、凪いだ心からふと疑問が湧く。

 執念深く物を忘れられない筈が“何”を切っ掛けにしたのか、その記憶を忘れていた様な感覚を起こす。


 当然だ。

 幾ら炉にくべて削ぎ落とそうが、延々炎々と執念深く燃え続けていられるのは“恨み辛み”であるからだ。

 そして“願い”を叶えるに色と熱を代償にして、真っ先に燃え尽きて失っていくのは善い記憶や幸せな記憶。

 だからなのだろう、黒く染まりやすいのは。

 いつだって燃えた後に残るのは黒焦げた灰なのだから、それがじわじわと自分を濁らせていく。

 元より少ない幸福の記憶はそう言ったこともあって酷く脆い。

 それで“彼”と出逢ったばかりの頃は例えどんなに幸福であっても何処か“諦め”があって、それ故にさっぱりと切り捨てられる程生に執着ししがみつく程の理由を見出だせずいた。


「(……どうして、)」


 そこにふと脳裏に過ったのは、自分の中の大気を揺らす隙間風が湿気と共に身体の中へと送り込んだ人伝の言葉。




『俺の“神様”になって欲しい。』




 思い起こしてきゅっと唇を噛む。


「(……どうして、おれなんだろう。)」


 それは随分と空きが増えてしまった器の中に、一滴の雫を落とされたみたいな心地だった。

 朝陽に照らされて葉の上に浮かび上がる朝露の様だ、か細く僅なその量は雀の涙程度のもの。

 そしてまだ腹に“黒い水タール”を抱えた彼は、どうしてもそれに“反発”したくなってしまうのだ──“神なんて自分が相応しい筈がない”。


「(おれよりもロヴィの方がずっと適任だ。だからあの“人間”はロヴィを勧誘してたんじゃ……それなのに……選ばれたっていうのが“おれ”だなんて。)」


 図らずも受け入れていった言葉達の中で一際残るその言葉に、自信のなさ故に受け入れがたいのだ。

 故に名無しは只々ひたすら戸惑い、苦悶し、否定して、鬱々と暗いブルーに、ネガティブにマイナスの方へと沈んでいこうとして──、




 かさかさ、さらさら。




 悶々と深く考え込み始めた頭にささめく音が鼓膜を擽って、思考の海に遠退き始めていた意識が現実へと引き戻す。

 マーリンが黙々と作業を進めていた真っ暗闇。

 手持ち無沙汰に佇んでいた名無しはしゃがみこんで膝に頬杖を付く。

 落ち着かせる筈が深追いし過ぎて陰鬱に湿気った詰まらない気持ちへと転がり始めていた心に、これ以上ささくれ立たない様にと只無心になって作業音に耳を傾ける事にした。


 言葉もなく、じっと暗闇を見詰めながら何も見えない暗いだけの景色に小さく息を溢す。

 こんなにも暗いのに作業の手は一向に止まる様子はない事を音で知って、この状況下で良くもまぁ手元が見えるものだ、なんて胸の内に思う。

 色を失せた自分には一色の明暗でしか解らない光量だけれども、それにしたって閉じられたその空間はとても暗い。

 心配と同時に何をやっているのか見当が付かないその物音にまた段々と不安の色が滲み出して、軈て静寂に堪えきれずに名無しは口を開いた。


「……何、してるの?」


 その声にマーリンが“んー?”と口を開かないままに呻くと、突っぱねられる事なく返答されたけれどもその声は何だかくぐもっていた。


「もちっとだけ待っててねー、あとちょいで出来上がるから…………よし、こんなもんかな!」


 ぷはぁっ、と息を吐く音と共に明るい声が洞穴を反響していく。

 何やら終えたらしいその作業に、砂利を踏み締める音が聴こえた事からそのヒトが立ち上がったと察する。


 すると名無しの視界に目を見張る光景が映った。

 朧気な視界の中でぼんやりと浮かび出した“それ”に気のせいかと思ったそれは瞬きしたって変わらないまま。

 真っ暗だった空間に──マーリンの足元にはふわりふわりと火もなく“光”が灯されたのだ。


「光源がこれしかなかったからねぇ、暗くて不安にさせちゃったかな?」


 マーリンはそう言うと「もう終わったから灯りをお裾分けしよう!」と前を閉じて隠していたらしいローブの内側を見せびらかすと、ぶわりと広がり辺りを明るく輝かせ始めたのはキラキラと光を放つラメの砂粒達。

 ローブの裏地に縫い込まれているその輝く粒達は、決して目が眩む程の光量ではない。

 けれども二人の間を確かに朧気な光で照らして柔らかに包み込んでいた。


「“月の石”さ、熱気を吸収して光を出す。……さっきまで近くに奴等黒い水がいたからね、お陰様で作業が捗ったよ。」


 そう言う彼はからりと笑うと名無しが首を傾げる。


あれ黒い水のお陰?」

「そ。あれ目茶苦茶熱いんだよ~? 近付かれるだけで汗が吹き上がっちゃうくらいにはね。まるでサウナみたいだよ。」


 そうは言われても彼は涼しい顔して何だか平気そう。

 彼の態度を見るだけならにわかに信じられなくとも、その声音に偽りは感じられないので払拭しきれないものを感じつつも「ふーん…」とだけ溢す。


「ぼこぼこ気泡だって上がっていたろ? あれは何でも溶かす劇物のマグマみたいなものさ、キミには解らないだろうけどね。──さて、用意すべき準備も残り少しだ。“小道具”は作ってあげたんだから、後はキミがちゃんとこなしてくれれば問題ない……筈!」


 そう言ったマーリンの足元から何かが土を掘り起こしていく音が聞こえ始める。

 ずずっずずずっと決して小さくないその振動と音に名無しはつい身構えるとポコン! と土を突き抜け顔を出したのは草花。

 しかもそれは──、


「ロヴィっ……!!」


 ぱかっと開かれたハエトリソウの口からペッと吐き出されたのは狼竜、ロヴィオ・ヴォルグ。

 未だに意識のないそれにすかさず駆け寄ろうとした名無しに、その前をマーリンが立ち塞がった。


「さて、ボクの“お願い事”を叶えて貰うに手順が必要だ。」


 どきり、と脈打つ心臓も無いのにその言葉で胸の内が跳ねる。




「子捕り子捕りと童を拐い、背追う背負うは“仏”か、はたまた“鬼”か──。」




 かつ、かつ、と地べたをブーツが音鳴らす。

 片割れとの間に立つ彼がゆっくりと迫り、自分よりも少しだけ背の小さくて上目遣いに見上げられた金の双眸が自分をハッキリくっきりと捉えていく。




「“鬼ごっこ”で捕まえたキミは今や“戸”の中、奴等はキミを誘き出そうと躍起になる筈。だからキミの代わり・・・に願いを叶えてくれる“代理”を作る序でに、今度はこちらから遊んであげよう・・・・と思うんだけど──ねぇ名無し、“かくれんぼ”とか楽しそうだと思わない?」




 にんまりとしたり顔の彼がそう言って“何か”を自分へと差し出す。

 棒立ちのままどうしたら良いのか解らない名無しの手を取って、その掌に置かれたのは藁で編まれた“人形”だった。



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