29.すずやかな音色、タールの黒色。


 何もかもがどうでもいいと思う自分でも、心の底から嫌悪する程に嫌いなものくらいはあった。




 一つは“嘘つき”。

 それは誠実さの欠片もない、自分本意で自らの悪行を誤魔化し他人に擦り付ける悪党だから。


 二つ目は“女扱い”をされる事。

 自分は間違いなく男だ。

 それを他者から見た目だけで違うものに捉えられ邪な目で見られると、どうにも“昔”を思い出して虫酸が走るから。


 三つ目は“亡霊”共。

 いつもいつも飽きもせず際限無く自分を求めてくる、無様に届かない生にすがる愚か者共だ。

 幾ら生きとし生ける者から寿命を貪り喰おうと底蓋のない器に蓄えたって何も意味をなさない、寧ろ無駄に浪費している事すら気付かないのだから救いようがない。


 四つ目は“神様”。

 奴等に祈った所で何をしてくれる訳ではない。

 気が向いた時にだけ、こちら人間とは酷く乖離した解釈で“余計な”お節介をするだけだから、いつだって介入してこようものならありがた迷惑甚だしい結果ばかり残してくる厄介な存在。


 五つ目、“信仰”。

 それはいつだって自分を狂わせ歪ませる劇物原因となるもの。

 昔はそれで“蕩尽消費”され続けた。

 今はそれで“弾圧消耗”されてきた。

 だから信仰されているものも、されるのも、するのも、している奴も、全部全部嫌いだった。




 時が経つ程に、物事を知れば知る程に許容出来ていたモノが減っていき、嫌悪するものが増えていく。

 どうでもいいと投げ捨てられる気持ちが在り続けたのならばどれ程良かった事だろう、善いものはどんどん掻き消されていくのに悪いものだけが自分の中にどんどん積み重なっていく。


 当然だ。

 透明なのだから染まりやすい。


 落ち着いていての様だった透明無情な自分を波立たせる苛立たせる冷酷で熱情的なまでの黒いタール悪い感情

 その色ばかりが自分に色を染めていき、他の色を入れた所で黒が埋め尽くしてしまうのだから染まれば染まる程に元の自分と遠ざかっていく。

 戻れなくなっていくんだ。


 そうやって元より透明なもので満ちていた中身を染めて濁らせて波立ち自分らしさが無くさせて、学び得えきた知識から生まれた“理性自制心”が「それは間違っている」と教えてくれた所で沸点の低い容量がいっぱいな色が付いたそれが感情火種を切っ掛けに簡単に頭を逆上のぼせ上がらせる。

 一度火がついてしまえば一向に止まることが出来ないから、酷く激しく自分を燃やしてしまい理性を溶かしていくのだ。

 得てしまった感情火種止め冷静にさせてやくれないのだ、それがより自分を黒く濁らせていっているのが解っていたとしても。




 そんな悪い方へ転がって染まってしまった自分は、いつか見た「綺麗だ」と思った新しい自分の“姿”に全く相応しくない在り方をしている事にいつしか気付く。

 真っ白で穢れなく純粋無垢な彼の隣にいる、見た目は良くなっても中身はすっかり穢れきってどす黒い自分。


 そんな自分が在ろう事か彼の“片割れ”として存在している事に、その雲泥の差もある不格好さに自覚無く“恥知らず厚顔無恥”だった自分は軈て“恥ずかしい劣等感”という羞恥心を知る。

 それでどうにか自分を変えようと、奴等の様に偽る事無く誠実に在ろうとしたところで汚れは酷く目に付き易く、白い彼に引っ付いた自分穢れを良く思わない他人からは非難轟々。

 何処へ行っても疎まれた。

 そして感情が付いた硝子の身体に意思を投げ付けられるのだから、ひび割れて溢れた黒い水憎悪が引火して勢い良く啖呵切って爆発怒る──そうなるともう自分では止められない。


 それ故に迷惑ばかりかけてしまうのだから彼に幻滅されない様にと、捨てられない様にって「良い子にならなきゃ」と悪足掻きに必死誤魔化して媚び売る様になっていった。




 だから・・・六つ目は、“自分”。

 正しく在ろうとすればする程に地べたを這いずる他ない自分が、一番惨めで無様で情けなくて……例え見た目だけが良くなっても片割れとも綺麗な身体とも全くもって不釣り合い。

 その癖嫌いなものと同じことばかりして人の事が言えないのに口から出るのはブーメランの罵詈雑言。

 ……一体何様のつもりなんだか。




 そうして自らドツボに嵌まっていって気付けばいつしか最下層、底辺なのに底無し沼。

 どうにか這い上がろうと手足をばたつかせた所で沈んでいくばかり、深みに嵌まっていくばかり。


 大嫌いな嘘で塗り固めるのだって嫌だから目を背けるなんて出来ないままで現実直視、自分に幻滅。

 自分の在り方を理解すればする程に中身はより腐っていく。


 そう自覚をしたからこそ、そんな自分に自信を持つ事なんて到底出来る筈がない。

 だからこそどうしようもなく穢れた自分はあの日彼に救われるべきではなかったのだと、冷静に為る度に思ってしまうんだ。






 *****






 これは“彼等”と出会うずっと前の話。

 “運命”と巡り逢ったばかりで、まだ・・恥知らずだった頃の話。






 *****






 彼は思う、どうしたものかと。




 両手は壁に押し付けられ自分の力じゃ抵抗出来ず、ならば足でと思えば股ぐらに膝をを入れられてしまい折角の二足は宙ぶらりん。

 背中はぴったりと壁と付けられて相手も身体を押し付けんばかりの距離の近さに蹴り上げることも敵わず。


 はてさて困った。


 手も足も出ないとなれば次はどうしようか? と考えていれば荒い呼吸音が顔に近付いて来るではないか。

 目を向けるのも嫌で俯くとそこでは自らの太股に何か膨らみを擦り付けられているのを見てしまい、感覚が無いが故に気付かなかったそれを嫌でも理解してしまうと思わず「うえっ」と吐き気を伴う声が漏れてしまった。


「ねぇおじさん、気持ち悪いから離れて欲しいんだけど?」


 近付けられた顔を逸らして言えば、今度は自分の口ごと顎を捕まれて顔を固定されてしまう。

 両手は頭上で纏めてまだ捕らわれたままなので、今度こそいよいよ危うい状況に顔をしかめる。


「■■■■、■■■■■(声を出すんじゃねェぞ、痛くされたくなかったらな。)」


 下卑た笑みを見せながらポニ語ではない理解の出来ない言葉で返す相手の男に、例え理解出来る言葉とて元より聞く耳は無い彼は抵抗する術を奪われてしまい暖簾に腕押しの如く面倒な厄介な事に思わず溜め息が出てしまう。


「(なーんで、こうなっちゃうかなー?)」


 男は彼の目尻をねっとりと嘗めると彼の衣服の中に手を滑り込ませていく。

 作り物と言えど滑らかな若い皮膚が男のがさついた手で撫で回されていく様を視界に入れてしまい、思わずぞわぞわっと内側から背筋を嫌に擽る感覚が走る。

 耳たぶを食まれてしまっては下品な水音が鼓膜に響かせ始めて、流石にもう我慢の限界と──、


「何をしている?」


 男の後ろからぬっと現れたのは随分と背の高い大男だ。

 此方を見下ろす夕焼け色の目は薄暗い路地裏だと言うのに爛々と赤黒い光を孕み、どこの誰よりもずっと上に頭があるそれは屈みながらこちらを伺ってくるその威圧感は凄まじい。


 目の前の男が楽しみを邪魔されたと舌を打つ。

 そして文句を言おうと後ろの相手を見た瞬間、予想だにしない大男を見上げたその男は情けない悲鳴を上げると一目散に路地裏から逃げ出していってしまった。


「……何だったんだ? 今のは。」

「ロヴィー!」


 逃げ出した男の方角を見詰めてきょとんと不思議そうに呟く大男。

 そこに男から解放され、ぽてんっと放り投げ出されては地べたにへたり込んでいた少年が嬉しげに彼の愛称を呼び、その大きな胸元に抱き付いて頬擦りをした。


「ありがとーロヴィ! おれもうちょっとで襲われちゃうところだったぁ。」

「襲……? そんなに危ない状態だったのか、御前が?」


 イマイチぴんと来ていないらしい彼は首を傾げるも、直ぐに眉間に皺を寄せて苦々しげに鋭く尖ったを見せた。


「それよりも相手の方が危なかったんだろうが、御前はまた気に入らん人間を呪い殺そうとしていただろう……!?」


 怒号と言う程では無いけれども厳しい口調にて少年を叱りつける大男。

 それからは完全に説教の口調となりくどくどと講釈を垂れる相手に、不服そうに頬を膨らませた少年はふいっとそっぽを向いた。




 少年──今此処では“ニエ”と呼ぼう──は今、ポニ日本と呼ばれる双子島を出て一番近い大陸、チナ中国地方にある商業盛んなとある大きな街へと訪れていた。

 そこはかつてポニに住んでいたらしい人間達が“とある事情”により住める環境ではなくなってより、辛くも移住した先が此処だったということもあってか此処に住む者達の多くは何処と無くポニを連想する“和風”な装いや建物が多い。


 

 普段は人の居ない自然豊かな森や山々を転々と巡る旅をして、人里になど滅多に降りる事はない……と言っていた彼──“ロヴィオ・ヴォルグ”。

 そんな彼が珍しく「寄りたい所がある」と言ってきたのは彼とまだ出逢って一年も経っていない、漸くニエが不自由無く走り回れる様になったくらいの頃。


 一度助けてやれば恩を仇で返され、時には魔物の一つと迫害された事もあるロヴィオと、天涯孤独故に育ての親同然の村人達から理不尽な仕打ちを受けて命を落とし、恨み辛み募らせて悪霊にまでなってしまったニエ。

 互いに人間に良い印象を抱えていない者同士、普段ならば人里は避ける程でもあったけれども、その時はそう言った理由もあり二人・・は珍しく人間横行する街へと繰り出しては“人”に化けて紛れ込んでいた。




 そこは付近で一番大きな街である為か、何処へ行っても売店や人の群れが多く流れも激しく、二人は慣れない人混みに揉まれる羽目となってしまった。

 初めて経験する人の多さに酔ってふらふらとしていたニエは、うっかりロヴィオの服から手が離れてしまいいつの間にやらはぐれてしまったのだ。


 元よりロヴィオより遠く離れる事が出来ない身体ではあるからそう離れては居ないことは確かでも、行き交う人間の壁に阻まれて途方に暮れていた所を先程の男に裏路地まで拐われてしまったのだ。

 それから身動きを取れなくされあわや襲われそうになった所を、ロヴィオが駆け着けた──それがこれまでの経緯。


 確かに不愉快な思いをさせられて少しばかり痛い目に遭わせようかと思ったのは事実であるが、都会で一人取り残されて多少は……否結構寂しい思いをしたのも事実だ。

 それだというのに、ぐちぐちと大人ぶって説教垂れるこの“わんこ”にニエはぶすっとした不満たらたらな表情のまま彼の言葉を聞き流していた。


「御前が一度他者を呪うと辺り一帯が祟り場になって大変な事になるのだぞ。しかもその解呪とて中々に厄介なのだから、例え使うにしたって使い時をちゃんと良く見極めて……おい! 聞いているのか?」

「あーもー煩いなぁ、良いじゃん別に! だって先に手を出してきたのあっちなんだしさー。」

「だからといって……嗚呼もう、解った。この話は止めにしよう。」


 相も変わらず都合の悪い事には聞く耳持たずなニエに、彼は重い溜め息を溢す。

 ロヴィオとてしつこい方ではない。

 獣の時ならば多少は融通聞くのに、人に化けた時だけ途端に不思議と聞き分けが悪くなってしまう相手のニエが聞く気がないのを察した彼は、そう言って軽く首を横に振ると踵を返して何処かへ行こうとする。

 すると不貞腐れていたニエが今度は不安な顔持ちになり、彼の身に付ける衣服の裾を握り締めると自分よりずっと大きな彼を見上げて泣きそうな声を上げ始めた。


「待って……! 我が儘いうからおれの事捨てちゃうの? やだよ、解ったから…言うこと聞くから置いてかないでよぉ……っ。」

「……誰もそこまでは言っていないだろう、移動するだけだというに……嗚呼もう、泣くな泣くな。御前を置いていく訳が無いだろう……!」


 彼の胸元にしがみついてぐすぐすと泣き出してしまったニエ。

 まるで幼子のような振る舞いは14歳くらいの見た目にして偉く子供っぽいが、彼が本来死去した年齢は12歳ともう少し幼いもの。

 それも生前とてとても幸福だったとは言えない在り様だと言うのに、それから更に何年何十年何百年と長い間自らが死んだ場所で一人ぼっち。

 住んでいた村が廃村となった後にもずっと孤独に虚無と苦痛の時間を過ごしていたのだから、彼にとって寂しさ程堪えるものはないのだろうとロヴィオは胸の内に思う。

 故にその寂しがり屋な子供に対して無下に等出来ず今も、初めて出逢った時も、いつだって放っておけなくて結局いつだって最後には必ずその小さな頭を撫でて「大丈夫だ、御前を置いては何処にも行かん。」と優しく口にするのだ。


「大体な、私が御前の身体を食べたのだからどれだけ離れようと出来ないのだし、御前だって俺が嫌がったとして付いてくるのだろう? 何をそんなに不安がるのだ。」

「……ぐすっ……ロヴィにきらわれたくないもん……」

「私が御前を嫌う訳ないだろうに……ほれ、涙を拭かんか。おのこだろう?」


 そう言って彼は身に付けている北方の民族衣裳のような服の口の広い裾の端を通した手で掴むと、それでニエの頬を濡らす水滴を拭い取りニエ自身もまたもう片方に流れ落ちた涙を腕で拭った。

 涙を拭った袖に黒色が滲む。

 彼はそれを気にする素振りは無くともニエの目が届かない所で影響を届けさせぬよう微弱に祓いながら、まだ晴れやかとは言えない顔つきではあるもののやっと目を合わせてくれたニエにロヴィオは頷く。

 そして自身よりもずっと小さく感じるニエの袖に隠れた手を取ると、薄暗い裏路地から日の当たる明るい街中へと足を進めていくのだった。


「またはぐれてしまうのは手間だからな、もう手を離すなよ。」

「……うん。」

「それから、今日は悪いがこの街で宿を取る。…否、元は人間の御前には野宿よりも此方のが良いのか? ……まぁ良い。私も慣れぬ故不便をかけるかもしれんが、赦せよ。」

「うん、解った。……俺は人がいる所より、ロヴィと二人っきりの野宿の方が好きだけど。」


 近寄ってくる動物と亡霊共がちょーっと邪魔だけど……なんて、ぽつぽつと返される返事にロヴィオは苦笑する。

 ニエにとって自分の何がそこまで気に入って貰えているのかは未だに理解が出来ないけれども、この少年の真っ直ぐな好意はなんだか擽ったくて思ったより面映ゆいとロヴィオは常々思ってしまう。

 そんなことを考えながら人混みの中を時折人にぶつかっては小さく呻くニエを引き寄せて、自らの身体を盾にしながら彼等は目的の場所へと向かっていった。




「……此処だ。」


 街の奥の方へと進んだ先にはポニ独特の“和風”である木造の平屋建てな建物が並ぶ中、一際特殊な風貌の白く石造りであり仰々しい硝子の装飾を建物の高い位置で魅せるように埋め込まれた施設らしき場所。


 ロヴィオの影から口を開けて見上げるニエは、その硝子の装飾を見るや否や掴んでいた裾を引っ張った。


「ねぇ、ねぇねぇあれってさ、ロヴィオ?」

「……聞くな。人間の感性はげに理解出来ん。」


 苦虫を噛み潰したような顔をしてロヴィオははっきりと答えなかった。

 しかし寧ろそれが答えであることをニエは理解する。

 見上げた硝子の装飾には鬣と鱗を身に纏った狼の姿が映っていたのだから。


 狼の背中には夜の帳のような星を纏う翼の幕が広げられ、それの周りを魔物らしきものが蹴散らかされているような、そんな絵画のようなもの。

 人はそれを“ステンドグラス”と呼ぶのだが、如何せん二人は人の世に疎いのでその名称など知らないし知ろうという気もない。

 ロヴィオの獣としての姿を知る者なら、それが彼である事は明白だろう。

 巧みな技術で美しく彩られたそれに関心こそすれど、描かれている内容については彼を知るニエにはそれを作った人間達と齟齬が生じているようにしか感じられず、苛立たしげに顔をしかめた。


「(まるで魔物から自分達を守ってくれる絶対的存在って言ってるみたいで……胸糞悪いな。)」


 そして「けっ」とやさぐれながら、隣の彼の裾を掴む手をより握り締めた。




 狼の態をした竜であるロヴィオは人と獣と関わらず、あらゆる理不尽から弱者を護る存在だ。

 時に、魔物によって命の危機に瀕した人間の町があれば行って魔物から彼等人間達を護り平穏を与える事だろう。

 しかし同様に、人間達が無闇矢鱈に土地を広げようと木々を伐採し森の生き物達の住みかを奪おうとするならば、彼は寧ろ人間達に牙を剥くだろう。

 獣も人間も区別無く護るのが彼なのだから、そこに贔屓目などは無いのだ。


 だからこそ、彼の一面しか知らない人間達は救われたのなら神と讃えて崇め奉り、害されたのなら魔王と呼称し憎み畏怖する。

 二人は出逢ってからまだまだ日は浅いのだけれども、それでも世間知らずだったニエからすれば彼と共に行動するようになってから様々なものを見てきた。

 そして彼の在り方を間近で見てきたニエはまだ全然知らない所は沢山ある彼の、害在るものには容赦はなくも人間にも魔物にも誰に対しても真摯で真っ直ぐで慈悲深くもある善性の塊のような、そんな獣の姿を見る度に“綺麗だ”といつだって心から感心してしまう。

 下劣で下等なものばかり見てきたからだろう、元より秀でてそうな彼の在り方はそれを知らないニエには酷く突き刺さり、同時にそんな“綺麗”なモノの傍にいる事を許されている事に誇らしくも眩しく、何だか得をしている様な気になってしまうのだ。


 他者を呪い祟るしか出来ない悪意の権化のような自分が、そんな彼の側にいる事はある意味奇跡に近いだろう。

 偶然あの場を訪れた彼に見付けて貰い、惻隠の情を持ってして野晒しの死骸を悼み弔ってくれた事で、死して尚漸く生まれて初めて幸福感という胸の内を憎悪以外に満たされる感覚を覚えた。

 それを教えてくれた恩ある獣であるロヴィオを、もっと良く知りたいと願った矢先に彼自身と同化してしまったあの出来事は今も尚ニエの内に一際輝く記憶であり、彼を慕い付いていく理由にもなっている。


 そんな彼を、“魔王”と呼び排除しようと刃を向けた者達と道中に遭遇した事がある。

 まぁ魔法を使えない非力な人間の群れなど、力量差は歴然で掠り傷一つもなく彼は往なした訳だが──、


「御使い様だ!」


 白い建物の敷地内で疎らに群れていた、街の人間とはまた違った装いの衣服を身に纏った人間達の一人が此方を見て輝かんばかりの笑顔を見せると一際大きな声でそれを口にした。

 すると波紋のようにそこにいた人間達へとそれが伝わっていき、瞬く間にロヴィオの周りに集まってくるではないか。


 突如眼前に築かれた人の群れの壁に心底不快な顔を浮かべるニエが助けを求めるようにロヴィオを見上げると、此方もまた複雑そうな顔持ちで脂汗を滲ませながら口を一の字に閉ざして固まっていた。


「御使い様がいらっしゃったぞ! 司祭様を御呼びしろ!」

「御使い様が来るなんて、今年は良い事がありそうだ!」

「御使い様! ずっと貴方様に御逢いしとうございました!」

「御使い様!」

「御使い様!!」


 幾つもの憧憬の眼差しがロヴィオ一点に向けられる。

 獣なのに人が良い彼はそれを拒絶する事も出来ないらしく、困っているらしい様子の彼にその群がる人の壁に苛立ち始めたニエが人知れず指先に黒い雫を垂らした。

 そして内側に燃え上がり始めた憎悪に、慈悲すら持たずにそれを彼等に向けようとした時だった。




「お前達、御使い様が御困りになっているのが解らぬのですか? 早々に散り、各自やるべき事を果たしなさい。さもなくば御使い様も此処へは二度と訪れなくなりますぞ。」




 初老の男が建物より現れた。

 彼のその一言により、人の壁からあれ程発せられていた歓声の如き声は止み、軈て散り散りに去っていってそこで漸く二人の視界は広く空けられる事になった。


 安堵に胸を撫で下ろすロヴィオと影で舌打ちをするニエ。

 そこへ老人は近付くと、自身の胸の前で祈る動作をして見せては二人に向けてにっこりと微笑んだ。


「長旅の中此処へ御足労頂き、誠に光栄かつ感謝の念に堪えられませぬ。折角貴方様がこの大陸の辺境であるこの地へ御越し頂いたのです。私共一同、貴方様の旅の疲れを癒したく歓迎の宴を今夜執り行いたいので、是非ともどうかごゆるりと御寛ぎくださいませ。」


 そう言って頭を下げると、ロヴィオの影に隠れるようにして頭を出していたニエを見て男はその目に一瞬動揺の色を見せた。

 しかしそれも直ぐ様取り繕われて、穏やかに笑って見せた彼はニエへもその微笑みを向けた。


「…此度は珍しく御連れ様もいらっしゃるようで。皆揃って腕を振るい、御二方への歓迎の席を作りましょう。」


 そして深々と腰を曲げると、頭を上げた男は踵を返した。

 側に居たもの達に何やら指示を与えながら、来た時よりも足場やにてあの建物の中へと消えていったのだった。


 先程より慌ただしくなった人間達を眺めて、少しばかり緊張をほどいたロヴィオが自分の後ろに隠れていたニエを脇から覗く。

 腰の辺りで服をぎゅっと握り締めたまま先程の男の去った場所を無表情に見詰めて、人間であれば誰に対しても警戒心を持ってしまう彼のそな様子に「仕方がないな」と息を吐く。

 そして久し振りとはいえ勝手知ったるその場所かつその誘いに、彼の警戒心を解こうと気を張り詰めているその頭を撫でると口元を緩めてそれを口にした。


「……という訳だ。毎度の事で、先方の善意故断るに断れんのでな。すまんが今日は──、」

「ん、何の話?」


 話している最中にきょとんとした顔のニエが此方を見上げた。

 おや、と思ったのも束の間、ロヴィオがそれに思い至る前に渋い顔をしたニエは先に口を開いた。


「あの糞野郎、人の事じろじろ見ながらうだうだ喋ってても、ポニ語じゃないから何言ってるのかさっぱり解んないよ。」


 唇を尖らせて不満げにぶつくさと文句を垂れるニエに「しまった」とロヴィオは頭を抱えた。






「……よし、これでもう理解出来るようになった……筈だ。」


 ロヴィオの声に目を固く閉じていたニエがしぱしぱと瞬きを繰り返しては彼を見上げる。

 魔法を施していたらしいロヴィオが掌が宙に翳しているのが視界に入り、つい無意識に上目蓋が痙攣した。

 彼はそれに気付く事なく頭を軽く撫でて「もう大丈夫だ。これで他の言語も問題無かろう。」と優しく笑む様に此方からも笑みで返すと、彼を“御使い様”と呼んで招く人間の方へと足を向けるのを見詰めた。


「もう大丈夫……か。」


 翳された大きな手に脳裏にちらついた過去の記憶を思い起こして、彼に撫でられた頭に触れる。

 当然、彼から撫でられようと自分で触れようと関係無く、頭に置かれた手の感触など微量たりとも感じられない。


 目の前に手が翳されると思い起こすのは、あの忌まわしい“死に間際”。

 彼が理由もなく自分を害する筈がないのは暫く過ごしていく内に解ってきているつもりだからこそ、有り得ないとは確かに思っている。

 それでも魂だけの存在になってもあのたった一瞬の出来事が酷く身に染み付いてしまったが故の、死んでから気付いた反射のようなその癖にはほとほと嫌気がさす。


 それでも──、


「……ふふっ」


 くしゃりと乱しながら髪を掴むと擽ったそうにはにかんだニエは、嫌な記憶を塗り潰す様な手の動きと鼓膜を揺らすその優しい声音を忘れまいと思い返しながら、自分を呼ぶ彼へと視線を向けた。


「どうした? 早く此方へ来い。」

「うん! 今行く!」


 すっかりと晴れやかな心地になったニエは彼の元へと駆け出す。

 揺蕩う振り袖を揺らしながら草履を履いた足を交差させ、漸く上達した駆け足で敷地へと足を踏み込んだ──その矢先、ばちんっと痺れと痛みが伴う衝撃がニエを弾き出した。


「あだっ!!」

「ッ小僧!?」


 見えない“壁”のような何かに阻まれたニエは後ろへとよろけていく。

 それを咄嗟に駆け付けたロヴィオが、彼が崩れ落ちる前にその身体を抱き止めた。


「ぁ痛た……何? なんかビリッて来たんだけど……。」


 じゅうぅ……と焼ける音が自分の身体の内側から響いてくる。

 何が起きたのかと何かにぶつかったらしいその場所見上げてみれば、そこに何があるのかは見えないけれども当たった部位らしい場所から黒い煙が立ち上がっているのが見えた。

 それを見たロヴィオが元より低い男らしい声を落ち込んだようにより低く唸らせ、申し訳無さげにニエへと頭を垂れた。


「聖域の結界だ。不浄の特性を持つ御前には酷だったな……すまない、私の配慮が足らんかった。」


 元の姿だったら彼はきっとピンと立たせた三角形の耳は力無くへたり、ふさふさの尻尾の先は地に向いて垂れ下がっていた事だろう。

 今は人間の姿に化けている彼が項垂れて落ち込んでいるのだが、そんな彼にニエは一ミリ足りとも怒りを湧かせようとは思わない。

 気付かなかったのならしょうがない、彼とて悪気がなかった事に偽りは無いことくらい“声”を聞けば一発で解るのだから。


「ああ~そういうコト。はぁ~なるほどなるほど……。……うん、もう平気。大丈夫だよ。」


 聖域に触れてしまい燻っていた足の一部が焼けて蝋の様にどろりと液状化して形を崩していたが、ニエがそれを見せている内に傷口から溢れ出した黒色の水がさらさらトロトロとした流体からどろりと重みを含めたスライム状へ粘度を増すとそれは足の形へとなっていく。

 そしてぐねぐねと形を歪ませながら定めていくと整形し終わったのかぴたりと蠢くのを止めると真っ黒から真っ白へと変色し、それは傷一つ無い元の形である足へと固形化したのだ。


「ちょっと油断しちゃっただけ、次はこうはならないよ。中に入るんならこれ壊して良い?」

「それは出来ない。仮にもこれは彼等が身を護る為の手段なのだ、破壊してしまっては彼等の為に成らん。」

「むー……じゃあおれは外で留守番? やだなー、また独りぼっちかぁ。」


 ぶーっと不満露に声に出すニエ。

 それに思案顔をしていたロヴィオが顔を上げると、不意に頭上へと手を翳してきたのでニエは思わず目を瞑ってしまう。

 つい反射で瞼を閉じてしまったけれども、そこから何か流れ込んでくる感覚を覚えてぱちくりと目を開けてみれば、視界の上で翳された手から魔力の粒が淡い光を帯びながらフワフワと浮かび、それが自分へと送り込まれる事に気付く。

 思えば何だか翳された頭の天辺からゆっくりと水をかけられているかの様に少しぱちぱちちくちくとした弱い感触を伴った何かに包まれていくのを感じた。


 そしてそれが終えたらしい彼が自分の手を引いて立ち上がらせると、決して強引ではない緩やかな力でニエの身体をゆっくりと引き寄せて聖域へと近付けさせた。

 彼の手を拒む事無くそれに付いていき、先程ぶつかった見えない壁の目の前までいくと先程の衝撃が脳裏に浮かび思わず息を呑み込む。

 それでも足を動かして敷地内へと踏みいれると、あれ程自身に衝撃を与えた壁が嘘のよう感じられずに素通る事が出来た。


「即席のものだが、聖域を無効化させる加護……というよりは呪詛だな。本来ならば害を与える妨害術ではあるが、元々怨念で出来ている御前には味方するものになるな。」


 神聖に焼かれる事無く通れた事に目をキラキラと輝かせ感動しているニエにロヴィオはそう言う。


 しかし彼自身が善性の神だからだろうか。

 反対の属性を扱うには多少の無理があったらしく、ぽつりと小声で「慣れない事をした……。」とぼやくのが聞こえて見上げれば、術を施すに使っていた手をふりふりと振り払いながら僅かに眉間に皺寄せていた。

 そしてその揺らしている手をじっと見詰めて何も言わずに固まったままのニエに、不思議に思ったロヴィオは「大丈夫か?」と訊ねると彼はふるふると頭を横に振り「おれは・・・大丈夫」と返した。


 身体の中でぽかぽかとした日向の様な心地が広がっていく感覚に、ニエはほう、と息を溢すと身を落とす様にそれに浸る。

 彼の魔力が流れ込んできた余韻だ。

 いつもなら彼が獣の時に頭に響く“声”を聞くだけでもなるその夢見心地に、今日はずっと人型のままで味わう事の出来なかったからとニエはじっくりと胸の内にて味わった。


「(ああ……幸せだ。こんなに満たされてしまったらどうにか・・・・なってしまいそうな程に……。)」


 噛み締める様に瞼を閉じ、黙りこくって身動きを取らなくなったニエにロヴィオが心配そうに顔を寄せる。

 それに気が付き、十分に味わい終えたニエは彼が呪詛を施すのに使っていた手を手繰り寄せると自らの口元に寄せて、うっそりとした笑みに口角を吊り上げて彼を見詰めた。


「ありがとう、ロヴィ。でも駄目だよ。ロヴィは綺麗な神様のままでいなくちゃ。”他人ヒトを呪わば穴二つ”、呪ったらキミまで呪いに穢されちゃう。……そんなキミをおれは見たくは無いよ。」


 大きな手に頬擦りをしてから徐々に唇を這わせていくと、辿り着いたその小指球に歯は立てずに“かぷり”とんだ。

 かぶり付いた口元から何か黒い燻りのようなものが漏れ出すのがロヴィオの目に映る。

 呪詛の臭気だ。

 神聖か不浄の属性を持つ者ならばこそ見えるその煤煙がふわりと浮かぶ様を目にした瞬間、ぱきん、と何かが脆く砕ける音がした。

 そして口を離したニエがざりざりと何かを咀嚼しているらしい音を立てながら、袖で口元を隠しながらにんまりと笑みを浮かべた。


「ロヴィのとはいえ余所の汚物呪いが付くのは不愉快だし……んむ、ふふふ、食べちゃった。これ、もう覚えたからさ、もう二度としないでね?」


 そう言うと口元に付いた黒い煤汚れみたいなそれを、親指で掬って嘗めとり「御馳走様」とニエは満足そうに呟いた。


「御前な……良くそんなものが喰らえるな。気分が悪くなったりしないのか?」

「んー? 糞程に不味いし食えたもんじゃないけど、これが一番手っ取り早いんだよねー。」


 自身の素朴な疑問にニエが素っ気なく、というよりどうでも良さげに答える。

 しかし何か気付いたみたいな様子で顔を寄せるとパアッと顔を明るくさせてそれを言った。


「あ、でもでも! ロヴィのものだと思うと美味しく感じるかもしれない! ……待って、それってロヴィの“一部”を食べた事になるよね!? ああーっどうしよう、そう考えるとお腹の中までロヴィに満たされちゃう~!」


 一人で話を勝手に飛躍させ、何を考えてか紅潮した両頬を手で包み込んで恍惚とした表情を浮かべ身悶え始めたニエに“またか”と嘆息を溢したロヴィオは冷めた視線を送る。


「ああーっどうしよう、そう考えたらもう気分が昂っちゃって堪んないっ……もしかしてこれってば“隠喩”ってやつ? やーんっロヴィってば“お誘い”上手ーっ!」


 そう言ってはまた余韻に浸りはぁっと熱の籠った息を吐き、とろんと蕩けた熱を孕んだ眼差しをロヴィオへと差し向けるが、当の彼は“相手してられん”といつの間にかニエを放っぽってスタスタと歩き去っていた。

 その先には二人を待っているらしい人間が建物の側で遠巻きにこちらを眺めて佇んでおり、どうも彼はそちらの方へと向かっている様だ。


「馬鹿な事を言ってないで、さっさと行くぞ。」

「あっあっ、待って! 置いてっちゃやーだーっ!」


 急かす彼の声に慌てて駆け寄っていく。

 そして彼の腕に飛び付くともう置いていかれない様にとぎゅうと抱き締めた。

 すると今まで自分に構わず進んでいたロヴィオの歩みがニエの歩幅に合わせてゆったりとしたものになり、此方を向いてはくれないものの抱き締めていた腕の先の手が自分の目の前で開かれた。

 その手に自らの袖越しの手で握り締めればよりそっぽを向いてしまったロヴィオに、彼の心情を察しては“素直じゃないなぁ”とニエは隠れてくすくすと笑みを溢すのだった。


 彼は格好付けたがりなのだ。

 立場もある、年上でもある、大人の自覚とてあるし使命だってある。

 等しく全てを慈しみ庇護するからこそ、何か一つを贔屓する事に慣れていない。

 だかれ他の誰にもしないことを、慣れない事をすると拒めば酷く落ち込むし、受け入れたらとても嬉しく思うのか平常心を装いながら背後の尾っぽが砂埃を上げてしまう。


 だから彼は“子供らしく”彼の前では振る舞う。


 本当はもう何百年も前に死んでいるのだから、中身とて何だかんだ言って成熟している──否、達観視・・・していると言っても差し支えないと本人は密かに思っていた。


 けれどもいつか見た森での出来事。

 獣達の営み、生活の一風景。

 一つの獣の親子が寄り添い合う姿を見た。


 あの時に隣でその仲睦まじい親子を見詰める彼の目はとても穏やかなものだったのだけれども、何処か酷く悲しげにも見えてそれが頭に焼き付いて離れない。


 どうして、あんなにも寂しそうな目をしていたのだろう?


 彼は余り自分の事を話さないのだから、結局聞けずじまいのまま。

 だから理由は知らない。

 でも“求められている”事には何となく解った。


 彼は“庇護出来る子供”を求めていた。


 物言わずとも“願い”には敏感なニエはそれを察してより、自分が“そう”なる事で人知れずその願いに応えた。

 そうすることで彼の傍に立ち、自分の“願い”が叶うその時まで彼から貰ったこの“夢見心地”を御返ししたい。 


 そう思って、自分が“何を願ったのか”なんて事を頭から抜けて、自覚・・もなしに罪を重ねながら呑気に彼の隣を居座り続けていた。




 (きっと、この時の出来事はその“罰”だったんだろう。)




 彼の隣でにこにこと、繋いだ手を揺らしながらご機嫌な表情ですり寄る動作で彼の腕へとぴとりとくっ付く。

 まるで頬擦りするみたくその腕に顔を埋めてクスクスと笑みを溢すと、人知れずとある方角へと表情を無くしたその冷めた眼差しを送る。


 一瞬だけだ。


 彼も含め誰にも悟られる事がない様に、ステンドグラス越しに自分達へ不快な視線を向ける相手へと睨み付けた。






 その施設の人間に案内されたのは来客の宿泊用とはいえ、随分と豪勢な部屋だった。


「すごーい! 明るい、隙間ない、ボロボロじゃない、屋根も窓もあるし家具もある! 布団も……うわっ何だこれ、ふかふかだー!?」


 きゃっきゃっと幼子の様に部屋の中をはしゃぎ回るニエを「コラはしゃぐな、落ち着け」と呆れ顔のロヴィオが窘める。

 その二人の様子に戸惑いながらも、愛想よく笑みを見せた案内人が一通りの説明を終えたからか「では、ごゆっくりどうぞ」と言葉を残すとパタンと扉が閉められる。

 そして部屋の中で漸くニエと二人きりになれたロヴィオが、張り詰めていた緊張の糸をほどいて肩の力を抜き肩を落とした。


「“御使い様”は大変だねぇ?」

「言うな。……これだから苦手なのだ、こういうのは……。」


 がしがしと頭を掻き乱して、ふくよかなベッドで寝そべっていたニエの隣に腰掛けるとそこへ彼へと擦り寄ったニエが「お疲れ様、ロヴィ」と呟くとそっと伸ばした袖の手を彼の顎下へと滑らせていく。

 溜め息を溢しかけた牙の見える口がそれに気付くと閉じられ、僅かに上向かせては許しを得たとばかりにニエの手が彼の喉元を撫でた。

 そうすると切れ長な鋭い目付きだったそれがとろんと気の抜けたものになっていく。

 喉からは心地良さげな唸り声を出してニエへと凭れ掛かると、余程気疲れを起こしていたのか彼は次第に身体の力を抜いていった。


 最初出会ったばかりの頃ならば、ニエが頭に触れようしようものならば多少は警戒していたロヴィオ。

 共に過ごしていく内にいつからか気を許してくれたらしく、今ではこうも抵抗なく触れさせてくれる様になってくれていた。

 今は人の形をしていようとも元は獣の彼、喉元を撫でられるのは心地が良いらしい。

 それは人の形であっても変わらないらしく、すっかり自分に慣れてくれた彼の様子にそれを眺めていたニエがふにゃりと表情を和らいだ。

 そして彼の鬣と同じ色の髪に顔を埋めながらグルグル唸る喉元を優しく袖越しの指の腹で掻き、背中を撫でまくり、人の形をしていても犬みたいに寛ぐロヴィオを一頻り愛でていった。


「はぁあ~~………感触が解らないのが勿体無い、いつものロヴィだってきっとふわっふわのもっふもふなんだろうなぁ。」


 嗅いだところで鼻腔すら機能していない身体で彼を堪能しつつ、心底残念そうにそれを口にするニエ。

 くったりと気を抜いて犬可愛がり・・・・・を素直に受けるロヴィオを撫で愛でながら、その最中にふと思った疑問を思い出して寛いでいたロヴィオへとそれをぽつりと口にした。


「ねぇねぇ、“御使い様”ってどういうコト?」


 ニエの質問に落ち着いていた彼の表情が途端にげっそりと、嫌そう……というよりは苦々しく、まるで思い出したくない事を訊ねられたかの雰囲気で顔を引き釣らせた。


「嗚呼………それか…………ううむ…、」


 一気に疲労感たっぷりにどんよりとした顔持ちになったロヴィオが身体を起こしては、はっきりとしない口調の彼が気まずげにぽつりぽつりと言葉に現していく。


「その、だな。昔此処に、そのまま・・・・来た時に……ううむ……何と言えば良いのやら。」

「何かあったの?」

「あったと言えばあったし、ないとも……うーむ……。」


 腕を組んで考え込むロヴィオの隣で、共にベッドの脇に腰掛けて座っていたニエが彼の顔を覗き込むと、暫く唸っていた彼が長嘆息を漏らしては両膝に手を付いて大きく頷くとげんなりとした表情でそれを言った。


「………うむ、まあ、何と言うか……“今以上”に歓迎されたのだ。」

「はぁ……? 良いことなんじゃないの、それ。」


 ぶっちゃけ迷惑だけど、と付け足して毒吐いて言えば彼はそれに首を横に振って苦々しく続ける。


「あれは私も浅はかだった……まさか五日四晩と続く宴に、気付けば街の者総出で迫られたのだ。あの頃は今より人間が少なかったのは幸いだったが………あれ獣のままはもう、二度とせん。」

「それで人のフリまでして、飽くまで“御使い様”として来ている訳ねぇ……ふーん……因みに、何でそんな面倒な所にそう何度も来る必要が?」


 じとりとした眼差しを向けて訊ねれば、それに対しロヴィオは気まずそうに視線を泳がす。

 閉じられてしまった口に彼が余り言いたくない事を察すると「ま、別に良いけど」と呟き大の字になって後ろへと身体を倒すと──、


「………で、なんで“御遣い様”なの?」


 再び同じ問いを繰り返した。


「否、だから………嗚呼、そう言えば御前にはまだ言った事が無かったか。」


 一瞬苦い顔をしたロヴィオだったが、彼が何を訊ねているのかその真意に気付き彼は肩を竦めた。




「私は彼等に取って“神”に為るからだ。」




 何でもない様な口振りで彼は口にした。

 その答えに一瞬ニエの目が見開かれるも、寝そべっている彼の表情などベッドの縁に腰掛けたまま背を向けているロヴィオには気付く事が出来ない。

 そのままロヴィオはニエを気にすること無く、淡々とした様子でぽつりぽつりとそれを説明していった。


「獣としては、だがな。人としての姿は彼等にとって“神の御遣い”として、神からの使者として扱われている……と言うよりかは、私がそう説明して誤魔化したのだ。余りにも仰々しく扱われるものだから……。」


 そう言って彼は目元を覆うように片手で両こめかみを掴むと疲れの篭った吐息を溢した。


「私は元より“神の御遣い”だ、神ではない。彼等が本来の“神”の存在を知らぬのだから仕方がないとはいえ、それでも我が主を差し置いて私が崇めたてられるのは、どうも………、」

「べっつにいんじゃないのー? だってそのロヴィの“主”っていうの、なぁんにもしてくれない神様なんでしょ?」


 刺々しい毒の籠められた言葉がやさぐれているらしいニエの口から吐き出される。

 振り返り自らの肩越しにそちらを見れば彼は俯せへと寝転がり、ベッドからはみ出した足をパタパタとゆっくり揺らしながらベッドに頬杖をついていた。


「そんな神様、いてもいなくても一緒じゃん。ロヴィの方が崇められているんでしょう? なら一切合切何とも関わらない、そんな“お人形さん”みたいな何もしない神なんて無駄に立場があるだけ邪魔にしかならないよ。」


 そう言った彼の脳裏に浮かぶのは、居るのかどうかすら解らない様な“神”に祈りを捧げる村の“奴等”。


 始めは尽くした分敬われ感謝されていると思っていた。

 祈りを捧げる声に応え、感謝の言葉に身を粉にしてまで尽くした甲斐あったと思っていたあの頃。


 とんでもない、それは自分の思い違いだった。

 自分は只“便利な道具”として扱われているに過ぎないと気付いたのだから。


 願いを叶えさせているのは自分だと言うのに“神に愛されているだけ”と飽くまで仲介・・として扱われ、自分の背後バックに居ると思われている存在しない神にばかり祈りを捧げて自分の事など見向きもしない。

 高みの見物する神は何もしないというのに、尽くしている筈の自分だけ損を被る──そんな事受け入れられる筈がない。


「折角の万能を持ち腐れにまでして役に立たない癖してさ、権力片手にふんぞり返って居座ってるだけなら……人間や獣達と寄り添って力を振るうキミの方がよっぽど、全てを支配した上で崇め敬われるに足る“頂点”に相応しいよ。」


 求めているお前たちに尽くしているのは一体誰なんだ?

 一体誰の為に我が身削ってまでして尽くしてきたと思っている?


 そう問い詰めてやりたくなる程に尽くせば尽くす程に蔑ろにされてきた過去に、悪しきを挫き弱きを助け、罪有るものには罰を与えて罪無きものには温情を与える、公平公正で堅実に力を振るってきた彼を重ねる。

 救いを与えてくれるからと都合良く求められ、都合悪く害されるからと身の程知らずにも“害悪”と定められ嫌悪される彼。


 そんなの消耗するばかりなのは当然だ。

 仲介役手足たる駒に良い事なんて何一つとして無い、自分とは別の所に全部持ってかれてしまうから。

 そこに公平さなんてものがあるものか。

 どれだけ尽くそうと結局自分の首を絞める様な悪い事ばかり反ってくるのだから、いつか疲れて憑かれて心も身体も壊してもおかしくない。


 現に自分がそうだった。

 だから彼にはそうなって欲しくない……そう思ってそれを口にした。


「だからそんな神なんて引き摺り墜としちゃってさ、一層の事キミが乗っ取っちゃえば──、」

「駄目だ。それは絶対に許さない。」


 唆すような、煽るような声が皮肉を込めてつらつらと言葉を並べているとその途中でロヴィオが遮った。

 怒鳴るではなく、激しい訳ではないけれども必死感のある感情を籠められた言葉に、ニエが思わず口を閉ざしてしまう。


 正面を向いて俯いているらしい肩越しに見える彼の表情は見えない。

 肩に力が入って少しばかり持ち上げられて顎を引いて背中を丸めている彼に、身体を起こしたニエがそぅっと顔を覗き込む。

 それに抵抗される事は無かったが、視界に映った彼の表情はしかめて唇をきつくつぐみ、眉間に皺が寄ってはいるけれどもどうやら怒っている様子ではない。


「………ロヴィ?」


 顔が近かったからか耳元で囁く形になりながら、細やかな声音で彼の名を呼ぶ。

 するとどうやら気が昂っていたらしいロヴィオは息を震わせながら大きく吸い込み、そしてゆっくりと吐き出すと肩に入った力を抜いていった。

 そして眉間を摘まんでより上半身を落ち込ませると、ふるふると落ち着いた様子で首を横に振った。


「……嗚呼、すまない。少しばかりムキになってしまった。」


 溜め息混じりに、何故だか皮肉を言った自分へと詫びの言葉を言う彼。

 それにニエも首を横に振ると彼の肩に寄り添い、端正な眉を八の字に傾けては毒も棘もない穏やかに申し訳なさそうな声音で囁いた。


「ううん、おれの方が悪かったよ。ごめんね、ロヴィの主さんのこと貶して。………キミは主さんの事、とても大事にしてるんだね。」

「大事に………否、一番最初の産まれたばかりの頃に一瞬しか御会いしたくらいで、余り知らないのだが………とても無邪気な御方だった事は覚えている。」


 ニエの言葉に古い記憶を思い起こしているのか視線を逸らして歯切れ悪く言うロヴィオは暫くして落ち込む様に肩を竦めた。

 

「何も知らないのだ。只命を貰って、役目を貰って、地上に立つ前の最後に一言声を掛けて頂いただけで………それでも自分が役目を全うする事であの御方の力になれるのならばと、常々思いながら今まで世界中を回っていたのだ……だが……。」


 彼の頭が項垂れる。

 日に日に募らせていく彼の疲れが垣間見える気怠そうなその様子。


 彼は一度全てを“見放した諦めた”のだ。

 鼬ごっこの様な罪と罰の繰り返しに、どれだけ尽くそうと変わることがない。

 寧ろ泥沼に嵌まっている事に気付いてしまった──人間が彼を“背後バック”に権力を振るう様になってしまったのだから。


「………私は、何処で間違えたのだろうか。」


 ぽつりと呟かれた言葉。


「役目をこなせばこなす程に人間は驕り高ぶっていくと言うのに、獣達ばかり損をさせている……何故だ? 獣達は寧ろ“歩み寄ろう”とすらしているのに人間達はそれ阻むばかり……平穏を求めるのならば“排除”ではなく“理解”するべきだろう、それなのに……!」


 膝の上の拳に力が入る。

 ぎりっと牙のある歯並びから音が鳴り、苦し気に顔はしかめられた。


「……そうだ、あの時・・・だってそうだった! アイツは、■■■■私の同胞だって地上で苦しむ人間達に逸早く気付いて手を尽くしていた! それなのに、奴等は……!!」


 ぞわりと全身の毛が逆立った。

 自身の中で煮え滾っていく感情が自身を冷ややかにさせていく。

 いつもなら落ち着いていられたのが、いつの間にか衝動の引き金に指を掛けていた。

 空気が震え始め、心無しか何処かから“パキ、パキ”と微かな音が響き出す。

 何処と無く白んできた空間で、肺を燻らせ収まりきれず吐き出した熱を孕んだ吐息が煙となって透明な空気を“白く”塗らした。




「奴等はアイツを手にかけた! 人も獣も、草木ですら傷付けられんあの優しい“同胞”を!! 思い違いも甚だしい、人間共の勘違い如きで──!!」


「ロヴィ、ロヴィオ・ヴォルグ。それ以上は駄目だよ、戻っておいで。」




 その声にハッと視界に意識を向ける。

 今まで見ていた筈の景色はいつの間にか白く空気を曇らせて、先程と全く違う顔色を移す空間がそこにあった。


 視界に映るそれらは壁も、天井も、家具や空気ですらキラキラと細やかな粒を舞わせており、見るもの全てが“薄氷”に包み込まれていたのだ。


 吐き出した息が白んで、思わず身震いした身体に腕を擦って身を屈める。




 寒い、身体が“凍り付いて眠りに付いて”しまいそうだ。




 思わず瞼が降りてきそうな極寒の寒さに微睡み始めた意識が途切れ途切れになりかけた時、傍に寄り掛かってきた気配がうなじを掠めた。

 それがニエの手だと気付いた頃には、その彼の反対側に垂れ下がっていた細く長く編まれた三ツ編みをどうやら自身の方へと引き寄せているらしく、何をするつもりなのかと僅かに顔を上げて隣の彼の姿を視界に映す。

 人差し指の根元と親指で摘まんだまま、まるで髪をすく様にゆったりと手繰り寄せたニエはその髪を末端まで降ろしていくと、それをぴんと張らせては一の字にしてはぱくっと口に入れた。


 それには思わずびくっと肩が跳ねる。

 今は人の形ではあるものの、彼の三ツ編みは獣の姿で言うと“尻尾”に当たる部分。

 毛先故に感覚は薄くあるものの、唐突に尾を噛まれ……歯は立てられていない様ではあるけれども、その謎の行動に戸惑い汗を滲ませながらその姿を眺める。

 目を閉じてまるで骨を横向きに咥えるみたく口端から反対の口端へと通し垂れ流した髪を唇で食み、何やら吸い上げているらしい中此方を見上げたニエがにこりと笑んだ。


「………何をしている?」

「んー? ふぁふあう。」


 物を口に含めたままだから上手く言葉は伝わらずぼやける。

 戸惑いに戸惑いを重ねて顔をしかめていると、むぐむぐもがもがと咀嚼していたそれをぺっと吐き出したニエが“ぷはーっ”と息を吐いた。


「“邪喰剥じゃくばく”。………どう? 落ち着いた?」


 唾液まみれ……になっている訳ではないけれどもそれを袖で拭いながら言うニエに首を傾げながらも、思えば先程の煮え滾る様な感情がすっかり晴れている事に気付く。

 その彼の様子に満足そうに笑んだニエが返答は無くとも答えは得たと「良かった」と溢した。


「おれね、邪な善くないものなら直に食べられるのはロヴィも知ってるでしょう? それって泥とか砂みたいな酷い味なんだけど、その中でも“蛇”はまだ食べられる・・・・・味でね……。」


 “まるでそれだけは受け入れられるみたい”なんて言って、彼は居住まいを正そうと袖で膝元を払うとロヴィオの隣にちょこんと正座をする。

 背筋をしゃんと伸ばし太股の上に両袖を重ねて行儀良く座り、瞬く度に長い睫毛を揺らしながら彼を見詰めるニエは少しばかり遠慮がちに笑みを向けた。


「三ツ編みなら“くちなわ”っぽいからイケるかなーって思ったんだけど、上手くいって良かった。……人も獣も等しく護らなくてはいけないキミが、そんな憎悪なんてものを抱えるべきではないよ。だから──、」


 右手を持ち上げたニエが袖に隠したままの手を親指とその他の指で口を模してパクパクと開閉させると、へらりと気抜けた顔をしてそれを言った。


「ロヴィの中で悪いことを唆そうとする“悪心”はおれが食べちゃった。…死んでいて生きていないのに、欲があったところで“善くないもの”しか受け付けられないこの身体。それくらいしかまともに出来ないんだし、それでキミの助けになれればなぁ~って……ね。」

「……だからと言って善くないものを態々身体に入れる必要はないだろう。今は平気だとしても、身体の中で貯まった不浄が御前をいつかおかしくさせてしまう可能性だって在ると言うに。」


 項垂れたまま、溜め息混じりに言えばそれに対してニエは横に首を振る。


「元よりおれは“善くないもの”さ、同じもの取り込んだ所で変わる事なんて無いよ。おかしな事を言うねぇロヴィは、まるでおれがそういうものじゃないって言ってるみたい。」

「そうだ。私はそう言っている。……御前は、御前が“善くないもの”な訳があるか。」


 そう言ったロヴィオが苦し気な表情を浮かべる。

 それを言った所で彼には“響かない”からだ、現に何でもない顔をして「そう言ってくれるのロヴィくらいだよ、ありがとう」とへらりと笑って流されてしまう。

 だからこそ余計に顔をくしゃりとしかめたロヴィオが胸の内に広がる虚無感とどうしようもないやるせなさから、長く深い溜め息と共に膝に肘付いた掌に顔を埋めて背中を丸めると、腰を浮かしたニエがベッドの上で膝立ちより彼の傍へと寄っていった。


「それにね、ロヴィは今までよく頑張ってきてたの、おれ解ってるよ。」


 彼の頭を揺蕩う袖がふわりと抱えられる。

 温もりは無くとも触れた衣服が外気の冷たさから彼の素肌を遮り、柔らかな声音とその袖の手がロヴィオの鼓膜と頭を優しく撫でた。


「まだキミの知らない所は多いけれど、半年も一緒にいて見てきたんだ。だから解る。キミはとても誠実で、超が付く程に生真面目で、誰から何を言われてもずっと、ずっと、一人で……ああいや、一匹で獣も人も守ってきたんだもの。……例え、本当に見てるのかどうかすら解らない様な全く関わりのない、主の神様からなぁんにも言われていなくても、ね。」


 彼の頭上に頬を乗せて労る様に、慈しむ様に、ゆっくりと袖の手を繰り返し上から下へ、上から下へと撫で下ろしていく。

 その動作を受ける内に彼もまたニエへと寄りかかり、一見強面にも見えるその釣り上がった目元を力無く下げては、その目尻にはじんわりと赤みを含めさせていく。

 それをニエは揺蕩う袖で覆い隠して少しばかり力を増してぎゅう、と抱き締めると目隠しした袖の向こう側から震える吐息が溢れるのが聞こえた。


「ロヴィは凄いよ。とっても凄い。偉いね、言われたことちゃぁんとやって来て。おれもキミのお陰で“幸せ”を知る事も出来たし、キミのお陰で救われたんだよ。だからキミにはとても感謝しているとも。」


 静やかなせせらぎの様な声音でゆったりとした口調でニエは囁く。

 するとその言葉が堰を切ったのか、小さく呻く声と共に彼の肩が小刻みに揺れて時折跳ねた。

 その時に微かな嗚咽と共に彼が溢した小さな言葉を聞き漏らすこと無く耳に拾ったニエが一瞬ぱちくりと瞬くも、へらりと笑って「しょうがないなぁ」と溢した。


「じゃあ今だけ、今だけおれがキミの■■だ。……ふふ、何だかおかしいの。いつもはおれが“そっち”なのに、今はキミの方がずっと“子供”みたいだ……。」


 彼がつい口にした言葉に耳を疑ったけれども、ならばと思ってそう言えば彼はより嗚咽の声を強くした。

 そんな彼が堪らなく愛おしく感じて抱き締める腕の力を強めれば、彼の大きな掌が顔を隠した袖をぎゅっと握り締められる。


「んふふふ………イイコ、イイコ………おれの自慢のロヴィはとっても、頑張り屋さんの良い子だね………もっと愛でたくなっちゃう。」


 ニエの胸元に頭を凭れかけさせて顔は袖の下に隠れており、その端には摘まむようにすがり付く手。

 もう片方の腕は身体の前で力無く垂れたままに、静かな部屋では小さく溢れる吐息と穏やかに囁く声だけが彼等を包み込む。


「ねぇロヴィ。ロヴィオ・ヴォルグ。」

「……なんだ……?」


 囁く声に彼が応える。

 袖をくい、と引っ張られたのでそっと腕を離すと、目元も鼻も赤くした彼が今にも溢れそうな雫を目元に浮かばせながら自分を見詰めた。

 そんな彼が何だか愛おしくなってくすりと笑みを溢しながら袖でその涙を拭い取ると、ふわりと笑みを浮かべて緩やかに口角を持ち上げていた薄い唇を開いた。




「おれはキミに救われて幸せだよ。他の誰でもない、キミに見付けて貰えて本当に良かった……でなければきっと、今のおれは居なかったと思うもの。」




 目の前の彼の目からまたじわりと透明な雫が浮かび上がる。

 それににこりと笑んで彼の両頬を両袖で包み込むと、互いの額を合わせてぐりぐりと頭を振って擦らせた。

 感覚が無い故か少しばかり力を込めすぎたのか、それにロヴィオは何だか痛そうに顔をくしゃりとしかめるも口元に浮かべた笑みが嫌ではない事を証明しており、ニエは満足そうにふにゃりと笑み口角を釣り上げる。

 ニエのその様子を見てロヴィオもまた穏やかに笑みを浮かべて、自身の指先で目元の雫を拭うと一つ息を吐いて膝を叩いた。


「……よし、もう大丈夫だ。」


 気持ちは切り替えたと言わんばかりにハッキリと、そしてニエへともう一度振り返り柔らかく笑むロヴィオ。

 それにまた小さくくすりと笑いを溢したニエが茶化そうと悪戯っぽい笑みを浮かべて口を開いた。


「え~もう? 今のロヴィとぉ~っても可愛かったから、もちっと堪能したかったのにぃ。」

「馬鹿を言うな、こんな大男に可愛いと言う奴があるか。……ほら、寝転がるから後ろの髪紐が弛んでいるではないか。結い直すからさっさと此方へ来い。」


 身体をくねらせながら熱っぽい流し目で言うニエに、やれやれと肩を落とすロヴィオが膝を叩けば嬉々として彼はその膝の上へと飛び乗ってくる。

 そして解けかかった目の色と同じ空色の結い紐を詰まんで解くと、人に化けきるのが苦手でどうしても残ってしまう獣の部分──鋭く尖った爪で彼の頭部を傷付けない様に丁寧に指で梳いていった。


「最近は髪の毛が千切れるのも少なくなってきたねぇ、もう慣れた?」

「流石になぁ。……まぁ、まだ不慣れな所はあるが。」


 穏やかな時間が流れていく。

 いつからか凍り付きかけた部屋の冷たさは溶けて元通り。

 時折中身の無い何と無くな会話を重ねながら、指の合間を流れる髪を眺めてロヴィオは物思いに耽た。


 彼方此方に散らばり短長不揃いの彼の色素の薄い絹糸の様な髪。

 整えられた形跡のないそれは、聞けば昔毟り千切ってきた名残なのだとニエは言う。

 水晶の様に透き通って人の美的感覚に疎い獣の目から見ても美しいその髪に、手入れもしないのは勿体無い気がして時折この様に毛繕う様になってこれで何度目だろうか。

 始めは慣れず紐を結うことにだって悪戦苦闘していたけれども、どんなに酷い在り様となっても嬉しげに笑むニエが忘れられず、無頓着に放ったらかそうとする度に呼び寄せては膝に乗せて髪をすく。

 それがいつからか──以前よりも人の姿でいるのが増えたロヴィオとニエの──彼等二人の日常となっていた。


 一番最初は確か手入れもせずにボサボサな髪を毟り取ろうとしたニエを慌てて止めた事が切っ掛けだっただろうか。

 不満な事や苛立ちを募らせると何かと自傷行為の多い彼。

 何か対策を練らねばと頭を捻らせてより、やっつけで結った髪が自分の長い三ツ編みの尾とお揃いだとか何とか言って気に入ってくれたらしく、結う事を提案した時の心底面倒臭そうな顔が嘘みたいに消えてすっかり協力的になった事は正直助かったものだ。


 透き通る髪色を指の間を流れ落ちて項に掛かる様を眺めていると、自分の要望で此処へ訪れてからニエにばかり不自由させている事にふと気付く。


 まだ目的を果たせてはいない。

 人間達もそれを知っているからかそれまでは絶対にと此方を引き留めるつもりらしく、そうなると宴とやらが終わるまではきっと解放はされないだろうとロヴィオは思う。

 だから人間を嫌うニエには悪いがもう少し我慢をして貰わなくては、と思い至った彼は大人しく髪を梳かれていたニエを呼ぶと、素直な返事が返ってきた。


「なぁに?」

「否何、此度はこれだけ御前には迷惑をかけているのだ。たまには何か、御前の願いを叶えてやらねばと思ってな。」

「えー、もういっぱいロヴィから貰ってるのに? まだ何かくれるの?」


 期待の籠ったキラキラとした目が此方に向けられる。

 いっぱいとは言うが特に彼の身体を弔う以外で自ら施した記憶がないので、何をそんなにやったのかは知らないけれども「そうだ」と頷けば無邪気に喜びの声を上げた。


「どうしようかなぁ、何にしようかなぁ? ねぇ、ねぇねぇ本当に何でも良いの?」

「私がしてやれる事ならばな。神の御遣いとは言え、万能ではないから無理なことは勿論断るぞ?」

「解ってるよー! んーとね、んー……、」


 無邪気に悩ましげにうんうんと唸るニエに漸く髪結いを終えたロヴィオが彼の肩を叩く。

 後頭部の後ろで小さな尻尾が出来たみたいな低い位置での一つ結びは以前よりもずっと丁寧に仕上がったと胸の内に思うロヴィオ。

 爪が鋭いが故に不器用になりがちだけれども、人の暮らしに感心のない彼に“櫛”の概念は無い。

 かといって獣らしく舐めて毛繕うのはどうも違う様な気がして思い悩んだ結果、ロヴィオは彼には出来る限り“人らしく”物を教えてきていた。


 始めは一つ一つの動作がだらしがなく、言葉遣いとて非常に汚ない野蛮で粗雑だったニエ。

 折角誰に負けぬ程の見目の良さがあるのにそれを台無しにしてしまう程のそれに、見て見ぬふりが出来ずに口出ししたのが始まりだ。


 当然始めは苦い顔をしていた彼だけれども、口酸っぱく言えば言う程に“堪える”らしいニエは離れられない縛りもあるが故に逃れる事も出来ず、ロヴィオの厳しい指導の元それらは随分と改善されていった。

 座る際での正座に然り、俯きがちだった猫背の矯正、話す際での目を合わせる事にだって、ぶーぶーと豚みたく鳴いてブーイングするニエに何故そうする必要があるのか、そうする事でどうメリットがあるのかを伝えると思いの外素直に従ってくれた。




 “丁寧な所作は見目の良い御前をより綺麗に見せる”

 “伸ばした背筋は御前に自信を持たせてくれる”

 “想いをちゃんと伝えたいのならば、先ずは自分が真摯に向き合うべき”




 今の姿を余程気に入ってくれているのだろう。

 より良く魅せる為だと言えば比較的素直に受け入れるニエに、ロヴィオは彼に身体を作り与えた事に間違いはなかったと安堵する。


 勿論所作を教える際には獣姿では伝えきれない事も多かった。

 言葉にして伝えるには難しい所とて少なくなく、比較的手先を器用にも使うことが叶う人の姿へと化けては並んで同じ事をする行為に、今まで人の営みにさして興味がなかったロヴィオも、彼等を参考にするべくいつからか“星の目”でその暮らしに目を向ける様になっていった。


 それからだ、ニエに空色の“髪結い紐”を与えたのは。

 目の色と同じそれは色素のない髪色にとても馴染む──悲しい程に。

 走る事を覚えた彼が振り向き間際屈託のない笑顔と共に靡かせた髪に混じり揺れるそれが視界に映る度に“昔”を思い出してしまう。




 今よりもずっと遠い昔の事だ。

 神である主とは全く関わりのない自分でも、自身の親とも言える“創造者”とは何度と顔を合わせた事があった。

 そのヒトとてまぁまぁに口は悪くあったけれども悪いヒトではなくて、あっさりしている様で情が深く、数多く造られた獣達の中でも特に自分をとても気に入ってくれていた人物だった──と思う。


 ……今よりもずっと遠い昔の事なのだ。

 ニエ程に絶対の記憶力がある訳ではないロヴィオ、当然古ければ古い程に記憶は軈て色褪せていく。

 それでも覚えているのは彼にとってもそのヒトが一番思い入れがあるが故。

 主の神の為と思って続けてきた使命に心が折れてしまい“休眠”に長い時を浪費してしまったけれども、今こうして・・・・・再び立ち上がる事が出来たのは“そのヒト”の為へと思考をシフトしたからこそ。

 一度折れた心に掛かる裏切られ続けてきた事での虚無感からの疲労感は、今も尚自分へとのし掛かるけれども“そのヒト”の為にと思えば何とか立ち上がる事が出来たのだ。


「ん~あれにしようか、これにしようか……うーん、悩んじゃうなぁ! どうしよっかなぁ~!」


 まだ願い事が定まらず、頭を左右に揺らして鼻歌混じりに一人言を呟くニエ。

 それは妙に音の外れた調子だけれども、人間の作った音楽にさして興味が無く関心もない彼には解る筈もない。

 その曲が何なのかすら解らないままで何と無く聞き入っていると、ふと寒気を感じてふるりと身体を震わせた。


 窓の外を見れば、いつもよりも早く暗がり始めた空にちらつき始めた白い粒。

 雪だ。


「(参ったな……今日は確か一番夜が長い日だと言うのに、雪まで降りだすとは。)」


 そう思いつつも、寧ろそんな日に外よりずっと暖かな人間の宿に入る事が出来た事に安堵してしまう思いが彼の心の隅っこに存在した。


 正直な所、彼は寒がりなのだ。

 普段は毛皮や鱗に覆われて平気だけれども、人の姿というものは毛が薄いのでどうにも寒くて叶わない。

 故に化ける時は北方の人間達のものを参考にして魔力で編んだ分厚い衣服で、人の身形でも毛皮に覆われているかの様な着膨れしがちなものを羽織るのが常。


 今もそれ故モコモコと毛深いそれに包まれているけれども、やはり獣の姿が恋しい……なんて考えて腕を擦りながら背を丸めていると、ニエが何やら良い案を思い付いたらしくぶらつかせていた足を突っぱねて背中をロヴィオの胸元へと凭れかけさせた。


「ロヴィー! 決まったよ!」

「嗚呼、お願いは何にしたのだ? 頼むから変なものは止めてくれよ。」

「えー? 変なことってなぁに~? んっふふ、もしかしておれに“そういうの”求めてたり……や~んっロヴィのえっち!」


 彼の何気ない発言に邪な考えで一人盛り上がり始めたニエに、バシバシと叩かれながらロヴィオはげんなりしつつ首を傾げる。


「“えっち”……? 何の話だ? 何を想像しているのかは知らんが、要望を早く言わんか。人の町にいる内に手に入るものなら早々に行かねば……、」


 また聞き慣れない単語だ。

 時折意味不明な言葉を口にする彼に、ロヴィオは肩を竦めながらそのついていけない妙に変なテンションをスルーする。

 いつだったか彼が口にした単語に首を傾げた際に偉く驚かれて「えっえっこれも知らない? ロヴィってばもしや純粋無垢……? 真っ白過ぎでは??」と有り得ないモノを見る眼差しを向けられた記憶を思い出す。

 結局その時も全く意味は解らなかったけれども、何やら生暖かい妙な笑みを浮かべたニエが「キミの神聖さを穢すのもいけないからねぇ、でもそんなうぶなロヴィも大好きだよ」と謎の宣言をしてからというものの、やはりその意味を教えてくれる事はなかった。


「物じゃないから大丈夫だよう、簡単なものさ! ……ああいやどうなんだろう、難しかったりもするのかな?」


 顔の前で手を横に振るニエがへらりと笑う。

 そして自分に凭れ掛かってひっくり返ったみたく逆さまな姿を見下ろしたロヴィオに、半ば仰向けになって彼を見上げたニエが屈託の無い笑顔を見せた。




「おれをキミの神聖で消して浄化して欲しい!」




 迷いはなく、躊躇いもなく、只々純粋な気持ちでそれを口にした彼。

 びしり、と固まったロヴィオに気付いているのかいないのか、子供らしく無邪気な笑みを浮かべたままに頬を赤らめて彼へと手を伸ばしたニエが言葉を続ける。


「キミに弔って貰っても成仏出来なかったんだ。もう半年くらい一緒にいても変わらなかったから、後はやっぱり不浄に対抗出来る“神聖”くらいかなーって……ずっと思ってたんだぁ。」


 伸ばされた袖の手が青ざめていく彼の頬を包んでは柔らかく撫でる。

 吐き出す言葉すら失い唇を震わせる彼に、安心させようとニエは先程と同じ穏やかな笑みを浮かべた。


「おれの願いはあれからずっと変わっていないよ。だから……ね、ロヴィ、ロヴィオ・ヴォルグ。おれが唯一好きになれた、人ではなく“けもの”のキミ。」


 吐息が震える、熱くなっていく目尻からは今にも雫が落ちそうだ。

 “嫌だ”と今すぐ突っぱねて仕舞いたいのに、相手が心から求めている事を理解しているが故に無責任にそんなことを言うことが彼には出来ない。

 その心境を知ってか知らずか──否、それが知っている筈がない。

 “何も解っていない”それは無邪気に、残酷に、あろうことか“ロヴィオ”にその願いを託したのだった。




「お願いロヴィ、おれを消して殺して?」






 *****






 ああそうだ、違うんだ。


 全くもって全然違う。




 何を思って勘違いしていたのか、今思えば“おかしくなっていた”としか言い表せない“恥”の多いその出来事。


 あの頃は何も解っていなかった。

 自分が何者なのか、自分が何をしているのか。

 “知識”だけ蓄え込んでも何一つとして“理解”をしていなかったから“白痴”に慣れず。

 名前がないから“何者”にもなれず只ゝ“形無し”でずっと揺らいでばかりいた愚かな自分。


 嘘を吐いている自覚はない。

 だって心から“そう”だと思っていたのだから。

 強いて言うのなら“認識の齟齬”。

 自分が見ている世界と他人から見た世界との乖離。


 気付かぬ間に犯していた罪の数ゝ。

 向き合いたくともおかしくなっていた頭が“まともズレ”でいることを拒絶して、元の正しい・・・方へと軌道修正させてしまうが故の過ちを繰り返す日ゝ。




 恥ずかしい。

 こんな自分、誰にも知られたくなかった。

 知って欲しくなかった。

 知りたくなかった……けれど、どうせ自覚するならもっと早く気付いてかった。






 そしてこの先は、その“答え”の話。






 *****






 ふと気付けば、いつの間にか“彼”の姿が消えていた。




 最近拾ったばかりの無邪気な“子供”。

 それは一度目を離してしまえば人知れず姿を消してはあっちへふらふら、こっちへふらふら。

 幸い“縁”が在り、自分と同化しているからこそそう遠くは離れる事は出来ず、見失った所で妙に離れた場所に在る“自分”の気配を辿れば簡単に見付けられる。

 本来ならばそんなことせずとも“星の目”を使って上空から見ることだって出来るのだけれども、本人が嫌がるのもそうではあるのだが同時にそんなことをすれば感付かれて逃げられて・・・・・しまうから、それは困ると今回はそちらの方はそっと目を瞑る。


 そうして感覚を頼りに探っていけば、大体いつも“誰か”と一緒に何やら“秘め事”。

 日の当たらない暗がりでひっそりと、近付くものがあろうものなら巻き添えにまでしてそれは“楽しんで”いるのだろうと、まだその状況が視界に映っていなくとも肩を重くさせる気疲れに溜め息を溢す。




「……くすくす……」




 その日辿り着いたのは薄暗い路地裏。

 人通りの多い場所の傍だと言うのにそこだけは静かで人気はなく、影に覆われていて昼間だと言うのに薄暗い。

 ひそひそと内緒話みたく囁く声に仕切りに小さく笑う声が静かな空間に聞こえ始めた。




「………ね………おれとイイコトしよ……? …んふふ………大丈夫、キモチよくしてあげるから………怖くなぁい、怖くなぁい……くすくすくす……」




 静けさ故に歩くだけで鳴る足音だけが耳に響く。

 しんと静まり返った時の耳鳴りに比べればマシなそれに、隠れる必要など無いのだからと隠す事無く自分が近付いている事を示すべく、敢えて音を立てたままに歩いていく。




「…………イイコ、イイコ………お利口な子には、ご褒美あげなくっちゃね……ふふ、ふふふふふ……」

 



 かつん、音を立てて立ち止まる。


「……何をしている?」


 そこに在った影は“三つ”。

 自分が声を掛けたことにより、一つは“ぐちゃり”と身動ぎ、一つは痙攣したまま動かず、一つはバッと勢い良く此方を振り返った。

 自分はそれに驚きもなく、戸惑いもなく、只少しだけ不快そうに眉間に皺を寄せてそれらを見下ろしていた。

 すると此方へ振り返った一つ、腰を抜かしていたらしい物陰に隠れてへたり込んでいた男が、自分を見てより固まっていたのが突然金切り声の悲鳴を上げた。


「ヒギャアアアアァアァァッアアアッ!!!」


 余りにも酷い悲鳴、自分は顔をしかめて思わず耳を塞ぐ。

 半狂乱の絶叫に「人間はこんな声量を出せるものなのか」と変な感心を持ちつつも、パニックを起こして手足を縺れさせては背を向けたそれが逃げ出していく。




「ああんもぅ、待って……? まだ“楽しんでる”最中なのに……」




 何度と転び掛けながら必死の思いで駆け出した彼の背後に、それを囁いたものが粘着質な水音を立てて身動ぐと“黒い液状”のものが勢い良く飛び出した。

 向かう先は逃げ出した男の方。

 細く長く、先端が二又に割けたそれがうねりながら男を捕らえようとした矢先に“バシンッ”と叩き落としたのは自分の掌。

 その瞬間触れたその細く伸ばされた“液状”がジュッと蒸発したと同時に黒い煙が叩き落として分離した“液状”と自分の掌から燻った。


「……小僧、そいつは駄目だ。もうこれ以上怖がらせてやるな……どうせその内おかしくなる。この事だって誰に言う口とてもう無いだろう。」


 地べたに転がったそれがじんわりと形を無くし、地べたに黒い痕だけ残して蒸発し切ったのを確認すると“ふぅ”と息を吐き、止めていた足を再び“それ”へと歩み寄らせていく。


 今逃げたのは“こそ泥”程度の罪有る者。

 罪無き者は助け、罪在る者には裁きを与えるのが自分の務めであるが故にそれにかまけていられる程に懐の広さはなく、寧ろ今目の前で“犯されている”それへと目を向けては眉を寄せた。


「これはまた……派手にやったな。」


 眼前にて壁に貼り付けられていたのは“干からびた”男だったらしきもの。

 それの周りでずるっ……ずるっ……と引き摺る音を立てながら蠢く物体がそれに纏わり付いては、まだ息が有るらしいそれに追い討ちを掛ける様に苦しめて声にならない掠れた悲鳴を溢させては“くすくす”と笑いを溢していた。




 “お腹が空いた”




 姿を消す直前にぽつりと呟かれた声。

 それを聞いた時から嫌な予感はしていた。




「んふふ、ふふふふふ……ね、ね、もっと………もっと、啼いて? おれもっと聴きたいの………その声………」




 ぐちゃり、びちゃり。

 粘着質な水音に混ざって“知った声”がその空間に響き渡る。

 静やかに、涼やかに、鼓膜を通して頭の中に直接響かせてくる様な“りん”とした声音。

 それに混じって悲鳴とも嗚咽ともつかない、言葉にならない呻き声が意味不明な音をひっきりなしに吐き出している。

 ごぼごぼがぼがぼと、低く濁音符にまみれた溺れた水中で響く泡の音。




「はぁ、ぁああっ……堪んない、この“満たされて”いく感じ……もっと、もっと、もっと、もっと………頂戴、ちょぉだい………?」




 ずるるっ……ぐちっ……。

 貼り付けられている男の身体の上を這いずるそれがじわりじわりと覆い被さっていく。

 その最中に見えた男の表情はかっ開いた目では瞳孔が痙攣し小刻みに震えて時折ギョロギョロと何処を見ているのか解らない動作を繰り返していた。

 その目の回りは肉が窪んでまるで出目金みたく眼球が飛び出しているかのようで、その目尻から流れ出た血の涙が頬を伝って濡らしていた。

 限界まで開かれた口は見たところ恐らく顎の骨が外れている事だろう。

 閉じれないまま今にも裂けそうな程に抉じ開けられており、そこから見える口内では奥から血が溢れて中を満たしていた。

 溺れる様な音は血が溢れたまま口内で貯まっている為だろう、中ではブクブクと泡立ちその度に唇からは血が溢れているのだから。


 只事ではない形相で貼り付けられている男のそれは、どうみてもこの世の終わりとでも言うかの様な言い表すのも憚られる程に凄惨な在り様。

 多大なる絶望一色を味わう羽目となり、気が触れてしまったとでも言っても過言ではない。


 その姿が軈て真っ黒なそれに呑み込まれていき、血の唾液を泡立たせる音がよりくぐもっていく。

 液状の下でまだその男形が見える中、聞こえ始めたのはミシミシと圧迫していく音に耳をつんざく絶叫。


 “ぶしっみちちっ、ゴリュゴリュッ”と何かが潰れていくのと、弾けた音と、捩じ伏せるかの様な音が、まるで呑み込んだ腹でスプラッタしているかのような錯覚を起こす。

 “液状”がぐねぐねと波打ってその下の形が人の物だった膨らみが段々と歪に崩していき、その最中ですら溺れる様な低くも咽び喚く様な惨い絶叫を上げる様に交じり、その傍らからは楽しげな幼い笑い声が共に路地裏を響かせていく。




「あはははははははは、ああおいしいきもちいい。とてもおいしいたまらない………はぁあ、お腹が満たされていく……何て夢見心地………。」




 涼やかな声音が……否、鈴の様な音が幼い声に連なって“りん”と鳴り響く。




「ああご主人様・・・・………次のごはん、食べたいの、まだもっと食べたいの、キモチよくなりたい………食べたい、食べたい、食べたい食べたい食べたい──お腹すいた。」




 りん、と鈴の音が鳴って静まり返る。

 じっとこちらを見ているかの様な視線が、あの壁に貼り付いた“黒い液状体”から感じる。

 それに少しだけ“危機感”を感じて額には一筋の汗が滲むけれども、一つ息を吐いてそれを口にした。


「今日はもう終いだ。大人しく私の言うことを聞け。」

「やだ………やだ、やだ、お腹すいたの、もっと食べたい、食べたいよう、食べたい食べたいお腹すいた食べたい食べたい──、」


 びちゃびちゃと水面が揺れ動く。

 ぐねぐねと身動いでべしゃりと地べたに落ちると、貼り付いていた場所には人型に多量の血が飛び散った後がべっとりと壁に塗りたくられていた。

 這いずるそれが通った場所もまた、赤色で塗った痕見たく色が引き摺られた痕を残しては動く度に引き摺った足跡を残す。

 そして彼の足元まで這いずってきたそれは「ご主人様」と呟くと、鈴が鳴る様なその音を響かせた。




「てけり・り。」




 涼やかな音が、鈴の音がはっきりとそう啼いた。


「てけり・り。てけり・り。てけり・り。」


 意味不明な音を奏でる鈴の音色が近付く。

 “この世界”の言葉も忘れてしまい、此方には伝わらない自らの言語にまで退行してしまったそれがずるっ……ずるっ……と身を捩っては身体を這い上がり始めた。

 そしていつ誰が定めたのか、恐らく自らそう決めたのだろう“主人”と呼んだ自分を喰らおうといつもの様に・・・・・・覆い被さってくる無形の流体が大きな波の口を開いて迫る。


「……私は御前の主人ではないぞ。」


 その波打つ水溜まりに声を投げ掛ける。

 瞬間ピタリと止まったそれが頭上に影を作ったまま、目も鼻も口もない“流体”が彼を見下ろしていた。 


「私が御前の………否、貴方・・より上の立場な訳があるか。」


 夕焼け色の双眸がじっとそれを見詰める。

 記憶の中の風貌とは全く違うその酷い“在り様”に、思わず唇を噛み締めては泣きそうなのを堪えてしかとそれを目に捉えた。


 “今まで”の様に、それでいて“今までより”歩み寄ったそれは視界を覆う程に漆黒を映していた。

 そして自分よりも大きく波を作って覆い被さろうとしたまま立ち止まっていたそれに、彼は腕を広げて“受け入れる”様に──、




「私が貴方を忘れるものか………暫く見ない内に、随分と御姿が変わって仕舞われたな──■■■。」






 *****






 “流体”がぐねぐねとうねらせながら人の形へと型どっていく。

 波立ち、混ざり合い、軈て最近見知ったその形へと定めていくとすぅぅ……と黒色を覆い隠すように陶器のような白が浮かび上がって、完成したらしいそれがぽてんと地べたに尻餅を着いた。


「ロヴィー!」


 目をぱちくりとさせたそれが自分を視認するとパタパタと駆け寄ってくる。

 胸元に抱き付いて嬉しげに頬擦りをしたその“子供”が、屈託の無い笑顔を此方へ向けてそれを言った。




「ありがとーロヴィ! おれもうちょっとで襲われちゃうところだったぁ。」




 何をどう解釈したらそんな言葉が出るのか。

 毎度・・の事ながら理解に苦しむその“何も理解していない”らしいその様子。

 それを彼──ロヴィオはこれからもその、見捨てる訳に行かないが故に“命と引き替えに”してでもと抱え込む事を決めた“子供”を見下ろしては、先を思いやられる様に溜め息を溢すのだった。






 *****






 ごめんね、ロヴィ。

 あの時、キミもおれと一緒で居たかった痛かったんだね。


 全部、全部、何もかも、おれが悪かったんだ。



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