28.玩具箱の中の猫。

 頭が痛い。




 太鼓を叩くみたくガンガンと打ち鳴らしてくる頭痛。

 フルートのつんざく音の様に甲高く反響する耳鳴り。




 頭が痛い、気分が悪い。




 少しでも気を緩めてしまうと、簡単に意識が暗転してひっくり返ってしまいそうだ。






 *****






「──様……主様?」


 ふと、自分を呼び掛ける声に遠退いていた意識が引き戻される。

 そしてハッと我に返り微睡んでいた頭を振り払うと、それを見ていたマーリンが訝しげに顔を覗き込んできた。


「ん……嗚呼、なんだ、どうかしたのか?」

「いえ、何だか顔色が悪いような気がしましてぇ……具合、悪いんですかぁ?」


 彼の猫なで声がねっとりと鼓膜にすり寄ってくる。

 何だか不快感のあるそれに眉間に皺寄せながらも一織は「何でもない」と返した。


「少し頭が痛むだけだ。大した事じゃあない、気にしないでくれ。」

「そうですかぁ? なら良いんですけど……あ! それじゃあ頭痛を止ませるおまじないでもしましょーか! 折角なのでぇ安くしときますよ~?」


 ニマニマニコニコ、手を捏ねながら愛想良く売り込もうとしてくるその猫に「要らん、放っておいてくれ」と視線を逸らす。

 そうすれば酷く残念そうに肩を落としたこの憎たらしい猫は唇を尖らせて、つまらなそうにそっぽを向いては彼の背後にぶら下がっている二又の黒くて長い尾を揺らした。


 相も変わらず商魂逞しい猫だ。

 少しでも隙を見せようものなら直ぐに売り込んできて、此方の弱味を握ろうとしてくる。

 本当は頭痛が酷くて何だかよく眩暈を起こすくらいには調子が悪いのに、いち早く気付くのがこの猫なのだから非常に厄介だ。

 察知しようものなら直ぐ様つけ入ろうとしてくるのが忌々しくて、少々邪魔だとも思えてくる程に。


「(……はあ……それにしても、今日は特に厄介だな……。)」


 こめかみを押さえながら頭の痛みを堪える。

 昼間は比較的マシだったのだが、日が暮れていくのと共にじわじわと増してきたその痛み。

 怪我とて直ぐ直る身体だと言うのに酷く自身を苦しめるその頭痛に心当たりが在るとすれば、やはりこの“物語”なのだろう、と胸の内に思う。


「(真実を隠した“嘘”に、本当を誤魔化した“詐称”、事実を知らないが故の“誤認”と見当違いな認識による“出鱈目”。……何もかもが目茶苦茶なんだよ、新しい情報が出てくる度に頭の中が混乱してくる。)」


 再び大きな溜め息を溢す。

 事前に履修をしてきている一織とは言え、今まで“三人称俯瞰した視点”での文字列にて観測してきた事象を参考にして行動してきた所で、やはり想像するだけなのと実際に行動にするのとでは、体感速度も身体に掛かる負荷も全く違う。

 幾ら事前準備をしたところで自分の体力が持たねば意味がないのだ。


 周りは妖精に獣に神や勇者などと、人並み外れた者達が集う中で自分だけが只の人間。

 世界と一心同体な不老不死となっていた所で基本ステータスとも言える彼自身の身体能力は人並み程度。

 例え昔に身体を鍛えて周りよりかは出来るとは言っても多少頭が出ている程度なので、彼等と比べたら雲泥の差ともなるのも当然。

 泥にまみれながら地べたを走り回った所で、雲の上にいる者達に手が届く筈がないのだから。


「はは……この有り様じゃあ【蜘蛛の糸】のカンダタみたく、釈迦の糸が降りてこようものなら掴みたくなる気持ちも解るわなァ。」


 自傷気味に一人ごちると痛みを誤魔化す為に首を振る。

 そして見上げた先のあの漆黒の曇天を見上げると、それをじっと見詰めてからマーリンへと声を掛けた。


「なァマーリンよ、罠は仕掛けたとは聞いたが“何処まで”奴に届いたんだ?」


 その問いかけに、マーリンは人差し指を口元に指し付けると「んー……」と小さく唸った後頷いて口を開いた。


「“蜘蛛の巣”まで。……まるで飛んで火に入る夏の虫の如く、簡単に引っ掛かってくれましたよぉ~! ……“姦姦蛇螺かんかんだら”は全く持って意味を為してませんでしたが。」


 ニコニコと自慢気に話していた彼が途中から気落ちし、落ち込む様に声音を尾としてはいじけ視線を逸らした。

 そんな返答に予想通り・・・・と当然みたく頷いた一織が「そうか」と返す。


ちゃんと・・・・食ってくれたんだな。なら良いさ。アイツは同じ邪を喰う蛇だからな、褒美お八つ時のつもりで用意させたんだ。何も不都合はないとも。」

「えっ!? 主様解ってたんですか!? もぉ~そういうのは事前に教えて下さいよう! あの時のマジで目茶苦茶ヒヤヒヤしたんだから……!!」


 マーリンから不服な声が上がる。

 それにどうどうと宥めながらからりと笑うと、口元に笑みを浮かべた一織が再び口を開いた。


「奴は“大食おおぐらい”の蟒蛇うわばみだからな、きっと呑み干した“不浄”だけじゃあ物足りなかろうと思っての事さ。」


 ふふん、と得意気に鼻を鳴らした一織──それに、マーリンが僅かに眉を潜めた。

 気付かない一織はそのままその“お喋り”を続ける。


「少しばかり苛め・・過ぎた詫びでもある。好き嫌いばかりして逃げていたものもちゃぁんと呑み込んでくれたのなら、取って置きの“ご褒美”にも気付いてくれただろう? きっと喜びの余り踊ってしまう程だったろうな。」


 彼は何一つとして悪びれなくそれを言うと涼しげな顔をしては、満足そうに笑んだのだ。




「嗚呼……見たかったな、彼奴が──“ニエ”が喜ぶ姿。さぞや、俺にとても“安心痛快”な心地をさせてくれる景色だったろうに。」




 な? とにこやかに同意を求める彼の言葉。

 何処か愉しげにすら見えるその様子に、愛想笑いの表情を変えぬままマーリンは、そうですねぇと中身の無い返事をした。


「……“名無し”の名前は下手に呼んでしまってはそれで“確定”してしまうから、自由に好きな名前を自分で決められる様にする為にも絶対呼ぶなって話じゃなかったですっけ。」


 雑談の流れに任せてぽつりと問いかけを送ると、叩けば出る埃のようにそれは簡単に口を開けた。


「そうだったか? でも彼奴は“ニエ”さ、生け贄のな。」


 頬を掻き、目を逸らした彼はマーリンに一度たりとも視線を合わせる事もなく言葉を続ける。


「村人達が一人の“童子”に願えばそいつが自分に加護を与えた“水神”様とやらに祈りを届け、そして雨を降らせてくれる……そう信じ込んで、いもしない神様に“供物”として捧げた何をしても死なない神の愛し子──“神童”だってさ。奴は崇め祀られた人柱だったんだ。」


 そして再び見上げたすっかり暗くなってきた空。

 まだ覆われ切れていない濃紺の夜空には星達が疎らに見えどもその中心にいつだってある“それ”の姿は、その日は特にいつまで経っても見えることがない。


 曇天に遮られて見えないだけならまだ良かった。

 只その日はそうではなく──、


「──今夜は“新月”だ。月光狂いもない真っ暗闇の夜……誰の邪魔な目も届かず、“願い事”をするには体の良い絶好の機会だ。」


 末広がりを見せる曇天へと手を翳したそれが、まるで雲を掴もうとするように空で握り拳を作ると“黒檀の目”を弧に歪めて口元では口角を釣り上げた。




「黒くて姿の見えない黒月は、まるで“廃忘孔”の蓋が開いてる様だ──ずっと籠りっきりだっ閉じ込められてたんだ。少し位外で遊んだって良いだろう?」






 *****






 ──なんだ、あれ?




 言葉にしないで胸の内に“猫”は思う。


「(知らない……こんなの全然知らない。一体何が起きているんだ?)」


 混乱するというには冷静に、慌てふためくよりかは苛立ちに顔をしかめる。

 マーリンは隣に立つ、精霊としての主体たる自分の主世界そのものだと“思わされて”いるものを、ニコニコと張り付けた笑みを浮かべたままに細めた目でそれを睨み付ける。


「(人の目と合わせない。人の事を全くもって考えない自分よがりな余計なお世話。話を急かす上に要点しか聞かない癖して自分は重要な事を伝えてくれない。その上余計な事や要らん事ばっかり無駄口が多い、自分の事ばかりお喋りする──、)」


 気に入らない事、気に食わない事をつらつらと並べ立ててひっそり彼の影で苛立ちを募らせて、それが表なのか裏なのかどちら向きか解らない掌を隠した黒くてとても長い袖を二又の尾っぽの様に背後で揺らす。


「(あの病的な対等さフェア狂いは皆無。求めるばかりで人を顎で使う事に躊躇いもなく、更には自分が他人に与えなければならない事となると途端に渋る。…………一体誰だ? こいつは。)」


 自分の精霊世界の一部としての感覚がそれは“主人だ”と明確に示しているのに、仮でこそあれどとしての“勘”がこいつは“害悪”だとマーリンに反発心を持たせてくるのだ。




 そう、彼は猫なのだ。

 マーリンと名付けられたばかりの忠誠心皆無な飼い慣らされていない元野良猫。

 誰にでも愛想良く愛嬌振る舞っても、例え気に入っていても壊れてしまえば直ぐ見捨てるような薄情な彼が心臓を分け与える丁寧に手入れする程に大切にするのは、猫が大好きなフワフワ彼方ゆらゆら此方揺らいでいて揺蕩う猫じゃらしの玩具フェアリー・テイルの彼女、モーガンだけ。

 主人とする一織は玩具と呼ぶには大き過ぎる扱いにくいものなので、身体は大きくとも中身は空っぽだからと主人を“安息地マイホーム”として彼の手の内に収まっている胡座かいているだけに過ぎないのが彼、マーリンだ。


 そんな彼に取って“世界”とは楽しいことや面白い事が沢山そこら中に落ちている“玩具箱”だ。

 故に彼方此方へと道草食って余所見して、色んなモノ達と関わり合っているから長生きな事もあり顔も広い。

 そして同胞からは“落ちこぼれ”だと呼ばれていても、色んなモノを見聞きしているので“知恵袋”だって中身はいっぱい詰まっている……こう見えて“老人”なので!

 とは言っても若作り……と言うよりかは精霊は年を取り劣化するものではなく、内なる魔力が枯渇して初めて消滅するものだから、丁寧にちゃぁんとやりくりをしていたので落ちこぼれな彼だけども他の誰よりもずっと長生きなのであった。


 故に彼は気紛れで群れない猫なのだから、忠誠心など元よりない。

 一緒に居なければ殺されてしまうのと、一緒に居ると得があるから共に行動しているだけの彼だからこそ崇拝も依存もしていない一織を色眼鏡で見ることがない。

 だから不服に思えば簡単に掌返し、自分勝手に行動してはトラブルメーカー。

 勿論手詰まりとなったら泣き付いて助けを乞うことだってある。

 それでも一織は怒りはすれども許してくれるのだから、猫は何度でも彼にすり寄るのです。

 そうしたら薄情でも愛着は湧くでしょう? 打算的なのも猫故なので!


 いつだっていつまでも遊んでいたい自由気儘な彼は、気紛れで噂好きでもあるので自身を知る者や同胞モーガンからは信頼はされても信用はされていない。

 ギザっ歯がチャームポイントな大口は何でも食べるし、何でも喋る。

 いつだって自分本意で生き汚ないから追い詰められようなら危機から逃れる為に、情報なんて軽い荷物はさっさと売っぱらってしまうのが吉! と悪びれもせずにいうのだから周りの開いた口が塞がらなくなるのも当然。

 だからこそ彼女からは“邪神”のことや一織の本性については全く知らされず、いつも何やら“不吉”なものに近付かれる彼の“厄除け”として傍に佇ませているのです。

 故にこそ・・・・、昼間はサボりがちでも善くないものや邪なものが寄り付き易い夜となれば話は別。




 彼は一織の厄を払い福を招く“招き猫”。

 御守り猫の尾の如く背後から忍び寄る害を防ぎ、家守り蜘蛛の如く巣を張り巡らし邪を退け、幸守り子守りの如く“厄”介な不機嫌には愛らしく愛嬌たっぷりにご機嫌取り厄払いして万事解決。




 そんな一織の“太鼓持ち”な彼のローブの下、腰のベルトには不思議な“巾着”が引っ掛けられている。

 その中には事前に用意して作り置きしていたモノ、何か困った事があれば直ぐ様「じゃじゃーん!」と紹介するべく御披露目するマーリン自慢のお手製アイテム“御守りアミュレット”が沢山入っている。

 何か困った貧乏な主人を手助けする為の【長靴を履いた猫】……ではなく、誰の傘下にも下らない一織世界そのものだからこそ懐の広さ故に召し抱える事の出来る自由奔放な魔術師まじないしだからだ。

 いつだって痒いところに手が届く小道具を用意してくれる彼は、それ故にとても便利が良い。


 邪払い、厄除け、占いに願掛け。

 様々な呪具や御守りを駆使して困った人に猫の手を貸す、つまりは“人助け”をするのが彼の趣味。

──だがしかし、そんな彼でもそれは決して“便利なモノ”だけでは済ませられない。


 元よりタダでは動かぬ強欲な精霊ではあれど、その彼は特に注文の多いメリットを求める山猫──ならぬ仙狸の妖精。

 何故なら彼は“強欲”な神様から産み出された一番長生き、そして長生きしてきたからこそ一番神様に近くもありとても良く似ている“精霊”なのだから。




 更には彼は仙狸でもあるので、より“結構色々”求めるけれども今回の主は“世界そのもの”。

 故に昼間は彼方此方へと道草食っては他者と関わり精気を吸い、お日様の下ではお昼寝しては陽気を浴びサボタージュ

 そうすることで使った魔力世界一織から補う日々。

 昔の様に使役させた人間が“干からび”ないように上手い具合に調節しながら美味しい・・・・所を根刮ぎ取っていたのとは勝手は違えども、何だか此方の方が気楽でまぁ気に入ってはいた。


 そして真っ暗な夜闇に包まれると夜目の利かない鳥目な彼女モーガンに代わり、闇に潜みながら忍び寄る陰より自身一織を守るのが、そんな彼の役目だった。

 それを敵だと判断すれば誰よりも素早く姿を消し罠を張り巡らせて外堀を埋め、気付こうものならそれでも良いと姿見せぬ笑いにて嘲り煽り、尻尾を巻いたかと思わせ振りに道化を演じてはじわじわと追い詰めていく。

 そうして膨れ上がった恐怖を駆り立てて、その背後へと忍び寄り最後にはその喉元をかっ喰らう。

 番犬にも負けない闇夜でこそ生きる暗躍の狩人ハンターこそ、一織の信頼する猫たるマーリンだ。


 そんな彼の欠点。

 死期を悟った“大精霊ラズィエル・ハマラク”からじっくりと教授された上で託されたモーガンと違い、彼は“大精霊ピカトリクス”を追い詰め仕留め食らってしまいあっという間に腹の中。

 穏便に事前に教えて貰っておけば後で苦労する事無かったのに、対抗意識から無鉄砲に飛び出して、知識を得ても使い方を解らず確認するすべもないまま食べてしまったので“魔導書”としての力はまだまだ未熟。


 いつだって彼は“詰め”が甘いのだ。

 ぐーたらで怠け者の癖して“欲しがり”、更には他者を見下し往生際だって悪い。

 だから幾ら策を練り獲物を捕らえこそ出来ても最後にはドジって逃げられてしまう。

 身の程知らずに海老で鯛を釣ろうと欲張って大物狙いしてしまいがちだからだ、故に二兎追うものは一兎も得ず。

 怠けてきた分爪を研ぐ自己研鑽のも怠ってきたので精霊なのに魔法が苦手、だから猫の手ではなく器用な人の手を借りる事にした。

 “人間”自ら“魔術調理”をして貰う術を考えたのだ。




 そうやって、魔法への苦手意識が強いからこそ下手な魔法の代用が叶う、補助道具を使う他人を顎で使う事で補うのが常であった。

 

 長生きなだけで“落ちこぼれ”として精霊達から後ろ指指され疎外されていた猫の彼、いつまで経っても魔法を上手く使いこなせない。

 集中力が好きなことにだけしか向かない彼は魔法を発動させるまでの気の練りが好きになれず、自ら向かうことで手を打ちそれで何とか誤魔化してきた。

 狩りの時の集中なら出来るのに、呪具や御守りを作る時だって出来るのに、出して終わりのそれだけは何だか性に合わず、リターンが無ければやりたくない──そんな頭で苦手意識の克服から逃れ続ける日々。


 そんな中で出会ったのが一織だった。


 彼は苦手なものを乗り越えてきた、自分の理想とも言える人物。

 色んな事を知っていて、凄い人間なんだなぁと思っていただけなのに、始めは「動物は好かん」と言っていたのに猫に触れる手付きは不器用でもとても優しい、素直じゃない人間。

 慣れない様子で自分の喜ぶポイントを探りながら撫でる手は、今まで自分を愛でてきた誰よりもぎこちなくとも温かくて心地良い。

 彼は神様が大好きで、神様も彼が大好きなのは、長生きで一番彼等に近しい精霊のマーリンにはそれがひしひしと伝わってくるのだから、それをタダで感じられるのは何だか得した気分になってしまう。

 だから強がりで自ら寄ってこれない彼の為に、自分が撫でられたいのだからとすり寄っては愛でられる……よりもっとと得をすることに貪欲になれる猫故の特権なのだ。




 そして一織の“本性裏側”を一番知っているのはモーガンだけではあるけども、彼の“本質表側”を一番知っているのはマーリンだけという特権もある。

 元の自分である神様相手なら大人ぶっても強がりせずに着飾ることなく透かして見せることの出来た彼の本心、それを直に見てきたのはマーリンとなる猫だ。

 彼が事前に“黒歴史”として隠してきた事も、相手が自分自身という他者の目の無い安心感から現れた素の感情も、同じ空間にいた猫だけにしか見せられていない……だってあの時は実質“たった一人同一人物”と一匹しかいなかったのだから。


 彼に取ってあの空間の出来事はそれまでで一番楽しいものだったのだろう。

 何せ“初めて”同じ趣向、同じ趣味、何もかもが(当然)気が合う(同一)人物と巡り会えたのだ。

 今まで話せる相手など一人もいなかった好きなことを思う存分語り合える事が出来たのだから彼は夢中で話した、時を忘れる程に言葉を交わした。

 例えそれが端から見れば彼の一人遊びに過ぎないものだったとしても、友人もなく母にだって恥ずかしくて出来ずに人の目を気にして我慢してきた事を、余すことなく発散する事が出来たのだから彼は心底満足できる満ち足りた時を過ごすことが出来た。

 そこに人の目が無いことが大変良かったのだ、たかが“猫”の目くらいあった所で全然気にもならない。

 だからずっと同一人物同士“一人で”延々と語り続けていた。

 それが彼が相当楽しめる時間だったとするのならば、勿論神様だって同じだと言うことも当然解りきった事だ。

 何も気兼ねなく好きなことに時を費やせるとは何よりも満たされるものだ、多少・・嫌な目に遭った所で嬉しかった事のが大きければ子供の“おいた”に目を瞑るくらい朝飯前だ──というのが満足感たっぷりだった一織の感想だ。

 ……只、それにずっと付き合わされていた猫は終始げんなりしていたけれども。


 故に魂を授かったモーガン程近しくなくたって、猫はそんな彼の本質を知っているからこそ本人の強がりと誤魔化しくらい直ぐに見破れるのだ。

 だから、誤魔化され曖昧模糊に揺らいでるからこそ本人世界ですら何かが違う・・・・・くらいにしか感じ取れなくても、猫には“それ”が本人のモノではないことにだって直ぐに見破れる。




 もう一度言うが、彼に取って“世界”とは玩具“箱”なのだ。

 

 面白いもの楽しいものも何でも溢れている教えてくれる大好きな世界一織に、そこの内側手中にいる“猫”の彼。




 箱の中にいる“猫”が、箱の中の様子本質を知る事なんて朝飯前なのだ。

 だってそうだろう?

 例えそれがどっち付かずに揺らいでいて、間違っていても“神村一織世界そのもの”だと思わされていた所でその玩具箱の中にいる“マーリン”が答えを知らない筈がないのだから。






 嫌に癪に障る。

 どうしようもなく歯向かいたくなる。


 でもまぁ今はまだ“その時”ではない、と毛が逆立つ様な気持ちを落ち着かせてすんとした表情で彼の隣に静かに佇む。


「(狩りの基本は“待ち伏せ”だもの、下手に騒ぎ立てて逃げられてしまったら勿体無い。……ゆ~っくり、じ~っくりと期を見定めて……最後の美味しい所を“ぱくっ!”と噛み付いてやるんだから。)」


 いつも通りお留守番待ち伏せスタイル。

 大口開けていたら勝手に入ってきてくれると良いなぁとのんびり気長に待つつもりでも、それでも・・・・手を尽くさねばと周りの様子を見るべく二つの金の目をくるりと回す。


「(……“踊り子”の準備はOK。後は──、)」


 思考を重ねながら、いつもより手の込んだ“罠”に組み込むパーツを見定めながら、湿気り始めた空気に何だか無性に毛繕いしたくなり袖に隠れた手を猫の手みたく手首を曲げて顔へと近付けた。

 くしくしこしこしと手順に沿って顔を猫らしく洗っていき、最後の仕上げにぷるぷるーっと頭を振る。

 そしてスッキリしたと言わんばかりに「ぷはーっ」と息を溢すと、にんまり機嫌良く笑って“要望通り”曇り始めた空を見上げては胸の内に思うのだ。




「(猫の天気予報じゃ本日の天気は雨のち晴れ、明日はきっとお昼寝日和でしょう!)」




 にっかりと笑ったそんな彼の手には、一本の“凧糸”がひっそりと握り締められていた。






 *****






 ふぅ、と息を吐く。

 冷静に、落ち着いて、気を鎮める為に閉じていた瞼を開ける。


 眼前には曇天、今にも雨が降り出しそうだ。


「(……中に“何か”いるな……。)」


 雲の中から感じる視線。

 まるで此方を睨み付けている様な強い敵意を放つその威圧感に、アーサーは曇天を睨み返した上でそれを数えてみた。


「1、2、3、4……8? ……否、9か。」


 空からその下の森、あの狼煙が上がっていた方角へと睨む視線を移す。

 姿こそ見えないものの良からぬ者の視線がヒシヒシと伝わってくるその感覚にまるでそこに“天敵”がいるかのような、無性に腹が立つ様な毛を逆撫でされる不愉快さから思わず喉から唸り声が出てしまう。


「おい蜥蜴野郎!」


 不意に後ろから声が聞こえて一瞬他人事かと思ったけれども“蜥蜴野郎?”とその単語フレーズにまさかと思い振り返れば、不機嫌面をしたマーリンがそこにいて真っ直ぐ自分を見遣っていた。


「……僕の事?」

「オマエ以外に誰がいるんだよ! 全く……相変わらずコッチの事は眼中ナシなんだから。」


 ぶつぶつと不満を垂れ流しながらスタスタと歩み寄ってきたマーリンに、不快そうに身動いだアーサーは彼が傍まで来ると数歩後退った。


「で、何? ……余り寄らないで欲しいんだけど。」

「モーガンは良くてボクはダメなのかよ、女顔もダメとかさぁホンット筋金入りの女嫌いだなぁ~。そんなんだといつか好きな子出来た時に苦労するぞー?」


 目障りそうにじとりと睨んだアーサーに敢えて彼の苦手とする女顔を近付けつつからかう声音で返すと、尚更殺気の込められた眼差しがマーリンを刺す。

 それでも構わず煽る様な彼の大口は止まらない。


「それとも何? もしかして薔薇・・の人?」

「五月蝿いな、放っといてくれ。女も男も関係無く人間は総じて嫌いだ。……気色が悪い、もう黙ってくれよ。鬱陶しいんだから。」


 毛嫌いするアーサーの不快そうに歪めた顔にマーリンはにんまりと笑うと「まぁまぁそう言うなよ、良いモノあげるからさぁ」と腰の巾着へと手を突っ込み中身を漁り始めた。

 アーサーの訝しげる視線がそこに向けられるも、軈て目的のモノを見付けたマーリンが高らかにそれを彼の前へと披露して見せた。


「じゃじゃーん! “邪視払いハムサ”! ……んっふっふ、きび団子かと思った? 残念~御守りアミュレットでぇす!」


 若干調子に乗っているかの様に得意気なマーリンの掌に乗っていたモノとは、一つのシルバーアクセサリーだ。

 掌の形を縁取った型の中を複雑に編み込まれた模様、その中心には“目”が鎮座している。


「……何これ?」

「持ってけって話だよ。今回だけ“特別”にキミに無償であげるんだし、ありがたぁく受け取っておくれよ! っていうかもう支払いは済んで・・・いるんだから、ホラホラ抵抗しないでさっさと付ける!」

「は? あっちょ、触んないでってば……!」


 ずずいっと近付かれてしまいあっという間に服の裾を掴まれたアーサーが首に巻かれた赤いスカーフをぐいっと引っ張られて思わず腰を曲げさせられる。

 苦手意識からか戸惑うばかりで抵抗しきれなかった彼の、その引っ張り近付けたスカーフにネクタイピンとして作られたらしいそれを飾り付けると、してやったり感溢れるマーリンがふふんと鼻を鳴らした。


「ううーん、さっすがボクの作った御守りだ、良い出来映え! それに赤いスカーフに青のワンポイント……んん~っ洒落乙! 良いねぇ良いねぇ、もっと飾り立てたくなっちゃう!」

「やめてってば……! 何で急に、こんな……、」

「細かい事は気にしなーいのっ! ……おや?」


 幾ら離れようと後退ってもしつこく迫ってくるマーリンに苛立ち牙を剥きかけるアーサー。

 それすら気にもせずに彼へとちょっかいを掛けていたマーリンがふとアーサーの目と視線を合わせると「ちょいと失礼!」と彼の顔へと手を近付けた。

 そして前髪を掻きあげる様に眼鏡をずらして顔を覗き込むと、ニタリと口角を釣り上げた。


眼鏡ピント歪んでるズレてるぜ、坊や? ちゃぁんと周りを見る為にもしっかりかけてないとな。」


 傾いていた眼鏡をくいっと直すその一瞬、ちらりと直に視線を合わせてはアーサーが物を言う前にパッと離れたマーリンがクスクスと笑った。


「お前案外愛らしーぃ顔してんじゃん、折角の小面こおもて隠してないで前髪上げちまえよ。きっと男前・・になれるかもなー?」


 苦手な女顔のマーリンが間近だった事もあり固まっていたアーサーが少しせてハッと我に返る。

 そして憎々しげに彼を睨み付けると低い声で唸った。


「……策士が。タダの悪戯猫の癖に、一丁前に主人一織の猿真似のつもりか?」


 その言葉にギザっ歯の三日月笑いを向けたマーリンが「とんでもない!」と声を上げる。


「ボクは只面白ぉい玩具を見付けたからそれで遊んでるだけさ! 他意なんて無いとも、ボク如きがあの人に届くなんて“偶然”滅多な事では無いんだからね!」


 にししし、と笑い声を上げた彼はそして杖を振り上げるとぶわりと風が舞い上がる。


ステージは整えたんだ。ボクは“お留守番待ち伏せて”してゆっくりじっくりじわじわと……手間を掛けて調理するけど、キミはそうでもないんだろう? ねぇ癇癪持ち、堪え性の無いキミには“舞踏会踊り食い”とか魅力的に思えるタイプでしょ。」


 舞い上がり始めた旋風が彼の杖の風切り羽を揺らしてさらさら音を立てている。

 まるで背中を押すようなその“追い風”を受けて「さっさと行ってこい」とでも急かされている様な感覚にふんと鼻を鳴らすと、アーサーは背中の蝙蝠の様な翼をぶわりと広げた。


「……少し惜しいな、僕は他人の“手垢味付け”が付いたものは余り好きじゃない。それから他人にリードされる踊らされる舞踏会よりも人形劇の踊らせる方が好きな質なんだ──エスコートするなら手よりもで引く方がよっぽど得意だからね。」


 そして彼が一度羽ばたくと一筋の暴風を吹き荒ばせて、その風の強さに思わず顔を覆い隠してしまうマーリン。

 垂れ下がった長袖から顔を出して誰もいなくなった目の前から上空へと見上げると、あっという間に偉く高い所まで飛び上がった彼がホバリングしていたかと思えば急旋回し何処かに向かって一直線に飛び去っていくのが見えた。


「ほへー……はっやぁ、あんな速さで良くもまぁ身体が持つもんだ。」


 彼が飛び去った後には二筋の雲の筋が曇天の下に線引いていた。

 この世界には飛行機などある筈もないのに浮かぶその筋雲に、一織から得た知識にそれが“もうすぐ雨が降る”事への示唆だと教わっていたマーリンがくるりと踵を返す。


 視界に収めた“三つ”の姿。

 片側には一織、片側にはモーガンと眠るロヴィオ・ヴォルグ。

 そしてスンと鳴らした鼻に香るのは雨の香り──それにまじって“善くないもの”を感じ取った。


 後ろから唸り声が聞こえる、どうやら“見世物ショー”は遂に始まったらしい。

 だからマーリンはニンマリ笑って後ろから感じるその忍び寄る気配からのヘイトを“それ”に向けるべく、自分へ・・・と向かってきたその大きな口から背を向けて“それ”の元へと走り出した。




主様・・、危ないッ!!」






 *****






 ──バクンッ




 空から伸びてきた大きな口が、目の前で自らの主人と同胞を丸呑みした。


 額から流れる汗は冷たく、四肢が氷水に浸したみたく冷たく、身体の芯まで凍り付いたかのような極寒の心地に思わず喉から息を呑む音がする。


「待っ──、」


 咄嗟に手を伸ばそうにも離れた場所の彼等に届く筈もなく、牛歩の足では駆け付ける事だって叶わない。

 そして彼等二人を体内に収めたそれは、目的は果たしたと直ぐ様首を持ち上げ曇天を背景に空へと上がっていくと、その雲の中から幾つもの波打つ管の様な蛇腹がうねり蠢いているのが彼女の視界に映った。


 上空からはしゅぅしゅぅと息を細く吸い込むかの様な音が鳴り響き、ずるっ……ずるっ……と引き摺るような滑らかな鱗が擦れ合うようなものまでが嫌に鼓膜を震わせてくる。

 暗闇に強くない彼女の鳥目にはそれが何の影かはハッキリと見えないのだけれども、その背筋を冷たくさせる音からそれが“蛇”だと言うことをモーガンへと示してくれた。




 ──シャアアアアァァッ……




 彼等の威嚇音とも言える風切りの様な音が響く。

 生暖かい風が辺りに満ちていき、彼等の身動ぐ音と共に風が辺りの空気を震わせてそれが自身の素肌にまで届き危機感を煽らせてくる。

 そんな暗さに目が利かない視界の中、先端頭部らしき黒い影が何やら向こうで首を振っているのがぼんやりと見えると、放心し固まっていたモーガンはハッと我に返る。

 どうにか今すぐその場から退避せねば、ロヴィオ・ヴォルグを守らなければと後退ったその時、すり足が砂利を擦れさせる音を鳴らしたと同時に、そのぐらぐらふらふらと揺れながら光る二つの点がぐりんっと此方へと差し向けられた。


 それを視認した瞬間、足元がそれ以上動かなくなった事に気付く。

 必死で足を引こうと膝に力を入れてもびくともせず、何かと思い足元を見れば膝下までの自らの足が身に纏っていた衣類ごと石になっていたのだ。


「しまっ……邪眼か……!」


 不味い、と焦りに気が急いてもがき何とか抜け出そうとしても、石になってしまった足は動かした所で解ける筈もない。

 気付いたからには咄嗟に視線を外したけれども、視界よりも振動と音とそれから温度で周りを伺うその生物にハッキリと自身を視認されてしまった。

 視界の端ではゆっくりと此方へと頭を近付けてくるそれが見えて、逃げる術を初っぱなから奪われてしまった彼女は絶体絶命の危機に思わず息を殺した。


 それで回避出来るのならばどれ程良かった事か。

 餌として視認されるであろう自分には、“今は”その危機から逃れる術が何一つとしてない。

 何故ならば彼女は今“魔力”を枯渇しており、魔法はおろか意識すら朦朧としてしまう程の有り様だったからだ。


「(……月が……月光の光も無ければ星明かりすら此の身に届かないと為ると、慣れない宵闇でも活きる為の“陰気”補う事も儘なら無い……!)」


 ロヴィオ・ヴォルグへの治療に費やした“糧”に、曇天の天井による補給元の断絶。

 更には補給が叶わないからこそ、先程“名無し”の暴走を止めるべくして呑み込んだ多量の不浄の水までもが彼女の身体を内側から苦しめていたのだ。


「(“月の女神”からの加護が……狂気に耐えられる術が、絶たれて……頭、が……、)」


 身体の中でちゃぷちゃぷと波を起こし内側から蝕み始めた水が、水面を揺るがす感覚と共に頭の中までもが揺らされて酔いと吐き気に思わず口を押さえた。


 朦朧とする意識に暗闇に曇らされたぼやける視界。

 巨大な頭の舌が動く音と吐く息を感じられる程に、もう直ぐそこまで迫ってきているのがそちらを見ずとも感じ取れる近くのその気配にモーガンは大きく息を吸い込む。

 そして左手に持っていたメイスで固まりながらも覚束ない足元を支える様に“かんっ”と地面へと末端を突き、そのメイスと共に負けぬ程にしゃんと背筋を伸ばした。


 目を合わせれば石になる。

 それを学習した今、対抗するそれに目を合わせる訳にはいかない。  故にモーガンは目を閉じた・・・・・まま伸ばした背筋に迫り来る驚異に真っ向から向き合うと、一か八かの博打に“それ”を口にする。

 それと同時に耳元で、目の前にいるらしいそれが口を大きく開いたらしい“ぬちゃり”と唾液が糸引く音がした。




「──“大地よ、我が声に応えよ”。」




 彼女の笛の音が、投げ掛けたその口内で反響した。




 ──ガチンッッ




 不意に、一筋の疾風が彼女の燕尾のローブを吹き流す。

 吹き飛ばされぬ勢いでこそあれど、それでも思わず顔を覆い隠す程に強い風圧に止んだ矢先についそれを視認してしまう。

 そこには高く真っ直ぐに振り上げられた細足が、空から伸びてきていた大蛇の顎下を蹴り上げたらしく蛇の頭が投げ飛ばされていく様が視界に映った。




 ──ぱきんっ




 同時に固いものへ硝子を叩き付けたかのような、軽やかな破壊音までもが鼓膜を震わせる。

 そして天へと突き上げられていたその足はぴしぱしと音をひっきりなしに起こしていくと、軈て“ぱりんっ”と弾ける様に形を崩した。




「──ごめんね、お嬢さん。怖かったでしょう? ……もう大丈夫だから。」




 力所か足の動きまでもが封じられ、身動ぐ事も出来ぬまま“それでも屈するものか”と威風堂々と仁王立った所でどうしたって立ち尽くしていたとも言えるその絶体絶命、絶望的状況。

 そこに何処からか現れたその人物は、何故だか向こう側の景色を映したひび割れた“薄氷”の身体をしていた。

 その半透明とも言える姿の、彼女の目の前で佇む物悲しげな薄い笑みを湛えたそれは──“名無し”の彼。


 はらりと崩れさせた足を下ろし、二本足から一本足へと減ってしまったからか軈てふらりふらりとバランスを崩しよろけ始める。

 左足のみとなったその姿は“やじろべえ”の様で、左右に揺れ踊りながら彼はどうにか倒れないように案山子みたく腕を突っぱねて「おっとっと……!」と小さく声を漏らしながらも何とか持ち堪えようと何度と地べたを跳び跳ねた。

 そのまるで支えを求めているかの様にその伸ばされた手に、咄嗟にそれを掴み引き寄せるとモーガンはその手に取った身体の軽さに思わず目を見張った。


 それは“薄氷の様な”身体ではなく、正しく“薄氷”の身体をしていたのだ。


 ふわっと重みは無いのに冷たさのある掌はとても脆そうで、その素肌を握り締めて温めてしまえば簡単に崩れそう溶けそうだ。

 どう見ても手を取るだけでは支えきれそうに無いので、すかさず軽く引き寄せた彼の小さくて軽い身体の背に手を滑り込ませると、互いに向き合ったまま傾いた二人の身体は何処か“舞踏会”で踊る男女の様。


 咄嗟の事で形振り構わずだったその行動に、顔を近くさせていたモーガンの目の前で仰向けに傾けられ長くも短い髪を後頭部の向こう側へと垂れさせた“名無し”が一瞬目をぱちくりとさせた後、徐々に気まずそうな顔色へと変えていくと軈て視線を逸らした。


「……あ、ありがとう……助かったよ。転んだら身体がぐしゃぐしゃに壊れてしまいそうだったから。」

「いえ……御気に為さらず。わたくしとて、貴方様の其の様な様は見とう御座いませんので。」


 静やかな雨音の如く澄んだ耳障りの良い幼声が戸惑いを滲ませながら言うと、木筒の中の空気を振るわせながら通り抜けて音を響かせる笛の如くよく通る・・声が素っ気なくも温かな音色で囁き返される。


 見下ろした半透明な身体はうっすらとぼかしのような白濁色を含ませては彼の肌と言う肌、更には白濁色となっている眼球や髪ですら至る所に細やかな皹を彼方此方に広がっており、それは一見身に纏った服だけがそこに浮いているかの様にも思えてしまうような有り様だ。


「(……蛇の脱け殻の神だとは聞き及んで居りましたが、これではまるで──、)」


 隙間なくひび割れたその素肌は確かに鱗の様だ。

 透き通っていて向こう側が見える程に中身が虚な様とて“脱け殻”を模していると言われてみれば納得出来てしまう様な物でも、愛用する自身の象徴たる武具“銀のメイス”を持つ彼女からしてみれば、彼の姿はどちらかと言えば“透かし鬼灯”の様だと感じた。


 中身は無く、重みも無く、色味とてほんの僅かにしか残っていない。

 そんな彼の身体は少しでも力加減を間違えれば簡単に崩れ壊れてしまいそうで、気軽く触れてしまうのも何だか躊躇ってしまう程に繊細そうでつい思い憚ってしまう。

 事実、抱き抱えたそれは草木では無くともくしゃりと崩れてしまいそうなのは確かであり、壊れかけな陶器の様なその身体をうっかり壊してしまうなんて事がない様にそっとその身体を引き寄せて立たせた。


 一人で立つには大変そうな彼が転んでしまわぬ様、その手を取ろうと和装な着物の振り袖へと手を伸ばすとそれに触れる前にパッと離されてしまい、見上げた顔同士が怯えの目と不満げな目の視線をばちりと合わせた。

 そして離れた途端、支えが無くなった身体はまたもふらふらとよろけ始めたのだった。


「御逃げに為らないで下さいませ。貴方様が抱え込む其の水如き、海を泳ぐ私に取っては驚異に非ず。例え其れが猛毒で在ろうと精々身体の色を黒く染める程度、飲み干した所で殺られるものですか。」


 短い振り袖が揺蕩う腕を鳥の様にばたつかせる彼に、問答無用でその腕を掴み取ったモーガンはそれを決して離すまいと、そして決して壊さぬ様にと背中にまで手を添えて彼の身体をもう一度引き寄せた。

 彼女の懐へと飛び込む形となった彼は「わぷっ」と小さな悲鳴を上げて図らずも抱き付いてしまうと、慌てて離れようと袖に隠れた腕で突っぱねるもモーガンはその肘を折らせて抵抗を阻む。

 その上で彼の脇の下へと手を差し込むと、軽い身体を難なく持ち上げて彼がちゃんと自立出来るようにとその佇まいを直した。


 そして自身よりも目線が下にある彼を見下ろしては、表情が薄くも驚きを含め俯いているその顔をじっと見詰めて再び袖に隠れた手を取る。

 すると今度は大袈裟な抵抗は無かったけれどもやはり戸惑いは強いらしく、此方へと見上げた彼が困った様な作り笑いを向けた。


「そこまでしなくて良いよ。後は一人でも立てる……手、支えてくれてありがとね。もう大丈夫だから。」


 そう言って手を引こうとする彼に、モーガンは遂に掴むことの叶った袖の手を離す事はない。

 引こうにも一向に離す気配のない彼女の手に、困り果てて再び見上げた彼が助けを求める様な眼差しで見詰める。

 離してほしいとでも言いたいのだろう。

 それに応える気など一切なく、ひたすら静かに彼を見下ろしていた──否、幾度と無く彼に“見とれていた”モーガンは軈て徐に口を開くと、殆ど無意識に近い形で思っていた事がぽろりと溢れてしまった。




「……はぁ……貴方様はいつ見ても・・・・・、何処も賢も頗る御綺麗でいらっしゃるのですね。」




 そう言って、漸く彼を“良く見れる”角度にて佇まいの調節が叶ったモーガンが空いた手で自らの頬に添えると「ほう……」と感嘆の吐息を溢しながら名無しの姿をじっくりと観賞する。


「白い葉脈の筋の様な無数のひび、薄氷の如き白くもうっすらと青を含ませた暈しスモーク、虚故に向こう側が透けて見えると言うのに其処に在る事を証明する衣服の色味が寄り貴方様を引き立てて……嗚呼、何て美しいのでしょう。私、“鬼灯”の草花が一等好きなのです。ずっと見て居たく為って仕舞います……。」


 目を細めてうっとりと見詰めて視線を外さないモーガンに、一時何を言われたのか理解出来ずに固まり漸く我に返った彼が「……えっ?」と戸惑いと疑問符に染まった声を溢した。


「えっ……え? 待っ……ちょ、ええっ?」

「一目見た時からじっくり観賞したいとずっと思っていたのです。柔らかく透き通る様な御髪おぐし、目を奪われる程に見事な花のかんばせ、始めて相見えた時には小さくてミルキーホワイトの玉のような白肌はまるで鈴蘭の様……でしたが、今の薄氷の如く繊細な御姿とて実に素晴らしい。水晶草の様な透明感とて好ましい事此の上在りません。」

「ちょ、ちょっと待って……! はっ恥ずかし、ああいや違う! そうじゃなくて、今そういう場合じゃないよね…!?」

「嗚呼、駄目です。そう俯かないで下さいませ……折角近付けたと言いますのに、此れでは貴方様の御顔が見えなくなって仕舞います。」

「みっ見なくていい! さっきまでのならまだしも、今のはそんな大袈裟に言われる程のモノじゃ……あれだってロヴィに仕立てて・・・・貰った作り物なだけで、元はこんなモノじゃないから……ああっやめて、そんなに見ないでぇっ……!」


 もっと良く見ようと間近に見詰めるモーガンに、慌てふためいて顔を袖で隠した名無しがあんまりにも“羞恥”を感じるその状況から逃れようとそれを言う。

 すると目を固く閉ざして堪える様な顔で袖の向こう側に隠れた彼の白かったひび割れに、じんわりと橙色が色付いたかと思えばそれが滲み広がり始めたのだ。

 そして振り袖に隠した手で頬を包む彼の顔は正しく“透かし鬼灯”の装いとなり、熱くさせる筈の熱もないのに真っ赤になった彼の風貌へと変わっていった。


「何と愛らしい、そうも朱く染まって仕舞って……寄り愛でたく為って仕舞います。……はぁ、此れが目に入れても痛くないと言う尊さなのですね……。」


 直接触れるのも憚れる程に繊細な細工の如きそれに彼女は満足そうに頷く。

 そして彼の肩を抱き寄せると身を寄せ合う形とさせたモーガンがもう片方の手に“メイス”を現せた。


「私は“自然体そのまま”を好みとしますが、これは……マーリンが“粧し込む飾り付け”を趣味とするのも何だか理解出来そうです。……しかし、まぁ──、」


 その背後からは大きな影が辺りをより暗くさせる。

 音もなく忍び寄った一つや二つではないその影の数に、振り返る事無く真っ直ぐに落としたメイスの末端の“カンッ”と鳴る音が辺りに響き渡る。

 すると地べたが小さく揺れたかと思えば徐々に徐々に大きく縦揺れ始めたのと同時に足元からは地面から何かの音が聞こえ始めた。


「何と邪魔が多い事。ゆっくりと観賞もさせて下さらない何て……不粋な。」


 揺れる巨頭の内一つが遂にモーガン達へと牙を向いたその時──、




 ──ドドドドドドッグシャンッ!!




 地響きと共に地中から勢い良く頭を出した巨木が頭上に浮かぶそれの顎下を突き砕いた。

 開いていた口は勢い良く無理矢理に閉じられ、それだけで済めば良かったものを衝撃が凄まじかったのかはね飛ばされたその巨頭の鼻先は潰れ消え去っていた。


 都合良く・・・・糧を得られた事により、万全と言うには程遠くもそれを喰らった彼女は不便な足をより不自由にさせていた石の枷を砕くと、背筋を伸ばし凜とした佇まいにて踵を返す。

 そして恥ずかしげに顔を隠してはいつの間にやら陰気・・臭さを無くした名無しを傍らに抱き寄せたまま、再び石にされぬ様に邪眼対策から目蓋を伏せたモーガンは、いつもよりずっと低い怒気を孕ませた絶対零度の声音を彼等へと言い放った。




「鉄拳制裁、御覚悟を──此のモーガンに喧嘩を売った事を後悔する迄も無くぶちのめして差し上げましょう。精霊流では御座いますが“肉弾戦”は私の得意分野。我が銀の“指揮棒メイス”にて贈る草木の奏づ、どうぞ御静聴下さいませ。」



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