27.色素の無い神様。

 昔はおのれとて、全ての人を等しく愛しておりました。


 照る朝陽が昇る頃に、今まで堪えていた産声が高らかに産まれ出た喜びに空気を震わせる音。

 一晩中必死の思いで息を殺し、朝の雲雀が啼くまではと耐えた漸く母になる女子おみなごの安堵する息遣いが我が耳に届いた時には“あゝめでたき事哉”と、我が身の事の様に己も心安くしたものです。


 夜に冷えた身体を温める陽の温度は、あの顔も知らぬ母子を癒してくれただろうか。

 なれば次は恵みの雨を、明日生きる糧を芽吹かせるしとしとと地べた濡らす水は如何でしょうか。


 社の外から聴こえる雨水滴る音、人々の喜びの声、濡れた空気の冷たさ。


 亡霊達に貪られた後の極寒に震え、力抜けた身体をどうにかこうにかと身動ぎ頭を上向かせる。

 空などとんと見えぬ天井を見上げては塞がれた口からは唱える言葉も出せぬまま、布に覆われた視界を見詰めて我が身の内に在る炉に抱え持っていた糧をくべて、未来在る幼子達の為と削り続けた己の命。


 今頃母に抱かれた子はどうしているのやら。

 母の腕に無事抱かれて花のように笑っていてくれたら、己とて祝福を贈った甲斐もあろうと、開けても閉じても周りを見れぬ景色から目蓋を閉じる。

 そして人々の暮らしに耳を傾けながら、己を一晩中貪り続ける亡霊がいなくなった事でやっと気を落ち着かせられた己の身体は凄まじい疲労感も相まってうとうとと微睡み始めてくる意識。

 身体の奥底から響いてくる気がする子守唄にささくれ立つ心を癒されてより漸く己は安らかな眠りに落ちる事が叶うのだった。


 一度足りとも使った試しもないまま腱を切られ動かせぬ足を、朝陽射し込まぬ座敷の牢で冷たい地べたにへたり込んだ体勢にて前へ放り出し、ずっと持ち上げられたまま血の気が引いた両の腕は縄で括られ自由は利かない。

 頭は自傷防止と怪我の悪化を防ぐ為にと布で覆い被され、坊主の様にのっぺらぼうにされていた。


 毎日毎日朝にはぐったりと疲れて怠い身体は眠りにつく度夢も見ぬ程深く寝入り、目が覚める頃には日が暮れ始めているから“又今日も夜が来る”と、遠くで啼く烏の嘲笑うかの様な声にいつ迄経っても死ねぬ日々の苦痛から心は凍えて、ゆっくりじっくりと死に腐っていく。




『“ニエ”様、生け贄様。今夜も我等が村を護るお役目、どうぞ宜しく御願い致します。』




 黄昏時、村の女子達が戸を占める前にと己を敬い、両の掌を合わせる肌を擦らした音が聴こえる。

 あゝそれならば仕方ないな、と半ば諦めた様な心持ちで身を委ねる他無かった。


 夜も更けきり、忌々しい亡者達が這い寄ってくる音にいつだって恐怖の感情は無くならぬまま、見えぬ視界の向こうで遂に触れられた身体からは刺すような冷たさが薄い肉を通し内側の芯にまで届かせてくる。

 それが何とも……痛くも苦しく、幾星霜の夜を乗り越えてきてしまってもちっとも慣れずに身悶えしてしまう。


『ん゛ーーーっん゛んぅっん゛ーーーっ!!』


 猿轡に塞がれた口は録に悲鳴も上げられない。

 舌を噛もうとしたら村人達から付けられてしまい、滅多な事では外させてくれなくなってしまったからだ。


 頭を振り乱し、手足をばたつかせ、振り払おうにも実態の無い奴等には利く筈もなく。

 生きたまま生きる為の気力を貪り食い散らかされ、目から零れた透明な雫が温かく頬を濡らしてくれた所でそれもまた冷やされてしまう。




 寒い、冷たい、苦しい。


 温もりが欲しい、身体を温めてくれる……何かが。




 必死の思いで身体を持ち上げる。

 ぶら下げられた手をやっとの思いで己の顔に届かせて、剥ぎ取った布の顔隠しを投げ捨てると指を目の中へと押し込み“ぐじゅり”と潰す。


 瞬間広がる激痛の熱、滴る血潮が伝っていく身体を温めていく。


 頭は朦朧とし酷い痛みは在るけれども、それも亡者に貪られる寒さに比べたらなんて事はない。

 そうやって何度も自身の身体を痛め続けてきたのだ。

 お陰で奴等から四肢もそうだけれども、他にも色んな術を奪われてしまう羽目となってしまったが。

 布が外れた頬は昔引っ掻き回して捲れさせており、露になった皮膚の下に在る筈の肉が風に吹かれる度ヒリヒリと痛む。


 凍える苦痛に乱れ狂う中、耳に届いたのはさめざめと泣く女子の啜り泣く声。


 音を噛み殺す様でもそれには深い悲しみが籠っており、それでいて酷く苦しげなのが伝わってくるその唇を噛み締め堪える音。

 その意味に気付いた己もまた、やるせなくなっては目尻からはらりと新しく一筋の雫を溢したのだった。




 翌朝、亡霊達は闇に去り、帳は晴れて鳥達が鳴き始める。


 意識朦朧とする中で“ようやっと眠れる”と目蓋を閉じ掛けた所で、己に近付いてくる複数の足音に微睡み掛けた意識を引き戻されてしまいその不快感に顔をしかめる。


『おい、またニエが身体を傷付けているぞ! 誰だ、縄紐を緩めた奴!』


 ……忌々しい村の男共の声が塞ぐ事の出来ない耳をつんざく。


『女共に治療させとけ、アイツらなら喜んでやるだろ。……ったく、“何も知らない”ってのは気楽で良いねぇ。こんな醜い餓鬼をよくもまぁ敬えるもんだ。』

『馬鹿! 仮にも現人神様の御前なんだから、身の程を弁えろ! ……そういうのは目に見えない場所で言えっつの、雨を降らせてくれなくなったらどうするんだ。』


 ひそひそぽそぽそ、全く持って隠せていない内緒話。

 さっさと目の前から去ってくれ、放って置いてくれ……そうは思ってもいつだって思い通りには行かない。


『ニエ様、今日の供物で御座います。……どうぞ、お召し上がり下さい──そして貴方様の施しを、“恵みの雨”をまた宜しく御願い致します。』


 目の前に差し出された供物、にこやかに笑みを浮かべる忌々しい男。


 それを見た己は“またか”と思うと同時に酷く虚しく、悲しく、そして憎悪を膨れあがせては“見ていられぬ”それから視線を外し拒絶する。


『おや……腹は御空きでは御座いませんでしたか。ならば、これはどうしましょうか。嗚呼勿体無い、ではこれは廃棄にでも──、』

『要らないなら俺にくれ!』

『いいや俺だ! お前はこの前食っただろうが!』

『おい抜け駆けするなっ! 折角の“贅沢”が台無しになるだろうが!』


 座敷牢の前でその己に捧げる予定だった“供物”を巡って争い始めた男共。

 飢えに飢えておかしくなった男共から目を背け、肩を揺らしさめざめと泣いてしまった己の胸に広がるその虚しさと悔しさに、昨晩の女子を想いまた涙を溢す。




 己に捧げられたその“食事”。

 カンカン照りが続き作物も録に育たず、鶏すら一匹足りとも家畜がいないのに何処から調達したのか出されたのは“肉”料理。


 全て耳に届いている。

 産まれた頃から耳が良いから、直に目で見ずとも外の様子は全て知っていた。




 だからそれが、昨日産まれたばかりの“赤子”の肉だと言うことだって知っている。




『(そんなもの、食べさせようとしないでくれ……!)』


 自分達の願いを叶えてくれる“便利な”ものだからと無理にでも生きながらえさせるべく己ばかり優先し供物されるそれに、“肉欲”に飢えた男共の取り合いによる罵声怒声が座敷牢に響き渡る。

 みっともなく知性の欠片もない奴等の腹立たしく忌々しい騒音に耳を塞ぎたくなる思いを募らせながら、言葉を噛み殺した封じられた口から零れた嗚咽と共に涙がポロポロと地べたを濡らした。


 産まれた赤子への祝福は無駄となってしまった。

 あの母となった筈の女子はまた新たな子を作るべく“袋”にされるのだろう。

 そして今日もまた、明日に我が子を抱ける期待に胸を弾ませる“何も知らない”人々が無下にされていく。

 四肢を封じられ、目も口も封じられてしまった己はそれを誰に伝える手段もないまま黙って見守る他無い日々。




『(嗚呼、ここは生きたまま閉じ込められた“地獄”なんだろうな。)』




 己は人を愛しておりました。

 純真無垢な女子供を等しく、どうか彼等の明日に幸に恵まれるように、と何度と想い願い続けておりました。

 只、己が在たその村は、どうしようもなく人でなしの男共に支配され、己も女子供も録に年を食うことも出来ずに無下に惨たらしく消費され続ける──地獄の様な場所だったのです。




『(早く……早くここから解放してくれ……どんなに惨い死に様だって良い、お願いだから早く楽にさせて死なせてくれ……!)』




 己はいつか憧れた“誰か”の様に全ての人を愛したく思っていたのですが、“けだもの”だけはどうしても愛せなかったのです。






 *****






 悲鳴が響く。

 艶かしくもイカれた、聞いてる此方まで気が狂ってしまいそうな苦痛と快楽が入り交じった金切り声。


「アアアアッアア゛ア゛あだまッあ゛ダまが、いぎッひいああアアアーーーッッ!!!!」


 草むらの影からこっそりと覗き見たそれは四肢を振り乱してよがり狂いながら黒い液体を撒き散らし、のたうち回りながら意味不明な叫びを開いたまま閉じることの出来ない口から発していた。


「(……ひええ、おっそろしー……不浄の海に染まった神って“ああ”なるのか、そりゃ“廃忘孔”に誰も近付こうとしない訳だ……。)」


 遠巻きに眺めてはドン引き、声も無しに胸の内でそう思ったマーリンは一織から指示された通りに“予定通り”気を狂わせた名無しの祟り神の様子を伺いつつ、その曖昧にちらりと視線をずらした。


 乱れ狂うそれの傍らに横たわっている、意識のない重体の“獣”。

 元より素直に治させてくれぬで在ろうその獣──ロヴィオ・ヴォルグに、名無し自ら治させるつもりで敢えて見過ごしていた一織が考えた計画。


「(あーあ、主様の手の上でコロコロと踊らされちゃってまぁ、可哀想に。素直に従ってればこんな外道じみた事にならなかったのにね。それにしても……、)」


 今ここで彼が目を覚ませばこの惨事にどう思うだろうか。

 抱えきれる余力も無い癖に無責任に抱え込み過ぎて、あまつさえそれが原因でも情けから手放す事も出来ない。

 更には自身が朽ち果てるのを見越して、残されてしまう“彼”を一織達へと任せよう押し付けようという恩着せがましい甘い考えから一織の誘いに簡単に首を縦に振ってみせたあの獣。


 一織は全て見抜いていた──彼は一織の逆鱗トラウマに触れたのだ。


「(だからって、えげつない事するよなーあの人。優しいんだか厳しいんだか、情があるのか冷酷なのか、ちーっとも掴めないや。)」


 ふう、と溜め息を溢しながらころりと寝転がる。

 自分が彼から指示された事は“ロヴィオ・ヴォルグ”の回収と、あの“名無し”が万が一抵抗しようものならその足止めに“罠”を張って置く事。


 罠は既に張ってある。

 何故なら彼等が此処へ来ることは一織が既に“見越して”いたのだから、彼等が姿を表す前にマーリンが場を整えてその作業は終えていた。


「(その時に神様が起きそうになっちゃうんだもん、ホント勘弁して欲しいよねー! ま、それで神様に呆気なく駆逐されるあの“大精霊”の糞蜥蜴が見れるんならボクはそれでもいいけどネ!)」


 にひひひ、と声もなくギザっ歯が並ぶ引っくり返った三日月の様な笑みを浮かべながらほくそ笑むマーリンは暫くして「(いやいや、やっぱそれはダメでしょ!)」と自らに突っ込む。


「(そしたらボクも、世界も、それから“モーガン”も! 全部全部ダメになっちゃう、それは絶対にダメだ!)」


 ふるふると頭を横に振り、キッと真面目な顔付きへと変えたマーリン。

 その唇を噛み締めながらも、奇声を上げる彼へと向き直して真剣に段取り良くこなそうと気を引き締めた。


「(ボクの“白いカナリヤ”。精霊達の王様から盗んじゃった女王ティターニアだったキミ。……もう二度・・もキミを失い掛けたんだ、三度目なんか起こしてなるものか!)」


 嘗ての彼女の姿を思い浮かべる。

 自身が連れ出す前、真っ白だった美しい彼女の羽は自らの過ちにより命を落とした事から、消えてしまいそうだった彼女を必死の思いで繋ぎ止めようと自分の残機数ある魂をお裾分けした事で同じ“橙色で斑模様オレンジタビー”の鳥──雀へと転身させてしまった罪深い自分の恥じ入るべき過去。

 それから変わってしまった彼女を連れて、己の罪から逃れるようにして精霊達の国から逃げ出してからというものの、それももうどれ程時が経った事か。

 いつからか自分の身体は真っ黒く染まってしまったが……まぁ猫は細かい事は気にしない、些細な事は昼寝して忘れてしまうくらいが丁度良いのだから!


 そしてマーリン長く垂れた袖に隠れた手を顔の前に出しその中で握り拳を作るとそれを上下に手首を曲げた。


「根子回し猫招き──“草花よ、こいこい”!」


 囁き程度の小さな声、それで唱えた言葉に合わせて彼の視線の先に在ったロヴィオの身体が僅かに揺れる。

 周りの土が盛り上がったかと思えば彼の身体を乗せたままに地中から現れたのは巨大な“ハエトリソウ”。

 それが姿を表したと同時に頭上に横たわっていた獣をぱくんと咥え込み、捕らえた瞬間に直ぐ地中へと引き込み姿を消した。


「(よぅし……これで主様の所へ連れていって治療したら、後はココで気を狂わせているアイツの救助に──……?)」


 ふと、何かが聞こえた気がした。


「(んー? “大丈夫、安心して”? なんだこの音、鯨みたいだけど偉い高音域……イルカの鳴き声エコーロケーション? ここら辺に海なんてあったかな、んじゃ蝙蝠?)」


 なんて、猫とて良い方の聴力で拾ったその音に首を傾げていると、ふと何だか周りが静かになった様な気がした。


「(……あれ? アイツの悲鳴が──、)」


 ふと見下ろせば地べたで立ち尽くしていた、呆然としているのかどうかは解らないが表情の見えない彼がそこにいた。


「(…………何か、嫌な予感……!)」


 その不気味に静かに佇むそれを視界に入れてから身体中がぞわぞわして鳥肌が立つ、凄まじい悪寒が走る身体を縮込ませる。


「(やばい、やばい、やばい! 今すぐ逃げなきゃ、ココから離れないと……!)」


 そして身動ぎその場を離れようとした瞬間、逸らしかけた視界の端でぐるんと向けられた真っ黒い眼窟が自分の方へと向けられた気がした。




 “見たな”




 マーリンの耳に微かにその声が聞こえた。


「(ひいいい! やばいよやばいよ! 何で今正気に戻っちゃったの!? 早すぎる、予定外過ぎるよう!)」


 空を見上げてまだ明るい事に、マーリンは酷く焦りを覚えた。

 彼の耳が良い事は前情報で知っている。

 決して声を出さずに足音を忍ばせながら必死にその場を離れ、この異常事態を報せるべくして一織の元へと急ぎ帰ろうと森の中を駆けていく。


「(万が一、変なタイミングで正気に戻った時用のトラップ! この先へ行けば、ボクは結界から出れてもアイツには出られる筈が──、)」


 不意に辺りから硝煙の如き白い靄が辺りに立ち込み始める。

 今まで良好だった視界が瞬く間に白に塗り潰されて駆けていく内に前も後ろも見えぬ程に、生温い空気がべっとりと肌を撫でるように辺りを占めていく。

 気味が悪い、おどろおどろしい。

 それでも遠くから僅かに聞こえた“罠”が崩れた音にニタリと笑みを浮かべ、手筈通りに発動した事に安堵しながら“蛇”の這いずる音を背に“鈴がついた糸の柵”を飛び越えた。


「(相手が“のろい”ならこっちは“まじない”だ! 邪払いすら意味をなせないなら相手の方からドツボにハメさせて、自ら解いたのろいに食い合わさせて自滅させてしまえば良い!)」


 そしてマーリンは振り返る。

 そこには誰もいない、上手く巻けただろうか?

 回避成功! とほくそ笑んで念の為にと杖を自らの前へと出し、杖のクモの巣の様に張られた糸──ではなく、弦の中心部にある小さな珠を摘まんでぐいーっと手前に引くと、軈て“ばちん!”と離した指から解き放たれた珠から飛んでいった魔力の粒が狙いを定めた場所でぶつかり弾けた。


 するとそこから現れたのは小さな蜘蛛達。

 カサカサと散り散りになったかと思えばその身を巻き込みながら細やかな糸を紡いで回り、辺り一面に巣を作り始めたのだ。


「(嘗めるなよ。“魔導書大精霊”としての力はまだまだ腕は未熟でも、元よりボクは“狩る側”さ。本当は追い掛けられるよりも追い掛ける方が得意だけど……今はそうも言ってられないかな!)」


 細かすぎて見えるかどうか怪しい程の、見事なまでに隙間無く張り巡らされたその蜘蛛の巣達に満足げにマーリンは鼻を鳴らす。

 蜘蛛達は元より魔力を練って作られた物だから蜘蛛の巣に溶け込み、邪払いの神聖としての力を帯びたままそこに鎮座していった。


「(よし、これで一先ずは安心かな! 後は主様の……元……に…………、)」


 声も無しに胸の内で呟きながら踵を返し掛けたマーリン。

 彼の視界の端で僅かに見えた動く気配に、安堵して落ち着いた筈の心が激しい動揺と悪寒、そして恐怖心に顔を引き釣らせていく。




 ──ずるっ……ずるっ……ずるっ……




 何かを引き摺っている音が向こう側から響いてくる。

 信じられない光景に戦慄いたマーリンは首を横に振りながら涙目で、その自身が用意した“蛇”だったものの“女の頭”の髪を掴み、六本在った筈の腕を無惨に引き千切られ下半身に在った筈の蛇の身体を綺麗さっぱり無くされたそれを地べたに引き摺りながら“それ”は歩いてきた。


 そのもう片方の手には千切られた腕が一本、恐らく最後の物であろうそれを頭上へと掲げて口の中へと入れた“それ”は、バキバキメリメリと噛み砕きながら喉の奥へと流し込んでいく様をマーリンへと見せ付けた。

 そしてその最後に“けぷぅっ”と、やっていることに対して余りにも見合わない可愛げのある息を溢すと涼しげな顔をしてにっこりと笑った。


「……ゴチソウサマでした、中々に悪くない“呪い”だったよ。」


 その笑みを浮かべた真下、彼の足を伝い落ちた黒い水が水溜まりを作り、マーリンの視界に映る景色をじわじわと侵食していくのが見えた。


 ゆっくりと末広っていくそれは触れたものを枯らし、腐らせ、転がっていた石すらも砕きながら辺りを真っ黒へと染めていき、見るからに危険な事が良く解る有り様だ。

 だというのにそれを抱え撒き散らすその人物は先程には酷く激しくのたうち回っていたのに、今では何ともない様な顔をしては真っ暗闇を映す三日月の笑みを浮かべてはケタケタと笑っていた。


「ロヴィイイ……おれの片割れロヴィはどこォ……? くひひひ……やっぱりキミもお腹の中にたぁいせつにしまっちゃわなきゃだね……誰かに取られるのも居なくなってしまうのも嫌だもん……。お腹の中に入れちゃえばキミが死のうが死ぬまいが、おれ達ずぅーっと一緒にいられるよ。ああ……それってとっても幸せな事だと思わない? ねぇ、ねぇ……。」


 手に持っていた残りの分を放り投げては手持ち無沙汰となった腕を前にだらりとぶら下げる。

 地べたの黒い水にばしゃんと落ちたそれがじゅわじゅわと溶けて水と一体化していくのが視界の端に映しながら、カタカタと硬い動きで不気味に首を傾げたそれは一歩、また一歩とマーリンへと近付いていく。


「だから……ねェ? おれのロヴィを返して……? ねぇ返して……返してよ、返して、返して、返して、返して返して返して返せ返せ返せ返せ返せ返せ──おれのロヴィを返せよこの泥棒猫がァッッ!!!!」


 壊れた機械の様に同じ言葉を繰り返し始めたそれは次の瞬間堰を切った様に怒りを露に怒号を飛ばす。

 火が点いた様に怒り狂い飛び掛かってきたそれにびくりと身体を強張らせ、動けないで固まっていたマーリンへとその黒く穢れた手が襲いかかった──かと思いきや、その手前に掛けられた蜘蛛の巣がその手に絡み付き行く手を阻んだ。


「──なっ……!? ア゛ア゛ア゛ッッ!!?」


 飛び込んだ先で全身に蜘蛛の巣が纏わりつく。

 そこで初めて気付いた彼が一瞬怯んだと思った矢先、凄まじい蒸発音が熱風と共に辺りに響いたと同時に身体をガクガクと痙攣させて絶叫した。


「アアアアアッッ!! 痛い痛い痛イ熱イィッッ身体がッ身体が焼けっ……ひいいああッッ!!?」


 つんざく悲鳴を上げながらのたうち回る身体からはじゅうじゅうと何かが焼ける音がする。

 不浄が苦手とする神聖に焼かれて浄化されているのだ。

 身体から黒い煙を上げて地べたに転がり暴れ狂うその様は先程のとは全く違う、只ひたすらに苦痛と苦悶に悶えている様にしか見えない。

 そしてそれはもがき苦しみながらも必死に身体に絡み付いた巣から逃れようと暴れるけれどもそれはが逆効果となり、マーリンが隅々まで張り巡らせていたそれらが余計に引き寄せられて彼は余計にがんじがらめになっていったのだった。


 その姿はまるで巣にかかった虫と同じだ。


 不浄とて神聖を焼き溶かしてこそいれども溶けたそれが不浄の水と混ざりあって重みを増しては彼の上にのし掛かり、より身動きを取れなくしてはどつぼへと落とし込んでいく。

 そしてそれは彼の身体にねっとりと纏わり付くと、一際甲高く蒸気音を唸らせた。


「あああうっ! かっ身体の中が、干からびてくっ……! ひいぅ、痛い、痛い痛いぃいぃっ! ひぐっ、ろびぃ、ろびーたすけ、たすけて、苦しっ、苦しいよう、あああっ……!」


 空気が唸る音に連なって彼の口からもより苦しげな声が上がる。

 一時は絶体絶命かと思い冷や冷やとしていたマーリンはその光景に自身の身の安全が確保出来た事に安堵の息を溢すと、巣に絡まって動きが鈍くなったそれを見て。


「あーびっくりした。効くかどうか怪しかったけど、どうにか効果があって良かったぁ。……ふふん、少しは頭が冷えたかい?」


 してやったりと得意気に横たわった彼へと言葉を投げ掛ける。

 自分は一織から言われた通りに行動しただけではあれども、それでも仕掛けたのは自分だ。

 何だか自分だけの力で大物を仕留めた様な気持ちになって思わず気が大きくなり上からな目線でそう言ってみるけど、彼はマーリンなど眼中に入れずにずっと「たすけて、ろびぃ、ろびぃどこぉ……?」と片割れの名を連呼してばかり。

 その体から煙を上げながら黒い涙交じりにうわ言を繰り返すばかりでマーリンへとまともな返答が投げられることはなかった。


 それには少し不満に感じて「参った、助けてくれ!」と降参し命乞いする言葉も「このやろー!」と反抗的な言葉もない。

 自分の事など全く視界にいれてくれない彼の様子にぷくーっと頬を膨らませた……けれどもそれも直ぐに空気が抜けていく。


「……何だかなぁ、ホントにこんな事して“名無し”の事を助けられるのかなぁ……?」


 幾ら“全てを救う”為にと時には飴よりも鞭を持つ彼からの指示とは言え、片割れを失いかけ必死に看病するも気を狂わせ、更には不浄が抜けても治療が必要だからこそ仕方がないとは言え片割れを奪われかけていた彼に傷口に塩を塗り込む様な無惨な有り様のこの状況。

 「痛い」「苦しい」と苦悶の表情に泥をひっ被された様なあんまりな姿となった彼に、何だか見ていられなくなったマーリンはせめて少しだけでも彼の不安を取り除こうかと口を開いた。


「ねぇ名無し、あの獣はちょーっと治療が必要なんだ、だからこれは少しの間借りるだけなんだ。悪い事は絶対にしないから安心しておくれよ。このままだとホントに危ないから、少しの間だけ……、」

「ろびー……ろびぃを返して、返して、返してよ、かえせよぉぉ……」

「……ああもう! 全然言うことを聞いてくれないなぁこの聞かん坊は!」


 どんなに弱らせて、落ち着かせようと宥めるに声かけ続けてもそれは一向に此方の話に耳を傾けてくれない。

 今も尚逃れようとじたばたと四肢を振り乱す彼の段々とその力強さが抜けていく様子に、どうにか穏便に事を進めたくて黒い水が掛からぬよう少し離れた場所から声をかけ続けても彼には全く響いてくれない。

 そんな聞く耳持たずな彼に無性にやるせなくなってマーリンは思わず声を上げてしまった。


「良いからボクの話を聞けってば! ボクらは別にキミを陥れようとしているんじゃなくて、寧ろ助けたくて──……?」


 ふと、視界の内で彼の身体に異変が起きているのが見えた。

 目の前でじわじわと虫の息へと弱っていくそれの身体から、陶器の様だった滑らかな肌から水分が抜けていき、枯れた大地のようにひび割れていくのが見えたのだ。

 それが目に見える肌と言う肌に広がっていくと、その鱗の様にひびを広げたそれからポロポロと肌を欠けて崩れさせていっているではないか。


「……! 不味い、今蜘蛛の巣取るから! ちょっと大人しくしてて……!」


 彼の身体が神聖に耐えきれず自壊をし始めているのが目に見えて解る光景だ。

 これは飽くまで彼をも救う為であり、間違っても彼を懲らしめて消滅させる為にしている事ではない。

 だからこそマーリンは咄嗟に最早脅威とするにはもう瀕死な彼に纏わり付いた蜘蛛の巣へと手を伸ばそうと駆け寄った矢先、走らせていた足が視界に映ったそれを見て途中でピタリと止まった。


「……なんだ、これ……?」


 彼の身体から昇る煙。

 黒煙が昇った先で渦を巻き、彼の周りで徐々に徐々に量を増していくそれは煙と言うには質量を増しすぎて最早雲の様にマーリンよりも少し高い頭上で膨れ上がっていた。

 その光景に不吉な予感を感じ後退り、冷や汗を流したマーリンが顔を引き釣らせてその“そうであって欲しくない”想像を口にした。


「これって……まさか、いつかのループでコイツが世界を目茶苦茶にした時のヤツだよね……? 主様、まさかこれも“計画通り”とか言わないよね……!?」


 不気味な気配のするその黒雲に気を取られ見上げていたマーリン。

 その足元では段々と声がか細くなっていっていた名無しの彼が、禍々しくあったその邪気を失っていきながら、普段のロヴィオから貰った通りな幼さのある無害そうな顔付きへと戻りつつあった。

 しかしその空色だった瞳からは徐々に色が薄れていき、軈て白濁色へと変わっていっていた。


「や、やめっ………色が、感情が抜けて……おれの………おれの、色が………。」


 うわ言の様に呟かれた名無しの彼の言葉を余所に、ゆっくり、ゆっくりと質量を増していくそれは辺りを埋め尽くさんばかりに黒煙が辺りに広がり始めていく。

 只事では無さそうなその状況に思わず後退ったマーリンの目の前で、地べたに転がる彼の割れた身体から黒い水が溢れ始めた。

 コポコポと気泡をあげながら零れ出たその黒い水から一際大きな気泡を幾つも作ると、周りの水を吸い上げながらそれはどんどんと膨れ上がりまるで風船の様に大きくなると一つの大きな気泡をばちんっと弾けさせた。



 ──びちゃッ




 飛び散った飛沫が横たわる彼の身体ごと辺り一面を黒く濡らす。

 そしてそれに連鎖するように泡立ったそれがばちんばちんと弾け辺りを黒に染めていく中、その中心で盛り上がっていくばかりだったその黒い水の塊が──まるで“海坊主”みたいなそれが、這いつくばった彼の傍らで覗き込む様に見下ろした。


「嫌だ……戻りたく・・・・ないっ………おれは………おれは……!」


 名無しの彼は身動きの取れない身体を必死にもがいて、それから遠ざかろうと這いずり腕を伸ばす。

 しかし只でさえ蜘蛛の巣が纏わり付いて逃れられないというのに、海坊主から伸ばされたドロリとした幾つもの触手のような形に伸ばされた黒い水が逃れようとする彼の身体へと纏わり付き、逃亡を阻止してより身動きが取れなくなっていく。

 そして捕らえた彼を引き摺り込みながらその海坊主もまた、彼を呑み込もうと覆い被さろうと傾いていく。


「やだ、やだぁ……! まだ“逝き”たくない、おれは、まだ──、」


 二つの金の目が見詰める先で黒い水に呑み込まれようとする名無しの彼の姿が映る。

 それは何処か“既視感”のあるもので、その景色を見ていると何故だか自身の胸の内を酷く揺さぶってくるのを感じた。


「(今すぐ止めないと“不味い”のはボクだって解る。……でも、なんだかなぁ……、)」


 そして、それと同時に──




「(なんだかとても──“旨そう楽しそう”だ。)」




 真新しい玩具を見付けたかの様に“カモみっけ”と、彼はほくそ笑んだのだ。




「消えたくないっ……ロヴィとまだ、一緒に居たいよう……!」


「──手、貸してあげよっか?」




 自身を呑み込もうとする波の影が差し掛かり、涙混じりで掠れた声に一つの“誘惑”が彼に投げ掛けられた。


「助けて欲しいんでしょう? ボクの“注文オーダー”をこなしてくれるのなら……ココでキミとボクが相見えたのも何かの縁、折角だからボクがキミのコトを助けて調理してあげよう。」




 形勢逆転。

 追い詰め追い詰められの立場が入れ替わるひっくり返る






 *****






 もがこうにも力は抜け、足掻く程に“蛸の足”みたいなそれが纏わり付いて離れず、胸の中には絶望感の極寒の寒さが感度のない筈の自身の身体を凍えさせる。


 “連れていかれる”。

 

 それ・・を見た瞬間に脳裏に浮かんだその直感から来る凄まじい危機感に、今すぐ逃げなければと抗ったけれども蜘蛛の巣に阻まれ捕らわれてしまった自身の身体。

 だからと言って諦める訳にも行かず抵抗してきたけれども、身体から何かを抜き取られていくあの恐ろしい感覚。

 それを感じた時に自分の中で熱く燃え滾らせていた“憎悪”が薄れていくと同時に、ロヴィオと同じ時を過ごす内に熱が無くとも我が身の内に積み重ねてきた“感情”までもが消されていく感覚を覚えて「それだけは……!」と死に物狂いでもがき続けて今に至る。




 神聖に焼かれて身体の内側が沸騰する程に熱く苦しい。

 皮膚だった自身の身体がボロボロと崩れていくのが、“色”を失い始めた景色からぼんやりと見えた。


「嫌だッ……まだ、まだ死にたく・・・・ないっ……!」


 余裕もなく口にしたその言葉。

 全くもって馬鹿みたいな話だ、自分はとっくに“死んで”いるのに。


 闇夜をさ迷う亡霊だったのがたった一つの“偶然運命”により“身体”を得てしまった。

 それから“感情”を得て、“世界”を知って、“愛情”を二度・・も思い知らされて……。

 彼と過ごす内に、あの頃の──ひたすらに受け続けていた“愛情”の捌け口にとてもよく聞こえる耳にて拾った音から様々な事を知って人知れず知識を得て悪人と善人を見定めてより人を選び施しを与えていた頃とも、何も感情もないまま無知に無垢に周り全て辺り構わず振り撒いていた頃とも全く違う、互いに想い合って支え合う事を“名無し”は学ぶ事が叶ったのだ。

 そしてそれには誰の何の願いを叶える必要もない訳で、自然な時の流れに身を任せて過ごす彼と積み重ねてきた時間に壊れたものは有ったけれども、それ故に成長出来た部分とて確かに多く有った。




 だから“もっと”と追い求めた。


 “もっと知りたい”。

 “もっと愛したい”。

 “もっと愛されたい”。

 “もっと……ここにいたい”。




 嘗てあれ程“消してくれ死にたい”と願っていた自分は何処へやら、今の彼の願いは“生き続ける”事。

 死んで尚も消滅が叶わず、成仏する事を目的に彼と共に過ごしていたのがいつからかひっくり返ってしまった。

 道中、多くの人から神と崇められる彼に付きまとう自分に敵意を示す目は少なからず在った。


 不浄の塊、亡霊達の頂点、邪悪の権化……それが自分という自覚はある。


 怨嗟と憎悪、それから妄念が満ち満ちた悪霊の坩堝たる夜闇の蠱毒。

 それから利欲に貪欲、それから悪食に汚染されたけだもの達の巣窟たる日中の蠱毒。

 その悪辣な環境に捕らわれて、本来ならば周り全てを喰い荒らし生き残ったモノこそが蠱毒の劇毒となる筈が自分は“喰い荒らされる”事で成立してしまった劇物たる怨霊、それが片割れと共になった事で“神聖”を得た事で至ってしまった所謂“邪神よこしまなかみ”の祟り神。


 それでも抗い続けて、ロヴィオと共に笑って過ごせる平和な日々を願い続けてここまで来たというのに──それの終わりバッドエンドが見えてしまった。




 ──嫌だ。




 遠くで手招く声が聞こえる。




 ──嫌だ……いきたくない。




 もう休んで良いぞ、と眠りを誘う声が自分を呼んでいる。




 ──おれは……おれはっ……!




 嘗て、初めて見た自分の姿に“綺麗だ”と感じた、あの無い脈動を錯覚してしまう程の心の高鳴りが自分を引き留める。

 ずっとずっと“醜い”と呼ばれ続けてきた誰の手当てもなく不衛生から爛れて水膨ればかりな汚ならしいばかりの、醜悪な姿だった自分が“産まれてもない”のに死んだまま生まれ変わったあの瞬間。




 ──おれはまだ“逝き”たくない、“生き”たいんだ……!!




「──手、貸してあげよっか?」


 声の先を見ればニタニタと気味悪く笑うギザっ歯の三日月を浮かべた、先程まで相対してた“猫”みたいな人物。


 つらつらと何やら御託を並べ立てて、自分の目の前に“餌”をぶら下げてくる様な感覚を覚える。

 その悪魔の誘いの様な甘い誘惑に、そうだと解っていたとしても“逃れたい”、“消えたくない”、“大好きな人とまだ一緒にいたい”──そんな想いで無我夢中だった彼はその誘いに一ミリとて深く考える暇なんてなかった。

 だからこそ、藁にでもすがる思いでそれを叫んだ。




「──何でもする!! 何だって良いから、助けてッ……!!」




 形振り構わず心の底から叫ぶ声。

 そんな涙目で必死に“助けを求める”その姿に彼は「これだから止めらんないんだよなぁ」とその這いつくばったそれを見下ろしては舌舐めずりした。


「はぁ~っ最ッ高! 忌々しい“大賢者”がちっぽけな精霊のボク落ちこぼれ如きに泣きすがらせるこの快感ッ……! ああ~何回・・見ても胸がスカッとするねぇ! にひひひっ!」


 高揚感につい口から思ったことが零れてしまう。

 それでもすがるように自分を見上げる、今にもあの意味不明な物体海坊主みたいな何かに呑み込まれそうな彼が自分に助けを求める声にマーリンはにんまりと笑みを浮かべた。


 勿論主人の一織からはこんなこと頼まれては居ない。

 本当ならば指示通りに放っておくべきだけれども、何だか妙に“癪に障る”様な一織らしくないその命令にずっと不服に思っていた自分がいた事は確かだった。

 だから仕方無いよネ! とその与えられていた命令から背くと、段取り組んでいた“次”の計画を放っぽって、惨めに自分に助けを求めるその名無しの彼へと振りかかるそれに、腰に掛けていた巾着袋から手に取った“石”を打ち鳴らした。




 ──カチッカチッ!




 途端、黒い水からは“ゴウッ”と勢い良く炎が燃え上がる。

 まるでタールの様にねっとりと重みある黒色の水は、その炎を酷く嫌がる様にうねっては洗濯機の中のかき混ぜられる水の様なばちゃばちゃといった音を立てながら苦し気に身悶え始めたのだ。


 その隙に呑まれかけていた彼の身体を引っ張りあげたマーリンは、すかさずそれを背に抱えると一目散にその場から逃げ出した。


「はぁ~い契約成立ぅ! にっひひひっ! 何でも願いを叶えてくれる願望器たる大賢者のキミの弱味を握れるなんて、ん~っ幸先良いねぇ! テンションあっがるーぅ!」


 自身よりも少し大きくとも偉く軽いその身体を難なく抱えおぶったマーリンが早馬の如き速度で、元いた場所から瞬きの内に駆け離れていく。

 腕を離してしまえば思わず振り落とされてしまいそうなその勢いに、名無しは慌ててマーリンの首にしがみついた。


「は、はや……! 落ちちゃうよ、もうちょっとゆっくり……!」

「文句言わないの! スピード落としたら追い付かれちゃうよ、ほら後ろ良く見てみる!」


 マーリンに言われて彼は振り返る。

 するとそこには……否、すぐ・・そこには黒い水が迫り来ており、今にも自分へと届きそうな程に迫っていた。

 振り向いた直ぐ後ろ、目の前数cm程の距離にその触手が伸ばされており、それを視認しては「ひぃっ」と小さな悲鳴を上げると決して振り落とされまいとマーリンへとぎゅっとしがみつく。


「ね? だから今は我慢してよね、何か彼奴らを巻ける様な良いものが在ると良いんだけど……はてさて、どうしたものか。」


 何て事無いようにマーリンは森の中を駆けながら背後の黒い水との距離を寸分違わず、そして一切近付けずに木々の間を駆け抜けていく。

 時折後ろから泥団子を投げ付ける様に水玉が飛んで来て、それを視認する事もなくひょいっと難なく避ける。

 べしゃりと地べたや木にぶつかったそれは触れた部分を腐らせ溶かしていきながら、何やら小さな生き物の様にうごうごと蠢き小さな触手を伸ばしてゆっくりと移動する様が視界に映るも見向きもせずひたすらに走り抜けていった。


 そうして妨害や障害物をかわしながら休みもなくひたすらに走り抜けていく様に、いつか疲れて追い付かれてしまうのではと一抹の不安を感じた名無しがしがみついたままマーリンへと声をかけた。


「ね、ねぇ……! 本当に大丈夫なの? 追い付かれない?」

「あーもー心配しいなぁ! 大丈夫だってば、良いからボクに捕まったまま動かないの!」


 まるでもう耳タコですと言わんばかりに叫んだマーリンが踏んだ地べたを蹴り上げる。

 彼の言う通り、その素早い足取りは一向に衰えを見せない。

 寧ろじわりじわりと距離を離し始めてまでいるのだ。

 恐ろしくて振り返るのも怖くはあったけれども、それでも確認するべく見てみればいつの間にか随分と後ろにそれはいた。


「す、凄い……。」

「ふっふーん! 幾ら落ちこぼれの精霊とは言え、“冥府”から去るのであれば何よりも早いのが“ボクら”なのさ!」


 自慢気な彼の声に少し希望を見出だした名無しが僅かに顔を明るませて、疑問に思ったことを聞くべく首にしがみついたまま顔を寄せる。


「“冥府”から去る?」

「そ! だってあれは“不浄の海”の何かだろ? ってことはあれに捕まれば“あの世”行きって訳だ。キミだってそう言っていただろう?」


 彼の言葉に名無しは頷く。


「そしてボクらは“精霊”だ。精霊は冥府から“向かう”事には何よりも早くて、冥府へ“帰る”事にはのんびりするものなのさ──“精霊馬”って言えば解るかな?」


 マーリンの言葉にキョトンとした彼が無言で固まる。

 それににんまりと笑みを浮かべると、たんっと大きく股開きまるで小川を越えるように“不浄の海”からより遠く距離を引き離した。




「つまり今のボクはキミの“唐瓜の駿馬”なのさ! 安心しなよ“行き場のないキミジャック・オ・ランタン”、ボクの背に乗っている限りあの世になんていかせてやんないさ!」






 *****






 波が逆立つ、渦潮がうねる。

 邪魔者はいなくなったと言わんばかりに、ごうごうと唸り声を上げて黒い海は荒れ狂う。


 過去はなく、未来もなく、今がずっと続くだけの意味不明な時系列とて曖昧模糊のその空間。

 入り口は在れど出口はないというのに深い深い所に存在する、閉められていた“門”からは、ドン、ドン、とからかう様にして無理矢理にでも抉じ開けようとする音が鳴り響く。




「……喧しい、いつになく喧しいな。“アレ”は親の眠りを妨げてまで、一体何を暴れ腐っておる……?」




 微睡んでいた意識を少しだけ浮上させた“それ”が呟く。

 どろどろに溶かした身体をゆったりと起こし、悪戯に玩具を壊して回る“忌子”を見下ろし睨み付けては、軈てそれも疲れたかの様に“それ”は息を吐いた。


「嗚ゝ、扉が繋がってしまったのか──彼方の御前狂い稚児此方の己不浄の海とが、又。……なればそこも、直に果てない無に帰すか……はぁ……。」


 気怠げにアンニュイな顔持ちで溶けた頭を揺らしながら、ずるりと海から持ち上げた腕を宙に浮かすとそれを上下に揺らそうとしてはぴたりと止め、首を傾げるようにそのぐずぐずな頭をこてんと横に傾けた。


「……あなや、まだ諦めとらんのか。」


 ぽつりと溢したその独り言に、次第にその口にはいつもの薄ら笑みを作っては理解したとでも言うかの如くゆっくりと頷いた。


「善き哉、善き哉。嗚ゝ……己の愛し子達は善く働きよる、嘗ての母君のとは全く持って大違いぞ……。」


 言葉だけなら嬉しげに、しかし込められた感情はひたすらに無なそれがぱしゃりと水面を揺らしながら荒れ狂っていた波を沈めていく。

 海面の下、彼の身体の内側からは無数の魂が怨嗟に呻き騒ぎ立てる声に溢れ返り、それを涼しい顔した彼が感情のない笑みを浮かべたままに愛おしげに海面を撫でるとそれらは水の中に溶け合って再び沈んでいった。


「はてさて……己が残したモノ達が、どれ程に彼奴あやつの役に立てておるかはとんと解らぬが……きっと我が子なら上手く遣えよう。“白痴”の己とは全く違う“賢知”の者だからなぁ。」


 ゆらゆらと横揺れしながら蕩けて海と混ざりあっていくそれが徐々に永い眠りへと戻る為に深く深く意識を沈ませていく。




「──我が愛する子等よ、“彼方の御前”よ。己の愛し稚児ややこを宜しく頼むぞ。」




 とぷん、と水面を揺らしたのを最後に、不浄の海はまたいつもの静けさを取り戻したのだった。






 *****






『ロヴィ! ねぇロヴィってばー!』


 愛しい人を呼ぶ声がする。

 久しく自分の口から音が鳴る、鼓膜を震わせるその感覚が嬉くって意味もなく何度もその名前を呼ぶ。

 すると自分の声に振り返ってくれた彼から『なんだ』と頭の中に彼の声が響いてきて、寸分違わず聞き逃す事のない音に安心して笑みを溢してしまう。


 彼から与えられた靴を履いた足で野原を駆けていくと、誰かが残した草結びに足を引っ掻けてべしゃりと転ぶ。

 脱げて飛んでいった靴がぽーんと弧を描き何処かへと姿を消して行く中、慌てて駆け寄った彼が心配そうに覗き込んできたのが見えると、何だかおかしくなって腹を抱えて笑ってしまった。


 転んでも痛みはない。

 作り物の身体なのだからどれだけ傷付けようと欠けて壊れるだけなのに、それでも彼はいつだって心配してくれる。

 『大丈夫か、痛くないか?』と自分を気に掛けてくれるのが嬉しく思えてならないのだから、安心させるように彼のその言葉に『大丈夫だよ』って笑って返す。




 立ち寄った森の獣達から貰った供物の果実を手に、食べることも出来ないでそのつるつるスベスベとした感触らしきものを感覚のない指先で撫でながらじっくりと眺める。

 その様子を見ていた彼が『食おうか?』と訊ねてきたのを、少し考えて首を振ると『珍しいな、どうしたんだ?』と彼は不思議そうに言う。


『これ、何て言う果物?』


 そう聞けば彼は『林檎だ』と教えてくれた。


『へええーっ、これが“林檎”! 知恵の実って言われてるやつかー!』


 昔聞いた話を思い起こして、漸く巡り会えた事に喜ぶ様に食べれもしないのにそれに口付けた。

 歯は立てず唇だけ当てる様に触れても、嗅覚のない鼻からはその香りを知る事は出来ない。

 食べたい衝動に身を任せてかぶりついた所で、この身体は飲食を拒絶するのだから食べれもしなければ味わう事も出来ない。


 だから、音とその歯から伝わる振動を楽しむ為に食べれもしないそれに歯を立てると“かろっ”と心地好い音が鼓膜を響かせた。

 咀嚼する程に口の中から聞こえる音と、身体の内側からなら感じれる骨伝導で伝わってくる感触を噛み締めていると、何だか自分でも食事が出来ている様な気がして嬉しくなった。


 しかしそれも次第に気持ち悪さを覚えて、吐き気を起こすとべちゃべちゃと地べたへと噛み砕いたそれを溢す。

 心配した彼に寄り添われながら吐き出した後は彼に食して貰って、改めて彼から伝わるその味に涙が出そうな程に感動して頬を包み身悶えた。


『あー美味しい……何だか甘くて、所によっては酸っぱいんだね。ロヴィに初めて食べさせて貰った時の果物に似てるけど、全く違うもの?』


 何となくに訊ねたその質問に、彼は何故だか首を傾げた。


『んー? 確かにおれは一度覚えたら絶対に“忘れない”けど、それがどうかしたの?』


 いつか彼に話した自身の特技に、唐突に疑問を投げ掛けられて自身も首を傾げる。

 忘れない、というよりかは執念深く・・・・て忘れられない自分の絶対的な記憶力に、彼は不思議に思ったその事を自分へと言葉に出したのだ。


『……一緒? これと、あれが? ええーまっさかー!』


 別段彼が嘘を言っている訳ではない事くらい解ってはいても、記憶と“全く違う”風貌のその果実を見ては“そんなまさか”とへらりと笑う。


『ロヴィ、あれとこの林檎は全然違うよ! だって──、』


 この時はまだ自覚が無かったのだ。

 どうして自分が“始めの頃”に何の感情もなかった無情で無欲だったのかを理解していなくて、寧ろ今の自分の方が随分と壊れてしまっていた事に気付かなかったのかを。




『これは“赤い”けど、あの時の果実は“黒”だったんだもん!』




 彼と出会ってから徐々に“色”を得て知っていった自分は、嘗て生前に見えていた世界が黒と白しかない色無し色盲だった事を、“外の世界を知った”だけなのだと勘違いして全く気付かなかったのだから。




 感情を糧に生きる“賢者”の彼は、感情を現す“色”を知ることも出来ないで無味無臭な空気のような感情達を受け入れ続けてきた。




 その結果が──亡霊達を受け入れ愛した硝子の器、どんな願いをも叶えてみせる純真無垢にて無情の“彼”。


 その失敗作が──獣と同化し、亡霊達を拒み続け壊れていくばかりの曇り硝子の器、誰の願いも叶えず自身の願いをひっくり返して叶えてしまう邪念煩悩に染まった邪悪の“自分”。




 “彼とずっと一緒にいられますように”

 “この幸せな暮らしがいつまでも続きますように”

 “いつか彼と並ぶに相応しい自分になれますように”




 それらの願いは全て、ひっくり返して叶ってしまった。

 彼自身が逆さまだからだ、もうずっと前から狂っておかしくなってしまっていた。




 死に間際、いつか願ったそれを叶えられては逆さまに吊るされた“てるてる坊主”。

 醜い顔を布で被され隠されたまま、世継ぎを残す為の採種鶏姦の最中絞められた首と理不尽な仕打ちにて命を落とした。




 視覚だけでは色は白黒、感情は無色透明にて、受け入れても感じられない感情を味わうには“共感すること身体の内側から”でのみ。

 始めから満たされており必要としていなかったけれども、生まれて初めてまともに得た“糧”は冷たくて仕方がなかった温度を求める変温動物の身体の内側を焼き焦がす程に熱く、思わず求めてしまう程の暴力的なまでの“色欲”。


 それは“全てを愛し受け入れていた”純粋無垢で無知だった彼の、ずれ始めていた禁断の果実を齧らせていた頭の中にあった筈のネジ自制心はよがって蕩けた時に海の底へと墜ちてった。

 だから自分が“元に戻るズレを戻す”には、“願いを叶える”あの黒い海に浸る他ない。




 彼は“リリス”。


 他者を誘惑し禁忌を犯させて、罪を擦り付ける者。

 人々を甘美な果実願望器へと誘い味を占める程に狂わせて、軈てその因果応報に自身をも地べたを這いずる様な惨めな終生を送る羽目となっていく罪深き“女神の後釜”。


 但し、只の蛇ではない。


 永き旅路の果てに“誰か”が必死に追い求めた届かない永遠失楽園に遺された、中身の抜けた透明な器──“蛇の脱け殻”の神様こそが、罪を重ね続け落ちぶれていった“名無し”の彼だった。



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