26.不確定要素への解釈違い。
この世には開けちゃいけない“門”と、開けなくてはいけない“門”がある。
“
──そこから災いを解き放ってしまうから。
“サンタのプレゼント”は開けなくてはならない。
──そこに求めていた“喜び”が待っているから。
“蠱毒”の蓋は開けない方がいい。
──恐ろしい“邪悪”が潜んでいるかもしれない。
“地獄の釜”の蓋はたまには開けたって良い。
──地獄の囚人達にも会いたい人はいるだろう。
開けるまでは中身が解らない“
その魅力的な“
だからこそ、開けてはいけないとされるものだって人は開けてしまうものだ。
それの中身が何であろうと、例え“条件付き”だろうと……な。
“玉手箱”や“雀の葛”の話をしよう。
浦島太郎は長い年月を“うっかり”竜宮城で過ごしてしまった。
その数日間は外の世界とはとても駆け離れていた事を知らずに、空いた時間の清算をする為の箱を開けた瞬間にそれを引き戻されてしまった。
……否、“引き戻してくれた”というべきなのだろうか。
只の人の身で逸脱してしまった分を補うような“出た杭を打つ”呪い。
浦島太郎はそうして若者から老人へとあっという間に変わってしまった。
現実を直視させる様な厳しさはあるけども何処か優しさが滲むそれは、きっと“それでも”乙姫からのささやかな祝福だったのだろう。
だって彼は地上で一人ぼっちになってしまった、知人は全て死んで朽ちてしまっていたのだから。
異端であることは孤独と同然だ、解り合える者がいないのだから。
だからこそ
故に、それは彼が──人が人で在る為に必要だった事なのかもしれない。
少なくとも
しかし、ならば葛はどうだろう。
お爺さんは謙虚に小さな箱を選んだ。
“家に帰ってから”と言われた通りに開けたら、入っていたのは金銀財宝──この世の幸福、明日を生きる糧。
それを羨んだお婆さんは強欲に大きな箱を奪った。
“家に帰ってから”と言われても“早く、早く!”と我慢出来ずに開けると、入っていたのは魑魅魍魎──この世の地獄、絶望を与える害意。
……はてさて、お爺さんとお婆さんは何が違っていたのだろうか。
大小違う二つの葛、お爺さんだって選ぶ可能性もあった筈のそれに恩の在る雀達は”損”な物を入れるだろうか?
答えはきっと“NO”で在り“YES”で在る、だ。
どちらも変わりの無い同じもので、きっと“条件”をこなしているか否かで幸福が手に入れられるかが定まるものだったのだろう。
だからお爺さんだって我慢出来ずに“途中”で開けてしまえば魑魅魍魎が溢れ出た“かもしれない”。
お婆さんだって我慢をして“家”で開けていたら財宝が溢れ出てきていた“かもしれない”。
どちらも“かもしれない”んだ。
本当がどうだったかなんて
浦島太郎だってそうだ。
乙姫の祝福──もとい、慈悲が彼にとってははたして“救済”たりえたものなのか、それは本人にしか解らないものだ。
だから
故にこそ、当事者には“只一つの正解”が在っても第三者からすれば“答えは無限”に在る。
決まったものでは無いもの程“理由”を付けたがる──それが人間だ。
“シュレディンガーの猫”の話をしよう。
箱の中には猫がいる、それを蓋をして誰にも中が見えないようにする。
そこに放射性物質を入れて、放射線をスイッチにして毒ガスが出るか否かが決まる装置を用意する。
条件が合えば毒ガスが噴出されて猫は死ぬだろう。
条件が合わなければ毒ガスは出ないまま猫は死なないだろう。
そしてそれは蓋を開けるまで中身がどうなっているのかは“誰にも”解らない。
猫生きているのか、はたまた死んでいるのかは誰かが観測するまで知ることは叶わない。
共に“
つまり、箱の中には二つの可能性──
結局は一つに絞られてしまうのに只見えないだけで箱の中には二通りの世界が出来てしまう、そう言った全く持って馬鹿げた話なのだ。
そんなの“絶対に有り得ない”のに、見えないだけで成り立ってしまう。
──では、それが始めから解っていたら?
確率なんてものには頼らず、あらゆるデータを元に全てを計算し答えを確実なものにする。
“見えない”を理由に不確定足り得るのなら“見えて”しまえばそれは“確定”されたものしかそこにはない。
“予測”ではなく“確実”に成ればシュレディンガーの猫の説は崩壊していくだろう。
世界はたった一つなのだと二つに分岐していた別々の未来へと繋がる“
そこに“偶然”というものは何一つ失くなってしまうのだから在るのは“必然”のみ、運命なんて
当然だ、俯瞰するものにそんなものは必要がない。
だってそれを“作り出している”者に知らないなんて事は無いし、それに予測不能も予想外だって有り得ないのだ。
“筆者は塞を振らない”──全て
どんな差異が在ろうと悉く些事だ、全部俺の掌の
*****
「ぶーっ! ボクだってサボってた訳じゃないのに、酷い言われようじゃないですかー!」
地べたに転がっている猫耳フードの彼がじたばたと四肢を振り回して駄々を捏ねている。
身体の至る所に鳥の羽根の装飾をぶら下げた金刺繍の網目模様がうっすらと浮かぶローブがじたばたばたつかせる度に、シャラシャラと音を鳴らしてさざめかせていた。
それは折角心地好い音色だというのに余りにも音が多くて少々喧しく、残念な事に此方にはそれが鬱陶しく感じさせてしまう。
「ボクは影の功労者だぞー! なのにこれっぽっちも労られない! 不満だーっストライキしてやるーっ!」
「そうだとしても、です。どうせ御前は遣る気の無い仕事には手抜き、言われた事以上の事は手付けずで放っぽって何処ぞに隠れてぐうたら余所見をしていたのでしょう? 仕事を終えても全然帰って来ないで、何処をほっつき歩いていたのですか。白状なさい。」
ごちん!
再び彼女のメイスが空を切る。
硬質な物がぶつかる音は何度聞いても痛々しい、また悲鳴が森に響き渡っていった。
先端が鬼灯を
するとマーリンは寝転んでいた上半身をがばっと起こし、まるでテディベアの様に両足は広げ股の間に手をついて視線が高い所にある彼女を上目遣いで見上げた。
「ちょっと
頬を膨らませて唇を尖らせたマーリンが腕を組み“ぷんぷん!”と口で言ってまでして怒りを露にする。
するとその言葉に心当たりが有ったのかモーガンが目を見開いた後直ぐ様目を細めて視線を逸らしてしまうと、その後ろから一織が彼女の側へと歩み寄った。
「おかえりマーリン、何か不測の事態でも有ったのか?」
上着のポケットに手を突っ込んで背筋を伸ばした彼がそう言えば、途端にマーリンがニコニコと態とらしい笑みを浮かべ組み合わせた手を頬にくっつけて、媚びを売るみたく猫なで声にて彼に甘ったるい声を投げ掛けた。
「主様ぁ~っ! 先程はぁ奴等の横暴に全く歯が立たず申し訳ございませんでした! このマーリン、戦闘にはとんとお役には立てませんでしたがぁ……んっふふふ! 主様のご命令通りに“手筈”は整えて参りました! なのでぇ……、」
謝っているのに反省の気配はなく、敬っているかのようで侮っているかのような不釣り合いな様子が伺えるそれはそこまで言うと弓形に閉じて笑みを作っていた目を細めたままに開く。
そしてつり上げていた口角をより酷く伸ばし、悪どさを際立たせる気味の悪い笑みを浮かべたそれは相手を見下しせせら笑う様にして言い放った。
「“お代”が尽きてしまいましたのでぇ、これ以上は
手抜き宣言、不忠発言。
まるで“追加”を求めて催促しているかの様にも思える口振りで、それは主人に対しそう言ってのけたマーリンに一織は呆れた様に溜め息を溢した。
「っとにお前は、注文の多い猫だな……まだ仕事は沢山有るから答えは“NO”だ。お前が何を欲しているのかは大体検討は付くが、俺が与えた仕事は何処まで終わらせて来たんだ?」
その質問に、唇に人差し指を当てて空を見上げながら考える素振りを見せたマーリンは小さく唸ってから軈て答えを返した。
「そうですねぇ……“罠”を仕掛けた事と、後それから──、」
不意に前に翳したマーリンの手に魔力の光が収束するとそれは彼の杖へと形を変えた。
捻れ重なった気の幹の様なそれはモーガンの物よりは少し短く、捻れた木の間に水晶の玉を巻き込みながらもその先端には輪を描き空いた空間に蜘蛛の巣の様に紐が余れた、所々に色鮮やかな小石が引っ掛かられた装飾がされた物。
その“枠”である輪の木の幹には下部に梟の風切り羽根が幾つか垂れ下がっており、それはまるで“
それを掴んだマーリンは垂直に持ち上げては振り落とすと、杖の末端を地べたへと打ち“コンッ”と音を鳴らした。
すると何処かから何かがズルズルと引き摺っているかのような音が何処かから響いてくると、側の地面が突然盛り上がり始めたのだ。
──ずっずずずっ……ずぽんっ!
小山を作り突如顔を出したのは、とても太く頑丈そうな茎を伸ばした大きな蕾。
その場にいる誰よりも大きな図体をしたその花の蕾は“まだ夕刻だというのに”花弁をポンッと開かせるとその中からは見知った顔が其処に寝転がっていたのだった。
「──狼竜?」
その、開くには時間が不釣り合いな花から──大輪の蓮の花から姿を表したのは狼竜、つまりは“ロヴィオ・ヴォルグ”がそこで眠っていた。
しかしそれを見て戸惑いを見せたのはアーサーだけ。
花の中から現れたそれを視認するや否や、一織はモーガンへと目配せを送ると頷いた彼女はそれに歩み寄って、その獣の頭上にメイスのカンテラ部分を翳した。
すると鬼灯型のカンテラからは温かな橙色の光が灯って“灯籠”の如く淡くも濃い炎を浮かべ、その明かりに包まれたロヴィオの身体は朧気な光を帯び始めていく。
何処か苦悶げだった表情はその光を浴びていく内に段々と和らいでいったかと思えば暫くして浅かった呼吸音は穏やかに、安らかに静かにゆったりとした寝息へと変わっていったのだった。
「……此れで一先ず峠は越えました。後は暫く安静にして貰う他在りません。」
落ち着いた呼吸音へと変わったそれに安堵の息を溢したモーガンは、やるべき事は終えたと姿勢を正しては一織へと向き合うとそう言った。
「よし、じゃあこっちは取り敢えず一安心だな。……問題は──、」
「あの“糞餓鬼”?」
一織が呟いた言葉に、そこにいない者に対しすかさず毒吐いたのはアーサーだ。
見るからに嫌そうな顔をしてしかめていた彼に一織は思わず苦笑してしまう。
「偉く目の敵にするな。そんなにアイツが気に食わないか?」
「嫌い、心底大嫌い、視界に入れるのも嫌だ。見ていて不愉快になる。」
「……散々な言い様だな。」
ふん、とそっぽを向いてしまったアーサーを見ては仕方無さげに一織は肩を竦める。
それに対して興味なさげに知らん顔して欠伸で大きな口を開けていたマーリンは、ふと何か思い出したように小さく声を溢すと「そう言えば主様ぁ」と話を続けようと声を上げた。
「ん、どうした?」
「一個話に聞いていた情報と齟齬が有ったんですけどぉ、ご報告宜しいですか?」
胡座をかいているマーリンがそう言って一織へとちらりと見遣る。
「齟齬? 何だ、俺の読みが外れたとでも?」
「いえいえ~それ程大まかなものではありませんよぅ。只ちょっと……ねぇ?」
一織がマーリンを見下ろす目が冷ややかに細められていく。
それに対し彼はニンマリと笑みを浮かべると両掌を差し出し、何か物乞う様な素振りを見せては「……ね?」と同じ言葉をもう一度口にした。
薄気味悪い笑みのマーリンと絶対零度の如き冷たさしかない無表情な一織の睨み合いが、居心地を悪くするひりついた沈黙と共に流れていく。
暫くすると前髪を掻き上げた一織が忌々しげに舌打って沈黙を破った。
「……チィッ、がめつい猫め。何が欲しい、言ってみろ!」
「にっひひひひっ! さっすが、このマーリンが敬愛する主様です! いやぁ~懐のあったかぁい人はやっぱり最ッ高ですねぇ! 益々好きになっちゃいそうですぅっ!」
胡麻擦り媚び売り猫なで声。
煽てて中々本題へと話を進めないその子憎たらしい彼に、一織の眉間には青筋が浮き始める。
そして細く長く吐かれた息に“バシンッ”と胸元で掌に拳を打ち付ける素振りを一織が見せた途端、ピタリと止まったその甘ったるい声が出ていた大口は控え目な笑みへと変わり、そして目線は泳いで冷や汗を浮かべたマーリンが「ハイ、ハイ、今すぐ話しますすみませんってば…!!」と焦った様子で姿勢を正した。
「あっあのですね! 齟齬って言うのがですね……!」
「簡潔に、短く、率直に答えろ。」
「は、ひゃいいっ! え、ええと、ええとぉ……!」
凄まじい怒気のオーラが一織から漂ってくる。
それには目の前のマーリンは身を竦めて必死に頭を回転させて、どうにか短く答えられるよう報告する要点を纏めるのに、こめかみを人差し指で指し当てながら悶々と考え唸り始めた。
その傍ら、彼等とは関係の無い場所で無関係な筈のアーサーは顔を青ざめさせていた。
それを眺めていただけだったのが、叱られているのは自分ではないと言うのに怒鳴り声を聞くだけでまるで自分がその対象になっているかの様な気分になってしまう。
硬直し無意識に姿勢を正して、一織を見ることも出来ないで俯いていたアーサーに、ふとモーガンから手招きされたのが視界の端にちらりと映り見えた。
それに気付くとそそくさと彼女の方へと近寄っていきその背後へと身を隠すと、モーガンの影でアーサーはびくびくぶるぶると小さく震え始めたのだ。
そんな今までとは打って変わって違う彼の様子に小さく息を溢したモーガンは、その頭を肩越しに撫でながら意味の無い恐怖心に駆られている彼へと安心させるべく宥める様に囁いた。
「叱られているのは貴方様では無いと言うのに、何故そうも脅えるのです? 我が主君は貴方様には彼処迄御叱りはしませんのに。」
「だっ……だって、その、ええと……」
しどろもどろな声音に、モーガンは静かに彼を見遣る。
漸く素の顔を晒した彼を下手に刺激して元に戻ってしまわぬよう様子を伺いながら彼の言葉を待っていると、軈てもごつかせていた口を開いたアーサーが視線を逸らしながら小さく答えた。
「お、怒られるの……いつも僕だけ、だから。周りで、自分以外の誰かが怒られているとこ、見たこと無いんだよ。……だからかな? 言われてるのが自分じゃなくても、その、自分が言われてるみたいで……。」
前髪の向こうで視線がうろうろと游いでいるのが見える。
涙混じりにまでなりながら段々と声音を小さくしていくアーサーに、彼へと身体を向き変えたモーガンは彼の頬を両手で包み、それをもみくちゃに撫で回した。
わぷ、と小さな悲鳴が溢れたものの抵抗の無い様子に笑みを浮かべた彼女は、すっかり自分に脅える様子のなくなった“女性嫌い”なアーサーにその疑問を投げ掛ける。
「ではこうして此方へ来ると言う事は、私の事はもう怖く無いのでしょうか?」
銀と黒色のオッドアイが彼を見詰めて細められる。
「自分に向けてでは無い説教に脅えて仕舞う貴方様に取って、私は──、」
「……? 貴方は“一織”でしょう?」
遮られた言葉に、はた、と言葉が詰まる。
大きく見開いた目にキョトンとした顔が見詰めており、それがこてんと横に倒される。
「僕が貴方を“視た”時、貴方は“一織”だったんだ。だったら僕にとって貴方は一織でしかない。」
そこで彼女は彼が見えている世界を垣間見た気がした。
それは彼が“身体は大人に近いのに心は未熟な子供のまま”であることを示すかの様なもの。
物事の“上っ面”しか見ていない。
そしてそれこそが天才である筈の彼の、凡人にして只の人である一織に容易く手玉に取られるが故の致命的な“欠点”だった。
「そう“見えた”のだから、そうに違いないんだ。だって僕の目は“本当”の事しか見せないんだから、それを疑う必要が何処にあるの?」
彼は“目で見たもの”しか認識していない、目に頼ってばかりいるから物事の“本質”に気付かない。
だから彼の心は未熟で幼稚なままだったのだ。
それはある意味純粋無垢に等しいもので、それ故にだろうか、今までのも含め彼の行動は何処か子供染みていた。
モーガンはそんな彼の言葉に、何処か眩しげに顔を綻ばせる。
彼の目元に浮かぶ隈を指の腹で撫でて、一織が組み込んだ計画での彼の“これから”を考えては憂いつつも、心の何処かで彼の言った事に喜ぶ自分がいる事につい肩を竦めてしまう。
嗚呼、自分は確かに“
いつか自分を救ってくれたあの人の様に、自分もそう生きられたなら……。
そう考えて“契約”とは関係無しで元より一織に付いていく気でいたモーガンには、例えアーサーの言葉が本質にまで辿り着けていないものだとしても嬉しい事に変わりはなかった。
「そう、ですか。貴方様にとってそうなのでしたら、きっとそうなのでしょうね。」
彼女は生まれてこのかた“魔力”を基とする精霊でしかなかった為に“生物”としての枠に入った事はない。
只無情に宙に漂い、いつからか自我を得て、感情を得て、そして“形”を得てと緩やかに穏やかに成長を続けて生と死の境目を揺蕩ってきた無機物のようなものだ。
だからこそ人や獣達、それから感情を糧に生きる“奉仕人形”の大精霊達とだって全く身体の作りが違う。
奉仕ではなく、無情かつ打算的に奪った“命”を糧に生きるもの──それが“精霊”にして“妖精”だ。
彼女も嘗てはマーリンと同じくして、等価交換の元で寿命と引き換えに人に手を貸す“精霊”だった事はある。
しかしそれはもうずっと前の事。
今の主人は“世界そのもの”であり、自分は寧ろ“彼の一部”たる存在にまで矮小化された。
故に“神村一織”に影響されやすいのだ、心の在り方も考え方も。
特に彼女は彼の“
強欲な神様を元に産まれてきた精霊だからこそ、その在り方というのはマーリンの方がずっと“正しい”というのに、彼に何かを求めるなんて事はもうモーガンには出来っこない。
求めた所で、いつだって彼に得が有るようにしか求められないのだ──それはもしかしたら、これでもまだ返しきれていない……そう思っているが故なのかもしれない。
自分の事より他人の事。
自分を優先出来ないままで、心の何処かで求めているものを押し込んでいたのは彼女もだった。
「(嗚呼、でも、駄目です。私はもう“終わった”者。既に救われた身、此れ以上の救済は求めません──もう十分過ぎる程に、幸せなのですから。)」
彼女は彼の隣に居るだけで満たされてしまう。
彼を護る役目、そしてその為の盾になれるだけで幸せだった。
只、それでも、彼をもっと理解したくて……“彼の様に”なりたくて、彼に近付ける何かが欲しいのは確かだった。
彼女は“彼の様に”……誰でもいい。
大切な人を得てそれを愛したい、慈しみたい──そう思っていたのだから。
それは“彼”では駄目で、同じ妖精の“マーリン”でも駄目で、“自分”以外の何かを慈しみたい。
彼がどうして“全てを救う”と過酷な選択肢を選んだのかを知りたくて、彼の様になりたい彼女は人知れず“彼女だけ”の願いを抱えていた。
だからまだそれを叶えられていないのに、彼に届いてすらいないのに、見えるものにしか目を向けられない彼のその言葉が嬉しく思うと同時に彼女はどうしても心憂いてしまうのだった。
「はぁ!? “名無し”が暴走しているだと!?」
“なんでそれをさっさと言わないんだ!”と怒鳴り声が辺りに響き渡る。
何事かと振り向いたモーガンとびくついたアーサーの視線の先で、首根っこを捕まれ宙ぶらりんにされて涙目でグスグスとべそをかくマーリンが胸元で人差し指の先端をくっ付けてしょぼくれていた。
「は、はいぃ……どうも、力を溜め込み過ぎてオーバーヒートしてるみたいでぇ……」
ぽそ、ぽそ、とマーリンが補足に言葉を追加している中で何やら予想外の出来事が起きているらしい様子で、頭を掻いては宙を見詰め何やら思案をしているらしい一織の元へと二人は駆け寄った。
「……一織、どうしたの?」
鈍足な彼女の手を引き、進む手伝いをしながらアーサーが声をかけ彼の顔を覗きこむと、額に冷や汗まじりな一織が指を噛みながら苦い顔を浮かべていた。
「不味い……何でだ? 此処まで予測出来ていた事にズレが出るだなんて……、…モーガン!」
彼の声にモーガンが前へと出てその身を変えて彼の手元へと向かう。
それを手にした彼が急ぎ頁を捲っていくと真新しく埋まっていたその“物語”を見て苦々しげに唇を噛んだ。
「……だから……なのか? 否、でも……、」
ぶつぶつと一人言を呟く。
その最中にマーリンがしょぼくれていた俯き顔を突然ぴんと立たせると、在らぬ方角へと視線を向けた。
「……主様、もしかしたら、もう──、」
それは先程、アーサーが何かを感じていた方角。
マーリンが原因かと思っていたその禍々しい気配はいつからか薄れていたと言うのに、マーリンが反応した瞬間アーサーにも皮膚がぴりつく様な感覚を覚えた。
直ぐ様彼らの前に自ら出たアーサーがその先へと睨み付ける。
膨らんでいく不快感の塊、漂い始めるおぞましい気配に粟立つ肌。
距離がある筈のそれは軈て森の木々の向こう側──その姿が見える程に“上”へと昇り、夥しい程の“黒色”が空を覆い始めた。
その瞬間、前へと駆け出たアーサーは声高らかに“吼えた”。
「───────ッッッッ!!!!」
辺りを揺るがす轟音、森を振動させる爆音波。
近くにいる背後の彼等に届かないよう“防音”の魔術を咄嗟に掛けて護った上で、森の獣達へと放ったその“号令”。
──“今すぐ逃げろ”。
それは直ぐ様森中に響き渡った。
それが届いた瞬間に地響きと共に森に身を潜めていた獣達が一目散に姿を現し、あの空を埋め尽くさんばかりに浮かび上がっていく“狼煙”の様な黒柱に背を向けて逃げ去っていく。
それを横目にアーサーが“狼煙”を睨み付けながら身を屈めて、今すぐにでも飛び出してしまいそうな彼に背後の一織が口を開いた。
「あれが彼奴の“雨乞い”だ。」
俯いて、ずっと考え事をしていた彼の言葉が静かに紡がれる。
「あれを降らされたらこの森は“焼け”死ぬ──全て灰になるだろう。俺にはあれに対抗出来る術はない。……お前くらいだ、あれとまともに渡り合えるのは。」
顔だけ僅かに振り向いた先の彼は──頭が痛むのだろうか──頭部を抱えながらアーサーへと視線を向けてそれを口にした。
「だから……アーサー、お前はあれを止められるか?」
“お前にしか頼めないんだ”と、そんな彼の言葉にアーサーは“当然”──と答えようとして、それは口に出せぬまま視線が游がせた。
彼の自信は揺らいでいた。
ここまで自信満々に、完璧にこなそうとしてきてずっと失敗続きだったから。
なのにも関わらず彼は突然降って湧いて出た“自分にしか出来ない”事に、その“責任”が自分にしか抱えられない……失敗の許されない役目に、彼は酷く焦りを覚えてしまった。
失敗すればこの森が“台無し”になってしまう、そんな事を聞いてしまっては尚更それが恐ろしくて踏み出した筈の足が後ずさってしまう。
そんなもの一人で抱えるなんて恐ろしい、まだ決まってもいない“最悪の未来”に自分が加担してしまうかもしれない事に怯えてしまう。
それがどうしようもなく、怖くて仕方がない彼は──、
「……わ……わから、ない……。」
弱音を溢してしまった。
二の足を踏み立ち尽くした彼は、失敗を恐れて身がすくんでいた。
アーサーの言葉を境目に辺りがしんと静まり返り、無言で無表情な一織のじっと真っ直ぐに見詰めてくる視線が耐えられずにふいっと顔を逸らした。
「(……ど、どうしよう、どうしよう、どうしよう……! あれが“何か”も解らない、対処法なんて参考に出来るものは何一つとして知らない! だってあんな奴始めてだったんだ、僕が敵わない奴なんて今までいなかった、のに──)」
頭の中でと思考が入り乱れ、次第にぐちゃぐちゃと中身を混ぜられていく。
焦って掻き回して記憶を掘り起こしても、与えられた仕事を“完璧に”こなせる判断材料が見付からない。
考えれば考える程に気が急いて思考が乱れる。
本当に出来る? 出来ないのでは? どうして? 何故?
頭の中は“パニック状態”。
事の重大さと自信の喪失から成った冷静さを欠いた頭は、いつもの彼を忘れ去ったままに思考を掻き乱して狂わせていた。
彼は今“正常な”思考が敵わないまま、乱れた思考の渦に囚われたアーサーは意味の無い自問自答を繰り返した。
「(何で? 何で? 呪いは無いのに、
頭を抱えてしゃがみこんでしまったアーサー。
熱くなっていく頭の熱に、目が回り始めた歪んでいく視界。
闇雲に考えてしまう頭は軈て昔の錯覚を覚えると何も入っていない胃の中のものがせり上がってしまい、その場で踞ったアーサーはそれを地べたへと吐き出した。
「う゛……ぐ、っうおえ゛ぇっ……!」
何も含まれていない胃液が飛び散る。
喉を焼き、胃を焼き、口の中も全部が焼かれて酷く熱い。
喉も胃も不快感が余計に吐き気を催して堪えきれずに自らに“治癒”の魔法を掛けて治すけれども、目の前にある既に出してしまったものに誘引されてまた吐き気が込み上げてくる。
そしてすくんだ足を立たす事も出来ないで這ってそれに背を向けようと身を捩ると、いつの間にか直ぐ傍まで来ていた一織の足が目の前に現れ見上げれば当然彼の視線とばちりと合った。
何を考えているのか解らない、彼の無表情さに思わず顔がひきつる。
こんな無様な自分に幻滅してしまったのだろうか、否きっとしているに違いない。
だってこんな惨めな奴、誰が一緒にいたいと思う?
一人で上手く立てれなくなった今、隣に誰かにいて欲しくて堪らないのに“居て欲しい人”はとうの昔に自ら捨ててしまった。
壊してしまったんだ、自分が。
いつもなら自信満々に抱えられていたその重責だって、自信が崩された今成功した試しすらないのに“
それなのに、そんな重責を抱えて“たった一人”で立ち向かわなければいけないだなんて、そんなの出来る訳がない……やりたくない!
「(──怖い、もし“出来なかった”らどうしよう! そんな重荷、抱えたくないよ……!)」
逃げるように踞って彼の視線から逃れる。
背中に刺さる視線が、僅かに聞こえる彼の息遣いが、吐いた息に落胆の色が孕んでいたらどうしようと無駄な事ばかり考えて止まない。
思考が止んでくれないのだ。
「……ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ……役に、立てなくて、ごめんなさい……!」
そんな彼を頭上から見下ろしていた一織に、マーリンが彼の裾をくいっと引っ張った。
「……ねぇ主様、ここまであの長っ鼻へし折っといて、これから本当に使えるんですか? この“無責任野郎”。」
ふん、とマーリンが憎々しげに鼻を鳴らして彼を見下す。
その後頭部をぱしんと叩いた一織の手からの衝撃に「あいたぁっ」と悲鳴を上げたマーリンがその反動のままよたよたと離れていく。
不満げな不忠の妖精など目もくれず、踞って謝罪を連呼するアーサーの傍で片膝を付いた一織が彼の肩を持ち上げて顔を上げさせた。
「……なァ、アーサー。何がお前をそこまで責め立てているんだ?」
「わっわかんな、ずっと、ずっと頭が、考えが止まらなくって……!」
怖いのと、熱いのと、苦しいのと、それから、それから……。
ぐるぐるぐるぐると嫌なことばかり頭が考えてしまって止められない、自信を得られる様な何かをしなくてはと思うのに足がすくんで動けない。
これでは役に立たない所か木偶でしかない。
それだと自分の価値がなくなってしまう、見捨てられてしまう。
一人ぼっちになってしまう。
「やだ……やだよぉ、捨てられたくない、捨てないで、僕頑張るから、お願い、見捨てないでぇぇっ……!」
ボロボロと涙が溢れてくる。
すがるように一織のジャケットへと伸ばした手が服に皺を作って、決して離すまいと握り締めたまま目の前の相手にすがった。
国に帰れないアーサーにはもう、すがれる相手は彼しかいなかった。
彼以外に自分をどうにか出来る様な者は知らないし、帰る場所も無ければ苦し紛れに頼りたくなってしまう程に素性を知った人物は彼以外に他はいない。
やらなくては、見捨てられない為にも。
成し遂げなければ、森を……愛する獣達を護る為にも。
それなのに足はすくんで立ち上がれない。
誰かに支えて欲しいのに、今まで背中を押してくれていた手はもう傍にいない事を自覚してしまえばする程後悔ばかりが募っていく。
嗚呼もう、ずっと泣いてばかりだ。
自分は昔から、こんなにも泣き虫だったのだろうか?
「アーサー、アーサー落ち着け。俺はお前を見捨てないぞ。」
「っ嘘……! だって、だってこんな……僕……!」
「本当だって。なァアーサー、お前は今正常じゃないんだって、考えすぎなんだ。だから大丈夫だって。お前はやれば出来る奴なんだ、俺は知ってるぞ。」
必死に服を掴んでいた手に彼の手が重なる。
引き剥がされるのかと思ってより握り締めれば繊維が軋む音がして、いつか破ってしまいそうだと考えてしまうもそんな事を気にする余裕はない。
「アーサー、俺の話を良く聞け。……良いか?」
「……捨てるの? 僕の事、もう要らない? 役立たずだから?」
「違うってば。言う事を聞かないと、本当にそうなっちまうかも知れないぞ。良いのか?」
そう言えば涙を浮かべたアーサーが途端に口を閉ざして首を横に振る。
それに頷いた一織は「よし、良い子だ」と呟くと、彼の両肩に手を置いて改めて向き直しては口を開いた。
「アーサー、今のお前は正常な頭じゃない。何でか解るか?」
彼の言葉にふるふると横に首が振られる。
その反応に頷くと一織は目を細めると静かに笑みを浮かべ、アーサーの頭を撫でた──否、額に手を振れさせたのだ。
「なァアーサー、お前暫く眠れていなかったろ。」
「……? うん……。」
「目の下の隈、凄いもんなァ……身体も痛いらしいし、頭も痛いんだってな?」
「……うん……?」
彼の言葉に耳を傾けていると、喧しい程にぐちゃぐちゃとしていた思考のうねりがやんわりと弱くなっていく。
「そら疲労が積み重なれば、身体に不調が出てもおかしくなかろうよ。幾らお前の身体が頑丈だろうと、時には“熱”が出てしまってもおかしくないさ。」
「うん、うん………………ん? 熱?」
賑やかだった思考がゆっくりと止んだ後も、泣いてばかりでぼやけた頭がふわふわとさせてくる。
そんな中で予想外の言葉に彼の涙はぴたりと止んで、すっかり静かになった頭でぽつりと浮かんだ疑問符に首を傾げた。
それに目の前の“
「アーサー、お前のその不調は全部“熱”のせいだ。万全のお前ならそんなミスの連発なんざ、絶対に“有り得ない”……そうだろう?」
視線が合わさった彼の目に、廃棄されるかもしれないと不安を掻き立たせていた絶望感が真っ黒に塗りたくられていく。
失敗続きで自信喪失──“そんなことはなかった”。
“熱があった”から失敗してしまった──今までの不調はその“せい”だ。
それは強引な言い聞かせだった。
無理矢理言いくるめるかのようなその言葉に、その意味を素直に噛み砕いて理解を深めていったアーサーが引き釣っていた顔を俯かせて“思い当たる”節を頭の中に並べ立てて、それが自身を納得さし得るものかを判断していく。
「(……否定しようったって無駄だぜ、アーサー。お前がどう思考するのか、癖もパターンも俺は“全て”理解している。)」
──故にこそ。
「…………なんだ、そういう事だったのか。」
ぽつりと呟かれた彼の一人言。
先程までの余裕の無さは何処へ言ったのか、すんとした顔持ちとなった彼はすくりと立ち上がると曇天の如く空を覆っていくあの狼煙の柱を見上げた。
「……もう平気なのか? まだ具合が悪いなら、お前を頼る以外の手段でも──」
「冗談、
力強い声が彼の口から発せられる。
目には燃えるような赤が爛々と好戦的な熱を孕み、威風堂々と立つ足に震えなんてものはない。
……少々頬に赤が滲むのが見えるけれども、それでも意識ははっきりとして肩の力だって良い具合に抜けている様だった。
「……ほう? 頼もしいな。お前が失敗したら後がないが、それでも出来ると?」
からかうような、煽るような声が背後から聞こえてくる。
すっかり冴え渡った頭で思考を回しながら、彼が唆そうとしてくる声に鼻で軽く笑い飛ばしたアーサーが笑んだ口の端でギザっ歯をにたりと見せながら十字の瞳孔を開き大きくした。
「僕が? 失敗? そんなもの、もうする訳が無いだろ。僕はもう“
そして彼は地に四肢を付け伏せると声を低く、それを“唱え”た。
“
瞬間、彼の姿が“変質”していく。
大きな蛹の様な膜に包まれたかと思えばそれが開き広がると一対の皮膜の翼となり、人の形だったそれを容易く包み込める程だったその中からそれを背中から生やした彼の姿が現れた。
そしてその彼の腰からは根本は太く末端は細い鰐の如き一筋の骨板が波打ち立つ尾がだらりと垂れ下がり、それが落ちた先の地べたでバシンと叩き重量感ある音を鳴らした。
頭からは三角形の黒い羊の角が一対こめかみの上から弧を描いて伸びており、そこからは弾ける音と共に電流が唸り走っていた。
「ひゃーっ……やっぱり凄まじいですねぇ、アイツの“化物”としての姿。」
ガラリと風貌が変わった彼の後ろ姿を、手で目の上を翳しながら遠巻きに見ていたマーリンが嫌味混じりに呟く。
「あんな“得体の知れない”モノ、幾ら“口八丁”の主様と言えども本当に制御し切れるんですかぁ? もうループして一からやり直す事も出来ないのに……。」
ぶすくれたマーリンはきっと前回のループの事をまだ気にしているのだろう。
しかしそれはもう終わった事だと、言葉にする必要もない事を一織が口にする事はない。
「大丈夫だよ。彼奴の“思い込み”の強さは尋常じゃない、
彼等が話している最中、彼の内側に存在する“
その力を自らの身体に現し、自身が
「─────ッッッ!!!」
轟く爆音、唸る暴風。
辺りに飛び散るは稲光の荊棘。
その姿は前回のループで“たった一体”の獣だけで全てを破壊し、悉くを根絶やしにしてみせた意思ある災厄が如き獣──それを彼を彼のままに留めたもの。
今までずっと彼を苛んでいた“思考阻害”の呪いからも解き放たれ、正に
「彼奴にはそうだと“思い込ませる”のが一番なんだ。元は臆病で泣き虫だった彼奴が
彼の姿にマーリンは嫌な記憶を思い起こすのか不快感露に顔をしかめるが、その隣の一織は口元を抑えながらそれを見遣って吐息混じりに言葉を続けた。
「……自己暗示だよ、彼奴の一番の武器は。だから“プラシーボ効果”だって良く効く。現実逃避してばかりで他人のことなんか眼中無しでも、思い込みの激しいからこそそれが一番効く薬なんだ。」
当初から彼の心を折るつもりではいたのだ。
でなければ驕り高ぶって慢心ばかりな彼のお眼鏡に、無力でちっぽけで地べたを這うしか出来ない自分は到底叶う事はない。
見える景色が違い過ぎるから“先ずは”彼の視野に入る為に突き落とさねば、と考えていたのは本当だ。
それなのに此方に“引き込む前”に折れてしまったからどうしたものか…と思ったが、これで軌道修正は完了だ。
一時的なアフターケアも上手くいって何とか持ち直してくれた。
取り敢えず彼の事に関しては一安心──と言いたい所だったが、一織は額に滲む汗と“不味い”と感じる胸の内。
その真逆に、手で隠した口元にはこれ以上無い笑みが浮いてしまいそれを堪える事が出来ずに、目の前の彼の姿に視線釘付けになってしまう。
「(嗚呼……
「だからって、あんな他に
薄れていく理性の最中にそうぼやいたマーリンの、この世界の住人“だからこそ”の無知さに“勿体無い”とすら思えてしまい、一織の胸を酷く焦がす程の強い“憧れ”を目の前にして高鳴る胸を抑えるべく握り締めた。
どうにか抑えなくては……そうは思っても、異常な熱を持った眼差しがあの“化物”と呼ばれた姿に向いて離せない。
嗚呼──思わず駆け出してしまいそうだ。
──ちりん。
「……ッ、」
無意識に足が前へと出て仕舞いそうになる中、隣から聞こえた鈴の音にハッと意識が引き戻される。
一瞬自分でも何が起きたのか解らなくなる程に強い衝動駆られていた事に、痛い程酷く脈打つ心臓を抑えながら先程の音がした隣へと見遣る。
音の正体は大きな欠伸をしているマーリンの首に下げられた“
その音色が自力で抑えるのも困難な“衝動”を起こす前に阻んだらしい。
「──“ツケ”にしときますんで、
視線に気付いたらしいマーリンが呟くとにこやかだった弱い笑みから口角を酷く吊り上げ、まるで口が裂けているかの如き大口のニヤニヤ笑いを浮かべた。
全くコイツは……そう思いつつも「解ったよ、ありがとな」と返して少しばかりの腹いせにその猫耳フードの頭に軽く拳を当てる。
満足げににんまりと嬉しそうな笑みを浮かべたマーリンがゴロゴロと喉を鳴らしながら向けたその拳にすり寄ってくると、心臓の痛みが無くなっていく感じがして、どうやら無意識に痛みに強張らせていたらしい肩の力が抜けていくのをそこで漸く自覚した。
頼りになる時はなるのに、どうも自分の邪魔をしてくるかの様なこの
“猫”だからだろうか?
そんな馬鹿馬鹿しい事を考えながらも、彼のお陰で何とか
「なァマーリンよ、俺の話を聞いてくれ。」
「何ですかぁ? あっもしかして今からお支払いしてくれるんです? にひひひ、良いですよぉ! 何を教えてくれるんですかね? 悪知恵? 悪巧みの秘訣? それとも──、」
「アーサーのあの姿の“正体”さ。」
自慢気なニンマリ顔の一織に、一気に落胆顔となったマーリンがじと目で彼を見上げる。
「この世界には天・地・海、それぞれの空間を司る“三頭”の竜がいる。そこに息づく生き物達を守護する為に、
「そんなこと知ってますよう……っていうかそれそっくりそのまま神様の受け売りじゃないですかーっ! だからなんだって言うんです!?」
マーリンの不満げな声に舌を数度鳴らして沈黙を促した一織がしたり顔で笑み、渋々黙ったマーリンへと再び話を再開させる。
「天を司る狼の様な竜。地を司る蛇の様な竜。海を司る魚の様な竜。この世界において“竜”とは彼等三頭の事
まだ“上”にいた頃、
彼とて何千何万年と時が経ってもまだ不満に思っているらしい、自分だって同じ気持ちになるだろうとすら思ったその話に悔しさと共に地面を殴ったあの苦い記憶。
しかしそれも今までの物語を履修してより払拭された。
一織が“アーサー”という少年を知って「俺の主人公はコイツしかいない! コイツが良い!」と期待すら込めた強い拘りを持ち、そしてずっと会いたいと思っていた理由でもあるその“幻想”の中に息づく獣達の頂点。
それは時に悪魔、時に神、時に只の獣だって時もある。
それでもいつだって超常的な存在として、どんな物語の中に威風堂々と鎮座するその存在を目の前にして、幻想に憧れを抱き物語に何度と心奪われてきた彼は溢れんばかりの歓喜にそれを声高らかにひけらかし、畏怖も無く只々憧憬と感動の感情を露にした。
「化物なんかじゃない、あれは正しく“ドラゴン”さ! この箱庭世界に存在する筈が無かった“幻想中の幻想”! 嗚呼……異世界に来たならば一目見るだけでもと、俺がずっと願っていた“
作った握り拳と胸を締め付ける様にもう片手でシャツを掴み締めて、これ以上ない喜びに打ち震える一織。
それを見たげんなりとしたマーリンは思わず溜め息を吐いてしまう。
「まぁた始まった。これだから“ファンタジーオタク”は……“上”にいた時は神様がいたから放っておいても、二人で盛り上がって手間はかからなかったけど今は神様がいないからなぁ……嗚呼面倒臭い。一旦口を開くと中々閉じないんだから。」
ぷくぅと頬を膨らませて不満げに、キラキラとした眼差しで彼を見詰めているまるでヒーローショーを観賞する子供の様に身を乗り出さんばかりな彼をじとりと横目に見る。
その様子が中々解けない様子に、見かねたマーリンは水を差すつもりで「そういえばぁ」と言葉を投げ掛けた。
「ねぇ主様、先程にも言いましたけどぉ……余りぽこじゃか“死んで”しまわないようにしてくださいね? 幾らボクが“
そのマーリンの言葉に“うぐ”と顔を苦々しげにしかめた一織が顔を背けた。
「良いって言ってるのに、
つっけんどんな態度でそう返した一織に、聞き捨てならないとマーリンは身を乗り出した。
「身体は死ななくても心が死ぬ可能性はありますからね!? あのヒトは云わば、主様の世界でいう“SEC○M”みたいなもんなんです。筋金入りの心配性だから、大好きなアンタが危険な目に遭いすぎるとマジで飛んできそうでホント怖いったらありゃしない!」
突然火が点いたかの様に一織へぐいっと詰め寄ったマーリンが、たじろぐ彼に人差し指を向けて念を押すみたく“それ”を口にする。
「そうなったらゲームオーバー、世界崩壊待ったナシ! そこら辺も解っててくださいよね!」
“ぷんぷん!”と声に出してまで怒りを露に訴えるマーリンに「解った解った」と相手の肩に手を起き、落ち着けとばかりに一織は彼を宥めた。
幼稚に憤慨し「ふーんだ!」とそっぽ向いたマーリンに苦笑しつつも、一織は彼から聞いた話に思わず感慨深く感じ入った。
まさか
険悪になりかけた事もあった、酷い目に遭わされた事もあった。
それでも自分を“お兄ちゃん”と呼んで、かつこれ程にまで姿の違う自分を真っ先に“同一人物”だと受け入れてくれた。
その普通じゃ絶対有り得ない巡り合わせに、彼もまたあの“自分”に会えて良かったと胸の内に思う。
そしてそんな彼に心配をかけさせぬ様にも、一織は自身の不死身さに頼りきりにならない様頭の中の重要事項にそれを含めて気を張り直す。
何だかんだ言って自分の周りには既に“
ここまで自分の周りに誰かがいるのは
(本当は彼とアーサーだけ、残りは全部彼自身だというのに。)
一織はそうして自分を想ってくれる誰かの存在を改めて認識し直しそして気張り前へと向き直すと、丁度同タイミングぐらいだろうか?
視線の先のアーサーとばちりと視線が合った。
*****
……正直、彼に乗せられた気がしないでもない。
ふとそんな事を静かになった頭の中で考えながら、ふるりと角の生えた少し重たい頭を横に振る。
四足を地に付けたまま、初めてまともに使った“大精霊”とやらの力の具合を再確認するべく自身の身体の具合を見ながら、犬がする“おすわり”の体勢へと身動ぐと腰から伸びた尾がぐるりと身体の周りを囲みとぐろを巻いた。
「……うん、思い通りに動くな。」
ぽつりと呟けば背後でばさりと翼が軽く羽ばたき風を扇ぐ。
俯き手元を見ると以前とは違い人の手のまま、爪だけが鋭く尖っているのが見えた。
ぐーぱーと掌を動かしながら、比較的融通が利きそうなそれを眺めては小さく息を吐く。
「ふぅん……こういう調節も効くのか。……それにしても、」
身体を起こし立ち上がる。
どうにも身体は重く、立ち上がる際に“どっこいしょ”と声を溢しながらもよろりと足を立たせると、後ろへと掛かる重量感につい足元がふらつきたたらを踏む。
力が弱くなったのだろうか? 否、そんな事はない筈。
どうやら背後に生えた翼と尾は見た目以上の質量を持っているらしく、この姿で地上を自由に闊歩するには不釣り合いな事が解った。
故に、“天駆ける王者”なのだろう。
重くとも一度羽ばたけば辺りを吹き飛ばさん限りの力強い羽ばたきをするその翼。
飛び方は既に経験したから大丈夫、そう思いつつもふと背後にいた彼等の事を思い出す。
その時、同時に胸の内にヒヤリとしたものを感じるのとその後に悲しみが滲み浮き出るようにして広がっていった。
「……流石に、この姿を見たら近寄りがたいだろうな……。」
ふぅ、と息を吐き肩を落とす。
最初にこの姿を晒した時にマーリンはぎょっとした顔を見せていた。
理由までは知らないが、やはり妖精とやらにとってもこの姿は恐ろしく感じるらしい。
王国を出るようになるまで“一切”使う事がなかったその姿に、背後の彼等がどんな反応を見せているのか知りたくもないのに気になってしまい、アーサーは祈る様な思いで“どうか目が合いませんように”と胸に秘めたまま恐る恐る振り返る。
少しだけ、少しだけで良かったのだ。
見ない方がいい、知らない方が身の為だと思いつつも“もしかしたら”と淡い期待が募ってしまって、同時に傷付いてしまうのは明確だというのに自分は馬鹿だな、なんて自虐的な思いをも感じながらゆっくりとその方角へと視線を向けた。
殆ど同時のタイミングだったのだろうか、ばちりと合ってしまったのは一織の視線。
まさか彼と視線が合うとは思いもせず、驚いてばっと翼で姿を隠しながら顔を逸らすも、なんだか彼を相手にそういうことをするのは何か違うような気がして再びそろりと翼越しに覗いた。
再び視線が合ったのはやはり一織、そしてその眼差しは思っていた恐怖心や畏怖……否、恐れのない彼には嫌悪くらいは感じられるのだろうか? でもそれすらもなく、只ひたすらにキラキラとした目が此方へと向けられていたのだった。
「……なんだあれ?」
思わず拍子抜けしてしまう。
まるで街の人間やパーティーに無理矢理お披露目に連れていかれた時に、周りから向けられる“憧憬”の眼差しと同じじゃないか。
ちくちくというよりはふわふわとさせてくるその視線にやはり耐えきれず、翼のカーテンでそれを遮ると狂ってしまった調子を戻すべく頭を振り払った。
嗚呼もう、調子が狂わされる。
忌々しげに胸の内にて毒吐くけれども、そこはなんだかふわふわぽかぽかと心地好い。
予想外とも予想通りともつかないような複雑な意味で期待外れ、気分を悪くしない結果に戸惑いながらも良い意味で理解不能。
誰の目から見ても解る程に、純粋無垢な感情をぶつけられたかの様なその感覚に彼の姿を見た時にモーガンを裸眼で見たあの光景が脳裏に過る。
「(……あれを見てから、どうも彼を“そう”見てしまうんだよな……。)」
幼子の不安げな姿、助けを求めようと伸ばしかけては引き戻し声を出すに出せないもごついた口。
助けを求めているのに自信の無さから踏み出せない、まるで嘗ての自分みたいな姿。
自分は力があったからこそ、それを鼻にかけて今まで此処に来るまで乗り切ってきたけれどもあの子供はどうだったのだろう。
力は無さそうだった。
どん臭そうで、頼り無さげで、頭が良さそうにも見えない風貌。
それなのに、周りには誰もいない。
「(まるで、産まれたばかりの頃の“クピードー”みたいだ。)」
甲羅みたいな身体が重いのかかけっこしようにも直ぐ置いていかれてしまう、ドジでのろまな蜥蜴の子。
あの森で一匹だけ余所からやって来た種族で、使う言葉が違うからか始めは誰とも意志疎通が上手くいかなかった。
彼女も群れの皆も互いに歩み寄ろうとしていたのに噛み合わず、遂にはのけ者扱いにされかけた所を見かねて自分が買って出た。
それを切っ掛けに仲間の皆も彼女との意志疎通、言語解明に奮闘してやっとの事で通じ合う事の出来た思い出。
言葉が通じ合う様になった彼女はいつだって自分の事を“凄い、凄い!”と誉めて、それをさも自分の事みたく周りの皆へと自慢して回っていたのは少し気恥ずかしく感じる記憶だ。
忘れたくなかったけれど、忘れなくちゃって一度は手放したその記憶。
それを思い起こしてからか、あんな“助けを求めて”いる姿の子を見てしまっては放っておけない──そう思ってしまい、つい身体が動いてしまう。
そう言えば……久し振りに、誰かから“お兄ちゃん”と呼ばれた気がする。
兄弟なんていない自分。
それなのに自分を“お兄ちゃん”と呼んでくれていた彼女の事を彷彿し、有り得ないと思いつつも半ばすがる様な気持ちでそれを胸の中で言葉にした。
「(あの子はもしかして“クピードー”の生まれ変わりなのだろうか……? だとしたら、どうか、思い通じ合える誰かと共に幸せに生きていて欲しい──この世界の、何処かで。)」
胸元を握り締めて、星空が隠れ始めた黒雲を眺めながら願うように目蓋を閉じた。
そして覚悟を決めて息を吐いたアーサーは、額に感じる熱に少し足元がよろけながらも両頬をばちん! と打ち鳴らして、心を陰鬱に染めようとするその気を払い紛らわせた。
彼の思惑は外れていた。
彼は……あの白昼夢の中でアーサーが見た“少年”は“彼女”ではない、多少の関わりはあったかもしれないが全くと言って良い程に別人。
只、その願いは既に叶えられていた。
既に良き幸運に恵まれて生まれ変わる事が出来てより、新しき生を謳歌している“彼女”は今、思い通じ合える誰かと出会っていたのだから。
そこから始まる別の世界線での“あの惨劇”。
種族は違えど言葉を交わせる善き“親”と出逢えたその甲羅の様な鱗を持った蜥蜴の女の子の生まれ変わり。
折角幸福を手に入れた彼女を不幸のドン底に貶めるその悲劇は“既に”回避されていたのだから、彼が気を揉む必要はこれっぽっちもなかったのだ。
……しかしそれはまだ語らない話。
この先にて明かされる、彼がこれから旅立った後に続くお話。
だから、今はまだ──目の前の“ドン底”に生きる少年の話を
きっと彼はまだ長く険しい苦しみの中。
誰からも手を差し伸べられる事無く与えられた使命にその身を費やし、心許せる者などいないまま孤独に産まれて“イカれて”死んだ。
長き時を経て“運命”と出会い、がらくたの身体を手にして漸く“仮初め”の幸福を手に入れた憐れな童子。
『始めは確かにイカれていたんです……! それなのに、アイツ……それを
ズレた思惑、今更明かされた秘匿されていた過去。
一織が予め手に入れる事が叶わなかった秘匿されていた事象から生まれた“異変”に、アーサー・トライデンが目を覚まし初めて“相対”するのは嘗て“現人神”として崇め奉られた悲劇の少年。
“誤ったモノ”として歪な神へと押し上げられたそれは歪んだままにその形を変えて、死んだ後に以前の在り方すらひっくり返して彼は“祟り神”へと転じた。
とある島国、絶海の孤島に大昔に存在していた小さな村。
カンカン照りが続くそこではいつだって飢饉に苛まれ、雨を求めて村の傍らに作られた小さな社の座敷の牢に押し込められたのは“幸を呼ぶ”と言われた童子。
誠意を持って奉れば良いものを、己の欲望に溺れた村人達に蔑ろにされ続け長年積み重ねた恨み辛みを募らせて、軈て愚かな村人達の手で死してよりそれは至った──至ってしまった。
地上に生まれ堕ちたその邪悪に名を付けるならば、彼を知る人はきっとこう呼ぶ事だろう。
“たたりもっけ”、と。
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