25.52ヘルツの子供達。

 故郷から離され、群れから外され、突然一人ぼっちになってしまっては寂しくない筈が無かった。

 周りは皆言葉が通じない、呼ばれた自分の名らしきそれに“自分はそんな名前ではない”と正す事も出来ない。


 誰とも通じ合う事が出来ないのだから胸を締め付けてくる孤独感に、心細さが弾けた幼い彼は何度も“唄った”。




 “皆何処にいるの”

 “寂しいよ、会いたいよ”




 その意味を込めた高周波の声。

 周りにいる人間達にはそれを聞き取れないからって都合が良くて、寂しさを紛らわせるのにだってよく使ったその“唄”。


 獣寄せの罠の囮に囚われていた余所の獣。

 その彼女を助ける事が間に合わずその死に間際に残した卵、それから産まれた同じ種族の仲間がいない“ろう”の女の子……幼馴染みのトカゲの子。

 言葉が合わずに誰とも通じ合えないのならば、自分がその“架け橋”になろう──そう思って身振り手振りで示し合わせながら域が高過ぎて聞き取りづらいその音に必死に耳を傾けて、漸く心通わす事が叶って互いに抱き合い仲間と共に涙したあの想い出。


 それを思い起こしながら何度も唄った。




 “僕はここにいるよ”




 皆死んでしまったのだから、それが届かない事くらい最初から解っていたのに。




 “帰りたい、皆の所へ行かせて”




 目の前で焼けていく木々、崩れる山々、肉が焼け焦げていく臭い、反響する悲鳴。

 思い出すだけでも涙が溢れてくる愛しい家族達の断末魔、故郷が崩れ落ちていく絶望感。




 何も守れなかった、何一つとして残らなかった──“僕は皆を護る王様リーダーだったのに”




 色白い獣達が多く息づいて、そこで暮らす人間は自身と死んだ母の二人きりだった俗界から離れた世界。

 獣を助けてくれた見知らぬ“人間来訪者”に御礼をすべく招き入れた──それが原因で楽園は崩れ去った。


 知られてしまった、知られてはいけなかった。

 軽々しく開けてはいけない、外から繋がってしまう扉を開けてしまった。




 ずっと隠されていた子宝至宝は見付かってしまった。

 “開けてはならない誰にも言わないで”の口止め約束は破られ、悪戯に開けられた玉手箱──そして秘匿は解け、開け放たれた“竜宮城竜仙の桃源郷”は人の手で焼け落とされた。











 ──【分岐点/現在のループにて】──










 聞こえない音が反響する、のっぺりとした硬い床と壁に包まれた狭い世界。

 それを破ったのは鉄格子の向こうから小さく響かせてきた足音。


『……お前、言葉が解らないのか?』


 聞いたことの無い音、知らない言語。

 意味は全く理解出来ないその音をその口から放つ、自分と“同じ”赤い髪の子供が近付いてくる。

 胸をざわつかせる警戒心、此方に来るなと唸り声に喉を震わせいつでも反撃出来るようにと屈めた身体。


 目の前のその子供はそんな彼を見て、歩み寄ろうとしたふらつく足取りをピタリと止めた。


『……怖いよな、知らない所に突然連れてこられたら。“俺だって怖い”んだ、この国は何処かおかしい壊れているから。』


 隈に目元を暗くした窶れた顔、それでも気丈に気高くあれと伸ばされた背筋。

 頻りに目を擦って眠気に抗っている素振りを見せつつ、覚束ない足取りで近付いたその子供は少し離れた場所から手を差し伸べた。


『おいで、今ならまだ誰も気付いていない……筈。』


 彼の向こう側、壁の向こう側から刺してくる気味の悪い視線。

 姿こそ見えないが、そのやけに“見られている”嫌な感覚を抱きつつも目の前にいる“子供”が気になってしまい取ることにしたその手。


 まるで“罠へと誘い込む為の囮に使われた獣”みたいに、罪悪感と同時に助けを求めているかの様な消耗した様子の風貌。

 どうやら録に眠れていないのかもしれない、鎖で繋がれた自分よりもずっとよろけているその千鳥足は今にも崩れ落ちてしまいそうだった。


『……着いた。』


 開け放たれた扉、緑豊かだった故郷では有り得ない光景な申し訳程度にはやされた整った草木が放つ僅かに青臭い香り、それからしょっぱくて何だか生臭い変な水の匂いを運んでくる冷たい風。

 そこへ連れてこられたその意味に、通じ合う言葉を持っていないからこそ訊ねるに訊ねられず戸惑って口をもごつかせていると、その子供は徐に“先”を指差した。


『あのアーチを潜れば王宮の外だ。“頬白鰐”が住む渓谷から来たって聞いたが……なら池だか泉だかくらいは在る筈だよな? すぐそこの、対岸に繋がる桟橋まで“海”を泳ぐことは出来るか?』


 また知らない音が此方へと向けられる。

 口の動きや表情、そして身体の動きとその状況からぐるぐると頭の中を回しながら相手が言わんとしていることを考察していく。

 その見定める様な眼差しに気付いたのか、彼もまた向き合ってハッキリとした口の動きを見せながら身振り手振りで伝えようとしてくれた。


『……伝わったかな。』


 暫く試行錯誤した後にぽつりと呟かれた言葉。

 それに自分はすかさず“理解した”と同じ言語で返した。


 大きく開かれた目、驚いて空きっぱなしの口。

 固まって此方を凝視する目の前の子供に、何か間違ったのだろうか? なんて不安になっていると、途端に目を輝かせた目の前の子供は今までで一度跳ねる音をその口で発した。


『凄いなお前、もうイーリシュ語が解るのか!』


 何て事無い只の賛辞。

 いつも仲間達から凄い凄いと言われて鼻を高くしていただけだった、教えられれば何だって出来た自分にはそんなの言われて当然だとも思っていた言葉。


『普通はこんなちょっとの間で知らない言語を覚えるマスターするだなんて出来ないぞ、お前は頭が良いんだな。はぁ……やっぱり“勇者”は凄いな、俺には到底難しくて出来ない。尊敬するよ。』


 へらりと笑った、初めて見る彼の笑顔。

 窶れた顔なのに嬉しそうに頬を緩めた彼のその表情を見た瞬間──否、その“感情”を向けられた瞬間に、突然“ビシャン!”と雷に射たれたかのような激しい衝撃と共に、脳天から身体の芯を通って“何か”が身体中を痺れさせていく。

 細められた隈が目立つ疲れた釣り目が向けられた中で、そこから感じる見られているだけで擽られている様な気恥ずかしくなってしまうその熱視線。

 それに自らの視線を交えるだけで、ついくらりと目眩を起こしてしまう。




 何だ、何だこれは?




 思わずうち震えてしまう程の早まる脈動。

 思わず溢れそうな程に込み上がってくる激情。


 正に青天の霹靂。


 凄まじい程の雷撃を伴ったその言葉は、彼が憧れていた勇者の力を目の当たりにした“憧憬”からの“感動”。

 それから言葉が通じ合う事が叶った事への“喜び”、そして自分もそう思ったからこその“共感”。

 そして彼に取られた手からはまた、痺れる様な胸を熱くする心地にされてしまっていく。




 何なんだ、今までこんなこと無かったのに……!




 顔が熱くなっていく、喉はカラカラ。

 心臓が痛い程に強く早く脈打ってどうしようもなく胸が苦しい。

 何故だろう?

 彼が眩しくて仕方がなくなっていく──まるで太陽が近くに在るみたいだ。

 吹き荒ぶ熱風に煽られて波打ち渦巻いた雲の大波が襲い掛かってくる。


 どうしよう、“幸福感”の嵐の風に足が浮いてしまいそうだ。


『流石は“第二の勇者”だって聞いただけの事はあるな、“末裔”なだけの俺とは大間違いだ。……言葉が解ってくれたのなら丁度良い、今は余り時間が無いんだからな。』


 原因不明の夢見心地にふわふわと頭が浮わつく中で急かす様に背中を押されてしまい、覚束ない足元が転げない程度にふらけて前へ出る。


『今すぐ逃げろ、こんな所にいちゃ駄目だ。大人達に見付かる前に早く何処かへ行ってしまえ、でないと“勇者”のお前は──この国で“台無し”にされてしまう。』


 そして彼は突き放す様に再び背中を押して、振り返る自分に“走れ!”と叫ぶ彼の声。

 後ろ髪を引かれる思いに上手く早く走れない足はノロノロと前へと進み始め、段々と地に足を踏み込んで行く毎にスピードを乗せていって軈て言われた通りに“歩く”から“脱兎”へと早めていく。


 左右へ転々、シャンシャンと鎖を鳴らして前方へと跳ねていく。

 向かった先の“ゴール”の高さを軽々越えたその前進の一歩は“門”の上を易々と蹴り上げ、満月の浮かぶ夜空へと空泳ぐ羽根もないのに飛び跳ねた。




 月夜に浮かぶ白兎。

 その跳ね上がった先に見た景色には、見たこともない“大海”が視界いっぱいに広がっていた。




 胸を打つ光景、故郷とはまた違う青の水面。

 果てしない程に広がる揺らめく月が浮かぶそれに思わず目が奪われてしまう。


 そこに水を指したのは、風に乗って鼻腔を擽った“血”の匂い。

 瞬間ぐるんと向けた視線の先、そこには先程の子供が取り囲んだ大人達に殴られている光景。


 見るや否や地に付いた足を方向転換に蹴り上げて、一目散に走っていく今来た道。

 軽々跳ねて飛び上がった先、大人達の頭上を踏み台に蹴り上げ鉢合わせ顔合わせてはぶつけ合わせてと八艘飛び。

 海を泳ぐ鮫の様に魚の群れを食い荒らすみたく大人達を蹴散らして、宙を跳び交う兎はあの子供を踏みつけていた大人の鼻っ面に、渾身の一撃に蹴り跳ね飛ばしては地べたへと着地。

 横たわっていた子供の前で立ちはだかって四足を地に付け前屈み頭を低くスタンディングポーズして睨み付け唸る。


 女子供、弱い者は群れの力有る者達で護るものだ。

 それを弱いもの虐めするだなんて、元は群れの長だったからこそ見過ごせない。


 下卑た笑い声、蔑む眼差し、何故だかそれは感じるだけで胸がざわつく嫌な心地にさせてくる。

 その内の一人が何かしようと此方へ差し向けたその動きを口火に、それは弾けるようにして飛び掛かった。


 飛び付いた腕、噛みついたその腕。

 なだらかだった筈の自身の歯はいつの間にか鋭く尖っており、ならば丁度良いと噛み千切らん勢いで顎に力を込めて離さない。

 その瞬間、動けず無防備になった身体を他の大人達がここぞとばかりに殴り蹴り痛め付けてくる。

 それでも死んでも離すものか、そう思っていた矢先だった。


 走る衝撃、脳天突き刺す激しい頭痛。

 目の前が真っ白になる程のそれに思わず放した口、それから真正面から受けた頭を揺らす程の右ストレート。

 どしゃりと地べたに転がった自分の身体に“一体何が起きたのか”なんて考えようと頭を回した瞬間、襲い掛かったのは脳を埋め尽くす程の凄まじいノイズ。


 頭の中で脳を掻き回されているかのような酷く激しい不快感に、内側から耳をつんざく高鳴りに頭を掻き乱す砂嵐の渦で反響して回る。

 そうして思考する間も無くねじ切られた思考回路に、込み上げた嘔吐感に口から溢れだした吐瀉物が地べたを汚した。




 跳ねて海を越える事無く水ではなく地に墜ちた白兎、ガワ思考する力を剥がされて赤裸々に。

 自己保身に身を投げ渡り逃れきれたら五体満足だったのに、弱者を想う優しさ故に抵抗する為のは遂に折られてしまった。




『逃げたかと思えば態々戻ってきて無駄な抵抗をしよって……一体何のつもりだ?』


 踞って吐き気と意識の混濁に朦朧としているその頭上から、大人達の冷ややかな声が響いてくる。


『……もしや軈てアルクレス殿下の犬として献上されるこの“奴隷”の忠誠心を図る為の前座でしたかな? それでしたら私共の早とちりでしたな、否々これは失敬致しました……どうか御許し下さい。私共とてこの様な仕打ち、貴方様にしとう御座いませんでした。……本当ですよ?』


 くつくつくすくすと嫌な笑い声を含みながらあの子供──アルクレスと呼ばれていた殴られた頬を赤くした彼へと、大人達が手を差しのべる。


『触るなッ……これぐらい自分で立てられる! 俺に関わってくるなッ、散れッ!』

『おやおや、殿下はどうやら御機嫌斜めの様で。いやはや、何やら御一人で王族らしからぬ牢へと向かう御姿を見たので心配になり見守っておりましたが……残念です、アルクレス殿下。私共の殿下を思うこの真心を御理解して頂けないのは誠に心苦しいものです。』


 業とらしく悲しげなフリをして見せて見下ろしたアルクレスに不気味な笑みを向ける大人の姿、それを振り払い駆け寄った先で踞る彼に割れ物に触れる手付きでそっとその背中に手を乗せた。


『アルクレス殿下も如何ですかな? それは生きているだけでも“大罪人”の勇者再来たる者であり、放っておけば軈て人類を貶め破滅を招く“クズ”で御座います。今の内に前もって歯向かう意思を削がねば──、』

『俺がする。』

『……はい?』


 大人の声を遮り問答無用とばかりに言い放った言葉。

 戸惑う彼等は眼中に入れないまま、踞っていたその身体を支え抱えると彼等の間を縫って立ち去るべく足を動かしていく。


『どうせこいつにも、歯向かう事を出来なくする“束縛”の呪いを掛けたんだろ。だったらその内この国の王になる“第一王位後継者”の俺が直々に躾たって危なくはないだろう。それに此処まで強いのならば、従えれば俺の護身にも成り得る。』


 それを聞いて周りは不満に開き掛けた口を閉ざす。

 彼の言葉に正当性があるからだろう、この国には今後継者になり得る者は彼一人“しか”いない。


『どうせコイツも、俺に献上される前に玩具にするつもりだったんだろう? なら俺がする、気に入った・・・・・からな。コイツを“今すぐ”所有権を譲渡するのならば俺を殴った事も今回は目を瞑ってやる。』


 ぎとりと鋭い目付きが彼等へと向けられる。


『だがそれを拒否したり、後で俺から横取りしようものならば……これ以上歯向かう様なら容赦はしない。“余所者”な王族の俺にだって、お前達を排除するのに取れる手段は幾らでもあるぞ。』


 彼の尋常ではない、少しでも触れようと近付くものならその尾を踏んでしまいそうな程に殺気立つ彼の鬼気迫る形相に大人達はたじろぐ。

 今まで何が原因かは知らないが見てはいけないものを見て自分達に怯え、夜眠る事もままならないでふらふらと人気の無い場所で隠れてばかりいた弱気だった子供が今になって急に牙を剥いたのだ。


 彼を侮っていた彼等は息を飲み動けないでいた。

 そこに居たのは激怒に赤い目を燃え上がらせた激昂寸前の猛虎の幼獣、

 少しでも刺激すればその導火線に火を点いてしまえば最後、噛み殺さんばかりに喉元へと食らい付くであろうその辛うじて自分達に掛けられた彼の慈悲に抑え込まれた怒りの激情。


 虎の尾を踏まぬようにと身を強張らせた大人達は気付かなかったのだ──既にその尾を踏み、たった今もう一つの・・・・・眠れる“獅子”を呼び覚ましてしまった事に。


 その気迫に完全に押し黙ってしまった彼等へ最後に鼻で笑い、踵を返したアルクレスは抱えたその相手を労るようにして歩み進めていく。


 周りに誰も居なくなった後、朧気な意識の中でぽつりと呟かれた直ぐ隣の彼の言葉。




『……何で戻って来ちまったんだよ、馬鹿。──……ありがとうな、助けてくれて。』




 そして“ぐすっ”と鼻を啜る音が小さく聞こえてきて、その時身動いだ動きはまるで腕で顔を拭っているかの様だった。




 今までの彼は人の痛みを知らぬまま、他者を蹴落とす事で一時の平穏を得てきた愚か者だった。

 それが今“獅子”として目覚めた彼に新しく生まれた、自らのみならず他者をも想うその“心”。


 その片割れが獣達を統べる群れをなした“獅子王獣の王者”ならば、その対となる彼は人々の上に立ち孤軍奮闘する“獅子心王人の王者”。


 人の上に立てども国を動かすよりも一人で捌き、政治よりも戦場に身を下ろし自らが剣を振う事でしか能がない彼。

 軈て正しく王となる筈だったのが、自身よりも相応しいと思える“人なりが変わった兄現在のソロモン”と出逢った事で自らの継承権を放棄し、彼に人生を費やす覚悟を決める事となる。


 しかしそれはまだ12年も先の話。


 過去に在った事象であるこの二人の物語は、今世にして漸く巡り会えた“王国の守護者角無しの唐獅子”とその対となる“駒となる犬角ある狛犬”が成立した瞬間の幸先の良い始まりのお話スタートライン




 がんじがらめのいさかいや食い違いにその対は引き剥がされてしまったが、いつか互いに手繰り寄せた手が届くまで獅子はまた眠りにつく事だろう。


 目が覚めた時に思い起こすのは怒りか、嫉妬か、それとも──?




 ……只まだそれは明かされない、アーサーが旅立っていないのだから。

 いつか旅立ち再び相対した時、物語はまた歪に狂い始めていく事だろう。


 そう、悲劇バッドエンドへと向かう筈の正しい物語正規ルートが、世界中に混沌を巻き起こすたった一人の道化師に喜劇ハッピーエンドへと引っくり返されてしまうのだから。




 ……“だから”まだ、王宮の庭には穏やかな薔薇の香りが満ち満ちていた。


 白い薔薇の花と赤い薔薇の花。

 それらはそっと寄り添うように広大な王宮の隅っこでひっそりと、穏やかな時の中で咲き誇っていた。






 *****






 短い眉を八の字に垂らし、目の前の光景に困ったような眼差しを向けたアーサーが肩を竦める。


 先程まで見上げていた足の長い背高のっぽの彼が、今では自分の腰くらいの位置に頭がある。

 両手は頭の両側を押さえて、何か深く思い悩んでいるのか時折呻き声が聞こえてくる。


 自分の過去、思い出した記憶を彼に話してからずっとこうだ。

 感情を読むことが出来ない分何を考えているのか解らないから、彼に不可解な行動を取られてしまうとどうも落ち着かない。

 何がとは言い難いが、只漠然と不安になってくるのだ。


「(うーん、こうも思考を読む事に依存してた自覚はなかったな……これじゃあ不便だ、何か良い方法……。)」


 視線をゆらゆらと揺らしながら思考に耽る。

 ぼんやりと力を抜くようにしてこてんと傾けた頭に、小さく息を吐いた彼はゆっくりと瞬いた。


「(……そうだ。折角彼の事を全て知ったんだ。それを“参考”して何を考えているのか……行動パターンを“予測”して……──、)」


 ぐるぐると廻る巡る思考回路。

 彼の過去から彼の成り立ちと性格や好みの変化の切っ掛けやその度合い、趣味趣向に思想と癖と特性と──そうしてあらゆるデータを引き出し、それらを頭で纏めて逆算していく。

 “全く想像つかない”から“何となく解る”まで、そして“ある程度解る”へ。

 頭の中の情報を掘り起こしては彼の解像度を高めていく中こめかみがピリピリと痛み始めてくる。

 その感覚に思考を重ねながら眉を潜めていると、突然吐かれた長く深い溜め息に熱を持ち出した思考回路を断ち切った。


「……あー……くそ、どうしたもんかな……。」

「名前の事? この程度の情報で解るものかな……精々手掛かり程度でしょ。」

「んー……そう、かも、知れんが……!」


 眉間を摘まんで揉む素振りをしている一織に素っ気なくそう返したアーサーは、くらくらとしそうな頭の意識をはっきりとさせるべくふるりと振って持ち直させる。

 そしてアーサーからばっさりと切り捨てられたそれに諦めきれていなかった一織は、半ばやけっぱち勢いにてそれを口にした。


「……なァ、アーサー。」

「何?」

「お前の名前、“乙姫”か“浦島”だったりするか?」

「………………ハァ?」


 しかめた顔、開いた口は塞がらない。

 自棄糞だからだろうか、普段の真面目な思考を殴り捨てて何処か目の中がぐるぐると渦巻きが回ってもいそうな彼の様子に呆れたアーサーは深い溜め息で否定した。


「そんな訳無いでしょ……大体何? 乙“姫”って。僕男なんだけど?」

「……だよなァ……嗚呼くそ、混ざってる“要素”が多すぎて考察がし切れん! “属性”が過多過ぎる!」


 頭を掻き回しながら声を上げる一織。

 “属性”とは何ぞや?

 突然口にした意味不明な単語に不快に首を傾げつつも、一人で何やらぶつぶつと考え事を初めてそれに夢中になっていく彼の後ろ姿をぼんやりと眺めた。

 

「群れの仲間の名前からして【赤鼻のトナカイ】を連想するが、そうなってくるとアーサーは“サンタ”? 否でも過去の話では“兎”が出てくるな。【因幡の白兎】を連想する部分もあるし、母親が“うさぎちゃん”呼びしていたって事は本名は兎に関連した名前なのか? 【アーサー王伝説】だって父親に“ウーサー王”がいるし……うーん、他にも何かヒントがあるのか否か……、」


 唸って捻って自問自答試行錯誤を繰り返す一織の姿。

 それに水を差せる程彼の考えている事はまだ解らないので仕方無く黙って大人しくしていると、途中思考を断ち切ってしまったせいか頭が中途半端に熱を持って何だかふわふわするのを感じた。

 とろんと落ちてきた目蓋が何だか重たい気がして、何だろう、眠気だろうか? なんて思いながらうとうとと微睡み頭は船を漕ぎ始めた。


「(……そう、いえば……アイツマーリンに付き纏われる様になってから……全然眠れて、ないな……。)」


 気付けば姿を見せなくなった人物にふとそう思いつつ、眠気を吹き飛ばすべくぶるりと震える。

 怠さを感じる重たい身体とてやはり休息が不十分である為だろう、そんな中でめいいっぱい暴れた事もあって身体の節々が“少々”痛い。

 肩を回し、腕を回し、首を回しと順番に身体の痛みを誤魔化すべくストレッチに励んでいると、見上げた際に差し掛かった頭上からの大きな影。


 何かと思って微睡んでいた目蓋をパチリと開き、その影の主を見てみればそこには大きな鳥の影。




 ──クァァッ! クカァァッ!




 けたたましく響かせるその鳴き声は一つでなく、五でもなければ十をも越えて地上の二人を見下ろしていたその鳥獣の群れは“警戒”を表す声を嘴から吐き放っていた。


 大きな翼、靡く羽毛の長髪、そして人の胴に頭は人面に嘴を付けた異質感ある魔物魔力有る獣


「──“ハルピュイアイ人面鳥の群れ”か。」


 目の前で“クケェェッ”と一羽が一際甲高く鳴き叫ぶ。

 鳥の身体に真ん中だけ人の形を取った様な歪な風貌のその鳥に、アーサーは弱った様に顔をしかめた。


「……不味いな、怒ってる。もしかして此処は──、」


 十何羽もの敵意の眼差しに驚異を感じこそしないものの、どうにか穏便にやり過ごせないかと彼等に意識を向けつつも辺りに視線を向けて辺りを確認する。

 周囲の木々、崖にある岩肌の影、その所々には草木や枝、それから骨で作られた彼等の巣だと思わしきものがちらほらと見える。


 いつの間にか彼等の縄張りへと入り込んでいたらしい。

 侵入者が自分達の方ならば、尚更手出しするのは無作法だ。

 このまま争う事なく撤退すれば、彼等もこれ以上は手出ししてくることは無かろう。

 今は春先だ、鳥達にとっては産卵シーズンの大事な時期。

 自身の未だ産まれぬ我が子を護る為に気が立っていてもおかしくない、そう思って刺激せぬ様後退りでその場から離れようとした。


 その時だった。




「──“ハーピー”だ!」




 不意に聞こえた弾ける様な声。

 静かにしなければと思ったその矢先、ひりついた空気を壊すその声。

 思わずドキリと胸を跳ねらせてそちらへと振り向けば、そこにはキラキラと輝かせて彼等を見上げる無邪気な眼差し。

 幻獣に焦がれて止まない彼──一織が大人らしからぬ子供みたいな様子であの鳥達に首ったけ、まるで他のものは眼中にないみたく釘付けになっていた。


「ッ一織! 此処から離れ──、」


 彼が大声を上げた、それに危機感を覚えたアーサーは直ぐ様彼へと避難を呼び掛けるが時既に遅し。

 その声に驚いた鳥達は堰を切った様に大きく嘶いて、そして此方へと向かって羽ばたき襲い掛かってきたのだ。


 ギャアギャアと甲高く不快な鳴き声を上げながら鳥の群れが向かってくるのを逃れる為に踵を返して足を踏み出す。

 倒すのは簡単だ、でも彼等を傷付けるのは嫌だ。

 そんな思いから端から戦闘する気は更々無かったアーサーはすかさずその場を離れようとするも、今は自分一人だけではなく“もう一人”いる事を思い出してそちらへと向いた。


「──一織?」


 先程までいた場所に彼がいない。

 あれ? と首を傾げる間も無く辺りを見回せば直ぐに見付かったその場所は鳥の群れの直ぐ近く──というより、彼自らあの群れに向かっていく後ろ姿だった。


「は!? ちょっ…一織!? 何やって……!」

「アーサー! ハーピーだぞ、ハーピー! ギリシャ神話に出てくる怪鳥だ、もっと近くで見たい!」


 アーサーの静止の声に聞く耳持たず、眼前の鳥に夢中で考え無しに向かっていく彼に鳥達は当然容赦なく向かっていく。

 一瞬何が起きているのかさっぱり解らずに、走り出すつもりだった足を止めて固まっていたアーサーは直ぐ様我に返り慌てて一目散に彼の元へとんぼ返り、無我夢中にて走り出した。


「馬鹿ッ!! 危ないから逃げてって言ってるのにっ……!!」


 彼の直ぐ真上、鳥の鋭い鉤爪が彼の眼前に向けられる。

 それでも逃げる様子は一向になく、見とれて動かない彼へと手を伸ばした。


「一織ッ!!」


 振りかざされた爪が空を切る。

 電光石火に駆け付けたアーサーが咄嗟に駆け付けた一織を俵担ぎに抱え上げ、すかさずその場を走り抜けていく。

 そのまま出し過ぎたスピードを殺すべく、地べたをスライディングさせた足が何メートルもの距離に深い溝を作って地を抉った。


「アーサー! アーサー!! 見たか今の!? 猛禽類の脚だった、“禿鷹”みたいだった!」


 背後から、担いでいる彼の感動して上擦っている嬉々とした声が聞こえる。

 たった今正に殺されそうだったのにも関わらずそれすら気付いていない様子の彼に、危機一髪何とか傷一つ付ける事なく一織の救出が叶ったアーサーは冷や汗と肝を冷やす思いに思わず顔と声をも引き釣らせた。


「貴方何考えてるの!? 今殺されそうだったの解ってる!?」


 体裁など関係無しに、つい口から出た本音で我にもなく彼を怒鳴り付ける。

 しかしそれも何処吹く風の一織はアーサーの言葉をその耳に届かせる事はなく、寧ろアーサーの腕を剥がそうと彼から離れようともがき始めた。


「なァ、なァ。もうちょっと見たいんだ、放してくれよアーサー。折角ハーピーを見付けたんだから、少しくらい近くで見たって良いだろう? なァ!」

「駄目に決まってるでしょ……!? 良いから大人しく捕まってて……コラ、ちょっとっ、暴れないでってば……!」


 力こそ彼がアーサーに敵う筈もないが彼の身体が大きい事も有り、もがかれてしまえば視界を遮られてしまいアーサーが困惑の声を上げる。

 僅かに確保出来た視界の端で、此方へと方向転換して向かってくる鳥達が殺気を伴い迫ってくるのがチラリと垣間見えたというのに、自分はと言えば身動きが取れない。

 暴れて言うことを聞かない彼を抱えたままでは動くに動けず立ち往生してしまう。


「(どうしよう……! 押さえようにも、加減が出来なかったら僕が一織を殺してしまいそうなのに!)」


 耐久度の差が、力の差が激しいが故にアーサーからすれば一織を怪我なく押さえ込むというのは、地べたで動き回る小さくて素早い蟻を一匹重機のハサミで潰さずに掴むような、そんな途方にくれてしまうようなもの。

 幾ら何でも出来るとは言え、ちょっとのミスで大惨事になりかねないその差からはどうしたって集中し真剣に取り組まねばならないと言うのに、こうもじたばたと暴れられてしまえば集中する事すら出来ない。

 彼を“知った”今では、軽率に彼を殺めるのは非常に不味い──それが解ってよりアーサーは今酷く焦っていた。




 以前までは此処まで“おかしく狂って”いなかった彼。

 何度と死と苦痛を繰り返す内に、等の昔に無防備となっている精神的耐久度──SAN値が0の彼は不定の狂気に陥ったまま、知らず知らずにでもこれ以上精神を磨り減らしていけば当然過剰殺傷オーバーキル

 0とマイナスの差が激しくなっていけばいく程理性と正気を保つ為の頭のネジはより飛んで壊れて二度と戻る事はなく、引き起こす狂気の数は悪戯に増えていくだけ。

 直りはしない。




「アーサー! 頼むよ・・・、“離して”くれ!」


 遂には神の権能を使うまでして強引に拘束を解かせるべく“命令”し、彼の言葉に身体が勝手に動いてしまうそれにアーサーの焦りはより強くなっていく。

 今解放して自由にしてしまえば、彼は無自覚に自ら死ににいくだろう。

 そして今より酷く頭も心も病んで壊れていってしまえば、軈て彼は彼でなくなってしまっていく。




 ──そんなの絶対に嫌だ!




 すぅ、と吸い込んだ空気、膨らませた肺の袋。

 眼前まで迫っていた怒り心頭我を失っている鳥達、無邪気に鳥達へと駆けて行こうとする“恐怖心の消失”させたまま“幻獣への異常的執着”に囚われてしまった一織。


 それらに向けて“どうか、届いてくれ!”と想いを込めたその声、その“唄”──超高音域によるハイパーボイス。




「─────ッッッ!!!」




 人の耳には届かない超音波が、辺りに振動だけを与えて雫を落とした水面の様に広がっていく。

 自分だけでは彼を止める事は出来ない、ならばせめて鳥達に……と。

 放った唄に込めたのは鳥の囁き、その音程。




 “安心してくれ”、“此処に貴方達を害する敵はいない”。




 落ち着かせる様に、安心させる様に、まだ彼等の言葉を覚えた訳ではないから他の鳥の鳴き声で遠回しに贈った、鼓膜からではなく体内から震わす骨伝導の言葉の音色。


 耳を傾けてくれずとも半ば強引に相手へと聞かせるその唄に、怯んだ鳥達の動きは漸く止まってくれた。

 宙で羽ばたきながらたじろぐ鳥達は戸惑い動揺し、仲間同士でそれが敵なのか味方なのか相談し合う。

 会話するその様子を眺めてより、暫くしてアーサーが再び口を開いた。


「……くくくく、ふるるるぅ……」


 その音に鳥達の反応が見るからに変わる。

 首を傾げ、此方を見詰め、その眼差しにはまだ警戒は含まれていれど“興味”の方が増した視線。

 細やかに舌で打ち鳴らすタンギングを上手く使い、鳥達の会話音、地鳴きの音で此方に敵意が無い事を“彼等の言葉”を用いてそれを言い表す。

 すると驚いたのか一際強い羽ばたきを見せた後に「ククククッ……」と彼と同じ音で囀ずると彼等の内一羽がアーサーの傍へと降り立ち、その鳥は嘴を擦り付ける様な音を鳴らした。

 斜め向かいに立ったその鳥に身動きを取らずじっとするアーサー。

 そんな彼に興味津々に首を長く左右に伸ばしては身の回りを確認したその鳥は、軈て飛ばずに羽ばたくと“トットッ”と跳ねる足取りで近付き頭を下げた。


「……よしよし、良い子だ。驚かせてしまってごめんよ。」


 “お辞儀”をしたその鳥の顎下へと手を伸ばせば、気を許してくれた彼はアーサーの手に自ら顎を乗せて撫でる手付きで掻く指先の感触に心地好さげなコロコロとした音色の声を上げた。


 恐らくその鳥が群れの長だったのだろう。

 彼が落ち着いた様子を見せると他の鳥達にもそれが伝播していき、次々と地上へと降りていった彼等はアーサーの周りへと集まっていく。

 そして擦り寄った鳥達はこぞってアーサーへと身を寄せて頬擦り、頭を擦り付け、甘噛んでじゃれ付き始めた。


「わ、わ、ちょっと……ああもう、仕方のない子達だな。」


 困惑しつつも頬が緩んで笑みを溢すアーサーは腕の下へ強引に頭を潜り込ませてまで“構え”とじゃれてきた年若そうな鳥に、わしゃわしゃと撫で繰り回しつつ彼等の歓迎を表すそれらに自分も受け入れていった。

 頬を擦り付けられる羽毛が柔らかくて心地好い。

 喉を鳴らす甘える声が耳に心地好い。

 おしくら饅頭みたく身を寄せられて、身体中を包むフワフワとした温もりが心地好い。


「はぁ……幸せ……」


 思わず微睡んでしまいそうになる程身体がぽかぽかしてきて、まるで羽毛で出来た寝床に包まれているかの様な心地にうっとりと目を細める。

 日が暮れ始めて冷たくなっていく風が身体を冷やしていたのだろう。

 橙色の陽の光も相まって、段々と身体の力が抜けていってしまう。


「………ん…そうだ、一織は……?」


 眠気に重たくなっていく頭を起こして周りを見渡せば少し離れた場所で一羽に踏みつけ押さえ付けられながら、その側に仁王立ちしている──人型へと姿を変えた──モーガンから説教を受けているらしい様子の彼が無事でいる姿があった。


「全く! 此度は五体満足無事で在られた事には宜しゅう御座いますけれども、些か無用心過ぎやしませんでしょうか? 在れ程御忠告為さいましたのに、貴方様と言う御方は──!」


 今度はモーガンが怒り心頭となり、彼女からくどくどと叱られて罰が悪そうに視線を逸らしている一織。

 酷く説教を受けているのにも関わらずその顔持ちは何処か達成感のある様子で、何故だか口元が緩んでいるのすら見えてアーサーは首を傾げた。

 しかしそれも直ぐ解明する。

 彼を押さえ付けているその一羽が妙に体毛が乱れており、少し疲れたみたいなその表情。

 恐らく目茶苦茶にじゃれつかれたのだろう、犯人は彼の足元の人物で。


「良かった……何とか間に合ったか。」


 それらの様子に安堵しつつぽふんと羽毛に身を委ねる。

 身体を斜めに倒された中視界に映るのは星が瞬き始めた濃紺と、まだ夕刻を主張する熟した果実の如く赤くも橙色に空を僅かに明るくする溶け始めた太陽の残り陽。

 地平線へと身を沈めながら弱く朧気となっていく姿を蕩けさせては滲ませ、押し寄せる闇にじわりじわりと身を委ねていくその様は太陽が泣いて恥じて何処かに閉じ籠っていくかの様。


 そんな光度を落とし始めた空うとうととし始めていると、ふと鼻腔を擽る不快・・な臭い。

 深く考えずともわかる、肉の“腐敗臭”だ。


彼等ハルピュイアイがいるから在って当然なのは解るけど……ううん、どうしたものか。」


 身体を起こして彼等を見下ろせばキョトンとした様子で此方を見詰める眼差しと目が合う。

 先程見回した時に、巣とは別で見えたのは木々の枝に吊るされた動物の死骸……その中にはちらほらと“人間”のものもあった。


 彼等──ハーピーは腐肉嗜好の肉食鳥類だ。

 人間達の墓地、崖や流れの早い河川の下流等、死骸の集まりやすい場所に巣を作って、掘り起こしたり流れ落ちてきて得た死骸の肉を木に吊るし腐らせてから食す。

 時には人里へと食糧を求めて人間や家畜を拐ったりする事もあるが……それはアーサーからすれば“人間達の自業自得”だ。


 人間が森を削りすぎているのだ。


 それで住み処を終われた獣達も多いからこそ、明日を生きる為の糧を自らのテリトリーで補い切れずに飢えてしまい、嫌だとしても“仕方がなく”人里を襲ってしまう。

 彼等とて余所の縄張りを荒らすような事はしたくはない筈だ。

 それでも生きていくにはそうする他無いからこそ、人には手を出さずして食物を食い荒らす物もいるけれども人間達にはその区別はない。




 須く魔物は抹殺すべきだ、と。




「──コココココッ」


 不意に小刻みに固いものが打ち鳴らされる音が辺りに響く。

 その途端に鳥達は落ち着いていた様子からバッと身を起こして直ぐ様その場から離れるべく羽ばたき始めた。


「クァァックァァッ! コココココッ」


 群れの長が警戒音と威嚇音を鳴らしていた。

 群れの者達を避難させるべく急かす様にして音で叩き起こし、空へ逃れるよう指示を送る。


「……? 何だ、この気配は?」


 覚えこそあるのに違和感が凄まじいその“悪寒”にアーサーは顔をしかめる。

 生暖かい風が吹き始め、何か逃れるように鳥達が皆上空へと逃れて広くなった空間で薄暗くなっていく森の奥を凝視するアーサー、その傍へと漸く説教から解放されたらしい一織が歩み寄っていった。


「どうした、アーサー? 何か在るのか?」


 冷静に伺ってくる一織の様子に、何とか正気に戻せたらしい事を察する。

 それも含め彼には問い詰めたい事が幾つか在るけれども、森の奥──闇の向こうから滲み出てくる嫌な気配が、今はそんな状況ではないと肌を粟立たせてくる。




 ──ちりん。




 鈴の音色が鳴り響く。

 何処からだろうか、近くも遠くも感じるその音に咄嗟に身を構える。

 じっとりとした視線、身体の奥底から滲む悪寒、音もなく忍び寄ってくる気配。




 ──くすくすくす……。




 多方面から響き渡ってくる正体不明の蔑む笑い声が木霊する。

 額には冷や汗が浮かび、無性に不安感に苛まれてしまうアーサーはその正体を探るべく目を細める。

 そして眼鏡をずらそうと手に触れた、その時だった。




「おやぁ? どうしたのかなぁ、坊や。そんなに手を震わせて、何か恐ろしい事でもあったのかな?」




 気配もなく耳元で、直ぐ隣で声が聞こえた。


「ッ──!?」


 咄嗟に振り返る──誰もいない。

 今確かにそこには誰かがいた、それなのに振り返るコンマ程度の短い間にそれは姿を消して何処かに身を潜めてしまったらしい。


「クスクスクスクス……嗚呼面白い、やっぱりオマエをからかうのは心底愉快で堪らないなぁ!」


 クスクス、ケタケタ。

 姿の見えない笑い声が辺り一面に乱反射、反響して回りその相手が何処にいるのか掴めない。


 正体が掴めない。/恐ろしい。

 嘲る声に駆け立てられた恐怖心に思わず冷静さを欠けようとした、その時──、




「良い加減為さい、此のドラ猫め。」

「──ふぎゃッ!?」




 悪寒を誘う空気をぶち壊すモーガンの声、そして直ぐ様上がる一つの悲鳴。

 何が起きたのか混乱混じりな頭を彼等の方へと向ければモーガンが先程の声の正体──“マーリン”の腕から地べたまで垂れて伸びた、黒くて長い二又尻尾の様な“長袖”をヒールの爪先で踏み付けている姿があった。


「ぎにゃあああっ!! モーガンッモーガン!! “しっぽ”! しっぽ踏んでるぅううっ!!」


 踏まれているのはどうみても服から伸びた“袖”だというのに、それがまるで身体の一部だと言わんばかりに情けない声を上げてじたばたと暴れ慌てふためくマーリンが涙目でそれを訴える。

 しかし絶対零度の冷ややかな眼差しで見下ろすモーガンはふんと鼻を鳴らすと、手に持っていたメイスでマーリンの猫耳フードのど真ん中へと振り下ろした。




 ──ゴチンッ




「あいたーーーっ!?」


 重く鈍く、きっと只痛いだけで済みそうではなさそうなその音に、受けたマーリンが長袖尻尾?を解放されるや否や地べたを転げ回る。


「いったあああい!! ごめんようモーガン! これはちょっとした悪戯心さ! 今まで散々煮え湯を飲まされる思いをしたんだからちょ~っとだけ、からかう程度なら許されるかなぁって──、」

「許しません。御前の其の“少々ちょっと”で今迄何れ程場が掻き乱された事か……。御前も良い加減懲りて遊び惚けて居ないで、主君のストッパーなり何なり手伝い為さい!」


 再び振り落とされる彼女の鉄拳メイス

 一際甲高い悲鳴が上がったかと思えば、それが辺り一面に響いて反響していく。


 そんな彼等の姿をポカンと見詰めながら呆気に取られていると、そんなアーサーの傍に佇んでいた一織が溜め息混じりに苦い顔をした。


「俺のストッパーって……モーガンの奴、俺を制御の利かない子供みたいな言い方するじゃねェか……心外だな、全く。」


 “無自覚”な彼の不服そうな声。

 思わず脱力してしまいそうなガックリとした気持ちになりつつも、あの得体の知れない“マーリン”を叱り付けている彼女を身遣る。

 そして彼女へとアーサーは“同情”した。


「今まで一人で抱えてワンオペで大変だったんだなぁ……。」


 何がなんでも自分を引き留めようとしていた彼女。

 まるで一人の母が手の掛かる子供と自分勝手な夫を抱えて苦労している様なその姿に──否、子供は二人なのだろうか?

 そんな彼女が自分を何としてでも引き込みたかった理由を垣間見た気がして、後でモーガンを労ってあげようと心に決めたアーサーだった。



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