24.エゴの怪物か、アルトの愚者か。

 真っ暗闇、黒い海。

 足を浸して静かに佇む。

 耳が痛くなる程の静寂を、上げた足で水を蹴って裂く。

 飛沫が上がり走る輪の水面、木霊する水音が辺りを反響して回る。


 今も昔も変わらない日々。

 此処にだって夜になったら“奴等”が来る。

 来てほしくないのに扉は開けっ放し、迎え入れる他抵抗は無駄。

 漂う腐臭、生温い空気、おぞましく感じる悪寒。

 誰の助けもないままに、只々消費されていく毎日。

 自分に纏わり付いて離れないまま、気付けば全部呑み込んでしまっていた。


 気持ち悪い。

 身体の中が満たされたくないもので埋まっていく。

 黒く、惨く、捻れて歪んでいく。

 今にも壊れてしまいそうなのに、潰れてしまう事も出来ない。


 逝き止まり、死に損ない。

 ずっとずっと死に続けたまま、生かされている。

 何処にいようと自分に平穏はない。


 自分がいる真っ暗闇の箱の中はまるで小さな宇宙のようだ。

 それは入るだけなら簡単、でも出るのは困難な不浄の檻。

 それが此処、自分の心の内側の世界──嗚呼、でも、それは何だか違うな。


 だってここは“腹の中”だから。




 全部呑み込んでしまう自分の胃の中の世界。

 でも入口は在って出口はない、黒い海がある箱の中の世界。


 自分が箱だから逃れることの出来ない、幸を呼ぶ小鳥を閉じ込めた“コトリバコ”。






 *****






 どしゃり。


 砂を巻き上げて大きな身体が横たわる。

 背中に乗っていた小さな身体はその際に放り出され、転がりながらも体勢を整えて見上げれば愛しいヒトが死の淵で苦しむ姿がそこにある。


「ロヴィ……!!」


 直ぐ様駆け寄る。

 息も絶え絶えで目は閉じたまま、小刻みに揺れる腹部は呼吸が浅い事を示しており、倒れている身体は何処も力無く全身だらりと地面に寝そべらせていた。


「ロヴィ! ロヴィってば! ねぇ目を覚まして、起きてよぉ!」


 呼べども呼べども返事はない。

 どうしよう、どうしたら。

 悩んで悩んで、自分に出来ることが無いかを探りながら彼の手を握り締める。

 気休めにもならないけれど、そうでもしないと自分が落ち着けなかった。


「ロヴィ……死んじゃやだよ。キミは何も悪くないのに、何で、何でキミがこんな目に……、」


 そこまで言って言葉は止まる。

 自分は一体何を言っているんだか、全ては自ら招いた事なのに。


「……ごめん、ごめんねロヴィ……おれが……おれがキミと一緒にいたいって願ったせいだ……!」


 彼と一度別れた時、無欲で何も必要としていなかった只消え去りたいだけのあの時自分は初めて・・・欲しいものが出来てしまった。




 彼──“ロヴィオ・ヴォルグ”という獣だ。




 自分は知らない、彼の様に自分を犠牲にしてまで他者を想う人を。

 いつだって自分の周りには利己的な奴等ばかり、他人を蹴落としてまで自分の安心安全を求める“エゴの怪物”ばかり。

 そういうものしか見たことが無いんだ、だから怒りを通り越して呆れて何も言えなくなってしまっていた。


 だから彼は……ロヴィオ・ヴォルグは子供にとって眩しくて仕方がない存在だった。

 彼と出会ってから幸福を知らなかった自分は幸福を知り、彼に慈しまれる度に満たされ続けていたのだ。


 “キミがきっとおれの幸福を呼ぶ幸せの鳥なんだ。”


 彼を知る度にその優しさに触れて、分け隔たり無く全てを愛しその身を張って護る雄々しい姿に憧憬すら覚え、それが自分に向けられた時に感じる幸福感にいつか何処かで聞いたお伽噺を思い出しては彼をそれに当て嵌めていた。


 だから子供は彼を“護り”たかった……手放したくなかった。




 だって彼は皆の“救世主ヒーロー”で、自分の“幸せを呼ぶ青い鳥幸福をくれるヒト”なのだから。




「ロヴィ……ロヴィ、死なないで。ごめんね酷いこと言って、ホントはまだキミと一緒に居たいよ、居たいけど……居たいのにっ……。」


 悲しいかな、彼と自分は余りにも相性が悪かった。


 不浄に穢れれば焼かれてしまう神聖。

 神聖を浴びれば浄化されてしまう不浄。


 それでも互いを気遣って、想い合って支え合ってきた──そう思い込んでいた。

 まさかそれが彼の慈悲で作られた脆弱な足場の上だったなんて、思いもよらなかったのだ。


 それに気付かず胡座を掻いていた愚かな自分が情けなくて仕方がない。

 悪いのは彼じゃない、自分が知らなかった事こそ罪なんだ。


 “無知”は罪だ、自身の愚かさに気付かないまま他人を踏みにじっている事にも気付かない。

 “無邪気”である事は即ち“邪悪”だ、他人を蹴落としてまで穢れなく在ろうとするなど“害悪”以外に何と称するべきか。




 そう思っていたからこそ、自分は変わりたかった。




「おれは……知りたかったんだ。キミと出逢ってから、キミはどんなヒトなんだろうって。」




 彼の様なそこはかとなく“優しい”ヒトは知らない、だから知って理解を深めたかった。




「キミの為なら何だってしようって思ったんだ。化物って呼ばれても良い、キミを護れるならこの手を穢すのだって構わない……眠れない夜もキミとなら耐えるくらいどうってこともなかったんだよ。」




 彼が優しく在り続けるなら自分は悪になってもいい。

 そう思っていたから、そんな姿を見られたくなかったけれども彼に近付こうとする“ゴミ害悪”を隠れて掃除排除してきた。


 彼がそれに気付いている事は知っていた。

 何も言わない彼に甘えていたのは自分の方だった。


 彼の前脚を握り締めていたままの両手、その片方を彼の体毛を撫でるようにしてその内側を覗く。

 黒く濁った皮膚、今まで気付かなかった知らず知らずの内に自分が与えてしまってきた彼を苦しめる不浄の証。


 どうして気付かなかったんだろう……きっと彼の事だ、気付かなくする隠蔽の魔法でもかけていたのかもしれない。

 そういうヒトだと言う事は、一緒に居続けてきたこの12年で理解している。

 ……知っていたのに、気付かなかった自分の落ち度だ。




 子供はそんな彼の前脚に、口付ける様に唇でんだ。

 すると口の中に流れてくるのは不浄の穢れ。

 飲食受け付けぬ身体の自分が唯一自ら味わえる、臭くて苦くて酷い味をした霞のような泥水。

 いつになっても慣れない、口に含める事すら憚りたくて仕方がないものだけれども彼の為なら幾らでも飲み干そう──そう思って耐えてきた自ら進んで続けてきた苦行。


 流れてくる彼の身体から自身の胃へと入ってくる穢れの量に、思わず涙が浮かんでくる。

 どうしてこんなになるまで耐えてきてしまったのか、自分はそれ程までに頼れる“片割れ”ではなかったのか。

 大切に思う余りに彼へと怒りを抱く事も出来ずに、自分が受け入れられていなかった事が悲しくて……彼にとって頼れる存在になれなかった自分が憎くて仕方がなかった。


「……っは、う゛、お゛ぇっ……!」


 胃からせり上がってくる、呑み込んできた汚物の腐臭に思わずえずく。

 しかし吐き出す訳にもいかず喉から上がってくるそれを必死に呑み込みながらそれが落ち着くまで両手で口を塞いで、吐き気に何度と背中を揺らしながら耐え抜いていく。

 そしてそれが収まればまた、それを呑み干すべく口に入れる。


 不味い、気持ち悪い、口に入れるだけで吐きそうになる。

 眩暈がする、頭の中が揺れる、気が遠くなりそうになる。


 自分とて平気ではないそれは、それでも摂取しなければ動けなくなる忌まわしくて仕方がない自らの糧だ。

 摂取を避けて逃れれば消滅も叶わない癖して死に続ける様な飢えと苦痛に襲われる羽目になる。

 逆に取り込めば取り込む程に自らの力は増すけれども、脳が溶けて思考が歪み理性が崩れていく──おかしくなっていく。




「(気持ち悪い……不味い……頭が溶けて………喉が…、……痛い・・……?)」




 聴覚、視覚以外を失った今の自分の身体。

 久し振りに内側から感じる“痛み”に朦朧とした頭が、その沸き立つ“感情”が脳内を支配するべくじわりじわりと染め始めていく。


 口元に浮かぶのは笑み。

 恍惚として頬を染める朱にとろりと蕩けた虚ろな目。


「(痛い………痛みだ…………おれを温めて・・・くれる、おれが求めて止まないモノ………!)」


 欲情的な熱を帯びた温度のない吐息が口から溢れる。

 そして四つん這いになって犬食いするみたく、みっともなくがっついて横たわった彼の身体に噛み付いて“もっと、もっと!”と忌まわしかった筈の泥水を呑み込んでいく。


 休む間も無く、一滴も残さず、彼の身体を蝕んでいた自らが捧げてきた不浄を取り上げたその子供は夢心地のまま空を仰ぐ。

 蕩けた頭、焼けて痛む喉、“満たされてしまった”腹。

 長く、深く、快感に満ち足りた吐息に艶かしい声が辺りに響く。


「ああはぁぁっ……!! 痛い、痛みだ、おれを温かくしてくれる痛みがあるっ……!」


 うっとりと惚けた頬を両手で包み、寒くて仕方がなかった身体に漸く訪れた僅かな喉の温もりに歓喜する。


「気持ちいい、気持ちイイっ……どうしよう、痛くて、痛いのがヨくってっ………!」


 そして脳内に占めていく絶頂感と理性を捻切っていく狂喜に浸っていったその“狂気”に溺れていく思考はどろりと溶けて、タガが外れてしまった彼の口からは壊れた甘ったるい嬌声みたいな悲鳴が溢れる。


「あガっ……ああアア頭ガッ溶けてク、とッとと蕩ケちゃうウゥぅ……ッ!」


 身体を弓形にしならせて、どしゃりと倒れた地べたの上。

 陸に打ち上げられた魚みたいにのたうち回りながら、よがり狂う様に身体は引き釣って痙攣する。


 頭が揺れる、脳が溶ける、何も考えられない程に惨めに淫らに不浄に犯されていく。


 両手で抱えた頭は涙と唾液とその他諸々、あらゆる穴から体液を垂れ流して言葉にならない声をあげながらそれを──滲み出てきた黒い水を辺りに飛び散らしながらもがき喘いだ。


「あーーっあーーっ! だっダダだメ、おおおかっオカシく、アアアわか、わかんナク、なッちゃ……あああ……ッ」


 正気に戻れない、狂気に堕ちていく。

 いつもならここまで酷くなることはなかったのに、歯止めの効かなくなった身体の中で渦巻く不浄が全身を巡っておかしくさせていく。


「あああッ……うタ、うたガっ……唄がきっきき聞コエ、ないノ、おおれ、おれのおおア゛あ゛っ……!」


 “なんで? どうして?”と狂気の海に溺れていく最中に誰にも届かない投げ掛けた疑問符。


 聴こえないんだ、聴こえなくなってしまったんだ。

 いつ壊れてしまってもおかしくない自分を、狂気に堕ちてしまいそうな自分を正気に引き戻して、不浄に穢れた心を洗い流して浄化してくれる“歌”が──心の拠り所が。


 毎晩毎晩亡霊達の餌食になる中で、いつも心の支えで在り続けてきた名前も意味も知らない“歌”。

 それが“子守唄”だと言う事くらいしか解らなかったけれども、その歌声が響く夜はおかしくならずに済んでいた。






 温かな声、大好きな音色。

 生まれる前から寄り添ってくれていた、小さな灯火が口ずさんでいた聖歌。






 暗闇の中、誰かの歌声。

 寒くて一人ぼっちだった幾星霜もの長い夜にぼんやりと聞こえ始めた優しく響く声。

 悲しくて辛くて寂しくて、ずっと胸を締め付けてくる思いに涙を流していたらふわりと何処からか現れたその灯火。


『アロー、こんにちはぁ……ああいや、暗いから夜なのかな? それならヴォナセーラ! やあやあ、小さくて綺麗で可愛らしい小鳥さん! そんなに泣いてどうしたの? お腹空いてる? それとも身体の何処かが痛いのかな?』


 辺りは静かで陰鬱とした空気だったのを全く気にもしない、一度口を開けば一言では終わらせない賑やかで陽気な子供の声。

 コロコロと様々な言語で話しながら、伺う様に距離を計るようにして周りをぴょんぴょん跳ね回る。


『ボクはね、気付いたらココに居たんだ! “蛇の神様”が迎えに来てくれるから待ってたつもりだったけど、何だか呼ばれた気がしてフラフラしてたら迷子になっちゃった! いやー、参っちゃったね! あははは!』


 きゃっきゃと一人でに喋り続け、果てには自分の出した話題で腹を抱えて笑っているかの様にひっくり返るその灯火。


『それで、キミはどうしてココに? ……ふむふむ、海に落ちちゃった? それは大変だ! それじゃあ浮き輪を用意しないと、ずっと水の中にいたら風邪を引いちゃうからね!』


 飛び上がって驚いたみたいな仕草で、一見只の火の玉でしかないそれは偉く表情豊かにリアクションをする。

 そしてぽーんと跳ね上がったかと思えば目の前で黒い水面の上を転々と跳ね回り、在りもしない浮き輪を一頻り探し周って……軈て気落ちした様子ですごすごと戻ってきた灯火は悲しげな声音で「ごめんねぇ」と溢す。


『浮き輪見付かんなかった……うう、これじゃあキミが可哀想だ。他に何かしてあげられること、してあげられること……。』


 そう呟きながらフラフラと右往左往する灯火に、おかしな亡霊だな、なんて今まで余裕なんてなかった苦しいばかりの水の中に浸る身体を、力の出ない足で必死に前後に振りその灯火を見失わない様に水面に顔を出す。


『……苦しいの? 寂しいの? “お兄ちゃん”が迎えに来ない? 寒いのならボクが傍にいたら温めて上げられるかな、火傷しちゃったりは……──、』


 伸ばした手、触れようと振った手は温もりも感触もないままそれをすり抜けてしまう。

 寒くて辛くて彼の言葉にやっと温まる事が出来ると希望を見出だしてしまったのもあって、期待した分手がそれを熱を感じる事もなく通り抜けた事に絶望感に胸の内が凍り付いていく。

 しかし目の前の灯火の反応は違った。


『わあスゴい! ねぇ見た? 見た? 今ボクの身体すり抜けたの、何だか手品みたい!』


 はしゃいで跳ねて、何をしても楽しそうな灯火。

 “どうしてそんなに楽しそうなの?”と聞けば、彼は笑って答えた。


『“笑う門には福来たる”だからさ! これはポニの言葉でね、ボクの一番好きな“格言フレーズ”なんだ! 他にも色々あるよ、ええとええと、確かね……』


 灯火の焔が穏やかに揺れる。

 軈てぱっと花開くみたいに火花を散らした彼は途端に場を明るくしてしまう様な、一瞬にして夜空を鮮やかに彩る花火みたいな声でそれを答えた。


『“ Carpe diem!今この瞬間を楽しめ!”……くよくよしてたって何も変わらないんだ、だから泣くより笑って! 今は辛くても笑っていればいつかきっと良いことあるさ、人生楽しまにゃソンソンってね! わっははは、“Que Será, Será!なるようになるさ!”』


 くるくると踊るように周りを跳ね回る灯火に、思わず此方も口元に笑みが浮かんでしまう。


 この黒い海で出逢った、盲目に強欲で自分を貪ってくる奴ばかりだった中で唯一自分を求めてこない無欲な亡霊。

 お喋りで明るい奇異な灯火。

 そんな彼は一頻りお話を楽しんでいる最中に突拍子もなく歌い始めた。


 幼いソプラノ、水玉が跳ねる様な声音、静寂を彩るハーモニー。


 綺麗な歌声だった。

 心地好い声音だった。


 ずっと寂しくて苦しくて辛い思いばかりでささくれていた心を癒してくれるその曲調は、歌い終えた後のお辞儀をした彼が笑って“次”を約束してくれた。


『歌うのは大好きだから大歓迎さ! ボクも“お兄ちゃん”が来るのを待たなきゃだから、ここで出逢ったのも何かの縁。折角だから一緒にお迎えが来るまで“お留守番”しよう! それまでは何度だって唄ってあげる、そしたらお互い寂しくなくて“一石二鳥”ってね!』


 彼が言葉を紡ぐ度に心が満たされていく。

 溢れんばかりの温かな“無垢な愛情”に、黒い海の冷たさなんて気にならなくなる程に救われていく。


 優しくてささやかなのに大勢でそっと照らしてくれる冬の満天の星明かりみたいに、凍える身体を穏やかでも汗ばむ程に温めてくれるマフラーの様に、小さな灯火は大きくて広い器を持ってして自分を受け入れて身に余る程の、収まりきらずに溢れてしまうくらいの愛情を注いでくれた。


『いつかキミが外へ出られた時に、ボクと同じ様に誰かの支えになってあげて。これはその分。キミが飢えずに済むように、キミの大切な人が飢えずに済むように……。』


 苦痛以外で涙を流したのは初めてだった。


 どうしてこの人はここまで他人を思いやれるんだろう、どうしたら……キミのように、心優しい人になれるんだろう。

 自分のちっぽけさを包み込んで受け入れるその器に憧れて、自分もいつか彼のようになれたら──そんな風に思いながら、自分は彼を汚さないように大切に護るべくして“腹の中”へとしまいこんだ。




『……我等星の子、光の子。嘗て我等を御救い頂いた“狼竜様”の御恩を忘れぬべく利他を重んじる敬虔の徒。……御祈り申し上げます。彼の者に、我等の愛する人々に貴方様の祝福と御加護があらんことを──。』




 お腹の中で響く歌声、夜に怯え寂しがる子供を慈しむ愛の歌。

 それはいつかいなくなってしまう事を約束した、手放したくないと思ってしまう程の優しい温もりだった。

 でも優しい彼との約束だから、それまではその無垢さに穢れが付かないように、傷付いたりしないように護らなくては。

 誰にも知られない様に、盗られたりしない様にってひっそりと腹の内側に隠して“大切”にしよう。

 そう思って、人知れずそっと箱の蓋を閉じた。






 *****






「──グッモーニン、ヴォンジョルノ、早上好! 朝の雲雀は鳴いたよ。起きて、目を覚まして!」


 微睡みの中で声が聞こえる。


 いつから眠っていたのか、覚醒しきれない頭がぼんやりとする中で開けた目蓋の向こう側で鼻先が赤くなっている子供を見た。


「“相も変わらず”お寝坊さんだね、いつもお仕事が大変だからといって夜更かしは駄目だよーって言ってたのに。ああもう全く、目の下の隈すごいよ?」


 ……誰だろう。

 知らない声、知らない姿、会ったことがない筈の誰かが自分に話し掛けているらしい。


「ねぇ“お兄ちゃん”、ボクのお願い聞いてくれる? いっつもお利口にお留守番してたんだから、たまには我が儘を言う“悪い子”になっても良いでしょう?」


 知らない、彼のような子供は見たことがない。

 それなのに“他人を嫌う”筈の自分はその子を拒む気にはなれずに、微睡みながら頷いた。


グラーツェありがとう! じゃあお願いするね──、」


 春の冷たい風が頬を撫でる。

 その子供の声を邪魔するではなく、確実に届けるようにして追い風を吹くその花の香りが鼻腔を擽る空気は確かに自分の耳へとその言葉を届けていく。




 “お願い”を口にする時、彼は胸の前で掌を組んでいた。

 きっと信心深い人なんだろう。

 邪もなく下心もなく、只々他者を想い偲ぶ事が当然とでも言うような慣れた様子で無垢に健気にそれを言葉にした。




 その言葉を全て聞き届けるとその無垢な子供は穏やかに笑って……何故だろう、その笑い方は知ってる人物に似ている気がした。


「じゃあ、宜しく頼むね。“あの子”はボクの大切な子なんだ。ずっと旅をしてばかりで、誰と仲良くなっても長くは続かなかった……その中で一番長く一緒にいてくれた、ボクの友達。」


 穏やかな微笑みを浮かべた子供が“頑張ってね”と声にした途端にその後ろから“春一番”が吹き抜けていく。

 それが余りにも力強くって目を開けていられずに閉ざしてしまうと、再び目蓋を持ち上げた頃にはもう──そこには誰も居なくなっていた。






 *****






「──アーサー。アーサー、起きてるか?」


 自分を呼ぶ声に、思わず瞬きを繰り返す。


「んー……? 今寝て、た?」


 眠っていたつもりではないけれども、長いこと思考するに耽っていた頭がいつの間にかぼんやりと呆けて……まるで白昼夢を見ていたような心地がする。

 今さっきまで誰かと話していた様な気がしたけれども上手く思い出せず首を傾げていると、ひっくり返った視界の中で真下から手が差し伸べられた。


「起きてるンなら良いけどよ、いつまでその体勢のままでいるんだ? ……ほら、手を貸すからさっさと起きろって。」


 その声──一織の声を聞くと共に差し出された手に、釣られて自らの手を差し出そうと腕を伸ばす。

 しかし途中でぴたりと止まり、引っ込めようと腕を引いた時に……気のせいだろうか、自分の腕に誰かの手がそれを止めるような支える手の感触を感じた気がした。

 そして引っ込みが付かなくなった手をその先から伸ばされた手にしっかと掴まれてしまい、そこから力強く引っ張られた身体は容易く引き上げられて、逆さまにひっくり返っていた身体はあっという間に立たされる事となる。


「あーあー、土まみれになってまァ……ほら腕上げて、払ってやるから。」


 そういって彼は遠慮無しに距離を詰めてくるとアーサーの身体の周り、服に付いた土埃を払うべく何度と掌で流すように軽い力で叩き回る。

 別にそんな事してくれなくて良いのに……そうは思ってもこの程度の事で突っぱねてしまうのも何だか億劫に感じて、大人しくそれを受けていると一周して再び目の前に立った彼とばちりと視線が合った。


「……んで、彼奴等は?」


 間髪入れずに訊ねられる質問に忘れていた屈辱が再帰し、無で面倒そうに力を抜いていた顔が込み上げる様に引き釣り歪めて、あれ程自信満々に受け持ってしまったことも相まって羞恥に頬を赤く染め俯いた。


 恥ずかしい、何が“任せて”だ。


 彼と出逢ってからずっと失態続き、失敗続き。

 プライドも自信もバキボキ折られてばかりで、惨めで情けない気持ちに胸がぎゅうと締め付けられる。


 何が悪かったんだろう、自分の何が駄目だったんだろう。

 いつもならこんな事は無かった。

 ……否、寧ろいつもと違うことが多過ぎた。

 自分と同等の存在、自分以上の存在、自分とは全く作りの違う存在。

 王宮に閉じ籠っていては知ることが叶わなかった未知の存在と立て続けに出逢い、自分にまだまだ知らない事が多過ぎる事を知らしめられる……まだ王宮を出てから一日も経っていないと言うのに、もう随分と沢山そんな思いをした。


 穴が在ったら入りたい所か、今すぐこの場から消え去りたい。

 そう思ってしまう程に胸の内は冷ややかに凍えさせ、すっかり打ちのめされた気分でいると頭上に影が差し掛かった。


 これだけ失態を重ねているのだ、ぶちたくなる気にもなるだろう。


 痛いのは嫌だがここは甘んじて受けよう、そう思うのは今までがこの状況下で逃げた際に相手をより酷く怒らせた経験しか無かったからだ。

 一発二発殴られるか、何度も痛め付けられるか、その違いくらいは身に染みて覚えている。

 だからこそその時は頭上に翳された手に殴られるとしか思えない身体が迫り来るだろう苦痛に怯えて目蓋が痙攣しようと、逃げ出したくなる身体を押さえてそれを耐えるべくして身体に力が入ってしまい強張らせた。


 しかしそれも結局は無駄な抵抗となる。


 触れられた頭部、衝撃と言うには余りにもささやか過ぎる穏やかな感触。

 拳ではなく掌でありそれは柔らかに、それでいて割れ物に触れる様な手付きで触れたその手は触れたかと思えば横へとスライドされた。


 触れられる前から失態への無力感とその仕置きに対する恐怖心に血の気は引いて顔は青ざめていたアーサーは、頭上で繰り返しスライドされる手から全く痛みを与えられない事に、触れた瞬間から固く閉ざしていた目蓋を恐る恐る開けていく。

 そして俯いていた顔を少し上げて眼前を隠す前髪越しに目の前の人物を視界に捉えて見れば怒りに赤く紅潮させるでもなく、目付きを鋭く釣り上げるでもなく、歯を剥き出しに激怒を堪えるみたいな様子とも全く違う光景がそこにあった。


 生まれつき見遣るだけで意図せず人を怯えさせる程鋭かった目は柔らかに力を抜き細められ、緩んだ頬の口元には穏やかな笑みが湛えられている。

 頭に乗せられた手からはいつも殴られた瞬間に胸の奥を乱暴に揺さぶる痛い程の衝撃も、理由をこじつけて只の鬱憤の発散として悪戯に乱暴された時のどす黒くて自身の内側にべちゃべちゃと張り付いてくるタールを飲まされる様な胸糞悪い感覚も起こさせない。

 只ひたすらに、胸の中と触れられた場所だけでなく全身に血が巡る様にして包み込んでくる、傷付いた心を癒す様にして冷えた身体を温めてくれる“労う”感情が頭上のその掌から伝わってくるのだ。




「“それでも”良く頑張った。有り難うな、俺の為に動いてくれて。」


『この役立たずめ! お前にはその程度の価値しかないのによくも失敗してくれたなッこの愚図が!!』




 現実の心暖まる声と記憶の中の心無い声が、脳裏と鼓膜とで交差して重なる。

 今までと感じる思いが全くもって食い違うその言葉の意味を、頭が理解を深めていけばいく程に目の奥がじわりと熱を帯び唇は震えて喉から震える吐息が溢れてしまう。


 情けない、この程度で泣いてしまうだなんて。

 こうも簡単に心揺さぶられしまい人前で泣いてしまうなど、まるで幼稚で気弱な子供みたいではないか。


 一層の事、今抱いたこの想いすら“嘘”にしてしまおうか。




『──任務に失敗した? そうか、“それでも”よく頑張ったな。お前は只では転ばない奴だ、こなせなくても得たものはあったろう?』




 不意に、忘れていた──否、頭の中にある“標本箱不器用に詰め込んだ記録”の奥底に閉じ込めていた、昔ぐちゃぐちゃにしまいこんで壊した蝶々記憶が脳裏に蘇る。




『書庫から本を持ち出せないのは不便だな……なぁアーサー、次は何を学びたい? 今度帝王学の授業があるから、序でに頁を開いて脇に置いておくから読んどけよ。……どうせずっと俺の事“遠視して見守って”くれてるんだろ? 全く……心配性だな、お前は。』




 思い出すと胸が苦しくなる、嘗て自分を支えてくれていた温かくて尊くて大切に“したかった”記憶達。




『お前は本当に優秀な奴だ、考える頭が封じられているのが心から勿体無く感じる程にな。どうにかして掻い潜れる方法が無いか探ってみるか……──必要ない? だがお前にとって不便でしかないだろう? なら何とか解除したいと思…、……嗚呼そういうことか。』




 大好きだった“友達”の言葉が重なってしまって、どうしても無下に扱えなくなってしまう。




『仕方がないな、“俺の”アーサーは……本当に甘えたで。良いよ、俺に任せとけ。お前が上手く一人で考えられない分は俺が補うよ──俺がお前の“司令塔”になってやるから。』




「……ぅ…………うああ、あああっ……アルク、アルクレスぅぅ……ッ!」


 また溢れ出してしまった涙、我慢していた感情のダムが抉じ開けられて止められなくなった本心。

 自ら壊してしまった、初めて出来た同じ人間同士な友達との楽しかった“過去”。


 止めどなく流れ落ちる涙を拭っても拭っても、土砂降りな雨は全然晴れてくれない。

 何もかも鍵を解かれてしまったみたいに止められなくて、地べたを向いて泣きじゃくっている頭を向かいのその人は頭に乗せていた手で肩を引き寄せると、膝から崩れ落ちてしまいそうな自分の頭を彼の胸に凭れさせてくれた。


「……今までよく頑張った。よく此処まで我慢していたな、アーサー。自分の記憶を無くしても、相手に“忘れさせて”しまっていても、ずっとそいつの事を護ってたんだろう?」


 その言葉を聞いて“嗚呼、この人は全部知っているんだ”と感じると涙はより一層込み上げてくる。




 忘れさせてしまった。

 自分でその過去を無かった事にしてしまったんだ。




 いつかのあの日に、調べ事に夢中で“やり過ぎた”時に自分を見る彼の表情が引き釣っていた事に──彼が心の中で自分を“化物”と感じてしまった、あの時に。


 普通が解らなかった。

 人としての加減が解らなかった、今までずっと獣達といたから。

 それから自分が何をやっても“出来てしまう”のもあって、他の人の“出来ない”感覚だって理解出来なかった。




 ──だから自ら“底辺”まで落ちた。




「あ…アイツがっ……僕の事を、羨んでいたのは知ってたんだ…っ………アイツが欲しいもの、僕は始めから全部、持ってたからッ……!」


 自分を護ってくれる周りの大人達。

 自分を誇る事の出来る他人にはない才能。

 自分が何者であろうと愛してくれる家族母親


 彼が心の奥底に隠してまで自分に感じていた嫉妬心。

 “それでもお前とは友達でいたい”と口で言ってくれてはいても、日に日に自分への感情に濁りが出てくる度に“どうしよう、どうしたら解消出来るだろう”という焦りと“いつか本当に嫌われてしまうかもしれない”という恐怖心に襲われてしまう。

 その中でせめて彼の役に立ち続けなければと、彼の“為”になれる事に夢中になる程のめり込んでいた矢先にあの出来事があったのだ。


「怖かったっ……僕にはもう、アルクしかいなかったから……! 嫌われたく、なかった、のにっ……!」


 あの時、自分が間違えてしまった“選択肢”。

 彼の事を“信じ切れなかった”自分の罪。




『俺は……俺は“それでも”お前とは友達で在りたかった! それをお前は、俺が崩したくなくて“言わずに黙っていた”事を暴いてまでぶち壊したんだ!!』




 自分が初めて彼から受けた罵声。

 ハンマーで殴られるみたく衝撃は強いのに、それでも胸の内を満たしてくれていた筈の“思いやり”が籠っていた彼の叫び。




『見損なったぞアーサーッ!! お前はッ、お前はそんな奴だったのかッ……!!』




 それ以上聞きたくなくて、間違えてしまった現実を受け入れたくなくて。

 “それなら一層の事、全部無かった事にしよう”って彼の記憶を、自分と“仲良くしていた記憶”を消してしまう間際に彼が最後に残した言葉が胸に刺さって抜けてくれない。




『お前が“先に”俺を裏切ったんだ。俺はお前を許さない……絶対、に……──。』




 憎しみの籠った鋭い目、火傷しそうな程に熱く燃え上がる怒りに混じった深い深い悲しみの冷たさ。

 大切だと思っていたものを、彼が大切にしていたものを勝手な都合で踏みにじったのは自分だった。


「ごめんなさいッ……ごめんねアルク……!! 僕は、僕が君を信じられなかった、せいで……君の努力を全部壊してしまった、無駄にさせてしまった……!!」


 その後に間違いに気付いて後悔した所でもう遅かった。

 彼は自分と仲が良かった事など覚えている筈がないので周りの大人達と同じ様に、人ではなく“犬”の躾として自分を殴り蹴る様になっていった。

 誉めてくれる事も笑いかけてくれる事もなくなってしまった事に悲しくあったのは本当だけれども、自分を庇えば庇う程に危うくなっていっていた彼の立場がそれで何とかなったので“もう良いや”って諦めたフリして自分の心を誤魔化した。


 その中で唯一彼が変わらなかったのは、自分を痛め付ける時に“彼自身にも痛みが返る”様に頑として道具を使わなかった事くらいだろうか。

 自分を殴るに使う拳が痛みが、受けた傷を増す度に自らの血が滲む様は見ていてとても痛々しく感じた。

 己が強くなればなる程に他の人達から受ける痛みは紙で撫でられる様な粗末さに感じる様になっていく中で、自分を痛め付けて発散しながら自身の責務に集中するようになり、そうして力を付けていった彼の秘めていた“末裔”としての才能が開花した時にはどれ程安堵した事か。




 嗚咽に呻き、溢れ落ちる涙に泣きじゃくりながら一織にすがり付く様に彼の胸元に顔を押し付けて服を握り締める。

 しゃっくりみたいな声を上げて小刻みに揺れる背中を回された彼の腕がそっと撫でて慰めてくれた。


 そして静かに自分の話に耳を傾けていた彼は静かに、そして穏やかな声音でそっと自分に語りかける。


「……それで、お前はこれからどうしたい? ──どうするべきだと思う?」


 彼の言葉に、ずっと胸の奥底に閉じ込めていた思いを吐き出す。

 見上げた自分より背の高い彼、見下ろしていた静かな眼差しに真っ直ぐに向き合い堪えるのも苦しくて堪らなかったそれを声に出して表した。




「謝りたい……! 会って、アイツに僕の事を思い出して欲しいっ……!!」




 涙で視界が滲む。

 許して欲しい、なんて都合の良い願いは口には出来なくとも、それでも忘れられたまま想い出を踏みにじり続けるのはそれを口にした瞬間からもう二度と御免だった。


「もう嫌われたままでも良いからっ……アルクの隣に居られなくなっても良いから、僕はっ……忘れられたままでいられたくない、僕を一番理解してくれてるアイツに叱られたいよっ……!!」


 人としての善も、人としての悪も、全部全部教えてくれていたのは彼だった。

 彼が身動きの取れない自分の為にって培ってきた努力、その積み重ねを自分は偶々自分には見えただけの心の揺らぎに怯えた……起きてもいない事象に怯えて壊したのが己の罪だった。


 自らエゴの“怪物”に成り果ててしまった愚か者こそ、自分だったのだ。


 今までどれ程のものを踏みにじってきた事だろう。

 自分は人でなしである事は当然だったのだ、だって誰の事も信じられず受け入れられない……それが大好きだった友達だとしても。

 自分が何者なのか解らなくなる程に頭の中を闇雲に削ぎ落としたのだってアルクレスを思っての事だったけれども、それが保身でなかったというにはやはり言い難い。


 彼が羨んだ、嫉妬したものを全部無かった事にして消してしまい彼が自分を見下せるに相応しい様に落ちぶれていったのだって、心の何処かでは“何がなんでも彼の傍にいたい”と彼にすがりたい思いと、彼に殴られる事で勝手に許された気になっていたのだ。

 懲りていないにも程がある、あれからずっと成長してなんていなかった。


 いつか彼の様な“人間”になれたら、そう思って進んだ先は人の心を捨てた“人でなし”だ。


 天才だと褒められるのは嬉しかった事だろう、でも天才と“気違い”は紙一重だ。

 “まともさ”が無いまま進んだ所で飛躍したまま行き着く先は“人外”の枠、彼の隣に立つには全くもって相応しくない──高過ぎて地上の豆粒を見る事なんて到底叶うものではないのだから。


「そうか、じゃあ“謝りに”行かなきゃな。」


 穏やかな声が頭上から降ってくる。

 指先まで伸ばした手首の裾で泣いた子供をあやす様に目元を濡らしたアーサーの涙を拭き取った一織は、泣き腫らして赤くなった目尻を親指の腹で撫でると再び頭を撫でた。


「“後悔した思い出の日の少年”だって最後は友達エーミールに謝りに行ったんだ。俺はお前の母親じゃあないが……まァ赤の他人だろうとそんな事は関係無いな。俺も一緒に付いていってやるから、大事な友達なら尚更謝りに行こう。……な、アーサー?」


 俯き加減で縦に頷く頭。

 もう許されなくたっていい、思い出してしまっては知らんぷりしていた頃にはもう戻れない。

 犯した罪を自覚してしまっては、そのまま隠して抱え続けるのはもう嫌だと思ってしまった。

 謝りたい、会って向き合って正直に話がしたい。

 また殴られたって良いから……真っ当な気持ちで、まだちゃんと謝れてすらいないこの想いを、ずっと大好きなままだった友達に伝えたい。


 そう思って彼は、不安と惨めさによろけてしまいそうな足元にふらつく自分の身体を誰かに支えて欲しくて、すがりたい気持ちで一織の服の端をきゅっと握り締めた。




 ぐすっ、ぐすん……と落ち着いてきた啜り泣く音が直ぐ側の眼下から聞こえてくる。

 見下ろした視界、見えたその頬は泣いてばかりだったからか少し浮腫むくんでしまっているらしく、泣いているのに膨れっ面みたいなそれは色白い肌に朱が混じっているのも相まってまるで“林檎の頬っぺたおたふく”のようだ。

 その頬を両手で包み込むと、アーサーの戸惑う表情を楽しみつつゆっくりと解す様にそれを揉みしだいた。

 肉は薄くふにふにとは言い難い感触に少しばかり思うところが有りつつ、そこで一織は漸く受け入れて貰えて間近で見る事が叶った彼の髪へと視線を向ける。


 彼の周りがローズブロンドだという・・・・髪に、指を開いた手を頬からこめかみへとずらしていく。

 そのすくった薄く桃色っぽくも見える髪束には白銀とでも言える様な色が抜け落ちた真っ白な毛が多くある中で、嘗ての“名残”とでも言える疎らな赤毛がそこには僅かに入り交じっていた。


 勇者の証だというその髪色に何も知らない周りは“勇者”だという肩書きからかその色の意味に目を向けず、他者とは違う“異質”な風貌に憧れの存在だと言う事にばかりに目を向けては、只考え無しに“美しい”と持て囃してきた事だろう。

 しかし一織はそれを見てハッキリと理解してしまったが故に、隠しきれなかった不快感に顔を歪めてしまう。


「(故郷を目の前で焼かれた強烈な精神ダメージに加えて、数多くの拷問や録に食事をさせられない不摂生。寝ることもまともに出来ない様じゃ“白髪”が増えるのも当然…か。)」


 細過ぎる上にパサついた毛先、間近で見下ろした際にチラリと見えたストールの下の浮いた鎖骨。

 服の上から見たって腕も足も細いのは丸解りな程で辛くも干からびる寸前を逃れた老体みたいな華奢な身体つき、そして触れた肌を良く見た時に気付いたのはその異常な程の色素の薄さ。

 血の気で辛うじて朱に染まっている素肌は、場所によっては雪のように白い。

 室内に閉じ籠りがちだったのも相まって、久方振りに長時間外にいたからか日差しが当たりやすいところは焼けて赤く腫れ始めていた。


 視力が落ちやすいという赤目なのも相まって、まるでアルビノみたいな風貌だ──一織はそう感じた。


「(これを平気で戦争に駆り出すだなんて……全く、俺には到底理解が出来んな。これだけでも痛ましくて見ていられんというに……これから・・・・の事だって、本当はさせたくないのに。)」


 そう考えつつ先天性ではないからこそアルビノだという考えと、自分だけではどうにも出来ない回避は難しい本心の願いを払拭する。

 そして、怪我の不十分な治療だけでなくその長年のストレスでも身体を壊し続け、別の世界線では短い命で終わってばかりいたその子供の為に今後何をすべきかの思考へと一織は頭を切り替えていった。


 その細い身体を知ってしまっては今すぐにでも食事をさせなけばと思うのだが、それよりも彼には先に休眠をさせなければ。

 髪とてこのままでは“勇者”の証たるその髪色が目立ってしまい、人前へ出るには動き辛かろうと“染色”も視野にいれたりと、その他諸々に考えを巡らせていく。

 そうしながらその頭を撫で繰り回していると「一織、一織っ…!」と真下から聞こえた声に、耽っていた思考をリアルへと引き戻して見下ろせばアーサーがいたたまれなさげに此方を見上げていた。


「か、髪が、滅茶苦茶になってるから……!」

「ん? 嗚呼、すまんな。つい夢中になってたわ。」


 少しばかり目尻に水分を残しつつもすっかり涙も止まり一織の止まらない手に困った様子でいたアーサーに、撫でるのを止めた手で今度は上から下へと指の間を通してすき整える。

 擽ったそうに口をもごつかせている彼の様子を横目に見つつも、整えていった髪を最後にもう一度柔く撫でたら「よし」と声に出して終えた事を示す。


「手すきだとやはり限界があるな……今度染料と一緒に櫛も作るか。なァアーサー、これから髪色変えるとしたら何色が良い?」


 自らの腰に手を添えた一織が訊ねれば少し前屈みに猫背なアーサーが一瞬きょとんと呆けるも、自身の前髪の毛先を摘まみ小さく唸った。


「んー……赤?」


 元の髪色だろう。

 思うに、彼が慕うアルクレスとは元々同じだったと言うそれに、半分は何と無くであろう様子に答えたアーサーへ一織は首を横に振った。


「お前にゃ悪いが赤は駄目だ。この世界じゃ赤毛は“勇者の末裔”の証で目立ち易い。それ以外では無いのか? 好きな色とかさ。」

「好き……? 好き、すき……ううん、黄色……、」


 唸りながら頭を捻り左右に揺らしながらアーサーは悶々と悩む。

 軈て考え事に目を閉じしかめていた顔をはたと元に戻すと、ぽつりとそれを口にした。


「黒……母さんと同じ、髪の色。」


 ぼんやりと、それでいて“それが良い”と視線を送った彼に、それを受け取った一織はしかと頷き了承した。


「んじゃ、後で髪を染めような。アーサーは日本人顔……嗚呼否、ポニ人顔だからきっと似合うだろうよ。」


 そう言ってアジアンチックな低い鼻先と常に怠そうで鋭さの無いぱっちりと開いていればくりくりとした目、そして海外の者からすれば年齢を若く見られがちで且つ中性的とも言われる独特な童顔。


 彼の両親を直接見た事がある訳ではないが、イギリスであるイーリシュ人を祖とするらしい所在不明・・・・の“まつろわぬ”民──勇者の末裔たる“ルーチェの民”と呼ばれる謎多き民族。

 その出身である父親とは違うであろうその顔付きは、恐らく異世界から来たと言う日本自身の母親の方に似たのだろう。


 そしてその“光の民”たる末裔達、何処かに在るという彼等の“隠れ里”。 全てを前もって履修して来た一織ですらその民族の情報というのは、叩けど叩けど埃の一欠けも出てきやしない余りにも謎に包まれたものであった。


 そもそもが、始まりの勇者である“アルモニア・ルーチェ”という男とその周りの“兄弟”らしき人物達の情報が、一織の見る本には“隠蔽された情報”である黒塗りばかりで手掛かりが少なすぎるのだ!


 この件に関して彼の周りにいる妖精二つに聞いた際には、驚くべき事に世界を巡る魔力達ですら知るものはいない・・・らしく共に“知らない”の一点張り。

 その理由が──、




『何者かに観測阻害をされ、其れ等に関する情報が悉く秘匿されております。其れが“核”からの妨害なのか、将叉はたまた“地上”からなのかは何とも……。』

『どうやら口止めをされてる子はいるみたい、契約か何かで封じられて明かせないっぽくて全っ然共有させてくれないんですよぅ~! 既に開示されている物語も外野第三者視点ばかりで偏見にまみれてますしぃ、踏み入った情報が無いのに“勇者とその兄弟”視点の話ともなると秘匿痕跡がもっと顕著で手掛かり含め一切合切ナッシング! いやぁ困った困った!』




 ……らしい。


 しかしその前もって手に入れられなかった情報が地上に降りてからと言うものの“ソロモン・デル・スケルトゥール”から始まって“アーサー”と“ニエ”──否。

 “生け贄”と呼ばれていただけで今も昔も・・・・名前の無いの少年、その成れ果てである“名無しの祟り神”から、その情報が漏れ始めたのだ。

 だからこそ、一織は彼等とどう言った理由が在ろうと無かろうと、絶対に近付かなければならなかった。


 彼等を動かせば動かす程に出てくる過去──或いは前世──の話は須く日の元へと露見させていかなければならない。

 そこに一織の望む進むべき方向を定めるに足るものが在るというのならば、恐らく重要人物であろう彼等の情報が隠されたままでは困るからだ。

 それがゲームクリアを目指す為に必要としている、情報収集が完全に出来ているとはなっていないが故に、彼が今最も重要視している目的の一つだ。


 ……只それ以上に、ゲームとは関係無しに一織は“ムキになって”しまう所か、別の手段など彼が考えれば幾らでも思い付くというのにも関わらず数在る内の一つである思惑が外れてしまうとどうしても凄まじく動揺してしまう、ゲームクリアするに不必要であろうと強引にでも彼等に深入りしようとする理由があった。


 その見ていられない程に蔑ろにされている彼等の存在をどうにかしてあの“悪辣な環境や業から脱却”させたい──それが彼の今一番の動力源。

 利用される事も他者と関わる事も嫌い蔑ろにされる事とて許せなかった一織が彼等からそうされても許してしまう他に、既に大人に近い程に大きくなっている身体や生きてきた年数とは関係無しにそれでも子供だからと甘やかす。

 全ての物語を観測をこなしてより必ず救うと決めた、一織が観測する物語の“彼等登場人物”だけに向けた感情移入からの行動理由だった。


 故にこそ、彼の物語に登場人物に足り得ない”モブNPCの名を明かされる事は“絶対に”有り得ない。

 何故ならばそれらは全て“救うに値しない害悪”であるからだ。


 登場人物として“名前”を明かされた者こそ全て救う“神村一織”の絶対救済の物語。




 そして今、長きに渡る自身を蝕む悪夢より漸く彼は“目”を覚ますことが叶った。




 その物語における“救済者セイバー”として、これから世界中を転々とする事となる主人公相棒たる一織の“剣”。

 最強にして“災厄”の勇者の名を冠し人の為に己たる人を捨て、たゆまぬ努力の果てに人の枠を超越した“天才人外”──人にして獣の少年、アーサー・トライデン。


 元は只の人だった彼は魔導書の名を持つ賢者“赤き竜”をその器に埋め込まれてより本来の名を失った偽称の“疑似奉仕人形”。

 そうと定まって決まっていない曖昧不確定な名と数多く付けられた“呼び名”から、奉仕人形の特性故に揺らげば元在る姿に留まれない“無貌”の彼。




 そしてそんな彼の“過去”もまた、全てを事前に履修してきた一織には知る事が“出来なかった”。




「……なァ、アーサー。」

「…うん?」


 春風に靡く肩まで伸びた彼の朱混じりの白銀髪を眺めながら、邪気が滲む“偽りのガワ”を解いた彼に一織は口を開く。


「この前思い出した昔の記憶以外で、他に思い出せた事はないか?」


 一織は物語に“回想”として表現されなければ、隠蔽された事象を知る事が叶わない。

 以前に自ら失くした記憶を思い出したアーサーにまだ開示していない情報があるのだとすれば、彼の“本来の名”を取り戻すに必要な手掛かりを探す為にも一織は知らねばならなかった。


 それには王国の昔話に登場する、今何処にいるのか解らない“蛇”の行方に繋がるものなら尚更。


「んー……。」

「産まれ育った地域の名とか、どの方角から王国に連れ去られたとか……何でも良い。お前の名前を取り戻すのに必要な事かも知れねェから、些細なものでも解るものがあれば……、」

「うーん……解んないな、森で捕まってから気付いたらもう国に連れていかれた後だったから……。」


 そう言って頭をこてんと横に傾けるアーサー。

 警戒心も解けて見せた素の幼顔に、力を抜いて少し伏せがちな目蓋の下には垂れ目の眠気を帯びた赤い目が物を考える度にゆらゆらと視線の先を游がせていた。


「そうか……本名さえ取り戻せば“アーサー・トライデン”として国外追放されたお前でも、国に戻る事が出来ると思ったんだが……これだとまだ先は長そうだな。」


 彼の返答に未だ先は長そうだとつい頭痛を起こしてしまいそうな途方に暮れかけた頭にその言葉を口にすると、眠そうだった眼が少し大きく見開かれて此方を見上げた。

 そして途端に力の籠った眼差しが何もない地べたへと向けられると、それから真剣な顔持ちで思考し始めたアーサーの姿に一織は思わず苦笑してしまう。

 “何とまァ、現金な奴だ”なんて思いつつも額に手を当てて皺が寄りかけていた眉間を揉みながら、はてさてこれからどうしたものかと自身もまた考える。

 すると暫くして唐突にアーサーが「あ」と間抜けた声を溢した。


「ちょっとだけ、昔群れ・・の仲間があの森の名前を言ってたのを思い出したんだけど……、」

「ほうほう…………“群れ”?」


 アーサーの言葉に身を乗り出してその話に耳を傾けた一織だったが、会話に引っ掛かりを覚えて思わず突っ込んでしまう。


「獣達と暮らしてた頃も、僕が仲間の中で一番強かったからね。群れのボスだったんだ。」


 それに“ふふん”と誇らしげに胸を張ったアーサーが得意気にその質問に答える。


「昔は森の外れの人里に近い場所で、ドジって獣獲りの罠で捕まってる子がいたら獣達と一緒に助けに行ったりしたもんだ。元々は母さんがやってて僕はまだ子供で危ないからってさせて貰えなかったけど、母さんが死んだ後で他に出来るのが僕しかいなかったから……。」

「ほう……ほう……! 正に野生児……否、オオカミ少年獣に育てられた人の子だな! くぅっ……ロマン溢れる人生だ、もっとお前の事を知りたくなってしまうじゃねェか……!!」


 彼の解明された新たな過去に、大好きなメルヘン・ファンタジーさを感じ込み上げてくる思いから拳を作って感動にうち震える一織。

 それに戸惑いと気恥ずかしさを感じつつ、延びっぱなしで長く垂れていた揉み上げを人差し指で少量摘まみその毛先をくるくると手遊びしながらアーサーは過去を思い起こすと懐かしげに目を細めた。


ダンサーお調子者ダッシャーおっちょこちょいプランサー元気っ子コメット寝坊助ドナー怒りん坊プリッツェンビビりっ子……嗚呼懐かしいな、今はもういない皆。それから──、」


 アーサーの眩しそうだった眼差しが曇る。

 愛おしげだった温かみのある目が悲しみに暮れたものへと変わると、落ち込む様に低くなった声音がそれを呟いた。


クピードー天使ちゃん……群れの中でまだ一番若い、卵から孵ったばかりの僕の幼馴染み。ええと確か……皆はあの子を“ケティオ”だって言ってたかな。食べるのが大好きな大きな蜥蜴の子だったなぁ。」


 そして彼が頭の中で思い浮かべたのは、靄が立ち込める深い森林。

 そこには切り立った細く高い山々が断崖絶壁を晒しながら木々の合間に点々と立ちはだかり、空気は薄くて常日頃から辺りには霧か雲が漂って視界は悪い。

 その不安定な天候は頻りに雨や風を強く吹かせて木葉や地べたを射っていた。

 高い山を登りそこから見下ろした下界は白雲の海面が漂い揺らぎ、そこを突き出た草木混じりの山の天辺が突き抜け見える絶景は幼心ですらその素晴らしさに胸を打つ程のものだった。


「今も昔も、彼処が何処にあるのかは解らず終いだったけど……一度だけ仲間達があの場所を“そう”呼んでいるのを聞いたことがある。ええと、何て言ってたかな……確か──、」


 静かに自分の話に耳を傾ける一織に游がせていた視線を合わせたアーサーは幼い頃の朧気な記憶を辿りながら、ゆっくりとそれを口にする。




「シンガイ・・・──“深貝の森”、雲海に沈む蜃気楼の松高山。」



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