23.サヨナラ失楽園、知恵の実は死んだ。

 ──どうして。




 自問。


 目の前の惨状に理解し難いと、解りきった答えを持ち合わせているにも関わらず己に問い掛ける。




 ──どうしてッ……!




 再び自問。


 自身の意思とは関係無しに振り上げられた腕と、その身を捧げる様に無防備に差し出された“彼等”の姿。

 次の瞬間にはぐしゃりと肉を潰す感触と、満足そうにっていく命達。

 びしゃりと飛沫が立ち、涙に濡れた頬を赤く染めてたった今まで生きていた事を証明する温もりが外気に触れて、軈てそれもゆっくりと冷めていく。




「国を脅かす“害獣”共だ。鼠一匹残さず、確実に仕留めておけよ。」




 忌々しい男の声が一言命令するだけで勝手に動いてしまう、自分の思い通りに動かなくなってしまったこの身体。

 その後ろには刃こぼれまみれで“切る”事も出来ずに“叩き潰す”事しか出来ない、がらくたみたいな剣で今まで通ってきた道に無数の肉塊を置いていったまま随分と遠くまで来てしまった。




 寒い。

 心が凍えていく──壊れていく。




 震える手先に力を込める事も叶わず、持っていた剣が掌から落ちていく。

 ガランガランとがらくたが地べたで打ち鳴らす音と共に、膝から崩れ落ちてそのままどしゃりと自分の身体は倒れていく。




 身体が軋む。

 全身が痛くて痛くて立つのも辛い。




 少し動かすだけでも激痛が走る……当然だ、身体の中身はぐちゃぐちゃなままくっ付けて維持しているだけだから。

 録な食料を与えられていないから何処も細くて脆いのに、どうしてか飢えで苦しむ思いをした事がない。


 毎日毎晩、拷問拷問。

 いたぶられてなじられて、あの“虫臭い”人達の下卑た声によって胸の奥にどす黒いタールの様なモノを注がれていく感覚に気が遠くなりながら、身体だけでなく自分の内側すら塵が貯まってそれが自分を腐らせていく様に感じる糞みたいな日々。


 もう限界だった。

 外側も内側もボロボロで、視界も今ではぼやけてきてしまいはっきりと見えなくなってきた。


「オイ、何寝てンだ。仕事はまだ終わってねェだろうが……怠けてんじゃねェぞ!!」


 頭に響く怒号、剣の鞘で横殴りされる腹。

 胃の中には何も入っていないから胃液と血だけを吐き出して、あばら骨が折れた感触に腹に力を入れるだけで襲う激痛に笛の様な虫の息みたいな音が口から溢れる。

 それでも“命令”された身体は限界だろうとお構い無しに重たい身体を持ち上げて、意識朦朧な頭を前に向けさせる。


 歩く事もままならないのに、足を引き摺りながら進めさせられていった先。

 そこには帝国・・が“危険”と定めた大型の“魔物害獣”がそこの街の家々を食い荒らして腹を満たしている光景がぼんやりと視界に映る。


 人も鳥も獣達も、あの“怪獣”が如き存在から逃れるべくして街から千々に逃げ去って、自分もまた逃げ出した獣達を手にかけながらその“怪獣”の元へと鈍足に進んでいく。

 もう以前程早く動けなくなってしまった身体では、それが逃げてしまえば足を引き摺ってここまで来た苦労も水の泡となる。




 ……いいや、逃げてくれた方がずっと良い。

 もう彼等を殺したくない。




 彼等を殺すくらいなら、自分が鞭打たれる方がマシだ。

 何度誤魔化そうとして失敗して、その度に幾つも重ね掛けられた“不自由の呪い”の数々。

 お陰で思考するのも意識して動く事もすっかり叶わなくなって、廃人の様にぼんやりと虚を見詰めて虚無に浸る日々。

 起きていても意識はない。

 身体は勝手に動くのだから意識の有り無し関係無し、そんな自分が“目を覚ます”のはいつだって命を刈り取るあの瞬間。




 “憐れみ”の眼差しが自分を見ていた。

 “慈悲”の想いが刃越しに伝わっていた。

 “心配”する気持ちが胸を温めてくれた。


 ──その瞬間、自分に“情”を向けていた彼等が生ゴミみたいな肉塊へと変わっていく。


 ……自分がそうしていたから。




「ああああぁあぁぁッッッ!!!」




 何故、何故、どうして?

 見知らぬ彼等、会ったこともない彼等。

 縁も所縁もない筈の“魔物”達はいつだって自分を味方して、自分が苦しんでいようものなら自ら・・その身を捧げにくる!




 ──寒いのですか?

 ──ならば私の毛皮をどうぞ。


 ──お腹は空いていませんか?

 ──ならば私はこの“想い”を贈りましょう。


 ──受け取ってください、贈らせてください。

 ──嘗ての“貴方”から貰ったこの“ご恩”、

 ──何年経とうと、何代重ねようと私達は忘れません。




 ──どうか御返しさせてください、私達の“救世主様”。




 身に覚えのない話、自分には関わりのない話。

 それでも彼等は見ず知らずの筈な自分に心から尽くしてくれて、無情にも自分はそれを踏みにじっていく。




 助けてくれ、もう誰も傷付けたくない。

 殺してくれ、自ら命を断つ力も残っていない。




 すがるように、死に場所を求めるように向かっていったその先で、巨大な身体を揺すりながら“何もかも”をその口へと放り込み貪るそれの鼻先へと立つ。

 怪獣──“タラスク甲羅を被った蜥蜴”と呼ばれる様になったそれはちっぽけな自分には目もくれず、無心であらゆるものに食らい付いていく。

 その最中、思い出したようにそれは口を天へと向けたかと思えば鯨の声の様な、辺りに重く響く遠吠えを上げた。




「……喧しい化け物め、さっさと殺してしまえ。」




 奴の声が鼓膜を震わせたと同時に頭の中で“弦”が鳴る。

 それに反応して持ち上がる腕。

 見えない糸で動かされているかのような自分の身体に、その時は今まで感じてきた以上の絶望感に身体も頭の中も冷ややかに凍り付かせていく。


「……ゃ、やだ、やめて……やめてくれ……っ!」


 振り絞って出した声。

 その“怪獣”を認識して愕然としていた自分は、振り上げていく自分の手に……無駄だと言うのに制止の声を吐いて出来もしない抵抗に涙する。


 遠吠えが響く。

 鼓膜が震える。

 身体の内側から聞かせてくる音は“寂しさ”と“虚しさ”を孕んでいた。


 その意味が解る自分には“彼女”が──親を呼ぶ“雛”が寂しがって出す声だって直ぐに理解出来た。


「嫌だぁっ……殺したくない、やめて、やめてくれっ………彼女は、あの子は……!!」


 それは知っている“子”だった。

 姿形は変わっていたけれども、自分の“目”が彼女の本来の姿──否、姿が変わる生まれ変わる前の姿を映しているのだから解らない筈がなかった。




 嘗ての故郷、彼女がまだ卵だった頃から一緒だった女の子。

 無邪気で明るくって、共に野山を駆け回って遊んだあの子。

 あの日焼かれた森と共に焼け死んだ、妹の様な存在だった子。




「クピドー……!」




 甘えん坊で雛みたいなぴぃぴぃと鳴く声が愛おしくて堪らない、天使みたいに可愛くて仕方がなかった蜥蜴の子。

 最後彼女を抱き上げた時、お互い立っていて同じ目線の高さだというのに地に尾の先が付く様に「もう同じくらいの背丈だね」って笑いあっていた。

 その時に手に触れた、固くてゴツゴツとした甲羅の様な彼女の鱗の感触は今でもこの手は覚えている。


 その生まれ変わりが今目の前にいて、それを、自分は──、






 ──真っ二つ、縦に裂いた。






「なんだ。お前、まだそれだけの力を残していたんだな。」


 ぽつりと感情の乗っていない声音が、静かになった空間に小さく響く。


 視界の先で地べたに突っ伏して動かなくなった丸太の様なそれに、ゆっくりと足を進めて近付いていく。

 只そこまでに行く道程で怪物の血液で出来た小さな池がそれの周りを埋め尽くしていた。

 以前までは自分の手や服を汚すのも不快で嫌で全て周りの誰かに任せていたけれども、今ではもう何も気にならない。

 何ならもう観客ギャラリーもいなくなった世界で“繕う”必要もないのだからと仮初めの仮面を外して、無感情な自分を表に出した彼は不快感を忘れたままに躊躇いもなくそこに足を付け入れていった。


「魔物に情を掛けるからそんなに苦しむ羽目になるんだってのに、最期まで懲りない奴だったな。」


 ねちゃり、ねちゃり、と粘着質な水音が響く中で漸く辿り着いた“自分の犬”の死骸の元。

 それを静かに見下ろしていた彼は徐に跪くと、血溜まりに浸って真っ赤に染まっている身体をまるで割れ物を触れる様にしてそっと抱き起こした。

 身体はぐったりと力を失くし、痩せ細った身体はとても軽い。

 事切れて色を失い虚を映している瞳の、感情が亡くなったその顔を長い間じっと見詰めていると、彼はそっとその額に頬擦った。


「漸く……俺と同じ所まで堕ちてきてくれたな、アーサー。」


 そう呟いた彼は物言わぬ死骸の髪を愛おしげに撫でた。






 同じ“勇者の末裔”の彼。

 同じ“余所から連れてこられたはぐれ者”の彼。

 同じ“王宮の厄介者”の彼。




 始めは只“痛め付けて遊ぶ”に使って良いと言われて何が楽しいのか解らずとも自分を良くしてくれていた“優しい”大人達に従って、まるで獲物を罠に誘導する様なスリルのある戯れに大人達が見守ってくれている中で出会ったその“犬”。


 互いに似た年代の子供同士、警戒こそされていたものの何を話しても返答の無いその相手に気の短い自分は遂にまどろっこしくなって無理矢理にその手を引いた。

 戸惑いと足枷に覚束無い背後の足取りに気遣うなんて事はなく、そのまま牢を出て王宮の外へと繋がる裏口の見える場所まで連れていくとその“犬”は驚いた様子で外の光景に目を丸くしていた。

 それでもまだ意図が伝わっていないのか、罠のある出口を指差せば“犬”は迷っていた様ではあったが軈て振り返る事もなく走り出した。


 その後に聞こえた子供の悲鳴。

 目の前で出口を潜ろうとした瞬間に身体を痙攣させて、魚みたいに地べたをのたうち回る姿を晒す光景に思わず吹き出した。


 なんだあれ! スッゴく間抜けだ!


 そして大人達がぞろぞろと現れて“脱走しようとした”その間抜けにお仕置きだと殴り蹴りと痛め付けている様に、彼等が愉しげにボールを蹴るみたく遊んでいるのと自分は上手く騙せた事が嬉しい事で、余りにも愉快に思えて大きな声を上げて腹を抱え笑ってしまった。




 ──間抜けは自分の方だと言うことも知らないで。




 あの頃はまだ国に来てばかりの頃で、勇者の伝承の“真実”を知らなかった。

 勇者の末裔である自分を誇りに思い、そんな自分が故郷を離れ勇者発祥の地で“王族”として迎え入れられる事に胸を踊らせていた日々。

 周りの大人達はいつも自分と傍にいてくれて何かと気にかけてくれていたお陰かホームシックを感じる事もなく、王宮には生まれてから一度も顔を合わせた事もない母がいる事もあって寂しいと思う事もなかった。


 只、軈て自分は国のトップになるのだからと毎日毎日勉強勉強、剣の稽古や護身術の訓練だのと嫌な事やら面倒な事を押し付けられてばかり。

 遂には授業を抜け出して王宮の中をあちこち逃げ隠れして回り、大人達を呆れさせていった。

 次第に周りからは大人達は離れていき、父親からは元より見向きもされておらずに母親の姿は一向に見掛けられない。


 その癖に父親といつも隣にいるのは、あのズタボロな枷まみれな“犬”。

 皆そちらの方ばかり行って、自分は一人取り残されて蚊帳の外。

 “勇者の末裔”というだけの自分よりも“末裔であり勇者”の奴ばかり周りには人がいて、それが何故そんな冷遇を受けているかなんて事を考える事もなく只々“あっちばかり人がいてズルい”と見当違いな嫉妬心に囚われていた。


 しかし、それも軈て理解する様になっていく。


 時間が経つに連れ、大人になっていくに連れてその王宮の“本来の姿”を徐々に徐々にと目の当たりにしていく。




 少し失態をしただけで跳ね飛ばされる使用人の生首。

 人とも獣とも違う扱いで、玩具の様に戯れに見世物みたく痛め付けられている魔人の奴隷達。

 退屈だからと軍を起こして暇潰しに近隣諸国に多勢に無勢で攻めさせる国王の父親。

 そんな父親に来日も来日も代わる代わるに寄越される、夜伽相手に選ばれたどこから来たのかも解らない見知らぬ女達。

 そして一向に姿を見せない母親はと言えば、妹のミネルヴァを出産して以来ずっと自室に籠ったまま誰にも会わずに塞ぎ混んでいるという噂。




 おかしな国だと思った。

 変な国だと思った。


 そんな中で今まで聞き及んでいた“勇者の伝承”とはまた違う、王宮内でだけ密やかに伝えられている“真実の伝承”を聞いて自分は愕然とする事となる。






 *****






 ──昔々、魔王は勇者に倒されました。


 春風の勇者は皆の人気者、皆に愛され皆を愛した博愛の人。

 国の王様と親友で、王様の大事な“妹”のお姫様と結婚を約束する程におしどり仲良し!


 しかし結婚間近に国中では疫病が流行り、死神の様な“蛇”の魔王が虎視眈々と人々の魂を貪ろうと地中奥深くから私達を狙っているという噂が立ち込める。


 そこで立ち上がった勇者様。

 仲良しの王様と共に地中奥深くの“祠”へ向かい、激しい死闘の末に見事魔王は倒された!


 それと一緒に死んじゃった勇者様。


 親友の王様を護る為に身を挺して大怪我。

 血はだくだく、助からなかった。


 だから王様は誓います。


 亡き親友の為、生涯目に映る全ての魔物は駆逐しよう!

 このような悲惨な想いを二度としないように。

 恐ろしき魔物達に我等人類が脅かされずに、平穏無事に暮らせる未来を手にする為に!


 誓おう、我が友“アルモニア・ルーチェ”!

 生涯一滴も血を流さずして人々に平和をもたらした心優しき“不殺”の勇者よ、我が国“スケルトゥール”の英雄として此処に永久に刻もう!






 *****






 勇者は魔王の傘下だった。

 血を流さない?

 ずっと魔物を庇っていたからだ。

 魔王に振り翳した王様の刃、その時に身を挺して防いだのが勇者だった。


 裏切り者、人類の敵、魔王の手先。


 そんな存在だったなんて、彼を慕う国民に真実を伝えるのは酷だからと王宮内の者だけで内密に、そして忘れぬようにと心に刻む。


 奴は敵だ、尋常ならざる力を持つ者。

 奴は怪物だ、人間の見た目に騙されるな。

 “勇者”の子孫を駆逐しろ、奴は数多くの女を誑かした悪漢。


 排除しろ、排除しろ、化物を受け入れるな。


 “奴”を連れてきた“赤ローブレッドキャップの悪魔”も同罪だ。

 兄ならば“責任”を取れ、弟の“不始末”を精算せよ。


 疫病撒き散らしに国に忍び込んだ“赤き悪魔”。

 “勇者”の首を跳ねた後自害した。




 魔王は去って悪魔も消えた。

 手先も居なくなった事で国はより一層安全になった。

 人々は喜びました、よかったね。

 

 めでたし、めでたし。






 *****






 国に伝わる伝承。

 王宮外と王宮内で天と地の差程に内容ががらりと変わる、スケルトゥールが国として成り立ったばかりの頃の昔話。




 自分は何も誇れるような者ではなかったのだ。




 それを知ってから自分は他人を恐れる様になった。


 “優しい”大人達なんていなかった、内心ではずっと自分を蔑んでいたんだ!

 滑稽だっただろう、自分が特別だと思い込んで偉ぶる子供が、本当は“裏切り者”という不名誉でしかないレッテル付きの子孫だというのに。


 人は見掛けとその内心は釣り合っていない。

 それを知ってからというものの、人の様子を見て相手が自分をどう思っているのかを闇雲に予測した。

 相手が不振な行動すれば王族の権力を持ってして、何なら有りもしない罪を擦り付けたりもして無理矢理に自分の周りから排除する。


 すると皆々自分を怯えた、恐怖して跪いた──いいぞ、それで良い。

 近付いて害をなそうものなら此方には“権力武器”がある、誰にも見下されるものか!

 自分は上に立つものなのだからと、害をなそうとする“愚か者”への牽制に酷く躍起になっていた。


 そんな自分に父親がくれたもの、それは“黒い精霊”。


 困った時はそれに願えば助言をくれると言う、どんな願いをも叶えてくれる素敵な存在。

 それを手に入れてからというものの、自分はあらゆる事にそれを頼りすがった。


 国の法律の見直し、国民の統治の仕方、戦争での勝つ為の戦略。


 今まで勉強もしてこなかったのだから解る筈もないそれを、その精霊に“考える事”を全部丸投げ。

 何だって良い案をくれるその存在に頼りきりとなって、楽な方へ楽な方へと自分の身を転がらせていった。

 するとどうだろう、皆が自分を見直して褒め称えるようになっていった。

 精霊から教えてもらった事をそのまま伝えただけだというのに、周りの人達は「素晴らしい!」「何と言う御名案!」と持ち上げに持ち上げて、良い気になった自分はそれを自分“だけ”の功績にして賛辞を受け取った。




 これで自分は誇れる人間になれた、皆が認める“上”の人間だ!




 そしてまた自分は精霊に任せて、放り投げて、知らんぷりして……いつからだろうか、気付けば知らない出来事が多くなっていった。

 先程まで自室で本を読んでいた筈が、いつの間にか食卓で父親と食事をしている。

 廊下を歩いていると見知らぬ人から身に覚えのない事で誉められる。

 戦争が決まったかと思えば、次の瞬間には「もう終わりました」……と。


 精霊に任せていたから、精霊が自分の身体を使っていつの間にか様々な事を行い進めていたのだった。


 それに気付いてから途端に精霊の事が怖くなり、乗っ取られてしまう! と恐れた自分は誰かに相談しようにも誰に言えば良いのか解らない。

 この人なら解ってくれる筈! と嘗て自分の教師を受け持っていた一番一緒にいたその人の元へ向かい、泣いてすがりたい思いで相談するとその人は穏やかに微笑んで「大丈夫ですよ、私がいます」と声をかけてくれた。


 それに安心して彼に任せてどうにか事が上手くいきますように……と願っていたのも束の間、それから王宮の様子ががらりと自分に向ける“顔色”を変えた。




「小賢しい餓鬼め。」

「精霊様の名誉を全て一人占めしていたらしい。」

「やはり“勇者の末裔”は姑息な者ばかりだ。」

「スケルトゥール王族の恥晒しめ、身の程を弁えろ。」




 狐仮虎威、そのツケだ。

 自分が今までしてきた事が、周りに全て知れ渡っていた。




 それからは意識がある時は部屋に閉じ籠もり誰とも会わず、精霊が出先で意識を自分へと戻した時には精霊のフリをして内心ヒヤヒヤと焦り戸惑いながらもその場をしのぎ続けた。

 自分の時はあれ程恐ろしい目付きで睨む彼等は、精霊のフリをしている時はニコニコと、手をこねゴマ擦りへりくだってご機嫌取りに夢中。

 それを精霊らしくあしらって、誰も自分の名前を呼ばなくなった王宮で自室に籠る以外で自分が自ら向かうようになったのはあの“地下牢”。


 そこに行けば自分を唯一“アルクレス”と呼んで、唯一自分を自分としか見ないその存在にすがるようにしてその“犬”の元へと足繁く通う。


 向けられるのは今も昔も変わらない“憎悪”と“嫌悪”の敵意の眼差し。

 それも近付けばびくりと肩を跳ねさせ、直ぐ様逸らされた視線に身体はガタガタと震え上がって歯が鳴る音が牢屋に響く。


 近付く自分の手には鞭。

 今日も今日とて言うことを聞かなかった“魔物を庇った”役立たずの犬に躾の為の“フリ”で八つ当たり。

 それを振り上げた。


 バチンッ! バシンッ!


 皮膚が叩き付けられる音。

 みみず腫れ、皮膚が裂けて血が飛び散る。


 悲鳴が鼓膜を震わせる度に、自分はまだ落ちぶれていない、まだ底辺じゃないと悦に入りながら自分をそう思い込ませる。

 だってその犬だけがちっぽけな自分を恐れてくれる。

 まだ自分は上に立つ人間だと思わせてくれるのだから、すがりたい・・・・・と思うのは当然だろう?


 似たような立場からスタートした者同士。

 自分は王族、お前は勇者。

 似ているくらいで同じではないから違いはあったけれど、同じ想いをする“同志”が欲しくて仕方がない自分は、街では賛辞され、何故だか魔物達に好かれているらしいそいつを、自分と同じ場所まで突き落とさなくては……そんな想いに駆られて夢中になっていたぶった。




 他人にすがってばかりで惨めな自分。

 他人のフリをしなくては人前へ出られない自分。

 痛いのも怖い思いをするのも嫌で、全てから逃げ出した情けない自分。




 逃げ出せれずに囚われたまま、下手な工作で魔物を逃がそうとしては呪いを重ね掛けされていく日に日に意識がなくなっていくその犬。


 自分はそんなボロ雑巾みたいな奴ですら、憧れていたあの心優しい“不殺の勇者”を思い起こして眩しくて憎くて仕方がなかった。


 どうしてそんな、気高くあれるのか。

 自分を無下にしてでも誰かを庇う、そんな“面倒”な事自分はしたくもないししようと思ったこともない。

 だって痛いのは嫌だ、苦しいのも嫌だ。

 辛いのなんて御免だ、避けられるものなら避け続けたい。




 だからお前も俺と同じ様になってくれ──惨めな存在にまで堕ちてくれ。




 そう願いながらずっと、その誇り高き自分だけの“勇者”を痛め苦しめ、何度と絶望を重ね与え続けてきた。






 段々と冷たくなっていく身体をぎゅうと抱き締めて初めて・・・ちゃんと触れた彼の残っている温もりを感じ入る。

 その犬の周りにはもう誰もいない、自分と同じ一人ぼっち。

 力も失くして全てを投げ出し、何も出来ない木偶人形にまで堕ちてくれた自分だけの“犬”。


 それをすがるように抱き締めたまま、ふと“何か”がおかしい事に気付いてそれから顔を離す。


「…………違う、全然一緒じゃない。」


 離した腕、バシャンと跳ね上がる血飛沫。

 立ち上がっては横たわるそれを呆然と眺めていた彼は、軈てそれから意識を逸らして上を見上げた。


 彼の眼前には山の如き巨大な怪獣が、文字通り綺麗に真っ二つに裂けて谷を作っている光景。

 あのがらくたみたいな剣で“渾身の一撃”を奮った瞬間、あの怪獣に一切の痛みも与える事も無く一瞬で命を断たせた。

 その時にあの犬は全ての力を出し切って息絶えたのだ──死ぬ間際ですらその犬は気高いままだった。

 だからこそボロ雑巾の様に血と泥に濡れて打ち捨てられているそれに対して、彼は“惨めだ”とは思えない、思える筈がなかった。




 だってあの犬は……アーサーは自分の“英雄ヒーロー”のままだったから。




 例え操られていたからだとしても、どんなに尽くしても誰にも認められなかった、国では裏切り者の勇者と罵られいたぶられていた彼。

 何とかしてでもと魔物を逃そうとして何度と傷を負わせても身を呈して庇い、意識を失ってでも諦めなかった彼。

 最期まで傀儡の縛りに身を委ねる事もなく抗い続け、自身が殺してしまった相手を想う事の出来る誰よりも人間らしかった彼。




 彼奴以外でそんな奴は知らない。

 周りにはいたぶって喜び楽しむ奴ばかり。

 だからこそ彼──アルクレスにはアーサーが眩しくて仕方がなかった。


 今までならきっとすがりたいものを失ってしまった事で絶望感に浸っていただろう、だって同じになれぬままそれは死んでしまった。

 只、それももう叶わないらしい。

 気分が晴れやかになる事も、憂いを覚える事もなく、只々憐れに想う──何て事もない。


 くるりと踵を返して“興味を失った”とばかりに去っていく。




「もうどうでも良いや。どうにでもなってしまえ。」




 それを呟きながら、遠くで軋む音が聞こえた気がした。

 世界が終わる音だ。


 がらがらと天井が崩れ行く様に空が“墜ちて”くる。

 大地が裂けてぐるぐると掻き回わすように形を壊した途端に地中からはマグマが噴き出しては大地を粟立てていく。


 それはまるで小瓶に入ったジャムをスプーンで回すような光景。

 固さも大きさも関係無く、見えない力で何もかもを台無しにされていく様を空よりも狭く、大地よりも小さな彼は特に何を思うでもなく横目で眺めては無視して歩いた。


「……何も思えないと言うのは退屈だ、死んでいるのと大して変わらない。」


 足を進めていった目の前で、割れた大地が……今まで平淡だった道に巨大な谷を作っていた。

 その先に見えるのは“何もない”。

 虚のような、色が有るのかどうかすら名状しがたい虚無の空間に、崩れ掻き回された大地や空の残骸が呑み込まれていく。


 それに恐怖することが出来たらどんなに良かった事だろう。

 今はもう恐怖心も、愛着も、後悔も、喜び、悲しみ、怒り……全ての感情が抜け落ちてしまった。




 心が死んでしまったんだ、もう何も感じられない。

 唯一残ったのは“虚無感”だけ。


 あの精霊に“全部”任せたから、一喜一憂の感情すらも疎くなって“全部”渡してしまった。




「それがお前と同じ“死人”同然なら、一層の事静かに眠らせてくれよ。俺はもう疲れた。もうお前もいないのに、俺を見る者だってもう一人も居ないのに……代わりの道化を演じる事だって億劫で仕方がない。」


 それをぼんやりと眺めていた彼──アルクレスはそう呟く。

 そして“自害を防ぐ呪い”から逃れる様に偶々を装いつつ崖の端を敢えて歩いて行けば、いつ崩れてもおかしくないそこを恐れも無く躊躇する事も無く進んでいく。

 自分は只歩いているだけ、もし崩れて落ちてしまっても“足場が悪かった”だけなのだから自害したとは言い難い。


 案の定、踏み締めた崖の先端はガラリと崩れて彼の身体は谷底へと向かって放り出される。




「悪いなもう一人の自分……俺はきっと、今とは違う世界線でもお前の作る地獄楽園へはいけない。生きているからこそお前の“愛情慈悲”を受け入れられないんだよ。意思中身の無い人形みたく丁寧大切に棚に並べられるのは御免なんだ。」




 もう一人の自分──黒い精霊。

 それは自分自身でなければどれ程気に入ろうが慈しむ事もままならない、どうしようもない程に不器用な者だった。

 自分は何故だか気に入られてしまったから偉く取り入ってくれていたその存在は、酷く“逆さま”を体現していて始めは面食らったものだ。

 それを“自分だと思う”ことで漸く会話が“ひっくり返らない”事に気付いてからは、それからはやっとまともに付き合っていく事が出来たのだけれども……それでもそうじゃない周りは上手くいかない。


 気に入っているもの程痛め付け、嫌悪するもの程温厚で人柄が良い。

 言う事為す事全てが真逆な癖してそれは人前でだけ。

 一人の時は正常でいられるから端から見ればその落差が激しく掴みにくい。

 だからこそ、彼奴には理解してやれる“もう一人の自分”がいなくては誰とも上手く関わる事も出来ない──そんな“自分”以外を受け付けられない孤独な“何か”だった。


 全てを投げ出して任せっきりにしていた自分だけれども、それでも多少なりとも彼の“為”にはなれたらしい。

 それでか、どうにもやり過ぎなくらいに自分に尽くしてくれていた彼だが……正直彼が求める様には自分は成れない。


 耐えられないんだ、心を失ったまま“生きながら死に続ける”のは。


 元より苦痛を嫌う自分だ。

 何を目指して“意思のない人形”を集めているのかは解らないが、どうしたって只の人間でしかない自分にはついていける筈もない。


 だからこそ、今もこうやって逃げてしまうのだから。




「……先に逝かせて貰うよ、おやすみなさい──。」




 既に居ない者へ対してそう言い残すと、彼は漸く手に入れた束の間の平穏にそっと目蓋の暗幕を幕下ろしていく。


 只それも──自らが名付けた者より遅かったから、死ぬ事が叶わないまま世界と共に流転して結局彼も眠ることは叶わなかったが。






 そんな【逝き損ないの生き止まりな男】の話。

 励まぬ怠惰と嫉妬心で身を滅ぼした愚か者の末路の一つ。






 そして……悲しいかな。

 子は親より先に命を落とせばその“親不孝者”の子供は三途の川、その傍らに在る“賽の河原”にて贖罪の業石積みの刑へと囚われる事になる。

 その親が“名付け”のものであってもそれが親である事に変わりはない、そう既に定めらていた元よりある仕組みは変わらぬままに。


 それを最後まで果たし“石の塔”を完成させて新しい自分へと変わる──生まれ変わる事は赦されない。




 それが、報われる事の無い努力であっても。






 *****






 胡座をかいて立てた肘杖。

 そこに頬を乗せて眺めていたのは、目の前で顔を綻ばせて自身の膝の上で心地好さげに溶けている大型の“鳥”を撫でまくっている、ふやけ顔のアーサーの姿。


「はわ……な、何と言う天国ヘヴン……どうしましょう、私とも在ろう者がこんなにもみっともなく、溶けている姿を晒してしまうだなんてっ……!」

「ふふ……此処かな、此処が気持ちいいのかな? …嗚呼……立派な嘴、柔らかでドレスみたいなふくよかな身体……うん、とても素敵だ。艶やかな体羽はオニキスの宝石みたいで撫で心地も本当に最ッ高……ううん、惚れ惚れしちゃう……。」


 懐でうっとりと堪能している彼女──モーガンに歯が浮く様な口説き文句をつらつらと述べては抱き締めて頬擦るアーサー。

 先程まであれ程拒絶しつつも渋々受けていた彼女は今ではすっかりと絆されてしまい、頭を撫でられても恍惚の表情で彼の手に擦り寄ってすらいる。


「……良いなぁ……。」


 その仲良さげな様子にすっかり蚊帳の外で、何とも言えない表情を浮かべていた一織がぽつりとそう溢せば今彼の存在に気付いたみたく顔をあげてはしかめたアーサーが低く呟いた。


「……まだいたの?」

「ずーっと居ましたとも。……お前ら夢中でイチャイチャとまァ人前で見せびらかしてくれやがって、放ったらかしにされてる俺が可哀想だと思わんのか。」

「知らない。どうでも良い。貴方に用事はないから向こう行ってれば?」


 人が相手か、獣が相手か。

 それだけでこうも態度が変わってしまうアーサーからの冷たい対応に内心ドでかい槍がグサリと刺さった様な気がしないでもない。

 ……が、何のこれしき、へこたれないぞと奮い立たせて立ち上がると眼下の一人と一羽を見下ろした。


「──さて、そろそろ俺の小鳥を返して貰おうか。まだまだやるべき事は山積みだからな。」


 そう言えば示し会わせた様にアーサーの膝から降りたモーガンは、名残惜しげな眼差しを送る背後の人物には背を向けたままにてちてちと身体を揺らしながら一織の元へと向かっていく。

 そんなモーガンを抱き上げた腕の中で“ペンギン”から“本”へと変貌したその表紙を、一織は軽く撫でた後にパラリと頁を捲り始める。

 中身のある頁の一番最後に辿り着けば、そこにはリアルタイムで誰かの物語が綴られているらしい線が滲む様が視界に映った。


「この後も問題無く行ければ良いんだが──、」

「煩いなぁもう!! 良い加減にしてよ、おれの事はもう放って置いてよ!!」


 一人言の最中に遠くから怒鳴り声が響いて、一織は思わず口を閉じアーサーはびくりと肩を揺らした。

 なんだ? と首を傾げるよりも先にそちらへと視線を向ければ、ロヴィオと子供が相対し片や怒りと涙目に身体を戦慄かせ、もう片方はと言えば心配そうな様子で何か説得するように念話を送っているらしい。

 しかしそれも焼け石に水だったらしく、寧ろ火に油を注でしまった様だ。


「じゃあ何で言ってくれなかったの!? 教えてくれたらおれだって我慢したのに……ロヴィが苦しんでる事知ってたらおれだって、おれだって……!!」


 狼竜の念話はあの子供にしか向けられていなかったので、彼が何を言っていたのかは此方には解らない。

 それでもそれがどういった内容なのか何と無く察せられる、その子供の悲痛な叫びにロヴィオは只項垂れてしまうだけ。


 その様子に身に覚えのある一織は本を見ずともロヴィオがあの子供に言おうとしている事に予測がついてしまい、不快感露に眉間に皺を寄せた。

 一織の想像通りに彼が言うとすれば、きっとこう言うのだろう。




 “それで御前の助けになれるのならば、自分はどうなったって構わない。”




「ふざけるなッッ!! 誰がそんな事を求めるかッッ!!!」




 ダンッ!

 子供が思い切りに力強く足を踏み鳴らす。

 今にも泣きそうな顔で、怒りを滲ませ、やるせない想いに呻きと共に地団駄を踏む。

 そんな彼に近付こうとするも二の足を踏んで憚ってしまい、ロヴィオは子供の傍に行けず仕舞いになる。

 そして散々むしゃくしゃする感情に当たり所もないまま足踏みしては気分は全く晴れぬまま。

 遂にはしゃがみこんでしまった子供が頭の下に腕組んだその裾に目元を押し付けながら身体を縮込ませると、絞り出す様にか細い声を溢した。


「……おれがそんなにキミの重荷になってたんなら、一層の事捨てられた方がマシだよ……っ。」


 子供はそう言うと、丸めた背中を震わせて声を押し殺しながら啜り泣き始めてしまった。

 そこで漸く脚を進める様になったロヴィオは彼の傍に寄るも、和装の揺蕩う袖で振り払われてしまいたたらを踏む事となる。


 どうにも出来ずに何をしてやれば良いのかも解らず、少し離れた傍で腰を下ろし泣きじゃくっている子供の様子を眺めているだけで途方に暮れているロヴィオ。

 全てはその子供の為にしていた事なのに、当の本人から拒絶されてしまって“ならば代わりに何をしてやれば良いのだろう?”とにっちもさっちもいかなくなってしまった現状に彼は項垂れてしまう。


 そうこう考えている内に声を噛み殺していた子供が一際大きく呻くと、頭を掻き乱しては弾ける様に走り出して森の中へと走り去って行ってしまった。

 それに直ぐ後ろをロヴィオが追い掛けて行く。




「──不味いな。」




 ぼそりと呟かれた些細な声。

 彼等のその様子を遠巻きに眺めていた外野の者達の中で小さくも聞こえた声に、それに反応してゆっくりと顔を持ち上げられる柘榴の瞳が背の高い彼を見詰めて細められる。


「……引き留めた方が良いの?」

「そうだな。片や世界中の何処にでも瞬時に飛べる獣、片や“姿を消してしまえば誰にも見付けられない”者だ。」


 アーサーの問いに一織は躊躇い無く答える。


「今此処で見失えば次の邂逅がいつになるか解らん。しかも彼奴、ロヴィオ・ヴォルグに関しては急を要する程に危うい状態だ──いつ死んでもおかしくない程に。」


 パラリと捲りあげた頁に書かれた想像通りの文章を睨み付け、その不快感に一織は顔をしかめる。

 その様子をじっと見詰めてたアーサーは視線を彼等が去った方へと向けると「……よっこいしょ」と小さく呟きながら立ち上がる。

 ストレッチに肩を伸ばし膝の屈伸運動をしつつ、本と睨めっこして何やら考え事をしているらしい一織へと声を投げ掛けた。


「良いよ、僕が利用“されて”あげる。……彼奴等を捕まえれば良いんでしょう?」


 “不味い”状況だと口にしながらどうも動く気配の無い彼に、ならば丁度良い・・・・と腰を上げたアーサーは足を交互に伸ばしながら軈て身体を解し終えると一息吐いた。


「嗚呼、そのつもりだったとも。もう随分と距離が離れてしまってるが……行けるか? アーサー。」


 パタンと閉じた本を肩に乗せ、腰に手を置いてしたり顔を浮かべる一織に“ハッ”と鼻で笑い飛ばしたアーサーが身を屈めて足に力を込めた。




「──この程度の距離、直ぐ手が届くとも。」




 砂利が踏みにじられる音と共に“ドンッ”と破裂音が如く空を裂く轟音が辺りに響き渡る。

 辺りには疾風が吹きすさび砂埃が巻き上げられる中でアーサーの姿は一瞬にして消え去った。


 一瞬残像の様に前に向かっていった様なものは見えたけれどもそれ以上は目で追いきれず、その場に残っていた彼が立っていた場所──蹴る力に耐えきれず抉り取られた地べたの小さなクレーターを眺めて、一織は改めて目の当たりにした彼の素早さに関心の余り口笛を吹いた。


「さっすが、最強を誇るだけはあるな。これは確かに“直ぐに”距離は詰められるだろうな。」


 そして彼が向かった先へと視線を向ける。

 自分には見えないこの先の彼等の行方に、ある程度予測を付けていた彼は自分と本以外誰も居なくなったその森の中の広場にて、誰に言うでもなくぽつりと一人呟いた。




「只な、俺はお前を利用する事には肯定したが……別に“捕まえろ”とは言ってないんだぜ──手が届く筈ないからな。」




 その言葉は誰に届くこともない。


 一織は後で見る事になるであろうアーサーの不貞腐れ顔を想像して苦笑しつつも、彼等よりもずっと遅い平凡かつ人並みの足取りでその後ろを追い掛けるべく足を前へと踏み出した。






 *****






 駆ける。

 駆ける。


 空を切って、風を裂いて。

 木々の合間を縫って、見える視界から瞬時に最短ルートを模索→確定させていく。


 いつもの街中、王宮よりもずっと、障害物が多い人の手が入っていない森の中。

 鼻腔を擽る草木の香りに懐かしさを覚えながら、口元には思わず笑みが浮かぶ。




 動きやすい──建物の上を駆けるよりずっと。

 走りやすい──胸が踊る、まるで昔の様だ。




 身体を屈めては空気抵抗を減らし、軈て“面倒になって”走りながら地に手を付いた。




 駆ける。

 駆ける。


 まるで人とは思えない“四足歩行”の獣が走る姿。


 眼前立ちはだかる草木を潜り抜けて、まるで一直線の道をひたすらに走るみたく障害物などものともせずに“獲物”の元へと距離を詰めていく。




「──見付けた。」




 何て事無い距離。

 直ぐに見えた彼等の後ろ姿。


 飯事みたいな幼稚な速度で前を歩いてるようなその“獲物”との距離に、一際強く大地を蹴って一気にそこへと詰め寄った。






 *****






「──何……!?」


 バッと振り返った涙混じりの顔。

 目尻を流れ落ちる黒い水を脱ぐって汚した頬を引き釣らせた子供は、聞こえた足音と急速に詰め寄ってくる“存在”に直ぐ様感知する。

 そして身を強張らせると共に無性に震え始めた事で、外気温の熱に左右されない筈の感覚のない作り物の身体を抱き締めた。


『おい、おい小僧! 一体何処へ行こうと──、』


 直ぐ隣で並んで走っていた、自分が振り払える筈もないヒトが何度と頭の中へと自分に声をかけてくる。

 それとは別に迫り来る足音の振動を聞き取った耳からは、身体の奥底より溢れだしてくる“その感情”に身体を内側から凍えさせていく。


「ロヴィ、ロヴィッ……! 助けて、追い掛けられてる! 怖いよぉっ……!!」


 今まで散々無視してきて、もう見放されても良いとすら思っていたのに“何かが迫ってくる”事にどうしようもなく“恐怖心”が沸き立って仕方無い。

 形振り構わずそう彼に助けを求めると、優しい彼は自分を背中に乗せて自分が地べたを跳ねるよりもずっと早く、風になるみたく駆け始めた。


 それでも後ろから聞こえる足音は距離を離す何て事はなく、寧ろ此方よりもずっと早く迫ってくる事に聴覚だけで感じ取れる子供は青ざめたまま、獣の背中の上で身体を抱えて縮込ませてガタガタと震える。


「怖い、怖い、追いつかれちゃう、捕まっちゃう……!!」


 身に覚えの無いトラウマ。

 生まれた頃からなのかどうなのかは解らないが、自由の身となってから初めて自覚した自身が“最も恐怖する”事象。




 何かに“追われる”事。

 只それだけで身がすくみ“自分は逃れられない”と思わざるを得なくなる反射的恐怖心。




 足音が近くなる。

 振り返らずとも“直ぐそこ”にいることは解る。

 見てしまえば気が狂ってしまいそうな、そんな気がしてならないからこそ振り返って確認する事も出来ない。

 そして恐怖心が最絶頂にまで膨れ上がった彼は後先考える事も出来ずに無我夢中でそれを叫んだ。




「逃げて!! 何だって良い、何処か遠いところに連れてって!!」




 その瞬間、彼の言葉に応えるべくしてその獣は子の願いを叶える為だけに、残り僅かな力を振り絞ってその姿を消した。






 *****






 後数キロ、後数メートル。

 視界に捕らえた獲物に狙いを定めて瞬く間に距離を詰めていく。


 もうそれは目と鼻の先、手を伸ばせば届く距離。

 そこで伸ばした捕獲の為の掌を翳した瞬間、脳裏に報せる“アラーム”の指令。




 ──それは目障りな害虫、即刻殺せ。




 ビキッと関節が鳴る、手に力が入る音。


 忘れていた、事柄を覚えていないけれども残していた自分への命令。

 今なら邪魔はない、仕留めるのは今──!


 そして隠し通していた殺気は弾けて姿を現し、命を刈り取るべくしてあともう数センチ──、




 ──と思ったら、それは目の前で姿を消した。




「──は?」


 間抜けな声が自身の口から溢れる。

 その瞬間跳ね上げてきたスピードを殺せないままに不時着した身体は地べたを勢い良く転がった。

 向かう先々で幾つもの木々を薙ぎ倒し、地面を抉り、そして何キロもの距離を勢いを打ち消すことも叶わないでゴロゴロと受け身を取れなかった身体は跳ね転がり続けていく。




 ──ッドオオオン




 ……漸く止まった身体は行き着いた行き止まり、崖の壁への激突。

 岩肌の横っ腹にクレーターを作りながらその中心で目をぱちくりさせながらアーサーはひっくり返り、事態を飲み込めないままにキョトンと呆けた。


「…………え? なんで?」


 足音は立てていない。

 元より癖なのだから気にするまでもなく、足枷に繋がる鎖もない今静かに忍び寄る事くらいは出来ていた筈。

 向こうとて気付いている筈がない。

 向こうが視認する前よりずっと早く距離を詰めていたから、気付かれるなんて事は有り得ない。


 そこまで考えていて“では何故?”と自身の失態の原因に思考を巡らせていき、そして彼は今まで些事と感じて重要事項から外して忘れていた自分の“見逃した”事柄に思い至り、呆けて半開いていた口をつぐんだ。




 “地上を見渡す星の目”と“非常に聞こえの良い耳”。




 常に周りを見ている目は、どれだけ素早く目に留まらぬ勢いとて俯瞰した広い視点からじゃ振り返る必要もなく察知できる。

 離れた鼓動すら届く耳は、どれだけ忍ぼうとも足元で蹴り上げた弾けた砂や風を切る音も遠く離れていようが感知する。


 良く良く考えてみれば自分と最高に相性の悪いその特性を持った組み合わせに、自分の技能が全くもって意味をなしていなかった事を理解して愕然とする。

 同時に胸の内を激しく焦がす程の余りの悔しさから、無意識の内に強く唇を噛み締めた。



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