22.海千山千、君僕裏掻き考争。

 顔が熱い。

 咄嗟に掴んだ手首、形を変えられて“握手”をされた手が汗ばんでくる程に熱を持ち始めている。

 口の中はカラカラ。


 どうにかして彼を引き留めなければ。

 必死に頭を回して最適解を探すべく“12年分の記憶”と“彼女が受けた役割の全て”という詰め込んだばかりの膨大な量の情報源から、彼が一番“食い付き”そうな餌を選び抜いては咄嗟にそれを口にしていた。




『──と、友達、に……なって…くれ、ませんか……?』




 物事をスムーズに進める為の、思い通りに動かす為にも無駄な“諍い”を起こさぬ様に、下手な餌を垂らして向けられる“疑念”を避けるべく相手が最も求めている物を目の前に用意して魅せる──いつも自分が相手を陥れる為に使う“罠”。

 彼の過去を見て己のしてきた事を自覚して“恥じ入って”尚、そんな心にもない事を平然・・と宣う己にいっそ自嘲だけならぬ呆れすらも感じる。


「(……何が“友達”だ。僕はまた誰かを……一織を“利用”しようとしているだけなのに。)」


 胸の中で自分にそう毒吐いて、こんな事しか出来ない自分を“憧れて”近付き目の前で目を輝かせながら“まだ”何も知らないで嬉しげに笑む彼の表情と、その繋いだ手から伝わる“歓喜”の感情にいたたまれなくなって俯いてしまう。


 彼が“世界救済”を達成出来ねばこの世界は終わってしまう。

 そして彼自身には使い物になる手足はなく、味方もいない。

 辛うじて世界の頂点たる“神様元の自分”は取り入る事が叶ったらしいがそれに頼る事は叶わず終い、縛り付きな申し訳程度な神の“権能”だけを手に一人放り出されてこの世界へと転生。


 世界その物として在るのだから親は必要なく、急ぎだからと肉体はそのままに“子供時代成長過程”は無し。

 始めから“大人成体の身形”として存在するまだ産まれたばかりで真っ更な彼の、その実態たる裏側の正体を知ってしまっては見過ごす訳にもいかなかった。


 “中身のない蛹”を育成し、その主導権たる母親の立場を握った“女神”。

 その彼女に馴染まされてしまった“それ”の、役割とされた“子供神様の自分を護る”という命題に無意識にも従いながら千年と二十二年という長い年月を経て漸く動き始めた“神の代行者”。

 モーガンより贈られたその彼女の知る“女神”からの情報には、彼が“女神”の力を絶対に必要としない程に従える事が難航していたと聞き及んだ割に、そんな彼でも結局下って絆されてしまい“影法師誰かの身代わり”として今此処に健在してしまっている。




 ……その身体の内側に、自身が気付く事も赦されない“怪物”を潜ませながら。




「(結局、誰もが誰かを利用するものなんだ。そうしないと自分が“喰われて”しまうから……“神”が有象無象只の人に情が湧くのだって有り得ない、有り得る筈がないんだ。皆優しい貴方を利用しているだけだ。だから、僕は──、)」




 彼を利用し“反す”──彼には降り掛かる害を退けた上で、“神”の思い通りにはさせずに損をさせない。




「(僕は貴方の“全て”を知った。だから解る──貴方は、絶対に僕を裏切らない。)」


 人を信じられず利用だけし続けた自分。

 それは人が裏切るものだから──否、人に“裏切られる”事を恐れる自分だからこそ、誰の事も信じられなかった。




 裏切られる前に、切り捨てる。

 裏切られる前に、裏切り反す。




 人の心が読めるからこそ、自分が傷付いてしまう前にと先回りして排除するという、自己防衛するに続けてきた記憶と縁の断捨離。

 始めは信用出来た所で、時が経つに連れその人物の今までの境遇や周りの環境に寄って人は変わっていく。


 その様子が明け透けに見えてしまうから、当然信用出来ていたものに“揺らぎ”が出れば直ぐに解ってしまう。

 それだけでも十分に傷付いてしまうからその度に切り離してしまい、力だけは強い癖に心は弱い自分のままでいつまで経っても成長出来ない。

 信頼していた人に産まれたその僅かな“揺らぎ”ですら、嫌な方へと傾いてしまいそうだと想像するだけでも恐ろしくて堪らないのだ。


 しかし、彼は“変わる”事を赦されない。

 変わってしまうと“不味い”から、優しくて子供想いなままの彼で在り続けなくてはいけない。


「(だったら“そのまま”なら信じてみたいと思える貴方を、この先も変わらない様にすれば……僕は……“貴方”を信じられるのだろうか?)」


 相も変わらず恩在る人物に対して下卑た考えばかり巡らせて、我ながら最低過ぎるな、なんて自嘲する笑みを浮かべてしまう。

 それを目の前の彼に見られないようにと俯いて、無様に思えてならない自分を隠す様に長い前髪のカーテンで見せない様にしていると、その向こう側でくつくつと堪え笑いする声が聞こえてきた。


「なりませんか……って、何で急に敬語になってるんだよ。」


 作った拳の甲で口元を隠しながら肩を揺らして笑っていた一織。

 それには彼の心情を見る術が無くとも、馬鹿にしているようなものではない事は解った。


「……し、仕方無いでしょ、それしか思い付かなかったんだから……!」


 それは本当だ、咄嗟だったから。

 言った事は確かに嘘では在るけれども、友達なんて不必要なものは“本当”は抱えたく無いのだけれども、今はそうする他に無かったのだ。

 それでもそれを口にする訳にもいかず、嘘の中の本当で誤魔化してその場を凌ごうとしていると、目の前にいる彼は酷く穏やかな表情で「そうか」とだけ返した。


「俺は“それでも”嬉しいよ、アーサー。これからは宜しく頼むな。」


 そう言って彼は握手していた手を解くと一瞬だけ肩をポンと叩き、スタスタとモーガンのいる方へと去っていった。


「……まだ“バレて”ない、筈……だよな……?」


 彼の背中を眺めながらアーサーは誰に言うでもなく一人呟く。


 彼の本には自分達この世界の住人を登場人物とする、世界で起きたの全て事象を纏められた物語が綴られている。

 それを見て彼は、自分という存在を予め“予習”した上で近付いてきたのはもう知っている事だ。

 今の出来事だって“彼を抜きにした”物語としてその本には書き記されている事だろう、だから自分の考えなんて本を持つ彼には筒抜けである事に間違いはない。


 只それでも今だけは、彼を引き留めるに吐いた嘘はまだ本を目にしていない彼には解る訳がない……筈。


 何だか胸の奥がざわつく様な、まるで生身を日の元へと晒されている様な気がしてならない気分がする。

 それなのに彼のあの穏やかな眼差しや肩に触れた手からは温かな感情しか感じられず、アーサーはそれにどうしようもなく安堵してしまうのだ──自身の犯したに彼から“赦し”を得たその心地に。


 そうして自分と似た彼と比べて気付かされた己の小ささに、アーサーはまた思い知らされる自己嫌悪するのだった。






 彼に背を向けると堪えていた“安堵”の溜め息を、人知れず小さく溢してしまう。


「(良かった……少しズレてしまったが、何とか思った通り・・・・・に事が進んだ。)」


 ホッと胸を撫で下ろして、ずっと考えていた“彼のいない今後”について計画の組み直しをしていた頭を振り払う。

 正直不安しか無かったのだ、彼に拒絶されてしまってから。

 “一人になる彼の今後”と“彼のいない自身の計画スケジュール”に必死で考えを巡らせながら、心の底から肝が冷える様な焦りに未だ嘗てない不安感に足元がふらついてすらいた。


 だってまさか──彼が自分を“利用”しない、何て事は思いもしなかったのだから。


 アーサーが病的なまでに“人間不信”であり、それ故に打算的な人物だと言うことは重々承知している。

 だからこそ自分の全てを明け開かし、どういった人物なのか、どう“利用”するに使い勝手が良いかを知らしめる。

 彼が自分を利用するに値する存在である事を把握させたその上で、自身の計画に組み込む予定だったのだ。


 彼が心を読むに必要な目が自分の姿を視認出来ないと知り、尚更伝えておかねばと思った自分の過去。

 人としての情を失っている人でなしの彼に、せめて少しでも“共感”してもらえれば、と根本は違っていても良く似た過去を伝えたつもりが何故だか・・・・全く響かなかった。

 寧ろ驚くべき事に、あれ程にまで酷く怯えられてしまったのだ。


 何をそこまで自分に、あのアーサーを怯えさせる要素が在ったのか。

 確かに目付きは悪くて見遣るだけで人を怯えさせてしまうのだとしても、幾ら元来臆病だった彼でも、歯向かえる手足もない虫けら以下な自分に対してあの異常なまでの反応を返されてしまい、予想外の出来事に首を傾げてしまう程だったくらいだ。

 

 ……まあそこら辺は過ぎた事だ、終わった事に割く程の余裕はない。


 そう頭の中で巡らせていた思考に区切りを着けて足を進めていくと、自らも摺り足でゆっくりと自分の方へと歩み寄って来ていたモーガンと相対する。

 考え事に少し俯いていた顔を上げて彼女と真っ直ぐに視線を合わせると、恭しく礼をした彼女が耳に心地好い笛の音を響かせてくれた。


「……我が主君、此れで貴方様の御憂いを晴らす事は叶いましたでしょうか?」

「嗚呼、お陰様でな。助かったよ、上手く軌道修正が出来て……一体どんな手を使ってくれたんだ?」


 堅苦しくも自分に伺いをたてる彼女に満足げにからりと笑って礼を伝えれば、一織は悪戯っぽい笑みへと変え腕を組んだままに肩を近付けた。

 互いの肩を並べてこっそりと耳打ちする悪巧みを共有する様な雰囲気で彼は彼女へと、あのアーサーの重い腰を上げさせるに使った手段のを訊ねてみれば、ふふんと得意気に鼻を鳴らした彼女はニタリと怪しく笑みを浮かべ返す。


「まぁ主君たら、随分と御気が早いです事。其れはを見て頂ければ御理解頂けるでしょうに。今此処で、私の口にて御伝えするのも宜しいですが……我が主君とも在ろう御方が“近道”を為さる御積りで?」


 彼女が挑戦的にそう言ってみせれば、そんな彼女を見遣っていた一織は一拍置いた後に吹き出したかと思えば声を上げて笑い始めたのだ。

 そうしてカラカラと愉快げに腹を抱えていた彼は軈て満足そうに息を吐くと、自身よりも低いその相手を見下ろすと彼女へと穏やかな笑みを向ける。


「はっははは! 冗談だよモーガン、それで良い──否、それが良い! 流石は俺を“最も”良く理解してくれている奴だ。俺が一度困ろうものなら真っ先に手を売ってくれる所、凄く助かるぜ。」


 一織はそう言うと「感謝するよ、ありがとうな」と述べれば、彼女はそれに対し彼へと頭を下げて腰を折った。


「当然の事をした迄です。何故ならば私は貴方様の“半身”──命果てた後に恐れ多くも“中身”を御賜り致しました、恩人たる貴方様の最も忠実なる僕。」


 腹部に手を添えて礼儀正しく“男性”のお辞儀をした彼女はそれを言うと、まるで執事服の様な燕尾のローブを背後にて揺らめかす。

 軈て顔を上げた彼女はその彼と同じくしながらもより美麗に形作られた顔の切れ長の目は一織を見ては眩しそうに、そして恭しげで在りながらも熱を帯びた眼差しにて視線を送った。


「如何なる御命令で在ろうと、貴方様の願いと在らば必ずや完遂してみせますとも。我が至高の神、親愛なる主君。」


 真面目に真剣に、真っ直ぐ且つ冗談抜きに胸を張りながらモーガンはそれを威風堂々と言ってのける。

 そんな気高い彼女の姿に一織は信頼に足るよすがを感じ入りつつも、その彼女の“発言”の一部にはやはり毎度の様につい苦笑を溢してしまうのだった。




 何度一織自身から訂正をしようにも、言葉を変え手段を変えと聞き入るつもりが毛頭無さげな“最も貴く崇高たる御神”として一織を崇め尽くす彼女──モーガン。


 一織が世界その物を自身とするに彼の“心臓”として存在する“本”へとその身を変貌する事が出来る唯一の世界巡る魔力の一端一心同体の妖精たる彼女。

 それは嘗て、誰の思惑とも“関係無く”人の身のまま神域から地上に降りた事で神と判断・・・・され、その重圧に彼は耐えられる程の器がないままに発狂した一織が生まれ変わる前にその命を捻り潰された先に行き着いた、黒き海にて出会った“鳥”だ。




 あらゆる事象を観測認知した上で彼を“自身たる神”と判別した世界その物・・・・・──つまりは神様自身が原因ではあったのだが、その結果只の人間である一織は発狂した。

 まるで、地上を生きる生物を深海の奥深くへと突き落とす様な行為。

 中身の詰まっていない者が重圧に押し潰されてしまうのは当然の事だと言うのに、そうとも知らずに神様はと言うと愚かにもそれを一旦落ち着か殺しリセットさせただけに済ませて、そして同一人物の共存たる業から12年の休眠と身を委ねてしまったのだ。


 ……それが非常に不味かった。

 壊れていたモノを壊した所で、後戻り出来なくなった事以外に何も変わりやしないのだから。


 “仮初めの軽くて空きの有る中身”である捻り砕けたその魂は、辛うじてそれを存在させるに与えられた器へとピンで押し留めていたのが戻れなくなった。

 その最中にさ迷っていた彼の魂はもう一つの在処へと惹かれる様にして“それ”の観測域潜む常闇へと行き着いたのだ。


 “神嫌い”、“神の代行者メッセンジャー”、そして他者に“過ぎた介錯余計な世話”をする者という彼の属性、その役割を持った中身の無くなった器。


 余りにも“相性”が良過ぎるその存在を目にしてしまい、かの“邪神”が興味を持たない筈がない。

 そんな都合が良過ぎる彼が深淵に踏み込んでしまえば、当然深淵もまた彼へと踏み入れていこうとして彼を呑み込もうと手招いた。

 誘う様に、そちらから求めさせる様に、彼により深みへと至らせるべくして。


 それに誰も気付く筈がなかったのだ。

 神様同様に“存在しない”、存在した所で“物語”に干渉出来ぬ彼は星の観測域より外れてしまえば、その所在は尚更誰にも解る筈はない。

 そうして誰にも知られずに“這い寄る混沌”は神様の作った箱庭世界を掻き回す魔の手を、無貌から彼へと成り代わるべくして触れようとした──その時だった。


 星海を駆ける翼、神の座へと導く賢者としてラズィエル・ハマラクの万能。

 自身が何者で在ろうと神々の領域たる星海へと踏み入れる事を可能とする力を持ってして、そこへ単身にて乗り込んだのが後に“モーガン”と名付けられる事となる橙色で斑模様オレンジタビーの小鳥──只の妖精でしかない一匹の“雀”だ。

 嘗て自身の大切なものを掬い上げて貰ったとある“女神”より授かったその役割と使命──窮地に陥った際の彼の“身代わり”として、その鳥だけが唯一彼の動向の全てに目を向けていたからこそいち早く気付き、彼を救うべくして星海へと向かったのだ。


 黒き海の水を浴びその身は黒く膨れ上がり、伸びた翼は痛めながらも水を吸った羽を振り落として沈み行く彼の元へと羽ばたいていく。

 “幸福”の象徴たるその鳥の姿は不浄に穢れて“不吉・墓場”の象徴たる鴉へとその身を転じられ、真っ黒に染まりながらでも彼に降りかかる“邪神の手害悪”を振り払い危機一髪ながらも彼の手を引き戻したのだった。


 しかしそれは行き場を無くした器無き魂、辛うじて留めるに支えられていたピンは外れて元の身体とそれは食い違って戻れない。

 ならばと鴉が導いたのは、嘗て女神が彼を留めるに使われていたとある黒色に輝き赤き稲妻を内包した宝石──“輝くトラペゾヘドロン”。

 それを中身を無くした器に“心臓”として埋め込めば、彼はさ迷う事無く元の身体へと戻ることは出来るだろう。

 そう思って、鴉は不浄の海の中でその身を朽ち果てさせていきながらも彼を宝石の元へと導いたのだ。


 その最中では“自分”を忘れていった彼が不浄に呑まれ形を崩していきながらも、鴉が彼の“正しき貌”を覚えていたからこそ戻る事が叶った。

 只それも、鴉が朽ち果てて命を落としたその時に事態は動いた。


 彼は自らの恩人たる鴉を救うべくして、無意識に“自らの命”を削ぎ与えたのだ。


 元より仮初めで在り質量も対して無い“軽い命”。

 それすらも他者の為に身を削って救った彼に、只与えられた使命に従っただけの名も無き鴉は強く心を打たれたのだ。


 “他人”を嫌い“自己犠牲”を嫌う彼が最期にした、自身を救った名も無き他人へのその施し。

 何も返せずに死に別れて後悔したその“悔い”をもう二度と遺さぬ様に、そう願っての彼のその行いが“役目”を終えた鴉に新たな使“命”感を残したのだ。




 この人を護らねば、この命に代えてでも──否、貴方から授かったこの命を全力で護った上で!






「我が神、我が主君。」


 金色に近い茶髪の彼女が、焦げ茶色の髪を靡かせる彼を見上げて眩しそうに目を細める。

 その左右色違いの瞳の片方には、近くで見れば黒くも仄かに赤き稲妻が走る様が伺える。


 暗闇の中で在れば“邪神”を引き寄せ、光に晒せば只の宝石でしかないそのアーティファクトを空いた眼窟に押し込んだ彼女。

 それがある限り、彼女は授かった“魂の記憶”によって誰よりも知っている彼を見逃す事もなければ見誤る事もなく、同時に見失ってしまっても目蓋を閉じれば“彼”から彼女へと辿り着ける事となるだろう。


 呼ばれて彼女へと視線を合わせた彼は相槌を打つ様に、呼び掛けに答える様に柔らかに笑んだ。


 彼にはその役割故に、知ってはいけない事が多くて覚えている事は確かに少ない。

 それでも、彼には何も為せぬ身となった中で為す事が叶った救う事が出来た唯一無二の“彼女”がそこにいる。

 只それだけで彼の誇った自信を全てを失い折れ掛けた膝を奮い立たせるに足る、自身を誇り立たせるに身を任せられる“添え木”たる彼女がいれば、彼は培った努力が無に帰そうと二度と心折れる事はないだろう。


「世界を救うと言う事は須らく、神様丈で無く“貴方様”をも御救いする事に変わりは御座いません。…此のモーガン、必ずや貴方様を御救いすべく全力を持って助力致します故、どうぞ憚る事無く御頼り下さいませ。」


 彼女の笛の如き心地好い声音が鼓膜を揺さぶる。

 自身の在処を示す様な、帰るべき場所を見失わずに済む為の笛の音は一織の一番に好きな音色だ。


「己を犠牲にする等と言う愚行は無く、救われ与えられた身体を五体満足の侭に果たして見せましょう。」


 コロコロと心地好く転がる音色、オカリナ小さなガチョウの笛の声音。


 気高く、誇らしげに、その美しい黄金の如きその身を翻して一織へと付いて離れない彼女は彼の為に“何かを求める者”を引き寄せていく。

 彼の手に負えないのであれば彼女が手を尽くそう。

 足らぬものが在れば用意してみせ、迷うのであれば導こう。




 彼女が居ればきっと大丈夫、何故なら彼女は一織の“金のガチョウ”なのだから。




 小人ではなく小鳥だった彼女は自身を救った彼の為に、自身の崇める神を幸福にする為に在る、神託を司る賢者ラズィエル・ハマラクの万能を満遍なく使いこなす妖精にして魔法使い──即ち水鳥の魔女マザー・グース

 神の神託を受け従い、そして神の座に至る翼を持つ彼女は“信仰”たる神をおもんばかる事を至上とする奉仕人形の在り方に染まりながらも、神様を元とする世界巡る魔力の末端として“奉仕人形人々に仕える者”としての在り方を歪めた、人形を内に秘めたる異端の者。


 彼女は誰の為に存在するか明白だ。

 尽くすのは人々ではない、世界その物たる“神村一織”只一人の為だけに彼女は在る。


 彼を味方する世界は彼女の意思に沿って、都合の悪い事象……“彼が知っては為らぬ話”は物語上では黒く塗り潰されて読めぬ様に隠される。

 当然彼はその隠された真実には気付く事がないが、全てが終わり脅威が去れば軈て彼もその真実を知るだろう。


 只、今は知ってはならない。

 彼が彼らしく在る為には隠蔽せねばならぬ事ではあるが、それでも──、


「……お前のお陰でアーサーが手を組んでくれる事が決めてくれた事は助かるが、それでもアイツはまだまだ子供で未熟者だ。この先アイツを守る為にも……人の心を忘れた人でなし人情のない奴をどうにかして正常に戻して、いつか一人でも立ち上がれるように大人になる助力してやらなきゃな。」


 そう真面目そうに言ってもその声音は生き生きと、何処か楽しげに嬉しげに浮わついた様子の彼に微笑ましげに彼女も笑んだ。


 その真意が自身を利用する為だからとは言え、憧れの人物から「友達になって」と声を掛けられたのだ。

 友達なぞ今だ嘗て得た事がない一織が、その誘いを受けただけでも心踊る程に嬉しい事をモーガンは他の誰よりも知っている。

 都合の良い時にしか他者が寄り付いて来ず、そして本人とて拒み続けるに使っていた殻を破った彼には、まだ一人として冗談でも誘ってくれる様な者はいなかったから。

 その為に、何れだけ裂こうが物言えぬ口に頼れぬ身の彼女は、その口止めの“裏”をかきアーサーへと伝えた。




 “口”止めをされていたのだ、“思考”を読ませるなとは約束していない。




「ええ。ええ。そうですね、私もそうなるべくして全力で手を尽くしましょう──ですが、我が主君。僭越ながら申し上げたい事が御座います、宜しいでしょうか?」


 あれ程に穏やかだった空気がその言葉を切っ掛けに顔色を変え、一織へと矛を差し向ける様な重圧に変わりピリつき始める。

 その重圧に対して“心当たり”のある一織は「やべ」と罰が悪そうに口をつぐみ、冷や汗混じりにすっと目を逸らすと背の高い彼の耳に細い指先が伸ばされて自身へと近付ける様にしてそれを引っ張り寄せたのだ。


「あだだだっ、痛い痛い! 痛いってモーガン! 俺が悪かった、考えが浅はかで招いた失態ミスだ、だから本当にごめんって──、」

「ええ。ええ。そうでしょうとも、貴方ならば幾らでも避けようは有った筈。其れをまぁ良くも何度もポンポンと、軽々しく“死んで”下さいましたね?」


 笛の声音には凄まじく怒気が孕んでいた。

 今までの“全て”がアーサーを引き込む為の、彼の自惚れからの油断を引き出す為の策略だったのだ。


「此の前とてそうです。幾ら貴方様が“幻獣”を好いているからと、興味が在ると言う丈で恐れも警戒心も無しに近付いて……此迄も何度と無駄死にした事か!」

「あっあれは……そのだな、やはり憧れだったファンタジーチックな生物が目の前に現れたらどうしても……ほら! ハーピーとかケルピーとか、ヒポグリフや人魚なんかがいたら、そりゃあ近くで見てみたいって思うだろ!?」

「其れで何度も水辺に引き摺り込まれ、餌にされ、生きながら啄まれたりと、其の様な無駄な死地を乗り越える必要が何処に御座いますか! 良い加減御自身の身を軽々しく消費為さらないで下さいませ!」


 普段は冷静沈着な彼女が言い逃れようと下手な言い訳を並べ立てて焦る様子を見せる彼に思わず声を荒げて叱りつける。

 彼女の言う以前の実態は確かに全面的に一織が悪い事は本人とて自覚はあるので、言い逃れようとはすれども逃れられない事は明白なのは解っていた。


 只それらは自分からすれば只の事故としか思えないのが難点だ。

 警戒心が正常な者達からすれば自分の行動というのはその思考回路を理解するにし難い有り得ない行動だとしても、一織にはおかしくなってしまった恐怖心の喪失からの危機感知能力の欠如でそれが解らない。

 だから自制をしようにも“危ないかもしれない”といった頭がない為に、周りのストッパーが無ければ躊躇無く向かってしまう性には、互いに理解し合わなければ事前に防ぎきる事が難しいのは確かだった。


 しかしアーサーの事に関しては別だ。

 彼の場合だけはああでもしなければアーサーは“仮の”本性を晒す事はなく、無意味な怯えるフリを続けた事だろう。

 その本性を明け開かした上で“それは間違いだ”と示せる事柄が無ければ、一織が叱る要因が無ければ怒鳴られた事で自身の間違いに気付く事もなかった事だろう。


 少しズレてしまった事もあるが、その策略のお陰で彼は本気で反省し自身を変えようと奮起するに踏み出す一歩……その手前まで手招く事が叶ったのだ。

 だがしかし、その方法には目の前の彼女が誰よりも“許せなかった”。


「幾ら不死身とは言え我慢するにも限度は御座います。死の恐れが無いのは確かでは御座いますが、貴方様の御心は“辛うじて”正常で在る身。正と負の振り子は簡単に振り傾くのですから、どうか御自身の身を案じ極力傷付けぬ様にとあれ程に口を酸っぱくして迄御伝えして居りましたが……何ですか此の様は?」


 ギリギリと爪先に込められる力、それがか弱い彼女の微弱なものであっても爪を立てられて一点集中に引っ張りあげられれば痛いものは痛い。

 命を刈り取られた瞬間に感じるあの一瞬の激痛よりもずっと辛く思えてならないその痛み。

 微弱ながらでも継続し怪我も成さずに与えられる様な……そう考えれば他者に害をなせない一織が唯一継続的に痛め付ける事が可能である──マーリンへのお仕置きにも使っている──関節技とさして変わらぬ、逆に自身も受けてしまえば堪えてしまうその痛みに一織は思わず声を上げて目尻に僅かな涙を浮かべた。


「いっ…!? ご、ごめんってば、あんなのは今回限りだって! 他の案だと時間が掛かりすぎるんだ、手っ取り早く済ますにはあれが一番で……そうでもしなければ最後までアーサーが逃亡しない“確実性”が無かったんだ。だ、大丈夫だ。死んだ所で死にやしないんだから、自己“犠牲”にはならん。減らないんだから犠牲も何も無──、」

「其の口八丁は神に通用しようが此のモーガンには通じませんよ。幾ら死なぬ身で在ろうと、見ていて心配で心配で……此方の“神経”が磨り減るのです、良い加減懲りて下さいませ──此の減らず口め!」

「ま、待て待てそれ以上引っ張らな──いっでぇ!!?」


 ひっぱたく様な罵りと共に摘まんでいた指先を思い切り引き抜くモーガン。

 指先が離れていく瞬間に一際強い痛みに、思わず悲鳴を上げる程に身悶えて踞った。

 一頻り痛む耳を押さえながらも恨めしげに視線を“同じ様に”痛みを受けている筈の彼女へと向ければ、やはり彼女も痛かったのか涙を僅かに滲ませて仁王立ちにて踞っていた彼を見下ろし睨み付けていた。


 叱る時は自身にも同じ痛みが反る様に、敢えてそうする彼女。

 そうすることで“痛み分け”、互いに違う存在であっても解り合う為の足踏み揃え。

 目を合わせようとしない、受け入れてくれない者への“目を覚ませ”と痛みをもってして互いを気付きつける──理解をし合う為の行為だ。


「……悪かった。ごめんな、モーガン。俺が死ぬ時お前も痛かったろ。」


 自分一人なら“犠牲”なく死んだことも無かった事に出来ていただろう。

 しかし一織には運命共同体、一心同体とする彼女がいる──自身は平気でも彼女が傷付いてしまう。

 まだ“そう”なって日が浅く意識が薄かったが故に、一織は自身が侵した失態の大きさに気付く事が遅れてしまったのだ。


「……解って頂けたら良いのです。私とて痛いのは御免で御座います故、今後は彼の様に御自身を粗末に扱うのは為さらないで下さいませ。」


 “痛み分けならフェアである犠牲ではない”と豪語し屁理屈を捏ねる彼の、対等に拘るその“修正癖”。

 いつだって身長も志も誰よりも高い場所にいる彼が他人に関わろうとして器用にも計算高くも不器用に不慣れにて、自身の身を削る出る杭を打つその行為。

 彼女はそんな彼に対するストッパーにして彼の心の安寧を護る為の“蝶番”だ。

 彼の警戒心無く開けっ放しな心の扉の前に立ち塞がる彼女は、魂の門番として害ある訪問者の侵入を阻むと共に戸締まりの叶わない彼にせめてその意識だけでもと、主従の上下など関係無しに真面目に真剣に厳しくありながらも彼を想って叱りつけていた。


 只その彼の“修正癖”とて、他者と対峙した際に目線を合わせるように成った証でもあるものだ。

 人と関わる事に自ら進んで始めた彼の未だ加減を覚えていない不器用さからは、幾ら何でも出来たからと言って初めての試みに失敗がないなんて事は有り得ない。

 故にこそ、一度度が越えそうな場合への牽制に彼女が彼より“分けあった”心臓から二人を半身同士とさせる相手を想うが故に、お互いにかけ合った枷こそがその“痛み分け”だったのだ。


「我が神が有象無象に跪くのも足を御嘗めに為られる事だって、私には堪えられる物では御座いません。……例え貴方様には平気な事だとしても、御自愛を忘れずに御願い致します。」


 彼等もまた出逢ったばかり。

 まだ互いをよく知るには共に在る時間はまだまだ浅く、一織もまた人に頼りきる事に慣れてはいない。

 一人で抱え込み易い彼に少しでもその重荷を分けて貰うべくして付けた互いの枷に、周りの誰が何と言おうと彼等は邪魔だとは思わない。


 それが互いの絆である証拠である限り、絶対に。


「嗚呼、解ったよ……。」


 彼女の気遣いを身に染みる思いで噛み締めて頷く一織。

 そんな彼にモーガンは一つ息を吐いて気分を切り替えると、手に持っていたメイスを互いの間の地べたに“トントン”と末端を打ち鳴らした。


「……しかして私も消耗した身。傷付いた身では主君に尽くそうにも、羽ばたく翼に疲労が積み重なればいずれ地に墜ちて仕舞います。……故にこそ、」


 それを口にしながらモーガンは一織に“何か”を求める様に流し目を送れば、彼もまた全てを聞き入る前に踞っていた体勢から居住まいを正して胡座をかいて座り直した。

 そして準備は万端と彼女を見上げて膝を叩くと、モーガンは満足げに鼻を鳴らして一織へと近寄ると踵を返し、そのまま彼の膝の上へと腰を下ろし──同時に姿を変えた。




 ──ぽふん!




 風船が破裂するよりも間抜けに、ふくよかなクッションを叩くよりも高らかな爆発音とうっすらと煙る薄雲に包まれて一織の懐へ腰掛けたのは一羽のふくよかな“ペンギン”。


 水を弾く為の滑らかなオニキス色の体羽が光沢で輝くハイライトの縞模様を映して艶やかに包んでいるのに、その内に唯一腹を明かす様にして真っ白な体羽が目立つ腹。

 頭には小さな冠をちょこんと乗せて、王者エンペラーとして威厳を表す様に少し上向いた嘴。

 その姿となった彼女──モーガンは一織の膝を玉座にして、先程まで神と崇めていた彼の上で我が物顔で座したのだ。


「私は労られるべきだと思うのです。故に……さぁ我が主君、此のモーガンに触れ愛でる権利を与えます。思う存分に愛でり尽くして下さいませ!」


 それが自身の主人に対する態度か、誰しもがそう思う事だろう。

 付き従う立場で在りながら時に説教し時に甘えるに“愛でる許可”を出すという上から目線のその鳥に、一織は嫌な顔一つせずに寧ろ頬を緩めて彼女の頭から背中へと添えた掌で撫で流したのだった。


 大きく広げた手は脳天から肩へゆったりと流れ。

 爪先を立てた指の腹で眉間の間を擽り。

 首の両端を軽く摘まんで上下交互に擦り。

 マッサージするみたく摘まんでいた羽を擦ったり。


 労る様に指圧し、揉み療治が如く手つきでその鳥の身体を撫で繰り回していけば上向いた嘴からは心地好さ気な鳴き声が、トランペットを素早いタンキングで鳴らす様に響かせてくる。

 そのマッサージ機に身を委ねているみたく懐の内でふんぞり返っているその鳥を撫で続ける一織は愛でるのを止めないままに、軈て物思いに耽ていく。


 死ぬ前の元の世界の自身と比べて、自身でも自覚がある程に随分と変わってしまったと思う。


 嘗ては確かに他者と関わる事は煩わしく、喧騒を嫌い、近付く輩にはコンプレックスの鋭い目付きを敢えて利用してまで遠ざけていた毎日。

 あの頃は自身の邪魔をされる事が酷く嫌に感じて、スケジュールを狂わされると頭を掻き毟りたくなる程にストレスを感じていたのは本当だ。

 しかし膝の上の彼女を見ていると……同種の鳥類の内では最も身体が大きく、そして唯一縄張り意識がない皇帝の名を持ったそのペンギンの姿を見ていると、どうにも今の自分を彼女が鏡映しているような気がしてならない。


 そもそもの話、自分が自ら動物と触れ合う様になった事自体が昔を思うと“有り得ない”とすら思えてしまうのだ。

 獣臭く、鳴き声が五月蝿く、思い通りに動かない……その三重苦から全く近寄らない程に毛嫌いっていた程に。


「それがこうも絆されてしまうなんてなぁ……嗚呼もう、この感触堪らんな……。」


 彼女に「労れ」「愛でろ」と言われつつも一番に“癒され”ているのはその実一織自身だ。

 神様といた頃に、触れない彼の代わりに猫──今ではマーリンと名付けた、悪戯好きでちょっぴり間抜けな妖精──の肉球を堪能させられてしまってからと言うものの、どうにもふわふわでふにふにとしたあの心地好い感触が忘れられない。


 成る程、これがアニマルセラピー……!


 人が動物好きになってしまうその誘因に気付いてしまうと同時に、彼もまたその沼へと足を浸け入っていく羽目となっていく。


「……御気分は如何ですか?」

「嗚呼、最高だ……! ……思えば少し、ずっと苛立っていた様な気がするな。」


 彼女を撫でながら一織はふとそう思う。

 するとそれに気付いていたらしいモーガンは彼の言葉に頷いて嘴を揺らした。


「そうでしょうとも。ああも何度と痛め付けられて仕舞えば、幾ら温厚らしく格好付けていらっしゃっていた貴方様とて御気分がささくれ立って仕舞うのは当然の事。私とて我慢為りませんでしたので、我が主君もそうだとして何も不思議では御座いません。」


 そう答えると彼女は「主君を嘗め腐って居るのが見え見えだったのです、生意気な童子には御灸を据えて然るべきでしょうとも。」と言ってはまるでシャドーボクシングの如く羽根を前へと数度突き出して渇を入れる素振りを見せた。

 彼女には自分が“温厚で穏和な無害な人物”に見せていた事すらお見通しにされていた事実に、当然と思いつつも悪戯がバレてしまったみたいな晴れやかな気持ちでからりと笑う。


「はっはっは、そうかそうか。やっぱりモーガンには敵わないな……まァ途中でつい怒ってしまう程にザルな演技だ、気付かれても仕方無いな。」

「ふふふ、その割には些か“本気”にも為っていらっしゃった様ですが……はてさて、私めには貴方様が何処迄“演技”のままで何処から“本気”に為ってらっしゃったのやら、皆目見当付きませんね。流石は我が主君です。」

「それだって冗談だろう、モーガン? お前が俺の事で解らない事が在る筈がない癖によ。全く、誰に似て冗談が“上手く”なったのやら。」


 からから、ころころと愉しげに声を弾ませて束の間の談笑を楽しむ一人と一羽。

 そんな彼等の元に音もなく後ろに忍び寄る影が一つ。


 それに真っ先に気付くのは世界に満ち渡る魔力の一端たる妖精の彼女で、敵意は無くとも“癖”で足音を立てずに歩く彼の少したりとも感じさせない潜ませた気配に振り返る事もなく、目配せにてそれを主人たる一織へと伝える。

 それを受け取った一織も、下手に刺激してまた自信喪失させてしまうのも気が引けて素知らぬフリでいると、音もなく視界の内に顔を見せたのはアーサーだ。


「……何話してるの?」


 少し考える素振りが垣間見えた気がしないでもない、何処か手探りな様子で声を掛けてきた彼に別段驚いた様子も見せないで一織は口元に笑みを浮かべてそれに返答した。


「何って、只の雑談さ。特に意味はないとも。」


 そこに嘘はない。

 物語にだって時折必要な、シリアスの中のちょっとしたギャグシーンみたく蛇足の様な文を連ねて意味もなく只駄弁っているだけみたいな、そんな些細な事象。

 アーサーに隠す様なものですらないそれに正直に答えて見せれば、一織の紫黒色の眼差しとばちんと目が合ってしまった彼は「そう」とだけ返して彼は口を閉ざして目を逸らしてしまう。

 いたたまれなさげな様子で口をもごつかせている彼に、一織は彼が思い悩んでいる事に見当が付くと一瞬悪戯っぽく“ははーん?”と笑みを浮かべては直ぐ様それの成りを潜めて、只の笑みを称えては隣の地べたを平手で軽く叩いた。


「おいでアーサー、お前も混ざれよ。……折角“友達”になったんだ、話をしようぜ。俺はお前の事をもっとよく知りたいと思っているからな。」


 そう言って見せれば虚を突かれたみたいな顔で一瞬怯んだ彼が直ぐ様建て直し、暫く視線を左右に揺らして悩んだ後にすごすごと……一織より少し離れた地べたに腰掛けては自身の膝を抱えて縮込まった。

 それに対して直ぐ様距離を詰めて傍に近付けばぎょっとした彼が顔をしかめて此方を睨んで来たものの逃げる様子はなく、より身体を丸めて小さくしては顔を背けてしまう。


「……近いんだけど。」

「俺がお前に近付いたからな。そんなに小さい声じゃ離れていたらお前の声を聞き逃してしまいそうなんだ、だから許してくれよ。別に嫌がらせをするつもりでやってる訳じゃあないんだからさ。」


 不服そうな声に横顔を近付けて人と目を合わせるのが苦手そうな彼には前ではなく隣で、小さな声には目よりも耳を傾けて柔らかな声音でハッキリと答える。

 そうすれば彼もまだ嫌そうではありながらも、渋々それを受け入れてくれた。


 少しの間、彼等に沈黙が流れる。

 距離感を掴めないでいるらしい彼が口を開こうか、踏み留まって再び口を閉ざして……と繰り返している仕草に視線を向けないままに隣で感じ取りながら、モーガンの翼を爪先で撫でつつ一織は彼が話し出すのをゆっくりと待つ。

 軈て最終的に立ち止まってしまったアーサーは溜め息と共に膝の間に顔を埋めてしまうと、一織か彼の直ぐ傍に“彼女”を差し出した。


 それに気付いたアーサーと、両脇を抱えられ突然他人の前に自身を差し出されたモーガンが「は?」と疑問と怒りに各々が声を漏らす。


「艶々でふっくらしてて可愛いだろ、以前よりは少し大きくなったが俺の自慢の小鳥だ。」


 目の前の彼等が何を考えて戸惑い、又は苛立っている事を知ってこそいるがそれでも構わずに一織は話を続ける。


「モーガンの事が気になっていたんだろう? “ペンギン”っていう鳥なんだ、しかもエンペラー! ……アーサーが知らないってことはこの世界にはいないのか?」


 不満げに“溶けて”いる脱力したモーガンを抱えたままに、一織はそういうと小首を傾げた。

 そんな話題を一度たりとも、素振りすら見せてもいないのに“自分が知らないと感じた物事”を明確に言い当てられた事にアーサーは嫌そうに顔をしかめるが、目の前の彼女の存在を見ては“本で見たのだろう”と即座に彼に知られた原因を探り当てる。


「…そこまで知ってるのなら、これ以上僕の何を知りたいって言うんだよ。」


 彼の言う通り“ペンギン”なんて生き物は聞いた事もなければ見たこともない。

 今までずっと王宮に引き込もっていたのだ。

 世界中の全てを知っている訳ではないのだから当然の事とはいえ、自分よりも下に見ていた人物よりも自身が知らない事があるのが不服でならないアーサーは突き放す様にしてそれを言うも“彼女”からは目が離せない。


「……主君、我が主君。私は貴方様で在れば触れる事を許可致しましたが、余所の男に触れられるのは些か──否、大変・非常に・心の底から嫌に御座います。どうぞ御考え直しを。」

「まぁまぁ、たまにはこういったのも良いだろう? 人見知りしていちゃ勿体無いさ。だってアーサーは──、」


 この人は一体何処まで自分の事を知っているのだろう。


 嘘と嘘の間に隠し続けていた本音を引き出し、仮初めの本性すら暴いて見せて、今また抑え込んでいた自分を手招こうとしている。

 仕方無さげに溜め息を吐いた彼女に、目が離せなかったアーサーは徐に手を伸ばしていくとその、空を飛ぶ鳥とはまた違う水を泳ぐ為の撥水機能を持った艶のある体羽に指の背でそっと触れる。

 羽の流れに沿ってその触れた手を流せば、手に触れた感触に思わず息を溢して目を細めた。

 モーガンもまたアーサーの手から逃れようとはせずにじっと佇んだままに、そんな彼女の頭に触れようとした瞬間威嚇するようにして尖った嘴を近付けた手へと向けられる。


「……モーガン?」

「頭は赦しません。我が主君の頼みとて流石の私も気安い鳥では御座いません故、悪しからず!」


 彼等がそんな会話をしている最中にそっと距離を取るべく手を離せば、彼女もまた“ふん!”と鼻を鳴らしてふんぞり返る。

 そして仕切り直して彼女の横へと手を差し向ければツンとそっぽを向いた彼女の首の横に、上から翳すのではなく下からそっと近付けてはそこに触れた。

 ゆっくりと、短くも何度と上から下へ上から下へと繰り返し撫でて、軈てその指先を彼女の首下へと潜り込ませる。

 少しばかり強張った身体に、宥める様にして爪を立てていない爪先の腹でそこを柔く掻き指の間で撫でれば、それを受けていた彼女は軈て警戒心に鋭くしていた目付きをとろんと蕩けさせ、心地好さげな声を上げた。

 しかしそれも一瞬で、直ぐ様はっと我に帰ったモーガンは首を振って自らを気付けた。


「……はっ!? つい極楽気分に成ってしまいました……くっ……何と言うテクニシャン、一瞬で持っていかれて仕舞います……!」

「そうだろそうだろ、これもアーサーの凄いところの一つだからな──アーサーは動物好きだ、それも普通の生き物も魔物だって関係無しのな。流石は昔人知れず森の中に住む野生児だっただけはあるもんだ。」


 そう言って一織が見遣った先では頬を僅かに紅潮させて穏やかな眼差しの彼は目の前の“鳥”に心奪われて撫で続けている。

 あれ程に警戒心露に尖っていた雰囲気をすっかりと霧散させて、落ち着いた様子のアーサーを見て一織は漸く安心した様に顔を綻ばせた。




 人を恐れ、人を嫌い、人を突き放して過去を手放して尚も“魔物を愛する心”だけは失わなかった人でなしのアーサーは、どうしたって人以外のその家族の様に触れ合ってきた彼等には無下に出来ないままに、差し向ける刃を持てずにいた。

 そんな彼の、自ら全てを捨て去ってきた中でどうしても手放し切れなかったものこそ唯一無二の心の拠り所──家族同然だった獣達への、深い愛情。


 

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