20.鬼さん此方、手の鳴る方へ。

「オラ、どうした人間? 狼竜を従えたいんだろう?」


 クスクスと幼さが残る少年の若い声で嘲り嗤う声が響く。

 一織の目の前でせせら笑いにて美しい顔を歪ませた少年が、せびる様にその裸足を彼の内股へと滑り込ませては足の甲で脹ら脛を撫で付ける。


『小僧……先程約束しただろう、彼の話を大人しく聞くと─、』

「ロヴィは黙ってて。……おれ、この前・・・の人間達だって赦していないんだからな。ロヴィは優しいからアイツ等を見逃してやっていたけれど……自分勝手な理由ですがり付いておいて、断ったら魔王だなんだとか言ってキミの事害した奴等だ。天罰降されておいて逆恨みする様な下衆共に、キミが慈悲をかける必要はなかったんだよ。」


 横暴な態度にて無茶振りを命令する子供に見かねてロヴィオが口を挟むも、それをバッサリと切り捨てて彼はロヴィオへと胸の内を明ける。

 彼等とて自分達と会う前に何かあったのだろう。

 子供のその言い分に思うことはあれども同時に正しくも感じてしまったのか鼻先を地面へと向け下ろし、そんなロヴィオは何も言えずに黙ってしまった。

 その姿は神と称される狼竜たる威風堂々としたものは一切感じられず、寧ろ疲弊を感じ取れる程に頼りなさげなもので俯くその頭には草臥れている様子にさえ見て取れた。


 彼とて一度は人間を見棄てた獣だったのだ。


 それでもその子供を抱えてより、もう一度信じてみようと踏み出した再スタート。

 回数重ね、年数重ねた所でもう何度と裏切られ続けて、悪意に過敏な子供に庇われ、歯向かわれれば自身の力で屈させとその繰り返しを続けて約12年の歳月を経た。

 もう疲れた、と投げ出したくとも抱えたその子供を見棄てきれず、疲労の溜まった足を尚も進ませ歩み続けてここまで来たのだ。


 探し続けている同胞にだってどうしたって再会は叶わぬまま。

 これと言って手懸かりもないので、果ての無い砂漠の中に腕を入れてたった一つの目的たる小石を探すような途方もない毎日。




 正直……限界が近かった。




「……頭を下げれば良いのか?」


 静かな声で一織がそう口にする。

 怒りもなく、憤る事もなく、只凪いだ水面が如く無の声音にて訊ねれば、子供は鼻で笑いその問いの答えを吐き捨てた。


「ああそうだよ。そしておれを納得させれたら煮るなり焼くなり好きにすれば良いさ。但しロヴィへの一切の手出しは何があろうと絶対に赦さないからな……その時はおれが、死ぬよりもずっと苦しい“生き地獄”を味わわせてやる。」


 侮蔑の笑みを湛えていた子供の表情が、その言葉をつらつらと流していく最中に声音を低めて口にしたその脅し文句。


 “生き地獄”──そう口にした瞬間……気のせいだろうか?

 彼の瞳の中で黒色が波打った様に見えた。


「どぅせお前ら人間は神だって崇めていようが“下等”な魔物相手に下げられる頭がない程に“気高き”存在なんだろ? 嫌なら嫌で断ったって──、」

「解った。じゃあそうしよう。」

「良いん、だ…ぜ………って…………は?」


 和装の揺蕩う袖で口元を隠しながら軽蔑を込めて言葉を続けていると、彼の言葉に確かに頷いた一織がハッキリとそれを口にした。

 それに続けていた言葉を詰まらせ困惑の声をあげる子供の目の前で、彼は徐に躊躇する事無く地べたへと跪くと両掌をも付き、後退った子供へと向けて額を地面へと付けた。




「……頼む、どうしても助けたい奴がいるんだ。その為には俺一人ではどうにも出来ん。その為の力も無いし、一切の事が俺には出来ない。だから……どうか、お前達の力を貸して欲しい。」




 彼は言われるがままに“土下座”をして見せたのだ。

 誠意を込めて“どうか御慈悲を”と言わんばかりの、“惨め”以外に言い表せない筈の滑稽な姿だった。


 目の前には自身よりも明確に年下である子供であり、大の大人がその子供の無茶振りに真摯に応え、あろうことか真剣に、額を土に汚してまでして助けを乞いている。


 それは誰もが“みっともない”と彼を罵る事だろう。

 もしくは誰かは“プライドがないのか”と彼を貶す事だろう。


 それでも、彼は──一織は真面目に、真剣に、頭を下げて彼等へと嘘偽り無く、取り繕い驕る事無く純粋に助けを求めている。

 その様には目を丸くしたのは目の前の子供だけでなくロヴィオも、そして彼を“知る”アーサーですら空いた口が塞がらない程に驚愕しその光景から目を離せないでいた。


「……頼む、この通りだ。今はこれくらいしかお前達の信用を得るに証明出来るものはないが……いつか必ずその恩に報いるって約束する。だから──、」

「……だから? 頭下げたからって何? 信用出来ない口約束なんか、誰にだって幾らでも言えるだろ。」


 一織の懇願に冷ややかな声が遮る。

 その言葉に「約束は必ず守ってみせる」と覚悟は既に決まっている彼がそれを告げようと見上げた一織の眼前に、裸足の砂埃に汚れた足が間近に差し出されていたのが視界に映った。


「じゃあ舐めて見せろよ。生半可な覚悟じゃないんだろ?」


 今までの彼らしく嘲る様な笑みを一切無くした無の表情に子供は片足を上げて、見上げた一織の顎下に爪先を触れさせながらに彼を見下ろしていた。


 そんな彼の後ろでロヴィオが止めに入ろうと近寄るのが見えると、一織はそれを視線にて制止した。

 それに戸惑いながらも立ち止まった狼竜に“それでいい”と口元に笑みを浮かべると、顎下から離したその足へと顔を近付けては口を開き、足の甲へと舌を伸ばそうとした──その時だった。




 ──ガツンッ




「ッぐ、うぅぐッ……!!」


 突如口を押さえて踞る一織。

 その口を覆った両手の指の合間から、じわりと滲み滴り落ち始めたのは赤い血だ。


「……間に受けんな、ばーか。誰が人間ゴミを信じるもんか。」


 子供はそう言って振り上げた足を地へと下ろした。


 彼は一織が舌を突き出したのを見計らって、その顎を下から力一杯に蹴り上げたのだ。

 当然出した舌は自身の上下の歯並びに挟まれて、千切れるまでにはいかずとも大怪我には違いない激痛と溢れんばかりの出血にまるで溺れているかの様な“ごぽっ”とくぐもった気泡音が喉の奥から響いた。


『小僧ッお前……!!』

「良いんだよロヴィ、気にしなくて。だってコイツ不死身なんだろ? じゃあ勝手に直るんだから、ちょっとくらい痛い目見せたって構いやしないでしょ。」

『そういう問題ではなくてだな……!!』


 止めどなく血を吐き出しながら背を丸めて踞っている一織を見下ろしながら、ロヴィオの声に辛辣に吐き捨てた子供は腹立たしげに舌打つ。

 その憤りは彼が慕うロヴィオではなく眼下の踞っている惨めな男に対してであって、彼を蔑んで馬鹿にする程に“自身が”惨めに思えてくる様に行き場の無い怒りばかりが自身の胸の内に沸き起こって仕方がないからだ。


「馬鹿馬鹿しい。何が“助けたい奴”だ、何が“恩に報いる”だ。そんなもの、信じられる訳が無いだろうが……!! だって……だって、オマエ達人間は……!!」


 怒りの余りに目尻に涙すら浮かべてきた子供が、悲痛に歪めた顔をしかめてその胸の内を掠れた声で叫んだ。




「おれ達のを“便利”なものとしか、見てない癖にッ……!!!」






 *****






 夜に寝て、朝に起きる。

 昼は旅先の森の中を散策し、疲れたら一休み。

 たまには夜更かしして星空を眺めて、大好きなヒトと一緒にひそひそお喋り。

 その翌朝は寝坊しちゃったりして二人で笑って「次は何処へ行こうか」って行く宛のない旅路に、次の目的地を決めるべくして会話を重ねながら何と無く足を進めて並んで歩いてみたり。


 そんな、当たり前の生活。




 当たり前……きっと他の人ならそうだったんだろう。






 ……自分にはそれすら、赦されなかった。






 *****






「……オマエは眠れない夜を過ごした事はあるか。」




 静かに、怒りの込められた声が小さな唇から絞り出される。




「夜に寝て、朝に起きる──それが当たり前と感じた事はあるか。」




 ざわつく感情を抑えるべくして自らの身体を抱き締める。

 熱もなければ痛み痛覚もない、魔力で作られただけの生き物ですらない器の身体。

 蝋のように脆くて温かみのない、熱に触れれば溶けてしまいそうな──死んで漸く手に入れた自由の利くこの身体。




「生きたまま命を削り取られる、あの寒さを知っているか──おれは知っている。」




 生きていようが死んでいようが、結局朽ちても果てる事すら出来ないままに永久に永遠に“貪られ”続けていたあの生き地獄の日々。




「オマエ達が当たり前だと思っている……食事も、眠る事も、生きる事ですら! 只“便利”な存在と言うだけでおれは奴等にとって都合の悪い“全て”を取り上げられた!! 生きてても死んでいても全てが叶わなかった!!」




 悲痛な叫びが彼等の中で響き渡る。

 袖の広い口から顔を出したのは黒ずんだ手で、掻き毟る髪や顔面がその指先に傷つけられて散らばっていた短長不揃いの髪をより乱す様にして引き千切っていく。

 その目から流れ落ちたのは透明な涙──ではなく、黒一色の涙でも血液でも無い、何やら良くないと感じられるモノを垂れ流して。

 すると辺りには何処からか、鼻腔をつんとつんざく“腐臭”が漂い始めた。




「怨めしい……怨めしや……我が身をなぶり辱しめた人間ゴミ共が憎くて堪らない。この憎悪、この怨嗟、溢れんばかりというに、奴等は既に朽ち果てた。なればこの行き場の無い“怨念”を何処の誰に晴らしてくれようか……?」




 彼の身体の至る所からじわりと滲み滴り落ちて地を濡らす黒色の液体。

 顔を覆っていた黒い掌が、その指先を顔面に這わせながらずり下ろしていくと現れたのは白目すら黒に染まった恐ろしき眼孔。

 そこに目は在るのか。

 まるで眼球のない眼窟を見ているのかと錯覚しそうなおぞましい眼差しに、再び合間見えたアーサーは思わず身を強張らせた。


 当然だ。

 彼は尋常ならざる怪物の如き強さを誇る自身以外に、人知及ばぬ“邪悪”を目にするのは今眼前にいる、見るからに怨嗟の権化が如きその“子供”しかいない。




 それは、互いに天敵にして同類の存在。




 同じ女神より生み出された化身にして、兄弟として賢者の頭数に揃えられていた彼等は他を圧倒する程の力を持っていた。


 最も強く、最も知恵を持つ世界に君臨するべき“魔王”として存在する筈だった“赤き竜”──その宿主たるアーサー・トライデン。


 彼が相対したのはその弟たる存在の“黒い雌鶏”……それは女神の写し身であり半身でもある“異端児”。

 他の誰よりも万能にして命を炉心に燃やし“万物の願い”を叶える力を持った、最も“神”に等しい存在──それが貶められた挙げ句黒海に沈まされ極限まで歪められた、地獄より生み堕とされた“不浄”の使徒。




 一度砕け散った彼の“神聖”は片割れを得た事に再び備え付けられた。

 “不浄”に身を染めながらもそれに相反する筈の“神聖”を得たその“邪悪”は、今世になり漸く歪にも“神”へと疑似昇華した。




 疫病撒き散らし呪詛を振り撒く──“祟り神”。




 それが成り損ないでしかない神擬きだった彼の、黒海に浸かり染まった成れ果てとしての姿だった。




「漸く……漸く手に入れたおれの“幸福ロヴィ”だ。誰に渡すものか……誰に傷付けられる事すら赦すものか……! おれのロヴィオ・ヴォルグは誰であろうと、神にだろうと渡さないぞ!! おれは絶対に手放さない、手放してなるものかッッ!!!」




 それを叫んだ瞬間、子供は一織へと飛び掛かる。

 黒く濁った手を振り翳し、捕らえた顔面に後頭部を地面へと叩き付けては強く地べたになじる様に押し当てたのだ。

 切れた舌が漸く修繕が終えてまだ身体が痛みに鈍くしか動けぬ中、押し付けられた手から、一織の顔面にドロリとした黒い液体が流れ注がれていくのが視界を遮られた中でもその感触にて解った。


「くひひひはははっ、抗うなら抗うと良いよ。おれの想いをいぃっぱい、込めに込めた命蝕む“呪詛”……その身朽ち果てるまで、どうぞ召し上がって下さいな……?」


 幼い甘えた声で“邪悪”が囁く。

 その危うさに皮膚がぴりつく程の重圧すら醸し出している子供に、その行為を止めるべくして近付こうにも周りのものにはそれが叶わない。

 ロヴィオだけでなく、アーサーですら彼から滴り流れた黒い水溜まりが足を捕らえて離さないのだ。


 そうして邪魔が入る事無く子供は目の前の男をなぶる為に本性を露にした──煮えたぎる怒りの余りに、その場にロヴィオの直の目があることも忘れて。


「うふふふふ、人間なんぞ皆さっさとくたばってしまえば良いんだ。この世で必要なのはロヴィだけ、おれの世界にはキミしか要らない……他の何も要らないんだ。煩わしいばかりのゴミ共は……そうだ。“掃除”してしまえば良いんだ。うふふふ、ははははっあははははっ!」


 ケタケタと嗤う子供はそう独りごちては掌を噛み切り、そしてそれを空へと向かって両の掌を向けた。

 先程には腕がもぎ取れようと赤い血の一滴も溢れなかった彼の身体。

 しかし噛み切られた掌からはその傷口からはごぽりと黒い液体が溢れ出て彼の身体をより黒く染め濡らし、泥を被るようにして身を穢しながら彼の身体から伝って堕ちた黒い液体達は地面にてみるみる内に末広がっていく。


「滅べ……滅べ、滅べ滅べ朽ち果てて仕舞え! 死こそが救済に思える程の生き地獄を味わえ──おれのように、」

「良い加減になさい、この聞く耳持たずめ。」


 子供の言葉が遮られ、ぴしゃりと言い放たれた声と同時に彼の後頭部を何者かが叩き倒す。

 不意を突かれた為に子供はその叩き付けられた勢いに前方へとたたらを踏み黒い水が足元を跳ね上がる。

 痛覚のないものの衝撃は感じ取れた事に子供は顔をしかめると、攻撃してきた相手の姿を確認するべくして振り返った。


「うわっ!? ……っ何? 誰だよおれの頭叩いた奴──、」

「私ですが、何か文句が御座いますでしょうか?」


 そこに居たのは、彼にとっては見たことのない人物。

 いつからいたのか、何処から現れたのか一切不明にして傲岸不遜の風貌。

 それは眼下の背の低い子供に対し顔を下げる事無く、視線だけを下に向けて見下ろしていた。


 背に燕尾の切れ目が付いた黒色のローブ。

 両目がそれぞれ違った色の銀と黒赤の瞳。

 頭の上にちょこんと乗せた小さな王冠の様な、慎ましくも赫々たる華やかさを映す装飾。

 そして片手には銀飾のメイスを持つ──恐らくそれで叩き付けたのだろう。


 そしてその風貌は“神村一織”に良く似ており、それでいて良く出来た美麗に整えられた精巧な人形の如き美しき少年──否、それは少女である。




「貴方の言葉、そっくり其の侭御返し致しましょう。……我が“神”にして我が主君たる御方をいたぶった其の大罪、他の誰が赦そうとも此の私──モーガンが赦しませぬ故、どうぞ御覚悟を。」




 前髪の下、目元を陰らせてはただならぬ空気を漂わせる少女がそういうと、子供は直ぐ様手を彼女へと黒い手を差し向けた。

 その手は振り上げるだけで黒い雫が滴り飛び散り、見るだけで此方に危機感や恐怖心を煽ってくる謎の液体を身体から滲ませる子供からのそれに微動だにしないモーガンは躊躇する事なくその向けられた手をメイスで叩き落とした。


「何十年……否、何百年ぽっちの蓄えた程度の呪詛で、些か調子に乗り過ぎでは御座いませんでしょうか。高が・・黒海の不浄程度、モーガンには利く筈が在りません。何故ならば──、」


 殴り倒されて地べたに転がった小さな身体を視線だけで見下ろしたままに、冷ややかにそれを口にした彼女は手に持っていた直立させていたメイスを真っ直ぐ上に持ち上げると、真下へと振り落とし末端を地面へと打ち鳴らす。






 ──ッカァン






 耳通りの良い、辺りに短く響く音を合図に空間が──否、“世界”が顔色・・を変えた。




「貴方様が喧嘩を御売りに成られましたのは“神”では無く“世界”そのもの。為ればこそ、大地に流るる魔力の一端精霊として世界の一部たる此のモーガンに差し向けたも同然……故にこそ“頭が高い”のは貴方様の方。……全く、一体誰の御陰でのうのうと今此処に存在していらっしゃる御積もりで?」




 彼女の澄んだ笛の音の様な心地好い声が辺り一面に広がる中、鳴り始めた地響きが辺りを不穏に揺らしていく。


 一体何が起きようとしているのか。


 辺りを見回して警戒する子供に、遠目から身を屈めていつでも対処できるように構えていたアーサーは目を細めその手を地に付けていると、振動から感じた“流れ”にそこへと視線を向けた。


「(から何か来る…!)」


 そう思った矢先、子供が立つ場所の周りから大地を貫き現れたのは、大きく逞しい大樹の群れ。

 本来直立不動かつ硬質な筈のその幹をうねらせながら幾つも、子供を囲う様に円を描いて突如生えたその木々は子供の身体を巻き込みながら空へと向かって絡み捕らえあげた。


 地べたに溢れ広がっていた黒い液体達を、木々が生え出た際に地割れた谷の中へと流し込んで尚も延び続けては捕らえたものを何が何でも離すまいと締め上げては逃げ場のない上空で確保したままにピタリと成長を止めた。

 その最中に“ぱきっぱきぱきっ”と何かが潰れ砕けていく音すら聞こえた事で、それが一切の手加減がされてない事が良く解る。

 その光景に身に覚えのあるアーサーは先程自分が受けたものよりもずっと容赦の無いその様子に、らしくもなく冷や汗の様なものに額を濡らす。


 近付けば巻き込まれ兼ねないそれを眺めていると持ち上げられた子供がいる上空の幹がじわりじわりと黒ずみ始め、その色に染まりきったと思った瞬間にはそこから木々が朽ち始めていった。


 上空で彼が何やら喚いているのは解るが、如何せん遠くて何も聞き取れない。

 余り長くは捕らえていられないだろう。

 見て取れる情報からそう察すると移し変えた視線の先で、何やら掌の上で光の粒を纏わせた器も無しに宙に浮いたまま渦巻く透明な液体を、上空の子供の事になど目もくれずにモーガンは眺めているらしかった。


 何かを“調合”し作っているのだろうか、理屈は解らないがその光景を見ているとそう感じる他なかった。

 少し間を置いた後に彼女が目蓋を閉じた事でそれが完了した事への表明とし、そして顔を上げた彼女は摺り足で──足を引きずる様にゆったりと、子供がいる方ではない方角へと歩みを進めて行った。


 その動きは鈍く、素早さは全く無い。

 走る事や早足で歩く事は出来ないのだろうか──アーサーの目にはそれが彼女には叶わない事くらい、その動きで見て取れた。


 怪我をしたまま、治さないままに残しているのだ。

 不便でならない筈のその負傷した足を引き摺っている様に、アーサーは彼女のその謎の“拘り”にそれを鼻で笑って馬鹿馬鹿しいと胸の内にて罵る。

 そして見ていて苦痛にも感じるスローモーションな動きから目線を逸らすと、子供の手から解放されて上半身をゆっくりと起こしてから手で顔を覆い隠したまま俯いて動かない彼へと話し掛けた。


「怪我位治せば良いのに、何をそこまで拘るんだか。ねぇ一織、あれの怪我くらいなら、僕が──、」


 途中で言葉を止めて、アーサーは彼を見て何がとは言い難いその“違和感”に首を傾げる。


「……一織?」


 その感覚を不可解に思い何と無くに名を呼べば、俯いている顔を押さえていた手がゆらりと落ちていく。

 目は閉じられたまま、口も閉ざしたまま。

 そんな彼を眺めている内に、アーサーはじわりじわりと悪寒を感じたかと思えば身体の末端から全身に掛けて無性に肌が粟立たせ始めたのだ。




 本能が警鐘を鳴らしている──“危険”が迫っている、と。




 しかし身体は動かない。

 今すぐにでも逃げなければ不味い事になりそうだと、その理由が解らずとも頭では理解しているのに足がちっとも動いてくれない。

 冷や汗が流れる、呼吸が荒くなっていく。

 鼓動が嫌に速く胸を打ちそれから視線を外せないでいると、その視界の端で揺らめく“影”を認識してしまった。


「……ッ!?」


 彼の下、天から照らす日光がその身体に遮られ作られた影。

 それが本人の微動だにしていない動きとは関係無しにユラユラと……無数の“腕”の様なものを靡かせていたのだ。


 寒い、背筋が凍り付く感覚に吐いた息が震えている。

 顔面蒼白でガタガタと震え上がる身体を抑えられないまま、それは軈て閉ざしていた目蓋を持ち上げていく。




「……ハァ………どうにか穏便に済まそうと思って此方が下手に出ていたのに、良くもまァ此処まで酷く調子に乗ってくれたな……?」




 膝を立ててはそれに手を付いて彼はふらりと立ち上がる。

 ぐるりと首を回しながら上げた、黒い水が濡らすその顔。

 眉間の間を流れる水の筋の横で、すぅ、と細められたその瞳。


 漸く開かれた彼の目に映っていたのは禍々しくも爛々と燃え上がる赤い目。


 彼の足元では影が波打っている。

 ズルズルと犇めく様な這いずる様な不気味な音を立てて“何か”が迫ってくる──それに気付いた途端、アーサーはすかさずその場から逃げ出すべく動かない身体に鞭打ち“視点”を切り替えて瞬間“移動”した。


「不味い、不味い、不味いッ……!! 何だあれは、何が起きているって言うんだ……!?」 


 最早命からがらと言っても差し支えがない程に焦りと身の危険を覚え、必死に“それ”から距離を取るべくして何度と視点を切り替える。


 此処は自分の知らない場所だから、自身のよく知る王国ではないから見える範囲でちまちまと距離を離す他ない。

 足が震えて覚束ないのだ、走ろうにも縺れてしまい地に足を付けた瞬間倒れそうになりながらも遠くへと離れようと急いでいたのが、くんっと引っ張られる感覚に突然足止まってしまう。


 ずず、ずずずず……。


 引き摺る音が足元から聞こえてくる。

 何かが自分の足を掴んで離さず、ゆっくりと身体の上を這いずって纏わり付いてくる。

 身体の奥底から溢れてくる尋常ならざる恐怖心に、見たくもないのにぎこちなく顔がそちらへと向いてその自分の身にしがみついているそれを視認してしまう。


 黒い──触手だ。


 見たこともない、知識にもない、得体の知れないその存在は“彼”の足元の影から真っ直ぐに伸ばされており、それだけでなく一本だけとは言わずに徐々に徐々に数を増やしながら四方八方へとその手を伸ばしていく様がアーサーの目に映ってしまった。




 カラン、と頭の中に渇いた音が鳴り響く。




 自身の運命を決める“賽”は投げられた。

 にじり寄るその黒い触手が握って離さない足から“みしっ”と骨が軋む音がした。




 出た目は末の数字ファンブル、彼“等”はもう──逃れられない。






 *****






 鈍足の彼女が漸く辿り着いたのはロヴィオ・ヴォルグの前。

 彼が庇護していた子供は今目の前で拘束され、見ようよってはいたぶられているにも関わらず沈黙しているのは、彼の意識が朦朧としている為。


「……随分と“堪えて”いらっしゃいましたね。其の身体も苦しくて堪らないでしょうに、よくぞ此処迄。」


 彼女の前で直立しているだけだというのにフラフラと身体が左右に揺れ、顔を上げるのもやっとらしいのに見上げたロヴィオは必死の想いでその思念を送り付けた。


『……頼む、彼奴を見逃してやってくれ。アレは只、愛情に飢えているだけの子なのだ……死んでも消失が叶わず、転生も叶えられず、力が在るばかりに居場所の無い子だ……誰かが傍に居てやらねば、愈々取り返しの付かない何かを、犯してしまいそうで……。』


 そして踏み出した前肢は、黒い水に浸っていたそれは力が入り切らず地に着かせた所で踏ん張りが利かずにどしゃりと倒れこんだ。

 虫の息な彼を視線だけで見下ろしていたモーガンはその無様な姿に目を細めると薄い唇を僅かに開き澄んだ声を吐き鳴らした。


「アレを庇うばかりに身を浄める事を為さいませんでしたね。其の御身体が今どう成って居るのか、御理解為さって?」


 彼女はそういうと彼の身体を覆い包むふくよかな体毛へと手を伸ばし、逆撫ですると露になったその下の皮膚は偉く黒ずんでおり“神聖”を焼く“不浄”がその身を蝕んでいる事を示していた。

 当然、あの子供に彼を害する意思などは無い。

 彼とて“黒い雌鶏”を内包した奉仕人形、自ら主人親愛なる御方と定めたロヴィオに牙を剥くなど有り得る筈がない。


 ……只、彼の愛情の“求め方”に恵まれなかっただけで。


『解っている……! 解っているが……私にはどうしても、放っておけんのだ……。親の愛情も知らず、生ける者にも死した者からも“消費”され続けてばかりで……頼れる者も無ければすがれるものすらない。そんな孤独な子を、どうして見捨てられようか……!!』




 “消費”──それこそが“黒い雌鶏”を表す性質にして、奉仕する上で最も当人が喜びを感じられる愛情表現。


 穢さない様に、汚れを知らないままに、庇護に加護にと過保護に愛でられた美しき籠の中の鳥。

 女神の半身にして写し身である彼は、神の末端で在ると同時に奉仕人形で在るからこそに他者への奉仕を、己の至高の喜びとするのは当然。


 但し、その在り方は他の賢者とは違う。


 “仮にも”女神の半身たる彼は奉仕され可愛がられ尽くされてこそ、愛嬌振る舞い心を癒し媚びを売る事で、人々を慰み尽くす──愛玩の獣たる“鳥”。

 自身を消費させる事で忠義を示す、それが彼の“表向き”の顔。


 しかしその裏側たる実態は残忍なものだ。


 その身に抱えたるは“万能”にして万物の願いを叶える炉心。

 まだ“籠の中の鳥”で在った頃、彼が座していた神殿には願いを叶えて貰うべくして人々は彼を女神の一端として信仰し、敬い、供物を捧げて、思い付かんばかりに全身全霊を持って尽くした。

 大勢の人々から愛でられ、多くの供物に喜んだ無垢に純粋たる少年が尽くし続けた彼等を認めて頷くと、漸く願いを叶えられる権利を得られた事に歓喜する事だろう。


 如何なる願いすらも叶えてしまうのだ。

 その中にはきっと悲願とし喉から手が出る程に求めた物すら、彼の御陰で手に入れる事が叶った事だろう──但し、自らが死した後で。


 炉心の原料とは命の灯火たる“魂”であり、彼こそが吊り下げられた“餌”。


 自分可愛く仕事を嫌い、女神がすべき“面倒神事”を押し付けて生み出されたものだったのだ。

 彼に釣られた人々は行く行くは女神の糧となるべくして誘い込まれ、食い付いた愚か者達を丸っと一呑みに喰らい尽くす。

 そしてそれは自身の糧──ではなく、女神の糧と成っていく。


 簡単に有象無象が万能の力にすがる事が出来、何でも手に入れられる事こそちゃんちゃら可笑しな話だったのだ。

 食前の愛でられる事こそ彼の本望であり、飲み込んだ魂は女神へと流れていく。

 しかしそれも“物足りなく”成ってきた彼は、軈てその矛先を変えていく──そして最後には自身を愛で利用していた女神ですら飲み込んだ。


 甘い香りで獲物を誘い込み、魅力的な餌があると思い込ませて“ぱっくん”腹の中。

 人も亡霊も、神ですら腹に収めてしまう際限の無い大食おおぐらいな神の遣いの御鳥様。


 それは自らを囮とした甘い罠ハニートラップの様なその在り方は正にウツボカズラ、即ちネペンテス。

 自身を消費させるつもりで捕食者を喰らう、被食者面した補食返しのひっくり返った相互関係──“蠱惑支配”の奉仕人形。


 それこそが彼であり──悲しいかな。

 それを“因果応報”と感じていた彼にはまだ、その自覚がない。




「──先程の自身を貴方様へ食させる行為、良く在るのでしょう? その身体の一番の原因は其れでしょうに、何故言って止めないのです?」


 労る様にその体毛を撫でながらモーガンは静かに、それでいて厳しくそれを指摘する。

 ごもっともと自覚しているが故にロヴィオもそれに言い返す事は出来ず、罰が悪そうに喉を鳴らしては俯いてしまう。

 後ろではバキバキミシミシと、幹が軋み唸る音がしていれどもモーガンは一切気にする事無く、それに見向きもしないでロヴィオの身体の状態を調べていく。

 軈て理解したとばかりに頷いたかと思えば先程作った掌の上の透明な液体の渦を、魔力にて作り上げた底の深いフラスコの様な硝子瓶へと収めていき、最後の一滴がちゃぷんと跳ねる音を聞き届けては一息吐いた。


「清めた水です。見た目は少なく見えますが、注げば注ぐだけ出る様に魔術を施して置きました。……幾らアレを気遣う為とは言え、其の身を犠牲にして仕舞っていては元も子も在りません。即刻治療なさい。」

『しかし、それを浴びると彼奴が──、』

「私の言う事を聞きなさいロヴィオ・ヴォルグ、此れは命令です。貴方に拒否権は……嗚呼もう、煩いですね。」


 彼等が話している最中ですら背後の、割りと激しい物音はいつまで経っても鳴り止まない。

 そうして苛立ちを覚えたモーガンは頬に怒りマークを張っ付けて、そこで漸く振り返ったのだった。


「何時迄も抵抗しなくとも、その内解放するのですから大人しく──おや?」


 自身が背にしていた光景を目にしたモーガンは“おやまあ”と驚きつつも何て事ない様に口元を手先で隠すが、その後ろでそれを認識したロヴィオはと言えば少しだけ身体を起こしつつも眼前に見えた“惨劇”に絶句した。


『な、何だ……これは……!?』






 *****






 “それ”は少しだけ、意識を飛ばしていた。

 朦朧とする中、自身を呼ぶ声が聴こえて“つい”そちらへと踏み入れてしまったのだ。


 ……“つい”?

 否、違うな。

 “敢えて”だ。


 馬鹿にするのも、手を出されるのも、余裕を持って赦してやろう。

 何れだけ異端だろうと、怪物なのだろうと相手は結局子供なのだ。

 “大人”として少し位は見逃してやろう。




 ……只、只な?


 過ちを三度・・・繰り返す様ならば、それだって“鬼”に成っても……仕方がないよなァ?






 *****






 黒い水溜まりが最も浸っていたその中心部。

 あの不吉な水を飲み込む程に逞しく幹を成長させていた木々を無惨にも唸りへし折りながら、濁流の如く無数のうねりを見せていたのは黒色の“触手”達。

 辺り一面を覆い隠す程のそれに埋もれ──否、顔を持ち上げたそれは“燃える三眼・・”の赤き眼差し。

 上空まで聳え立っていた木々は既に触手の海に薙ぎ倒されて地に落ち、その場所で捕らえられて居た筈の子供の姿はと言うと──、


『小僧ッ……!!』


 顔面蒼白にして駆け寄ろうとしたロヴィオの前に、モーガンが掌を差し向け静止する。

 立ち上がるのだってやっとだと言うのにそれでも彼が向かおうとした先には、身体をバラバラに砕け散らせた、地べたに転がる子供の姿があったからだ。


『止めろッ……それ以上その子供を痛め付けてくれるな!』

「落ち着きなさい、ロヴィオ・ヴォルグ。心配などせずとも彼は無事です──多分。」

『多分って何だ!? あれの何処が無事だと……!!』


 青ざめ焦り自身を阻むモーガンに言葉にて食い付いても、振り絞ったって身体は言う事を聞かずに力が入らない。

 そうこうしている内に、ロヴィオの目の前でその子供の身体は動きを見せ始めた。


 意識を失っているのかと思っていたそれは、確かに失ってこそいたのだけれども逆再生する映像の如く“元”の形へと戻っていって、そこに立たされていた子供は呆然とした様子で周りを見回していたのだ。


『……な、なんだ……?』


 尋常ではない、明らかに可笑しな事象にロヴィオは唖然としたままに独り言に疑問を口にする。

 先程には確かに身体を砕かれていた筈だと言うのに、遠目から見ても綺麗さっぱり傷一つ無くなっているらしい。

 本人もそれに戸惑いが隠せないらしく、黒い瞳孔を自身の身体の至る所へと向けては落ち着かない様だった。


 しかし自身へ向けられた視線を感じたのか、振り返ってロヴィオを視認すると安堵と悲哀が入り交じった複雑な表情を見せた──その瞬間、彼の頭上には大きく太い触手が振り下ろされた。




 ──ぐしゃっ




 がらくたが潰れる音が辺りに鳴り響く。

 彼の身体に赤い血が流れていたのならば、きっとその周辺には赤い血溜まりが出来ていた事だろう。

 しかし彼の身体は作り物の身体。

 脈もなければ熱もない、呼吸も要らず痛覚も無しに食事は叶わず。

 既に死んでいるからこそ生きていない、闇夜に移ろう幽霊でしかなかった彼だ。


 黒い触手がゆったりと持ち上がる。

 そこから砂粒がパラパラと落ちていく、その下には地にめり込んで再び砕けた子供の残骸。


 顔面から地べたに押し付けられたのだろう。

 今作られたばかりのクレーターの中では彼の表情は見えず、砕け散った後頭部と背中しか彼の様子を見られるものがなかった。


 自身の後ろで言葉を失い茫然自失にて戦慄くばかりで動くことが叶わないロヴィオ。

 それを横目に見ていたモーガンは人知れず小さく息を吐くと、もう一つの奥の方で何やらまだ抵抗しているらしい動きがある方へと視線をずらした。


 うねる触手の波に必死に腕を突っ張らせて、力んで腕や額に血管を浮かせながら纏わりつくそれ等に抵抗していたのはアーサーだ。

 牙を剥き食い縛り、脂汗を滲ませながらも抗っている様子ではあるが徐々に徐々にとその触手は彼へと迫り、その顔色には切羽詰まっている様にすら見られた。


「ッこンの……嘗め、るなよッ……!!」


 瞬間、彼の十字の瞳孔がキラリと瞬いたかと思えばその身からバチバチと弾ける音がし始め、電流が辺りに散らばる様にして走り始めたのだった。

 それは次第に走る電流の帯を太く鋭く、激しく打ち鳴らしたかと思えば、走る電流達はその触手の群れを一切傷付ける事無く霧散していった。


「クソッ……なん、で……!?」

「当然です。其の御方に魔法等向けた所で、何の意味も為さいませんので。……言ったでしょう? 其の御方は世界其の物・・・で在ると。」

「だからなんだって──……ッ!?」


 頭上から声が聴こえてアーサーは視線だけそちらへと向ける。

 悠長な声で冷静に、それでいて冷淡な声音でそれを告げたモーガンは、いつの間にか触手の上に腰掛けて絶体絶命のアーサーを見下ろしていたのだ。


「…どう、いう……ッ?」

「未だ解りませんか? 世界其の物と言う事は此の世の全てが我が神、我が君主で在り、其の地に巡る血流たる我等“魔力精霊”も彼の一部足り得るのです。そして──、」


 とん、とアーサーの傍に降り立ったモーガンが摺り足により近付くと、手に持つメイスの末端を向けたかと思えばそれを突っぱねていた腕の関節を“トン”と軽く叩き肘を折らせた。


「世界其の物たる御方に、世界が味方しない筈が無いでしょう?」

「止めッ──ぐあッ!?」


 抵抗していた腕を無効化させられた瞬間、防いでた触手がアーサーの首へと巻き付き一切の抵抗を赦さずに一瞬にして締め上げた。




 ──ボキッ




 骨が折れる音が響く。


 その瞬間かはだらりと首が不自然に垂れたアーサーの口からは、赤く色付いた泡が吹き出だした。

 目は見開いたまま、光を失い虚ろな眼には少しだけ水分が滲んでおり……見るからに死んでいる事は明白だ。


 しかしモーガンが見下ろしている最中に、それは動きを見せ始める。

 先程の子供と同じくして逆再生の流れで、くたりと垂れた頭も口から出た泡も元通りに。

 前方に投げ出すようにして起き上がったアーサーは荒い呼吸と大きく見開いた目、震える肩で茫然とそこで立ち尽くしたのだった。


「はぁッ……はぁッ……い、今……死ん……!?」

「ええ、死んでいましたね。如何でしたか? 自分が行った事が“反って”来た感想は。」


 直ぐ隣の触手の上でしゃがみこみながら、大量の汗を流しながら恐怖に引き釣った顔のアーサーを見下ろして、美しい笛の声音を冷ややかなにしてモーガンは問い掛ける。


「そんなのッ……、」

「嗚呼、そう。そう言えば後もう一回、貴方様は我が主君を手に掛けていらっしゃいましたね?」


 その言葉に思わず喉から“ヒュゥ”と息を呑む音が鳴る。

 見開いた目がモーガンへと向けられ、そこから滲み出した透明な水が溜め込み始めていく。


「ひ……い、嫌だ……! もう、死にたくな──、」

「大丈夫ですよ。貴方様が殺したのは“たったの”一回。後は悪戯にいたぶった分だけ……善かったですね、死ぬのは一回で済んで。」


 頭上に影が差し掛かる。

 逃れようと身を捩らせるも、触手の波に飲まれ埋もれてしまった足が抜くに抜けれない。

 いつものように、王宮の様に“移動”しようとした所で既に・・試して駄目だった事は解っている。

 自身が現れた所に、先を越されて潜んでいた触手が仕掛けられていたのだ。

 それで辛うじて逃げ切った所で、結局捕らえられてしまってはこのザマだ──自分はそれに全くもって手が出ないままに、一瞬たりとも敵わなかったのだ。


「……嗚呼、でも、未だ・・死んでいた方が良かったかも知れません。意識が在る侭に痛め付けられるのは、とても辛く御座います……其れは貴方様も、良く御解りでしょう?」


 彼女が話している間にアーサーの周りで触手達が渦巻いていく。

 引き釣った顔を恐怖に歪め、溜め込んでいた涙をボロボロと落としながら唇を震わせたアーサーは認めたくない現実に首を横に振りながら「止めて」「嫌だ」と口にする。

 しかしそれを聞き入れる者はそこに誰一人として聞き入れる事無く、触手は迫っていく。




 こんなの、初めてだ。

 まさか王宮の外には自分ですら敵わない存在がいたなんて。




「……ッごめんなさい、ごめんなさいぃ…!! もうしないからッ……反省するから許してッ、痛いのだけは止めてぇええッ……!!」




 涙声に掠れた声が、涙にぐしゃぐしゃになった顔で精一杯に声を張り上げて、生まれて初めて心からの命乞いに泣き喚く。

 響く嗚咽と身を縮込ませて震える身体、俯いてしゃくりあげる度に揺れる肩と垂れた髪。




 無様だと思う、自分でも。

 情けないと思う、心から。




 それでも先程見た彼の懇願する姿と比べて、どうしてだろう、天と地程に差があるその自分の惨めな姿にそこで漸く自身の自惚れが有った事に気付いた。

 その虚しさからアーサーは“また間違えた”と自覚した瞬間に、いつか同じ様にして失った“大切なもの”を思い出して、尚更大きな声で子供みたく泣き叫んでしまうのだった。


「ああああああっ……うあああっ……!!」


 息を呑む度に、鼻を啜る度にポタポタと雫は落ち濡れた毛先が視界の中で鬱陶しく揺れる。

 いつの間にか動かせる様に成っていた腕で、何度と目を擦っても涙は全然止まらない。

 涎が垂れてしまう程に大きく開けた口からははしたなく吐き出す嗚咽と泣き声で、止めようにもしゃくりあげた時に息を吐いてしまうから閉じきれない。

 鼻が鼻水で詰まって呼吸が出来ないのだ。

 もう19歳に成ると言うのに、子供みたくって本当に嫌になる。




 ずっとずっと、本当は泣き虫で臆病なのをひた隠して、恐ろしくて仕方無い大人達の前で“本当真実”を“”に閉じ込めて誤魔化してきたのがはち切れてしまった。


 思い込んで強がりたくても、自覚してしまえば意味がない。

 誰かの為の強がりはいつからか、間違った事すら隠してしまうのだからもう使う訳にいかない。

 もう間違えたくなかったんだ……もう間違えたくなかった、のに。




「ごめんなさい……ごめんなさい…ぐすっ……ひっく、ごめんなさいぃ……!」


 眼下で涙に唾液に鼻水にと、顔をぐしゃぐしゃにして啜り泣いている“少年”を見下ろす。


 彼が抵抗を止め泣き喚く様になってから、するすると身を引いていく様になっていった触手が三眼の在る中心部へと集まっていく様を眺めてはモーガンは立ち上がると、その足を乗せていた触手を伝って其処へと向かっていく。

 その最中に一つの触手が彼女の傍に寄せられて、モーガンはそれに手を乗せるとエスコートするべくしてその触手は受け取った彼女の手を引いた。


「……仕方の無い御人です事。未た元に戻れなくなって仕舞ったのですね?」


 呆れたように、それでいて愛おしげに呟かれた笛の様な声音に、目の前にした燃える三眼は罰が悪そうに細められる。


「ええ。ええ。大丈夫ですとも。私は何度でも貴方様を御迎え致しましょう。貴方様が人で在りたいと想う限り、私は何度でも海を渡りますとも──星海だろうと、黒き海であろうと。」


 その為に、翔べなくなった空泳ぐ為の翼は捨て去ったのですから。


 そう口にしなくとも胸の内に言葉にした彼女はその触手が重なって盛り上がった中へと、メイスを光に霧散させて空けた両手を沈め込んだ。


「貴方の手は此の形。」


 そのまま歩み進め足を踏み入れる。


「貴方の足は此の形。」


 全身浸かり触手が身体を呑み込み、中へ奥へと誘っていく。


「貴方には目と鼻、口が御座います。それに耳だって──私の声は、ちゃんと届いて居られますか?」

「……嗚呼、届いているよ。モーガン──俺の恩人、俺を救ってくれた小鳥。」


 彼女が伸ばした手に同じ形の……それでいて少し大きな掌が重ねられて、辿り着くまで少し不安はあった彼女の口から安堵の息が溢れた。

 そうして彼等の手がしっかりと合わせ握り締められると、ヴェールが風に吹き飛ばされるように触手の群れは光に溶けて霧散し、辺りは日の元に晒され明るくなった。


 彼女は目の前の、いつも通りの一織をじっと見詰めると軈て緩やかに口元を緩めて、それからその胸へと身を寄せ凭れていく。

 それを拒む事無く、只心配をかけさせてしまった事への申し訳無さに、身を委ねた彼女の背中を撫でながら何処か居心地悪そうな声が彼の口から溢れ落ちた。


「……なァ、モーガン。やっぱりその“顔”はどうかと思うんだが……別の姿に変える気は──、」

「断固拒否で御座います、我が主君。私の此の御尊顔、素晴らしい出来で在り、誰よりも美しき誇り高き貴方様と同じ顔。大丈夫です、此の顔を汚させる輩が居られた場合には我が“肉体言語魔法ぶっぱ”にてぶちのめして見せましょう。塵芥遺さず、消し炭すら遺しませんとも。」

「否物騒過ぎるだろ、それは! あと俺はそんなに美形じゃあねェし、女でも無いんだぞ!?」

「……? 私の名の元である“モーガン・ル・フェイ”は魔女なので、私も女で在る事に可笑しな事等何一つとして御座いません。それから此の風貌は私の趣味なので。貴方様から頂いた“名”とは話が別なのです。悪しからず。……はぁ、何時見ても麗しゅう御座います。我が主君と同じかんばせを選んだ我が英断、流石としか言い様が御座いません……一層の事我が神の雄姿を何時でも見れる様、御神体でも御作りするのもまた一興かも知れませんね。……ふむ、今後の予定を組むに其れも視野に入れておきましょう。」

「~~~っ……!! 嗚呼もう解った! 解ったから俺の顔でうっとりするな、鏡を出すな、賛美をするなーーっ!!」


 辺りの惨状が彼等の背景で元通りへと戻っていく中、三方各々に打ちのめされている森に在る広場から一織の心底込められた羞恥の叫びが虚しく辺りに木霊するのだった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る