第二幕 差異の迦楼羅

18.牙を折られた獣、爪を隠した獣。

 いつだって私達は一緒だった。


 生まれに然り、為す事に然り、見た目に然り。

 髪色、目の色、肌の色、身長も身に付けた服も、何もかも。

 一文字違いで同じ色の名前以外は全部左右対称、比較も見分けすら私達には意味を為さない。


「ねぇ、今日は偉く雪が降るね。」

「そうだな、これだと夜には家が埋もれてしまいそうだ。」


 いつも離れないようにと握られていた手。

 それにぎゅっと力を込めると、困った顔をしたがくしゃりと笑って振り向いてくれる。


「痛いよ、そんなに力を込めないでも、俺はの事をちゃんと解っているよ。……不安なんだろ? 俺がそんな事にはさせないからさ、何も気にする必要ないよ。」


 そう言われて見れば、加減を間違えてしまったのかの手は赤色が少し滲んでいた。

 慌ててその手を放してしまい、空いた手を擦るその姿に申し訳なくなって俯いて、思わず泣いてしまいそうな情けない気持ちになる。


「ごめんよ……また失敗してしまった。力が有っても加減が出来なくちゃ、頭の良い君みたいに上手くいかないや……。」


 伏せた先の視界に映る服の裾を掴んで、やるせない気持ちからじわりと視界が潤んでくる。

 すると自分を両側から包み込む様に覆った自分と同じくらいの腕が、触れ合わせた頬の温もりが、自分の失態を赦してくれる事を伝えてくれた。


「大丈夫、このくらいどうってこと無い。……でも“君”って呼ばれるのは嫌だ。まるでが俺から離れて行こうとしているみたいで、寂しくなってしまう。」


 そう言って離れた身体、手は再び繋がれた状態で私達は額を合わせた。


「力が強くて短慮な、頭が良くて惰弱な。俺達は二人合わせて漸く一人前なんだから、ずっと一緒じゃなきゃ。離れてしまっては片割れだけじゃ上手く歩けやしないんだから、この手は絶対放しちゃ駄目なんだよ。」


 優しい声音が、温かな音色が、失敗ばかりで上手く“自分”を愛せない……自己嫌悪ばかりの私の心を、いつだって優しく温めてくれる。


「“自分”を悪く言わないで、は俺でも在るんだから。そう思われてしまうのは辛いし、そう思っているのだって苦しいよ。……大丈夫、俺は絶対を見捨てない。この手を離してなんかやるものか。」


 ぽろりと落ちた一滴に目もくれず、見上げた先の鏡合わせな同じ顔。

 “自分”を愛せず“他人”にすがる私と、“他人”を愛せず“自分”に拘る俺。

 誰もが皆上だの下だのと、ふんぞり返ったりへこへこしたりするこの世界で私達は二人だけ“同等”として、互いに区別をしないで生きていた。

 どちらも寂しがり屋で甘えたがりで、二人っきりのこの閉じた世界で生きる──それが双子の私/俺達だ。


 親はいつからか帰らぬままに、人里離れ、誰に頼る必要はない自給自足をこなしながら暮らす雪国の外れ。


 寒ければ木をころう、誰に負けない力持ちの私が鉞一振りで薙ぎ倒す。

 腹が減れば知恵を絞ろう、誰をも思い通りにする俺が策を練って獲物を捕らえる。


 兎も鳥も、猪だって、私達には敵わない。

 誘い手の内罠の中、首と体に一刀両断真っ二つ


 真っ白な雪景色キャンパスに鮮やかな赤色で彩って、噴き上げたばかりの熱い血潮が湯気を揺らめかせながら冷ややかな雪を溶かしていく。


 これは私達にとって今日の“飢え”が無い事への合図。


 飢えは恐ろしいものだ、大切なものを見失ってしまう。

 貧しさは敵だ、大切なものを壊してしまう。

 満たさなければ、足りないのなら補わなければ。


 空いたお腹に美味しいご飯をいっぱい詰め込んで。

 薪を入れた暖炉に火を点けて、四つ並んだ冷えた足を温めて。

 繋いだ手は離さないで、このままずっと一緒に居られたら。

 そんな、穏やかな生活を続けられたら──きっと幸福なままで居られる筈。




 (──本当に?)




「これで暫くは食糧にも薪にも困らないな。」

「帰ろうか、沢山働いたからお腹もぺこぺこだよ。」


 はにかむ笑顔が隣り合わさって、晩御飯は何を作ろうかと話しながら我が家へ向かう雪道を進んでいく。

 いつも通り、代わり映えない毎日。

 そんな中で“違い狂い”が起きたのは、どんなヒト神様からの思し召しだったのだろうか。


 そんな、厳しく寒い冬の日のこと。

 雪の中から見付けたクラシックな金色の鍵と小さな箱に私達は出会った。


 いつも通りじゃない出来事に、心踊らせる私。/不安に曇る俺。

 もしやと思い試してみれば、形が全く異なっても“何でも開けられる”金の鍵で錠前付きの箱はすんなりと開いた。




 入っていたのは銀色の鍵と黒い宝石。




 それは私と俺の運命これからを変えていく──後に“グリム兄弟”と呼ばれる様になる二人への、終わりと始まりを示す合図サインだ。






 *****






「──おい、何意識飛ばしてンだ?」


 乱暴な口調の声が、気が抜けてしまいそうだった意識を引き戻す。


 荒い呼吸、上下する肩、視界がぼやけてくる程に積み重なった疲労感と身体の怠さ。

 ふらりと後ろに倒れ掛けた身体を咄嗟に後退り足で支えて、頭を振って意識をはっきりと起こさせると、滲む汗を垂らしたままに前を見据えた。


 前方へと向けた己の両手の先。

 幾何学模様の魔法陣が映された床の上で、ひっきりなしに何処からか引き寄せられて来た朧気な“何か”達がその中心部のモノへと吸い込まれていく。

 そんな光景をもう何時間と、磨り減っていく体力と度々途切れそうになる意識に歯を食い縛りながら、限られた魔力を流し続けながら眺めていた。


 式典は終えた今、あれからもう何時間と経った事だろう。


 あの時、自分を求める何千何万と多くの人々からの歓声に脆弱なこの身体は耐えきれず、気が狂う前に意識を飛ばしてしまった。

 プツンとか細い線が切れたように、気が遠くなった後に目を覚ますと目の前には愛する弟が──否、彼を乗っ取った本来の実弟が、まるで汚ならしいゴミを見る様な眼差しで硬い地べたに横たわる自分を見下ろす光景が視界に映った。


 楔を無理矢理に撃たされ、使役されやすく作り替えられる身体が未だに馴染み切っておらず、同時に病とストレスにジリジリと元より少ない体力を削られて尚、そんな自分を叩き起こした彼は早速に自分へ“仕事”を命じてきた。


 元の賢者としての名──“レメゲトン”と同じ名称を持つ魔導書に書き連ねられた“亡者を使役する”という彼の能力。

 それを使って“とあるものへ供物を捧げろ給餌をしろ”と彼から命令。


 それからというもの、最早瀕死な身体に鞭打ちながら今世に人として生きる彼──ソロモンはそれをずっと行い続けていた。


「ごめんよ……少し、意識が──、」

「ンなこたァ見りゃ解る。サボんなっつってンだよ、要らねぇお前を此方が親切に利用して使い潰してやってンだ。気ィ失う暇がありゃきびきび働け、この盗人野郎が。」


 辛辣に、冷ややかな声が背後から吐き捨てられる。


 “盗人”──今まで受けてきたどんな罵倒よりもずっと自分に突き刺さってくるその言葉に、一際込み上げてくる感情から目頭がつんと熱くなってくる。

 何か言いたい気持ちもあるのだけれども、それを自分が言った所で相手に響く所かきっと何倍にもなる、苦しくて痛くなってしまう言葉が返ってくる事はもう何度と経験してきたから良く解っている。

 そう考えるとやはり何も言えないままで、ソロモンは口にしたい言葉を呑み込むと「……はい」と苦し紛れな返事を返すしか出来なかった。


 自分がどう下手に出ようと、気を使って言葉を並べても、全てを拒絶して受け入れてくれない彼の“他人嫌い”なその言動は、その“見た目と声”も相まって胸の内を酷く揺さぶってズキリと痛ませてくる。


「(……アルクレス……私のアルク……。)」


 かつての自分の実弟──他の誰よりも自分を憎んでいる人物にその身体を乗っ取られた、今世の異父弟。

 名前を呼べばいつだって、時折面倒そうな事もあったが、直ぐ様駆け寄って身体が弱い自分を心配してくれた“ソロモン今の自分”としての愛する弟。

 今では彼の意識は無く、彼の身体を借り扱っている実弟の方──ネクロノミコンが鋭い目を向けて自分へと軽蔑の感情を向けている。


 彼とだって、自分と同じ血を分けた兄弟なのだから仲良くしたい──そう想い続けて、今までもずっと解り合える様に何かと考えて行動してきたつもりだったのだが、どうしたって結局今も昔も対して変わらない。

 “他人”を何よりも嫌う彼は、只の血の繋がりしかない……兄弟でしかない赤の他人である自分を、決して受け入れてはくれないのだ。


 何故? 自分の何が駄目なのだろう?


 これまで何度と繰り返した自問自答に、再び取り戻した筈の“自信”が打ち消されていく。


 この世界が完全となる前、生き物が息づくようになる前。

 この世界へと降り立つ前に、自分の故郷だった“らしい”朽ち果てた世界で、神様から新しく生み出された“自分”。

 あの頃は予め備え付けられていた“力”が在るくらいで、それ以外はからっきし、記憶も何も持ち得なかったけれども、あれからもう随分と長い時が経ち自分も成長出来ている筈──そう、思っていた。


 始めはずっと眠っていた彼が、目を覚ます前から「彼が御前の弟だ」と仲間から伝え聞いていたので、この何もない自分にもあの“全く似ていない兄弟グランとノワール”みたいな確かな繋がりの在るヒトがいるのだと、彼の目覚めをずっと心待ちにしていた。

 しかし、彼が目覚めた時の出来事は自分が思っていたよりもずっと、悲しくて辛い、とても苦しいばかりなものでしかならなかったのだ。




『誰だお前は……何“”のフリしてその身体を使ってやがるッッ!!』




 響く怒号、浴びせられる罵声。

 “出ていけ”、“返せ”と喚く目覚めたばかりの彼を、今にも殴りかかってきそうだった彼を仲間達が引き留めて、突然の出来事に固まって震えるしか出来なかった自分には誰も目もくれず、うちひしがれる彼を皆が囲って宥めていた。


 怖かった。

 兄弟なのだから、彼ならきっと自分を受け入れてくれると思っていた。


 仲間だと知らされていた周りの彼等は、生まれ変わった自分に何処かよそよそしく腫れ物を扱うみたいに自分に過保護の如く接していた。

 その向けられる感情から“懐疑心”であることに、自分が彼等から受け入れられていない……それくらいは気付いていた。

 彼等とて同じ感情を糧にする者達なのだから、その自覚は有ったのだろう。


 合わない視線やはぐらかす言葉。

 それから自分が口を開こうとすると身構えて、警戒し始める……あのピリついた空気感。


 自分とてそれは、したくてやっている訳ではない。

 “神様”から「不審な行動や反逆の意思が見受けられたら、その意思を持たせないように屈服させて」とお願い・・・されたから、歯向かわない方が彼等の為にもなるのだから、自分はそれを制止していただけだ。


 始めの頃は何度か、主にグランばかりではあったけれども、制止し屈させて自分達の“やるべき事”へと、半ば無理矢理ではあったが向かわせていた。

 その度に彼等の目からは「逆らう事は無駄なのか」といった諦めの色と、彼等を強引に従わせる自分を“神様からの監視役”として見る余りに味方の枠の内から外されていった──否、どうだろうな、始めから入っていなかった様な気もする。

 そこで、実弟が目を覚ましてからは愈々神経質に周りの言動に突っかかっていく彼の目と、その原因である自分の扱いに面倒に思ったのか、次第に自分はそこにいるのに居ないように扱われていった。


 それでも、グランだけは違った。

 あれだけ屈服させて苦渋を味わわせていたというのに、その自慢のを折り続けてすっかりと抵抗の意思は削げられても、その元より備わっていた大それていておおらかな態度は変わる事が無かった。

 彼はとても面倒見が良いヒトだった様で、自分がぼんやりとしているとしきりに話し掛けてくれては誰からも見向きもされない自分の相手をしてくれていたのだ。

 此方としても誰からも関心を向けられず、例え受けたとしても向けられるのは敵意ばかりで胸の内が黒ずんできて、どうにも“嫌な”考えばかり想像しては思い直し打ち消して……を繰り返していたのだから、彼の気遣いにはとても助けられた。

 感情を糧にする“人形”である自分にはその感情が“同情”である事くらいお見通しであったのだけれども、そんなことは全然どうだってよかった。


 それを気にしていられる程、満たされた事が無かったのだ。


 些細なものでも与えられれば嬉しくて堪らなく次を求めてしまう程に、0から何も与えられる事が無かった自分には“敵意”と“憂惧”の感情以外に、冷やかでなくて自分を受け入れてくれるその感情が欲しくて止まないものでしかなかったのだった。


「……ったく、あの糞蜥蜴のせいで予定も計画もスケジュールが大分狂っちまった。少しズレたが“ブツ”も手に入れられてから、目的達成まで後少しだってのによ……。」


 ぶつぶつと文句を垂れ流す彼は、王宮の地下深くにひっそりと造られた大きく開けた空間、薄暗き石畳の間にて壁を背にもたれ掛かってそれを眺めていた。

 眉間を軽く摘まみながら何やら考え事に、此方からは聞き取れない独り言を続けている彼に気を取られていると、一際“持っていかれる”感覚を覚えた瞬間またもや意識が飛び掛けてしまう。


「……っは、ぅぐッ………ハァっ、はぁっ…………げほっゴホッ、がはッ…!」


 思わず喉奥からせり上がる感覚に苦し気な咳が口から零れ、一層強い痛みと共に吐き出されたのは血交じりの吐瀉物。

 その殆どが赤い液体ばかりで、その床に新しく作られた血溜まりへと口から垂れた赤い唾液が顎を伝ってぽたりぽたりと落ちていくのを、立っているのがやっとな震える膝越しにてぼんやりと視界に映す。


「(不味い、また、意識が──、)」


 気を抜けば落ちてしまいそうな危うい意識の中、ソロモンは唇を噛み締めてその痛みでどうにか意識を保とうと踏ん張る。

 これ程までに込めた魔力を、今此処で途切れさせてしまえば今までの苦労は台無しだ。

 それだけでなく、それ程までに込めた魔力の塊なのだ。

 中途半端に打ち切ってしまえば何が起きるか解ったもんじゃない。

 まだ危ない綱渡りの延長線上なのだから、気を失ってしまう訳にはいかないのだった。


 それに此処で“役”に立たなければ、彼は愈々自分を見捨ててしまう……アルクレスだって、用済みとなった自分が切り捨てられた後どうされてしまうかなんて事想像したくもない。

 ネクロノミコンがアルクレスの内側にいる間は、どうしたって自分は弱味を握られたままなのだ。

 どんな嫌な事だろうと逆らうなんて出来る筈もなかった。


「(もう……もう二度と、間違いたくない……大切な人達を、誰も失いたくない……!)」


 弱気になって涙を溢してしまいそうになるのを堪えて“かつて”の記憶を思い起こし、挫けそうになる自身を奮い立たせる。


 故郷である世界を壊した自分。

 それは今の自分とは違って、随分と“壊れた”ヒトなんだと自分でもそう思う。

 どうして“そう”したのか。

 同じ自分だからかその気持ちは解らなくは無いけれども、今の自分にしか経験する事が叶わなかった“出来事”を経た今ならば“そう”したくはない──そう思える程に、曾ての自分とは随分と欠け離れてしまったらしい。


 そんな“思い出した”過去とは別に、今の自分にしか持ち得ない記憶が“ソロモン”として今在る自分を形作っているのだ。


「……っく、ぅ……!」


 今にも倒れてしまいそうな中で、その朧気な何か──“闇夜をさ迷う亡霊達行き場の無い魂”を絶え間無く引き寄せ掻き集めていく魔法陣の上の中心点──“玉虫色の珠”は、脈動の様な重く響く振動を起こしながら集まったそれらを喰らっているかの様に吸い込んでいく。

 その際限の無さにはこれがいつ終わるのかという疑問を抱くに難しくない程に、その量と時間にソロモンは元々弱りきっていた身体という事もあり、もう何度と意識を手放しかけては見張る彼に叩き起こされるのを繰り返した。


 そんな中で、漸く変化は起きる。


 溜まりきった披露と比例して枯渇していく“糧”に愈々限界値を迎えてしまいそうになった時、その“玉虫色の珠”からどす黒い“何か”が込み上がり始めたのだ。

 込み上げる様に、滲む様に、その表面から湧き出た粘液状の黒色がドロリとその珠を包み込み、それはじわりと面積を広げては波打ち粘着質な水音を度々響かせていた。

 泡立つマグマの如く吹き上がるあぶくに弾けたその雫が飛び散ると、その得体の知れない水分の様な生き物の様な粘液状の物体はそこからも広く大きく形を変えていく。


 その光景の余りの異常さ、異質さに、いつの間にか魔力を送り込むのも止めて呆然とそれを眺めて固まっていると、後ろから駆け寄ってくる足音と興奮に息を飲む気配が直ぐ側で感じられた。


「嗚呼っ……漸く、漸く彼の御方を御目に掛かる事が出来る……!!」


 今までの彼からして想像が付かない程に、今だ嘗て聞いた事の無い程に“歓喜”の熱が籠った声音に、信じられなさにぎこちなく視線を向ける。

 隣に立った彼はあの得体の知れない物体を見詰めて昂る感情にその頬を紅潮させ、向ける眼差しはうっとりと恍惚の色を映していたのだ。

 喜びの余りに唇を震わせては跪き、胸元にて手を組み合わせてまるで神を崇める様な姿の彼は目の前のそれへと両腕を差し向ける。

 湧き出し始めてからそれ程経っていないというのに、あっという間にこの広い空間を埋め尽くしてしまいそうな程の、まるで“黒い海”の様な形容しがたい何かへと、それに触れそうな程に身体を寄せたアルクレスネクロノミコンは“それ”を口にした。


「いあ いあ んぐああ んんがい・がい!」


 その言葉に反応してか、一際大きな気泡が弾けた。


「いあ いあ んがい ん・やあ ん・やあ しょごぐ ふたぐん! いあ いあ い・はあ い・にやあい・にやあ んがあ んんがい わふる ふたぐん──、」


 煮えたぎる黒色の不定形、光を灯しては目映い輝きを黒色の合間から漏らし放ちながら、それは形を決めかねるように彼が口にする“呪文”に合わせて身を捩らせる。


「──よぐ・そとおす! よぐ・そとおす! いあ! いあ! よぐ・そとおす! おさだごわあ!」


 その呪文が唱え終わった瞬間、覆い被さりそうな程に広がりを見せていた黒い海はまるで逆再生する映像の様に収縮を始めた。

 広がるよりも早く中心部へと戻っていったそれは、宙に浮いては虹色の輝きを湛える玉虫色の珠を黒く濁らせていき、再び吹き上げた黒色がそれを形どっていく。

 そして、それは軈て──人の形へと“納まって”いったのだ。


 そう、その黒き海の如く広がりを見せた後に全てを内包したまま形を為したそれは、“全身真っ黒”の人間の形へと変貌した。


 まるで目の前のアルクレス──ではなく、その内側に存在するネクロノミコンを鏡写したかの様なその姿に黒以外の色を含められていない。

 影すらも呑み込むその色で、それが顔を持っているのか、男なのか女なのか、髪があるのか長いのか。

 黒く濁った玉虫色の球体を胸の中心部に納めている事以外全てが曖昧にして、考えれば考える程に“そう”かと思った事に“異”を示す様に視認が定まらない。

 言うなれば、それは人の形をしたままに“流動”しているのだ。

 それで、此方がそれを見て思考が定まる前に形を変えてしまうので一概に決め付ける事が叶わず、只ひたすらに此方の意思や思考を否定し続ける──そんな在り様をした“何か”がそこにいた。


 これが“かのゲーム”ならば、彼はそれを視認した時にその後の運命を定める賽は投げられたのだろう。


 その光景に解を求めれば求める程に自身の内に湧き起こる“恐怖心”。

 自身が持ち得る常識と重ねる程に打ちのめしてくるその“異質さ”。


 誰の理解も及ばぬ先に、只そこに在るだけで混沌とした禍々しさと狂気を振り撒く得体の知れない“何か”と相対した彼は、その頭の中で警告を越えた危険信号がけたたましい鐘を打ち鳴らすかのように、その想像する以上の脅威さを自分へと報せていた。


「……っ……ぁ……!」


 思わず逃げ出してしまいそうな足が、縺れるだけで後ろへとたたらを踏む。

 無性に身がすくみ、震えは止まぬままに自らの身体を抱き締めて屈めるもそれに向けた視線はどうにも外せずに、胸の内では嫌でも凝視したままだった。


 逃げなくては、あれを理解しようとしてはいけない。

 今すぐ目を背けて、此処で起きた出来事は全て忘れ去らなければ。


 頭の中では最善策が自分へとそう伝えてくれるのだけれども、釘付けとなった意識は外れないまま。

 脳内で散りばめられていたパズルのピースがぱちり、ぱちりと鳴らしては欠けていた型を嵌めて“元の形”へと戻して行くかのように──、


「邪魔だ、退けノロマ。」


 不意に、身体が後ろへと引かれて乱暴に地べたへと叩き付けられる。

 尻餅を着いて硬い石畳に打ち付けた腰が痛むのを感じながら漸く外せた視線を目の前に立ち塞がった彼が、自分と“何か”の間を遮るようにそこに立った。

 頭の中のピースを再度ぶちまけられた彼は、ハッと我に返ってその背中を見上げるも、その此方を向く気のない後ろ姿はやはり此方を拒絶したままに思えた。


「──これでもまだ、足りんのか。」


 それを見定める様に、見るだけで正気を失いそうなそれを見遣った彼がポツリと呟く。


「やはり“ネクロノミコン”じゃあかの御方を喚ぶに情報が足りんな……鍵を使うにしたって時間は掛かりすぎてしまうし、今回は特に目覚めるに随分と手間取ったんだ。これ以上遅れを出す訳にもいかん……“あの時”みたく場を離れるというのも……ふむ……。」


 ぶつぶつと巡らせた思考を呟き策を練り上げる彼。

 求めたものと違うらしいそれを前に、軈て目を細めると彼は躊躇無くそれへと歩みを進めて行った。


「思うにこれはまだ型を為す前の“幼体”なのだろう。今はまだ“中身パーツ”が足りなくて曖昧模糊を形取るのならば、この俺がくれてやる。」


 誰に言うでもなく呟かれた言葉を境目に彼は目の前にしたそれに手を翳すと幾何学模様ではない、円の内に二つの星を連ならせて入り組んだ線を引いたかの様なシジルが彼等の足元から現れて、それは赤黒い輝きを放ちながら窓の無い空間に旋風を吹き起こし始めた。


 その光景に見覚えのあるソロモンは、曾て地上に送り出す生物を造り上げる時に彼がその名と同じ名称を持つ“ネクロノミコン”たる魔導書の力を使った時と全く変わらない様子に目を見開いた。


「(あれを生物として存在の固定化をするつもりなのか……!?)」


 そんな危険極まりない行為に、直ぐ様止めようと身体を起こして立ち上がるべく力を込めるも、足がすくんで腰が抜け、情けなくも恐れをなして動こうともしない身体は彼の意思に逆らうばかりだった。

 彼のその様子など気にも止めないアルクレスネクロノミコンは思案を重ねて細めていた目を閉ざすと、曾て自分が“我が子”共を創った様に──今後利用するに都合良く扱える様に、それに与える要素マテリアルを加えていった。




「形を定めない望む型へと変貌を可能とする“不定形”の概念は“粘土”……否、“スライム”から──全を一として一を全とする“集積物での個”の概念は“サルバ”から──、」




 存在し得ないものを存在しても可能なものへ近付けていく、既存である要素を詰め込み不確かを確かに定めていく“生物創造”の儀式。

 自身たる魔導書に記された存在へと形を定めさせていくそれは、他の誰よりも一際禍々しく異質な気配を伴わせた彼のその力が、翳した手からその先の得体の知れない“何か”へと送り込まれていく。




「──“存在、その容積の不確かさ”を表すに“不浄の黒海”を内包させ、繋げ、其の物を“我が求める物此の世の地獄”へと誘う存在へと化すがいい。名を与えるは“三途の川ステュクス”から、此の世の終焉の始まりを示す“αアルファ”──【α・ナリヤ】」




 彼の“名付け”がその口から紡がれると、それを確定させるべく浮き出す魔法陣が目映さを増していき、目が眩んで開けていられなくなるソロモンは顔を腕で覆い隠した。

 旋風が激しく渦巻き、輝きは振動を伴いビリビリとした重圧と共にその存在の曖昧模糊だった気配が段々と形を定め、確かにしていく。


「……俺がお前の“親”だ。精々役に立てよ、我が“娘”──αアルファ。」


 含み笑いが混じったその声に眩む目を瞬かせてより前へと視線を向けたソロモンの視界に映ったのは、小柄な体格でいて無垢にあどけない顔をした少女の姿へと変貌した“何か”だった。




「──嗚呼糞が。駄目だ、俺には出来ん。」


 暫くじっと、その“α”と名付けた少女と向き合っていたアルクレスネクロノミコンが、投げ出す様にそれを呟いてはくるりと踵を返した。

 自分の事など視界に入れようともせず横を素通って、この地下空間から地上へと向かう階段へと彼は足を進めていく。


 あの少女をそのままに立ち去ろうとする彼の後ろ姿に、どう引き留めようか、何て声を掛ければ良いのか考えあぐねて口をもごつかせていると不意にピタリと彼の足取りは止まった。

 そしてその背中越しに呟かれた独り言らしき彼の言葉が耳に入った。


「やはり俺には“他人”の世話なんぞ考えられんな……俺は“自分”にしか尽くせねェんだ、どうしたって他人に愛着なんぞ湧かん。」


 それだけ残し、スタスタと立ち去っていくその後ろ姿を呼び止めようとしてはもうすっかりと見えなくなってしまった彼に、中途半端に伸ばして行き場を無くした手のままでソロモンは一人取り残されては立ち尽くした。

 困り果てて、どうしたものかと少女の方へと振り返ればキョロキョロと周りを見回して何処か落ち着かない様子で佇んだまま、此方の視線に気付くとその真っ黒な瞳孔にソロモンを映した。


「……ええと……、」


 彼はこの子を見捨ててしまったのだろうか?


 先程の独り言らしき発言とあの不可解な呪文を唱える前の高揚した様子に、何ともちぐはぐに釣り合わない不自然な言動を残していったネクロノミコンの事を考える。

 以前にだってこんな、混乱してしまう様な事は度々有った。

 自分に向けた荒く敵意ばかり矛先を向けた言動と、仲間達へと向ける静かに穏やか・・・な口調、それから偶々聞いてしまった彼の独り言。


 いつ聞いても彼の言葉は滅茶苦茶なのだ。

 自分と周りに対して天と地の差が在る程に辛辣さが変わる、そしてその内容だって。

 幾ら自分が壊れた“グリモワール・レメゲトン”の後釜として、新しく成り代わった代用品だからと言って“他人嫌い”の彼に他の誰よりも毛嫌いをされてしまうのは、根っからの赤の他人である他の誰よりも彼に一番近しい血の繋がりが在る自負が在るからこそ、それに対してどうにも首を傾げてしまう程。

 どうしたって理解しかねるのだ。


 どう尽くそうと、どう気遣おうと拒絶し罵倒される。

 どんなに振り向いて貰おうとしたところで、兄として認めて受け入れて貰おうとしたって、彼から良い感情で良い反応が返ってくる事はなかった。


 近しい者から受け入れられないその辛さは、それで良く解っていた。


 目の前のこの得体の知れない何かだった“α”と名付けられた少女の今は、他人に尽くせないという親であるあのネクロノミコンから半ば見捨てられた状態なのだろう。

 生まれたばかりでまだ何も解っていない様子の彼女に、まだ恐怖心は残ってこそいるけれども、自分と重なってしまい放っては置けずに恐る恐るに近付いてみる。


「……α、って呼べば良いのだろうか……ええと……お、おはよう、α。気分はどうだろうか……?」


 いつか自身が初めて目覚めた時の神様の様に、相手に警戒されないように自分は無害だと、危害を加えない意思を伝えるべく“真似”てみる。

 

「…………?」


 きょとんとした無垢な顔が、傍へと寄ってきた自分の様子を伺うべくじっと見詰めている。

 その様子に、その自分が選んだ台詞回し選択肢が間違いだと感じて、無理矢理に顔に張り付けた張りぼての笑みの口元がひくついた。


 こんな時どうしたら良いのだろうか、自分で一人で考えた所で何も解らなかった。


「あ、嗚呼、此方が名乗るのがまだだったね。私はソロモン、ソロモン・デル・スケルトゥールだ。御前……嗚呼否、君はまだ生まれたばかりで何も解らないかもしれないけれども──、」


 “昔ならば”息をする様に容易く思い付いた言葉がぽんぽんと口に出来ていたというのに、その意味と向けたい相手を考える様になってからはもうそんな事は出来ない。


「御父君の彼はもう、何処かへ行ってしまったけれど……だ、大丈夫、私が、何とか………何とか、どうにか、して………。」


 目の前でこてん、と首が傾けられた。


 いつもなら、アルクレスやミネルヴァ、アーサーに対してはするすると流暢に出てくる彼等を想った言葉は今はなく、どもって戸惑いの隠せない、頼りない言葉ばかり口から溢れてしまう。

 そうしたところで不思議そうな顔が自分を見ているだけ、何も返ってこなかった。

 ひたすら思い付く限りの気休めを口にしていっても相手は無言。

 返ってこない返事に愈々尽きかけた御託並べは軈て詰まってしまい、額からは汗がだらだらと流れてくる。

 そんな、目の前の小さな少女以上にちっぽけさと中身のなさが浮き彫りになった情けない自分に、益々自己嫌悪に陥りそうになる。


 人並み以上に、誰よりも優秀で万能なのだとあれ程に自覚を持っていたと言うのが、今ではこの様だ。


 自分が大切に想っている相手以外に対して“何もしなく”なった今、アルクレス達には深く思案する間も無く出来る限りの最善策にて尽くしていた。

 手が空けば周りの者達へと手を差し伸べるのだって、そうすれば巡り巡って大切な者への負担を失くす為、そう考えてしか自分にとって関心が向かない有象無象達にはしてこなかったのだ。


 どうにも想っていない、何とも思わない相手の為と考えてしまうとそれすら上手く考えられなくなる。

 信頼出来る誰かからの命令頼み言が無いと動くに動けないのだ。


 間違う事が恐ろしい、それで何度と失ってきた。

 もう罪を重ねたくはない。

 あんなに悲しい想いをするのは二度と御免だ。


 自分はどうしたって一人では立っていられないのだ。

 自分がどんなに出来ようと、誰かに傍にいて欲しい。

 誰かに見ていて貰わないと、誰かに支えて貰っていないと、寂しがりで甘えたな自分は“万能”の力すら上手く使えないのだった。


 考えて、考えて、人を見ては上手く回らなくなる愚鈍な思考を振り絞って──プツンと切れた。


 ぐらりと倒れていく我が身。

 元より限界が近かった自分の身体は、無理に思考を回す頭がオーバヒートを起こして、上手く演じ切れない役立たずの意識を暗転させ舞台に暗幕を下ろしていく。


 惨めだ、と自分でも思う。

 情けない、と自身を苛む程に。


 それでも途切れていく意識に何処か安堵してしまうのは、辛い事から、嫌な事からの逃避したい思いに連なっているからこそ。

 そう考える度に「また自分は逃げ出してしまった」と自分が重ねた罪に打ちのめされる。


 苦しいのも、悲しいのも嫌だ。

 逃げてしまえるのならば、何処か遠くへ逃げ出してしまいたい──馬鹿だな、それで何度辛い想いをした事か。


 悔しくて唇を喰い縛り、踏ん張ろうとしても力を込める程の体力は尽きてしまった。

 踏ん切りを付けるのだっていつも終演間近の閉じていく暗幕に、全てが終わって後戻りが出来なくなった頃。

 覚悟を決めるにしたって遅いのだ、だから全部溢れ落としてしまった。


 一層の事何も知らないままで終われたら、どんなに精々したことか。


「(嗚呼、今の自分はまるで……以前のアーサーと同じだ。)」


 それが最善と考えて本人の意思に関係無く国外へと無理矢理に追放した、自ら囚われの身で在り続けていた彼。


 今まで・・・の彼ならどのような命令でも勝手に身体が動いてしまう程に、誰からの指示も従わざるを得ない絶対服従の檻に囚われていた。

 それでもそこから逃げだそうと、何度と繰り返した逃亡未遂の度に何度と痛めつけられ、医療の知識も無く只千切れた部位を歪に繋ぎパッチワークで合わせる事で身体は継ぎ接ぎに崩していき、最期は外側も中身もボロボロ。

 誰に頼る事も出来ず孤独なまま、使い捨ての道具として使い潰されていった彼はいつだってその最期は、まるで長きに渡る苦痛から漸く得られる安息に安堵して凄惨にも穏やかに死に絶えていく姿だった。


 しかし今世の彼は違った。


 確かにいつだって誰かに使役されては彼にしか出来ない力仕事以外は愚鈍にて録に仕事もこなし切れず、ボロ雑巾の如く痛め付けられては涙し謝罪を喚き、周りの者達へ恐怖し怯える眼差しを向けて震える彼──それは“まやかし”だ。


 無駄を排除し不都合は惚け、国から受けた“思考を妨げる”呪いから逃れる為に不必要な事には手抜き。

 相手の考えを見通す事で自分に何を求めているかを把握し、そこから自身に振り掛かる“害”から身を守るべく、最短にして最適に望まれた通りに役を演じてその拘束される時間の短縮とその身に受ける実害を抑える。

 そうする事で予め温存しておいた体力から自身が必要とし“為さねばならない”事にだけに真剣に完璧にこなしていった。


 圧倒的なまでのメリハリさを兼ね備えた完璧主義者だ。


 手を抜いている時ですら周りを良く見ており、不穏分子が見受けられれば此方からの命令も無しに即座に排除。

 王族の護衛としての職務は彼こそが、何よりも誰よりも優秀だった。


 それでも如何せん無駄を嫌う為に、彼が必要無しと判断したものに対してはやる気もなく怠けだらけて、見るからに覚える気が無い阿呆の如き様子に“役立たず”と腹を立たせた者達は確かに過去には居た。

 ……まぁそれも、彼によく手を出していた者程翌朝には姿を消していたものだが。

 行方知れずと成っていった者達は大概何らかの罪状を持ち、何れは捕らえる予定だったものばかりではあったが……果たしてどこまでが彼の“計算の内”だったのか、それは本人にしか知り得る事ではない。


 “人間嫌い”の彼が自ら誰かに近付く事事態が有り得ないのだ。

 自身を利用しようとする相手を予め目星を付けて、それとなく近付いては懐へと忍び込みその者の企みを柔らかな腸内側から喰い破り血肉を荒らす──荒々しい野犬の如き人物。




 それがソロモンの知る“アーサー・トライデン”の正体であり、彼の弟であるアルクレスが最も身近にして最も危険とし、警戒するべき“怪物”の習性だった。




 どしゃり、と力が抜けて地べたに転がった身体が自重から伴う衝撃と共に打ち付けられる。

 ひりつく背中、苦しい息遣い。

 打ち捨てられた朽ち掛けのみすぼらしい我が身を、傍で只ぼんやりと眺めて佇む少女も、立ち去っていった実弟も、誰も拾い上げてくれる者はいない。


 アルクレス……否、アーサーがいたら、きっと誰よりも早く自分に気が付いて拾い上げてくれただろうに。


 彼の視野の広さと、王族──否、三兄妹に対する絶対の忠誠心が在れば、きっとこの先何があろうと彼は守ってくれるだろう。

 彼は──ソロモンは、彼が本心では自分を良く思っていない事も含め、今は・・他の誰よりもその在り方を理解していた。


「(あの頃なら同じでも、今の彼と私では全然……否、全く違う。アルクレスは彼を危険だと言うけれど、そんな事はない。だって、彼は──、)」


 今の彼には何に変えても絶対に・・・守り通すべき、自己で定めた“ルール”が在るからだ。


 敢えて愚図に見せて温存する体力も、呪いに蝕まれ苦痛が在る筈なのにそれを見せない程に完璧にこなすのも、一定の“人物”に対してのみどんな命令にも忠実に従うのも。

 彼にとって辛い場所でしかないこの王宮に一度も逃げずに居座り続ける事だって、彼がその守るべき“掟”を自身の絶対とする為だ。




「(アーサーは王族に手を出す事はない、寧ろ“絶対に”守るだろう──彼は私達の守護獣ガーディアンなのだから。)」




 その身に無理矢理に宿された“赤き竜曾ての仲間”に蝕まれながらも、共存と共生……寧ろそれすらも利用することもあれば、無意識にでも人の身に抑え込み、都合良く体よく王宮の人の群れの中にひっそりと紛れ込む。

 そうする事で周りから得た知識と知恵によって、誰よりも優秀で、誰よりも視野が広くあらゆる物事を良く理解していた。

 

 そんな、愚鈍で役立たずの阿呆のフリを他者に悟られずに、他を圧倒する程の鋭利な爪を悪意に囲われた檻の中で隠し通した彼──アーサー・トライデンは“役者喰わせ者”にして生粋の“天才能ある鷹”だったのだ。






 *****






 ──親愛なる神よ、私は懺悔します。


 私は、多くの罪を犯しました。

 小さな罪から大きな罪まで、何度と積み重ね今じゃ山の様。


 始めは空っぽで身軽だった身体だって支える足が背負った重みに耐えきれなくなっていき、いつしか一人では上手く立ち上がる事すら出来ない。


 何がいけなかったのだろう。

 何が駄目だったのだろう。

 愚鈍な私には、幾つ時が経とうと中々に理解が叶いません。


 嗚呼、神様、私は後どれくらい、罪を重ねれば諦めが尽くのでしょう。




 罪深い私は──誰かに“愛情”を求める事すら、赦されないのでしょうか?






 *****






 世界の中心、裏側にして奥深く。

 海よりも深く地中よりも深い、その場所で私達は漸く“初めて”出逢いました。


 空っぽな私の唯一、仲間に見放された私に遺された確かな繋がり。

 血の繋がりが在る貴方の“兄”として、仲間外れな私を温かな枠の中へと受け入れて欲しかった。




『消えてしまえ。』


『お前なんぞ俺は認めない。』


『……盗人が。』




 冷たい罵声、冷ややかな感情。

 雨のように我が身に降り注ぐ“弟”の言葉がナイフの様に鋭利に突き刺さってくる。




 どうして?

 何故受け入れてくれないの?




 ──その理由は、始めから知っていた癖に。


 認めたくないから惚けたフリをした。

 受け入れたくないから阿呆のフリをした。


 貴方が求めていたのは“兄弟”の私ではなく、自分自身である“片割れ”の私。


 いつか壊れてしまったあの私はもう、私の中でぐちゃぐちゃに散らばってしまった。

 代わりに生まれた私には“片割れ”の気持ちなんて解らない。

 だって──どう考えたって“兄弟”は兄と弟、同じ赤い血が流れるだけの赤の他人だから。


 それでも受け入れて欲しい。

 “兄”と呼んで欲しい。

 幾らでも罵声を口にしてくれたって良い──その方が無関心仲間外れよりずっと良い。

 此処は余りに寒々しいから。


 与えられる糧もなく、只引き伸ばされるだけの無限の寿命。

 どれだけ飢えても死ぬことも叶わず、彼等は私に振り向いてすらくれない。

 慈悲で与えられる“同情”ですら、同じ人形同士じゃ薄すぎて……“過去今まで”がある彼等と違って“0から生まれたばかり”の私には足りなさすぎてひたすらに苦しい毎日。

 

 だから、どんなに貴方にナイフを突き付けられようとも、私それを向けません、返しません。

 どんなに嫌われたって、いつか振り向いてくれるって馬鹿みたいに信じています。

 何の関わりもない彼等より、何もない私が唯一すがれるのはもう貴方だけ……だから。


 愛しています、私の弟。

 愛しているから……どうか、私を愛して。


 振り絞った声、消え入りそうな声。

 どんなに尽くそうと、どんなに気に入られようと振る舞っても彼は一度たりとも温かな感情を向けてくれない、受け入れてくれない。

 ……それでもどうしてか、枠に入れてくれない彼等と違って、言葉では突き放しても毒吐いても、貴方は私の傍から離れてくれなかった。

 隣に誰かが居てくれる。

 向けられる言葉や感情が痛くても、その僅かに触れた温もりだけでも──それだけでも十分だった、のに。




『俺の目の前から消え失せろ、そして二度と現れてくれるな。』




 あの日、貴方の口から放たれたその刃が、飢えて限界で立つのがやっとな私の心に深く突き刺さって真に受けてしまった。


「ええ、ええ、解りました。そう承知します、そう尽くしましょう。それで貴方に愛して貰えるのなら──何だって。」


 止めどなく溢れる涙を笑みを作って誤魔化して。

 何故か・・・伸ばされた手に、疑問すら持てずに振り切って。


 此処は寒くて狭いから、思い切って神様からの“言われた事”に逆らって地上へと昇った。




 そこは広く、穏やかに賑やかな場所だった。


 鳥の囁き、木々のさざめき。

 風の冷たさ、お日様の温かさ。


 私は、初めて“世界”を知った。


 自分達の綴る物語の中でしか知らない、見れたところで只のスクリーンみたいな触れられない景色。

 赤、橙、黄、緑、青、白、黒。

 様々な色が散りばめられた、我が子たる生命が溢れる地上世界。


 釘付けな視界、魅せられる心。

 嗚呼、こんなにも豊かに広く多くの命がある此処ならば、私もきっと自分を愛してくれる誰かに受け入れて貰える筈。


 そう思って、限界を超えた身体が柔かな草むらの上へと倒れていく。


 霞む視界、折角の景色が見えなくて残念だ。

 朦朧とする意識、出来る事ならもう少し起きていたかった。


 頭の中が真っ白にブラックアウトしていく中で、消え入りそうな自分の感覚に最期を悟る。

 こんな所で倒れてたって、ちっぽけな自分など誰に気付いて貰える筈もない。

 きっと連れ戻しに迎えが来ることだって無いだろう──だって彼等は私の事等見てすらいない、気付く訳がない。




 只それでも、たった一つだけ悔いが出来た……出来てしまった。




 この素敵な景色を、心揺さぶる豊かな世界を、いつか貴方と並んで見ることが出来たら──それはどんなに嬉しい事だろう。

 いつか、その手と取り合える様になって、二人で同じ顔で笑うことが出来る時が来るとしたら……私はもう、それ以外に何も求めない。


 まだ一度も貴方の笑顔を見たことがないのです。


 昔は似ていたらしいけれども、今はその面影すらない。

 鏡で笑って見せても、そこに在るのは自分であって貴方じゃない。


 笑って欲しい、いつも眉間に皺を寄せた人。

 幸せにしてあげたい、いつだって苦しそうな人。

 尽くしたい、貴方の力に成りたい、私はいつだってその手を取りたかった。


 私には嫌われてしまう事が、見放されてしまう事が何よりも恐ろしくて、そこに土足で踏み入れる程の勇気すら持ち得なかったのです。


 いつかの私、勇者として一度は世界を救った私。

 私も貴方みたいに成れたら、何か変わることがあったのだろうか?

 嗚呼、でも、やっぱり私は難しそうだ。


 だって、私は一人では上手く立つことですら、出来やしない──皆の様に“自分”を愛することだって出来ないのだから。




 私はどうしたって“他者愛”の人形だから、誰かを頼り自分勝手我が儘になって生きる甘える事も出来ないのです。












『──……! 兄ちゃん、ナイト・・・お兄ちゃん! お人形さんが……“アル”が目を覚ましたよ!』


 浮上した意識、朧気な視界。

 再び中身を“空”にした“名を失った人形誰か”が真っ更な伽藍堂を揺らしながら起動し起き上がった。


 見たことの無い何かが視界の端でパタパタと駆け回り、上部分一部頬と鼻を紅潮させて何やら“興奮”しているらしい。

 それが駆け寄っていった先ではもう一回り大きな、似たような形状の何かがもう一ついて、小さな何かはそれを引っ張って此方へと向かってきている様だった。


『驚いた……まさか、只の人形かと思っていたのに“生きて”いたなんて──嗚呼否、そんな事を言っている場合じゃあなかった。』


 何やら呟いている大きなそれは傍に跪くと“ちょっとごめんね”とにしては躊躇なく自分の一部を取り握り締めてくれた。


 優しくて、温かな感触が触れられた場所から“心配”の感情が流れ込んでくる。

 それがどうにも肢体の中心部を熱くして、痛いくらいに高鳴る振動鼓動肢体身体を温もらせていく様な何か流れるものが巡っていく感覚に、思わず眩暈を起こしてしまう様な気がした。


『……うん。少し脈は早いけど良好、問題は無い様だ。見た所人……否、耳が長いから魔人の方だろうか? まぁオレは気にしないけど。……どうかな、身体の何処かで痛む所はないかい?』


 “安堵”と“温情”。

 目の前の何か解らないものから紡がれる柔らかくて温かな言葉達は、何故だか解らなくなってしまった、寒くて心細かった自分のにじわりじわりと穏やかな温もりばかり感じ入らせてくる。

 何か訊ねられた気がしたけれどもそれを返せる程の音色言葉を持ち合わせておらず、視界の端目頭をつんと熱くして無性に込み上げてくる感情が堰を切った様に溢れだしてきて何も答えられなかった。


 理由は解らない。

 込み上げてくるものが何なのか、視界を歪ませてはらはらと流れ落ちていく熱い感触とそれを撫でる見えない動き涙の痕が冷たくする感覚も。

 何もかも抜け落ちてしまって、自分が何なのかすらも解らないままに嗚咽を溢した。

 俯いてしまった上部に、ゆっくりと身を寄せて抱き締めてくれた包み込んだ腕の中は、意識が浮上目が覚める前からか細くて寒々しかった自分の肢体をみるみる内に温めていった。


『よしよし……起きて早々泣いてしまうなんて、きっと何かあったんだろうね。悪い夢でも見たのかな?』


 身を寄せた中でそれは上部弱く揺らす撫でる

 温かい、どうしようもなく、身体の奥が熱い。

 これが“命”なのだろうか。

 感じた事のない感覚に、そこで初めて自分は今まで“生まれて”きて“自我”を持ててすら無かった事に気付く。




 自分は今──生きて在る良いのだろうか。







 ──懐かしい、夢だ。


 遠い昔、貴方と出逢った時の記録想い出

 貴方と巡り逢って私は初めて、私だけの“名”を貰いました。




『“アル”。森で拾った、心此処に在らずな人形の様だった君。』




 貴方が傍にいてくれた、私を傍にいさせてくれた。




『血の繋がりはなくたって関係ない、君はもうオレ達の家族の一員だ。遠慮なんてしなくて良い、我が儘になったって良いんだよ。』




 その言葉だけで、私は天にも昇る様な心地で……貴方から貰った“贈り物”に私は報いたいと思ったのです。




『寂しいのならオレが幾らでも一緒にいるよ。大丈夫、情けなくなんか無いさ。涙が出るのだって、それは君に痛む“心”が在る証拠だ。』




 幸せに満ち足りた毎日だった。

 涙を溢す度に貴方と過ごしたあの日々が、今でも鮮明に思い浮かびます。




『泣きたいのなら今は好きなだけお泣きなさい、オレに何か力になれる事が在れば何だって手を貸そう。寂しいのなら“お兄ちゃん”が幾らでも傍にいてあげよう。』




 だからこそ、貴方を心からお慕いし誠心誠意尽くしました。




『──君のその不思議な“力”は、無闇矢鱈に誰彼にと使って良いものじゃあない。だから、君の身を守る為にも……“大事な人の為だけ”にしか使わないってお兄ちゃんと“約束”してくれるかい?』




 私は貴方を最期まで護る事が出来なかったから……だからこそ、その“約束”だけでも護りたい。

 貴方を忘れたくない……だからこそ、貰ったこの“”に誓いましょう。


 せめて、それだけでも……護り続けたい。






 私の騎士ナイト、私を弟にしてくれた心の在処指針


 私だけの名……“アルモニア”としての私をくれた、頼うだ御方マイマスター──ナイト兄さん……。



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