16.其れは同一にして、同一に非ず。

「要らないものをあげるくらいなら別に良いんだけどさー……ぼくが欲しいのはお兄ちゃんだからなぁ、悩みどころだよねぇ。」


 目の前で胡座をかいてうんうん唸り頭を捻らせる神様はそう言って難しい顔をする。


「賢者達の処分だって楽出来るものならしたいし、お兄ちゃんが欲しいっていうのなら渡してあげたいのは山々なんだけど……うーん…。」

「何、俺は別にタダで寄越せって言ってる訳じゃねぇよ。勿論支払えるものがあるのなら差し出すし、条件だって受け入れてやる。そうでなきゃ俺ばかり得してフェアじゃねぇからな。」


 腕組み悩む神様にあっけらかんとしてそれを口にする一織の方はその向かいで、先程より崩した体勢にて片手を支えに反対の片膝を立てて地べたに腰を下ろしている。

 その落ち着いた雰囲気には不安も恐れもなければ緊張だって、何にせよ気を張る様子は彼からは一切見られない。

 そんな彼の態度に、自らが理不尽と罵倒した“神”相手だというのにそうのたまう彼の発言に、他人事みたく眺めていた猫が“信じられない”とでも言うような眼差しを向けていた。

 けれどもそんな事はお構い無しに涼しい顔をした一織を見上げる神様はきょとんと見詰め呆けた。


「……条件?」

「そうだ。廃品回収を承るったってそれは俺のデメリットにゃならん、何故ならそれは俺が“欲しい”ものなんだからな。だからくれるってんなら条件を付けてくれ。無償じゃなけりゃ内容は何だって良い、俺が損をしてお前が得をするものならな。」


 そう臆する事なく言ってのけた一織に、神様が口を開く前に見ていられなくなった猫が「馬鹿じゃないの!?」と立ち上がり向かい合った一織へと罵しり叫んだ。


「お前自分が何を言ってるのか解ってる!? 自分を欲しがってる神様を相手に“自分にデメリットのある条件を付けろ”とか、命知らずにしたって愚か過ぎるでしょ!! それでお前の嫌う理不尽な事を言われたらどうするんだよ!!」


 そこら辺解ってる!? と、声を張り言い放つ猫に、煩わしげに片耳を押さえながら顔をしかめる一織が「煩ェな」と猫の忠告を一蹴して立ち上がる。

 彼が身に纏う、洒落着的なデザインさよりも機能性を求めた収納箇所多めな袖無しジャケットのポケットへと手を突っ込み、悠々とした振る舞いにて見下ろした先の小さな猫と幼い神様を纏めて視界に捉える。


「そうでもしねぇと“俺”が納得出来ねェんだ。公正に公平でなきゃ“対等”に取引なんて出来ねェだろ? ……なぁ神様よ、どうだ、俺の提案は受けてくれないか?」


 “良いからお前は黙ってろ”と言う目配せを猫へと送ると、それを察しやるせなさそうにも口を閉ざして後退った彼を見届けてそれから神様へと視線を移す。

 その俯いて考え込んでいるらしい幼い姿の彼を見遣っては、悩ましげなその様子に目を光らせた一織は胸の内にて“あと一声”と確信し、口角を吊り上げてはすかさず彼へとそれを提言した。




「じゃあお前に合わせて言い方を変えよう。


 ──俺と“勝負ゲーム”をしようぜ、神様。」




 その“言葉”に、俯いていた顔が大きく見開いた目が自分を捉える──そして彼はその誘い文句に興味を示した子供の様子に“しめた”とほくそ笑む。


「俺がお前の出す条件に従って、このゲームに挑もう。俺が世界崩壊を止めたら“箱庭”は俺の物で、お前は俺を諦めろ。」


 再び驚愕の視線が彼一点に集まる中で彼は悠然と言葉を綴る。

 目を細め、口元に笑みを湛えながら小さく幼い神様を見下ろした彼は、傲慢にも威風堂々とした態度にてそれ甘美な餌を獲物の目の前に垂らし食い付きを促す様に言葉を並べて見せ付けては彼の目の前に差し出した掌の上思惑通りにへと“子供獲物”を誘い込む。


「逆に、俺がそれを失敗したら俺の“全て”をお前に明け渡してやる。」


 彼の囁く甘くて、魅力的で、無性に心を沸き立たせてくるその魅力的な“餌”に、驚愕の色に見開いていた神様の顔は徐々ににんまりと恍惚の笑みへと歪めていく。


「……あは、何それ。スッゴく“そそられる”話じゃん。」

「だろ? お前なら食い付いてくれると思ったんだが……どうだ? 愉しそう・・・・だろう?」


 そしてくつくつと笑う一織に、くすくすと笑みを溢す神様。

 堪らないとばかりに長く深く息を吐いたのは神様で、心底愉快げに笑みを湛えて彼は頷いた。


「──乗った。そのゲーム、受けてあげよう。後で変更だなんて甘いこと言わせないけど良いよね、お兄ちゃん?」


 笑みを堪えきれない神様が、口元を指先だけ合わせた両手で覆いながら弓形に細めた眼を一織へと向ける。

 それに対して“ハッ”と鼻を鳴らして笑い飛ばすと、そんな神様に彼は不敵な笑みで返す。


「応、上等だ。神のお前が怠惰にて成さなかった事を、有象無象の内の凡人である俺がやり遂げてやるよ。もう一度神としてのプライドを粉々にしてやるから、覚悟しとけ。」

「んふふふ、お兄ちゃんって本当に減らず口が多いよね。神に対して頭が高いんじゃない? ……でも今は赦してあげよう。それで失敗しようものなら後悔なんてする余裕なんて持たないくらいに、ぼくの忠実な“玩具”にしてあげる。」


 そう言って神様は“ぱちんっ”と指を鳴らすとその手の上にて“本”が出現し、それは宙に浮いたまま頁をパラリと自動的に捲り広げられる。

 相も変わらず白紙の上をインクが浮き滲む様に“続き”が綴られている様子の頁からパラララ…と多くの白紙を飛ばしていき、最後の一枚が捲れて裏中表紙が開かれると暫く思案顔をしていた神様が熟考の末に裁決するべく頷いた。


「条件は……そうだな、こうしようか。」


 そして神様は本へと手を翳すと、輝き始めた本から光が宙へと浮かび上がり、彼等の間に光の文字を記し始めた。




【──その壱。

 契約者は世界と接続しその命運を連動させる事。

 生身の死によるゲームの離脱は認められず、そして次のループは許可されない。

 “勇者”の死を起点に行われる自動ループが再び行われた場合、即刻世界データの全てを白紙にデリートし、達成が叶わなかった契約者はその“全て”を神に献上する事。

 その場合、どのような理由があろうと契約者以外に一切の生き残りは認められない。】


【──その弐。

 契約者、及び他の者も含めて、地上において“賢者”の名前を出してはいけない。

 物語上に彼等の名が再び出よう時には、神自らにより即刻処分を行う。

 対象は七つ全て連帯責任とし、例外は認められない。

 その場合、空席となった執筆者の役目を契約者が引き継ぎ、物語の執筆に置いての全責任を負う事とする。

 それが出来なければ取引は無かった事とする。】


【──その参。

 契約者は後続のを用意する事。

 柱無くしては世界は成り立たない。

 今世の神より手を引かせるにあたり、自身が神に昇華しない旨を主張するのであれば、他に任せられる者がいなければ取引は無かった事とする。】


【──その肆。

 契約者はゲームが行われている間、世界の運営を一時一任される事。

 その為に神はあらゆる“権限”を契約者へ明け渡し、その後条件が反故された場合を除いて、契約者への接触及び妨害や援助の手出しの一切を禁じる事。

 同時に契約者は“神代理”として“権限”を用いて、全て置いての干渉を禁止とする神の代わりに物語の観測を行い続ける事。

 それが出来なければ取引は無かった事とする。】




「──これが、ぼくの出すきみへの条件だ。」


 ぱたん、と本が閉じた音に続いて神様は言う。

 目の前に並べ立てられたその“四つの条件”を読み通しては少し顔をしかめた一織に、意地悪い笑みを浮かべて「どう? 今なら文句も降参も聞いてあげるよ、内容の変更についてはきみ次第だけどね。」とクスクス笑った。

 それに対して一織は難しい顔をして言葉を濁しつつ口を開いた。


「あー……何つーか、そのだなぁ……。」

「ふふふ、やっぱり凡人のきみには難しい条件かな? そりゃそうだよねぇ、一世界規模の命運をきみ一人で握っているんだもの。重圧プレッシャーだって凄まじい筈──、」

「嗚呼否、そうじゃねェよ。条件が甘くないかって話だ。」

「そうそう、きみにとっては甘い…………は?」


 たった一人で世界規模の救済を求めるという“何でも出来る万能”な人外だったらまだしも、神ですらない“只の人の子の凡人”からしたら到底荷が重い筈の条件に相手はきっと恐れ戦いていると決め付け、それを嘲る様に気分良く話していた神様がぴたりと止まって一織を凝視する。

 そんな一織の方は目の前のその文章を眺めて、組んだ腕の上を人差し指の先で一定のリズムで叩く仕草を無意識に行いながら、何やら考え込んでいる様だった。


「【弐】【参】は兎も角【壱】についてもまぁ良いとして、【肆】のこれは何だ? 神のあらゆる権限を貸し渡すって、条件付けるにしたって俺にはデメリットに成り得ねェだろ。」

「きみねぇ……只の人間が世界一つをどうとでも出来る筈がないでしょう? これはぼくからの慈・悲! それくらい無いとどうにも出来ないんだから、変な文句言ってないで認めてよね。」


 呆れた様にして少し怒った風に言う神様に、不服そうな顔の一織はその条件を睨み付ける。


「大体さ、運営方法教えろって言うけれど、そもそもそれ運営権限はぼくが手放さないと渡せないものなんだからね。だから代わりにきみがやるって事なら、ぼくは一旦全てにおいて手を引かなきゃいけなくなるんだし、そうなったらきみに全部任せざるを得なくなるんだよ。……まぁ? ぼくが居なくなった後に一人になったきみが困らないように、今の内に練習~ってつもりでやるには丁度良いんじゃないの?」

「ふぅん、そういうもんなのか……。」


 そんな神様の言葉に納得しかねる様な、二の腕を指で叩くのを止めないままの一織がそうぽつりと溢すと「そーいうものなの!」と頬を膨らませた神様がむーっと怖くもない顔で彼を睨み付けた。

 変わらないテンポで繰り返し揺れる指は彼が熟考する時の癖であり、とんとん・とん、とその動きが止まると「よし」と決心した様子で神様へと視線を合わせた。


「なぁ、神様。条件を追加して良いか?」

「はぁ? ……一応聞くけど、どんなの?」


 そして彼はその追加したい“条件”を神様に伝える。

 何食わぬ顔した彼の、自ら首を締めるロープを嵩ます様な余りにもストイックな要求に、聞いた神様が“信じられない”といった様子でその顔を引き釣らせ、話が続けられていく内に段々と疲れたような顔持ちへと変わっていく。


「“権限”を使う際に罰則ペナルティを付けろって? しかも他者に関しては“許可制”? ……何なの、お兄ちゃんってまさかマゾだったりするの?」

「否? そんな事は無ェよ、只そのくらいないとフェアじゃねェなってだけだ。……これ見る限りじゃあ俺は世界が崩壊するなり、ループしない限りは不死身って事なんだろう? それに神の権限まで貰ってちゃ、俺へのメリットが有り過ぎる。だからもっと公平に、後は──、」

「ああもう解った、解ったから! 認めてあげるからこれ以上難易度上げないでよもう!」


 続けて話そうと言葉を口にしていた一織を遮る神様の自棄気味な大声に、乱暴に翳された彼の掌の上であの本と同じ現象を介して羽ペンが出現する。

 それを手に取り握り締めた神様が先程の宙に書き記された“条件”がそっくりそのまま書き綴られていた裏中表紙へと書きなぐるようにして新たな“条件”を加えていく。




【──その肆。

 契約者はゲームが行われている間、世界の運営を一時一任される事。

 その為に神はあらゆる“権限”を契約者へ明け渡し、その後条件が反故された場合を除いて、契約者への接触及び妨害や援助の手出しの一切を禁じる事。

 同時に契約者は“神代理”としての“権限”を用いて、物語の観測を行い続ける事。

 それが出来なければ取引は無かった事とする。


 契約者の都合により“権限”を使用が行われた場合において、契約者にはその使用理由に同等する“罰則ペナルティ”が与えられる。

 他者に関しての“権限”は、当人からの許可が得られない場合においては“仮定”として一時的に短期間のみの定まりとし、当人より許可が得られるまでは“確定”とされる事はない。】




「……これで良い!? これ以上の“縛り”は認めないからね……!?」


 最早うんざりとした神様が自棄糞だと言わんばかりに言い放つ。

 それにはまだ少し思うところは在るようでも漸く頷いた一織が「嗚呼、まぁ良いだろ」と返すので、脱力した神様が大きく溜め息を吐いた。

 少し離れた場所でも、一織に言われた通りに黙って成り行きを見詰めていた猫が何処か非常に疲れたようなへなへなとした様子で眺めており、素知らぬ態度の一織はそんな彼等を一瞥して只一人悠然と佇んでいた。


「何へばってんだお前ら、話はまだ終わってねェぞ。」

「逆に何でお兄ちゃんはそんな堂々としてられるの…? 」

「知るか。そういう性格だってこったろ、俺は何も間違った事はしちゃいねェからな。」

「間違ってはないかもだけど滅茶苦茶だよぉ……! ああもう、疲れたし眠いし……何だかもう、色々とどうでも良くなってきちゃった。」


 項垂れていた神様は疲れた顔の目元を擦りながらそう言うと、一息吐いてはしゃがみこんでいた身体を起こした。

 神様の手から離れていてもずっとその場で宙に浮いていた本へと手を伸ばした神様はそれを浮かしたままに手に取ると、一織の前へと歩み寄り目の前に立ってはそれを差し出すようにして一織の胸元へと突き出した。

 一織は受け取ったその本から神様へと視線を移すと、先程とはうって変わって落ち着いた雰囲気にて瞼を伏せていた神様がゆっくりと目を開け、俯いて本へと視線を落としたままに静かに口を開いた。


「ぼくの“心臓”だ。これを、きみに。」


 そう言った神様の言葉に再び本へと視線を戻し、黒革の重厚な装丁で纏ったその分厚い本を改めて認識すると、その表紙には“No.Title”の文字が薄くか細く消え入りそうに刻まれていた。

 一織が何か口にしようと開きかけた時、それを予測していたのか遮る様にして神様が先に口を開く。


「それはぼくの“心臓”で在ってあの世界の“全て”だ。あの世界で起きた出来事に沿ってこれに綴られる物語に、目的にそぐわない事象が在ればきみが望む行き先へと“修正”して思うがままに世界を動かすと良い。その為には守らなきゃいけない“ルール”が在るけれど……まぁそれについては、ぼくと違ってきみならきっと上手く使いこなせる筈。」


 神様はそう言うと彼を見上げて、穏やかな笑みを浮かべては「それが世界の運営方法だよ」と続けた。

 そしてその本を持つ一織の手に神様は彼の手に自らの手を重ねる。

 一織の手越しにその本を撫でる小さな手は、生きているにしてはやや冷たくも死んでいるにしてはまだ温い、曖昧で何処か物足りなさを感じる感触が伝わってきた。


「きみは解っていない様だけれど、死んでより何も持たない…神ですらないきみと違って、あの世界の“全て”がぼくだからこそぼくは神として在るんだ。それをぼくから奪って手を引けって言うのは、文字通りぼくを乗っ取るって意味になる。」


 開きかけた口が思わず閉ざされる。

 まさか、そんなつもりは、なんて胸の内に思う一織に神様が「解っているよ」とまだ何も言っていないというのにそう囁いて微笑みを向ける。


「きみがこの“ゲーム”を言い出さなければ、素直にぼくに付いてきてくれてたらこの世界を一から作り直してやり直そうと思ってたんだ。でも……うん、そうだな。思い入れはないとあの時は言ったけれど、確かに大切なものではあったよ。だってずっと、見てきたから。」


 だから、と続けて言葉を紡ぐ彼の、酷く悲しげな笑顔が一織の視界に映る。


「ぼく以外の誰かが──ううん、きみが命を懸けてまで護ろうとしてくれるのがとても嬉しい。嬉しい、けど……なんでかな、凄く、胸が苦しいや。」


 涙こそないけれど「あはは、おかしいよね」と笑う神様のその表情は何処か傷付いている様にも見えるようで。

 何を言えば良いのか考えあぐねていると、神様は重ねていた大きい手と小さな手へと視線を落として呪文らしき文言を唱え始めた。




「“我が魂なりし此の世の理の書よ”、

 “我が魂とその権限を、彼の者へと献上せよ”。」




 その言葉に続いて本が光を灯し始める。

 あの消え入りそうだったタイトルもじわりじわりと益々薄く成っていき、代わりに“神村一織”という彼の名前が浮き出してきた。




「“世界は彼の者を主として認めよ

   ──其の言葉に従え”。

 “世界は彼の者で在り、彼の者は世界と成る

   ──故に、世界は等しく彼其の物であると定めよ”。


 “──我は世界に其の杭を墜とす”、」




 白いだけで何もないその空間に、彼等の足元から風が吹き上がり始める。

 白い帯の如く、彼等の周りを巡って屋根の無い天上へと舞い上がる疾風はその身に纏う衣服の端をなびかせては波打たせていく。

 風切り音が鼓膜を震わせてそこに耳鳴りみたいなキィンと響く音が混じり合う中で、一人と一柱の中心から膨大かつ複雑な夥しい量の文字群を連ねた魔法陣を構成する光の筋が伝う様に展開されていく。

 風を浴びた皮膚はぴりぴりと痺れ、指先がひりつき、足の爪先から頭の天辺まで熱い血潮が巡り流れるようにして“それ”が自身の内側へと入り込んでくると、まるで満たされていく様な感覚が身体中の末端から嵩ます様にして染み渡っていく。

 それはとても心地好くて、何だか“そう”成る事を赦されていく様な、温かな胸の高鳴りに安心感すら覚えた。


「……お兄ちゃんはまるで“空っぽ”だね、器が広くて助かるよ。お陰で“また”壊れてしまう、なんて事無く済みそうだ。」


 文言の途中で神様はぽつりと呟く。

 一織が、どういうことだ、と訊ねようとする前に、神様は再び口を開くと瞼を閉ざしてそれを再開させていく。




「“其れは、神にして神に非ず”、

 “其れは、我にして我に非ず”、

 “無干渉の理より外れ、存在は在れども遺す事は叶わず”、

 “即ち其れは声のみを携えた神の代行者メッセンジャーである”。


 “証明示せん、其の存在を──”、」




 ゆっくりと開かれた眼が彼を捉える。

 神様の言葉に、名前を訊ねられた様な気がした彼は合わせた視線に小さく頷いて、自らの存在“宣言確定”するべくその名を言の葉に乗せて世界へと示した。




「“【神村一織カムラ・イオ】”だ。」




 瞬間、脳天から身体の芯を通って真っ直ぐに鋭い何かが撃ち込まれる感覚に襲われる。

 痛みとか苦しみとかそんな簡単なものではなく、只ひたすらにその身を打つ衝撃として、響き渡る音が身体を大きく震わせた。




「“其の声を聞き届けよ”、

 “其れが只の人の子にして凡人たる者として知らしめよ”、

 “──其の杭にて、我等は契約を交わす”!」




 本の輝きが視界を焼く。

 眩しくて開いていられない目を閉ざしていると目蓋の向こう側から目映い光に包まれていくのを感じると、そこで今まで・・・自身が“どっち付かず”にいた事で足が付いておらず不安定だった事に気付く。

 いつか手繰り寄せられて曖昧にて“一つ”だったそれは“二つ”へと決別にて断たれると、その間にはぴしゃりと“隔たり”を遺されてしまった。

 そしてそれは互いを拒絶するかのように遠ざかっていくと、近くでもありながら遠くもある様な、そんな距離感から声が聴こえた。




 ──……いやだよ、置いていかないで…………!




 “壁”の向こうからだろうか?

 微睡むように手放すように薄れていく意識が、遠く離れていっていた“何か”のその声を聞いた瞬間、無性に引き起こされてくる焦燥感から思わずもがき足掻く事を思い出す。




 ──……でも、ダメだ……“■■”がいたから、皆こう不幸になってしまったんだ……。




 いつか何処かで聞こえた真っ暗闇の中に堕ちる間際、聞こえた“誰か”の声。




『お願い、女神様。ぼくを何でも出来る“神”にして。』


『そしたら世界を作るんだ。』


『“あの人達欲しいもの”が幸せに生きていける場所を。』




 思い出すかの様に脳裏に過るそれに、決して手放す訳にはいかない、それだけは何よりも“自分”が赦さない。

 そんな自身を奮い立たせる衝動に足掻く手足を必死に伸ばす。




『それで、ぼくはそれを見守るだけにしよう。』


『“■■”は要らないから……そうだ。』




 その自身を嘲るような冷ややかに急かす沸き起こる焦燥感が。

 凄まじい程に“成さねば”という衝動を伴ってその身を動かす熱量が。




『得たいものの代償は“■■”にしよう。』


『それには“名前”も“存在”も必要ない。』


『だって、“■■”なんて──、』




 “誰か”に背中を押されるような、その感覚が無我夢中にさせる程に足掻いて、もがいて、必死になって“それ”へと手を伸ばし──、




『──“自分”なんて、なくなってしまえば良い。』




 今にも泣きそうなその声を頼りに、いつかに“自分名と存在”を棄てた“元の場所自分”を長かった時間と道程を経て、漸く見着けた──手が届いた辿り着いたのだ。


 だからこそ“それ”を掴み上げて手放さない。

 棄てられて“誰か”に拾われた“自身”は、その“誰か”に救われて新しく生まれ変わったのだ。

 それを今更思い知ってその“恩”を返す所か、謝ってばかりで“感謝”の一つも伝えられていない。

 それじゃあ駄目だ、自分の流儀ルールに反したままだ。

 自分からも見棄てられてしまった自分に、一人でもしっかり立てる様に──ちゃんと大人に成れる様に、どんなにきつく当たっても背中を押してくれたあの血の繋がりもない義母から受けた“親の愛情”。

 今はもうその人は傍にいないけれども、せめて“これから”はそんな事が無いように、大切なものはこの掌の上から零れ落ちることがないように。

 決めたのだ、己の指針の先を。

 見定めたのだ、己のやるべき使命を。


 その揺るがぬ意識意思覚醒ハッキリさせて、それは──、




「──ッは、……あ、?」


 気が遠くなる微睡みから一気に意識を取り戻す。

 醒めた頭はぼんやりとした感覚を残したままで、ついふらりと身体がふらついてしまう。


「お兄ちゃんッ!! お兄ちゃん、しっかりして!!」


 そこで神様の声が漸くはっきりと耳に入ると、情けない姿は見せられるかと足を踏ん張らせて抱えた頭を振って自身を気付きつけた。

 手を触れた額には多量の脂汗と、それから酷く胸を打つ強い脈動、長らく息をしていなかったかのように荒れた息遣いに、神様が心配そうに見上げている姿が視界に映る。

 その様子に、何かあった気はするが覚えてはいないあの微睡みの、足が着かないような不安定な感覚の中をどうも偉く長い時間を過ごしていた様な気がして、まさかとは思いつつ罰が悪そうにそれを口にした。


「……あー……また、か? あれからどのくらい時間経ったんだ?」

「何言ってんの、まだほんの数分だよ。きみが人の身のままが良いって言ってたから“そう”したけど、ホント博打だったんだからね!? お兄ちゃんが耐えきれずに自壊したっておかしくない事を、ぼくらはしたんだから……!!」


 今にも泣き出しそうなしかめた顔をした神様は、その身に纏っていたパーカーの裾を握り締めて絞り出す様な声音でそう溢す。

 心配かけてしまった事に気付いて、大丈夫だと言おうとして神様の頭へと手を伸ばすが、視覚では確かに其処にると思っていたそれはまるでホログラムで映されているかの様に透かして通り抜けてしまい、彼の頭にはその手が触れることは叶わなかった。

 一瞬、距離感を違えたのかと二度三度と自らの手と神様を見比べてしまうも、その一織の様子に苦笑した神様は笑みを湛えているのに僅かに陰を落とした表情を浮かべた。


「……ああそう、今までは不安定で曖昧だったから“同一人物”であるきみとぼくとの間では触れられたけど、これからはもうそれも出来なくなるよ。だって──、」


 今までは確かに互いに触れ合っていたと言うのに、今の神様の身体はそこに在る様で存在していない、姿を視認出来る事だけが辛うじて叶う状態で──それこそが“彼”なのだと、一織は改めて正しく理解する。


「きみとぼくとの間にも、そこに存在しない“干渉しない”ルールが確定された。きみのは存在がまだ在るからこそ“干渉出来て関われない”ルールにまで格下げられているよ。」


 「一人は寂しい」と何て事無い様に言っていたそんな神様を“通り抜けた”手には、冷たいも、熱いも、痛みも、感触すら得られないままだった事に、空っぽの手を眺めて一織は呆然と立ち尽くす。


「だからこそぼくのルールに縛られなくする為に、きみが向こうでしっかり動ける様に“半分こ”だ。愈々何も出来なくなるこの分はぼくが引き受けるよ。」


 やけにスキンシップが多いな、と常々に感じていたのだ。

 あれは“その時”にしか彼には触れることを許されていなかったからこそなのだと、今頃になって思い知らされる。


「神さ──、」

「今だけ、何も持ってないきみに全部あげる。……その代わりに一つだけ、欲張りなぼくに、きみとぼくを繋げる“何か”が欲しいんだ。」


 そう言って彼は両手を差し出して一織に乞う。




「きみはぼくに、何をくれる?」




 目の前の小さな掌に、一織がずっと閉ざしていた口を軈て開く。


「……つーかさ、いつ言おうか迷っていたんだが……、」


 気まずげな……というよりは誤魔化すかの様な声音が発せられ、目の前の手から視線を外して頬を掻いては話の流れにそぐわない奇妙な様子の一織に、予期せぬ反応を返された神様が虚を突かれたみたいな表情に変わる。


「俺は別に、この世界から手を引けとは言っても“出ていけ”とは一言も言ってないぜ?」

「「……え?」」


 すっとんきょうな声が重なる。

 当然それは神様と猫で、持ち上げられた手の親指と人差し指との間に顎を置いて何か考えているみたいな“フリ”をする一織は何食わぬ顔でそれを嘯た。

 そう、彼等が驚くのも無理もない。

 彼は理屈を並べて自身がゲームに勝つ“前提”の、神様のその後の話に口出しをしてきたのだから。


「え、何、どういう事?」

「否? だから、俺はお前にこの世界から出ろとは──、」


 唐突な彼の屁理屈に、戸惑いを隠せない神様が訝しげに訊ねるが、彼もまたそれを訂正する気はなく、尚の事詭弁を弄する。


「いいや! そうだとしてもきみにとってぼくは不都合な存在だ! だからこそきみはこのゲームをけしかけたんだろう!? だってぼくがここに居いたら、お兄ちゃんは、ぼくを──、」

「違う。それは断じて違う。」


 その自身を下に見た無駄に揚げ足を取ろうとするふざけた言い回しに我慢ならず、彼の発言を遮ってまで捲し立てた神様の言葉を、ぴしゃりとハッキリとした否定を叩き付けて一織は相手の口を閉ざさせる。


「先ず前提からしてお前の考えている事は全て間違っている。俺はお前の遣り方を気に食わないのは確かだが、お前の存在を邪魔だと思った事は一切無い。これは絶対に確かだと言える事だ。」


 互いを見遣るその眼差しは真剣で、屁理屈を並べていた一織だってふざけるつもりは一切無い。

 だが例えそれが真剣そのものだったとしても、神様からすれば今までの彼の発言主張からして自ら言ってのけたその揚げ足取りの文句に黙ってはいられなかった。


「…でも、ぼくは、気に食わなければきみを玩具にするし、他の何よりも自分を優先するよ?」


 自らの手を見詰める神様。

 掌には何もなく、何かに触れようとしたってすり抜けてしまうそれに顔をくしゃりとしかめて、そして拳を握り締めると、バッと一織を見上げた。

 そのあどけなさが特徴的な幼顔の目付きに、普段より鋭さを伴なわせては自分よりも“大きく”成った姿の相手を睨み付ける。


「何故ならぼくは“神”だからだ。頂点に君臨する絶対的な支配者だからこそ、きみ達有象無象の事なんて省みない。だって幾らでも替えはあるんだ、無ければ作って仕舞えば良い! ぼくにはその力が在る!」


 彼等にの間に壁を隔たさせる様な吐き出された声には何処か悲痛にも感じる“何か”すら思わせる。

 どんなに苦痛や悲嘆に胸を締め付けられようと、今では一滴たりとも落ちない涙に瞳は滲むだけに留められてしまっている。

 せめて嫌になる程溢れて晴れさせてくれれば良いのに、そうは思っていたって自身が忘れ去った“何か”によって、飢えて乾いて出てきやしない。


「時間も力も、無限に等しい程に在るからやらなくて良いことはやらないし、思い通りにいかなければ力付くで捩じ伏せる事だって出来るんだ! 万能の力が在るからこそぼくには全て思うがままだし、その“権力”があるからッ……!!」


 ぎゅう、と他に何も触れられない手が胸元を衣服の上から握り締める。

 言い聞かせる様に声を絞り出し、俯いた顔はしかめて、苦しい程に胸を締め付けられる想いを堪えながら自らが吐き出した言葉が余計に胸を抉られてしまって、気付けば思わず唇を噛み締めていた。


「……それがぼくだ。きみが嫌う、理不尽の権化である、神なんだ。只の人で凡人のお兄ちゃんとは、考え方も在り方も全てに置いて全然違う……“別物”のぼくきみだ。」


 俯いている彼が今どんな顔をしているのかは解らないけれども、その震える肩と胸を固く握り締めた手が彼の心情を表している様にしか思えてならない。


「だからきみはぼくを理解出来ないだろうし、ぼくもきみを理解しない……同一人物って言ったってまるで違うんだ。一緒じゃないんだよ、ぼく自分達は。」


 明確な排斥の言葉を最後に、神様は愈々口をつぐんでしまった。

 そんな姿を静かに見据えて、暫くの沈黙の後大きく吐息が吐き出された音が二人の間にて聞こえると、力んで小刻みに揺らされていた小さな肩がぴくりと小さく跳ねた。

 

「……だから? それがどうしたってんだ。」


 冷ややかな、拒絶とはまた違った無関心さを感じる言葉が一織の口から返されて、それを聞いて小さく息を呑む音が互いの間に聞こえた。

 幼い彼の哀哭を聞いて、冷然たるそれは「俺には関係ない」と言い放ったのだ。


「“神だから”、“別物だから”……嗚呼、そうだな。俺達は考え方も在り方とやらも、何もかもが違うんだろう。だがそれの何が悪い?」


 そう問い掛けるも、直ぐに彼自ら「否、何も悪くない」と言い切る。


「何が、何処が違おうと、お前は俺に言った筈だ。一番“最初”に言った事こそが俺達の“真理”だ。」

「一番……“最初”?」


 掠れて弱々しく、消え入りそうな声がおうむ返しにて疑問を口にする。

 それには「もう忘れたのか?」と半ば馬鹿にしたような不遜な言葉を持ってして笑って返した。




ぼくはきみ・・・・・だ』




「あの時お前は確かに、俺にそう言ったんだ。それ以上に、他に何の意味を必要とする? ──否、何も必要“無い”だろう。」


 彼はそう“断言”する。


「それ以上もそれ以下も要らない、只“それだけ”で良い。……俺達は生きている時間も違えば、何を経験してきたのかだって全然違うんだ。そりゃあ考え方も、感じ方だって差異くらい出ても可笑しくは無かろうよ。」

「でも……でもそれじゃ全く“同じ”じゃないじゃないか、それ程に違ってしまったら“同一”人物とは言えないでしょう?」


 漸く、俯いていたその顔が上げられる。

 幼くて、非力そうで、今にも泣いてしまいそうな、子供あの頃の自分の顔だ。

 昔の自分が鏡を見た時に、何度だって映っていたのは彼と同じ姿だった。

 自分がそう思えるのは、大人に成った自分だからなのだろう。

 彼がそう思えないのは、大人に成れなかった自分だからなのだろう。

 大人の彼には神に成った事がないからそれを理解出来ない様に、子供の彼には大人に成った事がないからそれを理解出来ないのだ。

 神様にはそれだけ大きな“差異”で在って──彼にはたった・・・それだけの“些事”で在った。


「それでもお前お前だ。それっぽっちが違うだけの“同一”人物なんだよ。俺が“神村一織”で在るように、“神様”じゃないお前の“本当の名前”だってそうだろう?」


 その言葉に大人の彼を見詰めていた、子供の彼の顔が悲痛に歪んだ。


「……解らない。」


 泣きそうな声が、弱々しい声が、震える唇から溢れ出す。


「神に成った時に、棄ててしまったんだ……ぼくの“名前”も、それから“存在”も──、」


 だからこそ、と彼は言う。


 “不干渉”のルールとは、彼に“存在”が無いからこそなのだと。

 故に──彼は“そこにいない”のだ、と。


「“願い”を捧げて神に成った時に、それに関する“記憶過去”は全て忘れてしまった。“得たいもの欲しいもの”を手に入れる為に、代償に“名前”と“存在”を捧げたんだ。ぼくは……それが必要“無かった”、から……。」



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