12.夢見る子供の箱庭。

 ──いつから其処に居たことだろう。


 視界を塗り潰す黒塗りの世界で、自分が今何処に居るかも解らないまま闇の中をさ迷う。

 一時間だったか、一日だったか。

 それとも一年……もしかしたらもっと長いかもしれない。


 いつの間に自分の身体までその色に染まってしまって、名前も姿も元がどうだったかすら思い出せなくなってしまった。


 只々、ひたすらに、目的も亡く暗闇の中を歩き続けるだけなのだけれども、唯一自分の他にいた“それ”が行くべき先を教えてくれていた。


 鳥だ。


 いつだったか、何処だったかで出逢ったその鳥は黒くて、小さくて、地べたをひょこひょこと跳ねながら前を歩いて行ってしまうので時折見失って仕舞いそうになるけれども、此方を振り返って立ち止まる姿は言葉を交わさずとも自分に道案内をしてくれていることは理解出来た。

 その鳥は暗くて姿は良く見えないけれども、どうやら潰れているらしい片目と所々にある怪我と解れた小さな羽根が近付く度に垣間見えた。

 それが酷く痛々しげに目に映って、それで飛ぶのが難しいのだろうか? なんて、何と無くに思っていた。




 一人と一羽、あれからどのくらい進んだのだろうか。


 今ではもう、進む為の足の形を忘れ、伸ばした腕の形は崩れ、どろどろに溶けているのか、細く長く伸びてしまっているのか。

 何も解らなくなっていたのだけれども、やはり導を示してくれるその鳥は【 】を置いてけぼりにはしないで直ぐ傍で此方を見上げてくれている。


 身体を捩るように。

 引き摺るように。

 鈍足ながらにも進み続けていると、黒いばかりの世界の果てで異物が姿を見せた。

 やはりそれも黒くは在ったのだけれども、輝きを湛えているそれは星のようでいて──宝石のようだった。

 他に行く宛などないので、初めての只の黒以外のそれの側へと寄っていき赤い稲妻を内包するその多面性結晶体を間近にした途端、そこで初めて【 】を“呼んで”いたものがそれなのだと理解した。

 鳥はそれ以上進むことはなく、銀色の片目が【 】をじっと見詰めていて鳥自身の目的地も此処なのだと知る。

 でも、呼ばれて来た所で【 】が何か、誰なのか、どんな形をしていたのかを忘れてしまった【 】にはどうしたら良いのか解らず立ち尽くしていると、鳥がそこで初めて囀り鳴いた。




 美しい、声音だった。




 言葉は忘れたのでそれが何か意味を含めた言葉なのか、はたまた只の音なのかは解らないけれども、笛の音の様な美しい声が聴いていてとても心地好い。

 心が安らぐそれにずっと聞き入っていると、やがてその囀りが只の音ではなく、意味があることを【 】は思い出していく。




 ──御往きなさい、貴方には脚が有ります。


 言われて、【 】には脚が有ることを思い出した。




 ──其れに触れなさい、貴方には手が有ります。


 石へとそれを向けた先で、五本の指が生え揃った掌がぼんやりと見えた。




 ──貴方には目も鼻も在れば口も有ります。


 ──さぁ、思い出しなさい。




 視界が段々とクリアになり始める。

 朧気だった頭の中も次第に、明確になっていく──否、戻っていく。

 



 ──貴方の名は【神村一織カムラ・イオ】、其れを決して忘れないで。





 振り返る。

 【自分】が誰なのかを思い出させてくれて、此処まで導いてくれたその“誰か”にどうしても感謝を伝えたくて。

 “もう二度と”後悔をしたくないからこそ先へ進む前に、自分を救ってくれた“それ”へと言葉を送ろうとして──、




 ──息絶えた“鳥”を前にした彼は、呆然と立ち尽くす。




 彼はいつだって間に合わない。

 自分を助けてくれた人に対して、大切なモノを与えてくれた誰かに対して、何も言えないまま終わるのは一体これで何度目なのだろうか?


 そして彼は地べたに転がった小さな死骸を拾い上げると、それを胸に抱いて涙を溢した。






 *****






 ──バタンッ。


 無言で帰宅し、扉が乱雑に閉められる。

 スニーカーを揃えて脱ぎ捨てて、背負っていたリュックを下ろしながら自室へと向かっていくと、家を出る前には閉めていた筈の自室の扉が何故だか少しだけ開いている。

 何故か、なんて考えるだけ無駄な程“犯人”は明確なので、それに眉間に皺を寄せつつもその扉を開くとそこにはやっぱり思っていた通りの人物が自分の学習デスクの椅子に腰掛け、何やら“読み物”をしていた。


「……ちょっと、勝手に入らないでっていつも言ってるじゃん。俺の物も勝手に触らないで。」


 苛立ち混じりにそう言えば、そこで初めて自分が帰宅した事に気付いたらしい“犯人”である女性が椅子をくるりと回してへらへらとした笑みを浮かべた。


「あら、お帰りなさい一織。貴方また“ただいま”って言ってないでしょ、そういうのはちゃんと言わなきゃよー。」

「玄関閉める音も聞こえてない癖にか? ふん、言うだけ無駄じゃん。」


 女性の言うことを刺々しく返しては学ランを脱ぎ部屋の片隅へと置いたリュックの上に投げ置いて、その相手を部屋から追い出そうと近付いた時、机の上に広げられていたそれを見て彼は目を大きく開いた。


「それ……俺の、」

「嗚呼これ? 部屋を片付けていたら見付けたのよ。貴方以前はこういうの書くの、好きだったわよね──、」

「何で勝手に見てるんだよ!! 態と隠してたのに、人の物を好き勝手触らないでくれ!!」


 彼女を乱暴に押し退けて机の上で広げられていたそれノートを力任せに閉ざして、再び彼女へと振り返れば切れ長な目をより鋭くしてキッと睨み付ける。

 それには困ったような、何処か申し訳なさそうな顔をした彼女が「そうなの、ごめんね」と呟いて抱き締めようと両腕を広げて近付いてくるので、その手を払って拒絶するとより酷く悲しげな顔になった。


「出てって!! 今すぐ!!」


 そう叫んでドアを指差す。

 それには彼女も肩を落として大人しく部屋を出ていくが、閉められた後のドアの向こうからは足音は聞こえない。

 きっとドアの前でしゃがみこんでいるんだろう。

 いつもそうだ、自分の怒りが収まり部屋を出た瞬間あの人はまた「ごめんね、一織。お母さんの事許して?」と抱き締めてくるのだから。

 自分を怒らせた時はそうやって頭に血が登ったのが落ち着くのを、見えないところで、傍で待っている。


「最ッ悪……やっぱり学校に持っていけば良かった。部屋も片付けなくて良いって、いつも言ってるのに…!」


 ぶつぶつと不満を垂れ流しながら机の上のノートを仕舞おうと手に取る。

 使い古した見た目のそれはページの端が黒くなる程使い込まれており、よれた表紙には“見るな”と誰に対してなのか大きく書かれていた。

 端には教科書や学習ノートが縦に積まれた少し狭い机で、そのノートを引き出しの奥へと仕舞おうとするが奥で何かに当たって入らない。

 何かと思いそれを引っ張り出せば、そこからはもう一冊のノートが出てきたのだ。


「うわっ……これ、いつ書いたやつだっけ? こんな所にあったのか。」


 それもまた先程のものに負けないくらい使い込まれ、表紙もかなり黒く汚れてしまっていた。

 触れたら、鉛筆の芯の色だろうか? 指先を汚して、そのせいか滑りが良くなっていたそれは手からするりと流れて床へと向かい落ちていく。


「あっ……とと、危ない危ない。」


 ふとした事でバラけてしまいそうな、その古いノートを落ちる間際に何とか掴み取る。

 纏めるに括られたそれが御陀仏にならずに済んで、一先ずは安堵するが“否、持っていた所で仕方がないか”と諦めみたいな思いに安堵した筈の心を忽ちに霧散させた。

 手で掴んだ際に開けたページには懐かしい自分の書いた文章の羅列が視界に映った。


「“勇者イチローの冒険”……懐かしいな、小学生の時書いたんだっけ。」


 ぽつり、と呟く。

 すると扉の向こう側から彼女の声が聞こえてきた。


「…あ、それあの人お父さんのお話でしょう? 面白かったわ。」


 なんて言って、“ありきたりな内容だったけど”とまで口にするので再び顔をしかめた一織が溜め息を吐く。


「……あのさ、何回も言ってるけど勝手に人のものを見ないで。プライバシーってものがアンタには解らないのか?」

「だってー、一織の書いたお話が見たいんだもの。…ね、ね、次はどんなお話書いたの? お母さんにも見せてよ。」


 ドアが少しだけ開いて、如何にも反省の気配が無さそうな彼女──義母である海月みつきが顔をちらりと見せた。

 それに対して肩を竦めた一織が呆れた顔をして首を横に振った。


「……もう書かないよ、辞めたんだ。」

「ええーっどうして!? あんなに夢中になって書いてたじゃない!」

「煩いよ海月、書かないったら書かないんだ。あんな子供みたいな……どうせ誰に見せるつもりもないもの、書き続けてたって仕方ないだろ。」


 すがり付いてきた海月の腕を振り払おうとするもびくともしないそれに眉間に皺を寄せつつ、手に持っていたその“お話が書き綴られたノート”を空のゴミ箱へと投げ捨てた。

 すると大袈裟にショックを受けたみたいな声を上げた海月が、そのゴミ箱に入れられたノートを拾い上げてはそれを胸に抱き一織を見上げる。


「これ、貴方が昔大事にしてたものじゃない! なんで捨てようとするのよ!」

「自分のものをどうしようと勝手だろ! もうすぐ受験もあるんだし、俺だって大人にならなきゃいけないんだから“そんなもの”に構ってられないんだよ!」


 そして「出ていけッ! 勉強の邪魔だ!!」とドアを指差した一織に怒鳴られた海月が少し目に涙を貯めて部屋から出ていった。

 去り際その手にはあのノートが在ったのだけれど、閉められたドアの向こう側から足音が遠ざかっていくのが聞こえたので、溜め息を吐いては学習デスクへと腰掛ける。

 端に寄せられていた教材を開き勉学を開始すると、その部屋にはシャーペンがコツコツと紙を滑る音だけが鳴り響くようになった。






「──ふぅ……少し休むか。」


 あれから何時間か経ち、溜め息を吐いて前屈みになっていた上半身を起こすと手にしていたシャーペンを指の間でくるりと回す。

 肩を回せばコキコキッと小気味の良い音が鳴り、ふと飲み物が欲しくなりシャーペンを胸ポケットへと入れては席を立つと、キッチンに向かう為部屋を出ていく。

 窓の外は既に暗く、時計の針も殆どが天辺に近いそんな時間。

 キッチンへの扉を開くとそこに在った食卓にはラップのされた夕飯らしきものと、その向かいの席にて机に突っ伏してゆっくりと肩を上下する海月の姿。

 近付いてみれば目蓋は降りており寝息が響いているのもあって寝入っていることは明確だ。

 食卓の夕飯もすっかり冷めているらしくそれに熱はなく、随分と長い事此処に置かれていた事が解った。

 それを見て隣のリビングからブランケットを持ってくると、眠っている海月の背へとかけては冷めた夕飯をレンジへと突っ込み稼働のスイッチを押す。

 重低な機械音が静かだったキッチンに響く中、冷蔵庫から作った麦茶をグラスカップへと注いでそれを一気に飲み干して、再度注ぎ直したら麦茶を冷蔵庫へと戻しその扉を閉めた。

 注いだ麦茶のグラスを食卓へと運び置くと後ろから“チン!”と甲高い音が鳴り響き、レンジの元へと向かうと温め終えた夕飯をそこから取り出してはそれも食卓へと運んでいく。

 序でに箸も回収して、食卓の上揃えられたそれの前の席に腰掛けると、向かいでぐーすかと海月が眠る最中、両掌を合わせて軽く頭を下げた。


「…いただきます。」


 そして箸を手に取りラップを外した夕飯へと手を伸ばす。

 生前の父が礼儀作法に厳しい人だった為か、よく躾られた一織は作法を怠らない。

 靴は脱いだら揃えるし、食前後の挨拶だって忘れない。

 「いってきます」と「ただいま」は父が亡くなり、一織からすれば両親が亡くなる直前に知り合ったような、彼から見ればぽっと出な義母しか家に居ない為に敢えて言わなくなってしまったけれど。

 それでもこうして“母親らしく”在ろうとしてくれる事に、きちんと感謝せねば……そうは思っても、思春期特有の反発する気持ちが上手くいかせてくれないからこそ先程の様に強く当たってしまう。

 味気無い夕飯を口へと放り込みながら、ふと伏せっている彼女の交差させた腕の下にあのノートが開かれている事に気付く。

 羞恥心と嫌悪感が入り交じったしかめた顔をした一織は、彼女の腕の下からそれを引き抜くと、表紙に“勇者イチローの冒険”とタイトルを刻まれたそれの開かれていた頁には両面余すことなくびっしりと書き込まれた、最早黒塗りみたいな文字列群が並んでいた。

 そこには勇者である主人公が病気のお姫様を救う為に病を振り撒く魔王を倒す……そんな、自分でも陳腐だと思うストーリーが綴られていたのだった。


「んん……あれ、一織? 勉強終わったの?」


 ノートを引っ張り出された感触に起きてしまったのか、もぞりと動いた向かいの身体から寝惚けた声が聞こえた。


「……ちょっとだけ休憩。夕飯ありがとな、海月はもう食ったのか?」

「んー……まぁね。今日の味付けはどう? 上手くいってる?」

「薄い。不味くはないが味付けがあまい。……アンタ本当に食ったのか? コレ。」


 味付けの感想を聞かれ素直に答えつつ当人こそ食べて確かめたのか今一怪しい味に訝しげに訪ねてみるも、慌てた様子の海月が「食べた食べた! やっぱそう思っちゃうよねー!」と頭を掻いた。


「中々上手く行かないわねー、どうしたら良いのかしら?」

「レシピ調べて記述通りに作る他ないだろ、後は味見して本当に旨いかどうかの判断と……適当にやって上手くいく筈がないんだ、そういう努力をしろってこったな。」

「うーん手厳しい! どうせなら楽して上手くなりたいわー。」


 そう言ってのほほんとする彼女は何かと大雑把なことが多い。

 楽な方ばかり選びがちで料理だって知識もなしに適当に作るのだから、こうして人前に出すには憚られそうな味付けのものを出しては一織にダメ出しをされる。

 自覚はあるのに直す気がないのだから質が悪いのだ、そんな義母である彼女を眺めて一織は溜め息を溢す。


「あのなぁ……よくそれで“母親”が勤まると思うんだよ。今のアンタじゃ良くて反面教師だぞ、それでいいのか?」

「ええー……それは嫌だわ。私、一織にちゃんと“お母さん”って認められたいもの。」


 海月は横に束ねた髪を指で弄びながら、だらけた体制でそんな事を言う。

 それに「じゃあそれなりに努力しろ、頑張れ」と投げ遣りに言い放てば、面白くなさげな顔をした彼女が開かれたままのノートを見てパアッと顔を明らめた。


「あ、私此処のシーン好きよ。勇者が身を呈して仲間を守ってピンチになるところ、この後病が治ったお姫様に救われて二人がハッピーエンドになるのとても素敵ね。ちょっと無理がある展開にも感じたけど。」


 そうしてとある文章へと彼女は指差す。

 それに嫌そうな顔をした一織が咀嚼していたものを飲み込むとじとりと不服そうにそのノートを手前へと引いた。


「しょうがないだろ、小学生の頃に書いたものなんだから……それに願望も入ってた事だし。」

一狼さんお父さん巳織ちゃんお母さんでしょ? モデル。」


 かちゃん、と箸が置かれる音が部屋に響く。


「……自分の両親を元ネタにして、悪いか?」


 静かに、怒気の孕んだ声が自身の口から発せられる。

 しかし海月はそれに首を横に振る。


「ううん、そんなことはないわ。ヒロイン巳織ちゃんは病から逃げずに負けないし、主人公一狼さんは仲間を庇って怪我を負っても奇跡的に死ぬ事はない。主人公とヒロインは一緒にこれからも生きていく……素敵な理想像フィクションだわ。」


 海月の言葉に、俯いた一織が唇を噛み締める。

 母は闘病も空しく病で死に別れ、父もそれから直ぐに過労で亡くなった。


馬鹿親達あいつらは他人の事ばっかりで、自分の事なんか二の次だったから……ハッ、自己犠牲って言葉が良く似合う奴等だよな、尊敬するに値しない。」


 蔑む様に鼻で嗤い、残りの夕飯をかっ込む一織。

 そんな彼に黙って聞いていた海月はその目が少し水の膜を張っている事に気付いていて目を細める。


「やりたいことだけやっといて後は残された者の為に、だとか言ってさ……残された奴の事なんか本当は考えてないんだ、どう思うのかって想像力が足りない。だから嫌いだ。酷く優しい癖して、人の事を考えてない奴等なんか。」


 両親の事を思い返す。

 母──巳織みおりは病で苦しむ中、治療費をかき集めるのに孤軍奮闘する夫である一織の父──一狼いちろうに申し訳なく思う余りに一度安楽死を希望した事があった。

 当然周りから反対され、説得するに何とか踏み留まって貰えたものの当人に生きる意思がない為に闘病も意味を成さずに軈て亡くなった。

 それには決してメンタルが弱い訳ではない一狼も度重なる治療費による借金の為に労働での過労に流石に参ってしまい、首を吊り掛けた所を一織と彼等二人の友人であった海月が駆け付けて何とか事なきを得た。

 海月がいたからこそ回避出来たその出来事は同時小学生であった一織だけだったらきっと、どうにもならなかった事だろう。

 あの時、天井から吊るされたロープに首を引っ掛けた父を支える力はなく、もう駄目かと思った矢先に何処から聞き付けたのか、海月が部屋へと乗り込んで来てくれた事でその自殺はなかった事になったのだから。

 下から見上げたロープだけを支えにぶら下がる父の姿に、あれ程死の恐怖を感じた事はない。

 その後遺書を見付け読んだ挙げ句それを破り捨てて父を罵倒した時、自分が何を口走ったかなんて事は覚えていない。

 只々怒り任せに、いつもなら自分が叱られる側だったというのに、その時ばかりは子供の自分が怒鳴り散らかして、やつれた父が酷く情けない声で謝ってきたことで更に怒った事だけは、何と無くには覚えている。

 まぁそうして生き長らえた所で、借金返済を死に物狂いで解消させた父は結局過労死してしまう事になったのだが。


「だから、“そうじゃなかったら”どうなっていたかな、って……物語フィクションの中は自由だ。自分が“そう”だと思ったのなら、その中でだけは“そう”なる……だから、書いた。」

「うん、うん。それもまた良し、なんでしょうね。だからこそチープな内容でも、そこには素敵な輝き願いがあるのね。」


 一瞬、彼女の“チープな”の発言に少しだけムッとした一織だが、自身でもそう思う事なだけに押し黙る。

 それでもやはり自身の作品なだけに不満を隠せず、ついそっぽを向くも机の上越しに伸ばされた手がくしゃりと頭を撫でた。

 愈々羞恥心が強くなってきた一織はその手を退けて誤魔化すように皿を重ね合わせると席を立ち、そそくさと空いた皿をシンクの中へと押し込んだ。


「ねえ、本当にもう書かないの?」


 後ろから海月が寂しげな声で呟く。

 皿に水を貯めるべく流す水道の水を見詰めながら、一織は頑として考えを変えない事を口にした。


「書かないよ。夢見る子供の時期はもう終わったんだ。」

「そんなことはないわ、貴方はまだ子供だもの。もう少しだけ幼心のままで──、」

「それじゃあ駄目なんだ。早く大人にならないと。」


 前に進む為にも。

 そんな言葉を含めた彼の言葉が海月の胸の内にチクリと刺さる。


「……そう、じゃあ、頑張らなきゃいけないのね。」

「嗚呼。アンタだって、母親になりたいのなら時には子供の背中を押すべきなんじゃないのか? 親離れならぬ子離れ出来ないとか、大人の方なだけあって情けないと思うぞ。」


 水道水を止め、振り返りながらそう言うと困ったように海月は苦笑していた。

 それから少しだけ間を置いて、彼女は再び口を開く。


「じゃあ、折角だし一織“先生”に質問しましょうか。」

「……先生?」

「ほら、この作品の“作者”でしょう? だから、先生。」


 海月がそう説明すれば何処か気恥ずかしげな一織が口をもごつかせて視線を逸らす。

 それににこりと笑みを返しては、彼女は食卓に広げられたノートの上へと人差し指を置いた。


「もしこの登場人物達が“理不尽”にも不幸にならなくてはいけない運命ストーリーだったとして、彼等が本当に望む“終着点”へと導くのに、貴方はどの“位置立場”が良いと思う?」


 彼女は彼に問う。

 その突然の問いに少しだけ疑問を感じつつも、“解りきった”答えを持ち合わせた彼は、ふ、と鼻を鳴らして胸ポケットのシャーペンへと手を伸ばし、食卓へと歩み進めるとノートの上でカツンと鳴らして“それ”を指した。


「……あら、意外ね。どうして?」

「当然の答えだよ。“本当に望む”ところへ導くのだとしたら、彼等をよく知らなければならないからだ。」


 カチリ、手に持ったシャーペンの頭を押して芯を伸ばす。


「よく知る為には“内側”にいちゃ駄目だ。俯瞰した“視点”が無いと、聞き伝いだけでは足りない……だから幾ら強く、賢くても勇者みたいな登場人物その内でいるのは愚策でしかない。」


 彼の声と共に芯が紙を滑る音が静かなキッチンに響く。


「じゃあ“神様”なら? 全知全能を持ってして、世界を動かすのはいつだって神様だもの。絶対的な立場なのだから、そこが一番“最適”なんじゃないのかしら?」

「それを言うなら“理不尽”を与えるのはいつだって“神”だ。神は人を救わない。もし救ったのだとしてもそれは“その場しのぎ”の救済だ、その後の事なんて知ったこっちゃない……それが神であり、理不尽の権化だ。最適とするには力不足な程遠いんだよ。」


 書き終えたそれをトンと差し、それを示す。




「だからこそ──これが俺の、答えだ。」


 【神村一織】




 タイトル下の書き足した自分の名。

 手に持ったシャーペンを見せ付けて自信有りげに答える彼は、威風堂々とした様にそれを定めた。


「導く事は“伝える”事。物語に置いて一番伝えるに相応しい“立場”にあるのは内側ではなく外側であり、“書き記す”側。そして書き記す側こそ登場人物キャラクターをよく知る人物足り得る、不変であり絶対の存在。」


 困ったような、感心するような複雑な笑みを浮かべる海月にニッと笑んで、そして自信に満ち溢れた彼はそう言葉にした。




導く者メッセンジャーは筆者の領域なんだよ。納得出来ない物語を変えるとしたら、俺が選ぶのは“そこ”で、それが最適解だ。」






 *****






 ──チチチ、チチチチッ




 甲高い、鳥の囀りが微睡みから意識を引き上げていく。

 煩わしくて顔をしかめながら重い目蓋を持ち上げると、目映い光が視界を焼いて眩しさに思わず腕でそれを遮った。

 キラキラと目の前で光を放っていたのは、何の変哲もない、木々の間から漏れ落ちる只の木漏れ日。

 それをぼんやりと眺めながら、どうしてこんな所で寝転がっているのか、何て事を考えていた。


「やあ、目が覚めたみたいだね。」


 不意に聞き慣れない幼い声が近くから聞こえて、軋む身体を無理矢理に起こしてそちらへと向くと黒い猫が二又の尾を揺らしながら此方を見詰めていた。


「……喋る、猫?」

「まだ寝惚けている様だから教えてあげる。…向こうでキミの連れが待ってるよ、起きたのなら顔を見せに行ったらどうかな?」


 そして黒猫は、誰かが居るらしい方角へと視線を向けるので、吊られて自分もそちらへと顔を向けると“ふん”と鼻を鳴らした。


「さっさと行きなよ、随分と長い事眠ってたんだからきっと心配しているだろうよ。……嗚呼でも、隣の“その子”には踏まないように気を付けてね。」


 言われて“その子”とは誰かと周りを見回して見れば、自分が眠っていた脇で烏に似た三ツ足の黒い鳥が横たわっていた。

 どうしてこんな所に鳥が? と、何が何だか解らなくて呆然と見下ろしていると、苛立ち混じりな黒猫の声が威嚇音と共に発せられた。


「その子に触るな! これ以上指一本でも触れたら、このボクが許さないぞ!!」


 フシャーッ! と毛を逆立たせて敵意を向ける黒猫に何も言い返せず、兎に角言われた通りに離れる事にしてその鳥に後ろ髪を引かれる思いを感じつつも彼はその場を後にした。


 残された黒猫は“彼”が立ち去るのを見送った後、地べたに横たわる鳥へと傍によると鼻先で身体を揺らしてはポロポロと涙をこぼし始めた。


「…やだよ……ひとりぼっちはいやだ、どうしてボクのことを置いていったんだよ……」


 ぐすんぐすんと鼻を啜る音が木々のさざめきに混ざって人知れず消えていく。

 項垂れて、自分と同じくらいに小さな身体に幾つもの玉を落として濡らしながら黒猫は独り呟いた。


「どうしてキミが消えなくちゃならないんだ……! ボクにもう少し力があったら、アイツらを止めることが出来たらこんな事にはなってなかったのに……!」


 うわあぁん!

 啜り泣いていたのが、堰を切った様に声をあげて叫び声をあげる。

 泣いて、喚いて、許せないものを幾つも並べては長い間共に在ったその亡骸にすがっていると、ゆっくり、ゆっくりと熱を持ち始めたそれが身動いで、泣きべそをかく黒猫の額を黒く小さな翼がはたいた。






 *****






 木々の葉の壁を掻き分ける。

 しゃらしゃらと耳障りの良い擦れ音が何度と鼓膜を擽りながら進んだ先には、森の中にある開けた場所にぽつんと置かれた大きな岩の上で眠る子供の姿が在った。

 すぅすぅと寝息を立て心地好さげに眠るその子供を見て一つ溜め息を溢すと、彼はその子供の身体を揺すって声を掛けた。


「おい……おい神様、起きろ。そんなところで寝てたら風邪引くぞ?」


 何度と揺すってはむにゃむにゃと口をもごつかせて漸く身体を起こしたその子供は腕を天に伸ばしてぐぃーっと背筋を伸ばすと欠伸を溢しつつ此方を見ては「おはよう、お兄ちゃん」とふにゃりと笑った。


「久し振りだねぇ、良く眠れたかな?」

「良く眠れたって……俺何時から眠ってたんだ? 全ッ然覚えていないんだが。」


 居心地悪そうに後頭部を掻きながら言えば考える素振りを見せる“神様”と呼ばれた子供は暫くして小首を傾げてしまう。


「一……五……十……、……十二くらい?」

「半日? それは確かに寝過ぎたかな……」


 記憶がないとはいえ、小さな子供をこんな所に半日も放ったらかして待たせてしまっていた事に「しまった」と顔を覆い申し訳なく思っていると、彼の言葉に神様は「違う違う!」と手を横に振ってはその間違いを正す。


「十二年だよ! 覚えていないの? きみ、この世界──ぼくの“箱庭世界”に入った瞬間発狂してしまって大変だったんだよ。」


 いやぁあの時は参ったよねぇ! そうあっけらかんにカラカラと笑う神様に、一瞬聞き間違いかと疑ったそれに彼は目を見開いて相手を凝視した。


「……は?」

「長い間ずぅーっと意味不明な言葉を続けてたり、泣き喚いたり。嗚呼そう、何度と自害しようとしてた事もあったっけな。スッゴく大変だったんだよー! 人間って無理矢理“神”の領域に引き込むとああなっちゃうんだね! あはははっ!」


 手を叩きながら笑う神様を唖然として眺めていた彼は、神様の発言にじわじわと思い出し始めた“事の始まり”に段々と苛立ちが湧き立ってくると、襟首を引っ掴んで岩の上から引き摺り下ろしては顔を近付けて叫んだ。


「ふざけるな!! 人の事ぶっ壊して置いて笑ってんじゃねえ!!」


 心の底からの怒りを吐き出すかの様な凄まじい怒鳴り声に周囲がビリビリと震動する。

 真正面から受けた神様も、それには大きく目を見開いては気まずそうに、少しだけ申し訳無さそうに俯いて「ごめんよぅ」と呟いた。


「…だってだって、見せてあげたかったんだもん…! ぼくの創った世界スゴいでしょーって、まさか此方に足を付けて直ぐ発狂するとは思わなかったんだよ……ごめんね、お兄ちゃん。わざとじゃないんだよ? これは本当なの、信じてくれる?」


 怒鳴られた事がよっぽど堪えたのかうるうると瞳を潤ませて見上げる神に怒りがまだ収まらない彼は、じっと見詰める瞳を暫く睨み付けた。

 しかし暫く経つと観念し、深く大きな溜め息を吐いては掴んでいた襟首を手から放した。


「此方は酷い目に遭ってるんだ。タダでは許してやらんからな。」

「本当? って事は何かお願い聞いたら許してくれるんだね? やったぁ!」


 腕を組み仁王立ちをしてそう答えれば、水を得た魚のように喜ぶ神様が彼の周りをぴょんぴょんと跳び跳ね回る。

 一頻り満足するまでそれを続けていた神様だったが暫くして何か思い出したらしく、自身よりもずっと長身の彼の腕にしがみつくと「その前に! コッチコッチ!」と引っ張って木々の向こうへと引き込んでいいった。


「お兄ちゃんに見せたくて連れてきたのに、それどころじゃなくなっちゃったからね! ……ほら、見て! ココがぼくがきみに見せかったモノだよ!」


 草枝を掻き分け抜けた先には広大な湖に、その脇に草原。

 美しく自然豊かなその景色は絶景と呼んでも差し支えなく、そしてそこにいた見たことのない生物達の姿。

 先程まで心底怒りを感じていたというのに、それすら霧散させてつ魅入ってしまう程のものだった。


 白く美しい鬣を靡かせながら湖の水を飲む、光輝く一本角を持つ馬。

 水辺で何人と戯れながら下半身の尾びれで水を弾いて遊んでいる、上半身が人の女性の様な半魚人。

 色鮮やかな花々を羽虫の羽根を羽ばたかせて行き交う、掌サイズの小さな子供達。

 只の歪な形に捻れた木かと思えば近寄った小動物へと自在に動いた木の枝が果実をもいで手渡している、意志を持つ動く大樹。


 そう、此処は一織の知る科学の理の他に“幻想”が息づく世界。

 一柱の子供の“神”が自身こ生まれた世界から持ち得る知識と要素を抽出し、真っ更なだった基盤の上にあらゆる地形オブジェを飾り立てた彼の為の“理想郷ドリームランド”──その名も【箱庭】。

 神が抱えた小さな箱の中、故郷である“地球”を模した基盤である箱庭にはかつて召喚士である“賢者”達と共に知識とその力を合わせて造られたという、人類が空想上と称した普通では存在する筈の無い幻想生物達が当たり前のように美しい背景と共に確かにそこに生きていた。


 元々神様より話には聞いていた一織だったが、彼もまた幻想に夢見たことのある人類の一人。

 目の前の想像でしか知らない光景に、何処か心を弾ませる気持ちを感じながらひたすらそれに見入っていた。


「……凄いな、確かにファンタジーな世界だ。」

「でしょーっ、これぼくが創ったんだよ! スゴいでしょ! もっと褒めてくれたっていいんだよ?」


 なんて言ってキラキラと無邪気な瞳に期待を込めて向けられて、確かに凄い景色だと感じたので仕方無しに「はいはい、凄い凄い」と答えればこの上なく喜ぶ子供姿の神様につい吊られて口元が緩んでしまう。


「異世界に来たって知った時にはどうなることかと思ったが……なんだ、存外悪くない気分だな。」


 なんて呟いては再び夢のような景色に、夢中になって視界を右へ左へと動かしていく。


「あの角が生えた白い馬はユニコーンだよな? 群れの中には黒いのもいるのか、ありゃたしかバイコーンだっけか。角が綺麗だが、小さい角のもいるんだな……身体は大きいが、まだ子供なのか?」


 心踊る光景の中、自身の知識に一致する生き物を見掛けるとそれを指差した一織が興奮混じりにも冷静に分析し、白い個体と黒い個体が入り交じった馬の群れを観察する。

 しかしそれに「違うよー、あれは全部同じもの!」と返した神様の声に振り返ると、隣の神様も群れを指差しては嬉しげにそれを口にした。


「空想上のユニコーンは“初物”好きの綺麗好きだけど、此処のはそういう“括り”はないんだ。汚れ好きのバイコーンもね。只の好みに過ぎなくて、白くて汚れ好きもいれば黒くて綺麗好きなのもいるよ。勿論どっち付かずだって。」


 そして今度は角の小さな個体を指差すと説明を続ける。


「“魔力”を集めて角を大きくしてるだけで、元があのくらいに小さいんだ。あっちは常に角を大きくしているから、多分彼が群れのリーダーなんだろうね。あと向こうに翼がある馬がいるでしょう? あれも彼等と同じものだよ。」


 聞けば嬉々として次々に答えてくれる様は、どうもずっと聞かれるのを待っていたかのようなそんな自慢気な姿だ。

 彼の、自信作を紹介してくれるようなそれについ微笑ましく口角が上がってしまうが、見目の違う個体を指差して言った彼の発言に思わず首を傾げてしまう。


「同じ? でも此方は角は有っても翼なんて……あ、何か背中に付いてる?」

「あれが魔力の収束器官でね、角と同じ役割をしてるんだ。だから……あ。お兄ちゃん、この小石をあの子達の方に投げてみて。」


 指差した先には足元に転がる小石が確かに在ってそれを拾い上げて勢い良く投げてみれば、直ぐ傍の地面を跳ねた小石に驚いた馬達は戦きにたたらを踏み始めた。

 するとどうだろう、背中にぴったりとくっついていた皮膚のような、小さな鰭のような部分が身体から捲り上がっていき、そこに光輝く翼が伸び始めたのだ。

 あっという間に広がったそれを、大きく羽ばたかせてはふわりと地から脚を離した彼等が空へと飛び去っていく光景に、一織は目を見開いて凝視する。


「……すっご……!!」

「でしょー! 他にも色々あるよ。あ、コッチにはね──、」


 腕を引かれて彼方此方へと子供に連れていかれる。


 一織と同一人物という幼い姿の“神様”は、元は彼と同じなら当然の如く魔法のない世界にて生まれた存在だ。

 自身の知る知識と生まれた世界の法則しか組み込めない“新世界創暇潰し造”に彼の憧れた“幻想”の要素を組み込む為に、余所の終わりかけた異世界から“魔法”の要素を色濃く持ち、更に生物創造召喚に長けた“賢者”と呼ばれる7つの人外達と知り合ったという。

 そして双方共に目的が一致した彼等は協力関係を築く為にとある“契約”をして、神様は彼等を連れてオブジェしかない生き物が存在しない箱庭に、知識と要望を与えた彼等に様々な生き物を造らせた。

 そしてありとあらゆる幻想生物を産み出した彼等は“契約”の元、世界の核へと移住し観客席天上より眺める神様を楽しませる為に、作った生き物達や異世界から迷い込んで来た人間達を使い様々な物語シナリオを綴り見せている──と、一織は神様からそう聞いた。

 始めに聞いた時こそ、どんな規模のでかい人形劇かと思った一織だったが、神様が嬉々として見せてくれたものとは一冊の分厚い“本”。

 そこには御伽噺風にも、恋物語や冒険譚などと様々なジャンルの物語が無数にも描かれており、白い頁の上にびっしりと並んだ文字群はまるで塗り潰すみたく黒く見せていた。

 それに操るといっても傀儡にする訳でもないらしい。

 “賢者”達は地中奥深くにて地上全ての出来事を把握し、物語として“面白く”する為に未来を予測し、必要があれば妨害に天候や確立を弄った“運”を用意しては足止めしたり、“天啓”として地上に住まう登場人物者達へと夢を介して行くべき指針を示して、まるで彼等が自ら選んだかのようにドラマチックに事を運ばせているのだとか。

 正直自分がそうされていたらと思うと余り快くは思わないそれに、まぁそれで成り立つ世界なんだろうと割り切って話を聞いていたのがこの世界へと足を踏み入れる前の出来事。

 小説みたくズラリと並ぶ文字列に「ものは試しに、実際に見てみる?」と言われて好奇心に負けた自分が頷いてしまったのが敗因か、連れられこの世界へと足を踏み入れた瞬間一織を襲ったのは恐ろしいまでの喪失感と、まるで世界から拒絶されているかの様な解離感。

 五感の全てを一瞬で奪われ呼吸すらままならなくなり、あらゆる物に対し一切の干渉を許されない様な孤独感を一身に受けては忽ちに意識を失ってしまってからは今に至るまで、彼の記憶には一切何も残っていない。


 様々な生き物を見て回る中、自身が意識がなかった間の事や発狂の原因の事を一織は神様に訊ねてみる。

 神様が言うには、神様と同一人物であるから同じ“神”として認識されてしまったのだろう、と別段不思議ではなさそうな顔をしてそう言った。

 聞けば、世界への干渉を禁止とする“自己ルール”を持つ彼のそれが世界に同一と認識され一織に伝播してしまったという、考えてみれば納得出来そうでいてとばっちりみたく感じるそれに一織は思わず複雑な顔をしてしまう。

 しかし神様もそうなのだと聞いて「じゃあ神様は大丈夫なのか?」と訊ねれば、当たり前となってもう随分と久しいらしく、すっかり耐性が付いてる為に現在は一織の代わりに一身にそれを受けているらしい。

 ……見たところ本当にそうなっているなか怪しいくらいには平気そうなのが、やはり神だからだろうか、と一人言葉なく思う。

 それでも彼は入った当初にいつもなら感じるそれが無かった事に、いつもより楽に過ごせる事に心浮かれてしまっていたのはあったという。

 しかしそれも束の間、突然発狂し始めた一織に自身も知らなかった神である存在としての在り方の“法則”に気付くまでに、只の人間とは言え自他関係無く傷付け暴れ狂う一織をうっかり消し潰さないようにして押さえ付けるのに大変だったのだとか。


「法則?」

「そ、法則。多分ぼくだけなんだろうねー。自分自身の別個体を自ら招き入れるなんて、どうぞ自分を乗っ取ってください! みたいな無謀な事をする神は。……ああ、分身体ですら親である神を喰らってしまうから、より酷く、物凄いリスキーな事ではあるんだろうな。」


 一織のおうむ返しの質問に、隣で並び歩く神様は欠伸を噛み殺しながらそう言う。 


「神ってのは自らの抱える世界に置いては絶対的な存在であるから、条件が揃わない限りは無敵かつ不変で在り続けるんだ。ぼくの“ルール”もその為のものでね、こちらから干渉しない事で相手側からの干渉も受け付けなくするんだ。これが一つ目の“防衛手段”。他にもあるけど、神が死んだら“柱”が無くなった世界は死に絶えるんだし、よっぽどな馬鹿じゃない限りそんな事する奴はいないだろうけどねー。」


 そして目の前に草木の壁が現れると、神様は一織に「お願いしていい?」と聞かれたので彼は頷いてその草木の壁を踏み潰しては道を作った。

 新しく作られた道を悠然と歩いていく神様の前を歩いていきながら振り返ってみれば、踏み潰した筈の草木が忽ち何事もなかったかのように元通りへと戻っていく様が視界に映り、やはり此処は今までの普通が通用しないのだと改めて思い知らされる。


「これが“干渉は出来ても、関われない”か……。」

「そう。ぼくが何も触れられない“干渉が出来ない”代わりに、きみは足跡を残すことが許されない“関われない”程度に格下げされてるんだ。」


 草の壁を抜けきって、立つ鳥跡を濁さずと言わんばかりに何もなかった事になってしまっていく光景を一人と一柱は眺める。


「ぼくは五感が無くなったところで世界がどんな形かなんてこと、ぼく自身が作った訳なんだから解っているし変わっているとして全て把握してるからこそ不便はないけど……でもやっぱり見えなくても、触れられなくてもそこに在るのに通り抜けれてしまう感覚はいつになっても好きになれないなぁ。」


 そんな事を呟いては再び歩みを進めていく。


「まぁでも、一瞬でも直に見ることが出来て良かったかな。そう思うとやっぱりきみをここに連れてきて正解だったかも。」

「その相手を発狂させておいて言う言葉か! ……まぁ、お前に取って出来なかった事が出来る様になれたのなら、神様の為に身体張ったと思えばまだマシか……。それにしたって二度目は嫌だが。」

「あっははは! 大丈夫だよ、もうしないからさ!」


 並んで歩いていた所を神様はそう笑って言うと少し先まで走っていき、背後で手を組んだ彼がくるりと踵を返すと無邪気な笑顔を一織へと向けた。




「だって、お兄ちゃんがいるからこの世界はもう、要らなくなるんだし!」




 屈託の無い顔で、そう言ったのだ。



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