9.狼のような竜とこどくの亡霊。弐

 静かになった荒野を背にしてから早数刻、頭上の太陽は昼過ぎを示していた。


 宛はやはり無いものの気の向くままに進んでいくと、やがて窪んだ地に草木が生い茂る清流が地続きに在るのが見えてきた。

 それに向かってロヴィオは砂埃を巻き上げながら滑り降り、急な下り坂を越えていくと清流の側へ近寄って口先を水に浸す。

 喉を潤す透き通った水は心地好く冷えており、先程の不浄で焼けてひりつく喉の渇きを癒して身に染み渡っていくのはやはりとても気持ちが良い。

 存分に渇きを解消させると今度は前足、後ろ足と水の中へと沈ませ、そのままざぶざぶと小さな波を立てて、素潜って沈ませては身体を起こし、水浸しになった身体をぶるりと震わせて水飛沫を撒き散らしては一息吐いた。


 ここまで清い小川は何処へ行っても久しく見なくなったものだ、と彼はふと思う。


 まだまだ非力故魔族に対抗こそし難いものの、勢力だけはピカイチの人間達は今や何処にだっている。

 水がある場所、食糧がある場所程、生息地を広げていく彼等の手が入っていない場所はもうそうそうはなく、この人間には住みにくい自然も緑も豊かなポニの双島でも港の方では少数でも人が暮らしていた。

 尤も、それは双子島とされるポニの片方だけがそうであって、もう片方には行くだけで勇気有る者とすら呼ばれる程に生きて帰られる者は少ない最も過酷な大地だ。

 流石に彼方に住もうという者は当然いない。

 昔はもう少しここらにも人は居た気もするけれど、恐らく亡霊が多くさ迷っていたからか、人が住んでいた形跡はあっても定住は敵わなかったのだろう。

 何処もかしこも、向かった先々には草木に貫かれ崩れかけた廃屋ばかりをよく見かけた。

 亡者の脅威に追いやられたらしい人間達はそうして、港だけを最後の住まいにしていた様でも結局多くは大陸へと逃げていったのだろう。

 それでもその寂れた港町に、時折人が行き来していたことは離れた場所からでも“目”で見受けられた。


『……それにしても、飽きもせずによくもまあ残っているものだ。……精霊だったか? 態々こんな大海の孤島へと遠路遙々此処まで来て、危険を侵してまでしてそれを得たいというのも全く理解が出来ん。』


 ここ最近の話らしい。

 “目”で見掛けた先で話す声が彼にそれを教えてくれていた。


 人間が“魔術”を扱えるようになった。

 扱う為には“精霊”と“契約”しなければならない。

 そしてその“精霊”はポニの双島の厳しい自然が息づく深森の奥深くにいるという。


 ……馬鹿馬鹿しい話だった。

 理論は理解出来るが、そうまでして得たい物だろうか?

 そう思って彼は嘆かわしく溜め息混じりに首を横に振った。


『使役が出来た所でそんな、死にに向かうような愚策を良くもまぁ……思い付くものだ。』


 そして顔を上げればふわりと目の前を浮かぶ、自然の中、木々を間を揺蕩う幾つもの淡い光達を見上げた。


 宙に浮かぶ光の玉……それは“精霊”。

 空気中を漂う魔力の煮こごりが可視化されたものだ。

 本来魔力とはもっと細かな粒子であり、魔力を持ち得ない人間達はそれを見る事が叶わない。

 しかし濃密に、凝り固まった魔力の塊は実体こそ持たないものの、資質ある人間であれば見れる程にはその存在は確かなものとなる。

 魔力が“満ち溢れている”場所程発生しやすいそれは、人が住める魔力が薄い場所よりも自然が多く息づくポニの双島の様な場所にこそ良く在るもので、生き物でも無機物ともどちらでもなくてどちらでも有り得る存在は昔から存在していた。

 自我や意思こそなくとも“生きている”それを人はどうやら使役する方法を発見したらしく、魔法に憧れを抱く“魔術師”とやらに成ることを目指す者達が、精霊が多く発生するポニへとこぞって来る様になったのは極最近。

 危険な場所と理解していても来る者が途切れる事はないのはそういった理由だ。


 ──それにしたってだ。


『自らの“命”を喰わせてまで、魔法の何処に憧憬を抱いているのやら。早死にしたいとしか思えんよ。』


 “精霊”──魔力の塊、それ即ち生命力の塊でもあるそれは使役するには余りに無謀で、使役すればする程“代わり”に術者の生命力を削る諸刃の剣だった。


 魔族にとって魔力とは“酸素”と同意義だ。

 それが無くては生きていけないし、枯渇しその身から尽きれば死に絶える。

 故に魔力が多くある自然豊かな場所程魔族は存在し、多くを溜め込めばより力を増す。

 勿論溜め込み過ぎても死ぬことはある、酸素だって中毒を起こすのだから此方だって変わりない。

 そんな魔力が勝手に集まって、煮こごり、構成されたそれは長年時が経つと軈て自我を得る様になる。

 意思や自我が無くとも“学習”をするからだ、“自分”を捉える様になり言葉だって話す事も出来れば姿だって変えられる様になる。

 そうして自我を得た精霊が“妖精フェアリー”へと新たな進化を成していく。

 彼等は魔力さえあれば延々と生き続ける、魔法を使えば確かに内に在る魔力を消費して使いすぎれば消滅することもあれど、“根源”に一番等しい彼等は滅多な事で消え失せることはない。

 何故なら彼等は、この世界において魔族の“根源”である“賢者大精霊”に一番近しい存在なのだから。

 賢者たちは“異世界”から来た、謂わば異物である者であれど、創造主からこの世界に伝わって溢れ出る魔力から生み出される“精霊”と、全くの別物である彼等は成り立ちこそ違えどもその性質は遠くも近しい。


 妖精は“生命力”を糧に、他者に寄生して“魔力”へと変換しその力を行使するに消費したり生存の為の餌とする。

 賢者大精霊は“想い”や“心”を糧に、他者からの“名付け”により存在固定をすることで“その在り方らしく”生命を維持し得る……彼はいつだかそう聞いた。


 ……まぁ、違う“神”に創造されたのだから、性質が違うのは当然だろう。

 彼等はそういった“神”の性質に沿った、それが一番顕著に在り方に出ている存在なのだ。

 思えばこの世界の魔族は全て、“召喚士”でもある賢者が使役する様々な生物や彼等が持ち得る豊富な知識を用いて創造したモノだ。

 そんな創造主たる“主”の世界創造をするにおいて、協力者である彼等こそがロヴィオ含め魔族達の“”であり“根源大元”であった。

 そして、それに含まれていない唯一の魔力を持つ存在こそ、“精霊”及び“妖精”だ。

 そう考えると彼等だけが純粋な、この世界独特の“生物”と言えるのかもしれない。


 ふわり、ふわりと目の前を浮かぶ精霊は意思も目的もなく宙を漂っていく。

 ただそこに存在しているだけなら無害なそれは魔族達に取っても、魔力不足に喰らいこそすれど使役するなんて事は有り得ない。

 当然だ、精霊を使役せずとも魔法を使えるのだから魔術なんて必要ない。

 灯りを灯すにしたって光量の足りないそれから意識を外し、気の向くままに下流へと進めば清流は浅くも広い池へと繋がっていった。

 森の木々に囲まれ木漏れ日が射す穏やかな水面を進んでいくと、奥には別の水源から来る水流が高台から流れ落ちて小さな滝が流れている。

 その下では細やかに弾けた水飛沫が辺り一帯に涼やかな空気を放っていて殊更心地好い空間となっていて、清涼感溢れる光景に彼は迷わずそこへと向かっていく事にした。

 滝の方へと向うのに少し深くなった所を犬掻きで越えて、辿り着いた白糸の様な小さな滝の下へと潜り込めば水を頭の天辺から浴び、清々しい心地にロヴィオは息を吐いた。

 先程食した時に付いた体液や土埃が身体中から流れ落ちていき、冷たい水が体毛や鱗を伝っていく感覚は何とも気持ちが良い。

 ロヴィオは暫く目を閉じて堪能していると、ふと、後ろを振り返る。

 ……なんだったのだろうか、そこには何もない。

 滝の内側には小さな窪みが空間を作っており濡れた岩肌が、光が射し込んだ外の水面からの反射光を浴びてらてらと輝いているだけだ。


『? ……気のせいか。』


 ロヴィオは滝の元を後にした。


『もう随分と永く生きた、流石に私も耄碌したか……。』


 側の陸地へと脚を上げると水分を吸った体毛が身体を重くする。

 歩く度に地面に小さな水溜まりを作りながら水場から少し離れると、思い切り身体を振って全身の水分を払い飛ばした時だった。


「うわーー!!? 何か飛んできた!?」

『!?』


 突然の悲鳴が水辺に響き渡る。

 驚いたロヴィオは咄嗟に距離を取ると共に身体を翻し、警戒の体勢へと身を屈め声の方向へと向くも其処に居たものを見て絶句した。

 誰も居ないと思っていた其処には、見覚えのある小さな灯火が慌てふためく様に左右に飛び回っていたのだ。


『……何故御前が此処に居る…!?』

「あ、ロヴィオただいま~。」


 灯火──ニエは何て事ない様にひらりと炎を揺らめかせているのに対して、ロヴィオは信じられないと驚愕の感情を露にする。

 あんまりに長いこと絶句していたからか、するとニエは困ったように呻いてロヴィオの鼻先に止まると小さな火花を散らした。


「解んないけど……なんか成仏出来なかったんだよねー、気付いたらロヴィの後ろに居たんだ。何でだろー?」


 鼻先でくるくると回転するニエにロヴィオは呆然とする。

 何でだろう? は此方の台詞だと、思わず脱力してしまいロヴィオはへたり込んでしまう。

 成仏出来ないのだったら、あの弔いをした意味とは一体……。


「……やー、にしても此処綺麗な所だねぇ。……へえ……外にはこんな所もあったんだぁ……。」


 苦悶するロヴィオなど知ってか知らずか、ふわりと浮かんだ灯火のニエは頭上を回ると感嘆の声を洩らしてうっとりと景色を眺める。

 その様子に言いたかった文句を飲み込んだロヴィオは身体を地に伏せたまま、浮かんだ疑問を投げかけた。


『御前、彼処から離れられないのではなかったのか?』

「んー? そうだったねぇ、今は全然離れられてるや。」


 ゆっくりと下降してきたニエは彼の鼻先にある地面にちょこんと着地する。


「今はなんか、ロヴィオから離れられないみたい?」

『なんだと?』


 思わず身体を起こしてニエを見下ろした。

 そしてニエは跳び跳ねてロヴィオから離れていく。

 ぴょんぴょんと地を跳ねる小鳥みたく軽やかな足取りだったそれは暫く離れていくと、突然不自然に宙で止まったかと思えば直後後方へと弾かれる様にして転がっていった。


「……ね?」

『どうしてまた、こんな事に……。』


 転がりながらロヴィオの足元へと戻ってきた人魂に愕然とする。

 つい口に出してしまったそれは脳裏に過った心当たりにより途中で言葉が途切れる。

 思い浮かぶまさかの想像にロヴィオは眉間に皺を寄せた。

 先程には感じ取れていた筈のニエあれの気配が薄い。

 言い換えればそれは、解りにくくなったニエの気配はまるで──自分が其処に居るような、そんな感覚。


『弔ったせいか……。』

「どうかしたの?」

『……どうもこうも、』

「同化してるぜ! ってね! あッははははッ!!」

『喧しいわ!!』

「あははっあはははひひぃ、ひーっ面白すぎる! 渾身のギャグじゃん! ふふふははっ!」


 唐突に判明する深刻な二人……ではなく、一匹と一人(?)の問題に、ニエは転げ回りながら笑い声を上げて頭が痛くなってきたロヴィオは呻いた。


「あはははははっ! すごい、こんなに面白いの初めてだ!」

『此方としては全然笑えないがな……どうしたものか。』

「良いじゃん良いじゃん! 俺はあそこでずっと独りで居るよりよっぽど良い! あはははッ!」


 心底愉快そうに笑うニエは、腹があれば捩れていそうな程に笑い声を上げる。

 その彼の言葉に何も言えなくなったロヴィオはそんなニエを呆れるように、でも口角は僅かに上げて眺めていると、思う存分笑い切ったのか落ち着きを少し取り戻してきたものの、まだ興奮覚め止まぬ人魂は彼の側へ寄ると生き生きとした声を上げた。


「ありがとうロヴィオ! おれ、今スッゴく幸せだ!」


 目を見開いてロヴィオは口をつぐむ。

 そしてそっぽを向いた。


『詰まらんギャグで、か?』

「まさか! こぉーんな景色を見せてくれた事にも、だよ!」


 そう言うとニエは跳び跳ねて水辺へと近付いて覗き込み「綺麗な水! 冷たいのかな?」と呟いて飛び込んだ。

 濡れて消える訳もなくニエは直ぐに水上へと上がり、人魂の身体に実態が無いことに気付いて──否、思い出して肩透かしを喰らいながらもまた嬉々として別の景色を求めて跳ねていった。


『……、ふむ。』


 頭を傾けてはしゃぎ回るニエを眺める。


『おい、小僧。此方へ来い。』

「んー?」


 呼ばれて彼が振り返ると、地面に腰掛けてふさふさの尻尾を揺らしながら自分を呼ぶロヴィオの元へと素直に駆け寄り「なぁに?」とまるで首を傾げる様に人魂が傾いた。


『身体が欲しいと思うか?』

「身体ー? んー……。」


 我ながら唐突な話だと思うも、訝しむ事なくニエは考え込む。

 うーん、うーん? と身体を揺らしながら唸る事数分、頷いて「うん!」と答えた。


「思い切り、全力で走ってみたい。ジャンプしたり、お散歩したり、色んな所に自分の足で行ってみたいな。」

『そうか。』


 ニエの言葉を聞いたロヴィオは頭を前に振ると、前脚で手招きし近寄ったニエを懐へと潜り込ませた。


『視界を落とせ。それから自分の姿を意識してみろ。』

「何をするの?」

『御前と私は同化しているのだろう? ならば死者の枠を一時的に外した上で、私の魔力と御前の生命力を混ぜ合わせて魂の実体化が出来ないか試してみようか、とな。』

「そんな事出来るの!?」

『やった事が無いから出来るかどうかは知らん、まだ試してみるだけに過ぎんよ。』


 興奮して火の粉を散らすニエに、気のせいか腹周りが温かい様な心地がしてロヴィオの口角が僅かに上がる。

 無邪気なニエを見ていると、必要が無い為に繁殖をした事は無いロヴィオはきっと我が子というものが居ればこんなものなのだろうか、とほんのりと胸を熱くしてしまう。


『良いから、“目”を閉じろ。それから自分の姿を思い出せ──言っておくが別物を考えるなよ? 曖昧なイメージは思考の邪魔になる。』

「はーい。生前のおれ……生前のおれ……。」


 腹元に凭れて大人しくなった人魂は、暫くすると焔の形が歪と変わりだした。

 ロヴィオもそれを確認してそちらへと自らの魔力を送り込めば、それは徐々に徐々にと形の面積を広げていく。

 そして彼自身も目を閉じると、口内をもごつかせて先程に喰らったものの形を思い出しながら、練り込んだ魔力を形付けつつ脳内でイメージを確立させていく。

 ……途中、その過程で思う事が有り、少しばかり盛って・・・再構築したりを繰り返し暫く経つと、満足そうに息を吐いて肩を落とした。

 何分、何時間と掛かっただろうか。

 ゆっくりと瞼を上げて見下ろせば、いつの間にやらすやりすやりと小さな寝息を立てている大きな赤子みたいな姿のそれに、小さく笑いを溢してその肩を揺らした。


『起きろ、小僧。終わったぞ。』

「んん……ぅ、?」


 眠たげな瞼が僅かに開かれてぼんやりとした視線を揺らしてやがて此方を向いた。


「ん……ごめん…………なんか、寝ちゃってた……?」

『集中し過ぎたのだろうよ。……それよりも、自分を見てみろ。』


 もたつく身体を鼻先で手助けして起こさせて直ぐ側の水辺へと促すと、寝惚け眼のニエは足を引き摺る様にして腹這いになって水面へと覗き込み、暫くの間良く解っていなさそうに顔をしかめるも、やがてじわじわと意識が覚醒してきたのか擦った目を丸くして、改めて水面に映る自分の姿を凝視した。


「──おれだ!」


 そう叫んでその場に座りこむと、今度は自らの腕や足をまんべんなく観察し、触ってみたり、振ってみたりを繰り返しその表情には驚きと喜びの色を浮かべていた。


「しかもなんか、全体的に大きくなってる!」

『精神年齢に合わせてみた。子供と言うには達観しているし、大人にしてはまだ幼いのでなぁ……その位が丁度良かろう。』


 ロヴィオから見て14~15歳程だろう少年とも青年に成り掛けとも、曖昧な境目の身形となったニエにコクリと頷いて肯定する。

 勿論、背丈も弄りはしたものの他にも色々と、ニエが思い起こしていた過去の姿形は何ヵ所も半ば無理矢理に変更させている。

 常に飢えと戦っていたであろう脆く細かったらしい皮張った肉体は健やかで柔らかな肉質を纏わせて、腹部が凹み浮き出されていた肋は肉で埋めてその形を潜めさせた。

 無動作に延び散らかる色彩の薄い髪は後からでも弄れるかと思いそのままにしていたが、傷を無くした本来の幼顔を中性的な端正さに引き立てている様に思わず切る予定に悩んでしまう程だ。

 食っていた時には死骸が朽ちていて気付かなかったが、思い起こした時に認識した足の腱に刻まれた傷や手足首…更には喉元の絞めた痣と抉れた目に噛み切られた舌……と想起するのも憚られる有り様だったそれは、魔力を形作る際の再構築のお陰で見る影も無く、一見普通の少年に見えるまでに整形した事に、改めて一通り確認し通したロヴィオは満足げに鼻を鳴らした。

 傷一つ無くすらりとした色白の素肌は血色に色めかせて仄かに朱混じりの脈動を感じさせ、彼が口を開く度にチラリと見せる柔らかな赤い舌もきちんと機能している。

 世話しなく周りをキョロキョロと見回す空色の瞳は人魂だった頃にも雰囲気から察していたが、相も変わらず見るもの全てに輝かせて、まだ表情が固くぎこちない様子のニエの心情を一番に物語っていた。


 痩せこけていない、自らの頬の柔らかさを堪能していたニエは思い出したかの様に地面に掌を付くと、ぎこちなく膝の位置をずらしながら緊張に力む身体を震わせつつ立ち上がろうと足裏を地に付け──、


「……ありゃ?」


 ──付ける前にバランスを崩し、支える間も無く前のめりに倒れる身体は水飛沫を上げながら浅瀬へと落ちていった。

 何が起きたのか理解し切っていないらしい呆け顔のニエがあんまりに愉快で、ついくつくつと笑い堪えながら背中を震わせてしまった。


「むー……笑わないでよ、立ち上がり方忘れちゃっただけなんだから。」

『フ、フフフ、……嗚呼すまんな。』


 水面を叩いて不満を訴えるニエを助けるべく腰を上げると、水辺へと自らも脚を入れて彼の脇に頭を突っ込み、乗れ、と促した。

 まだ上手く身体を動かせないでいるニエは素直に上半身を彼の背中へ引っ掛ける様に腕を回した。

 それを持ち上げるようにして鼻先でポンッとその身体を放り投げたロヴィオは、その子供の腹部を自身の背中に付ける形に俵担ぎみたく跨げてそのまま水を掻き分けながら陸地へと運んでいく。


「水冷たい……気持ち良かった、けど、今は寒、……へっぷし!」

『身体を冷やし過ぎたか? ならば乾かすとしよう。』

「うー…?」


 そしてロヴィオは喉奥を震わせて唸ると二人が居る地面に幾何学模様の陣が浮かび上がり、たちまちに身体にへばり付いていた水分は蒸発しびしょ濡れだった身体は乾いていった。

 最後にすっきりしたといわんばかりにロヴィオは身震いをすれば、ニエは「おおー」と気の抜けた声を上げてぱちぱちと掌を叩く。

 それにロヴィオは気恥ずかしいものを感じてニエから顔を逸らし鼻を鳴らすと、彼が座り込んだ後ろでは左右に揺れる尾が小さく砂埃を上げいた。




『──そうだ、もう少し膝に力を入れろ。腰が引けてるぞ? ちゃんと前を向け。』

「やっ……てる、けど……! くぅっ、」


 額に脂汗を滲ませたニエが苦し気に顔をしかめる。

 ロヴィオの背中にしがみついて必死に身体を持ち上げようとするのだが力が上手く入らず、膝が震えて崩れ落ちては足に何度目かの擦り傷を作っていた。

 膝から倒れ込んだまま身を屈めた彼はぜえはあと肩を揺らして荒い呼吸を繰り返し、頬や額から流れて落ちた雫が地面を濡らした。

 どうも立ち上がる事が出来ない事が判明してから今までずっと、ニエはロヴィオの補助を受けつつ立つ練習を重ねていた。

 何度崩れ落ちても本人がまだ諦めていないのは良い事なのだが、如何せん進展がなく立ち往生な状態に初めて苛立ちを見せたニエが自らに悪態付く。


「ッは、ぁ……くそ……!」

『……休むか?』

「やだッ……!」


 砂で汚れた手が砂利を握り締める。

 汗で額に前髪がへばり付いて目元が隠れた彼の表情は此方からは良く見えない。

 しかし垣間見た唇を噛み締める横顔を見てロヴィオは口出しする事を止めると、少し考えを巡らせに頭を傾けた。

 ──どうにも、ニエは身体の動かし方を理解していないらしい。

 手と足を同時に動かすみたく、ぎこちない動きで脚を何度も縺れさせているニエに必要なのは補助よりも見本なのかもしれない。


 そんな考えに至ったロヴィオは踵を返して少し離れていくと、不意に身を翻した瞬間瞬きの間に大きく姿形を変えたのだ。


「…? ロヴィ、……!? え、誰!?」


 ロヴィオの考えていることなど露知らず唐突に自身から離れていく彼の後ろ姿に、不安げな声を洩らしたニエの目の前で突如入れ替わる様に現れたそれは人の形をした男だった。

 硬質な鱗と柔らかな体毛が入り交じった狼の姿は一転して細身な筋肉質の芯の通った雄々しい肉体を晒し、黄金の鬣は撫でるように後ろへと流されて、跳ねる短い毛に長く伸びた襟足が細く長く編み込まれて一つに纏められたそれが尾のように彼の後ろに揺らいでいる。

 背丈はニエが立ち上がれたとしても見上げねばならない程高いのに、線の細い美男に見せる整った顔立ちには切れ長の鋭い眼はまるで夕焼けが映り込んでいるような色を帯びており、威風堂々たる風貌に加えて一際荘厳さを引き立てていた。

 手足の先は獣だった痕跡が僅かに残り、爪も牙も代わり映えない鋭さを携えているが、それは彼自身普段滅多になる事が無い為に細かく人に寄せようと思った事はないが故なのは、今のニエには知らない事だった。

 衣服を身に纏っていない姿で人の貌になったせいか、晒された素肌に普段なら寒くもない風が冷やしてきて彼はぶるりと身震いをして思わず顔をしかめた。

 その“姿”と成ったのは酷く久し振りだったので、“衣服”というものを忘れていた彼は寒さを感じた矢先に魔力を編み込み出し、よく利用する即席の衣装を作り出す。

 普段ならば体毛の薄い人間体に慣れず全身を覆う衣裳を好む彼だったが今の環境状況には適していないが為に生地を薄くしたそれは、彼の胸毛を表現するかの様なファーのついたフードのある袖を落としたボレロジャケットに内側には肉体へとぴっちりと張り付いたインナー、それからニッカ風の足元の幅が広いズボンに“細身”なサンダルブーツ。

 彼の好みはもっと厚手かつ素肌をより隠すものでこそあるが今回は“目的”があるからこそ、そのいつもより肌寒くてつい身震いしてしまうような手足がより良く見える格好に“人らしく”整えた。


「ロヴィオ……だよね? かぁっこいい~……!」

「この姿も随分と久方振りに成るがな。これなら……ん?」


 ロヴィオは意識を衣服から外して呆然と此方を見て口を開いている子供へと見下ろす。

 素肌を晒して此方をキラキラとした目で見上げたその子供は衣服を身に付けておらず、人間に関心の無かったロヴィオはそこで漸く“人の身は衣服が無ければ寒い”事に気付いて、今まで何の文句も無しに違和感なく裸姿でいた子供を見て肩を落とし申し訳無く思った。


「御前……寒くないのか?」

「んー? 慣れてる、死霊に喰われてる時のがもっと寒い。」


 彼の質問にそうさらりと返すニエに、ロヴィオが顔をしかめてひきつらせる。

 この子供が何でも無さげに答えたそれは、“正常から生きたまま無理矢理命を削り取られる”という死霊に襲われる際に最も苦痛を感じられる拷問の様な補食のされ方だ。

 被害者に意識が無いのなら“寝ている間に死んでしまった”で辛うじて済ませられるかも知れないそれは、意識ある内ならば生き地獄そのものだ。

 生命力を座れる毎に身体から体温が無くなっていき、活力を失っていくのが顕著に理解出来てしまうそれに身がすくむ程の恐怖へと陥られる。

 身体の力が抜け巡る血の温もりを感じられなくなると軈てそれは生きる“意思”すらも奪っていき、血も水分も蒸発してしまった乾物みたい・・・な、養分を失い痩せ細った身体は極寒の寒さに凍えながら絶命する──故に、退治しようにも既に死んでいる為に意味のないそれは、人間も獣からも忌み嫌われ“抗うより避けろ”と教訓付けられていた。

 ロヴィオの様に“浄化”の力のある神聖さある者であれば対抗の仕様があれど、そんなものは滅多にいない。

 人間達なら“聖水”などの信仰からの神聖の借り受けをしたもので、獣達ならば清く濁りの全くない清流にて身を浄める等をして何かと工夫して持ちこたえられる様にしていた。

 そうは思っても、ニエの答えは良く良く考えれば当然だ。

 今まで“人柱”にされて死霊を態と引き寄せられて今まで過ごしていたのだ。

 その死ぬまでの間に何度と、そして今までだってそう在り続けていたらしい彼だからこそのそれに、酷く憐れに思ってその頭へと手を翳して魔力を操りその身の周りを包み込ませていく。

 ……気のせいだろうか?

 頭上に手を上げた際に一瞬、瞬きにしては痙攣とも言えるような目蓋の些細な仕草が気になった。

 それでも真っ直ぐ此方を見詰めているニエに、それよりも身体を温めてやらねば、と意識を外してそちらへと集中をする。

 衣服を作るに簡単でかつ“ポニ人”らしく、そう考えて編み出した薄い青の袖がもったりとした前開きのローブの様なそれがニエの身体の上に構成されていく。

 動きやすく、温かく、肉はかさ増してもまだ細くて脆そうな足も布地に覆わせ足の裏が傷付かない様に靴を履かせる。

 仕上げに帯を腰に巻き付けて衣服が着崩れ無いよう纏めれば「よし」とロヴィオは満足げに呟いた。

 彼自身、世話を焼きすぎかと思うところが無いわけではないが、目を輝かせているニエを見ているとそんな考えも直ぐに消え失せてしまった。


「わー、綺麗な色。青だけど空の色とは少し違う?」

「勿忘草という花の色だ。御前に良く似合うな。」

「へえ……わすれなぐさ、どんな花なんだろう。……ん?」


 両足を放り出して見上げていたニエが不意に訝しげに口をつぐんだ。


「どうした?」

「ロヴィオの声、なんか変?」


 違和感を感じるも表現が難しいのか、頭を左右に倒しながらニエは疑問を口にする。

 すると目を丸くしていたロヴィオが喉を鳴らし、堪えつつも笑い「そうか」とニエの髪を撫で回した。


「今までが思念で伝えていたのでな。あの姿は言葉を発するに適していない声帯なのだ、あれは頭に響くだろうから此方のが聞きやすかろう?」

「んー、そうかなぁ……?」


 されるがままに頭を撫で繰り回されながら此方を見詰めるニエは表情は固くも何処か綻ばせて小さく首を振る。


「あっちの方がロヴィオの声が良く聞こえて、好きだよ。」

「……そうか。」


 純粋な答えに、ふい、とそっぽを向いたロヴィオにニエは満足そうに彼の太股へ頭をぐりぐりと擦り付かせている様に、眺めていてほんの僅か芽生えた悪戯心にロヴィオらついっと身体を離した。

 それに身を委ねていたニエの身体は、距離が開き空いた空間へと横倒れてしまい小さな悲鳴が上がる。

 ぺしょりと横たわる羽目になったニエに悪戯が成功したみたく口角を吊り上げるロヴィオは、両手足を振り回しては散々文句を口にする子供を一頻り愉快そうに眺める。

 散々騒いで漸く気が済んだらしく程無くして横倒れになったまま静かになった彼に、顔を覗き込んでは「続きをするぞ。」とその腕を引き上半身を起こさせた。


「良いか? 見て覚えろよ。」


 ニエと同じ様に地べたに腰掛けると手や足を駆使して立ち上がるまでの動作を説明交じりに教え込む。

 一通り法則を伝えてまだ頭に“?”を浮かべているニエの身体を支えながら、手を添えて力を込めるべき関節や意識させる筋肉の動きを指摘していく。

 立ち上がる迄の動作に四苦八苦と回数を重ねながらも、ニエは諦めること無く何度と自らの足と格闘する。

 勿論漸く立ち上がる事が叶った所で今度は歩く動作、走る動作と次に学ぶ動きは昇り階段みたく難易度が増していく。

 そうして何時間と掛けて漸くニエが立ち上がれる様になった頃、狼の姿へと戻ったロヴィオはニエを背に乗せてその水辺を囲う森を後にした。




「……っぐ、おえぇ……っ!」


 木陰でえずくニエを、ロヴィオはその背中を人の手で撫でて落ち着かせる。

 偶々立ち寄った別の森にて、ロヴィオを慕う小動物達が供物として提供してくれた果実を頬張ったニエが呑み込んで間も無く嘔吐をし始めてしまったのだ。

 苦悶の表情に何度と込み上げる嘔吐感に全てを吐き出しても尚、“何もない”を吐き続けて唇を痙攣させるニエの折角形良く整っていた綺麗な顔だったのが、青ざめて脂汗と涙に塗れてぐしゃぐしゃになっていた。

 それにどうしたものかとロヴィオは息を吐く。


「ぅ……ご、ごめ……、」

「構わん、気にするな。……具合はどうだ、まだ気持ち悪いか?」

「ううー……たぶんへいき、ぜんぶだした……。」


 傍らに、小動物達が不安げにニエを見詰めている。

 供え貰ったそれが、毒もなく害もない果実である事はロヴィオもしっかり理解していた。

 だからこそ勿論彼等に悪気がないことも解っているので、目配せで“心配ない、大丈夫だ”と伝えると彼等は心配そうに後ろ髪を引かれつつも草むらへと帰っていき、軈てその場には二人・・だけが残された。


「身体が……受け付けない、みたいで……うぷ、」

「無理なら食べなくて良い。元より食事を必要とする身ではないのだ、もしかすると原因は其処に有るかもしれんな。」

「……ううーっ!」


 冷静に状況を分析してみれば、理由はそれくらいしか思い当たらない。

 人の形と成れた所でその身は魔力で構成された“造り物”の器な訳で。

 既に亡くなっているニエに生きる為に必要な“食”は要らないのだから、身体が不必要な要素を拒絶するのは当然なのかもしれない。


 そんなロヴィオの言葉に、ニエは呻いて膝を抱え込んで顔を埋めてしまう。

 食す前にあれ程果実を楽しみに目を輝かせていたのだ、ショックを受けている事は察するに容易い。

 生前に悲惨な生活を強いられていたニエにはきっと、この只の果実でも御馳走以外の何でもないのだろう。

 良かれと思い果実を与えたロヴィオも肩を震わせるニエの側に腰を下ろすと、小さな肩を自らへと引き寄せてその頭を撫でた。


 漸く落ち着いたらしいニエが目元を赤くして顔を上げると「ありがと」と小さく口にする。

 ロヴィオはそれに笑みで返すと、立ち上がってニエの身体を支えながら彼が立ち上がるのを補助しつつ腕を引く。

 何日も掛けた練習が漸く実を結び、拙いながらも足をふらつかせながら歩けるようになったニエは構成されたばかり生まれたての器ではまだ体力が少ない為か立ち上がるだけすら息が上がるので、彼が木に凭れて息を整えている間に地面に転がった果実を拾い上げる。

 見たところそれはやはり何の変哲もない果実で、匂いを嗅いでも豊潤な甘酸っぱい香りが鼻腔を擽るのみ。

 ものは試しにと頬張ってみれば瑞々しい熟れた果実の甘味が口一杯に広がり、何とも美味なそれを味わいながらそれを見定めた上で届けてくれた獣達からの好意に後で報わねば──と胸に決めた時だった。


「……ッ!? ぅあ……!!」


 振り返ればニエが木に凭れかかったまま一瞬声を上げては身悶えた。

 その声に振り返り、突然の異変に身体に異常が出たのかとロヴィオは咄嗟にニエへと駆け寄るも膝から崩れ落ちて臥せってしまい、顔が見えなくて状況が今一読み取れない。


「どうした!? 何処か身体が痛むのか…!?」

「……ぃ、」


 その肩を掴み必死に声をかけ、ロヴィオの脳裏にまさかの想像が浮かんで額に冷や汗が浮かぶ。

 何度と呼び掛けていると、自らを抱き締める様に腕を交差してしがみついていたニエがゆっくりと顔を上げた。

 その表情は歪み汗に塗れてこそいれど、苦しんでいるというには少し違うそれは涙混じりに頬が紅潮し唇を震わせていて、些か変な様子にロヴィオは戸惑う。

 その間にもぽろぽろと涙を溢して口元に笑みを浮かべたニエは震える声でロヴィオの名を呼ぶ。


「ロヴィ……今の、何? 何か良く解らないのが、舌と喉の辺で、ぶわーって……広がって……?」


 頬を手で包み込んで、まるで感動に打ち震えているみたいなそれにロヴィオは手に持った果実へと視線を移す。

 もしやと思いロヴィオは再びそれを口に運べば、そういった部位なのか今度は甘さよりも酸味を強く感じられるのが口の中を満たしていった。

 すると不意に口元を押さえたニエが、今度は目を固く瞑って身を縮め込ませて、何か堪えている様な仕草を見せては呑み込んだ頃には息を長く吐いて落ち着いた様子を見せた。


「……旨いか?」


 ロヴィオはニエにそう言った。

 様子を見るに、ロヴィオが口にしたものはニエへと伝わっているのだろう。

 器の無い魂をそのまま実体化させたニエには飲食の必要はない。

 元々持ちえる凄まじいまでの生命力だけで補っている肉体は、外部からの異物を拒んでしまう。

 そしてそんな彼の身体を、獣の弔いとしてロヴィオは自らの血肉の糧へとその肉体を取り込んだ事により二人は同化した繋がったのだ。

 もしかすると、それによってロヴィオが口にしたものはニエが口にしたも同然という仕組みになったのでは? そんな考えを頭の中で巡らせる。


「んーっ口の中が幸せだ……これが美味ってやつ? うわぁ、凄い……!」


 うっとりとしたニエが頬を包み込んで、味を思い出すように目蓋を下ろす。

 口の中をもごつかせて頬を弛ませる彼に、どうやら本当に害が無かったようで安心したロヴィオは安堵に肩を落とすと、へたり込んでしまっていたニエへと手を指し伸ばした。


「ほら、行くぞ。向こうには別の果実も有る。気にならないか?」

「! 行く、連れてってよロヴィオ!」


 ニエが嬉々としてロヴィオの手を掴むと華奢な身体は簡単に引き上げられて立ち上がり、おぼつかない足取りを急かしながらロヴィオに腕を引かれて歩き進んでいく。

 ふらふら、よたよたと、興味津々に周りを見渡しながら千鳥足の彼の手を引いていると「ねぇねぇ!」と腕にしがみついてきたニエがロヴィオを呼ぶ。


「ねぇ、ロヴィって呼んでいい? あとおれの名前ちゃんと呼んでよ、小僧じゃなくてニエってさ。」

「好きにしろ。……その名前は呼ばん、質が悪い。別の名前を決めたら呼ばん事もないがな。」

「えー、気に入ってるのにー……ロヴィのいけず!」

「何とでも言え。私は呼ばない。」

「ぶーっ! ケチ!」


 そうして二人は並んで森の中を歩く。

 時には町へと、時には空をも渡って旅をした。

 やがて何年も経ち、彼が不自由なく走れる様になって、世界崩壊の時が近付く頃になっても二人──一人と一匹は一緒。

 だって彼等は二つで一つになったのだから。


「ロヴィ! おれ、今スッゴく幸せだ! 世界はこんなにも輝いて見えるんだね、知らなかった!」


 そんな片割れとなった少年の言葉に、狼のような竜は「そうか」と応えて無邪気な彼を眩しげに見詰めて目を細めるのだ。 






 *****






「──ありがとう、勇者さま。おれの事弔ってくれて。」


 靄の晴れた荒野で、人魂が囁く。

 勇者と呼ばれた男は焚き火を傍らに人魂へと視線を向けると頭を左右に振る。


「こんなの……どうってこと無い。寧ろごめん、この位の事しか出来なくて……。」

「ううん! 成仏……だっけ? それをする前に、最期に誰かと話せただけでもスッゴく嬉しいんだ! 本当だよ? だから……ね、そんな悲しい顔しないでよ。君が悲しいと、おれも悲くなっちゃう。」

「うん……ごめん、ありがとう。」

「……ねぇねぇ、勇者さまのことお兄ちゃんって呼んでもいーい? なんだかそう呼びたくなっちゃった。」

「いいよ。……なんだか、弟が出来たみたいだな。」


 勇者は煤けた頬に引き吊った笑顔を張り付ける。

 そんな彼が見えなく・・・・ても力無さげな声に察した人魂は溜め息を溢す。


「心配だなぁ……どうにかお兄ちゃんに御礼がしたいけど、おれなぁんにも触れないから、何も持ってないし……。」


 そこに、彼の向こう側から怒鳴り声が響く。

 勇者を呼ぶ声だ。

 粗野で乱暴な彼等の勇者に対する言葉遣いに、人魂は半ば苛立たしげに焔を揺らめかした。


「呼ばれたから……じゃあ俺はこれで、さようなら。」

「あ、待っ──」


 その場から動けない人魂を余所に、彼等の元へ駆け寄った勇者が怒号と共に殴られているらしいのは“耳の良い”人魂にも伝わった。




「──なにあれ。」




 気持ちが悪い──生前を思い出す。

 今はもう崩れ朽ちた座敷牢の中から見えて・・・いた光景を、思い出す。


 産まれた事を罪として、幾重もの罰を与えられる。

 何度試したって死にやしないのに、肉体はぼろぼろと綻びていく。


 言葉は伝わらないので──自分で舌を咬み切りました。

 足は動かないので──自分で腕で這いました。

 生きたくないので──自分で首を締めました。


 どうしてか、血は直ぐに止まります。

 毒を呑まされても、生きてます。

 お腹が空いても、生きてます。

 苦しんで苦しんで喘いでもがいて喉をかきむしっても、死にません。


 ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと何年も解放もされず死ぬことも出来ないで──死霊に貪られ続けました。


 そして、漸く死んでも死霊の餌なのは変わらなかった。




「……むかつく。」




 焔から出た黒い煤が炎の色を濁らせる。




「──そうだ! イイコト思い付いた!」




 くるりと飛び回って濁った炎はからりと嗤った。




「お兄ちゃんへの御礼──おれが唯一出来ること!」




 人魂の下で、燃え尽きた後の地面が粟立ち始める。

 土ではない、どす黒くドロリとしたそれはズルッ…ズルッ…と何かが這う音を不気味に響かせて徐々に、徐々にと大地の上で広がっていく。




「勇者さまに祝福を! 此の世にあの人が笑っていられる場所が在りますように! …ええと、“呪文”はなんだっけ?」




 黒く染まる焔が禍々しく勢いを増していく。




「ああ思い出した──“いあ いあ んぐああ んんがい・がい!”」




 ──どぷんっ




 黒い水が波打った。






 *****






 ──世界が黒い海に溢れた。


 始めは、身の回りの人間からおかしくなった狂っていった

 狂気に理性を失った者、何かに怯え続ける者、惨たらしく自害した者。

 それがやがて近くの人間からその周りへ周りへと伝わり、徐々に、徐々に広がっていった。

 皆、自分に嫌悪の目を向けていた。


 ぼんやりとその場に佇んでいるのに、“黒い何か”達は自分に見向きもしない。

 そうしている合間にも“自分以外”の誰かがそれに襲われ、生きたままのみこまれてはそれの数が増えていく。

 ……だからだろうか。

 誰もが皆自分の身を守る事に手一杯で、誰も自分に“気付かない”。




「──やっと、独りになれた。」




 勇者は長く、深く、息を吐く。

 誰も自分を見ていないし、命令する誰かも居なくなって漸く剣を捨てることが出来た。

 もう誰も殺さなくて良いと、安心したら乾いた笑いが込み上げた。


 こんなんじゃ世界はもうすぐ終わってしまうのだろうが、そんなことは知った事ではない。


「……はは、あははは、ははははははっ……」


 生まれて初めて声を上げて笑った勇者は、やがて独り膝を抱いて呟いた。




「早く無くなっちゃえ、こんな世界──。」




 自らの喉に刃を刺した勇者を起点に世界の崩壊逆行が始まる中、落胆の表情を浮かべた“黒い男”が地べたを穢して広がった腐臭を放つヘドロみたいな“不浄の残骸”を見下ろした。


「──失敗したか。自らの“不浄呪い”に喰われちまうとはな、何がいけなかったのやら……音? この器の“耳”が良すぎて駄目だったのか。」


 そう言って“男”は泥にしても汚ならしいそれを蹴散らすと、足先にこつりと硬いものが当たった。


「っとと、なんだ……卵?」


 ヘドロの中に埋もれていたそれを手に取って確認すると、それは丸く硬質でいて玉虫色に光る卵の様な珠だった。

 それを目にした“男”は虚を突かれた顔をした後にたりと口角を吊り上げては歪んだ笑みへと変えていく。


「なんだ、成功しているじゃねェか! きっひひはははッ! まだ半端だが此処まで出来てりゃ上等上等、これさえ手に入れられりゃ“神”に至れる道も拓けたようなもんだ!」


 一転して上機嫌となった、珠を手に入れた彼はそうして“銀色の鍵”を宙に回すと滲み出た“闇”が広がりそこへと足を踏み入れる。


「……宿願達成まであと僅か。残りは逃がした“糞兄貴”と連れ出した“糞蛇親不孝者”を始末して、このうざったいループを止めれば俺の勝ち・・・・だ。」


 “闇”──それは時空を越える外界への門。

 銀色の鍵を持った彼はそうして何度も繰り返されるループから脱却し、その計画を妨げようと、無に帰そうと妨害する“蛇”の罠から逃れ続けてきた。

 まぁでも──その“蛇”の力は結局、この“男”から授かったモノなのだからこうして逃してしまうのだけれども。




 勇者は死に、蛇は去り、男も逃れて、残るは“不浄”だけ。


 今や自分がどんなものだったか、誰だったのか、何がしたかったのか、何も解らなくなってしまった“それ”は、只々ひたすらにこの世を呪う呪詛を撒き散らしながら混沌に身を融かして混ざり合って眠っていた。




「ああ──世界はこんなにも醜いものか。」




 小さな村の蟲毒の中で産まれた、史上最悪の大怨霊──《贄》は、自ら祟り潰した廃村が在った場所で、世界が終わるその瞬間まで黒い海地獄の夢を見続ける。


 ──いつか何処かで聴いた、あの心地好い子守唄はもう聴こえなかった。



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