8.狼のような竜とこどくの亡霊。壱

 ──嫌だ!! 誰かッ……誰か助けて!!




 何処かで“誰か”が悲痛な声を上げる。

 黒い海、不浄の沼、怨嗟の檻に沈む一つの小さな身体。

 何れだけもがいても黒く濁った水が身体に纏わり付き、臭くて嫌なそれが助けを呼ぶ口に何度と入り込む。




 ──助けて、お兄ちゃんッ……!!




 幾ら叫んでも、誰も“彼”には気付かない。

 だって“彼”には姿がない、“透明”だから誰も見てくれない。

 逃げようったって“羽根”はもがれて仕舞って何処にも行けない。

 足は黒い水が掴んで離してくれない。

 じわりじわりと穢されて、自分が自分でなくなっていく感覚にひたすら恐怖に身がすくむ。

 音もなく、真っ暗で光の一筋すらない閉ざされた世界では何も見えなく。

 軈てもがく力も失くなって、沈み逝く身体は真っ黒に染まって“器”へと堕とされていく。


 その最中、堕ち逝く間際、知った“男”の声が聞こえて来たのだ。




「俺の願い、ちゃぁんと叶えてくれよ? 可愛い俺の“黒い雌鶏ラプル・ノワール”。」




 嗤い声が最後に響いて、絶望の谷へと堕ちていく。




「ッ…赦さない、赦さない、赦さないぞネクロノミコンッッ!! この仕打ち、この所業、絶対に貴様を赦すものかッッ!! 呪ってやるッ…呪い殺してやるうぅッ貴様の願いなぞ、絶対に、絶対に、叶えて成るものかああッ!!!」




 怨嗟の怒号が闇に響き渡る。

 呪詛を吐きながら堕ちていく男は軈て地上にて器へと産み落とされ、そして男は産声を上げたそれを見てケタケタと嗤った。


「ひひはははッ! 良い声で啼くじゃねェか“神擬き”の鳥め。不幸のドン底でそのまま怨念を集めて、呪詛にまみれて堕ちてくれ。俺はお前が一番嫌いだからな、“そう”なってくれたら嬉しいぜ。」


 くつくつ嗤って暫く、不意に思案顔になると一つ溜め息を溢して首を横に振る。


「嗚呼違うな、一番は“兄”の方だ。アイツが一番大ッ嫌いだ。それを忘れちゃいけねェな……。」


 そうして眼下を見下ろせば、あの“死に損ない”が入った器を求めて亡霊達が続々と誘い込まれ、生を乞う彼等はその“万能にして願いを叶える神”のようなそれにすがるように神聖を穢し焼く不浄を押し付けながら群がり始めた。

 産まれたばかりの“赤子”故に逃れる力もなく、怨念や邪念にと不快な汚物が如き不浄に埋もれて無邪気かつ純粋で清い神聖であらねばならない、何百年何千年と時が経とうといつまでも子供の様だった彼が今にも“別物”に変わり果ててしまいそうな、彼の悲痛な悲鳴が聞こえたような気がして男は思わず笑いが込み上げた。


「そうだ、存分に壊れて怨念に染まれよ“神擬き”! 神聖なんて棄てて不浄に自我を喰い潰されろ! 俺の為になァ!! ひはははははははッ!!」






 *****






 ──彼等の事、宜しくね。


 微睡みの中で、記憶の中の“主”の囁く声が聴こえる。

 創造されたばかりの頃だろう、その幼い声を耳にすると無性に“護らねば”と奮い立たされる想いが湧き出る感覚に、“役目”を全うしてた頃を思い出す。

 あの無邪気で純粋な御人がそう自分に語りかけてくれた事に不思議と突き動かされるような思いだったのが、今はその“彼等”に何度と裏切られた果てに既に亡く、只ひたすらに無気力に眠り続ける“それ”は見える景色から目を逸らして黙々と意識を落としていた。




 ──ぱしゃん。




 何処かの海で波打つ音が響き渡り、ゆっくりと意識が浮上する。


『(……あの女か。今まで一体、何処に行っていたのやら。)』


 無数の触手をうねらせ深海へと沈んでいく“彼女”を、そちらへと意識を向けては視るべくして久しく凝らした上空からの“目”で遠くから眺めてはそんなことを思う。

 どのくらい眠っていたことだろう。

 それから意識がじんわり覚醒していき瞬膜と上目蓋が交差してギトリとした目が開かれた。


『……すっかり目が冴えて仕舞った。さて、どうしたものか。』


 山肌に出来た小さな虚の中。

 外より日射しが入り込むぽっかりと開いた穴の向こうで、雨が止んだばかりなのだろうか、虚の外には地面に雨水を溜め込んだ水溜まりが東雲の空を映している。

 虚の奥の行き止まりで横たわっていた彼は、大きめなライオン程の身体を四本の脚で持ち上げると長いこと動いていなかったせいか砂埃と眠っている間に他の動物達が集めてきたらしい木の葉や木の皮等覆い被さっていたそれらが背中から滑り落ちていった。

 そして彼の上や側で一緒になって眠っていた小動物達がころりと落ちて起き上がったりと、軈て周りで忙しなくちょこちょこと動き回るようになっていく。

 そんな彼等をうっかり踏み潰さない様にゆったりと虚の入り口へと進むと、やがて射し込んでいた朝日が彼を照らして、目映くも温かなそれに久方ぶりに目覚めた視界をじんわりと焼いた。

 ひんやりとまだ暖まっていない朝の風に吹かれ、朝日を浴びたらその毛深い身体をグルーミングで整え、爪先から尾の先までをこれ以上なく伸ばして身体を慣らすとぶるりと身震いで埃と眠気を吹き飛ばして気分を切り替える。

 そんないつもの、目覚めのルーティングをこなすと彼は一息吐くと、




 ──アオオオォォォォンン……




 蛇腹の胸を張り大空を見上げ、高らかに遠吠えを上げる。

 周りの山々に彼の声は何度と反響を重ねて遠くへと響き渡っていくと、立ち上がった彼の背中の角のような二本の触覚へと光が収束していき、集まったそれがぶわりと広がると夜空を幕引くような翼が展開された。

 それを羽ばたかせ絶壁を飛び降りれば彼の身体は容易く空へと跳ね上がり、翼を上下させる度に鱗粉みたく溢れ光る粒子を振るい落としては彼はあっという間に山を去っていく。

 久し振りの目覚めに“腹が減った”。

 そんな気がして、実際彼に食事を必要とする訳ではないというのに、特に宛もなく、何と無くと彼は空を駆けていった。


 海を渡る気もなく、自然豊かなその地でどうしたものかと上空を滑空し辺りを“直”に見渡していると、海を隔てて少し離れた島の方で見覚えのない景色が見えた。

 そこから湧き出る、“嫌な気配”が彼の体毛をピリつかせて警戒心を煽る。

 不快感・嫌悪感を与えるようなその雰囲気を纏う“白色”に包まれたその地へと空を滑り往き、煙るそれを突き抜けてその地へと脚を付けると見渡す事が出来ないくらいに悪い視界の先には、“靄”に覆われた不毛と化した荒野が在るようだった。

 背中の翼は着地と同時に光の粒子となって弾け散らせて、念の為と一通り周りを見渡すと大地へと鼻先を近付けて先端の鼻をひくつかせて彼はその“気配”を辿って脚を進めていった。

 思えば、以前には此処に人間達が住む小さな村が在った事を、遠い記憶がぼんやりと彼に思い起こさせる。

 何が起きたのか、すっかり生き物の気配が失せてしまったその地にはもう人っ子一人と見掛けなく、上空から見ても解ってはいたものの広範囲へと広がっていた何かおぞましさを感じられる白く濁った靄は進んでも進んでもやはり晴れることがない。

 薄ら寒くじめじめとした靄の中時折影を映し現れたのは、予想した通りかつて此処に村が在った事を証明する痕跡である朽ちた建物の跡。

 一寸先が見えない為に、それらにぶつからないよう影を避けながらも更に先へと向かっていくと、今度は足元で固い何かがこつりと当たってしまった。

 見下ろすと、彼の獣じみた目がすぅと細められて不快感を表す。

 骨だ、それも人間の。

 その時、ピンと立たせた耳に遠くから響いてきているのだろう呻き声が届いた。

 一つ、二つ、否それ以上だろうか。

 向かってきている訳ではないようなざわざわとした声は向かう先から聞こえてきているようだった。


『……やけに死霊共が多いな。』


 不快感の正体に気付き、彼は顔をしかめてそう呟く。

 掠れ、くぐもり、苦しむような人の声。

 言葉にならず只々音を発しているだけのその声は、死して尚その運命を受け入れられずに毎夜闇夜に生者を求め地上を這う不浄の残骸、“死霊アンデッド”のもの。

 そしてそれは、彼が最も忌避するものでもあった。

 白い靄が身体に纏わりついてくる不快感のあるそれを身震いで払い飛ばし、正体を知った事で興味も失せた……とは思わず、只の死霊達にしては“歪な気配”が漂う方へ、それを直に確かめようと再び脚を進めていくと靄の向こう側に初めて動く影が映った。

  

 そこにはやはり二つや三つとは言わず、何人もの死霊達がこぞって何かに群がっていた。


 視界に入れるだけで気味の悪い光景とそこから漂う腐臭に顔をしかめながらも、一体何に集まっているのやら、ゆっくりと気取られないように近付けば、その中心には崩れかけた壁に朽ちかけの解れた縄がピンと張り、垂れ下がるそれは下方で何かを縛り付けていた。

 かなり近付いてみても一向に此方を見向きもしない死霊共の中を目を凝らし、蠢き群がる合間に見えたそれを視認した彼は凄まじい嫌悪感に喉奥で唸った。


『おぞましい事を……。』


 既に息絶えたまだ年端も行かない人間が、逃げられないよう手足を縛られており、それに死霊達が一心不乱に群がっていたのだ。

 かなり時間が経っているようで身に付けていたらしい衣服は既に原型を留めておらずに薄汚れた糸屑が伸び広がり、肉体は酷く腐乱していてまるでヘドロとなって形を成していなかった。

 そして何故だか、周りでは木屑や人骨を這う蛆がそこら近辺のみ一切居ない。

 あの腐った肉を好む筈の、死骸の掃除屋とも言える蛆が寄り付かないのであれば腐乱した肉はドロドロに溶けて朽ちるまで残るのは確かであろう、異質な光景であった。

 その割に、死霊達はその腐乱死体の身体を取り合うようにして、動く死体となっている者も実体を持っていない者なんか触れもしないと言うのにしきりにまさぐって、まるで“すがって”いるようだった。

 思えば昼間だというのに薄暗いそこは昼も夜も関係無しに死霊が這い回っていて、死霊が発する不気味な気配と嫌な耳鳴りが身体の芯を凍らせてくるような感覚を起こさせて雪が降っている訳でもないのにどうにも寒々しいものを感じる。

 そしてその光景には、もう何十年以上も同じ状態が続いているように思えるのは気のせいだろうか?

 その割には、血肉の塊がまだ骨に張り付いたままの古びた骸に死霊が群がる凄惨な光景は、考えれば考える程余りにも異常であり異質過ぎて気味が悪い。


 彼の知識では、死霊の好むものといえば生きた者から得る生気、所謂生命力だ。

 その為に死骸、特に無縁仏など肉体果てた者共は夜な夜な地上を徘徊し出すようになり、生きた者探しては生命力を吸い取り、そして朽ちたそれらはやがて彼等と同じ死霊と化しては仲間を増やしていく。

 目的は生者の生命力を糧に、自らを蘇らせようといった魂胆なのだろう。

 それでも実際は死者は死者のまま、そんなことをしたところで蘇る筈もない。

 悪戯に他に死霊を増やすだけだと言うことを、知性を亡くした彼等には未来永劫理解することはない──それが彼等の習性だ。

 だというのに、あの夥しい数で群がる死霊共は一つの死体に執着している事が理解出来なくて、只無性に忌々しく睨み付けるように眺めているとふと何処から声が聴こえた気がした。


「……♪………♪、♪」


 外れた調子のそれは死霊の呻き声と耳鳴りに隠れていて、か細くささやかなものでついぞ今まで気付かなかった。

 小さいものの、遠くから聴こえる訳ではないらしいその声の方へ誘われる様に向かうと、群がる死霊からそれほど離れていない場所で仄かに揺らめく魂の残骸であるささやかな灯火──所謂、“人魂”が揺らいでいた。


「……♪~……、おや?」


 不協和音を奏でていた鼻歌らしき音が止むと、今度は少年の様な囁き声が耳に届く。


「珍しいな、ここに誰かが来るなんて。村の人かな? そんな訳ないか。じゃあ随分と昔に来るって聞いてた、王国の騎士団が今頃? ……ん~……その割には足音の数が少ない……?」


 此方が黙って見ている中でも、人魂は独りでにぽつりぽつりと投げ掛ける様な、独り言みたいなそれを続ける。

 周りが見えていないのだろうか?

 ふよふよと漂いながら探す素振りをしてそれはそっと語りかける様に至る所へ声をかけていく。


「やっほー、こんにちはー、ええとそれから……アロー? だっけ? ああダメだ、イーリシュの言葉は難しいな。何処から来た人だろう? ほら、おれってポニ語くらいしか解らないから、言葉が伝わってくれれば良いんだけど……、」


 …ポニはかつて“ニホン”という言葉が訛った、一部の人間達の系統・・の事であり、この地である双子の島で成り立つ大地の名称だ。

 そしてイーリシュは、此処より海を隔ててずっと向こうにある、スケル……何とかという王国とやらを築いた大地の、“イギリス”なる名称が変わっていったもの。

 そしてそこに暮らす多くの人間達がその“イーリシュ”と呼ばれる系統であり、そこの言語は各地に散らばって繁栄する人間達で尤も広く使われているというのは、その程度ならば人間の歴史も多少なりには彼の知識にあった。

 同じ人間でも暮らしている地域が違うだけで話す言葉が大きく変わる彼等は、昔異世界から此方へと来た最初の人間達の故郷の名を借りて今も尚、言い回しや形を変えながらも使われ続けている。

 かくいう自身が“主”と定めるそのヒトも、かつてはそのポニの元であるその“ニホン”で産まれ育ったのだと聞いたことがある。

 それもあってか大して興味もないというのに、主と同じ言葉を使うその人魂の独り言に彼は無意識に耳を傾けてしまうのだった。


 ふわりと焔が揺らいだ。


「……ま! おれの声なんて、誰にも聞こえやしないんだけどね!」


 わっはっは、と独り笑う人魂に、彼は怪訝に顔をしかめた。

 どうやら此方が聞こえている事に、あれは気付いていないらしい。

 ならばと興が冷めて此処は見なかった事にするべく踵を返すと、気配が動いている事には感知出来ているのか、慌てて炎をちらつかせて口もないのに声を上げる。


「ああっ待って待って、本当に久し振りなんだ! ここに死霊以外の誰かが来ること……ずっと死霊達にしがみつかれてて、成仏だっけ? それが出来なくて、困ってたんだよ~……」


 揺らめく炎が弱く火花を散らす。

 先程他人に聞かれていないと自らが言ったのにも関わらず、届かない(と思い込んでいる)声を誰かも解らない相手に必死に投げ掛けているそれに、何と無く脚を止めて様子を伺っていると「……まぁ、おれの声なんて聞こえやしないんだろうけど……」と呟きの声音はより小さくなってその炎も更に弱まっていく。


「誰でも良いから、弔って欲しいな……なんて、」


 ぽつりと呟かれたそれに、彼は群がる死霊の方をちらりと見遣る。

 多分“あれ”の言う、どうにかして欲しいものというのは彼処で繋がれている“骸”の事だろう。

 思えば野晒しのそれは無縁仏なそれに、その主らしい人魂は悼まれる事無く朽ち果てていく肉体が魂“だけ”となった彼を此の地が縛り付けてしまい何処にも行けず身動きが取れなくなった亡霊、所謂“地縛霊”というものなのだろうか? と、彼は思う。

 そう察して彼は「ふむ」と考え込んだ後、人魂へと意識を向けて彼の理解出来る“ポニ”の言語でその言葉を“送った”。


『弔えば良いのか?』


 突然その身の内側に響く声に、炎がぼわっと揺らめき立つ。

 そして左右に揺れて動揺しているらしい様子のそれに、構わず彼は続けて言葉を投げ掛ける。


『ならば、暫し待つがいい。』


 そういって彼は、今も尚死体に群がる死霊の方へと身体を向けて大きく息を吸い込んだ。

 体内の魔力を練り込み、彼の不浄を浄める為の神聖な力特性を込めたそれを死霊へと向けて、吐き出すように咆哮を放った。




 ──グオオオォォンッッ!!!




 魔力の轟音は地を唸らせ辺りに衝撃波を撒き散らし、ソニックブームとなったそれが白い靄を突き抜けて空間を裂いていく。

 群がり固まっていた死霊達は、圧倒的なまでの威力を孕む衝撃波に気色の悪い空気ごと紙のように吹き飛ばされては塵のように消え失せた。

 一見台風でも起きたのかと勘違いしても可笑しくない様な、その凄まじいそれにより瞬く間に靄は散り辺り一帯が晴れ渡り、廃れた荒野が日の元へと晒される。

 視界が晴れた光景を改めて見渡してみると、先程の村の跡地から少し離れたその場所はかつて社のようなモノがあったらしく、折れた鳥居の残骸が側に残っていた。

 人の残骸もちらほらと見て取れて、朽ちた建物の破片以外にも人骨と蛆が湧いた木片などが点々とそこら中に散らばっていたのがようやっとはっきり見える様になった。

 大量の死霊も嫌な靄も消えて、漸く不快感も消えた事に彼は胸がスッとする思いにやり遂げた感から「ふん」と鼻を鳴らしてみせた。

 そして人魂の方へと頭だけを振り返らせれば、何が起きたのか理解出来ずにいるらしい人魂が不安そうに炎を振るわせている。

 特に話し掛けるつもりもなくフイと顔を逸らせば、随分と物寂しくなった景色の中に未だ残されていた骸の方へと近付いていき、触れるだけで崩壊してしまいそうな朽ち残った壁を邪魔だといわんばかりに踏み崩してはその剥き出した牙で死体の手足を縛る縄を咬み切った。


『……ふむ、こんなものか。』

「……え……え? 何が起きて……?」

『見えていないのか? では私の“目”を分けてやろう。』


 おろおろと狼狽える人魂の言葉に、初めてそれが靄とは関係なく周りを全く視認出来ないらしい事に気付く。

 ならばと今度は頭上の空へと見上げると、視線の先の星がそれに応えるように煌めいた。

 つぅ、と流れる様に墜ちる星から産まれた光は、火の粉を散らしながら空を滑り降りると軈て人魂へとぶつかり、取り込まれる様にして粒子を巻き散らし霧散した。


「……? ……うわぁ……!!」


 途端、人魂は弾ける様に高く高く飛び上がる。

 そして右へ左へと飛び回るそれは、与えられた視界で周りを見渡しているらしく、まるで空を飛ぶ鳥の様にくるりと旋回しては弾んだ声音で叫んだ。


「──外だ! 外が見える!」

『……なんだ、自分が何処に居るのか解っていなかったのか?』


 眩しそうに目を細めて、日に晒されながら空を飛び回るそれに問い掛けると灯火は「ずっと閉じ込められてたからね、知らなかった!」とからりと晴れやかそうに返す。


『なんとも……度し難いな。』

「嬉しいなあ、嬉しいなぁ! こんなの初めてだ、自由になったみたい! 本当にありが──、」


 興奮覚め止まぬままな人魂が、くるくると宙を躍りながら空から降りてくる。

 そして目の前の宙で立ち止まり嬉しげに感謝の言葉を繰り返すけれども、初めて視認した相手の姿に言葉が途中でびたりと止まって、硬直していた炎は間を置いて驚愕の余り思わず叫び声を上げた。


「──おっきな、喋る犬……!?!?」

『誰が犬だ!!』




「──ねぇ、ねぇねぇ、君の名前教えてよ。何処から来たの? わんちゃんなのに喋れるの凄いねー!」

『煩い……それからわんちゃんは止めろ。』


 うんざり顔の狼の周りで人魂がうろちょろと飛び回る。

 好奇心旺盛らしくぴょんぴょん跳ねながら、彼の事を問い詰めてくる無邪気さが予想だにせず余りにもぴーちくぱーちくと煩わしくって、憐れに思って手助けしたものの今の彼の頭には後悔の二文字が浮かぶ。

 見付けてしまっては見捨てる訳にもいかなくなるのが元々彼の性分であり、関わってしまった以上人魂の希望通り弔ってやりたいと思うも鬱陶しいくらいに絡んでくるそれが余りに邪魔で、動くに動けない彼は重い溜め息を吐いた。


『……“ロヴィオ・ヴォルグ”だ。我が創造主から賜った名だ、間違えてくれるな。』

「ろ、ろびー……? 難しい発音だな。ろぅ、ろぐぃおるぐ……ううーん。」

『……ロヴィオ、だ。ロ、ヴィ、オ。』

「ろ、ろる……ろみお……」

『ヴィ。』


 彼──ロヴィオの名に、人魂は頭を捻るみたくぐりんと炎を回転させながらくぐもった声で唸る。

 幼子が慣れぬ発音に苦戦するみたいなそれに、世話が焼けると感じつつもロヴィオは何度と修正を重ねてみる。


「ろ……ろみー……び、うぃ……ろうぃお!」

『惜しいが、違うな。』

「ううーっこの先生手厳しい!」


 くそーっと悲鳴を上げるも、人魂の声音は何処か楽しげだ。

 そんな様子に思わず笑みを浮かべるも、直ぐ様居住まいを正して何でもないように振る舞い直すロヴィオだが人魂はそれどころじゃない為に気付かない。


『そういう御前の名はなんだ。聞くだけ聞いて答えないのは、礼を欠く行為だぞ。』

「うー……うん? ああ、おれの名前?」


 ふらふらと付近を揺蕩っていた人魂は、ロヴィオに近寄ると「えーと」と声を溢しつつもそれに答えようと炎を揺らした。


「無いよ。ニエとは呼ばれてたけど。」

『……何?』

「生け贄の“ニエ”。母親も父親も、産まれた時に死んじゃってさー。」


 そして世間話みたいな調子で身の上話を始めた人魂の生前談に、やがてロヴィオは激しい嫌悪感を起こして顔をひきつらせていった。




 生前の人魂──ニエは、其処から少し離れた村で産まれた。

 余り裕福ではなく、慎ましやかな普通の両親の元に産まれた子供は只の人の子だというのに、生まれつき生命力が人一倍、もしくはそれ以上に強かった。

 深夜遅くに産まれた彼に、両親は苦労して生んだ子の誕生に幸せを噛み締めていた時だった。

 生命力を求めて毎夜地を這い出てくる死霊等亡者共がその驚異的なまでの生命力に惹き付けられ、生まれた直後の赤子を抱えた両親は巻き込まれる形で生きながら魂を貪られてしまい、あっという間に絶命。

 一方で名前を与えられる前に天涯孤独となってしまった赤子は死霊達に生命力を食われながらも、産まれたばかりに母の温もりを求めて泣き喘き続けて早一晩。

 翌日凄まじい亡霊の群れが朝日から逃げ出すように消え失せた頃に、異常な程に沸き上がった死霊に怯え、自らの家に立て込もって震えていた村の者達が漸く顔を出すと彼の両親がいた家である小屋には干からびた男女二人に抱えられた玉のような赤子が、昨晩の亡霊達に襲われていたのも嘘みたく何事も無かったようにぴんぴんと、すやりすやりと寝息を立てて眠っているではないか。

 それを見た村の者達はその異質な赤子を恐れ、また死霊が押し寄せてくるのを防ぐ為に間引こうと画策するも、毒を飲ませても苦しんだ後克服し、崖から川底へ落とせば下流で掬い上げられ、その度に赤子がいる場所では夜になると死霊共が我先にとその生きる力の源を喰らいにやってくる。

 その果てに、恐ろしく亡霊を引き付けてしまう赤子に困ったものの、死霊に怯えて暮らしていた村の者達は逆にこれ幸いと死霊避けの為の人柱として、村から離れた場所に建てた社の座敷牢に閉じ込める事にした。

 赤子は死霊の餌という囮の役割を毎晩繰り返し乗り越え続け、すくすくと成長し軈て幼子から少年へ、時折置いていかれる衣食で自力で何とか遣り繰りし死霊共に生命力を食われ続けながらも、それでも彼は生き延び続けていた。    

 だがそれも大人になるまでは持つ事はなかった。

 12歳という若さで漸く死に絶えた少年に、村の者達は残念とも安心とも入り交じった複雑な感情に包まれた。

 それも束の間だけの話で、少年を糧に集まってしまった亡者共が消えてくれないので、村の者達は仕方なくその死体を座敷牢の中で張り付けたままにして放置し、危ないからと人を近付かせないようにしたのだ。


 ──しかし驚異的なまでの生命力の強さは少年が死んでも収まる事はなく、魂だけの存在となって彼は再び死体の傍らで目を覚ました。

 魂のままでは生きた人間に視認されず、絶えず引き寄せられてくる亡者共に村の者はこの土地から逃げ出す事も叶わなくなり、以前よりも酷く脅えて暮らす事を強いられる事となった。

 そして村人の全てが息絶えて住む者無くなった家々は朽ちていき、座敷牢が在った社が老朽にて崩れ落ちて彼の骸が野晒しになっても尚不思議と血肉腐った頃のままの骸から彼は動けず終いに早何十年だかもっとだか。

 そのまま死霊の餌としてぼんやり過ごしていた所を、ロヴィオと出会ったのだという。




『吐き気を催す程の糞みたいな話だな。』

「あはは、自分でもそう思うよー。」


 からからとニエは笑ってくるりと飛び回る。


『他に良い名前を考えておけ、それは余りにむごいぞ。』

「えー、気に入ってるから良いじゃん。“ニエ”ってさぁ、響きが良くない?」

『……理解出来ん。』


 ロヴィオは苦々しげに顔を背けると、人魂は拒絶されているにも関わらず何故だか嬉しそうに炎を散らつかせる。

 良心的な提案を聞く気のないらしいそれに溜め息らしく鼻を鳴らすと、下ろしていた腰をあげては死体へとロヴィオは顔を寄せた。


「何してるの?」

『弔って欲しいのだろう? ……しかし人間の様にやるのは癪だ、だから獣としての作法になってしまうが……、』


 そう言うとロヴィオは鋭い牙を死体へと向け──、


『まぁ、赦せ。』


 腐肉に食い込ませた。




 ──がぶり、ぶちん、はぐはぐ、ぐちゃり。




 臭くて形を崩してどろりと溶けている、牙と舌をねばつかせる不快なそれが口の中に広がっていく。

 余程不浄な物にまみれていた事だろう、先程の浄めるにも効果のある咆哮を浴びたにも関わらず口の中を痺れさせる程の“穢れ”が生前の彼に悪意と憎悪がその身を汚染させていた事を物語っていた。

 それでも顔をしかめる事なく只々労る様に、祈る様に、この子供がこれ以上苦しまずに済めればとそんな想いだけで、彼は“特効”でもあり“弱点”でもあるその不浄の塊の如き腐乱死体を胃の中へと押し込んでいく。


 獣の弔いは再生の祈り。

 母の亡骸は子の飢えを癒しを愛で満たし、友の亡骸は共に生きよう共に在ろうと生きた証を我が身に刻む。


 このニエという存在を、ロヴィオは憐れだと思ったのは確かだ。

 両親は産まれと同時に亡くし、護られるべき赤子の頃より愛情を受けず、只々死の脅威に曝され続け、無惨な死によりせめて解放されれば良かったものを今も尚辱しめを与えられ続けられている事に、彼はより見ていられなくなった。


 “ロヴィオ・ヴォルグ”という狼のような竜はその世界に置いて不具合を正す役割を与えられた“神の遣いデバッカー”であり、そして人々にとって彼とは“神”そのものである。


 彼が“主”と呼ぶ創造主と、それに仕える七柱の“異世界からの賢者”達により創られた天地海の三つに別った内の一つである彼は、地上を監視し生者を理不尽必要のない不幸から守護する役割を与えられた。

 生きとし生けるもの万物を慈しみ庇護してきた“ロヴィオ・ヴォルグ”の名を持つ狼のガワを纏う竜は、これまでに何度と獣だけでなく人間をも護ってきた。

 西に理不尽な圧政に苦しむ人々がいれば、悪逆無道の長を制裁を与えて人々を解放し。

 東に人間の必要以上な木々伐採に獣達が住みかを追われたのならば、向かって蹴散らし人間を追いやり。

 公平に、公正に、等しく彼等を守護してきた。

 思えば、一番始まりに此の世界に組み込まれた人間達を好奇心も食欲も旺盛な獣達から護っていた時には、その存在のひ弱さ脆さに驚いたものだ。

 魔力もなく、力も弱い人間というか弱い存在がいつからか群れる程数を増し、こうも息が長くそして多く繁栄するとは当時には思いもよらない事だった。

 始めはそれに感心こそしたけれども、今ではすっかり同種族を貧富とかいうカースト如きで悪戯にいたぶり、辱しめ、挙げ句の果てには人を人と思わない所業を繰り返す者が随分と増えていったように思える。

 勿論老若男女貧富関わらず清く正しく生きる者は確かにいる、しかしそれを蹴落とし陥れようとする者も、老若男女貧富関わらず存在する。

 それらを救い、関わり、制裁を繰り返す内に──ロヴィオは遂に呆れ果てた。

 何度救おうが、何度懲らしめようが、人間達は頭を変え世代を変えては何度幾度と繰り返す。

 それは、この世界が“輪廻転生”の機能を抱えているからこそであり、それが現在機能して“いない”事こそが一番の原因だった。

 彼の同胞である“大蛇”が護る冥府の門を起点として、死した魂はそこをくぐって“魂の再興”を経てより、新たな命、新たな“運命役割”を持ってこの世に再び命を宿す。

 そうして彼等はこの世界の新たな視点を物語の切り開いていく一部となっていく──それが正しい“在り方”だった。

 しかしそれも、数百年前にとある“出来事”によって冥府の門が閉じた今、門をくぐれず魂の再興が叶わない。

 変わらぬ魂が転生したとして役割が既に無いというのに同じ運命を辿るのだから殊更進歩もないのだ。

 そもそもが、そうなったこと事態人間が原因であるからこそ自業自得でしかなかった。

 自分の片割れとも、兄妹とも言える慈愛の権化の如き大蛇を、あろうことか“魔王”と称して人間達は下らない勘違いをし“抵抗すらしなかった”彼女へと仇なし手に掛けた。


 ──流石に我慢の限界だった。


 以来、ロヴィオは人前から姿を消し、さすらい、助けを呼ぶ声から目を逸らし続け、何処かで身を潜めて傷を癒しているであろう同胞を探す日々をもう何百年と過ごしてきたが、それも中々叶わずに眠りながら“星の目”で見付からない彼女を探す日々を送っていた。


 彼の“星の目”とは──夜空に浮かぶ満天の星空、それはロヴィオの“観測網”。

 この広い世界を見渡せる、賢者から授かった“目”は空の下であればいつだって観測を可能とし、認識さえすればそこへと瞬時に向かうことだって出来る。

 三対の同胞の中で“天空神”の要素を組み込まれ創造されたが故に空はロヴィオ・ヴォルグの支配域だが、探し者の大蛇はと言えば、与えられた要素は“地母神”であり地が管轄。

 流石のロヴィオもその“星の目”では地中や屋内までは見通せない為に、故にこそ未だに再会する事は叶っていないのだった。

 もう一つの同胞が海にもいる訳だが、それは先に創られたか後に創られたか良く解らない矛盾まみれな魚擬きで、得体が知れない部分が多過ぎて気味が悪いし何よりいけ好かない。

 彼が物心つく前から世界の核に近い、“ポニの双島”の脇にあるアビスたる深海にずっと居座っている為に、何処の誰かがあの魚竜女彼女に出会うなんて事は滅多なことではなかった。

 彼が目覚めた時にこそ、何やら何処かへと“翔んで”いたようではあったが“あれ”がどういうものかは自分ですらよく知らされておらず、その目的や役割だって知らない。

 どうやら核の内側にいる、創造主と共に彼の同胞や獣を造り出した我等が父賢者達を見張っている様にも、はたまた別の何かを待っている様にも思えたが、その理由だって知らない。

 故にロヴィオが関わろうとすることはなかった。


 ……食事を必要とする身体ではないとはいえ空いた腹を不浄に埋め込んだのが少し辛かったのか、いつの間にか無心で喰らっていたらしい。

 気付けば肉らしきヘドロなそれはやがて視界から失せ、赤黒かった血肉の塊から白く中身が無さそうな脆い骨が姿を晒し始める。


「……腐ってるから、お腹壊しちゃうよー?」

『毒も効かん身体だ。この程度、造作もない。……嗚呼、でも、臭いな。』


 腐臭がする血にまみれたマズルを前足で拭うも、再び食に戻れば意味もなく。

 やがて骨だけとなった少年の骸を、ぽかんと見詰めていたニエの前で今度は地べたに転がった骨に牙を立てた。


「わー、良い食べっぷり。どう? 俺って美味しい?」

『新鮮だったら旨かったろうなぁ。』

「ですよねー……あ、それおれのじゃないから食べないで。なんか嫌。」

『む……承知した。』


 パキパキ、コリコリと中身が詰まっていなさそうな軽い音を立てる細い骨達を噛み砕き、みるみる内にニエの身体は全てロヴィオの体内へと呑み込まれていく。


 ──パキンッ、ガリ、コキッ……ごくん。


『──ふぅ。』

「すごぉーい、完食じゃん!」


 嬉しそうにぴょんぴょんと宙を跳び跳ねるニエに、毛繕いをしながらロヴィオは一つ息を溢した。

 今まで暫く眠っていたからか、不浄のモノだとしても空きっ腹を都合良く満たせて満足げに後ろ足で耳元を掻く。

 序でに血が飛び散った脚や胸毛を嘗めて、鱗混じりな蛇腹を嘗め、最後に身震い……と獣らしく食後のルーティンをこなして、改めて腰を下ろして“けぷり”と腹の中の空気を吐き出してふと思う。


『……旨いものが喰いたい。』

「おれ食った後に言うことがそれ?」


 隣で不満そうにブーイングするニエをじとりと視線を向ける。


『中々に惨い味だった。私が今までで喰らった中でトップの位だぞ、喜ぶが良い。』

「それって滅茶苦茶不味かったって事だろーっ! もう、酷いなぁ!」

『嗚呼……御馳走様。』


 炎をひっくり返して騒ぐニエに、ロヴィオはそう言って頭を下げる。

 突然の真面目な気配と、最後の言葉にニエは不満なんて言えなくなってしまい、あんなにもキャンキャンと騒いでいたのが嘘みたく押し黙ってしまう。

 あれ程無惨な、得体の知れない腐肉を欠片も残さずロヴィオは食べきったのだ。

 それが自分を悼み想っての弔いならば、ニエにとってこれ程嬉しい事はない。

 ゆっくりと視線を向ければ穏やかに焔を揺らすニエは、ロヴィオの鼻先に止まると淡い火花を散らした。


「……ありがとう、ロヴィオ。おれの事弔ってくれて。」


 漸く発音出来るようになった彼の名を口にして、ニエはふわりと浮かび上がる。


「おれ、幸せ者だなぁ。もっと生きて、色んなものを見たかったけど……成仏するならもうサヨナラだ。死んだものが生に執着するのは善くない事だしね。」


 そう言われて亡者共が頭に浮かぶ。


 冥府の門と死者の安寧を護る同胞が、昔人間に討たれて以来閉じられたままの冥府の門が原因で、死者の魂の全てが転生する事が出来なくなりあぶれた魂が亡者となり地上に這い上がってくるようになった。

 それを発端である人間達は知らない。

 獣は恨み辛み拗らせた者くらいしか骸が動き出すなど滅多な事はないというのに、多くの亡霊が地上を這う人間達は随分と生に執着する。

 今在る生を全霊を持って生きる獣には、一度きりの生に固執する程の嫉妬や執着の感情を持ち合わせていない。

 叶わないのは仕方の無いこと。

 羨む暇が有れば次の生に運命を託し、今持ちうる物は後を繋ぐ者達の為にと託していった方がずっと良い。

 勿論、獣全ては弱肉強食の理に生きている。

 弱い者が強い者に負けて飢えるなんて日常茶飯事は当然の事、怠ければ他がのしあがって強弱逆転と、様々な事はある。

 同じように思える生物としての性質で、人間において彼が一向に理解が出来ないのは“意味もなく悪戯に他人を蹴落とす事”だ。

 群れの頂点に君臨するのは強き者が弱い者を護る為に在るというのに、強き者が弱い者をいたぶる人間というものは誠に理解し難いものだった。

 それに比べて、同じ人間だというのに自らの死を簡単に受け入れ、潔く消滅しようと浮かび上がるニエを見上げてはロヴィオは思わず感心する。


『後悔は無いのか?』

「うん? んー…まぁ、ちょっぴりはね。でもそれよりもあいつらと一緒みたくはなりたくないしー。……じゃあ、」


 ニエの、人魂の揺らぐ灯火が大きく燃え上がると、その勢いに連れて燃え尽かんとばかりにそれは小さく弱くなっていく。




「ありがとう、ロヴィオ・ヴォルグ。君に出逢えて良かった──。」




 そう言い残して、小さな灯火はロヴィオの目の前で掻き消えた。

 誰も居なくなった荒野には、カラリと晴れた空を見上げる大きな狼が一匹取り残されていた。






 *****







「──何故だ!! 何故神は私達を救って下さらんのか!?」


 とある教会にて、男はミスラを投げ捨てて空に八つ当たる。

 手にはかつて彼等が神と讃えた狼竜より承った宝珠“竜の目”がひび割れて無色透明な色を映しており、只の硝子玉になったそれを憎々しげに睨み付けた。


「おのれスケルトゥールの糞餓鬼め!! 誰の為にあの朦朧爺のフルールを屠り教団のトップに登り詰め、援助をしてやったと思っている!?」


 ガラクタと化した硝子玉を乱暴に投げ棄てると男は目を血走らせて喚くのを止めない。


 当然だ、彼等の神は既に彼等人間を見捨てているのだから助けに来ることは未来永劫有り得ない。


『──好きなように生きて。』


 彼が創造つくられて直ぐ、役割と共に与えられた指示に従って彼は好きに──人間を護る事を辞めた。

 呆れ、憤り、今まで生真面目にこなしてきた役割を捨ててまで、此処よりずっとずっと遠くで見向きもしないで眠り続けているのだから。


「糞オォッ!!!」

「……気は済んだ?」


 鬼気迫る勢いで男の目は声の主へと向けられる。

 そこには男の姿を捉えた淀んだ目が、無動作に伸ばされた前髪から風に靡かれてちらつかせる。

 その身体は教会の中を照らす蝋燭の灯りにより夥しい血に染まった姿を晒し、手に持った使い込まれてボロボロな剣は今浴びたばかりらしい血の雫が足元に水溜まりを作っていた。


「──化け物め! 忌まわしい帝国・・の犬如きが、良くもやってくれたな!!!」


 喚き散らす度に男の口から唾液が巻き散らかされ、彼──勇者は僅かに表情を曇らせる。


「…御前達の神というのも、犬なんだろう。良いのか? それで。」

「煩いッ! 煩い煩い煩いィッッ!! 所詮あの神も只の魔物の一端! 大体そんなものを崇めていた事自体、そもそもがおかしかったのだ!!」


 ヒステリーに頭を振り回して男は喚き続けるのに、「助けを求めてた癖に、良く言う…」と勇者は独りごちる。

 しかし背後から響いてきた近付く足音にびくりと身体を強張らせ、恐怖と緊張に震えと視線を泳がせた。


「まだ終わらせていないのか、愚図め。仕事は早く終わらせろといつも言っているだろう? モタモタしていないでさっさと邪魔なそれを殺せ。」

「……ッは、い……すみませ、」

「怪物の癖に喋るな。」


 現れた人物が勇者に向かって棒の様な物を叩き付ける。

 避けない勇者はそれを受けてぐらりとするも倒れずに、何か言いたげに口元を震わせながらも言われた通り何も言わない。

 そして暗がりから現れた人物を認識した男は驚愕と恐怖に顔を歪めると、彼が勇者をいたぶっている間に後退り一目散にその場から逃げ出した。


「……追って殺せ。」


 彼が指示を出せば勇者は即座に駆け出し、直ぐ様教会の中で絶叫が響き渡っていった。


「──フゥ、やっと此処まで……か。」


 彼は疲れたといわんばかりに、勇者を殴るのに使ったそれで肩を叩く。

 きらびやかな装飾を纏ったそれはエメラルドグリーンの水晶体が組み込まれた王笏で、彼がスケルトゥール帝国・・の頂点に君臨していることを示していた。


「忌々しい蛇め、此処までやってもまた元通りだと? ……ッハ、潰しがいがある遊戯盤だなァ? おい、」


 そしてじとりと、天を睨み付けた。


糞餓鬼がおお神よ、待っているがいい。今はまだでも、いずれその座から引き摺り墜としてくれる。」


 彼は“アルクレス・フォン・スケルトゥール”。

 スケルトゥール帝国の第一皇子・・・・から、皇帝へと登り詰めた男の名前。



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