6.我が誰ぞと己に問ふ。

 人は其れを“勇者”とよぶ。


 ──其れは“彼”に、短慮と無謀さを現した。




 彼等は其れを“裏切者”と罵った。


 ──其れは“彼”に人への嫌悪を抱かせた。




 導を指す者は其れを“犬”と定めた。


 ──其れは“彼”に人でなしと自覚させた。




 民は其れを“剣”と讃えた。


 ──其れは“彼”に血を流す事に歪な安寧をもたらした。




 “アーサー・トライデン”




 その名は彼に“そう在れ”と、歪んだ指針を示す枷と知る者はその国に一人として存在する事はなかった。




 ──“混沌を呼び起其れこす者”が目を覚ますまでは。






 *****






 次期スケルトゥール国王“ソロモン”の王位継承式、式典前夜。




「……また来たの? 飽きないな、君。暇なの?」


 王宮に在る薄暗い牢にて。

 億劫そうにじとりとそれを睨んだ彼は、目の前に毎夜訪れる客人に歓迎を喜んでいないことを現す。


「まぁまぁそう言わずに、ボクとキミとの仲じゃないか。こんな寂れた所に態々来てるんだから談笑にくらい付き合っておくれよ!」


 ニコニコと張り付けた笑みを向けながら事面白げにそう言う相手はというと、拘束された彼の目の前にしゃがみこんでは頬杖を付いて此方と視線を同じ高さにして相対していた。


 冷たい地べたに両足を伸ばして座り込んで漸く眠れそうだと壁に凭れていたというのに、夜分遅くに唐突に現れる厄介な客はきゃいきゃいと頭に響く子供の声でろくに返答されることもないのに飽きもせずにポンポンと話題を振ってくる。

 どうやら敵意が無いらしい侵入者それは何度振り払い撃退しようにも、するすると掻い潜ってはうざったらしく絡んでくるので遂に無理に追い出す労力すら億劫になってしまったアーサーは只々面倒なだけの客人の事はひたすら無視し、放ったらかしにする事を決めたのが確か一昨日の前の日。

 今日もまた懲りずに現れては、両手に嵌められた枷にからかうみたく捻れ絡まった木の枝みたいな杖でツンツンと突ついたりとちょっかいを出してくるのが如何にも鬱陶しく、害こそないものの嫌がらせだけはピカイチのそれにうんざりとしたアーサーは思わず脱力してしまうのだった。

 それを知ってか知らずか、恐らく解っていてやっているであろう相手はニコニコと愛くるしい笑みを湛えてアーサーへと返事を求める事もなくひたすらに聞かれてもいない言葉を投げ掛け続ける。


「折角キミの名前が“アーサー”だって聞いて“マーリン”っていうキミを導くに相応しい名前を主様から貰ったってのに、まさか名前を間違って使われ続けていただなんて……ボクの今までの苦労を返して欲しいくらいだよね~。一体全体どうしてそんなことになっちゃったんだか! 本来の名前も“忘れ”ちゃってるし、その割には呼ばれ名は随分と多いし、そんなんじゃ生きてるだけでも辛いでしょー? 良く堪えられてるよねぇ。」


 その“マーリン”と名乗った女の子みたいな風貌の少年はそう言って立ち上がると膝元の埃を払ってよりアーサーへと近付いていく。

 杖の先が向けられるが魔法を使おうとする様子はなく、殴るでもなく触れさせた顔を左右に動かし、前髪をずらし、服を捲り上げたりとしては「ふむ」と考え込み始めた。

 それにされるがままでいたアーサーは顎を上げようとする杖の先端には頭を振り払って僅かな抵抗を見せると、小首をこてんと傾げたマーリンが呟いた。


「“目”は在る、牙もある、爪は普通で羽根も……あと鱗も無し、なのかな? 役目が近しい事もあってか、歪なままでも辛うじて中途半端に人の形に収まってるって感じかなぁ。何かの拍子で“内側”のが出てきそうな気はするけど、“前回”の事があるし下手に呼び起こすのは不味いかな……。」


 また意味不明な言葉の羅列に気が遠くなる。

 腕を組み頭を捻りと考え込んでいるマーリンに不快感隠さない眼差しを向けつつ、捲られた前髪を枷ごと持ち上げた指先で目元を隠そうと弄り直していると再び伸ばされた手が前髪を持ち上げては額を晒し、半ば強引に顔を合わさせるようにして顎を引かせるのに顎下へと指が触れてはその金目は間近に視線をぶつけてきた。

 するとぶわりと沸き上がったサブイボと額や頬の脂汗が顔面を濡らし表情を引き吊らせると、思わず手枷が付いた手を振り回してマーリンを遠ざけた。


「や、めろッ………気持ち悪い……!!」

「心外だな~ボク可愛い顔してるだろ? 眼福って言ってよ。」

「何処が! 女みたいで気色が悪いッ…!!」


 両頬に人差し指を向けて可愛らしくポーズを決めるマーリンにより距離を取ろうと後退るアーサーが叫ぶ。

 マーリンから離れていこうとするアーサーの足枷の方の鎖を踏めば引っ掛かりがくんと身体が突っかえ、身動きが取れなくなり迫るマーリンを見て小さく悲鳴を上げ、手を腰に付けて前屈みにアーサーへと顔を近付ける彼から必死になって顔を逸らした。


「……ちょっと、ボクの事を見てよ。何顔隠してんの? 恥ずかしがり屋?」

「放っておいてよ…! それ以上近付かないでってば…!!」

「魔物やボクみたいな精霊には平気な癖して、なんで貧弱な人間やら女の人が怖いんだか。……そうじゃなくて、キミが今どの位まで視えてるのか調べてるんだよ。ねえ、どう? 胸の内くらいなら視える?」

「視えてるよ!! 君が僕のこと殺したいくらい嫌ってるって事も!!」


 向けられる憎悪の嫌な気配に身の毛がよだつ思いに震えながら、顔を背けた彼方側で張り付けた笑顔を向ける子供に言い放つ。

 王宮の中で向けられた中でも群を抜いてとびきり強いその“想い”を向けられ、生きた心地がしないアーサーは頭を抱えて震えていると「あっそ、見えてるなら良いや」と吐き捨てたマーリンがアーサーの胸ぐらを掴むと無理矢理に顔を会わせて金目と向き合わせた。


「ああそうだよ、キミが視えている通りボクはキミ“達”が大ッ嫌いだ。復讐してやりたいくらいにはね。」


 表情と言ってる事が合っていない、ニコニコと愛嬌のある顔でそう言い放つマーリンは涙を目尻に溜め込んでいくアーサーに杖を翳す。


「でも、今はそうじゃない。主様から“ダメ”って言われてるからね……つくづく感謝するべきだと思うよぉ、キミ達は知らず知らずにして彼の御方に救われた身なんだから。」


 自身に向けられた杖の頭部に埋め込まれた水晶が輝きを放って思わず目を閉ざす。

 それに敵意があれば自然と対抗すべく身体が動いたというのに、まるでないそれに逃れる事も出来ないまま光が身体を照らしていく。


「……あった。」


 探る様な魔力の流れに、マーリンが呟く前からじわりと熱を込め始めたのは後頭部の一部。

 そこへと翳されていた杖を“コン”とぶつけられると、熱は霧散して頭の中でパキンと何かが割れた音が響いた。


「……ぁ……?」

「思考を遮る呪印シジルだ。隠蔽こそされていたけど、随分と弱まっていたから解呪が楽で助かったよ。もしかしてぇ誰かに何かされてたり?」


 言われてみれば、頭が軽くなった様な気がして後頭部を擦る。

 軽く叩かれた瞬間ミネルヴァの扇子を思い出した気がしたけれども、ノイズが僅かに残る頭ではやはり未だ思考は上手くいかずまだ少し眩暈がする。

 翳していた杖を引き戻したマーリンへと視線を向ければ少しだけ不服そうに唇を尖らせた彼が、ふん! と鼻を鳴らした。


「此処の何がそこまでしてキミを縛りつけているのかは知らないけれど、此処に残るってんのならこれくらいは手助けしてあげるさ。こんなとこ余りオススメはしないけどね。でもこの国から出たいのならば、その時は手伝ってあげる。キミの気が変わるのを待ってボクはまだこの国に居てあげるから、その時は訪ねてよ。」


 そして「はい、これが導ね」と言って杖を振ると蛍の様な光の粒が現れてそれがアーサーの胸へとぶつかり、それは感触もないまま弾け消えた。


「だから行かないってば……」

「今はそうでも、その内居るのが嫌になるだろうさ。……まぁもしかしたら、その時にはもう逃げ道なんて無くなってるかもしれないけどね。んじゃ! ボクはこれにて、ぐっばーい!」


 ぽひゅんっ! と間抜けた破裂音にあっという間にマーリンの姿が桃色の光の玉へと変わると牢の上部にある小さな鉄格子を潜り抜けてそれは外へと向かっていく。


「──あ、そうだ!」


 途中で止まったそれから響く声が思い出したように声を上げた。

 ふわりと振り返っているらしいそれはアーサーへと向くと、


「キミが気を付けるべきは“アルクレス”って奴だから、用心しとくといいよ!」


 それだけ残して月夜の向こうへと光の玉は姿を消していった。

 そして、一人残されたアーサーは鉄格子の向こうの月をただただ呆然と見詰めては「なんで」とポツリ呟く。


「………なんで、アイツなんだよ……。」


 残された“彼”の名前に、凭れ掛かっていた肩が脱力してずり…と壁を擦れる。

 理解の出来ない出来事に、理解のしたくない話に目を背ける様に膝を抱えて彼は縮こまると、胸の内の虚無感にまたぽろりと涙が溢れた。

 どうしたら。

 どうすれば。

 考えようとすればまたあのノイズが脳を焼いて思考を掻き乱す──否、本当はもう無い筈なのに。

 身体がそれを覚えてしまったのだから、呪印がなくとも関係はなかった。

 思考する必要はないのだから。

 言われた通りに、求められた通りに、自分は与えられた使命をこなすだけで十分だった。

 何よりも──、


「(僕は、此処を離れる訳には……)」




 ──…………。




 ふと、顔をあげる。

 肌がぴりつく様な、虫の知らせの様なそれに、アーサーは感覚を研ぎ澄まして虚を見詰める。


「……ソロモン?」


 遠くで咳き込む声。


 本来ならば聞こえる筈もない距離のそれに彼は“感知”すると忽ち視点が“切り替わり”、独房だった景色は瞬きの内に広くはあるも質素な部屋へと変わっていた。

 奥の方で小さな蝋燭が一本近場を明るくしているだけの薄暗い部屋でぼんやりと見えるのは、必要最低限の家具と所々に申し訳程度に高価なものが飾られて、最も灯りが照らすその場所には天蓋付きのベッドの縁に腰掛けて傍の小さな机に伏しては身体を大きく揺すらせながら激しい咳き込みを起こすソロモンの姿があった。


「げほッゴホッ、かはッ…!!」

「…いつもの発作か、此処暫くなかったのに。」


 それを視認すると直ぐ様歩み寄り、ソロモンの身体に触れれば翠色の光が彼の身体を包み込んでいく。

 触れるだけでなくその背中を擦りながらで暫くすると、落ち着いてきたソロモンが机から身体を起こし脂汗を滲ませ苦痛に歪んでいるものの笑みを見せてアーサーを見上げた。


「…はぁっ………はぁ、……いつも、すま、ないね……もうだいじょ、ぶだ……。」

「また無理でもしたの? 見付かったらまたアルクレスに呆れられてしまうよ。」

「否……そんなことは………っう゛ぐ、」


 会話の最中胸を抑えて再び苦しげに呻き始めるソロモンへの治癒魔法を続行する。

 どの医者もさじを投げてしまう程の原因不明・・・・のそれはつい最近までは落ち着いていたというのに何度癒そうと治らずに、その細く脆い身体を何年と長き間、そしていまだにと彼を苦しめ続けていた。

 彼の様子を伺いながら自らの頭にある記憶の引き出しから存分に蓄えた“知識”を掘り起こし、痛む頭・・・などそっちのけで治癒魔法を施していく。


「(……これもダメ、あれもダメ。ならば……これか?)」


 脳裏に浮かべるのは人体の“中身”、そして治癒魔法を施すに魔力が巡り通っていく体内である“中身”の具合に合わせて足りないものは魔力で補い、害あるものには除去していく。

 治癒魔法とは聞こえのいい便利なものでこそあれど、医療技術や人体に明るく無ければ使う事が叶わないそれを容易く扱うアーサーが手を離した頃には長い苦痛からの疲労に突っ伏したソロモンが長く深くゆっくりと呼吸を繰り返していた。


「これで暫くは大丈夫でしょ。…また内臓が壊れかけてたけど、何をどう無理したらそんなことになる訳?」

「……はは、無理なんて、した記憶はないのだけれどね……?」


 苦笑いするソロモンをじとりと睨んで「ふぅん」と心から信用していなさげな声を洩らすアーサーに、漸く身体を起こすことが叶ったソロモンが大きく息を吐いて気分を切り替えた。


「暫く無かったから、少しだけ油断してしまったのかもしれない……御前が視えない“呪い”なんだ。皆に心配をかけさせてしまうのも嫌だし、治すことが出来ないのだからもう少し気を付けるよ。」


 そう言って申し訳なさげに眉を下げるソロモンに当然だとアーサーは頷いた。


 ソロモンの身体には、徐々にその身を朽ちさせようとする“呪い”が埋め込まれてあった。

 長年かけて馴染んでしまったのか、はたまたそういったものなのかは解らないそれは身の回りの穢れを引き寄せては自身に害を成すものへと変化させていく呪いであり、有り余る国力を使い国境すらも越えて探し回ったどの医者や魔術師、果てには人型にして魔法を扱うことの出来る魔族の“亜人”(又は魔人ともいう)という人であり魔物でもある種族にまで手を借りても尚それを治す事は叶わず。

 結果ソロモンは第一王子としての地位こそあれど先がない者として過去に国から見捨てられてしまっていた時期があった。

 既に母親である后妃は死去していたのもあってか唯一の跡取りである一人っ子に期待することも出来ない状況に、国王は新たな妃として娶ったのが後にアルクレスとミネルヴァを産み落とす事となる王族の遠縁である一族の女性。

 その女性も後に自害により亡くなってしまう事となるが、長男を……王族としては次男となるアルクレスが誕生したことにより、愈々立場が無くなってしまったソロモンは王族の一端であれど王宮の端にある物置の様な部屋で苦しみながら死を待つだけの余生を過ごす事になる“筈だった”。


「──御前とアルクレスに救われた身だ。粗末に扱うつもりもなければ、簡単に死ぬつもりもないとも。只御前達の力に成れれば、と思うといても立ってもいられなくてね。」

「……よく言う。そんなことをすればアルクレスやミネルヴァが悲しむ事を、貴方は自覚するべきだよ。」


 呆れ顔のアーサーが溜め息混じりに言えば「面目無い…」と肩を落とすソロモン。

 見えない呪いは解呪が困難だ。

 見て、解読して、対抗出来る呪詛を的確にぶつけることで、それで漸く解呪することが出来る。

 それだというのに、他の誰もが診ても強力過ぎて手を出せず、アーサーは“何故か”見えないからこそ解読が出来ずにいる。

 そういった経緯で解消が叶わないそれはアーサーがその時々にてその徐々に蝕んでいく呪いを軽く凌駕する治癒魔法で、辛うじて致命的に成る前に癒しては誤魔化し今日の今までを乗り切ってきたのだった。

 そして役目は終えたとばかりに立ち去ろうと踵を返すアーサーに、彼は“待って”と呼び止めた。


「……何?」

「そんな面倒臭いみたいな顔をしないでおくれよ、アーサーにそんな顔をされたら私は寂しくなってしまう。」

「否、その通りだからそういう顔なんだよ。……用があるなら早くしてよ、余り時間をかけたくない。」


 当人は余り気にしてはいないものの自分より立場が上である王族のソロモンに対して、この男の態度である。

 他者に酷く脅えを見せる割に慣れた相手にはこうも杜撰な彼は、身近な者ならば理解せざるを得なくなる程に、自他に対し興味を示す事が滅多にない“怠惰”な人物であった。


 思考するに酷い痛みを起こすのが嫌で、耐えることは出来ても“考えない”。

 他人と関わるのが面倒で嫌なので、関わりたがられないよう望まれた通りに“弱者で在り続ける”。


 確かに泣き虫で臆病者ではあるものの、圧倒的な“強者”の自覚はある彼は怠け者であるが故に変化を望まず、何て事のない“苦痛”を意識的に避けてまでして今までこの自身にとって敵だらけな王宮でのうのうと暮らしていた。


 だからこそ、アルクレスは軽蔑した。

 だからこそ、ミネルヴァは叱咤する。


 苦痛を嫌い他者を嫌うアーサーは良くも悪くも人を見て態度を変えるからこそ、苦痛を与える事が“一切ない”ソロモンに対しては下に見た態度を露にする。


 何故なら他は“正直に”そうしたら怒るのに、彼が怒る事はないのだから。


「嗚呼、用はあるとも。此方へおいで。」


 そう言って重い身体を立ち上がらせようと机に乗せた手に力を込めるソロモンは自力では困難そうなので、大雑把に腕を持ち上げて立ち上がらせれば一瞬間抜けた顔をしたソロモンがふにゃりと笑って「ありがとう、アーサー」と口にした。

 そして立つ事が出来たソロモンは足元が覚束無いままよろよろと何もない壁の方へ足を進めると自身の前に掌を出すと、何処から現れたのか周囲から光の粒が掌の中心へと寄って集まっていくのが見えた。


「(……勇者の血筋でもないのに、何でこの人は…………おっと、これ以上は必要ないか。)」


 普段と比べ解呪したせいかノイズが微弱で考えが遮ぎられずつい思考を回すも、関わる必要のないそれに気付いてアーサーは無理矢理に思考を遮断する。


 光の粒は可視化されたそこらを浮遊する魔力だ。

 アーサーは普段から目にする在って当然のモノであるが他の人間には目にする事も出来ないそれは扱えないのも常識であった。

 それはこの目の前の男、ソロモンだって同じ筈なのに、魔力が集まって形成されたその重厚かつクラシックな鍵が金色に淡い輝きを湛えて現れるとそれを握り締めたソロモンの手が宙に向かって捻られた。


 するとどうだろう。

 何もなかった場所に鍵を中心に穴が現れたかと思えば、夥しい文字群が連なる魔法陣が浮き出ると共に重厚な扉がそこに出現した。


「……さ、入ってくれ。」


 にこりと笑むソロモンの後ろに付き、押して開かれた扉の奥には無数の金槌や多種多数の筆、知らない文字がびっしりと書かれた羊皮紙、星図盤らしき模型、色鮮やかな液体が泡吹いて湯立って並ぶフラスコや大釜など……と、王族の部屋に似つかわしくないものが幾つも並ぶ部屋へと立ち入る事となった。

 此処に来るのは“二度目”であるアーサーはやはり見るもの全てに違和感を感じつつ、思考を打ち止め考える事を避けながらも彼に言われるがままに付いていくと、今まで物が溢れて一人ずつしか進めない程に手狭だったのが軈て開けた空間へと辿り着いた。

 今まで通路を塞ぎそうなくらいに物に溢れていた通路と比べて、丸く構築されたその部屋をぐるりと囲む壁に無数の戸棚や引き出しが並び立ち、やはり物は溢れて無数に並べられてはいるものの全て端へと寄せられて、空いた空間であるその中心地にて蝋燭達に照らされていたのは工房等に良く見られるような“作業台”らしき重厚な机がぽつんと置かれていた。

 そこまで辿り着くとソロモンは振り返って何かを求める様に掌を差し出した。


「私が渡した剣を、見せてはくれないだろうか?」


 言われて腰のホルダーに携えていた“剣身のない柄”を取り出して渡そうとすれば止めるように掌を向けられてしまい、どうしたものかと伺い顔を見ればにこりと微笑むソロモンが「ブレードを出して御覧」と囁いた。

 そしてグリップを握り締めてそこに魔力を込めるイメージを浮かべ目を閉じれば、剣身が在るべき場所から光輝く剣先が伸び始めていき、アーサーが目蓋を開けた頃には長くしっかりとした光の剣が手の内に在った。


「……随分と“色”を喰わせたね。やはり敵意や憎悪ばかりかな?」

「まぁ……切ると言えば、大体は。でもこれは肉を断てないから魔物にしか使ってない。……意味あるの、これ?」


 光の剣先を指でなぞりながらアーサーは訪ねる。

 すると頷いたソロモンが満足そうに見詰めるとそれに顔を近付けてあき、その剣身に歯を立てた。


 ──パキンッ


 耳障りの良い砕ける音が工房に響く。

 ぱき、ぴきっ、ポリポリ。

 そんな音を立てて刃を口の中へと入れていくとソロモンは十分に咀嚼して天井へと顔を向け、嚥下する間際に少し苦し気に顔をしかめるもごくんと呑み干した。


「……っはぁ……これは、何とも言い難い………うぅむ……感情とは奥が深いものだ……。」


 再び顔を正面へと向けた彼の眉間には小さく皺が寄せられ、苦悶の色がその表情に見られる。

 こめかみを摘まんでは唸るソロモンに、ぼんやりと眺めていたアーサーが首を傾げる。


「……辛いのなら、何で取り込む?」


 素朴な疑問に苦笑するソロモンは乾いた笑いを溢した。


「とある人物に、“負の感情”を学べと言われているんだ。私に足りないものが其処に在るらしくてね……でもこの身体じゃ直接喰らうには向かなくて。」


 そう言ってソロモンが擦るのは胸元で、丁度心臓が在る辺りだ。

 聞いてみたは良いもののさして興味は持たないように流すと、アーサーはつい何と無く視界に入ったその残りの刃についごくりと喉を鳴らし、徐に口を近付けた──ら、ソロモンの手がそれを遮った。


「御前は駄目だ。もう十分に取り込みすぎている……それ以上は殊更自分を見失ってしまうよ。」


 ソロモンにそう涼しげな顔を向けられて、思わずムッとなる。

 自分の知らない情報がぽんぽんと出る不快感と馴染んだ思考を邪魔するノイズの痛みに不満げに顔を背ければ、相手は微笑ましげに口元を手で隠してくすりと笑う。


「それよりも、此方の方を御前に受け取って欲しい。きっとアーサーならとても似合うだろうよ。」


 作業台へと手を伸ばした先には布地の物が幾つか在って、それを腕に抱える。

 そしてソロモンがもう片手に持っていた金の鍵を、手や足そして首元に付けられていた枷に、“からん”と振り鳴らせば“ゴトンッ”と重みの在る音を響かせてそれらは全て意図も簡単に、壊れることなく外れてしまった。


「──え?」

「さぁアーサー、身が軽くなったろう? これに着替えなさい。一応サイズは合っているだろうけれど、もしずれていたら直ぐに仕立て直そう。……なぁに、そう時間の掛かる事ではないさ。」


 相も変わらず穏やかに笑みを湛えるソロモンに、その行動、その発言から胸の内をざわつかせる嫌な予感に頬に冷や汗が流れる。

 しかし指示されたからにはアーサーはそれに従い、思考を打ち止めたままに身に付けていた衣服を着替え始めた。

 その布地に足を潜らせ、袖を通し、ベルトを巻いて、手渡された上着を身に付ける。

 いつものみすぼらしい格好でも公共の場で着る見栄えの良い衣裳でもないそれは機能的かつ身軽さを感じる服装であった。

 普段自分が着る必要が無さそうな、それはまるで──、


「ま、待って、これはどういう──、」

「うん、御前が国を“出る”為の身支度さ。その風貌なら御前が“旅人”だって言い張れるくらいには誤魔化せるだろう。」


 にこやかなソロモンに対して引き吊らせた表情のアーサー。

 何度「なんで」「どうして」と訊ねても何処吹く風みたくアーサーの身格好を確かめて、最後に彼の首元に真っ赤なストールを巻いては全身を見回して大きく頷いたソロモンがアーサーの肩を掴む。


「やはり良く似合っている、格好良いよアーサー。本当はまた・・私の騎士となって欲しいのは山々だったが、御前の心の在り方はきっと自由であることこそが御前らしく居られるのだろう……だから、固っ苦しいのはもう止めにしよう。」


 ソロモンの言葉に、「嫌だ」とうわ言みたく口にして横に首を振るアーサーの頬を包み込む両手が互いの視線を合わさせる。

 じわりと目に水の膜が張って溢れ落ちそうになる涙を親指で拭うと、また溢れ落ちたもう一つの雫が直ぐ下のストールを濡らす。


「止めて……外は嫌だ、知らない奴等が沢山いるのも怖いし、僕はずっと此処に居たい……なのに、どうして…?」

「御前が“知恵者”だからこそ無知を恐れるのは理解しているさ。御前が考える事を止めたのも、“知らない事”を認めない性質に変質してしまっていることもね。……でもそのままでは駄目だから御前はもっと“色々”なものを学びなさい。知識を蓄えれば蓄える程に、これからの御前を助けてくれるだろうよ。」


 赤いストールを改めて正して「よし」と肩を叩くソロモンが再びアーサーへと視線を向ける。


「このストールが御前の心を支える護符と成る。怖い時は御前を庇ってくれる、不安な時は御前を護ってくれる、心細い時は御前を温めてくれるだろう。ささやかではあるが、御前の役に立ってくれる筈だ。……そして、」


 一歩、二歩と後退ったソロモンは胸元に手を添えると軽く頭を下げた。


「私の工房であれば“親愛なる我が神彼の御方”の目をも免れる。故に、此処ならば私の“名”を口にしても大丈夫だろう。──さぁ御覧在れ。その御前の目天眼通は他者を暴ける程に、正しく見通せる筈。」


 そう言って顔を上げたソロモンの微笑みを湛えた姿が、その言葉を境目に一瞬“崩れ”て見えた。

 簡素な寝間着姿が金色の線を縁取られた真っ白な布地を全身に被る様に巻いた風貌に、銀の短髪は桃色混じりの薄い金色が背中を覆い波打って、頭の両横には尖った耳が顔を出して、極彩色の瞳が穏やかに此方を見詰めている。


 見た事の無い、自分と同じ髪色の男の姿に唖然と立ち尽くしていると、彼はアーサーの手を取り間近で囁いた。




「──私は“グリモア”、グリモワール・レメゲトン。7つの賢者が一端にして、贖罪の果てに此の世の“中心”より地上へと昇り罪を重ねた……愚かな大罪人の名だ。」




 “知恵在る王”の様な風貌のその不思議な人は、そう言って悲しげに微笑んだ。




「ぐり、もあ……?」


 頭の中で、“この世界”には無い魔導書と呼ばれる本を思い浮かぶ。

 神の啓示、魔術の心得、召喚術や錬金術、星見で占う方法もあれば神を呼び起こす秘術、その身に神を降ろす手順も記されてあれば、願いを叶えさせる事も可能とする禁術をも示される、摩訶不思議な項目ばかりが埋められた異端の書物グリモワール

 そんなモノの名を、この目の前の男は名乗った。


 信じられない光景、受け入れがたい情報に思わずおうむ返ししてしまうと、その“グリモア”と呼ばれた男は穏やかに微笑み湛えていたのが、殊更嬉しげに顔を明らめては感極まって天を仰ぎ、胸元で両手を組み重ねてはうっとりと恍惚の表情を浮かべた。


「嗚呼っ……久方ぶりの私の“名”だ……! やはり自身で名乗るより、他者により口にされた方がより身に染み渡るっ…!」


 そして全身に血が巡っていく様な満ち足りた感覚にぞくぞくと身体を震わせるそれに、自らの身体を抱き締めて喜びにうち震えるグリモアは頬を紅潮させた。

 少しの間じっとそれを堪能するとアーサーの手を取りずずいっと顔を近付ければ、神聖さ、神々しさすら感じ得るその極彩色のめを近付けて心からの喜びに顔を綻ばせて笑んだ。


「有り難う、アーサー! 御前のお陰で全て“思い出す”事が出来た! 今の私ならば何だって出来てしまいそうだ……!」


 未だ歓喜が収まらずに、再び身体を離せば彼は溢れ出る喜びの余りにくるりと身を翻し回る。

 その身を包み巻くローブみたいな衣裳が、それに合わせて足を巻く紐状のサンダルを晒しながらふわりと舞い上がる様はまるでドレスの様で。

 一頻りはしゃぎ回った後、ゆったりと肩を上下させながら胸元を抑えて苦しそう……というよりは愉しげに深呼吸したグリモアは息を調えていく。

 それが落ち着くと無数の工具が陳列する棚へと足を進ませ、一つの金槌を選び取ると今度は別の、壁のように無数に並ぶ戸棚から鳥の羽、透明な欠片、石と幾つかを取り出しては作業台へと戻っていく。

 そしてそれらを並べると、右手に金槌をそれらの上に翳しては垂れた腕の袖を左手で卓上へと掛からぬよう添えて、手に持ったそれを大きく持ち上げては振り落とした。




 ──っかぁぁん……っかぁぁん……っかぁぁん……。




 一つ、叩けば砕け散り。

 二つ、砕けば光へと融け。

 三つ、融かせば流れ往く。


 とろりと流体の光と化したそれは水が壁を伝うように、垂れるようにして四方向へと流れていく。

 時に曲がり、時に交わりと描いていったそれは全体を見渡せば魔法陣の様な紋様を造り上げる。


 グリモアがそれに金槌を向けると目を閉ざして、それを唱えた。




「“我はレメゲトンの名を其の魂に刻みし大精霊なりし者”、

 “我が連なる書なる【テウルギア・ゴエティア】よりて”

 “召喚せしは名を【Scosスクコス】”。

 “我が僕よ、此の声に応え其の力を貸す事を赦し給へ”。」




 窓の無い工房につむじ風が辺りを駆け巡る。

 蝋燭よりも目映く光を放つ魔法陣が眩しくて視界を焼くので顔を腕で覆い光を遮ると、軈て光と風が止んだ工房は無風の中炎をちらつかせる蝋燭だけが薄明かりで部屋を包み、魔法陣の消えた卓上には硝子の小さな板を嵌めた左右対称の金具が一つ置かれていた。

 仰々しい儀式染みた割のそれに虚を突かれ呆けていると、それを手に取ったグリモアはにこにこと笑みを湛えてそれをアーサーの目の前へと差し出した。

 細く長く伸びた金具は下手すれば眼球へと刺さりそうな気がして思わず固く目蓋を閉ざして耐えれば、こめかみを擦れ違う何かを感じるとその後に鼻の付け根に軽い何かを置かれた感触があった。


「……?」


 痛みはなく、少しこめかみがひんやりとした細い何かが抑えて耳に掛けられたそれに不思議に思い目を開けると、目の前には丁度手を引こうとする“ソロモン”の姿が視界に映った。


「……どう? 見えているかい?」

「え? あ……ソロモンが、見える……?」


 戸惑うばかりのアーサーにソロモンはにこっと満足げに笑むと伸ばされた手はこめかみへと触れる。


「アーサーは眼鏡姿も似合うね、これで多少は視えるモノも減らせる筈だ。……本来は良く“見せる”為の物であるのだけれどね。」


 恐る恐るそれを取り外して見ればソロモンの姿は忽ち“グリモア”へと視認し、手の内の“眼鏡”と呼ばれたアイテムを改めて見てみれば硝子板を嵌められた細い金具──の向こうに、赤黒い硬質な鱗混じりな爪の尖った大きな手が、自分の腕から伸びていた。


「──ッ!?」


 思わず振り払った手から、眼鏡が宙を飛ぶ。

 慌ててそれを掴み取ろうとグリモアが手を伸ばせば間一髪で地にて砕けるのは防ぐ事が叶い、胸を撫で下ろして安堵の溜め息を吐くと後方にて狼狽えるアーサーへと視線を向けた。


「何だこれ、何だこれ、何だこれはッ……!? 意味が解らない理解が出来ないッ何だってこんなッ……!!」


 顔面を手で覆い、理解不能な現実に激しく混乱し動揺するアーサーにソロモンが申し訳無さげ眉を下げる。


「御前の“内側”に封じられた者が浸食しているんだ。元は只の人間だった御前に力を貸すそれは軈てアーサー御前という器を喰い破り、封じ込めた者への憎悪に破壊と混沌を振り撒く事だろう。……今はまだ、御前自身が“アーサー・トライデン”として在るが故に免れているのが難を逃れる結果となっているがね。」


 そして歩み寄るグリモアが顔を抑えるアーサーの手を引っ張り剥がすと再び眼鏡をかけ直し、ソロモンがアーサーの頬を包み込んで目線を合わせた。

 怯えに引き吊った顔に在るそれが、銀の髪の優男を反射してグラスに映す。

 ゆっくりと頬を撫でていく指先が顎下まで滑ると、なだらかな喉を撫でるソロモンは目を細めた。


「……御前はもう、私の騎士ではない。己が定めた“主”がいるのだろう? それを護る為にも、私は手を尽くそう。……なぁに、恐れる事はない。私も嘗ては二度“勇者”で在った身、そのどちらもが素晴らしい仲間と巡り在ったんだ。きっと御前にも良い出逢いがあり、そして新たな未来へと導いてくれる……そんな予感がするよ。」


 とん、と胸元を押されて後ろへとよろけると目の前で金の鍵を此方へと向けたソロモンがその手首を捻った。


「ソロモン! 嫌だ、行きたくないッ此処に居ないと、“アイツ”が……ッ!!」


 足元が光を放ち扉が顕れる。

 咄嗟に逃れようと足に力を込めようとすれば「動くな」とソロモンの声に身体が固まってしまう。


「御前は私の“声”に惑わされないが、王族の指示には絶対だということは今なら心から助けられたと思うよ。……だからこそ、私は御前に命じよう。」


 ゆっくりと扉は開かれていく。

 足元がじわりじわりと不安定に成っていく感覚に焦りと恐怖が混み上がってくる。


「嫌だ!! 止めてくれソロモンッ!! 僕は、まだッ…──、」

「ソロモン・デル・スケルトゥールが命じる。アーサー・トライデン、御前は即刻この国より去りなさいッ!」


 ばたん!

 扉が開ききり足元が虚を踏む。

 重力に従って扉の奥へと引き込まれていくのを真っ青になりながら、ソロモンへと手を伸ばしながら墜ちていく。

 涙が宙を昇る光景の中で、頭上では此方を見下ろして微笑むソロモンが口を開くのが見えた。


「……大丈夫、アルクの事は私に任せて。御前は今一度自由に生きなさい。その心の“呪縛”から解放された時、再び相見えよう。」


 その言葉を最後に、扉はばたん! と閉じられる。

 真っ暗闇の宙を墜ちる最中に、溢れ出る涙を拭いながら「馬鹿野郎…ッ」と呟く声が闇に溶けていく。


 視界の端では日が登り始めるのが見える。

 徐々に顔を出して行くそれが王宮を背景に国中を日光で満たしていく中、風に靡く髪は陽の光に反射して紅くも金色に瞬きまるで明けの明星の如く。

 独り墜ちていくアーサーの冷たい身体を、新しい時代を幕開ける朝陽スポットライトが残酷にも温かく、物語の主役彼一人だけを照らしていた。






 *****






「あああああああああああああああああああッッッッ!!!」


 絶叫が辺りに響き渡る。

 血みどろのそれが牙を剥き出しに咆哮を上げて、腕に抱えていたそれへと泣きすがる。

 温もりの無い、軽くなったそれは女性の形をしていて、涙と血で視界が歪む中……良く見えない視界の中で聞こえる後方の忌々しい高笑いが耳をつんざく。


「ごめん、なさい……僕が、貴方に逢いたいと、願ったのがいけなかった……。」


 そっとその身体を地に寝かせて、ゆらりと立ち上がると血に濡れたばかりの剣を放り投げる。


「ヒハハハハハハッ!! 何だお前、その女が好きだったのか!? いやぁこりゃ傑作だ! 今まで何度繰り返した中で一番面白いウケる展開じゃねぇか!!」


 ケタケタと嗤う男を、血に濡れたローズブロンドの前髪越しに睨み付ける。

 するとぴたりと止まった嗤い声が低く唸って怒気を孕めた。


「……何だその目は。犬の癖して、主人に歯向かうつもりか?」


 男──アルクレスは顔を凄ませて言い放てば、いつもなら怯え震え涙を浮かべていた相手の口から「煩い」と吐き捨てられる。


 ──もう、うんざりだ。


 思考しようにも、痛みもなにも関係無く頭は回らない。

 身体は上手く動かせないし、やりたくもない事でも命じられてしまえば勝手に動いてしまう。


 只々ひたすらに虚無感に飢えを感じながら、心の支えだった想い出の人を頼りに生きてきたのが、このザマだ。

 視力は既に落ちきって朧気な中、命じられるがままに振り落とした剣の先で血飛沫を上げたのは──幼い頃出逢った想い出の人その人で。

 “誰か”の名前を口にしていた気がしたが、もう自分が何者かすら解らなくなった今ではそれを聞き取ることすら出来やしなかった。




 ──喉が熱い。




 恐怖以外で初めて感じた、強く沸き起こる激情に無意識に首を掻く。

 鋭く伸びてしまった爪が皮膚を裂くのなんて御構いなしに、何度と掻き毟れば顎下に引っ掛かりが在るのを感じた。

 今まで気付かなかったそれを力任せに掻いて、裂いて、毟り取り、喉が千切れて両手が血に濡れる中、虚ろだった柘榴の目が激しい憎悪を込めてぎとりとアルクレスを睨む。


「死ぬのか? 嗚呼まあ、また失敗しちまったから別に良いけどな。勝手にやり直してくれるのは良いが、そろそろ目的を達成させないと“糞餓鬼”に感付かれてしまいそうで──」

「煩い、黙れ。お前だけは絶対に赦さない。」


 ぶちぃっ!

 喉から何かを引き継ぎって、血を吐きながらそれは憎悪を口にする。


 地べたに放り投げたそれは肉片混じりの血に濡れた一枚の、逆さまの“鱗”。


 途端、燃え盛る炎の様に真っ赤に染め上げた二つの眼がアルクレスを捕らえると、力を込めた自らの手が膨張し赤黒く変化し、喰い縛る尖った牙の隙間から血と共に唾液をだらだらと滴り墜としながら大きく裂けた口から轟く咆哮を上げた。




 ──ガアアアアァアァアアアアアッッッ!!!!




「あー……やべ、寝た虎を起こしたか? チッ面倒臭ェな。」


 後ろに流し整えられた髪を指先で掻くと、殊更鬱陶しそうにアルクレスは呟く。

 目の前でみるみる内に“変質”していくその異形は周囲に稲妻を走らせながら地を焼き、建物を崩し、炎を撒き散らしては不毛の焦土を広げていく。


「ア゛ア゛ア゛ァァッアルグレスゥヴヴッッ!! 貴様がこの俺様に縛り付けた名でッ此の我が身蝕む憎悪を返してくれるゥヴヴッッ!!」


 


 最早人の形を成していないそれは、時空すらをも超えて蝕む“呪い”としてその男へと憎悪を刻み付けるべく、“真の姿”とは程遠い“怪物”へと変貌していく。




『「“我こそ名付けられしは【ティリヤンチュ】”!

 “己が定めし破壊と混沌を司る獣となりて”

 “此の世に凄惨たる地獄を巻き起こす者なり”!!」』




 彼の声に低く重々しい声が混ざり二重に重なって、それは世界に“その存在”として楔を堕とす。

 轟音が地を裂き、雷鳴が木々を薙ぎ倒していく。

 嵐が吹き荒れ人が埃の様に舞い上がっていく中で、見上げる程大きくなった身体を屈めると皮膚を裂く音と共に生え出た蝙蝠の羽根が大空を覆う。


『漸く、漸く外へいずる事が叶ったぞ!! ハハハハハハ!!! 貴様の封印なぞ此の俺様に効くと思ったか愚か者め!!』


 口から火を吹きながら大きな怪物は牙を打ち鳴らし高嗤う。

 冷や汗を浮かべ睨み付ける矮小な人間を見下ろすと十字の瞳孔がキラリと光を放ち、気付いた時にはもうアルクレスの身体は炎に包まれていた。


「ああああああッッ!! 糞蜥蜴がッよくもッ、ぐうううッッ!!!」

『フフハハハハッ、良い気味だ! “我等”を欺き、陥れた罪だ。因果応報、どれだけ時を繰り返そうが其の呪いは貴様の選んだ器ごと蝕むだろうよ。其の名を呼べば楽になれようが今は赦して遣らぬとも、人の身のまま苦しみ足掻くといい!』


 焔の内で苦しみもがく憎き相手を見てしてやったりと目を細める怪物。

 同化しきって器との接続を簡単には外せない事を知っていてのそれに、アルクレスは炎より逃れようと身体を捩るも、炎に激痛にと阻まれ逃れる事を赦さない。

 頭を振り乱し皮膚が焼けて、まるで炎のステージで躍り狂うその様に、軈て眺めているのにも飽きてきた怪物は辺りを見渡して低く、そして慈悲を込めて既に消え失せた者へと語りかける。


『──さて、不幸にも我が器として埋め込まれた者よ。次は御主の願いを叶えて遣らねば、此処まで“奴等”よりいたぶられたのも憐れで仕方無いというものよ。……どれ、俺様の力を貸してやろう。』


 そう言って怪物は手頃な方角へと大きな口を開けると、そこに魔力粒である粒子が収束していく。

 徐々に面積を増やしていく禍々しい煌めきを湛えたそれは、一瞬輝きを増すと次の瞬間、光線がその先へと走り衝撃波を撒き散らしては辺り一面を抉り消した。

 眼前に広がるは逃げ惑い散る小虫の群れ。

 地獄を広げゆく災害の如き獣、“赤き竜”たる覇者に立ち向かえる者は一人としておらず、世界は早足で破滅へと進み往く。

 

『ハハハハ!! 消し飛べ消し飛べ! 俺様が叶えたるは“世界の破滅”! 人間共の重ねた罪が招いた自業自得の大災害ぞ!


 ──嗚呼、存分に力を奮えるというのは、誠に愉快な事よなァ?』




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