5.激動への示唆。
びちゃり。びちゃり。からからから……。
一歩歩く毎に裸足の裏にべっとりと付いた液体が、鎖の音と共に粘着質な水音を立てて静かな路地裏に鳴り響く。
口ずさんだ鼻歌のバックコーラスに鎖の地べたを転がる硬質な金属音が奏でられる中、自身の目の前よりずりっずりっと何かを引き摺りながら移動しているらしい必死な呼吸音が掠れて聞こえてくる。
「はぁッ……はぁッ……!! 誰か…! 誰か助けあばッ、」
ばすんっ、ぶしゃっ!
肉が切れる音に噴水が吹く音。
どしゃりと倒れたそれはそのまま事切れ、視界に映るそれの周りを取り巻く色が幕を下ろす様に無色へと変わった事に安堵すると手に付いた赤色を転がったそれの衣服で拭き取った。
まだ日は照って明るいというのに高い建物に囲まれ陰る路地裏で蠢く一つの影は、暫くして鼻歌がぴたりと止まると少しの沈黙の後、小首を傾げて呟いた。
「……証拠隠滅? ってどうしたら、いいんだ……?」
また沈黙。
それは直ぐに鎖の音が破って、転がったそれへと手は伸ばされた。
柘榴の瞳が怪しく光を瞬かせると手に持ったずだ袋のようなそれはあっという間に灰すら残さず燃えていく。
「……これで、よし。」
「お願いします、お願いします……!!もう二度とこんな事は、あああああッッ!!」
命乞いの声が耳をつんざく。
視界に映る色を見て不快そうに顔をしかめると、それは迷いなく短剣を振り下ろしては脳天を裂いた。
ばきん、と鳴って折れたのは短剣の方で、めり込んだ頭蓋骨の奥の方で刃が欠けたそれを呆然と見詰めると翠の光を当てて修復しては仕切り直す。
再びその転がった塊も燃やそうと手を翳した時、ふと頭上を見上げて嫌そうに顔をひきつらせた。
「ミネルヴァの監視網だ……どうしよう。」
何も無い筈の空中に微かな魔力の“繋がり”を見て彼は困ったように唸る。
今此処で魔法を使えば彼女へとそれは伝わるだろう、こんなところで何をしているかなんて聞かれた時にはもう言い訳のしようがない。
思えば既に修復に魔法を使ったのを思い出してはぼんやりと過ごすと、軈て翳された手から放たれた炎に塊はみるみる内に包まれて消えていった。
「……まぁ良いや、その時はソロモンに助けて貰おう。」
また考えるのを止めて楽な方を選び“これでいいんだ”と一人頷いたそれは、与えられた役目を終えたので王宮へ戻ろうと踵を返しかけた時だった。
「ぐっどいぶにーん、魔法を使ってるってことは君が勇者なのかな?」
不意に聞こえた知らない声に、咄嗟に手にしていた短剣を背後のその場所へとふり投げる。
「わっわわっ!? なんだよぅ、いきなりそういうの酷いじゃんか! もっと友好的にいこうぜ~アーサー……ええとなんだっけ、サイレントくん?」
すんでの所で避けたらしいそれに間髪いれずに拳を振り下ろすもやはりひらりと身を翻してかわされてしまう。
空を切った拳は風圧だけでその先の壁に凹みが作られてしまうも、瞬時に翠の光がそれを埋めていく。
修復が終われば翳していた手を下ろしつつ、感触を感じられなかった拳を眺めては頭を横に傾けた。
「……なんで当たらない?」
「当たったら痛そうだから避けるに決まってるだろー! んもう、野蛮だなぁキミは!」
気付けば同じ地上にいたのが建物の上へと逃げ延びて“ぷんぷん!”と態とらしく怒っている様を口で表現までしてみせたそれは、小柄でかつ人型であることは視認出来るものの逆光により眩しくて良く見えない。
「ボクは神様の使いなんだし、特別なモノだから勇者相手だからってそう簡単にやられたりやしないもーん! にはははぁっ!」
そして屋根上でころんと横になる様は、フードを被っているらしい頭部の辛うじて見える二つの山のシルエットも相まってまるで猫みたいだ。
「ボクはね、キミが死んだら世界がループしちゃうから、保護序でにキミの顔を見に来たんだよ~! そしたらスケルトゥールが“帝国”じゃなくて“王国”だし先代王も死んでるし、次期王も“アルクレス”じゃなくて“ソロモン”って奴なんだっけ? ホント誰だよソイツって感じ! ていうか、勇者も話には聞いていた通りっちゃ通りなんだけど、まだ人間味あるっぽいしぃ? 改めて見たところで、随分としょぼくれた奴なんだな。格好も、勇者ってより奴隷みたい!」
……ループ? 神様?
何を言っているんだ?
正体不明のそれの意味不明な発言にアーサーは嫌そうな表情を浮かべてこめかみへと触れる。
ずくりと痛み始める頭に嫌に響く、きゃははは! と子供みたいな甲高い笑い声を上げるそれは存分に笑い終えると、今までの剽軽そうだった成りを潜めて金色に輝く猫目を細め薄暗い路地裏のアーサーを見下ろした。
見定めるみたいな視線へと変わったその金目は、軈て暫くするとその顔が忌まわしげに歪んで不服そうな声音がそれを言った。
「なぁ、オマエ、■■■■■だろ、アーサー・トライデン。」
目を見開く。
自身を苦しめる頭痛に加わり心臓がどくりと跳ねて気が遠くなりそうになりながらも、ふらりと半歩下がっては背を丸めて地を凝視した。
頭上から“道理で在り方歪んでるなー!”とまた軽快な声に戻った得体の知れないそれは、理解に苦しむと言わんばかりにぶつくさとぼやく。
──
──
“在り方”だとか“歪んでいる”とか、よく解らない言葉の羅列に、確信めいた何かのせいで嫌でも“思考”しようと回り始めてしまう頭が痛みを引き起こして眩暈がする。
それでも一つだけ、彼にも理解出来た事はあった。
それは──今まで散々口にされた、この“西”の地へと来てから言語もろくに理解出来ぬまま“誤って”定められた■■を指摘されたのは、これが初めてだと言うことだけ。
*****
時刻は夕刻、黄昏時。
窓から射し込んでいた日の光はいつからか弱く、沈みかけの太陽が熟れた果実の様な赤が濃淡にグラデーションをかけながら周囲を塗り潰していく。
波打つシーツを撫でるように、夕陽を浴びて一層鮮やかに映るマルサラの髪に何度と指で梳きながら静かな部屋で唯一聴こえる小さな寝息に耳を傾ける。
新しく置き換えた客人用の机には空になったカップと皿が置かれ、底に残った僅かな水滴が乾いているのがあれから随分と時間が経っている事を教えてくれていた。
自分に身を委ねている重みは彼が自分に気を許してくれている事の証明で、それが愛おしくて堪らなくその跳ねた髪へと顔を埋めては持っていた書類を一時机へと置き膝の上に力抜けて置かれた自分よりも骨張った男らしい手へと自らの空いた手を伸ばした。
触れてみればそれは己のと違う、剣を持つ戦う者の手だと改めて思い知る。
大きくて所々傷があり少しだけ硬い手に、病み上がりでまだ骨と皮と少々の肉付きで構成されている自らの手と並べば差もよく浮き出る。
そんな手を労るように甲を撫でると、指の付け根に皮膚を変色させている青アザがある事に気付いた。
先程中庭の時にはなかったそれには長く考えずとも思い当たりがあり、人知れず息を吐いてソロモンはその手を握り締めた。
「(哀れな子だ。父が死に、強いる者が無くなってもあの呪縛から離れられないのか。)」
そう憂い、今は遠き過去を思い出す。
一人の子供が鞭打たれ泣き叫び、一人の子供が必死な思いで鞭を振るう姿。
元は同じ血筋だというのに、同じ血筋だからこそ彼等は勇者を“裏切者”と罵る大人達より忌み嫌われた。
怪我を治せるのを良いことに、あの子は何度とその手足を折られた事だろう。
声を上げる度にまた鞭打たれ、力こそあるのに次の痛みを恐れて言われるがままにされるがままにと思考を捨てていく彼。
王族の血筋であるからと、ただそれだけで虐げられることから逃れた事に不安は日々募った事だろう。
いつか今度は自分も、と幼心に思った果てに彼等と同じ様に子供をいたぶり内輪に入ることで自身の身を守る彼。
幸い末の妹は彼等のもう一つの故郷が定めたしきたり故に幼少の彼女は縛られ、幸運にも何年と先になってから
……その頃の自分はと言えば。
日々熱に浮かされ起き上がる事も叶わず、医者すら匙投げた病故に見捨てられ誰も訪れない王宮の隅の部屋に置き去られて死を待つばかりだったのだけれど。
嗚呼それでも、と拳に力が入る。
あの時、自分が止めに入れたら。
自分にその力が在ったら。
こんな、弱々しい身体でなかったら。
無駄な“もしも”を考えては虚しくなって、その思考を振り払う。
「……んん……にぃ、さん……?」
もぞり、と腕の中の温もりが身動いで彼が目を覚ました事に気が付く。
昔みたく自分を呼ぶ声に、まだ寝惚けているのが解って思わず笑みを溢しては「嗚呼、兄は此処に居るよ」と見上げた額に口付けた。
覚めきっていない眠気にぽやりとした目元を見てみれば先程より黒ずみは薄まっており、それにホッと胸を撫で下ろして安心感を覚える。
「………夕方……? ………しまッ、!」
段々と覚醒してきたのか、寝惚け眼は窓の外を見るなり見開かれては勢いよく身体を起こした。
が、初めて周りを視認して彼は驚愕の思いに身体を硬直させる。
あれ程積もり積もっていた書類の山は消え失せ、整理整頓された書類の束と既に目を通した事を証明する印が押された紙の塔が築かれていたのだ。
そして物言おうとして振り返れば傍らに座っていた兄の隣、自分がいた場所の反対側には後の残りらしき書類の小さな山が、そして兄がそこから一枚また一枚と手に取り事を進めていた。
何から言えば良いのやら、考えあぐねていると察したソロモンが微笑みを湛えながら「あと少しで全部終わるから、御前はまだ休んでいなさい」と書類に視線を向けたまま口にした。
「…ッ兄上! それは俺の仕事だ、アンタがそこまでする必要は……!!」
「良いんだ。丁度手が空いていた事だし、何より御前の傍に居てやれる。兄の我が儘を赦しておくれよ。」
「でも……!」
アンタだって忙しい身だし疲れている筈、そう口にしようとしても八の字に下げられた眉が彼の笑みを悲しげに映して、「駄目だろうか?」と小首を傾ける姿につい何も言えなくなってしまう。
「………今回だけ、ですから。」
「嗚呼、感謝するよアルク。…さ、御前も此方に戻りなさい。兄の膝は御前の為に空けているとも。」
「そういうのはもう良いってば…!!」
なんて、またいつもの兄のじゃれあいにいたたまれない気持ちで言葉を返していると、
──コン、コン。
硬質なものを軽く叩く音が微かに耳に入った。
誰かがあの
「……兄上。用事を思い出したので、少し席を外します。」
ちらりと窓の外を見遣り、もう薄暗くなってきた空模様に今の時刻を予想しこれからのスケジュールを頭の中で組み直す。
今からあの駄犬から“どいつが自分を呼び出したか”を聞き出さねばならない面倒事を億劫に思いながらも今ある情報から相手を予測していると、ソロモンは「此処で待とうか?」と訊ねてくるので「いえ、今日の公務は此処までにしようかと」と返せば手に持つ書類を置いて彼が大きく頷いた。
「いってらっしゃい。無理はしないようにね。」
「…それはこっちの台詞だっての。兄上も早々に切り上げて、早目に休んでくれよ? また体調崩されたら俺達だって堪ったもんじゃない。」
軽口で言葉を返せばはにかんだ兄が「解ってる」と頷いたので、アルクレスは僅かに口角を上げるとスタスタと部屋を出ていった。
自分一人となった部屋でソロモンは手早く書類の山を解消させると終わったその紙切れ達をアルクレスの事務机へと持ち寄っては片して、漸く仕事を終えた事に一つ大きく息を吐いた。
「……さて、と。」
振り返り窓の外を見てみれば変哲のないいつも通りの景色に夜の帳が落ちきって暗くも、王宮より離れた城下町の街明かりが暖かな光を灯して視界に映る。
窓の縁に手をかけてからりと解放させると心地好い夜風が鼻腔を擽り、仕事終わりの気疲れが何と無く癒されるような気がして窓枠に肘をついてはぼんやりと景色を眺めることにした。
「……アーサー、そこにいるんだろう?」
視線を向けることなく口にすれば頭上屋根の方からジャラリと鎖が鳴るのが聞こえた。
「……なんで、」
「血の臭いがする。それでは私を誤魔化す事は出来ないよ。」
すると暫く沈黙したのち、ひょっこりと上から顔を出したアーサーが不服そうな顔で現れた。
「………バレたの気付かれたら、またアルクレスに怒られてしまう。」
「会わなかった事にすれば良い。私とて、御前を嵌める様な事はしたくないさ。」
「……そう?」
そして窓の上縁を掴むとそれを軸にくるりと身を翻して部屋へと入り込んだアーサーにソロモンは窓際に凭れ掛かり腕を組んで向く。
見た目にはいつも通りのアーサーでも、先程のアルクレスの手の痣を思い出しては致し方無さげにソロモンは言う。
「また、アルクレスにやられたみたいだね。身体は大丈夫なのかい?」
「…いつもと変わらないよ。相当根詰めていた、みたいで……。」
「私があの子のメンタルケアに間に合わなかったんだ。私も此処へ早く向かいたかったのだけれど……嗚呼、やはりもう少しスケジュールを見直すべきだったかな……。」
「僕は平気だよ。それよりも、それで貴方の方が身体を壊せば元も子もないんだけれど……?」
今まで誰に対しても怯え震えていたアーサーはソロモンに対しては流暢に言葉を返して億劫そうに肩を竦めた。
そして何か口にしようともごつかせるも、少し間を置いて何も口にせず視線を逸らしたのでソロモンは彼へと歩み寄りその額へと人差し指で小突いた。
「こらアーサー、また考えるのを途中で放棄したね?」
「……だって、」
「だって、じゃない。以前と比べてみれば御前はもう自力でモノを考えられる様になったのだから、何が良くて何が悪いのか、何を伝えたいのか何をしたいのか、些細な事でも何度だってよぉく思考を重ねなさい。」
そう言われて小突かれた額を擦るアーサーはその太く短い眉を寄せてしかめると渋々といった様子で「…はい」と返した。
すると頭を捻るべく左右に何度と揺らしながら唸る彼はぽつぽつとそれを口にし始めた。
「……えと、さっき、変なの…に、遇った。」
「……変なの?」
「人型の、良く解らない奴……話し掛けられた、気がするけど、何だったかな……逃げられてしまったから、解らない。」
話している内に思考が纏まらないのか途切れ途切れに口にするそれはどうにも不明瞭で、最後には考えるのを止めてしまったのか投げ遣りに終わらせようとするアーサーにソロモンは目を細めた。
「アーサー?」
「…うぐ…………ええと、ええと……、」
世話しなく視線がキョロキョロと動き回り、手元をもたつかせながらアーサーは頭が痛そうに苦悶の表情を浮かべて思考する。
「……獣ではなくて……魔力は感じた、けど、魔族とか簡単なものじゃ、ないし…………精霊? に、近くて………うぅんと、何言ってたっけな……確か、“神”がどうとか……?」
ソロモンの眉がピクリと動く。
それに気付いていてもアーサーは言われた通りに考えを巡らせ、そしてこめかみを押さえながら段々と背中をより丸めて屈んでいく。
「うぅ……何だっけ………世界、が…ループ……? 誰かの、所に……行けって……………う゛ぅっ……あぁもう、頭が、痛い………気持ち悪い……っ」
遂にはしゃがみこんでしまい吐き気を起こしたのか口元を抑えて踞ってしまったアーサーに、歩み寄ったソロモンがその背中を擦った。
「うん、ちゃんと自分で考えられたね。良く頑張ったよ、アーサー。」
「……ッはぁ…………はぁ………もうやだ、何も考えたくない………もうずっと言いなりのままで良いだろ…そっちのがよっぽど楽だ……」
えづいて口から溢れた唾液を袖で拭うアーサーが自棄っぽくそう口にすれば、横に首を振ったソロモンに「それは駄目だ、御前の為に成らない」と答えられてしまって苦し気に彼から顔を逸らす。
「アーサー……そんなことを言っていると、またミーニャに叱られてしまうよ?」
優しく、諭す様に彼の指導者である妹の名を口にすればガタンッと飛び上がっては態勢を崩したアーサーが恐怖に戦いて手で頭を覆い隠し震え始めた。
「……ッミネルヴァ!? あの人は嫌だ、直ぐ怖いことしてくる…ッ!!」
「アーサー、アーサー、大丈夫だから落ち着いて。彼女は今此処にいないのだから。」
「今日だってそうだ!! あの人ってばいきなり“授業”を始めて、本気で魔法撃ってきたんだよ…!? 手を抜いてもミネルヴァに怒られるし、かといって少しでも当ててしまったらアルクレスからも滅茶苦茶に怒られるしッ……怪我させないように手加減しながら手抜きはダメだなんて、すごくすッごく難しいのにぃいッ……!!」
遂には身体を丸めて踞りぼろぼろと涙を溢し始めてしまったアーサーに、どうしたものかとソロモンは頬を掻く。
ぐすぐすと泣きじゃくるばかりでぐずるアーサーはまだ足りないのか続けて言葉を吐き出していく。
「この前も、訓練だとかで……パーティに連れてかれて、一人で、残されて……知らない人が……沢山、話し掛けてきて……ッ……!」
「嗚呼あの時の。御前がアーサーだって知って、貴族の娘達に囲まれて色々訊ねられていたね。見ていた限りでは健気で可愛らしい子達だったじゃあないか。確かに御前はかなりの人見知りではあるけど、何が駄目だったんだい?」
このアーサーを王国の“剣”と知る者は、貴族以上の人間であれば割と知られた顔だ。
そして勇者であることは公表していなくても、その尋常ならざる力を目にしてみれば勇者の伝説を身近にして暮らすこの国の人間であれば少し考えれば気付くことも容易かろう。
王宮内では勇者は人類を見捨てた“裏切者”と恨まれてこそいるが、世間一般では輝かしい功績ばかりの英雄は皆伝説の人だと慕い憧れ、そして大人から子へとその勇姿は何代にも渡って語り継がれてきたのだ。
そんな人物の後継とあらば誰しもが御近づきになろうと躍起になるだろうに、ミネルヴァは余りにも人慣れしないアーサーを敢えてパーティに一人残しその様子を遠くから観察していたのがその事の顛末だ。
そしてソロモンの言葉に有り得ないとばかりに勢いよく横に首を振ったアーサーは顔を真っ青にして苦痛の表情を向けると、悲痛に訴えるみたく不快感露にそれを叫んだ。
「だってあいつら、思ってる事と言ってる事が丸っきり違うんだよ…!? 気持ち悪くて仕方ないに決まってるでしょ…ッ!!」
そしてその時の出来事を思い出したのかまたえづき始めたアーサーの背中を擦りながら、この余りにも他者と関わりを持とうとしない人間を毛嫌う男に、ソロモンは先が思いやられる想いに遂に溜め息を吐いてしまった。
アーサーは人の考えている事を読み取ることが出来る。
…正しくは、そういった事を可能とする目を持っている、というのが正確な答えだろう。
それは目にした対象の者の相対した者に対する喜怒哀楽怨の感情を色で識別して感知させるものではあるが、
かつては色としか見ることは出来なかったのだが、ミネルヴァの指導の元無理矢理にでも人と関わらせ他者の様々な感情を触れさせていった結果、精密な思考回路すらも判別出来る程になったそれに未だ慣れないらしいアーサーは人間の言動と本心のちぐはぐさに毎度吐き気や酔いを引き起こすのが常であった。
古の勇者に詳しいミネルヴァ曰く、その遺伝と言うには実例や伝承がないらしい彼固有の能力は王家三兄妹以外には秘匿され、時に重要な対人時には傍に侍らせて疑わしきを明確にさせるなどと活用することもあってか今でこそ使用頻度はまぁまぁに多い。
しかしそれは彼としても複雑な力なのか中々にコントロールが上手くいかず、一度人混みの中へと連れていく必要があり赴いた時には多大な情報量を一気に受けたが故に激しく混乱し、結果酷い頭痛と吐き気に更には気の動転までも起こして苦しみもがくアーサーを、筋力的な力関係が辛うじて近しいアルクレスによりやっとの思いで力ずくに抑え込んだ時の事はソロモンにとっては記憶に新しいものだった。
随分と不快だったのだろう、思い起こすだけで引き起こる吐き気にぜぇはぁと肩で呼吸しながらぼんやりと床を見詰めるアーサーがぼやく。
「…女の人って、それが顕著なんだよ……だから、一番苦手だ……近寄りたくない………考えが浅はかだし、あわよくば同衾を迫ってくるのも本ッ当に無理、嫌すぎるっ……!」
「そういうものなのだね……因みにミーニャはどうなんだい?」
「あの人は怖い、けど、黙ってる事以外は言ってる事とその中身に余り大差が無いから……比較的平気……かな。」
漸く吐き気が治まってきたのか、唇を震わせながら答えると「ああでも」と思い出したようにアーサーは遠くを見詰めて言う。
「僕を古の勇者みたくしようっていうのは、あれだけは勘弁して欲しい……。」
そして熱く熱烈に古の勇者の話をする恋する乙女みたいな彼女を脳裏に浮かべる。
古の勇者の大ファンみたいな彼女は、伝承にある「博愛精神に満ち溢れた男女関係無く想い慕われる理想的な白馬の王子様の如き御人」と伝わるそれに乗っ取って、後続であるアーサーにまでそう在れと指導する嫌いがあった。
人慣れすらしていない彼にそれを活用する気は全くもってさらさらに無くとも女性をエスコートする為の術を一通り叩き込まれてより、常日頃から王宮ではみすぼらしい風貌のアーサーでも多少は身形を良くせざるを得ない公共の場に出る際には、少しでも女性を相手に杜撰に扱えば扇子にしては偉く硬質なそれが後頭部へと叩き付けられてしまうのだった。
そしてアーサーはちらりとソロモンへと視線を投げ掛け、他人事みたいに「アーサーも大変なんだね」と笑む彼に思わず肩を落とした。
「ああいうのはソロモンがいればもう十分でしょ…そういうの、僕やりたくないし。」
「? 何故そこで私が出てくるのかな?」
きょとんと呆けるソロモンに殊更億劫そうに顔をしかめたアーサーは「何でもない」と返しては、具合が悪いのが完全に治まったのか立ち上がる。
「あとは……ソロモンかな。」
「……私かい?」
「貴方って思ったことをそのまま言うから、矛盾がないんだ。だから揃って
そう言って自身をじっと見詰めてくるアーサーにソロモンは微笑みで返す。
いつもと変わらない、何でもない顔して穏やかに微笑みを湛える彼を一寸たりと逸らさないままアーサーはすうっと目を細めた。
「ソロモン……貴方は一体、何者なんだ?」
沈黙が流れる。
どちらも動きがないまま、二人は黙って互いを真っ直ぐに見る。
やがて先に反応を起こしたのはぐるりと眼球を回したアーサーで、よろけたかと思えば膝から崩れ落ちる所を咄嗟にソロモンが支え抱えた。
「アーサー、アーサーッ! しっかりしなさい! 此方を見て、ちゃんと私が見えているか!?」
「ぅ、ぁ……目が、痛…………視界が……ぼやけ………っ?」
「酷使して視力が落ちてきているんだ、治癒魔法で直ぐに治しなさい。そうしたら視界の歪みも痛みも直に治まる!」
回った視界の中目の奥がじわりと嫌に熱く感じて、つい閉じた目蓋を掻くアーサーの腕を掴みそう言えば、ソロモンの言う通りに治癒魔法を自らに掛ける。
いつもの怯え不安感による挙動不審のものとはまた違う、焦点の合わない視線は翠の灯りに包まれて暫く瞬きを繰り返していく内に徐々に正常へと戻っていき、漸く真っ直ぐ自分へと向けられたアーサーの視線に彼の身を案じて焦っていたソロモンは一先ず胸を撫で下ろした時、
「……貴方、何でそんなこと知ってるの?」
「……っ!」
獣の様な縦に一線と、そしてそれに交わるようにして横にも一線と、黒くも赤を孕んだ十字に交差する瞳孔が獲物を捕らえたとばかりに、アーサーの柘榴の瞳がソロモンを真っ直ぐに射遣る。
瞬く星を現しているような胸の内を暴くそれに凝視され、思わず平常心で居られず身動いでしまい直ぐ様取り繕うも額に滲んだ脂汗がソロモンの動揺を物語る。
只人である筈のソロモンから所々滲む異端さに何の気なしであるにも関わらずつい踏み込んでしまうアーサーだったが、考えている内に頭がそれを拒否するようなごちゃりと頭の中を掻き回す脳裏のノイズに頭痛を引き起こして、気持ち悪さに思わず顔を逸らすとこめかみを抑えて口元を手で覆った。
「っう゛ぁ…………やっぱ良い、考え、たくない……。」
「アーサー……。」
だらりと上半身を項垂らせて疲れた様に口にするアーサーの名を口にするソロモンは、呆れ交じりにも何処か安堵していて流石にあれ以上は都合が悪かったのか彼の思考放棄を責めること無くその背中を擦って彼の具合の不調を宥めた。
少し経って落ち着いたのか、水を浴びた犬みたく頭を振って正常へと気分を切り替えたアーサーに、ソロモンは少し考えたような素振りをしたのちにその頭を軽く叩くようにして撫でては口を開いた。
「先程のはその内、御前には教えてあげよう。……今はまだ“その時”ではないから伝えるに伝えられないけれど、」
ゆっくりと自分を見上げる疲労が滲んだ瞳と、己の目を合わせる。
「アーサー、その時は私の話を聞いてくれるかい?」
その言葉を聞いて、アーサーはふと彼の視線に違和感を感じた。
アーサーを見詰めている筈のそれは何だか自分というよりはもっと奥の、まるで遠くを見詰めている様なそれに何と無く胸の内がもやついたけれども直に思考を打ち止めては頷き「うん」と肯定の言葉だけ、そしてそれにソロモンはまたいつものように穏やかな微笑みを湛えた。
「……アルクレスが戻ってくるから、そろそろ出ないと。」
「嗚呼、また何か有れば御前の名を呼ぶよ。……良い加減、ちゃんとした部屋も用意しているのだからそこで休んでおくれよ。」
「嫌。牢のが静かで落ち着くし、誰か来たところで言うこと聞いていれば殴られるだけで済むし要らない。──じゃあ、おやすみソロモン。」
そして一瞬にしてアーサーの姿が消えると、入れ違う様に同タイミングで職務室の扉が開かれた。
「……灯りが点いていると思ったら、まだ仕事をしていたのか? 兄上。」
アルクレスが兄を見て仁王立ち腕を組んでじとりとした視線を送る。
無理をしないと釘を刺されていた手前、どう説明したものかと苦笑するとずんずんと力強く歩み寄ったアルクレスがソロモンの手を取り引いた。
「式典の日程が一週間後に確定したんだ。体調崩されたら困る所じゃ済まないんだから、兄上は頼むからもう寝室で横になっていてくれ。……でないと流石に俺も怒るからな。」
「はは、愛しいアルクに怒られてしまうのか。一緒に居られるのならそれもまた一興、かな。」
「…やっぱり冗談で。勘弁してくれよ、兄上に何かあったら俺だってミネルヴァの奴にどやされるんだから……ッ!」
そしてソロモンはアルクレスによって自室へと連行され、侍女に手軽な食べ物を持ってきて貰ってはそれを口にしている内に手早く身体を拭き着替えさせられるとあっという間に寝台の上へと横にならされる。
皆多忙過ぎてここ最近で皆集まって食事を取れた試しがないのも口惜しいし、もう少しやっておきたい事は有ったけれども自分が寝入るまで監視するつもりらしい弟に見守られてつい安心してゆっくりと意識を手放しそうになりつつも彼は思案する。
「(……そう言えば…、) アルク…私の可愛い弟……もう少しだけ、兄の話に……付き合ってくれないだろうか……?」
「手短になら、な。何の話なんだ?」
シーツに寝そべる手に温もりが触れて、心を安堵の心地好い色に染めてくれるそれには胸のずっと奥にひた隠してある不安感が簡単に抑え込まれてしまう。
微睡み始め、眠くて上手く呂律が回らなくなりながら触れられた手を握り返してソロモンはゆるゆると唇を開いた。
「“黒い精霊”のようすは、どうだい……?」
「…嗚呼、それな。別段特に何もだよ。」
どうってことはない、と彼は答える。
「父上が亡くなってより、ずっと沈黙したままだ。一応見張ってこそいるが、ありゃ本当に
そしてアルクレスは、自身の自室で厳重に封印の魔法を施された箱を思い浮かべる。
その内側にある、無機質に黒くも瞬きを湛えていた光の塊は父親が“殺される”直前にアルクレスへと飛び付いて以来何も反応を返す事がない、スケルトゥールの王家が代々引き継いできた得体の知れないものだ。
いつからあるものなのは知らないが、“魔術”の存在を知るより前からこの国の長が継承していったものだが別段国王が活用していたといった話は聞かないし、王となるソロモンが継ぐ筈ではあったもののこんな得体の知れないものを彼に授けるのも憚られたので、アルクレスは仕方無しに自らに取り憑いたそれの面倒を見ることにしていたのだった。
「成り行きではあったが、折角精霊と契約したってのに反応がないなら使える筈の魔術もからきしだ。力ばかりの俺と違って精霊も無しに魔術やら魔法やらバンバン使えるあいつら二人が羨ましくて堪らないね。」
「そう、だろうか……? でも御前は、どんな武器でもかんたんに……たやすく、あつかえるところは……とてもすごくて……兄として、ほこら、しいよ……。」
「…どうだか。たかがちょっと学べば身に付く程度なんだし、誇れる程のものじゃないさ。……ほら、眠たいんだろ? 早く寝てくれよ、アンタが寝てくれないと俺も眠れないんだから。」
アルクレスの手がソロモンの目元を覆って目の前を暗くする。
今眠ってしまうのが勿体無く感じてしまってつい子供みたくぐずってしまいたくなって彼は唇をきゅっと閉めていたのを遠慮がちに開いた。
「あるく……むかしみたく、いっしょに……」
「駄目だ。……アンタ、もう自分が幾つになると思っているんだ、20歳だぞ? それももうすぐ国の長に成るんだ。いつまでも弟の俺や妹のミネルヴァに甘えてはいられないんだからな。」
そして説教口調になるアルクレスを、うとうととしながら見詰めていたソロモンの目蓋はゆっくりと閉じかけていく。
弟の声が心地好くて、温もりが嬉しくて、“遥か昔”を思い浮かべて懐かしみながらやがて意識は途切れていく。
「(……ほかのみんなは、どうしているだろうか……?)」
しまい込んだ不安感が胸の奥からまたノックをする。
ここ最近はどうにも調子が悪い。
今まではこんなにも不安に苛まれた事など一度足りとしてないというのに、“父の最期”を境目にずっと不安定な心持ちが続いている。
「(
無意識だったのか、握り締めた手に力が入ってしまい「いつまで寝ないで、何を考えてるんだ、兄上?」とアルクレスにまだ全く寝入ってない事を気付かれて、悪戯がバレてしまったような気持ちに小さく笑いを溢した。
「なあ、アルク……わたしがおうになっても…わたしのおとうとで、いてくれるかい………?」
「一体何を思い悩んでいるかと思えば……縁を切る訳じゃないのだから、大丈夫だよ。あの日に、俺が王に成った兄上を護るって約束しただろう?」
「そうか……じゃあ……わたし、も、そうし…よう………、」
傍で椅子に腰掛け寝入りを見守る弟へと向ければ彼は自ら身体を寄せて触れさせてくれる。
耳元に添えさせて貰った手を髪が撫でて擽ったい。
「わたしは……いつだっておまえを、たすけて、やり…た……ぃ………」
途切れた声に吊られて落ちそうになる手を取る。
一瞬ひやりとして顔を近付けて伺えばソロモンは寝落ちたのか微かな呼吸音が聞こえて、焦ったのもあってか思わず安堵に胸を撫で下ろした。
今まで死に体だった兄だ、一挙一動が気になって仕方がないし本当は無理だってさせたくない。
それでも容量良く人より優秀な兄は他人が苦労することも容易くやってのけてそして労ってくれる。
老若男女貧富関わらず誰にだって思い遣り、尽くし、溢れんばかりの愛情を振り撒くこれ以上無い程に優しい人。
それだというのに、兄妹に対しては他以上にもっとべたべたに甘やかすし、それでいて甘えてくれる子供っぽさもある不思議な人。
それが、アルクレスの……彼の自慢の兄だ。
「……俺は、何度と貴方に助けられてから、貴方を護るって決めたんだ。」
漸く寝入ってくれた力の無い手を握り締めて彼は過去を思い起こす。
一度目は王宮の端の部屋で、熱に浮かされた熱い手が涙に濡れて冷えた頬を撫でる感触。
二度目は父親の部屋で、覆い被さるあの男の冷たくなっていく身体とその背中に突き付けられた剣と冷ややかにも怒り燃え滾るあの眼差し。
──乱れた衣服をきつく握り締めて、大きく見開かれた眼からはぼろぼろと涙が溢れ落ちる。
視界が滲んで見えないというのに、倒れいく男の身体の向こうで初めてあの優しい兄が激昂する姿は今でも鮮明に思い出せる程強烈に脳裏へと焼き付いて残っていた。
『……此処まで煮え滾る憎悪を抱いたのは今だ嘗て無い。喜ぶが良い御父君、貴様は初めてこの私に怒りを覚えさせたのだ……故に、私から貴様にかける恩情はないッッ!!』
それは、優しい兄の手を二度と汚させやしないと、彼が心に固く誓った日の事。
*****
──時は遡って数刻前。
「あの御方は不思議な御人だ。まるで何でも……既に知っていたかの様に、教えた事を全てするすると覚えていきなさる。」
アルクレスの目の前にいる人物が溜め息と共にそう語る。
面倒だと思いつつも式典の日程が確定したという報せと共に兄について相談が有ると聞き及び、呼ばれたからにはその話に付き合う事にした彼は手前に出された紅茶には一切手を付けずに椅子の背もたれに肘を付きもたれ掛かりながら、行儀悪く足を組むと退屈そうに欠伸を溢した。
「嗚呼そうだろうな、あの人は優秀なんだから。俺と違って覚えが良くて余程指導が楽なんだろうな?」
嫌味を含めて返すと相手は言い淀んでは曖昧に笑みを返して、その反応こそが答えなのだろうとアルクレスは拗ねたようにそっぽを向いた。
この目の前にいる眼鏡をかけた中年の男は、嘗てアルクレスに“次期王”としての教育を担当していた人物だ。
あの駄犬に“伝言ゲーム”なんかを頼んだのは身内でないことは明確であったがまさかこの人があれを使うとは思わず、また本人も慣れない事をしたらしく王宮で一番詳しく王族の位置を捉えている犬に主人であるアルクレスの居場所を聞こうにも、他者は無条件に恐怖の対象とする“糞ビビリ”は話にならずやむを得ず呼び出す形となってしまったと聞いた時には思わず天を仰ぐ思いに気が遠くなったのはつい先程だ。
確かに“誰かに頼ろう”“助けて貰おう”とする頭を潰す為にそう躾たのはアルクレス自身ではあったが、その結果力仕事にはとことん優秀であっても対人に関しては頗る役に立たない。
……まぁそれも、妹によって多少憚られてしまったのではあるが、それでも忌まわしくも親友と呼び合う兄以外には頑として関わらずすがろうとしない事には効果が有ったようなもの。
後は自分が逃さないように“逃げた後の恐怖”を予め思い知らせるという首輪をつけておけばアレも逃げようとは思わないだろう、そう思っての事だった。
王国の“剣”と呼ぶには同じく剣を扱う者として癪に障るので言い換えたそれを、“忠犬”と言うよりは“駄犬”となってしまった事に関してアルクレスにはとうに諦めたものだった。
そんな相談が有るという、アルクレスにとって王宮のそこら辺を歩いている人々の内では比較的少しだけ気心知れた人物は、今ではその役目を解任されて別の業務を任せたが故に久方ぶりに顔を合わせたのがつい先程である。
別の業務……勿論それは“ソロモンの次期王教育”だ。
本来ならば長男である彼が幼少期の頃からみっちりと教え込まれる筈だった帝王学やら政治学やらを、ソロモンは父上が亡くなってより今になって漸く始めたのだった。
更に言えば病弱故に今まで散々表舞台に立てる機会がなかったソロモンは、他国の重鎮や自国の者ですら顔合わせが叶っていなかった為に、迫る王位継承式に備える必要がある彼には今の時期誰よりもずっと鬼のように忙しい激動の日々である──筈だった。
そんな兄が今、呑気に茶菓子を持ってアルクレスの執務室に居る。
よくよく考えなくとも余りにおかしいとしか言いようがないそれには、彼は別段自身の仕事や役目を放ったらかしにして遊び呆けているのではなく、既に終わらせたが故に困っている者が在れば手を貸し、苦労している者が在れば手を差し伸べたりと、王族にしては権威を振りかざす事なく弱きを救うべくして一人自由気儘に王宮中を見て回っていた為だった。
そんな異常でこそあるものの非常に心強くもある現状に、目の前の男はそれの何が不満や不安要素があるのか思い悩んでは何度と溜め息を溢す。
「あれは容量が良いだとか頭が良くいらっしゃるとか、そういった域では到底説明の付かない手捌きでありとあらゆる事をこなしていらっしゃいました。……本当に、あの方は今までずっと寝込んでいただけなのでしょうか?」
「…俺は知らん。兄上が今まで何をしてきたのか、闘病しているところしか見ていないし余計な詮索をするつもりもない。……あの人が自ら話す気になるまではな。」
アルクレスはそう答えると、つい先程の出来事を思い起こした。
先程とはそう、彼が“あれ”を口にした途端周りの空気が変わった事についてだ。
今まで顔を知る人物と思って話していた筈がそれをはっきりと認識できなくなり、その“誰か”の部下だったような気がした兵士達の態度とそれに対する上手く知覚出来なくなってしまった“誰か”とのあの不明瞭かつ激しい問答。
あの時もいつも通りの涼しげな顔をした兄であったが、いつか見た激しく怒る兄を何処と無く彷彿させる雰囲気を醸していたそれに、自分はつい何も言えなくなりそして聞けずしてそのままだったが、気になった所で問い詰める気もないのでアルクレスは全て済んで終わってから尚も黙っていたのだ。
そう物思いに耽っていると、宮廷教師である相手は紅茶を口にしていたのを離して思案した後に肩を竦めて重苦しく息を吐きながら口を開いた。
「ただ一つ、問題がありまして……、」
「ああ? 兄上に問題だと? ある訳がない。あれ程優秀な人だぞ、何処の何に文句がある?」
心外と言わんばかりに身を乗り出して言えば、気を抑えてと両手のひらを見せてくる男は困ったように口を開いた。
「確かに優秀な御方です、しかも過ぎる程に。認識のズレ……と言いますか、その……民を、否人々への思い遣りが過ぎる嫌いがありまして。」
男はアルクレスにすがるような目を向けると震えているらしい握り拳をもう片手で包みながら思い悩んでいた事を打ち明ける。
「優秀であるが故に、何事も軽くこなしてしまいそうなのは未来在る次期王に期待が募る思いでは有りますが、そんな彼であるがこそ故に人々の声に応え過ぎて何か良くない事が起こりそうな……そんな、胸騒ぎがするのです。」
そして男は項垂れてしまった。
それはアルクレスにも思う所がある悩みであり、あの他者を慈しみ優しさがすぎる彼“ソロモン”が王に成った後に浮上するであろう問題だった。
「あの御方が王位に就けばきっと人々は様々な困難に打ち勝ち幸福を得ましょう。そしてまた新たな期待を寄せては人々の声に応えるべくして民に尽くし、期待に応え、そしてまた暮らしは良くなっていく……その果てには一体何が起きるのやら、私めには到底想像もつきません…。」
「嗚呼、成る程な。それについては俺も同意だ。」
再び背もたれに体重を乗せて後頭部で手を組み合わせたアルクレスが言ってのけたそれに男は彼を見上げる。
「故に、俺やミネルヴァが居るんだ。あの人は善悪の区別こそつくが加減を知らんのは身に染みて良く解っている。“だからこそ”我等兄妹が王位継承権を捨ててまでして傍に侍り兄を護る役目に就くのだ。……あの人を悪用しようなんざ思う奴等は見つけ次第悉く消し去るつもりだし、今だってミネルヴァと共に目を光らせているとも。何処ぞの誰にだって兄上を好きにさせやしないさ。」
そして話は済んだと言わんばかりに立ち上がると「兄上と飲んだばかりでな、悪いがこれは飲めん。」と残して彼は退室していく。
「じゃあな。そんな事を考えている暇があれば、ソロモン兄上が作る新しい時代に存分に期待して待っていると良い。」
「……ええ、貴方様がそう仰るのであれば。ソロモン次期陛下のこれからの御活躍に、この国がより良き国と成ることを願っております。」
そして彼は、外はもう暗くなっているというのに向かった先の自身の執務室にて点いている灯りに、未だ自身の兄がいる事を確信して溜め息を溢す。
見慣れた扉の前に立ちドアノブへと手を掛けてはそこへと入っていったアルクレスは、あれから随分と片付いてしまった執務室の窓際に立ち尽くす彼にこう口にするのだった。
「灯りが点いていると思ったら、まだ仕事をしていたのか? 兄上。」
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