第26話
目覚めたら、私は崖じゃなくて見慣れたベッドの上に居た。
屋敷の自室だ。
そこで目が覚めた時、私は非常に困惑した。まさか全部夢だったのかとさえ思った。アキラが海に飛び込むのを見送った後、屋敷まで戻った記憶が一切なかったんだ。
だからむしろ、夢であれと願った。しかしそんな浅はかな願望は、恐る恐る部屋を出て、アキラの工房に行ってみたら簡単に砕け散った。
時刻は昼だった。相変わらず初夏らしい青臭い暑さが世界に充満していた。
アキラの工房の扉を開けたら、そこはがらんどうなただの倉庫になっていた。
絵筆やキャンバスも、イーゼルも、彼女が絵を描くために使っていたものが全て綺麗になくなっていた。床にこびり付いていた絵具の染みさえ綺麗さっぱり掃除されていて、微かにその空間に染みついた絵具の匂いだけが彼女の残り香として漂っていた。私は茫然と立ち尽くしていた。
そうしていると、後ろから呼びかけられた。
「目が覚めたんだな」
女主人が腕組をして立っていた。彼女は一人だった。着ているものは真っ黒な喪服で、いつも精悍だった面構えには寂しさのようなもの混じっていた、
そんな彼女の立ち姿を見て、私はやはり、アキラは死んだのだと実感した。そして私たちの間にはしばらくの沈黙があって、女主人がようやく口を開いた。
「よく眠れただろう。あの睡眠薬はよく効くからな」
彼女の言葉に、私は驚いて尋ねた。
「知っていたんですか?」
「何をだ?」
間髪入れずに彼女は答えた。そしてじっと、私のことを睨むように見た。
「お前たちは何も教えちゃくれなかったからな、私なりに調べていただけだ。お前達が休日の度にどこに行っていたのかとか、わざわざ私の管轄外である隣町の薬屋で何を仕入れていたのかとか……色々な話を聞いた。一つ一つ答え合わせしていくか?」
責め立てる様な彼女の言葉に対して、私は思わず答えを窮した。何もかも隠し通せていたつもりだったが、やはり彼女にはバレていたのだ。温泉街では常に住人の目があるため、わざわざ遠出をしたりもしていたのに、それさえも看破されていた。
ただそんな私を見て、彼女は少しして、ため息を吐いた。
「まあいい。済んだことだ。それにアキラから話は聞いてる」
「アキラから……?」
「ああ、一方的に言い捨てていくようなものだったがな」
そうして彼女は私に一枚の便箋を手渡した。そこには短くこう書いてあった。
『いけすかないご主人様へ。これまでお世話になりました。私が絵を描くために使っていた道具は全て綺麗に洗って中庭の物置に戻しています。工房も掃除してあるので、次の絵描きが来たらすぐに使えると思います。それではさようなら』
簡素で、まさしく適当に書いた書置きのようなものだった。
だがそれでも、あのアキラが身辺整理まで済ませていて、書置きまでも残しているなんて思いもしなかった。女主人に気取られることがあったら悪いからと細心の注意を払っていたのは彼女なのだ。
だがそうやって私がまた文字を読み返していると、女主人が便箋の裏を見るように指で示した。
裏には、こう書いてあった。
『追伸。あんたの愛人を一晩借ります。この紙と一緒に置いてある地図に目印を打っているので、明日の朝に引き取りに来てください』
それを見て、アキラはもう出発する前から私を置いていこうと決意していたとわかった。そして彼女が、わざわざこんなことを書いて残した理由もすぐに分かった。
もし私があの崖で一人目覚めていれば、もしかしたらアキラの後を追って飛び降りていたかもしれない。そこまではしなくとも、屋敷へは帰らず、また放浪の旅を始めて腐っていったかもしれない。アキラにとって、それは不義理なことだったのだろう。
私が、私は一人になっても私に似ているアキラに孤独を味合わせたくなかったように。
アキラも又、アキラが死んだとしても私の人生を乱すようなことはしたくなかったのだ。
馬鹿真面目な私に似ている彼女も、やはり真面目で、律儀であった。
私がそんなアキラの便箋を読み終えると同時に、女主人はため息をついて、工房の入口の所にある階段に腰を下ろした。そうして彼女が吸いだした煙草は、アキラが吸っていたものと同じだった。戸口を隔てて、薄暗い工房の中に居る私と、明るい工房の外に座る彼女は、近いようで遠い距離感だった。
彼女の背中はやっぱり寂しそうだった。
だがその背中を見ていると、私はふと違和感に気が付いた。
「あの、その服は?」
彼女は前述した通り喪服を着ていたのだ。それがアキラを弔うためのものだろうというのは、彼女の振る舞いを見ていればわかった。
だがアキラは海に身を投げたはずだ。それが、彼女がどう生きても構いはしないと切り捨てた人生で、唯一譲れないものだった。
死体ごとこの世界からおさらばするというものだ。
女主人は不味そうにその煙草の煙を吐きながら言った。
「今朝、アキラの遺体が港に流れてきたんだ。丁度その便箋で言われた通り、使用人にお前を取りに行かせた辺りの事だった。まあアキラの遺体と言っても、水で膨れてしまっていて見られたものじゃなかったがな。着ているものがいつものつなぎだったからわかっただけだ」
その言葉に、私は思わず持っていた便箋を取り落とした。
「……その遺体は、どこに?」
「あまりにも酷い様子だったからもう焼いている。今はその最中だ。そして今晩通夜をして、明日には葬式。その後は墓に入れる。普通のことを、普通にするだけだ」
煙草を地面に捨て、踵で踏んで消すと、女主人はしばらく黙り込んだ。
私は何も言えなかった。
そうやってまた沈黙があり、それを破ったのもまた、彼女であった。
「戻ってきてくれて嬉しいよ。お前も……アキラも」
女主人はまたもう一本煙草を新しく咥え、火をつけた。
「それはお前にやるよ。それは、あの画家がお前の為に描いたものだ。それはお前が持っていた方が美しい」
それだけ言って女主人は立ち上がると、煙草を蒸かしながら歩き去ろうとした。
私は咄嗟に、その背に言った。
「あの、もう少しお話し、いいですか」
振り返った彼女は、次に私が言う言葉が何かわかっている様だった。
寂しそうな顔をしていた。
「お暇を頂きたいです」
それでも私は、もう、迷わなかった。
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