第25話

 話が終わると、それからは驚くほど滑らかに事は進んだ。私とアキラはいつものように傍に居るようになって、休みの予定が合う度に出かけるようになった。

 初めの休みの日には服を買いに行った。

 次の休みの日には飯屋を梯子して歩いた。

 それから何日かの休みの日にはそれぞれ様々な海を探しに汽車に乗り込んだ。

 私たちは死ぬときに着る服と、最後の晩餐と、飛び込む海を決めた。

 私は、彼女の提案に乗ってしまった。

 ただ今乗ってしまったと書いたように、当時の私は心のどこかではずっと迷っていた。私は死というものを人並みに怖がっていて、毎日決行の日に向けて勇気を溜めるので精一杯だった。

 しかしアキラはといえば全く普段と変わらず、ただ淡々と改めて死ぬ準備を進めていた。そこには何の迷いもなさそうで、気楽そうな彼女の横顔を今でも覚えている。そこには説得の余地もなく、私はこの死ぬ準備をする間、そんな彼女の後ろを黙ってついて歩くばかりだった。

 そして、そうやって日に日に様子がおかしくなっていく私を、女主人が見逃すはずもなかった。

「おい、最近どうした。また何か心配事でもあるのか」

 彼女はしきりに尋ねてきた。しかし私ははぐらかすばかりで、一向に応えようとはしなかった。あまりにも死ぬための準備が順調に進み過ぎていて、女主人が懐疑を募らせるより先に全てが終わる確信があった。そのまま黙っていれば、逃げられると思っていた。

 しかし私の中の良心がそんな己の弱さに逆らった。女主人は変態ではあれど悪人ではなく、善良な市民だ。そして私たちの主人であり、恩がある。そんな人を騙したまま去るのは間違っていると義理のような想いが芽生えた。

「アキラ、せめて主人には暇を貰ってから死のう。黙って出ていくのは悪いよ。ちゃんとここを辞めて、自由の身になって死ぬべきだ」

 そう言うと、アキラは呆れたように首を振った。

「これから死にたいから辞めますって言うの?」

「それは……何か適当に理由でも作ってさ」

「そうやって騙すことと、黙って出ていくことはそんなに違うこと? 第一私やあんたみたいな人間がどこにも行くところがないことくらい、あいつもわかってる。勘づかれたら邪魔されるだけよ。折角海に飛び込んで死ねたとしても、追っ手がきて引き上げられて、土に埋められたんじゃしょうがないでしょう」

 このようにアキラは一向に頷かなかった。

 そうして、決行の日がやってきた。季節は初夏の頃だ。私は二十一になっていた。春に芽吹いた新芽が若々しかった青い葉の色を渋く重たく育てて、森や山が遠目にも脱皮を終えたのが分かった。彼らが新調した緑の鱗は一枚一枚が力を漲らせており、それらを踏み台に山を駆け抜ける風たちは気持ちよさそうに木を歌わせていた。するとその声ですっかり春の寝惚けから目覚めた動物は、人を含めて皆活気づき、活動的になっていった。事実街を歩いていても祭囃子の太鼓の練習をする音が夜な夜などこかから響いてきたり、昼間の時間が伸びて子供たちが長く遊べるようになり、路地の裏は彼らの秘密基地と化したりしていた。

 そんな温泉街を尻目に、私とアキラは汽車に乗って街を出た。私たちの荷物は一つで、カブのサンドイッチと酒が詰められた籠だけだった。私たちはピクニックにでも行くように、晴れ晴れと旅を始めた。

 といっても、道中はそれほど長いものではなかった。私たちが死に場所に選んだ海は、温泉街から汽車を二度乗り継ぎ、半日ほど移動した程度の場所にあった。

 私たちは終点の駅に着くと、ブリキの車掌に切符を切ってもらい、凝り固まった体を解しながら半日ぶりに土を踏んだ。駅自体は無人であり、辺りには森が広がっているだけで、村があるという細い道とは逆の獣道を私たちは進んだ。ただその日は思ったよりも日差しが強く、私はその日の為に拵えた絹のシャツの袖を皺だらけにしながら捲り上げた。アキラも同じように、いつもの絵具だらけのつなぎの袖を捲った。

 彼女はこの日の為の服をあえて買っていなかった。最後の晩餐がカブのサンドイッチというのも彼女の希望だった。彼女は死というものを全く重たく考えておらず、本当に日常の延長線上のピクニックと同じような心持ちでその日に臨んでいた。

 そうやってようやく目当ての崖に辿り着くと、もう遠い水平線に陽が落ちていく時間だった。私たちは朝一番に出て、止まらず進み続けた時、丁度陽が落ちる時間に辿り着けるという理由だけでそこの海を最期の場所に選んでいた。これに関しては、夕焼け時に飛び込みたいと言ったのが彼女で、それを踏まえて場所を選んだのが私だった。私は一度でも足を止めてしまうときっと当日迷ってしまうと思ったのだ。だからずっと進み続けて、彼女が希望する夕焼け時に辿り着ける海を選んだ。

 そこで私たちは崖の際に風呂敷を広げて座った。落ちていく夕陽を眺めつつ、間に籠を置いて、無言で二つずつカブのサンドイッチを頬張った。

 夕陽は目に突き刺さる様な金色だった。海の向こうにあるという奈落で大きな爆弾でも爆発したみたいで、その閃光が煌めいているようだった。もしかすれば雷鳴の様に、太陽が沈む音が遅れて世界に轟くのではないかと思う程鮮烈な夕焼けだった。太陽からすれば爪楊枝程度の雷であれほどの轟音なのだから、きっと太陽が沈む音は黄金の鐘を巨人が打ち鳴らした様な壮絶な音がするだろうと思った。その音だけで地震が起きて大地が割れ、そこに海も空も吸い込まれて全部が壊れていくのだ。私とアキラだけじゃなくて、全ての人間が死ぬ。世界が終わる。

 もしそうなるのなら、アキラは自殺をやめてくれるだろうか。私はこの時にもなって、まだそんなことを考えていた。

 するとアキラは、ぽつりと言った。

「ねえ、あんたは死って何だと思う?」

 私は夕陽から目を離さずに答えた。

「痛くて怖くて寂しいものだよ。でも……きっとそれは一瞬だ。そして、それで今後一切の苦痛がなくなるならさ、救いにもなるものだ……そのはずだ」

 答えると、彼女は冷やかすように言った。

「まだ怖がってるのね」

「当然じゃないか。怖いよ。君が隣に居なければ、もうとっくに逃げ出してる」

 私は自分に言い聞かせた。

「でも君が居るから、ここにいる。私はさ、何も世界に絶望してるから死ぬわけじゃないんだ。きっとさ、この世には幸福なことや楽しいことが沢山あるんだと思うよ。世界っていうやつは案外悪い奴じゃないんだ。私は沢山の人に助けられてきたから、それを知ってる。でもその分、私自身が駄目で、この世にある幸福なことや楽しいことの一切に耐えられないからさ、生きるっていうことと死ぬっていうことを天秤にかけた時、後者の方に少しだけそれが傾くんだ。だから私は今日死ぬんだ」

 そうやって言うと、アキラは少し間を開けて言った。

「幸せだったのね、あんたは。同情するわ」

 その言葉が耳に入ると、私は驚いて彼女を振り返った。

「どういう風の吹き回しかな。君が人に同情するなんて」

「死ぬ間際になってまで肩肘張るのもおかしいでしょ。それも、相手が……人生で唯一の友達で、親友なら当たり前よ」

 そう言って、彼女は籠の中に入れておいたコップを取り出し、片方を私に寄越した。そしてそれぞれのコップに、別々の酒を注いだ。彼女はビールで私はウイスキーだった。彼女のは何でもない市販のもので、私のものは酒屋に頼んで遠くから仕入れてもらった特別度数の高いものだった。そして、半ばまで酒が注がれたコップが鉛の様に重たく感じ、手が震え始めた。

 酒の中には毒薬が仕込んであったのだ。ただ海に飛び込むだけでは確実性がないという彼女の提案だった。彼女は徹底的に死のうとしていた。

「……逆に、アキラにとって死って何なのさ。どうしてそこまで、怖がらずにいられるんだ」

 なんだか薬品臭い匂いがする様なウイスキーを、じっと見つめながら尋ねた。皮肉にも夕陽の茜が琥珀色の液体を貫いて、私の指や手首に万華鏡じみた酒の影を落とした。

「怖がる必要が無いもの。私はね、他の人間たちが死に抱いている恐怖って、厳密には死ぬ過程への恐怖だと思うの。息が出来なくて苦しかったり、体を損傷して痛かったり、心が病んで苦しかったりみたいな、死に至る過程で生じる苦痛が怖いのよ。だからもし飲むだけで何の苦痛もなく確実に死ねるような薬があれば、きっと沢山の人がそれを気軽に飲むと思うの。私にとっての死っていうのは、そういうものよ」

「でもそれなら、君も怖いものは怖いんだろ。毒を飲むし、海にだって飛び込む。君が言う理想の薬はない。きっとこれから私たちは苦しくて、痛い思いをする」

 私は食い下がった。そこまできてまだ私は弱かった。迷っていた。彼女を引き留めて、まだ共に人里離れた所で静かに暮らしたいと思っていた。

 それまで何度も生きる意味なんてあるのかって思ってきて、矛盾しているようだけどさ、この時は死ぬ意味はあるのかって思ってたんだ。

 じれったくてごめんよ。でも人間っていうのはそういう生き物だと私は思うんだ。だから矛盾していると分かっていても、当時を思い出してこうやって全部書いている。

 そして、そんな当時の私とは違って、アキラは迷わなかった。

「怖いわよ。でもね、怖いくらいなら私は耐えられるの。ずっと怖かった人生だったから。それに……隣にあなたが居るから」

 いつもの粗暴なあんたという呼び方ではなく、まるで祖母の様に聡明に彼女は言った。それを聞いて、私は涙を堪え切れなくなった。やはり彼女を説得することはできないと理解してしまった。

 だから皺だらけのシャツの袖で目元を抑え、涙を鎮めると、深呼吸をした。もう逃げるのはよそうと己に言い聞かせ、アキラの言葉に縋った。

「……なら、私も耐えるよ。怖いけど……どうしようもなく怖いけど、でもやっぱり君が居てくれるなら、私も死ねる気がする。ありがとう、アキラ。君と出会えて本当に良かった。私も、君のことを生涯で唯一の友達で、最高の親友だと思っている。君に出会って、私は本当に救われたんだ。恩人も、妹も亡くして、自分自身に失望して、腐っていたけど、君のおかげで気楽に生きられた。散々な人生だったけど、最期をこうして君みたいな人と過ごせて、私は幸福だ」

 震えながらそう言ったらさ、彼女は本当におかしそうに、声をあげて笑ったんだ。

「ふふふっ、本当に真面目ね、あなた。最期までそんなに律儀に言わなくていいのに。どうせ全部なくなるのよ」

 そうやって笑った彼女の左目には、初めて生気のようなものが見えた気がした。ただそれはもしかしたら見間違いだったかもしれない。夕陽の光が強すぎて彼女の目に良く反射していたし、彼女は確かにその時涙を流していたから、その煌めきかもしれない。

 彼女は私に向けてコップを差し出した。それは握手でも求めるようだった。私と彼女は一度たりとも触れ合ったことが無かった。私の人間アレルギーを誰よりも、私よりも理解していた彼女のおかげだ。だから私は、アキラと一緒に居る間が人生で一番安心できた。

「ほら、乾杯」

 一度だけ打ち付けたグラスの音が耳にこびり付いた。それは今でも私の頭の中で木霊している。死を予感するような、安らかな鈴の音のようだ。

 それから私たちは互いに一口で酒を呷り、コップを籠の中に捨てた。

「それじゃあ……」

 立ち上がろうとした私を、アキラは引き留めた。

「まあ待ちなさいよ。いくら毒を入れたって言っても、回るまで待たなきゃいけないわ。焦って飛び込んで、海の中で吐いちゃったら意味が無いもの。だからもう少しだけ座っていましょう」

 彼女の言葉に従って、私は尻を風呂敷に再び落ち着けた。毒を準備してくれたのは彼女だったため、私は素直だった。

 自分がどんな毒を飲んだのかも、私は知らなかった。

 少しして、アキラが口を開いた。

「それと最後に言っておくけど、私ね、人間アレルギーって言ったでしょ。あれね、あなた以外にも言った事があるの。あなたに似た体質の人を知っていてね、多分その人もそのアレルギーを持っていたから、人間アレルギーって言葉を基から思いついていたの。それがあの時、咄嗟に出て来たってわけ」

 予想外の告白に驚いて、私は尋ねた。

「そんな人が居たの? どんな人だった?」

 すると彼女は、大きく笑った。

「あなたに物凄く似ている人よ」

 それだけを言って、彼女は立ち上がった。

 私もそれについていこうとして地面に手を突いたが、なんだか力が抜けてしまって、倒れてしまった。その時は毒がもう回ってしまったのかと思った。そして苦しみなどが一切なく、ただ眠気だけが襲ってくることに安堵と焦りを覚えた。まるで断頭台で首を落とされたように唐突に身体が動かなくなったのだ。同時に強烈な睡魔が襲ってきた。このままでは立ち上がることさえも出来ず、彼女と一緒に海に飛び込めないと思った。

 そしてアキラを見ると、彼女は一人どこも体がおかしくないような様子で崖の縁まで歩いて行っていた。

 全くの健康体みたいだった。

「アキラ……?」

 なんとか声を絞り出したら、彼女は答えた。

「騙してごめんなさい。でもこうするしかなかったの。だってあんた、やっぱり死にたくないみたいだったから。私がどれだけブスでも、親友を殺すようなことはできないわ」

 私には彼女の後姿しか見えなかった。彼女は海を眺めながら続けた。

「だから見送ってもらうだけで十分。あんたは良い人すぎるのよ。自惚れ過ぎなの。天使気取りなんてやめて、もっと気楽に生きて気楽に死になよ」

 彼女はため息を吐いて、両手を広げた。空を一人で抱えているみたいだった。黄金の夕焼けに彼女の体が末端から喰われていき、輝いて見えた。

「自分は死ぬべきだ、死ななければいけないとか考えるから、死ぬってことが大きくなって、怖くなって、勇気がいるのよ。でもね、死んだほうがましだとか……もう死んでもいいんだって思うと、不思議と今度は生きることに勇気が必要になるの」

 彼女は最期まで振り返らなかった。

「人に唆されて死ぬもんじゃないよ。ちゃんと生きるの。約束よ」

 彼女はポケットから何やら小瓶を取り出し、それを一息で飲み干した。そしてすぐに背を丸め、咳き込み、血を吐いた。きっとあれは毒だった。彼女が言っていた時間が掛かるものではなく、すぐに効く強いものだ。

 アキラは海に飛び込んだ。

 私はそれを見送り、深く眠った。

 その日、私が寝ている間に、アキラは死んだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る