第24話

 冬の終わり頃だった。アキラと疎遠になってからしばらく時が経っていて、私はその間中ずっと悩んでいた。私は彼女のことを人生で唯一の親友とまで思っていたため、彼女とこのまま離れてしまうことは受け入れ難かった。

 だが、この時には私はもう腑抜けになってしまっていたのである。自分から人の内に入り込む勇気は無くなっていたのだ。これまでの人生で何度も人を拒絶し、すれ違い、傷付けてきてしまったせいで、私は私という病原菌が他人の体内に侵入してその人の人生を蝕んでしまうのが嫌だった。

 そんな時になんの気まぐれか、女主人がまた一度アキラに私の絵を描けと命じた。アキラはその指示に逆らいこそしなかったものの、久しぶりに顔を合わせた私をまだ居たのかとでも言いたげに睨んだ。

 そのため、その日絵を描くために指定された街外れの墓地に行くまでの道中は、長く無言だった。遠出して絵を描く時には基本的に私が荷物持ちとして画材や弁当を押し付けられていたものの、その日はアキラが全て抱えていた程だ。私は手ぶらが気まずくて何度か荷物を受け取ろうとしたが、その全てがことごとく無視された。

 ただここで先に言っておくと、アキラはそもそも怒り方というのを知らない人間であったのだ。彼女の過去をあまり知らないため推測ではあるが、恐らくアキラにはこれまで、私と同じように友達という存在が居なかったのだろう。だからこそ対等な人間への怒りをどうぶつければいいのかも、どうやって折り合いを付ければいいのかも、全くわからない様子だった。彼女は厭世的でひどく大人っぽい所がある反面、一部分ではこのように子供っぽかった。そのため私はアキラがそういう人物であるとこれまでの生活の中でなんとなく理解しており、彼女が怒った時はいつもほとぼりが冷めるまでそっとしておいた。

 だが今回ばかりは話が違うと君もわかっているだろう。全面的に私に非があり、またこの問題は私たちの今後を大きく左右するものだ。

 墓地について絵を描き始め、少ししたあたりで、私は腹を括って切り出した。

「アキラ、聞いて欲しいんだけど、この前のは違うんだ」

 少し自分でも狡いと思うけれど、絵を描いている時なら、アキラは逃げないとわかっていた。あくまでも女主人に依頼されて描いている油絵は彼女にしてみれば労働であり、また、彼女自身は根の所が物凄く真面目な性質だった。

「多分君は誤解をしているし、私も誤解を招く言い方をしてしまった。本当に申し訳ないと思っている。私はあの時、私は私に苦しめられているけれど、君に救われたって話をしていたんだ。そして……」

 そこまで捲し立てるように喋った辺りで、アキラは不機嫌を隠さずに言った。

「何が誤解なの? どうせあんたも、他の奴みたいにいなくなるんでしょ? 何もかも置いて逃げ出すんでしょ?」

 アキラが寄越したのは軽蔑の冷笑だった。だが私はその顔が罅割れていると見抜いた。以前彼女が人とはパズルのようなもので、どれだけ完璧に見えても、よくよく観察すればその表面は罅割れてばかりだと言っていたことが私の彼女への認識を改めていた。私はアキラの笑みの罅の隙間から、彼女の内にある寂しさと自虐を絡めとった。

 だから私は冬の間中まるまる用意していた言葉を、満を持して曝け出そうと深く息を吸った。正直怖くて体が震えていたため、そうやって溜めた息を思い切り吐くようにして言わないと言葉が喉から出てこなかった。

「半分あってる。そして、半分間違ってる」

「は?」

「私は確かにここから逃げ出したいとあの時思っていた。そして君に……一緒に逃げ出さないかって言おうとしたんだ」

 告白すると、彼女は面食らったようにぽかんと目と口を開けて、持っていた絵筆をとり落とした。殺風景で渇いた墓地の土の上に、筆の先の絵具が吸われていった。

「でもあんた、人間アレルギーなんでしょう。どうせいつかは……」

 なんとか悪口を言おうとするアキラの言葉を、私は遮った。

「君となら、私は生きていけると思ったんだ。人間アレルギー、君が言葉にしてくれた私の本質は本当にその通りだ。なんだかその言葉を聞いて、私は自分が何者であるかを生まれて初めて知ったような気がしたんだよ。自分に名前が出来た気がした。そしてそれだけ、君は私以上に私のことを理解してくれていると改めて気付いた。だからさ、私は他の誰ともきっと、生涯を共にすることは出来ないだろうけど、君となら二人ぼっちで生きていけると思ったんだ」

 私は震えていた。これまでのトラウマが内側から私を襲っていた。お前のせいでこれまで出会った多くの人は不幸になった、お前のせいでパン屋夫妻やベリルは死んだ。お前は疫病神だ。お前は病原菌だ。永遠に孤独であるべきだ。悪魔がずっと囁いていた。

 それでも私はただ胸の内に一粒だけあった我儘に賭けていた。私は私がただ一人になるのは構わなかったが、私と同じような人間であるアキラまでもを一人にするのは許容できなかった。私はベリルが死んでから、色々なことに絶望して自暴自棄になっていたわけだが、女主人の館に来てからはぬるま湯の幸せを享受できていた。そしてその幸せの内訳で言えば、安寧を占めていたのは女主人であったが、楽しさや気楽さを占めていたのはアキラだった。私はアキラが居たから、女主人に惚れる様な余裕を得ることが出来ていた。

「私はさ、とんでもないろくでなしだ。これまで逃げてばかりだった。余計なことばかりしてきて、罪も犯した。だから幸せや平和や裕福なんて傷口に塩を塗られているみたいで、やっぱり肌に合わないんだよ。だからさ、もう残りの人生はひっそりと山の奥で暮らそうと思うんだ。例えば渓流なんかが眺められる所に小屋を建てて、自分たちだけが喰う分の野菜だけを作ってさ。日の出と共に起きて、日の入りと共に眠って、暇があればただぼうっとするんだ。人が住んでいる所からは極力離れたとこで、そうやって暮らすんだ」

 実際はこんなにもすらすらとは言えていなかったはずだ。何度も噛んで言い直した。でもその間中、アキラは黙って聞いてくれていた。私はもう動くままに口に思いを委ねていた。

「自分でも馬鹿げていると思うよ。そんなことをして何になると思うって。その生活に何の目的があるのかって言われたら、私は何も答えられない。だって私は目的があって、何かを成し遂げたくてそういう暮らしをしたいんじゃないんだ。ただ色々なものから逃げたくてそういう暮らしをしたいだけなんだ」

 例えるならさ、私の理想とする暮らしは目的地のない旅のようなものだ。どこか目的地があったなら、その道中がどれだけ険しく長くとも、先に進む一歩が踏み出せるだろう。でも私の理想はそうじゃない。ただ何かから逃げるために旅をしているだけだから、道中が厳しければその度に挫けそうになるだろう。大雨が降ったり、崖に路を塞がれたり、悪党に襲われたりした時に、心が折れるかもしれない。なのに、生きるためにはずっと歩き続けなければいけない。

 だからいつか、たった一人でなんでそこまでして生きているのかが、わからなくなるかもしれない。

 私にはもう生きる意味なんてなかった。ただ死なない理由を探していた。誰かが殺してくれるのを待っていた。この誰かっていうのは何も人間だけじゃなくて、疫病とか、災害とか、時間でもある。

 私は浅はかにも、この時は自分は死ぬべき人間であると思っていて、だから死ぬのを怖がっていたのさ。だって死ぬべき人間だよ。そんな人間が死んだらさ、あの世で確実に地獄に叩き落されるだろうし、何かとんでもない仕打ちを受けそうじゃないか。だから怖かったんだ。

 だから死なない理由を探していた。終わりのない、永遠に続く旅をしていたかった。

「いつまでも逃げながら生きるのは辛いよ。これまでも私の人生はそうだったからよくわかる。そうやって生きるのは途方もない。本当に独りぼっちになってしまったら、生きる意味というのが分からなくなってしまうんだ。でも、だからさ、一人じゃなくて君と二人ぼっちなら、生きていけると思うんだ」

 私は孤独だった。そしてアキラも孤独だった。アキラも私と同様に、屋敷の中では女主人と私以外とは一切かかわらないように過ごしていた。人間を忌避していた。

 だからきっと、私たちは隣にいても孤独なのだ。人の輪に入れないはみ出し者同士なだけで、その他と一括りにされてはいるものの、私たちは手を取り合っているわけではないのである。

 それでも、どれだけ自分が孤独でも、この世で孤独なのは自分だけじゃないと思えたなら、それは十分生きるための救いに成り得る。

「だからさ、アキラ、私と一緒に逃げよう。遠いところまで行って、誰にも知られずに二人で生きよう」

 そうして、私は最後に言った。

「もう無理して絵を描く必要はないんだ」

 私はアキラがどうして絵を描いているのかをずっと考えていた。私はてっきりアキラは絵を描くことが好きで、世界のあらゆるものに失望した今、絵の中にしか生きる希望を見出せないのだと思っていた。

 しかしアキラに向ける謝罪と訂正を考えていた冬の間、改めて自分のことを顧みて思った。私が屋敷に居たのは何か目的があったからではなく、ただ惰性で逃げてきた結果だ。

 だからもしアキラが本当に私と同じだったなら、アキラが絵を描くことも現実逃避以外に他ならないと考えた。彼女は何かをしたいから、例えばこういう絵を描きたいからとか、お金を稼ぎたいからとか、人に評価してもらいたいからとか、理解してもらいたいからとか、そういう理由で創作をしていたんじゃないんだ。彼女はただあらゆるものから逃げ続けるために自分が得意とするものの殻に閉じこもって、描いても描いても終わらない労働を続けていた。

 彼女の本質は、絵描きなんて偉いものじゃなかった。

 こうして私がこれまでの人生で得た教訓から結論を絞り出すと、アキラはしばらくの間俯いた後、ぴくりと肩を動かした。

 顔を上げて、少しだけ、優しそうに笑ってアキラは言った。

「真面目ね、あんた。馬鹿よ。馬鹿真面目よ」

 アキラはまた僅かに俯き、身をかがめて落ちていた筆を取った。

 そして、絵を描き始めた。

「そんな計画性のない話に、私の人生は乗せられないわ。私はね、もうこんな世界大っ嫌いで面倒で、どう生きたってかまいはしないと思っているけど、でも一つだけ決めてることがあるの」

 言葉を重ねるごとに、彼女は絵に色を重ねていった。私の顔を描きながら、絵の中の私の目を見て話した。

「野垂れ死ぬのだけは絶対に嫌。私は、海に飛び込んで死にたい。死んで土と一つになるなんて考えるだけでも身の毛もよだつし、入れ物の中に骨を入れられるなんてもっと嫌。波に導かれて、海の最果てまで流されて、奈落に落ちていきたい。それか波に砕かれて、風になって、こんな星からはおさらばするの。奈落でも空でも構わないから、私は死体ごとこの世界を抜け出したい。こんな糞みたいな星を中心に全部が回ってる世界なんて反吐が出るほど気持ち悪いから」

 そこでアキラは「だから」と続けた。

「本当はね、一年くらい前にそろそろ死のうと思っていたの。準備も済ませてた。さっさとこの世から出て行こうと思っていた。でも……そんな時にあんたが来たの。そしてあんたが言うように、まあだらだら生きてるのも退屈しなくなったからまだ死なないでいた。でもあんたが逃げ出すって言うなら話は別。あんたのその馬鹿げた理想論に付き合って、そこで野垂れ死ぬことになりそうなら私はやっぱりあんたには付いていかない」

 はっきりとそう断られて、私は胸を打ち砕かれたような痛みを覚えた。私は自分勝手に多くの人間を拒絶してきたものの、拒絶されるのには慣れていなかった。 

 だがそんな私に向けて、アキラは続けた。

「だからさ、私はあんたに付いていかないけど……あんたが私に付いてくるっていうのはどう?」

 私は首を捻った。

「君に付いていく?」

 アキラは絵を描く手を止めた。

「そ、一緒に死なない?」



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