第23話

 冬になった。笑える話だが、本当にこれまでの苦労は何だったのかってくらい、女主人の所での愛人生活は安定していた。

 思えば十二の頃に故郷を飛び出して、ずっと激流の中で生きている様だった。勿論要所では立ち止まることも出来たけれど、でもそれは荒波の中で流木に捕まるようなものだ。ライチの所でも、パン屋夫妻の所でも、安寧という奴はいつも突然大雨に砕かれ、また、天罰のような大火に焼かれてしまった。

 でも女主人の所ではそんな心配は微塵もなかった。本当に毎日静かで充実していた。食べるものに困ったことはなく、病気をしてもすぐに医者が来た。なんら不自由のない生活だ。

 だから、もしベリルが居ればなんてこともよく考えた。

 もし彼女が居れば、きっといい教育も施して貰えただろう。美味しいものだって食べられて、病気に罹っても大事には至らなかったかもしれない。冬の寒い日でも暖かくて清潔な外套を羽織って、胸を張って外を歩けただろう。女主人の所で生きていると、この世界に貧困なんてものは存在しないように思えた。

 まるっきり世界が変わってしまったようだ。これは本当だよ。世界ってやつは一枚岩じゃないんだから。関わる人だとか、住む場所だとかで、本当に一切が嘘みたいに変わってしまう。君も世界を変えてみたかったら、引っ越してみたり、新しい友人を作ってみると良い。この世ってやつはそりゃ確かに変わらないけれど、君が住む世界は結構変えられるものなんだから。

 そうして、やっぱり思うんだ。

 この平和はいつ崩れるんだろうって怖くなるんだ。

 でもそれは全くの杞憂さ。女主人は温泉街の元締めで、彼女が廃業するということはその街自体が潰れるということだ。日々賑わっている街を見ていたらそんな妄想は馬鹿げていると確信できた。それに結局感染症だってブリキ様の采配ですぐに収まってしまっていて、疫病なんかも現代ではそれほどの脅威にならないと周知された。ブリキ様が世界を統一する前にあったという人同士の戦争さえ、現代では完全に蒸発してしまっているため、恐れる必要はなかった。

 そんな風に、現代は人ではなくキカイが治める平等で公平で恒久的な平和がある世界だ。私は山の上にある屋敷から、毎日のようにそれを直視していた。

 まるで波なんてない水面の様だった。少しの振動ですぐに騒めいてしまう水面をじっと眺めているんだ。でもいつまで経ってもそこに波は起きない。疫病で多少揺れてもすぐに元通りだ。決してその水が氾濫することは無いんだ。そしてさ、その程度の小さな揺らぎっていうやつに振り回されるのはいつも昔の私のような、社会の灰汁のような上澄みの弱者で、金持ちってやつは結局丈夫なんだよ。

「お前は一体、何をそんなに心配しているんだ?」

 行為を終えてもう朝方になっていたころ、女主人が寝床の中からそう尋ねてきた。汗ばんだ彼女の肌と、そこから匂う甘ったるい女の色香がエーデルワイスを彷彿とさせて体が痒かった。

「ここは平和だと悩んでいたんです」

「平和のどこに悩むことがある」

「いつ壊れてしまうか、怖くなるんです」

 そう言うと彼女は俄かに微笑んだ。普段は騒がしくて喧しい笑い方ばかりするのに、こういう時はものすごく品のある笑い方をする奴だった。

「何も壊れないさ。ここはこの私の街だぞ? 心配することは無い」

 彼女の言葉は自信に満ち溢れていた。数多の成功体験で鍛えられた強靭な精神だ。長く英才教育を施されてきた強者の矜持だ。私はそれを妬み、そして頼もしいと感じた。

 君に勘違いをしてほしくないから一つだけ言っておくと、私は別に金持ちや強者が嫌いというわけではないのだ。何せ格差ってやつを生んでいるのはその人たちじゃなくて、世界の仕組みだ。恨むべきは規則に従って勝っている人間ではなく、その規則を作った奴や、規則を破る奴だ。

 そういった意味では女主人は賢く聡明で、規則に従って勝っている人種だ。無論それは彼女の裕福な家柄や、恵まれた環境だからこそできる努力の結果ではあれど、やっぱりそれも彼女の実力だ。多分私が全く同じ立場でも彼女の様に幸せにはなれず、人を幸せにすることも出来ないだろうと理解していた。極楽の女主人はとんでもなくてどうしようもない程ド変態な所を除けば、非の打ちどころのない優秀な人間だった。

「それでも心配をしてしまうというのなら、次に私はこう言おう。安心して心配すると良い。全て杞憂に終わる」

 彼女は私を抱き寄せた。女だてらに長くて逞しい腕で、貧相な私では太刀打ちできないというのは何度も夜を共にするうちに思い知らされていた。だから私はされるがままに抱き寄せられ、彼女の胸の内に包まれた。人間アレルギーで苦しくはあったが、抵抗する気もなかった。

「お前は平和という言葉を使ったが、お前にとって、平和とはなんだ?」

 明朝特有の青い光が部屋の中に充満していた。音を吸い込み世界を静寂で満たす光だ。まるで水の中に居るようだった。

「……わかりません。現代のことを沢山の人は平和だと言います。ブリキ様のおかげで貧困も少なく、疫病もすぐに静まって、戦争もない。この百年間がずっと平和だと。しかし私は……親もおらず、貧しく、疫病で大切な妹を死なせてしまった。勿論誰もが泣かない世界など有り得ないとはわかっています。でも、誰か一人でも泣いていたなら、それを妥協して平和だなんて言うことは間違っていると思うんです。でもやはり多くの人は今を平和だという。貧しい人なんて誰も居なくて、疫病も大したことはなかったという風に振る舞っている。だから私には……平和というものがわかりません」

 水の中に居る様な静かな世界だったが、女主人の腕の中であれば呼吸が出来た気がした。人間アレルギーのせいで今すぐにでもそこを飛び出してしまいたかったが、夜通しの交わいのせいで身も心も疲れ果てていた私にはその体力もなかった。

 女主人は、いつのまにか私の目尻に浮かんでいた涙を舐めるように口づけをした。

「……そうか。話してくれてありがとう。お前にとっての平和というものがよくわかった。なら次は私にとっての平和を語ろう。聞いてくれるか?」

「……はい」

「私にとっての平和とは、誰もが泣かない世界ではなく、誰もが安心して泣ける世界のことだ。人はブリキじゃないんだ、傷付いて当たり前だ。だからお前の言う通り傷付かないことは不可能だが、その分安心して休める世界なら、私はそれは平和と言っても良いように思う。だから……私からお前に言えることはやはり変わらない」

 そうして彼女は私の背や腹に指を這わせた。私の裸を弄ぶ彼女の指先はいつも狡猾なのに、その時ばかりは慈愛に富んでいた。私の火傷跡を彼女は慈しむように撫でた。彼女には火傷跡の記憶を話していた。勿論それだけではなく、私がこの遺書紛いのものに書いてきたこれまでの人生のことを全て打ち明けていた。

 彼女は私の全てを許容したうえで、私を愛していた。

「起きたら湯に入ろうか。きっと気持ちが良い」

 だから、そうやってド変態であるはずの彼女に慰められたことが恥ずかしくて、悔しくて、私はようやく寝返りを打って抱擁から離れると、言った。

「まだする気ですか、変態」

 彼女は笑った。

「それだけお前は魅力的なんだ」

 私にとって、彼女はあまりにも眩しすぎた。所詮私は彼女が所有するいくらかの蒐集物の一つで、愛人の一人である程度ではあったが、常人とは比べ物にならないほどの情熱を持つ彼女は、多くの人間に愛を分割して授けてもむしろ受け取る側が溺れてしまいそうな程の強靭さを持っていた。

 だから私は余計に日々耐えられなくなっていった。無論女主人の人となりには私もこの頃には慣れ始め、彼女の豪快な笑い声に愛着さえも感じていたが、人間アレルギーが彼女の傍に居続けることを許さなかった。彼女の愛が私の体を着実に蝕んでいた。

 私はその事実にもはや悲しむこともなく、ただ呆れていた。自分がそういう風に他人の愛の受け皿に相応しくないということはこれまでの人生で骨身に染みてわかっていたのだ。だから仕方がないと思い、女主人との伽は仕事だからと割り切っていた。

 だが、それも次第に上手くいかなくなってきたのだ。人間アレルギーによる苦しみに加えて、私はまた一つどうしようもない病を患ってしまった。

 それは恋の病だった。

 私は自分でも気づかない程自然に、女主人に惹かれ始めていた。

 彼女は思えば、これまでの人生で私が求め続けてきた理想の人であった。父母のような強さや賢さ、優しさを持っており、寝食を保障する生活が出来ていて、私の過去を許容してくれる人間だ。私は初めて人に恋をした。

 だが、だからこそ苦しかった。私は自らの胸の内に秘めたその新たな病だけは彼女に打ち明けられなかった。そうして自ら誰かに歩み寄ったとしても、結局最終的には人間アレルギーによって、自らその人の所を離れてしまうのが容易に想像できた。特に人間アレルギーは、女の振りをしていれば和らいだが、それとは逆に私が誰かに恋をすると余計に苛烈に私を苦しめた。私という人間の本質は、徹底的に自分というものと他人を乖離させたいようだった。そのため私は。女主人から授かる愛と、自らを捧げたいと思う恋の板挟みに苦しんだ。

 想定外だったんだ。

 だからこの冬のある日に、私はやはり林に逃げてきた。その場所の静寂だけが私を慰めた。私は鈍色の寒空の下で、孤独に己の性を呪った。

「最近しけた面ばかりしてるのは冬のせい?」

 いつものように逃げ場にやってきたアキラが私を見かねて声をかけてきた。彼女は女々しく悩む私を鬱陶しそうに黒い眼差しで見つめながら、同時に決して私からは離れなかった。

「いいや、自分のせいさ……全部、私のせいなのさ」

 煙草を蒸かして煙の中に雲隠れするように答えた。しかしその紫煙を見慣れているアキラは、私を見失いはしなかった。

「一つ言ってあげるけど、あんたは一人になるとすぐそうやって悪い方向に考えるんだから、そういうのやめなさいよ。本当に自惚れ過ぎよ。あんたみたいな金持ちの玩具になるくらいしか出来ない人間に、人を傷つける様な力も度胸もないわ」

「言ってくれるね。でも確かにそうかもしれない。でも……人は人で、自分は自分さ。私に人を傷つけることは出来なくても、私は私を傷付けられるんだ」

「おかしなことを言うのね、自分も人でしょ。あんたも人よ」

 アキラはその日も筆と紙を置いて、煙草に興じていた。夏、秋、冬と季節を乗り越える度に、彼女が避難所で絵を描く時間は減っていき、私と彼女が話す時間は増えていた。

「あんたはナルシストな癖にとんでもなくネガティブだから、面倒ったらないわ。どう生きてきたらその年でそうなれるのか知りたいくらいね」

「そういう君の厭世的なところも、私にとっては同い年には思えないくらい腐りきって……ああ、ごめん、熟れていて、興味深いよ」

「言ってくれるわ。やっぱり女みたいな厚い面の皮が良い、可愛らしいあんたの言葉は醜い私によく沁みるわ」

 その辺りで私は肩をすくめて苦笑を零し、降参した。

「参った、参ったよ、アキラ。やっぱり悪口では君に敵わないね。流石だよ」

「それは褒めてるってことでいいのよね? 悪口を褒められたのなんて初めてよ、どうもありがとう」

 相変わらず棘のある彼女の言葉は、しかし針治療でもしている様に私の体の患っている所に的確に突き刺さって、少しだけ身が軽くなったような気がした。似た者同士である彼女と話すといつもそうだった。

 そうして、私は切り出した。

「勿論。私はね、君のことを信頼しているんだ。まだ出会って半年を少し超えたくらいだけど、君は私に色目を使わない。こう言ったら君の言う通り自惚れだけどさ、私はこの天使みたいな顔の通り、これまで良い人にも悪い人にも好かれてきたんだ。でも私の中には悪魔が住んでいてね、人と近づけば近づくほど、体を患ってしまうんだ。これは根の所で人が嫌いだとか、そういうことでもないんだ。本当に心の底から信頼していたり、愛している人が相手でも、心底嫌っている相手でも、触れられたら同じ様に皮膚に蕁麻疹が出たり、吐き気がこみ上げてくるんだ。意図せず、反射でそうなるんだ。私の魂はそういう悪魔が住む体に入れられてしまった。だから……私は私に苦しめられているんだ」

 私はただ手元の煙草を眺めながら言った。吸わずに、ただ火が煙草を喰って短くしているところを見ていた。そうしていると気分が落ち着いた。

「だからさ、そうやって悪口を言って、私に近づかないようにして、でも決して離れもしない君のことを、私は信頼している。だからきっと君なら……もし私が居なくなっても……」

 煙草を眺めながらも、私はアキラに向けて言葉を選んだ。なぜこんなことを突然言い出したかと言えば、簡単だ。

 この時私は、多分自分はもう長くはここに居ないだろうと薄々予感していた。

 何故なら、私が女主人に恋をしてしまっていたからだ。

 そして、それに自分の魂と体が耐えられないだろうと身をもって予測していたからだ。

 私は私が信用できなかった。自分が次にいつ逃げ出すのかもわからなかった。思い返せば一番初めのエーデルワイスの時も、ただ衝動に任せて逃げ出していた。それが私という人間だということは理解していた。

 だがそうやって言っていた時、アキラが何の返事もしなくなっていることにふと気が付いた。

「アキラ?」

 彼女の方を向くと、私は自分の目を疑った。

 彼女はたった一つの左目から、一筋の涙を流していた。

 綺麗な涙だった。

 そして悲しそうだった。

 真っ黒で世界に絶望しているような彼女の目から、地獄に一筋たれた蜘蛛の糸のようなきらきらとした涙が零れていた。私は初めて、アキラの心というものを直視した実感を得た。

 私が思わず言葉を失っていると、彼女は自嘲気味に笑って言った。

「ばっかみたい」

 彼女がそう言った時、私はすぐに自らの過ちに気が付いた。

 私は、嘘を吐いてしまったのだ。

 秋の頃に辞めないと言ったばかりなのに、私はアキラに屋敷から去る様なことを予感させてしまった。

「アキラ、ごめん、違うんだ。私は……」

 立ち上がって去ろうとした彼女に向けて私は手を伸ばした。しかしその手は彼女に触れるすんでのところで止まった。彼女に近づいた途端、手の平に悪寒が走り、指が凍り付いたみたいになってしまったのだ。

 それをちゃんと見てから、アキラはまた一粒涙を流していった。

「本当に近づけないんだ。アレルギーみたい……人間アレルギーね」

 そうして、彼女は去っていった。それ以降、彼女が避難所に来ることはなかった。


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