第22話
季節は秋になった。それでもやっぱり私は、暇さえあれば林の木陰に座り込んでぼうっとしていた。女主人の所で厄介になり始めてから、私はアキラと女主人以外とは一切関りを作らないようにしていた。住む部屋も女主人に頼んで別館の誰も寄りつかないような倉庫にしてもらい、極力誰とも顔を合わせないように生きていた。そのため私の日常は静かでつまらないものだった。しかしつまらなくともそれに飽きがくるようなことはなく、私はそこにぬるま湯のような安寧を見出していた。
だから避難所に来ていた。何をするでもなく、そこにいて、ただ無駄な時間を貪った。
するとやはりアキラがやってきて、隣に座った。その日は彼女は大層な花束を持っていた。女主人が取引先から貰ったものだというが、要らないからと押し付けられたようだった。アキラはそれを休みの間中、ずっと黙って描いていた。重たそうな紺色や軽そうな緑色が瑞々しい花や茎を一度描いた後、枯れ始めた花束をもう一度描いていた。
隣で座ったり寝転んだりしながら、私は良く飽きないものだと感心していた。
そうしたら彼女が尋ねてきた。
「あんたいつもそうやってぼうっとしてるけど、よく飽きないわね。何が楽しいの?」
「楽しくないさ、つまらないよ。でも不思議と飽きないんだ」
「ふうん」
こうやって文字にして振り返ってみるとよくわかるけれど、やっぱり私とアキラは似ていたんだ。だから互いに、互いとだけこうやって寄り添っていた。別に私たちの間に何かがあったわけじゃないけれど、何かが無くとも、私たちは理解しあっていた。
だからやっぱり、ずっと何も話さなかったんだ。私と彼女は互いに当時の己を形成する過去の根の所を明かさなかった。彼女は私の火傷跡を、私は彼女の潰れた右目を、互いに見て見ぬ振りしていた。実際アキラが居なくなった今だって、私は彼女の右目の傷の意味を知らないし、きっと彼女も最期まで私の火傷跡の記憶を知らなかった。
こういった関係を君は一体どう思うだろう。勿論相手の過去を知らない薄っぺらい関係とも言えるだろうし、逆に、その人の今を理解しているからこそ過去を聞こうとしない深い関係とも言えると思うんだ。まあどちらが良いという話ではないけれども、やっぱりはたから見れば私たちはただの顔見知り程度の仲だったのかもしれないね。
でも、別に誰にどう思われようと構わないと私は思う。私とアキラが満足していれば、それが一番尊くて仲の良い関係だと言える。私にとって親友とはそういうものだ。
だから君もさ、もし何も言いたがらない人がいたら、別に無理に聞くことは無いよ。
そして君も、言いたくないことがあれば無理して言う必要はない。
その代わり、ちゃんと相手と自分の現在を尊重して許容するんだ。
そうしたら何も知らなくても、ちゃんと親友にはなれるから。
「お前とアキラは随分仲が良いようだな」
女主人が言った。二人で温泉街を散歩している時だ。蒐集癖がある彼女は、集めたものを他人によく見せびらかしていた。そういう自慢や見栄が好きなやつだった。
「仲が良く見えますか?」
「よく一緒にいるだろう」
「貴女がよく私を描かせますからね」
私が捻じれてそう言うと、女主人は腹を抱えて大声で笑った。一々声が大きい人だった。
「絵にされるのは嫌いか?」
「ええ、私は私が嫌いなので」
「だがアキラと居る時間は嫌じゃないんだろう?」
冷やかすような目をした女主人は露骨な態度だった。彼女は万事を楽しむ天才だった。いつも笑っていて、ふとした時に不思議と泣いてしまうようになってたこの頃の私とは正反対だ。
「別に好きというわけでもないですよ。ただ飽きないというだけです。すいませんね、ご期待に沿えず」
すると女主人はもう一度笑った。彼女は人が嫌がることをするのが趣味なド変態なのだ。それ故に私をよく人の多い温泉街に散歩に連れて行ったりもしていたわけだ。私は彼女のことが嫌いだった。
しかし、感謝している側面もあるのは事実だ。それに女主人は根は腐っているものの、聡明で豪快な気前の良い人間であったため、外面だけは良く、存外に奉仕精神も所有する人間だった。散歩途中に町の子供に菓子を買い与えたり、下っ端の働き者たちによく成り行きで酒を奢ったりするような人間だったのだ。そういう彼女の外面だけは嫌いじゃなかった。
無論、やはり内面は大嫌いである。夜ともにベッドに入れば、性豪である彼女の相手は骨が折れた。これまでは私も床での立ち回りで余裕を欠かしたことはなかったが、彼女の前でだけはとんでもない痴態を晒されたりした。特に一番は拘束されて物言わぬ愛玩具とさせられている所をアキラに絵にされるという、奴の畜生っぷりと変態っぷりを同時に象徴するこの上ない事件があったりもした。
「昨日は凄かったねぇ」
避難所に来て珍しくすぐに口を開いたと思えば、アキラは私をからかった。彼女は雇われている画家としてああいう濡れ場もまた偶に描かされているようで、飄々と慣れていそうなところもまた私の羞恥を煽った。
「忘れてくれ」
「忘れても絵があるから思い出すよ」
「こんな辱めを受けたのは人生で初めてだ。こういうのには慣れてると思っていたんだけどね」
そんなことをぼやいた時、アキラが指の先で器用に鉛筆を回して尋ねてきた。
「まあでも、確かに結構丈夫よね、あんた。ああいう絵を描いたくらいから、あの変態の夜の玩具はみんな逃げ出すのに」
「逃げられるの?」
「ええ。あいつ、畜生だけど相手が本気で逃げだせば追わないもの。なんなら退職金だって言って家渡してたこともあったわね。本当に美しいものを所有者の欲で壊してしまうのは馬鹿のやることだからって」
アキラが語る女主人の台詞に更に辟易として、私は煙草を吸った。この時にはもうアキラが吸う煙草には慣れきっていて、きつい匂いの虜になっていた。
しかしそうしているとアキラも煙草を取り出し、鉛筆と紙を置いて煙で遊び始めた。
「描かないの?」
「後で描くわ」
答えたアキラがなんだか少しいつもと調子が違う様に思えて、私は少し考えてから言った。
「私は辞めないよ。別にここを出たからって行く当てもないし」
すると彼女は、いつものように鼻で笑った。
「自惚れ過ぎよ、ブス」
そうしてアキラは揶揄うように言った。
「あんなことされて逃げないって、あんたも結構な変態なのね」
「仕事だからね。あれは労働だから面倒でもまあやるよ。君と同じさ」
私が夏の頃にアキラに言われたことを引用してみると、彼女は大きなため息をついて、邪魔そうに手扇で煙草の煙を払った。直後煙草を箱ごと投げつけてきた。
「はいはい、私が悪かったわ。口が暇そうだからそれでも吸っときなさい。私絵描くから、話しかけないでね」
言った通りに筆を取ったアキラを私はひたすら眺めていた。特に理由もなく、他にすることもなかったため、煙草を吸いながら岩の上に寝そべり、彼女が絵を描く様をぼうっと眺めていた。なんだか太陽にでもなった気分だったな。付かず離れずの所でぼやっと見つめることしかできないんだ。なんだかそれ以上近付いてしまったら、アキラが燃えてなくなってしまいそうな気がした。
ただそうやってアキラが絵を描くところを眺めていて、なんだか違和感を覚えたのだ。彼女は絵に対してあまりにも集中していた。真っ新な白紙に筆で絵を描いているというよりも、頑強な岩肌に彫刻刀で魂を刻み込んでいるような真剣さで世界を描写していた。アキラが集中して絵を描いている時には近寄りがたい威圧感のようなものさえ漂っていた。彼女が唯一世界と通じている左の片目からは剥き出しの闘志のようなものと、憎しみと、加えて一滴の恐怖が匂っていた。
それを改めて眺めていると、ふと、思ったんだ。
アキラはどうして絵を描いているんだろう。
私は彼女と出会うまで、芸術家という人種は少なからず自らその道を選んだ好事家だと思っていた。一財産を拵えた著名な者だろうと、全く素寒貧な無名な者だろうと、等しくその胸の内に情熱を宿していて、自らの歩む道がどんな結末を迎えようとも、その命を芸術に燃やし尽くせたならそこに悔いはないようだとさえ妄想していたんだな。そしてそれを羨んでもいた。
しかしアキラからはそんな匂いが微塵もしなかった。絵を描くことを労働と言ったように、空っぽな彼女の中には絵というものに対する愛情が微塵も無いように思えて仕方がなかった。そして私の隣で絵を描いている時も、好きだから、楽しいから絵を描いているわけではなく、何か別の目的と意志で筆先を突き動かしているようだった。もっとわかりやすくいえば、彼女は絵の道を選んだことを心の底から後悔しているようでもあった。
そして当時の私は、夏の頃のアキラの発言を思い出した。
「あんた、本質ってやつをなにもわかっていないのね」
あの時私が「よほど絵描きっぽい」と浅はかに放った発言を、鼻で笑う様に一蹴したアキラの言葉だ。
そうして咄嗟に出ようとした質問を、されどすぐに咥えた煙草の煙で押し込んで留めた。
この頃の私には、もう誰かの内側に踏み込む程の勇気はなかった。
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