第21話

 私とアキラが出会って初めて迎えた季節は夏だった。私たちが住む温泉街は港と山に挟まれた急こう配な斜面に栄えていたから、よく潮風が吹き上げてきて気持ちの良い夏だった。毎日が眩しかったよ。私たちが住む屋敷は海と山の二つの側面を持つ街の中で、山側の端の辺りに位置していたから、一番太陽が近い所に住んでいたというワケだ。そしてずうっと裾野に沿って三角に広がっていく街並みを見下ろしたら、その先にある海原の波間が剃刀でもかみ合わせたようにぎらぎらと灼熱の輝きを纏っているんだよ。強烈な夏の匂いがした。本当は海なわけだから、触れてみれば冷たいんだろうけれども、その表面に浮かんだ陽炎のような夏というものへの幻覚が海に灼熱という印象を持たせた。

 私はそんな海を、屋敷から少し離れた林の中でぼんやりと眺めていた。人気のない良い木陰を見つけたんだ。私は人間アレルギーだから、そもそも人が沢山住んでいる屋敷という場所は苦手で、早速逃げ場を見つけていたのさ。

 でも、そこはあくまでも避難所だ。何かをそこでやろうってわけじゃない。だから偶に本を持ってきてみたりしたけれども、大半はぼうっと海を眺めて過ごしていた。そうして心の奥底に眠っていた幼少の頃の記憶を思い出して、祖母のことを想像していたんだ。彼女が愛していた海というものにこんな形で会うことになるだなんて、と思う反面、別に私自身はあまり海は好きじゃないなとも思っていた。

 というよりも、この頃の私はもう色々なことへ興味を持つのが難しくなっていたんだ。厳密に言えばベリルが死んだ辺りからずっとだ。そしてそれは今もそうさ。なんだかね、喜怒哀楽が無くなったというよりも、自分が喜んでいるのか悲しんでいるのか、自分でもよく分からなくなるんだよ。だからふとした時に、意識していないのに勝手に涙が出てきたりするんだ。自分の心が何処にあるのかが自分にも分からない。だから、自分が何に対して興味を持っているのかもわからない。

 そんなわけでぼうっとしているんだ。人に空っぽな人間だと思われないように無理をして好きな本はこれだ、好きな食べ物はこれだ、だなんて言ってみはするけれども、本当は好きな本や好きな食べ物すらもわからないんだ。そしてやっぱり、ふとした時に涙が流れる。

 泣き虫になっちゃったんだな。なんて事ないことで泣いちゃうんだ。悲しいことだけじゃなくてさ、楽しいことでも、怒るようなことでもなんでも、感情ってやつが少し動くだけで汗をかくみたいに涙が出てくる。私の中ではあれからずっと雨が降りっぱなしなんだ。もう随分長い事溺れている。

 そして、そうやってぼうっとしていると、決まってアキラがやってきた。

 彼女は何も言わずに私の隣に座るんだ。そして私も何も言わない。その避難所はアキラの工房から近い所にある林の中で、彼女に一度「休みの日に何をしているんだ」と尋ねられた時にその場でぼうっとしていることを教えたら、アキラもそこに来るようになったんだ。

 彼女はそこでよく絵を描いた。色々道具が必要な油絵じゃなくて、鉛筆と紙だけで絵を描いていた。遊びの絵だ。ただ遊びと言えど、彼女の絵は素人目でも解る程精巧で鮮やかだった。真っ白な紙の上に黒い鉛筆で絵を描いているだけなのに、彼女が描く夏の海は暑そうで、空は真っ青な快晴だった。眼下に広がる山際の温泉街と、海際の港街もまた建物が一つ一つ粒立って瑞々しく、丸々と太って実が敷き詰められているとうもろこしでも見ているようだった。アキラは休みの度にそうやって、恐ろしいほど時間をかけて細かに絵を描いていた。

 しかしそれだけ細かいのに、彼女の絵の何処にも人間はいなかった。加えて人間だけではなく、例えば警察署や駅や造船所に、役場や大学、天体観測所等ブリキが運営するものもことごとく描かれていなかった。道路の上にはいつも何もなく、代わりに路の石畳の数を数えられるくらいだった。

 初めてそれに気付いた時、私は思わずでかかった問を唇の裏で推しとどめた。絵を描いているアキラの横顔があまりにも真剣で、邪魔をしたくはなかったのだ。加えて混沌とした闇に塗りつぶされた彼女の左目を見ていると、私にはわざわざ「どうして人を描かないのか」と尋ねること自体が野暮なように思えた。彼女が人間を嫌っていることなど、見ればわかることだからだ。

 それでも日を重ねるごとに私の中で疑問の種は育っていった。何せアキラの仕事は女主人の言われたままに絵を描くことで、その中には当然人間を描くことも含まれているからだ。彼女は私の絵だってよく描かされていた。

 ひまわり畑でまた彼女が私の絵を描いている時、もう一度聞いた。

「ねえアキラ、ブスを描くのは本当に嫌じゃない?」

 彼女は煙草を咥えたまま答えた。

「嫌じゃないって言ったでしょ」

「でも君、人間を描くのは嫌いだろう」

 私としては、この発言はそれなりに神経を張り詰めて口にしたものだった。アキラの内面に踏み込む言葉だと思ったからだ。私たちはよく他愛のない軽口を交わしていたが、互いの内に踏み込むことは決してしなかった。言うなればダンスを踊っていたみたいなものさ。付かず離れずで息を合わせてはいるけれど、決してキスをしたりとか、セックスをしたりとか、互いに侵入することはしない距離感を私たちは保っていた。

 彼女は鼻で笑って答えた。

「違うわ、人間を描くのは嫌いじゃない。ただ面倒なだけよ」

 彼女は一端筆を傍らの台の上に置くと、絵の具が付いたままの手で煙草を摘まんで煙を蒸かした。

「だって人間の形は歪だもの。人間なんて言うのは、パズルみたいなものなの。欠片の一つ一つは変な形だけれど、それがたくさん集まったら一枚の絵みたいな、一見美しくてちゃんとした存在に見える。でも近付いてみれば、やっぱりどんな人間だって体中に罅や亀裂が走っているように私には見える。一々そんなの描くのは面倒でしょ」

「でも、今だって私を描いているじゃないか」

「仕事だから当然でしょ。今、私は労働をしているの。絵描きなんてそんなもんよ」

 そう言った時のアキラの顔にはまさに罅が入っているみたいだった。なんだか一度ばらばらに崩れてしまったものを改めて繋げ合わせているような不安定さを感じたのだ。指一本でも触れれば壊れてしまいそうな予感がした。

 その時私は、思わず言ってしまった。

「今の君よりも、休みの日私の隣で絵を描いている君の方が、よほど絵描きっぽいと思うけどね」

 私はアキラを慰めたかったのだ。なんだか絵を描くことを仕事と言ったり、労働と言ったりしている時、言いきれない違和感のようなものを彼女から感じていた。実際彼女が絵を描いているのは女主人に雇われているからであり、仕事や労働ではあるのだろうが、彼女の精巧で美しい筆致の絵にはそれだけでは済まないほどの鍛錬と苦労が滲み出ている気がした。

 だが、彼女はまた鼻を鳴らして笑った。私を小馬鹿にするみたいだったな。

「あんた、本質ってやつをなにもわかっていないのね」

「……じゃあその本質ってやつが何か教えてくれる?」

 この時少しだけ苛立ちのようなものを覚えたのはよく覚えている。でもそれはアキラへの怒りや小馬鹿にされた悔しさというよりも、確かに彼女には見えていて、私には見えていない何かがあるのが理解出来ていたから、愚かな自分に嫌気が差しただけなんだ。

 アキラはまた煙草を蒸かした。

「そう言ってるうちは一生わからないわ。まあでも、別にいいんじゃない? そんなものわからなくても生きていけるんだから」

 彼女は空虚に笑って言った。

「わかるほうが面倒だもの」



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