第20話

 その人の名前はアキラと言った。刃物の切り傷で右目が潰された女だ。アキラはいつも煙草を吸っていた。その姿がなんだか様になってるんだな。私が初めてアキラと出会った時なんか、思わず見惚れてしまったくらいだ。

 彼女は女主人に雇われている画家だった。女主人の館に連れていかれた後、私のはじめの仕事は絵の題材になることだったんだ。女主人は自分で言った通り美しいものに目がない変態だったから、気に入った蒐集品をみんなアキラに描かせて保存していたのさ。だから私も屋敷に連れていかれてすぐ、館の離れにあるっていうアキラの工房に案内されて、そこで彼女と出会った。

 こんなことを改めて文字にすると馬鹿げているとも思うけれど、初めてアキラと目を合わせた時に、運命だと思ったんだ。私の火傷跡みたいに醜い切り傷で右目が潰れた彼女は、不幸というものを身辺に纏っているような陰気な女だった。着ているものにも頓着していないようで、ぼろぼろのつなぎには色んな絵の具がこびりついていて汚かった。色のゴミ箱みたいな女だったよ。でもそれが良かったんだ。例えばどれだけ美味い飯を作る料理人だって、そいつのキッチンのゴミ箱は生臭くて汚いだろう。それと同じで、アキラが来ているつなぎや彼女の髪、肌にこびりついた絵具は、全部彼女が美しい絵を描くために使われた後、ゴミ箱に捨てられているみたいだった。そしてアキラにはそれが良く似合っていた。

 だから彼女を見て私は安心したんだ。

 傲慢なことだけどさ、一目見ただけで、アキラはもう絶望に慣れた人間だってわかった。

 私が関わったとしてもこれ以上不幸にはならないだろうと思えた。

 だから安心したんだ。

 思い返してみれば、エーデルワイスとか、ライチとか、パン屋の夫妻やベリル、カタクリ、勿論それ以外の私の人生で出会った殆どの人は、みんな程度の差はあれど幸せの傍に居た。幸せっていうやつは炎みたいなものだからね。傍にいると温かいんだ。それに光を放つから明るくて、目印にしやすいんだよ。カタクリみたいな最初は幸せから遠い所に居た人だって、遠くにある幸せの輝きを見つめていてそこに期待していた。みんな幸せという共通言語の中で生きていた。

 でもアキラは違うんだ。最初に目を合わせた時、彼女が唯一持つ左目には輝きというものが一切なかった。彼女の目は死んでいた。悲しんでいるとかさ、苦しんでいるとかそういう感情すらなくて、もう死んでいるんだ。色々なことを諦めているような目だった。彼女の体や衣服にこびりついた無数の色を全部混ぜたみたいな、混沌とした黒色だ。彼女の内側にはもう幸せなんて言葉すら無いように思えた。

 まるで鏡を見ているみたいだったよ。

 そしてアキラも多分、同じことを思ってくれていた。

「一本吸いなよ。暇でしょ」

 私が絵の題材として椅子にじっと座っていると、彼女は筆を動かす腕を止めてそう言った。もう女主人は館に戻っていて、工房の中には私とアキラだけだった。

「ありがとう」

 受け取った煙草に火をつけると、鋭くてきつい匂いがした。鼻の奥の方を焼け焦げた槍で貫かれているような強烈な匂いだ。アキラはそういう匂いの煙草を好んでいた。そして私も彼女と過ごすうちにそういう煙草を好きになっていくんだけれど、この時は初めてだったから、咳き込んでしまったんだ。

 そうしたらアキラは文句を言った。

「動かないで」

「無茶を言うなよ。いつもこんなものを吸ってるの?」

「悪い?」

「体に悪い」

 屁理屈みたいにして言うと、アキラは鼻で笑った。彼女との会話はよく覚えている。まあほんの二年前のことだから当然だと思うけどね。

「じゃあこの世には良いね」

「どういうこと?」

「だって私は悪者だから。悪者を害するものは、世界にとって毒じゃなくて薬でしょう。私は毎日この世の為に薬を吸っているのよ」

 私とアキラの間にはイーゼルとキャンバスがあった。彼女の絵が私とアキラを繋げる窓口のようで、アキラは絵の中の私の目を見て話していた。

 私が思わず笑うと、彼女は驚いたみたいに目を上げてこちらを見た。

「何がおかしいの」

「おかしいよ。全くおかしい」

「だから何が?」

「何がだろうね。私もわからないよ。でも強いて言えば、きっとこの世がおかしいんだ」

 私は短くなった煙草を灰皿の中に捨てて、言った。

「もう一本、私にも薬を恵んでくれよ」

 アキラは呆れたようにため息をついて、煙草を箱ごと投げつけてくれた。

「変な奴。あの変態、ほんと良い趣味してるわ」

「私もそう思うよ」

 私はアキラを見ながら答えた。

 それから私とアキラはよく話すようになった。というのも、自分で言うのもなんだけれども、私は女主人にひどく気に入られていて、アキラは私の絵を何枚も書くことになったんだ。工房の中だけじゃなくて、花畑だとか、洞窟の中だとか、墓場でも私の絵を描くように言った。その度に私たちは、他愛もないことを色々話して過ごした。私の人生の中で一番静かな時間だった。

 互いに適当に喋っていた。それが良かった。

「ねえ、なんであんたは女みたいな格好してるの? 男なんでしょ?」

「見ればわかるだろ、似合うからだよ」

 これは屋敷の中庭で絵を描いている時だった。アキラは私の言葉を鼻で笑った。

「ブスが良く言うわ」

 私は煙草に火をつけた後、笑った。彼女といるとよく笑えるんだ。多分お互いに空っぽだから、へらへらしやすかったんだな。

「ブスを描くのは嫌い?」

 彼女も煙草を吸っていた。アキラは筆やパレットや煙草を忙しなく持ち替えながら絵を描くんだ。

「嫌いじゃないわ、だって私もブスだから」

 そう言われた時、私は言葉に迷った。私はアキラの事をブスだとは思わなかったからだ。勿論彼女は自分の見た目というものに興味がなかった、というよりもむしろ、あえて自分を醜くしようとしている節まであったけれど、でも私は彼女のことは美人だと思っていた。絵具塗れで片目が潰れていても、彼女は美人なんだ。本当に美しい人っていうものは、私みたいに着飾ったりしなくても美しいものだ。

 でもそれを言うのは憚られた。彼女がブスで在ろうとしているのはよくわかったから、美人だなんて言おうものなら殴られそうな気がしたんだ。それに彼女を美人だなんて薄汚い言葉で形容するのは、あの変態の女主人みたいで私も気持ちが悪いと思った。

 だから言葉に迷った後にこう言った。

「君に言わせれば、天使もブスなんだろうね」

 すると彼女は短くなった煙草を吐き捨てて、靴底で踏み潰しながら答えた。

「人の形をしている時点で、あんな妄想汚くて仕方がないわ」

 アキラは楽しそうにそう言った。でもその楽しそうというのも表面だけだ。彼女は悪口というものを好んでいたが、それもまたブスで在るための演技でしかなかった。彼女が本当に好きなものなんてこの世には一つもなかった。

「じゃあブリキ様はどう? 人を作ったキカイ様なんだから、やっぱりブス?」

 その質問には、アキラは答えなかった。

 

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