第19話

 変わり果てた私を見てさ、彼がその時持っていた弁当を取り落としたのを今でも覚えているよ。

 彼はね、食材ってやつを世界で一番大切にする少年だった。茶碗には米粒一つ残さなかったし、食い物に泥が付いていても雨でそれを洗って胃に押し込むような男の子だ。彼はそれだけ貧困で、飢えていた。だから食べ物の大切さというものを誰よりも解っていたんだ。

 けれどもね、ある曇りの日にさ、私が大聖堂の中庭にある木陰にもたれていた時だ。ブリキ様への御祈りにやってきた工場の職人衆の一番後ろに彼はいた。下っ端だったから荷物持ちをしていたんだ。その荷物というのが弁当で、カタクリの仲間も含めて、大聖堂に集まった乞食たちへの恵みの品でもあったわけだ。彼を雇った工場っていうのは随分立派な系列のもので、そういった慈善事業にも、下請けとして働きに出ていたんだ。

 そんな時に、彼はぼろぼろに成り果てた私を見て、思わず沢山の弁当を取り落としたというわけさ。

 あれは本当に悪いことをした。彼はあまりにも茫然としていて、先輩やなんかが怒るんじゃなくて心配していたくらいだったからね。まあ勿論さ、彼一人で全部の弁当を持っていたわけじゃなくて、彼を含めて何人かの下っ端で沢山の弁当を抱えていたってわけだから、彼一人が落としても全部の弁当が台無しになるわけじゃなかった。

 だからさ、彼の周りの人間はみんな、あんまりにも呆けていたカタクリを見て、動揺していたんだな。

 だから彼が動き出した時、すぐには誰も止められなかったんだ。

 カタクリは私を見て、弁当を落として数秒したら、慌て過ぎて転びそうになりながら駈け寄ってきた。

「あ、あんた、生きてたのか。俺は、俺はよ、もうあの階段にこなくなっちまったから、てっきりどっかで、流行病で死んじまってんじゃねぇかって、それで。でも、本当にい、生きてんだよな。なあ、おいあんた、返事してくれよ!」

 酒や煙草や、夜遊びや変な薬でぼうっとしてた私の肩をがしりと掴んで、彼は捲し立てた。私を右にも左にも大きく揺さぶって、血相を変えていたな。

 でも私はさ、最低なことを言ったんだ。

「あら、どちら様でございましょう」

 他人の振りをしたんだな。もうさ、私みたいな疫病神は誰にも関わらない方が良いと思っていたから、こんなことを言ったんだ。

 だってはたから見ても、物乞いに成り果てた私と、ちゃんとした工場に就職したカタクリじゃ身分ってやつが違うよ。私みたいなごみに熱を上げてる暇なんて彼にあるはずがないと思ったんだ。

 でも彼は、私の不細工な嘘に騙されちゃくれなかった。

「馬鹿言うなよ、あんたは俺の命の恩人だ。俺が今こうして真っ当に働けてるのも、全部あんたのおかげなんだからさ、そんな親みたいな人の顔見間違えるわけないだろ。なあ、どうしたんだよ。何があったんだ。なんであんたがこんなとこで、こんな格好で苦しんでるんだ」

 カタクリは泣いていたよ。色々な感情が混じり合った涙だった。私と再会できた喜びと、私の状態への怒りや悲しさだ。彼は乱暴者ではあったけれど、人情ってやつを持っていたんだ。

 それを見て、ずきりと胸が痛んだ。

 でも私はやっぱり嘘を吐いた。

「ふふっ、旦那様、情熱的でございますね。昼間から、若いってのはいいもんでございます。私は安いですよ、ええ、本当です。一回で朝飯より安いんですから。そんなにお求めとあれば、この体、今すぐにでも差し出しましょう。ただ困ったものでございますね。ここは人通りが良く、またブリキ様の大聖堂でありますので、少々離れた路地までご足労願うことになりますが、宜しいでしょうか……?」

 こんなどうでもいいことを適当に言ったんだ。宙をぼうっと見ながら、最低な奴であろうとした。カタクリに嫌われたかったし、軽蔑してほしかった。彼の中にある私への未練というものを、全てぶち壊してやりたかった。

 それでもやっぱりさ、カタクリは良い奴なんだよ。本当だ。たわごとを並べる私を見て、もっと涙を流してさ、私を抱きしめたんだ。

「大丈夫、もう大丈夫だ。俺が守るから、あんたのことは面倒見るから。ひどいことがあったんだろう、無理しなくて良いから、大丈夫だから」

 熱い抱擁だ。力自慢の彼の腕は太くて頼もしかった。私の肩を濡らす彼の涙は熱くて豊かだった。彼という人間の熱気ってやつが私を励まそうとした。

 だから苦痛だった。

 人間アレルギーだ。

 私は抱きしめられた途端に、カタクリの事が怖くて、気持ち悪くて、吐き気を催す程の醜悪なものだと思ってしまった。反射的にだよ。これだけ私を想ってくれる善良な少年の抱擁を、私は”痛い”としか思えなかったんだ。

 本当に最低な奴だ。

 そのあたりでようやく、我を取り戻した彼の仲間たちが寄ってきた。

「おいカタクリ、一体どうしたってんだよ。お前変だぞ」

「すいません、でもこの方は、俺に生きる術を教えてくれた命の恩人なんです。最近ぷっつりと消息が分からなくなってたところで、心配していて、でもようやく見つかったんです」

 カタクリは仲間たちにそうやって説明して、私を離すと、こう言った。

「いいか、すぐに戻ってくるから、ここにいるんだぞ。仕事なんて本当に、瞬きするくらいすぐに終わらせるから。すぐだから、わかったか?」

 そうやって彼は仲間たちに謝ると、自分が落とした弁当をすぐに拾って大聖堂の中へ走っていった。その背中を見ながら、思ったんだ。

 彼は本当に立派になった。彼はもう路地には生きていなくて、ちゃんとした集団の中で、ちゃんと生きているんだ。

 それで満足したから、私は彼の背中が見えなくなった後、すぐにその場を後にした。

 それ以来、カタクリとは会っていない。

 自分でも酷いと思うよ。あまりにも無責任だ。でもね、仕方がないのさ。きっとあれ以上カタクリと関わっていたら、私は彼を不幸にしてしまう。彼が私を慕ってくれているならなおさらだ。私はもう同じ過ちは繰り返したくないんだ。

 だからさ、本当に仕方がなかった。私も罪悪感に駆られた。申し訳ないと思ったよ。そして、その分の傷を癒すためにまた男や女を漁ろうとした。

 でもその日はさ、そうはいかなかったんだ。カタクリから逃げるように大聖堂を後にして、薄暗い路地を歩きながら、色々と溜まっていそうな人間を吟味していた時に、ふと声を掛けられた。

「そこの方、少しばかりよろしいかな」

 随分と畏まった喋り方で驚いたよ。声を聞いただけで、知性的な人なんだろうっていうのがすぐにわかった。そして、そういう人が私みたいなもぐりの娼婦を漁らないことは分かっていたから、余計に驚いたんだ。

 だから、とうとう捕まるのかと思った。私は相手を警察だと思ったんだな。ブリキの兵士だよ。とうとう見つかったんだと思った。

 でも振り返るとさ、そこには怪しい成りをした女が立っていたんだ。

 すらりと背が高くてね、髪型も洒落ていて、女であるのに背広が似合う人だった。しかもその背広の色が真っ赤なのに、一切野暮ったくなく着こなしていたんだ。赤が似合う人っていうのは、後にも先にもその人しか見たことが無かった。

「なんでしょうか」

「少し聞きたいことがあってね」

 そう言うと、女は金持ちそうに宝石で輝かせた指をぽきぽきと鳴らした。

「この辺りで一人、娼婦を探していてね。髪は夜みたいに美しい黒色で、瞳の色は湖よりも澄んだ蒼色。美しく、かつ脆く儚げで、火傷跡を持った灰色の女という噂だ。覚えはないか?」

 女は私の顔や服を見ながら言った。それも薄く笑いながらだ。路地裏が似合わないその人は、もう確信していたんだな。

 彼女が探していたのは、私だった。

 それがわかったから、答えたんだ。

「どうしてその人を探しているんですか」

 すると、彼女はすぐに答えた。

「美しいものには目がないんだ。男も女も、人もブリキも、無機物も有機物も、変わらずに。だからここ数年、ぽつぽつと噂になるもぐりの娼婦というのが気になっていて、ずうっと探しているんだ。それほど美しいのなら、一目見てみたいと思って。偶にその噂を思い出した夜は眠れなくて大変なんだよ」

 妖しい喋り方だったけれど、それがなぜ妖しいかといえば、清潔感に溢れていたからなんだ。彼女の声はあまりにも潔白で、近寄りがたいほどに完璧だった。芝居がかっていたんだ。

「なるほど。しかし、すいません。そんな人には、私は心当たりはありません。どうか他を当たってください」

 断って、踵を返そうとした時だった。

 彼女がずいと歩み寄ってきて、私の手を掴んだんだ。

「いや、知らないなら良いんだ。何せ私は貴女に出会ってしまった。噂に聞く美女とやらよりも、私は今、貴女との出会いに運命を感じている。貴女が知らないというのなら、未練も何もない。今ここで、心から貴女のことが口説ける」

「随分と移り気な方なんですね」

「ああ、本当に美しいものには目が無くてね」

 そうして、彼女は言った。

「今夜一晩、貴女の時間が欲しい」

 その言葉に観念したよ。私みたいな馬鹿じゃ、彼女みたいな本当に頭の良い人は出し抜けないと確信したんだ。だから私は自分の服の裾をつまんで、捲り上げて、彼女にあの火事でできた火傷跡を晒した。

「こんなに醜い肌の娼婦ですけれども、本当に抱いてくださいますか?」

 すると彼女はさ、まじまじと私の腹の火傷跡を見て変態みたいに笑ったんだ。

「勿論。貴女は茶器というものを知っているかな? いや、知らなくてもいいんだがね。本当に良いものっていうのは、火傷跡にすら味があるものだ」

 そうして、彼女は私の手をさらに強く握った。

「一晩と言わず、今後長く、どうだろう。私のモノにならないか? たまらなく貴女が欲しい」

 この言葉を聞いて、私は確信した。

 私はこの女が嫌いだ。

 妖しくていけすかない。金持ちで自信家で恵まれた人生を歩んでいる人間。生まれた瞬間から勝ち組の奴だ。それがわかった。私みたいな、生まれた瞬間の事すらわからず、肉親なんて一人もいなくて、故郷なんて言えるものすらない敗者とは住む世界が違う人間だ。

 だから私はさ、鼻で笑ってやったんだ。

 この女を出し抜きたくなった。

 それだけだった。

「”慧眼”でございますね。趣味が良く、聡明で、貴女様に抱かれるならばどんな人間も悦ぶことでしょう」

 そうして私はぼろ切れみたいな服を脱ぎ捨て、女に裸体を晒した。

 すると彼女はモノが付いた私の股間や、隆起の無い平たい胸を呆けたように口を開けて眺めた。馬鹿みたいに間抜けな面だったよ。可笑しかったねえ。

「貴女様が探していた”噂の美女”とやら……この一晩で何の未練もなく、忘れさせましょう」

 もう私はどうでもよくなったんだ。女の振りをしていれば人間アレルギーが緩和されるような気がして、どこか本当の自分に成れたような、またある意味で重厚な鎧を着込んだ様な安心感があったんだけれども、結局それは大事な時に私を護ってはくれなかった。その鎧の内側には棘がついていて、結局私は傷付くばかりだ。

 彼女は少しして、本能を剥き出しにしたような、興奮した笑みを口の端に零した。

「気に入ったぜ、お前」

 それが私と彼女、”極楽の女主人”との出会いだ。私は初めて人の所有物になった。そうして女主人が元締めをしている、極楽と言われるとある港街の温泉街に連れられた後のことだ。

 まさかそこで、私の生涯で唯一の親友と出会うことになるだなんて、この時は思ってもいなかった。

 運命の相手っていうのは本当にいるんだね。

 まあその人もさ、今はもうどこにもいないんだけど。




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