第13話

 一時間くらい歩いてさ、誰も居ない川辺で、祖母やライチの真似をしてブリキ様に懺悔をした後に、家に戻ろうとしたんだ。

 そうしたら、家まで続く通りの先がなんだか明るいんだな。

 まるで大きな火でも燃えているようで、昼間みたいに煌々としているんだ。特に、夜だってのに何の騒ぎだって言って、通りに人が増えていたのも、本当に昼間みたいだった。

 明らかにおかしかった。

 胸の辺りがざわついた。

 気付けば走り出していたよ。無我夢中だったからあんまり覚えてないけどさ、人ごみと不安に押し潰されそうになりながら、こいつらを搔き分けて走った。体中がびりびり痺れるみたいで、痒みとか寒気がしたのは、人間アレルギーのせいか、嫌な予感のせいかはわからなかった。上手く息が出来なくて苦しかったし、指先が震えていた。頼むから勘違いであってくれと祈った。

 でも勘違いじゃなかったんだ。

 冷たい夜風に飛ばされた火の粉が頬を掠めてさ、熱気ってやつが顔に叩きつけられて、理解するんだ。夜闇よりも黒い煙が蛇みたいにとぐろを巻いていて、奴が吐く息の中には、甘い匂いが混じってやがるんだ。焼けていく菓子の匂いだよ。地獄の窯みたいな燃え様なのに、どうしてか匂いばっかり甘ったるいんだ。だからさ、余計に蟻みたいに野次馬共が集ってきて、本当に気持ち悪くて仕方がなかった。

 燃えていたのは、私たちのパン屋だった。

 茫然としたよ。意味が分からなかった。人ごみの一番前に出て、燃え盛る我が家と相対した時、本当に全身から血の気ってやつが引いていって、その場に崩れ落ちた。こういう時はさ、踏ん張れないんだ。体と精神が全くばらばらになったみたいで、へたり込んだ拍子に膝を強く打ったはずなのに、痛みすら感じないんだな。本当だよ。きっと頬を打たれても、腹を蹴られても、何も感じなかっただろうよ。私だけが水の中に居るみたいで、周りの声とか、光とか、そういったものが全部ぼやけていた。息さえできなかった。

 でもね、そんな状態でもふと気づいたんだ。燃えているうちの前で、何体かのブリキの衛兵がぼろきれみたいなのを着た女を押さえつけていた。ぎゃあぎゃあと喚いていたから、そいつは目立っていたんだ。

 そいつは、悪魔みたいな声で「ざまあみろ」と叫んでいた。

 そいつは、潰れたパン屋の女将だった。

 すぐに悟ったよ。火を放たれたんだ。みんなが寝静まったような夜中に隙を見てさ。でもまあそいつは顔が赤らんでいて、酒に酔っているみたいだったから、計画的なものかはわからない。もしかしたらその街に来たばかりの私みたいに、酒に溺れて、訳が分からなくなってやったのかもしれない。でもそんなのはどうだっていいんだ。まるっきり腑抜けになっていた私でも、そんなババアを見て色んなことを理解した瞬間に、胸の内の辺りがぐらぐらと揺れたのさ。心臓が蘇って、全身にそれまでの遅れを取り戻すみたいに血が駆け巡った。体が熱くなって、あまりの勢いに頭にまで血が昇ったみたいで、エーデルワイスの時とか、ライチの時とかとは比べ物にならないような黒くて狂気的な衝動が私を支配しようとした。獣にでも変じてしまったみたいだったよ。

 人間アレルギーによる反射的なものじゃなくて、私は生まれて初めて、本気で人を傷付けようとした。

 だけれど、そうやってババアに飛び掛かろうと、立ち上がった時だ。

 目の前のさ、私の大切なものを焼き尽くす業火の腹の中から、微かにだけど幼子が喚く声が聞こえたんだ。

 多分その時意識がまともだったなら、聞き間違いとか、空耳だとか、幻聴だと確信できる程度のものだったよ。でもその時の私はまともじゃなかったんだ。弾かれたみたいに家を振り返った。

 ベリルがまだ生きていると思ったんだ。

 助けなければいけないと思った。

 でも肩を掴まれて引き留められた。

「おい、嬢ちゃん、待て、待て、何考えてる。やめろよ。死ぬぞ」

 隣の家の、顔見知りの男だった。彼は燃える家に飛び込もうとしている私を見て、血相を変えて引き留めようとしてくれたんだな。

 でもその時の私は、聞く耳なんか持たなかった。

「離して、離してください……離せよ」

「だからやべえって」

「離せっつってんだろ!」

 だから女の振りも忘れてさ、男みたいに怒鳴ったら、その親切な隣人は面食らったみたいになった。その隙に彼の手を振り払って、私は燃えるドアを蹴破って家に入っていった。

 散々だったよ。部屋の隅から隅まで燃えていて、鮫の口の中にでもいるみたいだった。びっしりと細かくて鋭い歯が敷き詰められているみたいに、どこもかしこも炎が色めいていて、そいつらは容赦なく私の体を焼いた。体全部が炎に咀嚼されてぐちゃぐちゃになりそうだった。

 それでも私は走った。足は止めなかった。息なんて碌に吸えなかったけれど、炎を踏み潰して、階段を駆け上がって行って、すぐの所にある部屋に押し入った。そこがベリルの寝床だった。

 そうしたら案の定、ベリルが部屋の隅の所で泣いていたんだ。生きていた。

 すぐに彼女の所に駈け寄って行って、抱き上げたよ。ベリルは何が何だか分かっていないみたいでさ、ろくに泣かない賢い子だったのに、その時はものすごく喚いて暴れた。腹や胸を蹴られたよ。

 でもそんなのはどうだっていいんだ。生きていただけで奇跡だ。宥める時間なんてあるはずもなかったし、ベリルを抱えたまま、すぐに部屋を出ようとした。

 次は旦那と奥さんだ。きっと生きてる、絶対助けられる。そんなことを思っていたよ。

 だがそうはいかなかった。天井が崩れてきて、扉が潰れたんだ。それに家自体が今にも傾いて、倒れてしまいそうな具合だった。悠長になんてしていられなかった。

 迷ったよ。現実を叩きつけられた。燃える家の中でさ、ろくに息もできないで、体を焼かれて、泣き喚く幼子を抱えたまま、私は命の恩人たちの死を受け入れなければならなかった。

 悲しみと、無力感と、葛藤があった。だってこんなのただの理不尽じゃないか。そんな泣き言が脳裏をよぎって、私も喚きたくなった。なんでこんなことになったんだって現実逃避をしたかった。

 でも本当に、そんな暇はなかったんだ。そうやって迷えたのは浅い一息の間だけだった。

「ごめんなさい」

 ベリルを一層強く抱き直しながら、私は言った。

 そうして肩から窓に突っ込んで、硝子を割って、二階から飛び降りたんだ。

 落ちた先は人が集まってる表通りじゃなくて、狭い裏路地だった。火が及ぶかもしれないそんなところに野次馬はいなくて、私はベリルを守るために、背中から落ちたよ。

 痛みに呻いて、外のまっさらな空気に噎せたね。ベリルを地面に下ろした後は体を丸めて苦悶した。その落下の痛みや肺の消耗だけじゃなくて、私は全身を炎に咬まれていたから、堪えようのない痛みや苦しさで気が変になってしまいそうだった。

 だがそんなでも顔を上げたよ。強くなっていく火の手を見上げた。時間が止まったみたいだった。表通りの喧噪も遠くて、裏路地は静かでさ、泥沼に沈んでいるみたいに暗くて寒かった。そんな中でベリルが隣で泣き喚いていて、目の前には天罰みたいな業火に包まれた家があった。

 本当に、もう眺めることしかできなかった。

 一歩も動けなかったし、叫ぶ力さえ残っていなかった。柱が炭になって、家が大きく崩れて、瓦礫の山のようになった時にようやく消化が始まった。家だったものにかけられた水が砕けて、霧になって、空から降ってきた。きらきらしていた。それが目に染みた。そして私の中の、大事な何かが急速に熱を失っていくのがわかった。燃え尽きて、肉体が灰になっていくみたいだった。

 そうして見上げている先には、家が崩れたから、夜空が見えたよ。

 前にさ、私にとっての幸せってやつは、星みたいだって書いたことを君は覚えているかな。

 私にとっては、世間様方が当たり前だと思う普通の暮らしが幸せなんだ。お腹いっぱいに食べてさ、心を許せる人と時間を共有して、良く働いて、良く寝るんだ。そんなことが出来るってだけで、どれだけ幸せかだなんて、私はよくわかっていた。

 だから最初、絶望したんだ。そんな星の数ほどのありふれた当たり前さえ、私には遠い所にあって手が届かないものだと理解できてしまったから。

 でも奇跡みたいにさ、そんな当たり前の日常が手に入ったかと思えば、これだ。私の星は燃えてしまった。どれだけ手を焼いて当たり前を手に入れたとしても、それは灰を握ったみたいに指の隙間から滑り落ちていった。

 私はまた、口にした。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 うわ言だったよ。何度も繰り返した。そんなことをしたってどうにもならないのは分かっていたけれど、そのくらいしかできなかった。旦那と、奥さんと、家に謝った。

 こんなことになったのは、私のせいだって思ったんだ。これはね、自惚れじゃないよ。事実だ。そりゃあ私はさ、助けてもらったパン屋の為に身を粉にしたさ。特にそれは、新しく生まれてくる子供、ベリルに幸せに育ってほしかったからだ。私とは違ってあんなに立派な両親がいるんだから、彼女は幸せになれたはずなんだ。

 でも、燃えていく家を見て、そして隣で泣き喚くベリルの声を聞いて、身に染みたんだ。

 結局彼女も独りになってしまった。

 少なくとも、私が居なければそんなことにはならなかったと、今でも思うんだな。

 後悔することばかりだ。私が自暴自棄にならずにちゃんとしていれば、旦那と奥さんに助けられることもなかっただろう。助けられたとしても、最初に思っていた通り、すぐに出て行っていれば、二人は死ぬことはなかっただろう。もしそれでパン屋としてどうにもならなくなって、店を畳むことになったとしても、あの二人ならベリルの為の苦労は惜しまなかったはずだ。貧乏でも、家族三人で生きていけたんだ。

 私が居たから、私が出しゃばったから、二人は死んだんだ。

 だから私はまた逃げようとした。エーデルワイスや、ライチの時と同じだ。結局私は逃げてばかりだ。耐えられなくなって故郷を飛び出して、ライチとは分かり合えないと諦めた。ベリルを何処か、それこそ親切な隣人のところか、遠い所に隠居している先代の所に預けて、独りになろうとした。

 私みたいな悪魔は、もう二度と人と関わらずに生きるべきだとさえ思った。

 そう、悪魔だ。私は人ではないんだ。人間アレルギーなんていう馬鹿げた体質がその証拠だ。私は純粋に人と交われないんだ。私は孤独を宿命づけられているんだ。

 でもそう思った途端、怖くなったんだな。独りになってどうするんだって考えた。人と関わらないで、一人で何をして生きるんだ。もし毎日それなりの飯を食えて、それなりの寝床で寝られたとしても、途方もない死ぬまでの時間を、たった一人きりで何に使うんだ。

 そこまでして生きる意味があるのか。

 そんなことをぼうっと、消火されていく家の傍で思っていた時だ。

 指先に小さな温もりが触れた。

 ベリルが私の指を握っていた。

 そして、彼女は言ったんだ。

「おねえちゃん」

 拙い発音だった。泣き疲れて、かわいい顔をぐしゃぐしゃにしていて、酷く不安そうな表情だ。縋りつくみたいに、ベリルは私の指先を掴んでいた。

 同時に、喉の奥の方から”気持ち悪さ”がこみ上げてきた。

 人間アレルギーだ。

 本当にふざけてる。

 でもベリルにおねえちゃんだなんて呼ばれたなら、あの家族の一人としては、返事をしないわけにはいかない。

「大丈夫だよ、ベリル。大丈夫」

 考えるよりも先に口が動いていた。ほんの少し前まで現実に打ちひしがれて、何もかもから逃げようとしていたのに、いざベリルを見るとそんな考えは消えていった。

 私が生きる意味は、そこにあった。

 震える体でも堪えながら、ベリルを抱きしめて、言った。

「おねえちゃんが頑張るから、大丈夫」

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