第12話
こうして私は、まあ正式にって言ったら少し違うけれども、ちゃんとパン屋の家族の一員になってさ、しばらくは言われたとおりに休んでいたんだ。と言っても週に何度かは看板娘はやっていたし、一応毎日掃除とか皿洗いなんていう簡単な雑用はやっていたよ。正直さ、いざいきなり休めだなんて言われても、何をすればいいかわからなかったんだ。だからぼちぼちパン屋の手伝いをしていた。
そして、空いた時間には色々なことをしたな。服飾自体は好きだったから色々試してみたし、勉強もやった。読み書きとかさ、日常生活に使う金勘定みたいなのは、ずっと仕事をしてたり、祖母やライチに習ってたから出来てはいたんだけれど、歴史や芸術みたいなものにまでは手が回っていなかったんだ。
特に私は、諦めてしまったわけだけれど、元々は僧侶になりたいと思っていたからね。ブリキ様についての歴史に興味があったんだ。そしてブリキ様の歴史を知るためには、歌や絵や文学みたいな芸術が、歴史と密接にかかわっていることが分かって、そこらへんも学びたいと思ったわけだ。
でもパン屋にあった本は、こういっちゃなんだけど、そこまでちゃんとしたものじゃなかったんだな。子供が生まれるってことで、ご近所さんとかがくれたお古の絵本とか、奇天烈な、嘘か本当かもわかんないような怪物の挿絵が入った世界地図ばかりさ。だから最初はそんなのを読んでいたんだけれど、少しして、ちゃんと勉強してみたいと思ったわけさ。
そうして私が悶々としていると、旦那がある日街の図書館に連れて行ってくれたんだ。実を言うと旦那は結構学がある方だったんだな。昔は首都で塾に通っていたらしいんだ。でもある日旅行でその街に立ち寄った時、偶然出会った奥さんに一目惚れして、彼女を振り向かせるために学問を放り出してパンの勉強を始めたようなんだ。というのも、実は旦那はあのパン屋の二代目で、先代は奥さんの両親だったのさ。ただ先代の主人が階段で転んで腰をやってしまって、先代の女将、奥さんのお母さんがこれの介護をするために店を離れなくちゃいけなくなって、そこに旦那が飛びついたって馴れ初めだ。
だから旦那は、最初は素人に毛が生えた程度で、全然美味いパンが焼けなかったらしい。でも店もやらなきゃいけないし、初めて住む街だしで、てんてこ舞いになって大変だったって笑って話してくれたよ。そしてそんな時、年下女房の奥さんが気張って尻を叩いてくれて、店の切り盛りをしてくれて、また気合が入ったとか。そもそもプロポーズの時も、緊張しすぎた旦那に奥さんがしびれを切らして、旦那のポケットから婚約指輪を勝手に取り出して指につけた、みたいな話を沢山聞かされた。彼はさ、私が男だとわかってから、息子のように面倒を見てくれた。私が十六か十七の誕生日には、二人でこっそり酒を飲んで、でも楽しくなっちゃって、騒いでたら赤ん坊が泣いちゃって、怒った奥さんに朝まで二人で外に叩き出されたりしたな。朝まで二人で、薄暗い路地で笑っていた。
そう、この赤ん坊だけれど、奥さんと旦那さんは彼女に幸せという意味の名を授けた。可愛らしくてさ、ぴったりな名前だと思ったよ。
でもやっぱり私にはその名を呼ぶ資格はないから、ここでは彼女のことをベリルと呼ぶことにする。
ベリルは人懐っこくて、無邪気な子だった。ご近所さんたちにも愛想が良くて、他人に抱かれても笑ってばかりだった。正直に言うと、もうパン屋の看板娘は私じゃなくてベリルだったね。あの可愛さには敵わないよ。誰もがめろめろになっていた。私もその一人さ。旦那に教えてもらった図書館でやる勉強と、息抜きの服飾の合間に、暇さえあればベリルと遊んでいた。まだ彼女は首が据わったばかりなのに賢かったんだ。パン屋にあったお古の絵本を読み聞かせてやると、ちゃんと笑う所で笑うし、悲しい所で悲しむんだ。物語の筋ってやつがその年にして理解できていたんだな。それを見て私と奥さんは、ベリルは将来天才になるに違いないだなんて毎日はしゃいでいたさ。
まあこんなのが、パン屋での私の幸せな日常だ。
旦那とはそのパン屋の歴史や、蛤みたいにお似合いな夫婦の話や、学問の話をして、偶には一緒に奥さんに怒られて。
奥さんとはベリルのことで毎日一緒に親ばかみたいになって、偶には一緒にベリルの為の服を縫ってやったりとか、遊び道具を作ってやったりして。
ベリルとは暇さえあればずっと一緒に居て、遊んだり、甘えられたりで骨抜きにされて。
そんな日々が、ベリルが生まれてから三年程続いた時だ。
私が十八になって少ししたある時ね、小さな噂を聞いたのさ
首都から転じてきたパン屋が潰れた、という噂だよ。
というのもうちのパン屋は、その頃には更に大きくなっていたんだ。旦那には弟子が数人居たし、奥さんの他にもう一人若い給仕が働いていた。前に旦那が新しいパンの開発を始めたって書いたと思うけれど、彼はやればなんでもできる人だったからね。いつの間にかパンだけじゃなくて、菓子とかケーキも作り始めて、なんなら私がライチに習った別の地方の料理なんかも工夫して取り入れて、それが結構街の名物にまでなっていたんだ。だから他所から街に立ち寄った旅人が、「ここが噂の店か」だなんて言って、パンを買っていくこともあったよ。まあその噂ってやつは二つあったけどね。旦那のパンか、もしくは百年に一人の看板娘か、なんてやつさ。中にはパンじゃなくて、私を見に来る客も居たんだ。そんな輩は、大体奥さんが上手くパンを売りつけながら追い返してくれたけどね。
こんなだからさ、いつの間にかもう長いこと、商売敵の首都のパン屋の話はとんと聞かなくなっていたのさ。
そしてある日、ふとした時に、客の一人が言ったんだ。
「いやぁ、向こうの通りのさ、何年か前に首都から来たパン屋が、しばらく前に潰れちまったろ? だからもう本当に、美味いパンって言ったらここしかなくてよ」
丁度その時は私が店の手伝いをしていたからさ、なんだかその言葉が胸にちくちくと刺さった気がして、つい聞き返したんだ。
「潰れたって……本当に?」
「なんだ、知らねえのか。なんか向こうのパン屋の旦那が病気になっちまったみてぇでな。それもなんだか風邪でもねぇみてぇで、結局そのまま死んじまって、どうしようもなくなったって話だ」
その話を聞いた瞬間に、本当に卑しい話だけど、私はほっとしたんだ。
なんでかって言うとね、向こうのパン屋が潰れたのが自分のせいじゃないってわかったからだな。
さっき客の言葉が胸にちくちくと刺さった気がして、と書いただろう。これはさ、罪悪感だったんだ。
私はそりゃ当然、私を助けてくれたパン屋のために身を削りながら働いた。三人で頑張って、経営を盛り返して、その頃には全員のおかげで店は先代よりもずっと大きくなった。大成功さ。
でもさ、それは別に相手を潰してやろうとか、不幸にしてやろうとか、そういう気合でやってたわけじゃないんだな。子供らしい話だけど、本当に純粋に、出来ることを頑張ってやってただけだ。
その結果、もしかしたら最初の旦那や奥さんみたいにさ、向こうの経営が圧迫されて、成り立たなくなって、向こうが苦しむって想像はできなかった。そら考えればわかっただろうけど、気が回らなかったんだ。
だからふと向こうのパン屋が潰れたって聞いた時に、自惚れだけどさ、自分たちのせいだと思ったんだ。そして勝手に罪の意識に苛まれた。私は十八だったけれど、まだガキだよ。甘ちゃんさ。
生きるっていうことは、そういうことなのにね。
でも潰れた理由がそういう経緯じゃなくて、向こうの主人が病に倒れたからだとわかったから、反射的に安心したのさ。
私たちは悪くない。
私は悪くない。
本当にとんだ罪人さ、私は。
人の訃報を聞いて安堵するだなんて、自分自身に嫌気が差す。
それがね、その時もすぐにわかったから、落ち込んだね。自分がなんて罰当たりで、卑しくて、浅はかな奴かが骨身に染みた。少しの間反省したくなったんだな。だからその日の晩は眠れなくて、夜風に当たりに散歩に出たんだ。
もし君の勘が良ければ、これから何が起こるかはわかるかな。
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