第11話

 その日の事は鮮明に覚えている。矛盾しているようだけどさ、全てが一瞬なようでいて、でも一秒が途方もなく長かった。いつも通り早朝に、パン屋らしく開店準備をしていたら、カウンターに座っていた奥さんが急に産気づいたんだ。この時には流石の旦那もいつも通りにおっとりなんかできなかった。手足が短くてころころとした体型で、坂道を転げるように走って行って、寝ている医者と助産師を叩き起こしてきた。手足が短いと言っても、旦那は背が高かったからね。それに力もあった。戻ってきた時には両脇にパジャマ姿の爺さんや婆さんたちを抱えて、顔を真っ赤にして玉汗を掻いていた。普段は見る人によっては鈍間だとか、ぼんやりしてるだなんて言われるけれど、旦那は本当に肝心な時にはいつも頼りになるんだな。ぱっと見じゃ良さが分かりにくいけれど、長く見てたら誰でも彼の良さがわかるような、優しい人ってわけさ。

 そんな旦那に比べてさ、恥ずかしい話だけれど、この時の私はてんで使い物にはならなかった。旦那に連れてこられた医者や助産師たちが、すぐに気を入れ直して、湯を張ったり、布を用意するためにどたばたしてる横で、私は目を回していたんだ。寝惚けていたわけじゃなかったんだけど、新たな命が生まれる瞬間ってのは、その時の未熟すぎる私にしてみれば動揺するしかない大事だった。

 特に命ってやつは生まれた瞬間が一番無防備だ。純粋で、弱くて、そして尊い。赤ん坊を床にでもおっことしたら、鶏卵より簡単にその命は割れてしまうだろう。人間としては生まれた瞬間が体重的には一番軽いんだろうけど、赤ん坊以上に重いものを私は抱えたことがないね。本当だよ。

 そうしてどたばたしながらも、ちゃんと安全に、健康に生まれてくれた赤ん坊を奥さんと旦那が泣きながら抱いて、口づけした後に、当然みたいに私にも抱かせてくれたんだ。最初は遠慮しちゃったけど、でもその時さ、二人は私のことを「もう家族の一員だ」って言ってくれた。

 だから赤ん坊を抱いた瞬間に、私も彼女と同じくらい泣いちまったな。そう、この赤ん坊ってのは可愛らしい女の子だった。甲高い声で、元気よく泣いたよ。

 そうしてさ、同時に思ったのさ。

 そろそろ、出て行った方がいいんじゃないかってね。

 というのもさ、やっぱり私は二人に自分が男であることは話しちゃいなかった。最初はすぐに出ていくつもりで、ずるずるそれを先延ばしにしてきただけだったから、言い出すタイミングを失ってたんだ。そしてライチのこともあったから、いつかはちゃんと、自分から言わなきゃとも思っていた。

 それがこの時だった。「もう家族の一員だ」なんて言ってもらってからそんなことを打ち明けるのは卑怯だとも思うよ。だからもし軽蔑されたら、それを甘んじて受け入れて、出ていくつもりだった。それにもしそうなってもさ、奥さんも出産をして店に戻る目途が立ったし、旦那が頑張ったおかげでパン屋自体も大きくなってたから、もうその頃には私が客寄せなんかしなくても十分だったんだ。むしろ奥さんが戻ってくるなら、私はすることがなくなるくらいだった。それに私としてもさ、奥さんが出産して、緊張の糸ってやつが切れてしまって、体にがたが出始めていたんだ。

 人間アレルギーだよ。毎日自分から人に話しかけて、客寄せになるだなんて、私からすれば自傷行為だった。夏でもわざわざ長い袖やスカートを履いていたんだけどさ、これは勿論女装の為ってのもあるけど、一番は人間アレルギーのせいで蕁麻疹や痣だらけになった肌を隠すためだった。私も結構限界だったんだ。アレルギーは体質的なものだから、我慢なんて出来るものじゃないんだよ。

 だからさ、そんな出産の日から数日して、色々落ち着いてきた辺りの夜に、二人に全部打ち明けたんだ。

 自分が男だってことだけじゃない。そもそも両親に会った事すらなくて、故郷で祖母と二人で暮らしていたところから、虐められたり、犯されたりしたことも話した。そこから祖母が死んで、故郷を飛び出して、夜の町で男相手に娼婦じみたことまでしていたことも、ライチとの生活も全部話した。その後自暴自棄になって、二人に助けられなければ腐って泥にでもなっていただろうってことまで、ちゃんとだ。自分がいかに卑しくて、おかしなやつで、本当は人とまともに接することすらも厳しいって伝えたよ。

 するとね、旦那は悲しんでくれて、奥さんは怒ってくれた。旦那は「大変だったな」だなんて深く理解してくれて、奥さんは「なんて野郎共だ」って私の両親や、私を虐めたり犯したりした奴らに憤った。

 二人とも当たり前みたいに、私に同情してくれて、私を護ろうとしてくれた。

 そして、「でももう大丈夫」って言ってくれたんだ。

「あんたさえ良ければ、このままうちで暮らせばいい。仕事も偶に手伝ってくれれば、それでいいよ。十分働いてもらったからね、まずはたっぷり休むんだ。今まで頑張ってくれてありがとうね」

 こうして理解してもらってさ、少しだけ大人になれた気がしたんだな。

 まああくまでも気がしただけさ。ちょこっと背が伸びただけだよ。でもこの十五くらいの歳の成長っていうのは馬鹿に出来ないと思うんだ。ライチと分かり合えずに決別してしまってさ、それがずっと心残りだった。あれだけ優しくて聡明だったライチとすらすれ違ってしまったんだから、もう自分は誰とも分かり合えないんじゃないかって思っていた。でも、ちゃんと自分で行動してさ、ちゃんと話したら、旦那も奥さんも話を聞いてくれたんだ。

 この日が、私が人生で初めて成功した日、と言えるだろうね。

 そして、人生で一番充実した日だったとも、間違いなく言える。

 年寄りクサいけどさ、この十五の時から十年弱経った今だから、わかるよ。


 この頃は、楽しかった。





 

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