第10話
といっても、私は本当はそんなに長く働くつもりはなかったんだよ。むしろただ一食一晩の恩を返せれば、すぐに後を濁さずに出ていくつもりだった。いくらなんでも厄介になり過ぎて、余計な食い扶持を増やすわけにもいかないだろう。
でもさ、手伝いを始めて分かったんだけれど、どうにもそのパン屋は結構”危ない”状態だったんだ。
どうやらその街には、いくらか前に首都から転じてきた新しいパン屋が出来たみたいでね。いわゆる商売敵さ。都会らしい洒落たものや、珍しいものや、美味いものを沢山取り扱っていて、夫婦二人でやってるだけの小さなパン屋からは客足が遠のき始めていたんだ。
でも子供がもう奥さんの腹にいるから、なんとかしなきゃいけないって、二人は頑張っていたんだな。
そんな状態で、ろくに余裕もないのに私を助けてくれたんだ。
働き始めて数日くらいしてそんなことがわかってきた時には、私もなんとかできないだろうかって考えた。すぐに出ていくつもりだったのに、死にそうな自分を救ってくれた相手もまた厳しい状況となれば、何かしなければって思ったんだ。
だけどやっぱり、どうすればいいかはわからなかった。
いいや、本当は一つだけ思いついていたんだけどね、踏ん切りがつかなかったんだ。
ライチと決別したことと、頭のおかしい野郎に執着されて襲われそうになったことを思い出すと、あんまり”女性として目立ちたくはなかった”んだな。
しかしさ、私がそうやってパン屋で掃除とか、皿洗いとか、身重な奥さんには堪えるような適当な裏方雑用をして一週間くらい経った頃の夜だよ。旦那が一階の店で翌朝の仕込みをしていて、奥さんが二階の寝室に一人で居る時に、偶然戸の隙間から彼女の事が見えたんだ。
いつもは豪快で勇ましくて優しい彼女がさ、沈痛な顔をして静かに腹をさすっていた。
痛々しくて見ていられなかった。
彼女はさ、パン屋の気立ての良い女将である前に、もう一人の母親だったんだ。私はその時、初めてそういう、生々しい”母”という存在を肉視した。その途端に、ものすごく胸の所が締め付けられたんだ。
羨ましくなったんだな、お腹の子が。
だって私にはそんな母というものさえいないんだ。会ったことすらも、話したことすらもない。顔さえ知らない。ましてや、母が本当は私のことをどう思っていたのかも、どんな経緯で私が生まれたのかも知らない。父親なんて影の形すらわからない。
だからその時になってさ、苦しくなったんだ。祖母の今際の時に、彼女の言葉を遮って母の話を聞かなかったことを悔いた。間違いを犯したと思った。
私がどこで、どうやって生まれたかは、祖母が死んだ今、きっと永遠にわからない。そう実感した。私はどこの誰でもなくて、この世界のどこにも居場所がないようなさ、広大過ぎる世界ってやつに一人で迷い込んだ犬や猫みたいだなんて思ったよ。
自分がどこで、誰と誰の間で、どういった理由があって産まれたかもわからないってさ、大人になればなるほど堪えるよ。積み上がっていく人生の基盤がぬかるんでいるんだ。大人になって、きついことが増えてきて踏ん張ろうとした時に、足元が昏くてよく見えないんだ。自分が何処にいるのかも急にわからなくなる時があるんだ。
私の命の意味がわからなくなるんだ。
まあこんなことはさ、考えても意味がないよ。だってどうせもうわからないんだから。君はそう言うかもしれない。私だってそうわかっているつもりで、まあこの十四の頃に比べたら、今はある程度折り合いの付け方ってのは学んだと思うよ。
でも本当にふとした時、例えば酒に酔った時とか、悪夢を見て夜中に目が覚めた時とか、大事な人を失った時とかに、本当にわからなくなるんだ。
どれだけ目を逸らそうとしたところで、現実からは逃げられないんだ。
だから私はそんな奥さんの姿を見てさ、もうなりふり構わなかった。その時から寝ないでミシン部屋に籠もって、朝を迎えた。
そして奥さんや旦那が起きてきて、何をしてるんだって聞かれた時に、私はその晩のうちに繕った”髪飾り”を見せたんだ。
経営危機に陥っているパン屋の為に私が一つだけ思いついていたできることっていうのは、自分をとにかく着飾って客寄せをするっていうことだった。
それくらいしか思い浮かばなかったんだ。色々年の割に仕事をしてきたとはいえ、あくまでも齧った程度さ。パンの事や商売の事なんて私よりも二人の方が何倍もわかっている。
だから私にできることって考えたら、女みたいな顔を使うことしか思い浮かばなかった。
自分の容姿は正直に言えば大嫌いだったよ。そのおかげで女の振りをすることができて、人間アレルギーへの対策もできていたわけだけれど、そもそも対策をしなきゃいけないのは何もしなくても変な輩が蠅みたいに近付いてきたからだ。故郷でのことを思い出しておくれよ。私はただ真面目に仕事をしていただけなのに、この顔のせいで大人に犯され、他のいじめられっ子たちからも贔屓されてるだなんて言われた。
まあこんなことを改めて言葉にするとさ、確かに気取ってるって言われても仕方がないと思うよ。でもそんなの私の知ったことじゃない。
私の全部は、私のものだ。
私がどうしたって勝手だろ?
特に幸いなことに、私には口喧しく何かを言ってくる親なんて居ないからね。
それから私はとにかく華美で洒落た装飾品を手作りしていった。出ていくつもりだったから、その時の為に残しておいた多少の金も全部使って綺麗な服を買って、それも自分で刺繍やなんかを入れて飾り付けた。昼は奥さんの代わりに肉体労働をしながら、夜は寝ずに服飾を続けた。
そしてまた一週間くらいしてからさ、ようやく出来た看板娘の制服を着て、奥さんを説得して店先に立って客の呼び込みをしたよ。
結果は、もう面白いくらいの盛況だった。若い男衆からは惚れられて、女たちからは服の刺繍や小物の作り方みたいなのを矢継ぎ早に訊かれた。そんなにたくさんの人に囲まれたら、いくら女の振りをしていても人間アレルギーがきつかったけれど、合間を見てドブに吐きながらでも客寄せを続けたよ。何度倒れそうになったかは覚えていない。
でもそれだけのことをしたのは、奥さんや旦那もそうだけどさ、何よりも新しく生まれてくる子供に幸せになってほしかったからなんだ。私みたいにおかしな産まれ方をせずに、せっかく愛と勇気がある夫婦のところに命を授かったんだから、疑う余地もないくらいの祝福の中で生まれて欲しかった。お金の事とか、暮らすところとか、食べるものとか、そういう一切を気に掛けないで幸せになってほしかった。
少なくとも、私はそうなりたかったからね。
そうして数か月もすると、そのパン屋は勢いを取り戻したよ。稼げたから旦那も新しいパンの開発とか、色んな材料を仕入れることが出来るようになって、都会から来た商売敵に負けないように色んなパンを作り続けた。奥さんは流石にお腹の子も大きくなって、あんまり働けなくなっていたけれど、その分私が金勘定も何もかもやった。そうしたら奥さんは逆に、私に裁縫を教えて欲しいって言ってきたんだ。動けないなら、動けないなりにやれることをやるって言いだして、私が客の興味を引くために作り続けているものを代わりに仕上げてくれるようになった。それまで裁縫なんて柄じゃないから殆どしたことないって言っていたのに、真剣にやってくれたんだ。
三人で、必死に頑張った。
十五歳の誕生日は、いつの間にか過ぎていた。
そうして、奥さんが出産した。
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