第9話

 まあさ、本当は少しばかりブツを吸った時のことは覚えているけど、あんなものわざわざ書くようなものでもないからね。とんでもなく最悪な体験だったとだけ言っておくよ。君は絶対にやらないでね。

 話を戻すと、その部屋ってやつは存外に質素だったんだな。物があんまりなくて、壁にはカーテンと窓以外何もなかったし、無駄にでかいおんぼろな本棚には半分も本が入っていなかった。机もあったけれど、その上には何も置かれてなくて、引き出しなんて大層なものは付いていなかった。

 でもさ、よく掃除はされていたんだ。それになんだかおいしそうな香ばしい匂いがしてたから、不安になるというよりも、変な居心地の良さを覚えた。なんなら、そのまま二度寝でもしてしまえそうなくらいだったね。幻覚でも見ているみたいだったよ。

 だからしばらく迷ってね、結局二度寝はせずにベッドから降りたんだ。ゆっくり音を立てないように部屋の中をつま先で歩いてさ、扉に手をかけたら、まあ当たり前みたいに鍵なんか掛かっちゃいなくて、簡単に部屋を出られた。

 そうしたら香ばしい匂いは更に強くなってね、その出所が部屋の扉の前にあった廊下の先の、階段の下からだとわかった。思わず腹が鳴ったよ。

 だから恐れつつもさ、階段の下に向かったんだ。体は酷く重たくてだるかったけれど、まあそれくらいはできた。そして階段を下りていると、話し声がしたんだ。

 耳を澄ませたら、それはどうやら男と女のものだった。しかも随分親し気な話し方なんだ。

 もしかしたら君はさ、この時の私みたいに、変な薬をやってぶっ倒れたところを、あの悪い奴らに攫われたんじゃないかって思っているかもしれないけど、違うんだな。

 私は助けられたのさ。

 階段を下りた先は店だった。パン屋だよ。窓の外は白んでいてね、すぐに早朝だとわかった。そんな時間からせっせと柔和そうな主人と、腹の膨らんだ奥さんが働いていたんだ。

 先に私に気付いたのは奥さんだった。

「あら、目が覚めたんだね」

 彼女は私を見ると、顔をくしゃくしゃにして笑ったんだ。腹が膨らんだ妊婦さんだったのに、ものすごく元気で力強かった。いや、逆に子が出来ていたからこそ逞しく、美しくなっていたのかもしれない。彼女はそんな人だった。

 そして、彼女はすぐに店の裏に引っ込んでいた旦那に言ったんだ。

「ちょっとあんた! 昨日の残りのやつ持ってきとくれ! あの子起きたよ!」

 すると間延びした、おっとりとした「おーう」なんていう返事があって、旦那が顔を出したんだ。人の良さそうな丸顔で、高い背丈の割には手足が短い、ころころした体型だった。一目でこの人は優しいんだろうなと確信したよ。

 そして彼は奥さんに言われた、昨日の残りのやつ、を盆に乗せて持っていた。売れ残りのパンだ。彼はそれを店の端のテーブルにおいて、私に食べるように促しながら聞いてきた。

「体調はどうだい? 店の目の前で倒れてたからびっくりしたよ」

 どうやら私は酒に酔いながら薬をやったせいで、わけがわからなくなって、いつの間にかそのパン屋の前でぶっ倒れていたらしいんだ。そんな話を聞いて、私は焦ったよ。

「ご、ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました」

 借りてきた猫みたいに遠慮しちゃってさ、出された余りもののパンにも手を伸ばせなかった。

 すると今度はカウンターを布巾で拭いながら、奥さんが言ったんだ。

「子供が何遠慮してるんだい。朝は忙しいんだから、さっさと食べとくれよ。洗い物もしなきゃいけないんだから!」

 そうやって急かされて食べたパンは、まあ正直に言うと、あんまり美味しくはなかったよ。一日前の余りものだし、硬くなってたからね。

 でも全部食べた時の満足感は凄かった。そもそもさ、私はこの頃空虚で慢性的に満腹になっていたから、あんまり飯を食べてなかったわけだけど、奥さんや旦那さんがせっせか働いているのをぼんやり見ていると、その空虚さも多少楽になったんだ。

 結局さ、私は寂しかったんだな。私は人間アレルギーなだけで、人間嫌いじゃないって前書いたけど、本当にそうなんだ。私は親友に言わせれば、一人でいるとどんどん悪い方向に思い詰めるみたいでね。そんな悪い思いっていう孤独で空虚なやつを胸に詰めてたから飯が入らなかったわけだけれど、久しぶりに安心できる家の中で、信頼できそうな人たちの傍に居たら、寂しさとか辛さが楽になって、硬いパンが喉を通ったのさ。

 だけれどもそこからどうすればいいかはわからなかった。

 そう、どうすればいいかがわからなかったんだ。私自身がどうしたいかはわかっていたけれど、どうやってそれを実行すればいいかわからなかった。

 二人に恩を返したいと思ったのさ。それも実を言うと動機はとても卑しくてね、この頃の私はもう自暴自棄になっちゃって、色んなことを投げ出したくなっていたっていうのはさっき書いたから君もわかるだろう。

 だから心のどこかでさ、助けられちまったのか、って思ったんだな。

 だってさ、私は破滅をしたかったんだ。身も心もずたずたに引き裂かれて犬に食われたかった。もう泥になってしまいたかった。そのために酒や煙草や、薬に手を伸ばした。

 これを不意にされたわけさ。本当に今覚えばとんだ馬鹿で恥知らずだとも思うけれど、助けられたこと自体を、余計なこととすら思ったわけだ。

 だから恩返しをしたかった。もしそのままただ二人に礼を言ってパン屋を出たとしてさ、結局私が野垂れ死んじまったら、あの二人は自分たちの好意は無駄だったと思ってしまうかもしれない。そうしたら二人は優しくなくなるって思ったんだ。それはさ、忍びなかった。私は自分ならいくらでも捨てたいと思ったけれど、人の足を引っ張りたくはなかった。

 私はもう何の葛藤もなく腐敗に身を委ねたかったんだ。

 そんな意味でさ、恩を借りっぱなしってのは嫌だったから、最悪なことだけど、手っ取り早く清算をしようと思ったんだ。

「ご馳走様でした。お礼に何かできることはありませんか。どぶ掃除でも、使いっ走りでも、なんでもやります」

 私が尋ねたのは奥さんだった。少し見ていただけでも、そのパン屋を切り盛りしているのは旦那じゃなくて奥さんだってわかったからね。あくまでも旦那は職人でさ、本当に柔和で優しいんだけど、寡黙なんだな。静かに熱心に、丁寧にパンを焼いているんだ。

 奥さんは答えた。

「子供がそんな一丁前な”ふり”をするもんじゃないよ。飯を食っても、まだ体は重いんだろう。上で一日休んでおきなよ」

「いえ、体が重いということなら、それこそ助けて頂いた奥さんをおいて、自分だけ休むなんてできません」

 というのも、奥さんは妊娠していたからね。一目でわかるくらい腹が膨らんでいたんだ。彼女はてきぱきと元気に働いていたけど、合間でカウンターや戸棚に手をついて一息ついてるのを私は見逃さなかった。

「まだ未熟な子供ではありますが、これでも沢山の仕事をしてきました。手先も器用で、ミシンも使えます。刺繍も裁縫も、なんでもできます」

 私もまあ、ずっと遊んで生きていたわけじゃないからね。むしろさ、故郷では金を稼がなきゃいけなかったから三つも仕事を掛け持ちしていたし、ライチのとこでは彼に紹介してもらった色んな仕事をしていた。だから出来ることも結構あったんだ。

「でもねぇ」

 私が譲らずにいると、奥さんは唇を噛んで考えた。

 先に言っておくとさ、彼女は本当に美しくて勇敢な人なんだ。でもね、少し優しすぎるんだよ。自分の子供が出来たから余計に、他の子供ってやつに対しても甘くなっちゃってるんだ。だから私も子供だと言って、渋ったんだ。

 そこで奥から話を聞いていた旦那が出てきて言った。

「まあまあ、そういうことなら手伝ってもらおうよ。お腹の子の為にも、君が頑張り過ぎるのも良くないよ」

 朗らかで包み込むような言い方だった。するとさ、渋っていたはずの奥さんはころっと簡単に頷いたんだ。

「あんたが言うならわかったよ。それじゃあ頼めるかい?」

 こうして私は、そのパン屋で働くことになったんだ。

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