第8話

 まあこんなのが、大体私が十四歳くらいの時だな。結局その後さ、私は港町には行かなかったよ。ライチが書いてくれた紹介状を鞄の底に押し込んでさ、ただぼうっと汽車に揺られていた。地平線が霞む位広い平原の真ん中をゆっくりと進む汽車だ。海にすら向かおうとは思わなかった。正直な話をすると、この時の私が何を思っていたのかも、あんまり覚えていないんだな。胸の奥のところに酷い空虚があったのはわかるんだけどね。穴が開いているみたいだった。しかし、空虚がある、だなんて我ながらおかしい言葉だと思うね。

 でもあながち間違いでもないと思うんだ。君はどうだろう。虚しさや希薄さでいっぱいいっぱいになったことはあるかな。お腹は空いてるはずなのに、虚しさで満腹になっちゃって、何故か食べ物が喉を通らないんだ。

 ああ、勿論わからなくても何も問題はないよ。むしろわかる方が問題さ。こんなことに共感なんかしないでおくれよ。君には幸せでいて欲しいからね。

 お腹いっぱいに食べてさ、心を許せる人と時間を共有して、良く働いて、良く寝るんだ。そんなさ、当たり前のことをするんだ。

 何もおかしなことじゃない。世界ってやつはね、案外気楽なやつでさ、こんな幸せなことが当たり前な所がいくつもあるんだ。彼らにしてみれば星明りみたいに些細で、当然の喜びだよ。私は少なくともライチにそれを教えてもらった。

 だからこの頃の私は薄々勘づいたんだ。

 そんな平凡な当たり前というものさえ、私にとっては星のように途方もないほど遠いところにある、決して手に入れられない輝きだって。

 そして、そんな平凡な当たり前というものが、実は星のようにこの世の中に無数にあって、そっちが普通なんだって。

 自分はそうじゃないんだって。

 私にとっての幸せは、そういうものだった。

 なんだか夜空の中に置き去りにされたみたいだったな。車窓から見える星空は酷いくらい美しくてさ、私になんか見向きもしないで、あいつらだけでずっと話してるんだ。そして私がそこに入ろうとしてもね、駄目なんだ。前言っただろう、光は馬鹿正直だから、私のことを庇ってなんかくれないんだ。近付いたら、ライチを傷付けたみたいに、私の本性ってやつが露わになっちまう。

 でもさ、だからって割り切れるものでもなかったんだな。だってまだ十四歳だ。夢見がちな野心みたいなものを持つべき年頃だよ。私はさ、汽車に乗って進めば進む程、ライチや町の人たちとの平穏な日々が恋しくなった。

 だからこの頃は本当に参っていたんだ。ライチとの決別も、彼を酷く傷つけてしまったことも、後悔していた。そして自分の在り方もわからなくなった。一体いつまで女性の振りをして生きていくつもりだって思ったのさ。

 後十年や二十年では足りないだろう。もっと長くてさ、年寄りになるまで、もしかしたらずっと自分を偽って生きるのかって思った。

 そうやって考えると、生きるっていうのは途方もなかった。

 だからさ、もう全部諦めたくなったんだな。辿り着いた街でさ、少なくなった有り金で飲んだこともないのに酒や煙草なんか買って、路地の裏でさ、擦り切れた埃塗れの硝子片を眺めながら、そいつらと遊び始めた。あいつらは中々気分が良い奴等だったよ。煙草は黙って話を聞いてくれたし、酒は嫌なことを忘れさせてくれた。あいつらの抱擁といったら情熱的でさ、次の日の朝になると体が重くて仕方ないくらい疲れちゃうんだな。離してくれないんだ。でもそうしたらさ、泥に沈むみたいにぐっすり眠れるんだ。この頃の私は不眠も患っていて、あいつらに抱いてもらえないと眠れすらしない甘ちゃんだった。

 それにさ、路地裏に落ちている硝子片なんかも、私を慰めてくれたんだな。やっぱり持つべきはちゃんとものを言ってくれる友だよ、君。硝子片はね、罅割れてたり、埃を被っていたりで薄汚くてさ、あいつは私の顔も同じようにとんでもなく醜く映して見せた。お前は不細工だって言ってくれた。ひび割れが蜘蛛の巣みたいに見えて、私はそれに絡めとられて食い荒らされた蝶の死骸だ。いや、あの頃の私は、実際に蜘蛛の巣にかかっていたとしても、あまりの醜さに喰われずに捨てられちまってただろうよ。それくらい落ち込んでいたんだ。

 でも時間ってやつは流れていくからね。そうやって管を巻いて生きている内に、どんどん金はなくなっていった。でも日に日に酒と煙草の量は増えていって、止まらなくなっていた。

 そしてね、そんな風にわけもわからなくなり始めてる奴は、悪い奴等にしてみりゃ格好のかもさ。ある日ね、ぼろ切れみたいなのを身に着けてしゃがみ込んでいる私の所にさ、変に小奇麗な身形の男が現れて、なんだかよくわからないような薬を押しつけてきた。どうにもね、焚いて吸うと楽になれると言うんだ。なんだか私を見かねたとか、物乞いへの施しをやってる小金持ちだとか言っていて、お代はいらないとその薬を出したんだ。そして最後に、次が欲しかったらここに来てくださいってな感じで、住所を教えられたね。

 今改めてこうして文字にするとさ、いかにもあからさまだな。こんな話真に受けるもんじゃないし、疑うべきだ。

 でも当時の私は本当に弱っていたんだよ。あいつらの怖い所は口が上手い所や、意地汚い所じゃなくてさ、弱者を狙う所なんだな。例えばもう死にそうなくらい飢えている時は、差し出されたらどんなもんでも齧っちまうもんだし、心にひびが入っていたら隙間風は良く入ってくるものだからね。

 だから私は言われたとおりにその薬を使うことにしたんだ。怪しいと思ってはいたけれど、もうどうにでもなれとも思っていたからね。酒と不幸に酷く酔っていたのさ。

 そうして連中が帰った後に、明かりもない路地の深い所でさ、蹲って、マッチを擦って、もらったキセルに薬と火を詰めた。手が物凄く震えていたな。自分の心臓が一度動くたびに、しゃっくりでもしてるんじゃないかってくらい指が動いて、何度かブツを落としたさ。

 そして気付いたら、私は全く見知らぬ部屋に居たんだ。

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