第7話

 その日の雨はまあ酷かった。それこそ溌溂な犬猫がぎゃんぎゃん喚いて跳ね回っているみたいに雨脚が駆けていて、泥を高く飛ばしていたよ。昼下がりだというのにもうずうっと朝から暗くて、家の窓から見える畑の岩やなんかがみんな、てらてらと灰色の肌を濡らしていたな。汗びっしょりだ。たった一晩の雨で、その岩が一回りは痩せちまうんじゃないかってくらいの大雨だったよ。そして岩がそんなもんなら、路の砂利だって角が取れて、子供の顔みたく真ん丸になっちゃって、窓の外からひっきりなしにわんわんって幼気ななきごえが聞こえてくるみたいだった。

 それでもね、その日、ライチは町長との大事な用があるって言って、朝から家を出ていたのさ。私は心配して、柄にもなく我儘を言ったりしながら引き留めたけれども、まあライチはとんでもないお人好しで真面目だから、町の様子もついでに見てくる、だなんて抜かして、合羽だけ羽織って行ってしまったんだ。

 そんなわけで昼過ぎまで、彼の身を案じて不安になったりしながら、一人で部屋の中をぐるぐる歩き回っていた。端から見たら滑稽だったろうよ。何せなんだかんだ、私こそが一番泣いてしまいそうだったからね。

 だから家の中にノックの音が響いた時は飛び上がって、用意していた着替えを抱えて、玄関まで走ったさ。ライチが帰ってきたんだと思った。きっと何か重いものでも抱えていて、扉を開けられないからノックをしたんだろう、だなんて都合よく考えたんだ。

 でもそうじゃなかった。

 扉を開けたところに居たのは、どこかで見覚えのある、汚らしい男だった。

 もぐりの娼婦をしてしまっていた時の、私の客だったんだな。

 私は怯んだよ。奴さん、どこかイかれてるようなぼんやりとした赤い目をしてて、私をじっと見降ろしてきていたからね。

 そして奴は私を不躾にじろじろと見るとさ、ぼうっとした顔にみるみるうちに活力みたいなものを漲らせていって、言いやがったんだ。

「まさか、いやでも、やっぱり、やっぱりだ! 女神様だ!」

 というのも、どうやらその男は随分と女神様に入れ込んでいたみたいで、私がライチに世話になり始めて、娼婦を辞めてから一年と少しくらいの間、ずっと夜の町で私を探していたみたいなんだ。執念ってやつだな。でもあまりにもそれに熱中し過ぎて、職も無くして、友人や家族からも見限られて、すっかり家なしの物乞いに成り果てちまってたから、大雨で命からがら、ライチに助けを求めに来たって筋だ。

 そうしたら出てきたのがライチじゃなくて女神様なんだから、そりゃ狂ったように喜ぶだろうよ。

 本当に、狂ったみたいだった。

 あいつはね、ずかずかと汚い足で家の中に入ってきて、いきなり私の肩を掴んで迫ってきやがった。逃げようとしたけれど、あの野郎興奮しちまってて力が強ぇんだな。どれだけ抵抗しても、叫んでも、私が嫌がってるだなんて全く思わないで襲って来た。ああいう手合いの屑は、世界が自分を中心に回ってると思い込んで疑わないんだ。他の人間は皆、人形みたいに思ってるんだ。おままごとでもしてるんだろうさ。だからそういうことができるんだ。

 私も勿論、出来る限り暴れに暴れて、すったもんだの最中に机を倒しちまったり、花瓶や食器を割っちまったり、カーテンを千切ったりしたが、やっぱり野郎は懲りなくて、逃げ切れなくて、ベッドに押さえつけられた。身が竦んでさ、もう力が出なかったよ。本当に怖い時っていうのは、人間声も出なくなるんだな。息すらもできなくて、自分が毎日当たり前にしてたことが、全然できなくなる。別に黙りたくて黙ってるわけじゃないんだ。

 でもそんな私を見て、あの野郎はきったなく笑ってさ、言ったんだな。

「ようやく素直になったね」

 気持ち悪くて仕方がなかった。

 そしてあの野郎、私の服に手をかけやがったんだ。でも”そんなこと”をされたら、私が男だってことがバレてしまう。女用の服って言うのはね、”私”って喋り方と同じくらい、私が生きる上で必要不可欠で、人間アレルギーから私を護ってくれる鎧みたいなものだったんだ。

 私は別に、ふざけて女の振りをしていたわけじゃないんだ。

 生きるために必要だから、そうしていたんだ。

 ここまでさ、長々と、根気強く、私の話を呼んでくれた君ならわかるだろう?

 けれどもね、野郎は私の話なんて一つも聞かずに、力任せに、びりびりと服を破きやがったんだな。

 そうしてさ、そこで奴は、初めて止まったんだ。まっ平な私の胸や、いちもつが付いた股間なんかを凝視してさ。故郷でそういった恥辱には慣れてたつもりだったけれど、でもこの時の辛さは完全に別物だったよ。皮膚とか筋肉とか肋骨でさ、大事に守ってる自分の心臓を狂った輩に抜き取られて、まじまじと見られているような恐怖があった。

 でもね、問題はそこからさ。

 野郎が惚れていたのはね、”女神様”だ。

 男の私じゃないんだよ。

 気付いたら、私は殴り飛ばされてた。

 自分が殴られたと気付くまでにしばらく時間が必要だった。何が起こったのか、本当にわからなかったんだ。多分殴られた衝撃で色んなものが飛んでしまっていたんだろう。放心してたんだ。その間に野郎は、騙したな、だとか、色狂い、だとか、悪魔め、みたいな罵倒をずっと吐いて喚いていたよ。その時に野郎が、一年間私を探してたことや、その間に色んなものを失ったと聞いたのさ。そして、全部私のせいだとも言われた。

 いや、勿論私が悪かった部分もあると思うよ。だって勝手にもぐりの娼婦をしていたのは私だからね。

 でも私は決して、悪気があったわけじゃなかった。

 最初に書いただろう。

 こんな風に私はね、悪人じゃなくて、どうしようもない罪人だったのさ。

 罪を犯していた。そのツケが回ってきたんだ。そして今の私に言わせればさ、私の本質はまさに罪人なんだ。色んな罪を知らず知らずのうちに犯していた。

 いつの間にかさ、奴は居なくなっていたよ。そして玄関から誰かがまた入ってきた音と、驚いたような声がした時に、ようやく私は我に返ったんだ。

 その声には、聞き覚えがあったからね。

 ライチが帰ってきたんだ。彼は荒れた家の中を見て、何事だって叫んだあと、すぐに私の名前を呼んで家の中を走った。

 そしてすぐに、寝室の床の上で、片頬を腫らしている私を見つけた。

 服を剥かれて、男の裸を晒している私をだ。

 その時の彼の表情はよく覚えているよ。流石のライチでもさ、困惑していて、焦っていて、余裕がなさそうな顔だった。そしてそこからさ、私を見た途端に、茫然としたんだ。彼の凛々しい眼差しから力が抜けて、口が薄く開いて、魂ってやつが抜けて呆けているみたいになって、息が止まってた。瞬きすらも忘れてさ、じっと、見惚れるみたいに私を見ていた。

 そうして空っぽになった瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、ぎらりとした”何か”が光ったんだ。

 彼はね、敬虔で、女っ気がない善人で有名だった。その身持ちの硬さと言えば、巷じゃ鉄よりも硬いんじゃないかってくらい有名で、偉い人の娘さんだとか、町で有名な美人さんだとか、健気で素朴な町娘だとか、淫靡な娼婦だとか、色んな女性に言い寄られても、全く相手にしてこなかったんだな。

 そんな彼がさ、私の裸を見て、何かに取りつかれたみたいに本当に一瞬だけ獣のような目をしたんだ。

 結論から言うと、彼は男が好きだったんだ。

 でもね、そんなことに彼自身が気付いたのも、多分その時だったんだと思うんだ。だってライチはすぐに理性を取り戻して、顔を背けて、初心そうに頬を赤くしたんだ。彼自身が一番戸惑っているみたいだった。

 そういう風に同性が好きって言うのは、別にさ、おかしいことじゃないと思うんだ。勿論多少特殊であるとは思うけれども、それは悪いということじゃない。私だってさ、彼の事がそういった意味で好きなわけではなかったけれども、嫌な気はしなかったんだ。

 そのはずなんだ。

 でも私には、人間アレルギーがあったんだ。

 ライチのそんな様子を見てね、私は最低で、愚かで、救いようがないくらいに浅ましく、”気持ち悪さ”を覚えたんだ。エーデルワイスの時と全く同じ嫌悪感だった。私はね、誰が誰を好きになるとか、どの性別の人がどんな性別の人を好きになるかなんて以前に、そもそも人からの”そういう感情”に耐えられないんだ。特にこの時は、あのイかれた野郎に襲われて、身も心を酷く傷付いていたから、堪えが効かなかった。

 私は思わず言ってしまったんだ。

「何見てるの。早く……出てってよ。着替えるから」

 冷たくて、突き放すような嫌な声だったよ。そしてさ、エーデルワイスを拒絶してしまった晩と同じ、黒くて渦巻くような感情が胸の内に芽生えてきた。毒杯でも呷ったみたいに気分が悪かったよ。舌が痺れて、感覚が遠くなって、悪魔に舌を入れてキスをされているみたいに勝手に口の中を操られるんだ。そしてその悪魔って言うのは、くだらない言い方だけどさ、本当の私ってやつなんだ。

 だから、嫌になるんだ。

「見るなよ」

 ライチは私の拒絶を受けて、深く傷付いたような顔をした。

 でもそれも当たり前だ。だって彼にとってはそれが初恋で、そんな淡いものを始めて抱いてすぐに、真正面からそんなことを言われたんだ。 

 彼は何か謝って、静かに部屋から出て行った。その後さ、私は独りになって、酷い自己嫌悪に陥ったよ。エーデルワイスの時と全く同じさ。反射的に拒絶してしまってから、嫌になるんだ。ライチは私を助けてくれて、沢山のことを教えてくれて、私のことを心の底から慮ってくれていた恩人なのに、そんな人をたったの一瞬で嫌いになってしまいそうな自分が、心底気色悪かった。

 こんな事があったから、着替えてさ、部屋を出て、二人で部屋の掃除をしている時も会話はなかった。まずは冷静になりたかったんだ。多分ライチもそうだよ。

 だから粗方整理がついた後、テーブルを挟んで二人で座って、しばらくして、ようやく話し出した。

 私はまず、性別を偽っていたことを謝ったよ。そしてなんで偽っていたかも、ちゃんと言った。ただこの時にはまだ自分の体質を人間アレルギーと言語化できていなかったから、「”そういう人だ”って知られると軽蔑されると思った」「人と付き合うのが苦手だけど、女性の振りをしていると、凄く楽になる」という風に話したんだな。

 ライチはそのことを責めはせずに、理解して、受け入れてくれた。

 でもね、それはもうさ、無償の愛じゃなかったんだ。私が憧れた潔癖なものじゃなくて、祖母からの愛情や、エーデルワイスの親切心みたいに、どこか理由があるものだった。

 そうして、私と彼の関係に小さなしこりができた。

 それは日を追うごとに大きくなっていった。私を襲おうとした野郎は、雨が上がった翌日にライチがブリキたちに事情を伝えて、捕まえてもらって、ちゃんとかたは付いたんだけれど、でも問題はそこじゃないんだな。

 家の中では沈黙が増えていた。ライチも私もどうすればいいかがわからなかった。彼は思わぬ初恋に、私は正体を知られたことにそれぞれ窮して、以前と同じように一緒に暮らしていたのに、いつしか疎遠になり始めていた。

 でもね、私たちの距離が遠ざかるのとは対照的に、別れの日はどんどん近付いてきていた。

 私が、ライチの紹介で港町にある寺に移動する日だ。それはあの雨の日の前から決まっていたことだったからね。

 だからさ、私は頑張ったんだ。祖母やエーデルワイスとの別れみたいに、何か後悔がある別れ方はしたくなかった。色々と変わっても、やっぱり彼のことは尊敬していたからね。

 少しずつ、前みたいに振る舞い始めたんだ。朝、顔を合わせれば目を見て挨拶をしたし、ご飯も一緒に食べた。会話だって切り出した。町の中をちゃんと並んで歩いたし、笑いかけた。

 そうした行動は、エーデルワイスと一緒に暮らしていた経験もあって、やってみれば案外できたんだ。周りの人からも、最初は気を遣われていたけれど、私がそんな振る舞いをし始めたら「もう大丈夫そう」って思ってもらえて、日常は正常に戻っていった。まあ、あの雨の日に私が襲われそうになったことは周りに知れていたけれど、私が男であることはバレていなかったからね。あの野郎が色々と言いふらさないよう、出来るだけ早くライチが捕まえてくれたし、そもそもあんなイかれた奴の話なんて、誰もろくに聞こうとしなかったみたいだから。

 でもさ、そうやって周りはいつも通りに戻っていったのに、やっぱり、家の中だけは戻らなかった。

 ライチは、余計に私から離れようとした。

 私がどれだけ彼と距離を戻そうと歩み寄っても、彼はそれ以上に遠ざかった。もどかしかったよ。勿論最初に拒絶してしまったのは私だ。私が悪いんだ。でも彼は、謝る機会さえ与えてはくれなかった。

 そうして、いつの間にか、別れの日の前日になっていた。

 この頃にはもう、彼は家に帰ってすらくれないようになっていた。

 だから私は、次の朝一番の汽車に乗らないといけないのに、準備もろくにしないで夜通し彼を探していた。大層迷惑だけれど、町の知り合いの家の戸を一晩中叩いて回って、ライチがどこにいるか知らないかって聞いて、足の裏が擦り切れるくらい走った。

 でも結局彼は見つからなくて、明け方になって、私は疲れ果てた重い足取りで、町を歩いていた。

 もう駄目だと思った。

 だがね、偶然にも私はとある建物の前を通りかかったんだ。きらきらとした長屋で、人目を引くようなところさ。

 風呂場の前を通りかかった。

 そして、丁度そこから出てくるライチと鉢合わせたんだ。

 私は茫然としたね。そしてライチも、同じ様に言葉を失っていた。

 彼はね、その頃家にすら帰らずに、風呂場の娼婦たちの所に行っていたんだ。というのもね、彼は私への想いを何かの間違いだって理解するために、女の胸を借りていたんだな。でもね、風呂場を出てきた時の彼の顔が優れていなかったのを見るに、多分上手くはいかなかったんだろうよ。

 静かな朝の町でさ、季節は冬だったな。霜があって、空が白んでいて、青い空気が凍てつくようだった。その沈黙の氷を割って、私は彼に駈け寄ったんだ。

「ずっと、ずっと探してた。ねぇライチ、一回ちゃんと話そう、謝りたいんだ。ごめん、私はさ、本当にライチを傷付けるつもりじゃなくて、あの時はさ、色々混乱してて、」

 出会い頭に捲し立てたよ。口が三つはあるんじゃないかってくらい必死になって話した。話そうとした。

 でもね、ライチは目を逸らした。

「こんなところで、何やってるんだ」

「…………え?」

「もう汽車の時間だろう。早く行くんだ」

 彼の声は震えていた。自戒やら後悔で苦しんでいるみたいで、今にも内側から崩れてばらばらになってしまいそうだった。

「俺のことはいい。俺は君の言う通り、あんなに傷付いていた君に、あろうことか邪な気を抱いて更に傷付けてしまった。俺に君を見送る資格はないんだ。さあ、行きなさい」

 そんな彼の言葉を聞いて、思わず涙が止まらなかったよ。だってね、そんなことを言いながら彼は私に背を向けたんだ。大きくて憧れた背中が、私と彼とを隔てる壁に見えた。窓もドアノブもなかったよ。叩いても拳が痛いだけさ。特にライチと私との出会い、というかまあ、私が彼に懐いた理由が、ちゃんと話を聞いてくれたことだったからね。

 彼は私の祖母の事も、家のことも、故郷でのことも、エーデルワイスとのことも、全部じっくり聞いてくれた。それも聞き出そうとするんじゃなくて、私が話すのを待ってくれた。

 それがさ、全く、なにもかも変わってしまった別れだ。

「なんでそんなこと言うの? ねえ、話聞いてよ、お願いだよ、ライチ。違うんだ、本当に違うんだ。私は本当に、貴方が居たから!」

 手を伸ばしたさ。届くことは無いってわかってても、でもそうやらずにはいられなかったんだな。

 でも、彼は背中を向けたまま言ったよ。

「本当に、すまない」

 そうして彼は、朝の薄明るい路地の中に消えていった。私は崩れ落ちた。手とか足とか頭が、壊れた人形の部品みたいに一つずつ体から分離して地面に捨てられたみたいだった。動きたかったのに、どうやって動けばいいかがわからなかった。そうやって肉体が罅割れて、剥き出しになった胸に冷たい寒朝の風が流れ込んできて、寂しさと空腹を覚えた。

 その町に来た時と全く同じさ。 

 私はまた、一人になった。

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