第5話

 それじゃあ話の続きだ。

 こうして十二歳の頃に故郷の村を飛び出してから人らしい生活が出来るまで、丸一年が必要だった。

 ひもじかったね。ああもうそりゃ最悪さ。何せ家から持って出られた金ははした金も良い所で、旅支度なんて碌にできていなかったんだから。一年間毎日飢えて、いつくたばっちまうんだろうってばっかり思っていたことを今でも鮮明に覚えているな。

 でもね、何もそんな日々の全てが一概に悪かったとも、今の私は思わないんだ。だって今の私は自殺でもしようってのに、呑気に部屋に籠もってこんなものを書いているんだから。陰気だよ。それに比べて当時の私は貧しくても、毎日を楽しんでいたよ。何だかんだあったけれど、念願の家出が出来たんだからね。秋の長い夜に山の穴倉から見上げた星は綺麗だった。冬は寒かったけれど、初めて腰の高さまで積もった雪を見た。春には、煌びやかな陽を浴びながら川を流れる桜に沿って歩いた。

 そうして一年かけて私がどこを目指していたかと言うとね、海だよ。私はね、祖母が山の頂から物凄く愛おしそうに眺めていた海ってやつを、もっと近くで見てみたかったんだ。それ以外にやりたいことなんて思いつかなかった。まあ何の計画もなしに、ただ勢いで家を飛び出しただけだからね。

 今にして思えば、きっと寂しかったんだろうよ。想像するしかない潮騒に、祖母の残り香でも夢見ていたのかもしれない。だから見えない波に手繰られるように、私はひたすら歩いたんだ。

 でもね、結局この頃の私は海に辿り着けなかったんだ。

 当然さ。路銀もなければ道も知らない。旅どころか故郷の村からも出たことが無い。人付き合いもできない。そんな子供が一人で、どうして彼方の水平線に辿り着けるというんだろう。

 私は結局道半ばで倒れたのさ。小さな町だった。あまり裕福そうではなかったけれど、活気があって、昼になれば大広場でいつも誰かが楽器を鳴らしていた。

 動けなくなった私は、路地裏で座り込んでただその弦の音に耳を澄ませていたよ。綺麗な音だった。特に私の中身は人間的にも、胃の中的にも空っぽだったからね。よく体の中で音が響いたものさ。

 私はもう駄目だと思った。それまでも立ち寄った町や村で銭を稼ごうとはしていたんだけれど、人間アレルギーがあったから、どこも長続きはしなかったんだ。その結果、金もなく、飢えて、倒れてしまったのさ。

 この時色んなことを考えたよ。もうここで終わりなんだろうか、とか、エーデルワイスには酷いことをしてしまったな、だとか。とにかくね、色んなことを後悔したことを覚えている。そしてそこでくたばるのは、仕方がないって諦めたのも覚えている。

 でもね、そうやっていつの間にか意識を失っても、その夜更けにはしぶとくも目を覚ましたのさ。私はこんなでもね、結構頑丈なんだな。

 だから私はよろよろと立ち上がって、暗闇の中を適当に歩き始めた。彷徨っていたんだよ。しかしね、意識は朦朧としていたけれど、この夜の事は忘れはしないさ。

 だって、私が道を踏み外した夜だからね。

 徘徊していると、私はいつの間にか、夜の町の中で唯一明るくて騒がしい所に辿り着いたんだ。何となく歩いていたら、光に引き寄せられたのさ。蛾みたいだな。

 そこはね、風呂場だった。と言ってもその時間帯では、所謂娼婦たちの客引きの場だったというわけさ。良く働いて、良く酒を喰らった旦那共が女に汗を流してもらうためにやってくる場所さ。

 でも田舎者の私はそんなこと知りもしなかったから、何をしているんだろうと思ってその建物に近付いてしまった。結構綺麗で洒落た長屋で、きらきらと光っていたから、しょうがないよ。

 そうしてね、私はまんまと捕まったのさ。

 客として、娼婦にじゃないよ。

 娼婦と勘違いされて、男に捕まったんだ。

 私は見た目だけは良かったからね。それに長旅で髪も伸びて、余計に女みたいに見えた。かつ貧しそうだったのも、ある種らしかったんだろう。大体男は酔っぱらっていたから、そもそもちゃんとした判断が出来なかったんだ。

 最初は抵抗したよ。でも力が出なかった。それに金ならちゃんとやると言われた。その時に心が揺れたのさ。だって私は本当にひもじくて、やっぱり海が見たかったからね。

 何よりも、今更なんだって思ったのさ。だってすでに私は、故郷の大人達に散々辱められていたんだから。金がもらえる分、まだましだとさえ思ったよ。

 だからね、私は女の振りをしてその男を満足させたんだ。ただ服を脱ぐとバレてしまうから、風呂場にはいかないで、近くの路地裏で相手をした。すると男は眠ってしまって、どうしようかと迷った挙句、風呂場に戻って相場ってやつを確認して、その分だけ男の財布から抜き取った。

 財布ごと盗ってしまおうかとも考えたけれど、その時祖母の顔が浮かんできたんだ。彼女は悪いことには敏感で、決してそういったことを許さない人だった。加えて、彼女は過ちを犯した私を叱りつける時、余計に自分のことも傷つけてしまう優しい人だった。

 私は例えもう居なくなったとしても、そんな祖母が傷つくようなことはしたくなかったんだ。

 こうやって当時の私は、金の稼ぎ方を覚えた。

 そしてね、この時私はお金と一緒に、あるものも得たんだ。

 それはね、この”私”という話し方だよ。というのもね、女の振りをするために初めてそう言った時、心が幾らか楽になったんだ。なんだか初めて肉体と魂が一致したような感じがした。同時に厚い鎧でも着込んだみたいに、安心感があったんだ。

 というのも、二十二になった今にして思えばわかるけれど、私は色んなことを隠したい類の人間だったのさ。

 私は根本的に私という奴が嫌いだったから、とにかく自分を偽りたかった。自分という人間を他人に認知してほしくなかったんだ。

 その結果、私は自分の性別を偽ることで、分厚い仮面を得たんだ。私と言いながら話すことで、目の前の人間と接しているのは自分以外の別人だという感触がした。

 何よりね、不思議なことに、私って話し方をすると人間アレルギーの症状も和らいだ気がしたんだ。勿論ただの勘違いだろうけど、それでも、勘違いできるというだけで幾分か救われたさ。人間アレルギーってやつは、それだけキツいからね。

 だから、それからの生活は、一変したよ。

 私はしばらくその町に留まって、自分を偽ることに夢中になったんだ。

 夜の町で生きるようになったのさ。

 でもね、さっきは道を踏み外した、と書きはしたけれど、それは単に悪いことじゃないと個人的には思うんだ。だってね、ちゃんとした道は明るいものだろう。けれども、光ってやつは馬鹿正直に、なんでもかんでも暴いてしまうだけなんだな。決して私のような傷物を庇ってくれやしないのさ。君も大人なら、ただ正直なだけの奴なんて鬱陶しくて仕方がないとわかるだろう。それと同じだよ。

 だからこうして道の外に踏み出してから、私は本当に生まれ変わったみたいだった。夜の帳で仕立てられた闇のドレスに袖を通して、星明りと情熱に支えられながら暮らしたんだ。

 私はね、まあ自分で言うのも気持ち悪いと思うけど、存外に寂しがり屋ってやつなんだな、これが。人間アレルギーなんてものを持っているせいで勘違いされやすいんだけれど、でも冷静になって考えてくれよ。どんな人とも親密になれないで、どんな時でも一人でいなくちゃいけないんだよ。苦しい時も、悲しい時も、辛い時もだ。寂しくもなるよ。もう一度言うけれども、私は人間嫌いってわけではないからね。

 特にその頃は祖母を失ったことと、かつ、エーデルワイスに酷いことをしてしまったという自戒で胸が張り裂けそうになっていたんだ。旅路を急いでいたのも、どこか逃げたい気持ちがあったからかな。

 そんな私が、ようやく人とまともに話すための術を発見できたんだ。私はとにかく自分ってやつを忘れたくて、人が恋しくて、夜な夜な風呂場の付近に行って、酔っぱらった男たちの相手をした。

 彼らはみんな、私を必要としてくれていたんだ。

 まあでも、若気の至りってやつでもあったよ。だってこの時の私はまだ十三だ。こんな頃に唯一の肉親を失って、故郷を飛び出て天涯孤独になってしまったら、少しはしゃいでしまうのも仕方がないってもんだろう。

 ただ私は少し遊び過ぎたんだな。ここまで含めて若さ故ってことだよ。ちょっとだけ目立ちすぎてしまったんだ。 

 風呂場の娼婦たちに目を付けられてしまったのさ。

 基本的に街の娼婦たちってのは、娼婦館って所に入っていて、その町で売春なんかをする時には許可を取ったりするものなんだ。まあ大人からしてみれば常識さ。そうでもしないと変な輩がわんさと沸いてきて、町の風紀も何も腐ってしまうだろうからね。他にも娼婦たちの身の安全だとか、色んな当たり前の理由があるよ。

 でも十三の私はこれを知らないで、勝手に酔っぱらった旦那共の相手をしていたんだ。知らずの内に、もぐりの娼婦になっていたってわけさ。それにもう何度も書いたことだけれど、私は見た目だけじゃなくて、故郷の変態共のおかげで、経験自体もそこそこあったからね。時が経つにつれて、風呂場じゃなくて私を目当てにする男たちが増えたのさ。路地裏の女神様だとか、そんなふざけた噂があったよ。

 大体それが、私が初めて男の相手をしてから数か月くらいの話だね。そしてね、とうとうブリキの兵士達が私を探し始めたんだ。風呂場の娼婦たちが通報したのさ。私もこの頃に自分が不味いことをしていたって気付いたんだけれど、これがちょっと遅すぎたんだな。いつものように風呂場の周りで金を稼ごうとしたら、いきなりブリキたちに追いかけられて焦ったよ。

 そこから頑張って逃げはしたんだけれど、何せ向こうはキカイだから逃げ切れるもんじゃない。街外れの公園に咄嗟に隠れたけれど、捕まるのは時間の問題だと絶望したさ。

 そんな時に、とある僧侶が助けてくれたんだ。




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