第4話

 彼女はそれまで以上に家に来るようになった。朝だけじゃなくて、夜も来て泊まるようになった。私と一緒に山にも付いてきてくれて、寄り添おうとしてくれた。

 本当に優しい人だよ。

 でもね、私はやっぱり耐えられなかったんだ。

 人間アレルギーだよ。

 彼女の善意が痛くて仕方がなかった。そもそも私は祖母に対しても人間アレルギーがあったから、あれだけ彼女を愛していたにも関わらず、顔を合わせないように夜勤の仕事をしていたのさ。

 なのにエーデルワイスは常に家に居て、私が朝早く帰ってきた時に合わせてわざわざ目を覚ました。時には仕事場にだって様子を見に来た。というのも、私がやっていた宝石磨きの仕事は、彼女の家の仕事だったからね。私はまあこれまで書いた通り、おしゃべりする相手すら居なかったから、歳の割には黙々と真面目に仕事をしていたんだよ。そのせいで偉い人、例えばエーデルワイスの親父さんにも、割と好印象を抱かれていたのさ。特に彼もまたエーデルワイスの親らしく無類の善人だったから、独りになった私をちゃんと家に雇い入れて、一緒に暮らそうとまで言い出してくれたわけさ。

 でも人間アレルギーがあったから、私は中々その提案に頷けないでいたんだな。エーデルワイスの家は大きくて人も沢山居たから怖かったんだ。近付くだけで吐きそうだった。

 まあでも、彼女たちも私のことを人間が嫌いではなく苦手、と理解してくれていたからね。最初は無理やり誘ったりしないで、そっとしておいてくれたんだ。

 最初は、だけだけど。 

 それに甘えてうだうだとやっていたらすぐに夏になった。茹だる様な暑い夏さ。雨も良く降って、湿気ばかりで蒸している最悪の季節だ。

 そんな夏のとある夜に、とうとうエーデルワイスが切り出した。

「君は、これからどうするの?」

 奇しくも、祖母と同じ言葉だったね。

 汗ばんだ彼女が発する生々しい人間の匂いは、今でも鮮明に思い出せるよ。甘ったるくて、目を凝らせば宙に漂っている匂いの色が見えてしまいそうなほど濃ゆい色香だ。まるで花粉のようだった。一度異性がこれを吸い込めば、たちまちのうちに血液が熱され、神経が疼き出し、発情してしまうような媚薬じみた匂いだったね。

 でもね、人間アレルギーを持つ私にとってそれは毒以外の何物でもなかったんだ。言い換えれば、花粉症の患者のようとも言える。健康な男子が熱を上げてしまうエーデルワイスの色香に対して、私はこの時目も碌に開けられず、鼻の内側が燃えるように熱く不快になって、体中に痒みが現れていた。人間アレルギーは、こういう風にちゃん症状が出るんだ。

 目に見えるんだ。

 私たちはね、蚊帳の中で並んで横になっていたんだけれども、私がそんな調子だったから、彼女も余計に心配したんだと思うんだ。特に祖母が死んでから、エーデルワイスが付きっきりになってくれようになって、体にはこれまでにないほどの異変があったからね。体調を崩して、眠れなくて、人間アレルギーは精神にまで及び始めていた。これを見かねてエーデルワイスは私の選択を待つんじゃなくて、切り出してきたんだ。優しい彼女なら、例え私じゃなくても、目の前で人がそんな風におかしくなってたら余計に付きっきりになるだろう。いや、彼女じゃなくても大半の人がそうするかもしれないね。

 でもそれじゃ悪化するばっかりなんだ。

 勿論今にして思えばさ、原因が人間アレルギーだってわかっているから、対処のしようはいくらでもあったと思うんだよ。

 でも当時は私だって、なんでそんなに体がおかしくなっていくのかがわからなかったんだ。人と接するのは嫌だったけれど、まさか近付くだけでそんなことになるなんて思っていなかったのさ。

 こういう変な体質とか症状っていうのはさ、原因がわからないからこそ、大変なんだよね。

 そして間違えてからじゃ遅いからひどいんだ。

 私は答えたよ。

「これからって?」

「だから、これからだよ。ずっとここで生きていくの?」

 この時の私は最低な奴だったよ。もう余裕なんてなかったから、それまでしていたみたいなエーデルワイスに報いるための演技なんて一切できなかった。ただ彼女に背を向けて、彼女の優しさを拒絶して、不愛想に言ったんだ。

「ここってどこのことだ? この家のことって意味か? それとも、この村って意味?」

「どっちもだよ。このままどうするのって。お仕事もさ、辞めちゃって。みんな心配してるよ」

 彼女は何ともまあ純粋そうに言った。この頃にはもう、私は宝石磨き以外の、葉巻作りと牛乳配達の仕事を辞めてしまっていたから、余計に彼女は心配していたよ。

「みんな? みんなって誰だよ」

 でも思わず強い口調で言い返してしまった。

「みんなだよ。大人達もみんな心配してるよ。君、凄くまじめで働き者だったのに最近はちょっと様子がおかしいって、みんなが言ってる」

「なんだよそれ。みんなって、結局他人だろ」

「違うよ、どうしてそんなこと言うの。みんな心配してるんだよ」

 私のぶっきばぼうで意地の悪い返事にもめげず、愛想を尽かさず、彼女は言ってくれた。

 エーデルワイスにとって、故郷の村は良い人たちばかりの美しい所だったのさ。私が虐められていたことも、辱められていたことも、彼女は知りはしなかったからね。でも、いじめをするような奴らはみんな狡猾で、そんなことは綺麗に隠していたし、私も祖母と同じようにエーデルワイスにはバレない様にしていたから、彼女が”みんな”ってやつを勘違いしてしまうのは当然なんだ。

 けれども、だからこそその時のエーデルワイスがさ、こんな言い方は悪いけれども、滑稽に見えてしまって、当時の私は思わず鼻で笑ってしまったんだな。

「どうして? どうしてだって?」

 こいつは、なんて馬鹿なんだって思ってしまったんだよ。

 私はね、もう何度も書いているけれど、エーデルワイスの事は信頼していたんだ。大切な人だと思っていた。これはね、紛れもなく真実なんだ。

 でもその時は、私はとんでもなく意地悪になっていた。村の奴らと同じさ。唯一の肉親である祖母が居なくなって、エーデルワイスがべったり生活に干渉してきて、毎日のように人間アレルギーが私を蝕んできて、あまつさえ私が心底大嫌いだった村のクソ野郎どもを、彼女がさも愛おしそうに、みんなだなんて言ったんだ。

 私の祖母の葬式を遠巻きに眺めて、せいせいするだなんて言ってた奴らを、そんな風に呼んだんだ。

「お前こそ……お前だって、なんでそんなこと言うんだよ。お前はさ、そのみんなの心配をしてるのか? みんなのために、あんな、あんな奴らの為に、俺のとこに来てるのか?」

 我慢が出来なかったのさ。

「お前だけは、俺の心配をしてくれてたんじゃなかったのかよ!」

 それからのことはね、あんまり覚えていないんだ。でも叫んで、暴れて、彼女に手を上げたことは確かだ。あれだけ優しくて、純粋で、朗らかだったエーデルワイスが、真っ暗な部屋の隅で、頬を押さえて怯えた目をしていたのが目に焼き付いている。

 彼女はまるで、悪魔でも見る様な目で私を見ていた。

 本当に私はひどい奴だ。あれだけ良くしてくれたエーデルワイスにそんなことをしでかしたんだから。見た目だけは確かにね、母が言っていたっていう通りに天使みたいに綺麗だったかもしれないけれど、でも腹の中は結局村のクソ野郎共と同じだったのさ。天使だってさ、翼があるだけで人の形をしてるだろう。なら腹の内の血やら臓物は人と同じで醜いのさ。

 それをぶちまけたら汚いだけだ。顔の形に惚れる奴が居たとしても、内臓の形に惚れる奴は居ないだろう。

 そうして、私は家を飛び出した。

 追い出したエーデルワイスが返ってくる前に、行く先を誰にも告げず、逃げ出したんだ。

 私はやっぱり故郷が大嫌いだったからね。桜色の大蛇を眺めていたみたいに、ずっとどこか遠くに行きたいと思っていた。けれども祖母を一人にできないから、どこにも行かなかった。

 でも祖母が居なくなったから、もう村に居る理由はなくなった。

 その晩、エーデルワイスを拒絶して、そのことに気が付いたんだ。


 最初に書いた通り、あんまりよく覚えていないからざっくりとしか書けなかったけれど、これが十二歳の頃の私の話だね。

 そしてここから十年後、二十二歳になって、こんな遺書じみたものを書いて自殺の準備をしている私が、初めて人を傷付けた時の話でもある。

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