第3話


 まず、祖母が死んだところから話そうか。季節で言うと桜が眠る頃さ。私の家は村はずれの、細い渓流を見下ろせる山の中にあってね。特にその頃は澄んだ冷たい清水の上を一面の桜の花びらが覆って綺麗だった。花筏というやつさ。それが上流から水流に沿ってゆっくりと蛇行してくる様は、美しい桃色の大蛇が這いずっているみたいで心躍ったものだ。私は偏見や差別意識ばかりの故郷が大嫌いだったから、いつもその季節になると、その桃色の大蛇に飛び乗って旅に出たくなったよ。

 でもね、やっぱり私は旅には出なかったんだ。何せ祖母を置いていくわけにはいかなかったからね。私が彼女を失って一人になってしまった様に、彼女も私を失えば一人になるとわかりきっていた。

 第一、祖母はすでに母も失っていたからね。そんな彼女、私の人生での最大の恩人の一人に、それ以上の苦痛を味合わせたくなかった。

 だからまあ、どれだけ虐められたり辱められたりしても故郷に残っていたんだよ。

 でもね、彼女はとうとう桜が吹雪くと共に、その命を静かに散らしたんだ

 彼女はずっと私を愛してくれていた。前書きでも書いたみたいに、祖母は敬虔なブリキ様の信徒だったけれども、私と接する時は一人のおばあちゃんであることが多かった。

 もっといえば、私の母の母、というわけさ。つまりね、一度書いたとも思うけれど、彼女は私に罪悪感を抱いていたんだ。何せ彼女の娘、言い換えれば私の母は、私という一人の人間を育てる義務を放棄して自殺してしまったんだからね。祖母はそのことに対して酷く胸を痛めると同時に、私という一人の人間に対して、自分の娘が何も残さずに居なくなってしまったことを申し訳なく思っているみたいだった。真面目な人だよね。

 でも正直に言えばだよ。私はね、当時は母がどうとかはあんまり気にしてなかったんだな。だって顔すら知らないんだから。私はむしろね、そうやって祖母からの愛がどこか汚れているようなのが一番嫌だった。

 私にとっての母は祖母だったんだ。

 だから彼女がもう床に臥せっていた頃さ。死ぬ数日前の話だよ。彼女が私に「すまないね」と言った時は、ものすごく堪えたね。

 私がひたすらに尊敬していた、賢くて、真面目で優しい人が、初めて涙なんか見せやがったんだ。

 あの時私は、やっぱり大人ってやつは本当に狡いと思ったね。もう大嫌いだと胸を掻き毟って叫びたかった。私はさ、祖母が私を独り残してしまうことを物凄く悩んでいるって知っていたから、わざわざ虐められたり辱められていることを隠して、エーデルワイスとも交流して、仕事も毎日頑張って、自立したように振る舞っていたんだよ。彼女に余計な心配をかけたくなかったから、春だって言うのに雪でも塗ったみたいな澄ました顔をしてさ、不安な心を噛み殺して冬眠させて、川を泳ぐ桜の大蛇だって見に行かなかった。頑張っていつも通り、昨日の通りに振る舞っていた。そうしていればさ、きっと祖母は安心してくれると思っていたし、もしかしたら冬の氷みたいに、一生祖母が死ぬ間際で時間が凍てついて、運命が冷凍保存されるんじゃないかとさえ思っていたんだ。

 本当に幼稚だよね。まあ色々書いたけどさ、当時の十二歳の私は、現実逃避をしていたんだな。

 未来の事なんて考えていなかったのさ。祖母の為に今頑張っているんだ、ちゃんとしているんだって自分に言い聞かせていただけだ。だから精一杯現在ってやつに目を向けたり、今が永遠に続けばいいだなんて妄想して、祖母が死んだ後の事から目を逸らしていた。

 それをね、祖母は見抜いていたんだよ。

 彼女は本当に賢い人だったからね。

「苦労を掛けてすまないね。お前は本当に良い子だよ。ああ、天使みたいさ」

 白いシーツの海に身を沈めた彼女の声は小さかった。彼女はもう碌に動けなかったから毎日そこに居たけれども、でも本当は日に日にシーツの中に沈んでいっていて、だから声が遠くなっていたのさ。本当は飛び込んで助けたかったけれど、私はその海の泳ぎ方を知らなかったんだな。

 涙を流した彼女に、なんて声を掛けたらいいかわからなかった。

「俺が良い子なのは、婆ちゃんが良い人だからだよ。そんな婆ちゃんが育ててくれたからだよ」

 その時の私は確か、まだこんな喋り方だったな。本当にただ祖母を安心させたいがために言葉を選んで話していた。

「いいや、違うよ。違う。だって私が育てた”娘”は、あんたと違ってとんだ馬鹿だったんだからね。本当にあの子は、どうして……」

 祖母は元々、母のことをあまり口にはしなかった。けれどもこの頃には流石の彼女も色々と弱っていたからね、こういった泣き言を偶に零すようになっていたんだ。

 私は嫉妬したよ。

 私は祖母こそ母だと思っていたのに、彼女にとっての子供っていうのは、やっぱり母のことだったんだ。

「母さんの話はいいよ。そんなやつ、嫌いだ」

 だから私は子供の頃、母の事が嫌いだったんだな。まあ厳密に言うと今でも嫌いさ。でも子供の頃の方がもっと嫌いだったという話だよ。顔すら知らないからこそ、愛情なんて欠片も沸かなかったし、当時の状況は全部勝手に死んだ母のせいだと思っていたからね。

 そして私がぽろりとそんなことを言ったもんだから、祖母はものすごく傷付いた顔をした。

 彼女は母のことを馬鹿だなんて言いながら、やっぱり最期まで愛していたんだ。

 だから結局ね、祖母と母の話をしたのはこれが最後だった。少なくとも今の私の記憶の限りではそうだね。もしここで母について聞いていたら、私の出生の真実ってやつを知れたのかもしれないけれど、現実はそうじゃなかった。当時の私は聞きたくなかったんだな。そのことについては、正直後悔しているけれど、でも仕方ないとも思うよ。

 それでね、母の話を辞めたからこそ、祖母はようやく本題とでも言うように切り出した。

「これからどうするんだい」

 彼女は薄っぺらい煎餅布団で目元を拭うと、呻きながらもちゃんと身を起こして、私に向き直ったよ。

 強い目だった。金色に輝いていて、年老いていると言うのに、そこにはちゃんと意志が煌めいていた。

 私は咄嗟に目を逸らした。

「心配しなくても良いよ。仕事もちゃんとできてるし、エーデルワイスも居てくれてる。大丈夫」

 するとね、祖母は言ったんだ。

「それは本当かい? 私は本当に、その言葉を信じてもいいのかい?」

 文字にすると少し圧があるけれど、でも実際は優しい言い方だったよ。一音一音ゆっくりと噛みしめていてさ、私を気遣うような心意気が詰まっていた。発音の細部にまで血が通っているみたいだったね。

 だからこそ、私は言い淀んだんだ。真正面から祖母に嘘を吐くなんてしたくなかったから。

 それに、自分で言った「大丈夫」なんていうのが、それこそ嘘だっていう自覚もあったから。

 そうしたら祖母は言ったよ。

「私はね、あんたを信じていないわけじゃない。むしろね、信じたいんだ。だからこうして聞いているんだよ」

 疑うことこそが信仰心を強める。祖母の口癖だったね。彼女は信じたいものこそどこまでも疑う強い人だった。

「あんたはとても良い子だ。でもね、良い子過ぎるんだ。もう少しね、我儘に生きても良いんだからね」

 結局、そんな祖母の言葉にどうやって返したかは、申し訳ないけど覚えていない。でもそれは多分、私でも何を言ったかわからないくらい咄嗟の言い訳をしてしまったから、覚えていないんだと思うんだ。

 そして図星を突かれたからこそ、祖母の言葉はよく覚えているんだな。

 本当に子供の頃の私は一生懸命で浅はかだったよ。実際その数日後に祖母が他界して、孤独を突きつけられた時に、何をすればいいかがわからなくなったんだからね。酷く落ち込んだんだな。体の半分を失ってしまったみたいだった。毎日祖母の面影を探すように彼女と通った山を登って、山頂から遠い所に見える水平線を眺めたよ。元々祖母は海辺に住んでいて、それこそ私が嫉妬するくらい純粋に海を愛していたからね。潮だとか、船だとか、沢山の話を聞かせてくれた。山の中の辺鄙な村でそんな遠くのことまで知っているのは祖母くらいのものだった。そうやって祖母との話を思い出そうとして、日に日に彼女が居なくなったことを実感していって、更に沈んでいたんだ。

 そして、そんな私の喪失を埋めようとしてくれたのが、エーデルワイスだった。

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