第3話 時代の流れ(後)

 敏文は、勤務が始まって一週間くらいで、同じ職場の人を全員覚えた。仕事をきちんとこなすためには必要なことだったからだ。

 しかし、今目の前にいる先生は全く見覚えがなかった。毎日ここにいる敏文には、覚えていない先生はいないはずだった。

「失礼ながら聞かせていただきますが、今日から勤務ですか?」

「はい、といっても今日は挨拶だけですが」

 髪の色は黒、おとなしめな印象を受ける女性だ。ロボットなのかもしれないが、ここに勤務するロボットは、人間と見違えるように作られているだけあって、ぱっと見では、見分けがつかない。

 名前を聞こうとしたとき、相手の口が開いた。

「宮下先生、校長先生がお呼びです。一緒に来てください」

「あ、そうなんですか?」

「もう、放送で三回くらいかかっているのですけどね」

 敏文はもう一回頭を下げた。恥ずかしさでおそらく顔はよく赤く色づいているはずだ。

 しかし、校長先生のお呼びを無視したのはまずかった、と今更ながら敏文は思った。今日はすでに朝に、一悶着起こしていて、自分の印象は、どう考えても悪いのだから。

「急ぎましょう。って僕が言うことじゃないですね」

「いえ。事実ですから」

 と、言葉を交わし、職員室を飛び出した。

 小学校の頃、廊下を走ってはいけませんと、先生によく言われていた。しかしそれを全く守るつもりのないもの凄い速さで、敏文は廊下を走って行った。

 敏文は理事長室のドアを開けると、もの凄い剣幕で椅子に腰をかけている校長先生の姿を見た。

「失礼します。遅れて大変申し訳ありません」

 敏文はそういって頭を下げた。大失態だった。自分が怒られている姿が簡単に想像できた。

 しかし、理事長は急に穏やかな顔になった。

「いやいや、頭を下げなくともいいよ。みんな結構忙しいからね。すぐに来るなんて思ってないよ」

「は、はあ」

「まあ、座って」

 理事室は、真ん中に客対応のテーブルとソファがある。これがまた高級品で、ソファに座った瞬間、敏文はやさしく受け止められる。

「おおっ」

 敏文は未知の感覚に思わず声が出てしまった。

 理事長は、にやりと笑う。

「はっはっ。このようなものには座ったことはないかな」

「は、はい」

「まあ、あまり緊張しないでくれ。そこまでまずい話じゃない」

 一緒に来た女は、敏文の向かい側の校長の隣に座っていた。

 理事長は話を始める。

「今日来てもらったのは君に決定事項を伝えるためだ」

「決定事項ですか」

「そう。今日の主任会議での決定の一つに、君のことが含まれていてね。まあ、言いにくいのだが」

 いよいよその時が来た。敏文は理事長をまっすぐ見ることができず、うつむいていた。

「君に、葉狩さんを使ってもらうことにした」

「え?」

 敏文の挙げた驚きの声に、理事長が驚いていた。

「な、いきなり声をあげないでくれ。心臓に悪いだろう」

「す、すいません」

 女はクスクス笑っていた。敏文は何度目であろう恥ずかしさに、頭を抱えたい気分になった。

「で、でも、なんで葉狩さんのことを。僕がクビって話じゃ……」

「ははっ。何を言っている。君の働きはよく知っている。まだ新人なんだ。先ほどはあんなことを言ってしまったが、問題起こるのは仕方のないことだよ。私も君くらいの頃は同じようなものだったからね」

「しかし、なんで葉狩さん話が出たんですか。使用は本人の自由だったはずです。それに新人の僕なんかの話がどうして主任会議なんかに取り上げられるのですか?」

「なに。みんなロボットに頼っている中で、一人頼らず頑張ってくれているんだ。そんな君の働きはみんな見てくれているよ。だが、佐々木さんが、ここのところ、家にも帰らず働きづめだって言っていたのを聞いて、君のことが心配になったんだ。それで私のほうから会議に提案して、君のことについて話し合った。それで出た結論だ」

 喜ぶべきところだ。偉い人たちがわざわざわざ時間をかけて自分のことを話し合ってくれたのだ。

 敏文は、嬉しくなかった。

 葉狩さん。その言葉は聞きたくなかった。頼ることは、やっと慣れた教職から、自分が抱えている辛さから、何より現実から逃げることのようで、そんなみじめな自分になるくらいなら、死んだほうかマシだと本気で思っている。

「僕は、ロボットには頼りたくありません。人が人と接することで成り立つ教育を僕は目指しているんです。だから……」 

 理事長から返ってきた言葉は無慈悲なものだった。

「しかし、これは決定事項だ。君にはしたがってもらう」

 敏文には、これ以上言い返せる言葉も、権利もなかった。

 あの日、憧れた人がいた。自分はそれになることは、たとえ何年かかってもできない。なぜなら逃げてしまうから。

 目か溢れるものがあった。敏文はそれをぬぐった。

「す、すみません。子供みたいに、泣いて」

 理事長は黙っていた。隣の女は憐みの目を向けていた。

 敏文は、自分の無力さにこれほど失望したことはなかった。自分に問う、もっとできることはなかったかを。

 すぐに、その行為にも意味がないことが分かった。

 頭の中をよぎるのは、自分への糾弾と、後悔だけになった。

「宮下さん」

 理事長が敏文を呼んだ。

「アンドロイドを使うことが、嫌なのはわかる。しかし、これは時代の流れなんだよ。今教師の仕事は、とてもじゃないが一人では抱えきれない。一日二十四時間使っても足りないくらい位に多いんだ。君ひとりですべてを抱えることは無理だ。それに生徒の学力の伸びはやはりアンドロイドがやっているほうが飛躍的にいいんだよ。今の教育現場には不可欠な存在なんだ」

「でも」

「君だって、もう何日も家に帰ってないんだろう。仕事が多すぎるからだ。このままでは、君は過労死してしまうかもしれない。それはこちらとしても困る。君には強制力を使っても、時代の流れに合わせてほしい。それが君含めたみんなのためにもなる」

「……わかりました」

 理事長の言葉は正しかった。今の敏文には、それを受け入れることしかできなった。

 子供みたいに泣いた割には、自分の無力さを嘆くことに意味はないことぐらいはわかるほど、大人だった。

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