第2話
やっぱり帰りたくない。そんなことを思い始めるのは、とうとう月が空で輝いている頃。この喫茶店の閉店時間である10時まであと1時間をきっていた。店に入ったのは7時前だったはずなので、もう2時間近くも入り浸っていることになる。
マスターは私がここで何をしていても文句は言わない。ここで、宿題をしていればむしろ分からないところを教えてくれるし、電話をしても他のお客さんがいない状況なら文句は言わない。
今日も同じだった。私は部活の顧問に、日曜日の大会に出ると訴えたのだが、最近は学校の先生も保護者に気を配らなければいけない時代だからか、家のことを優先しなさいという一点張り。おそらく高圧的に話をした馬鹿母に配慮して、トラブルやクレームを防ごうという魂胆だろう。
日曜日は朝からお手伝いさんに監視されて逃げる隙は無いと予想できる。
「ほれ、そろそろ帰る時間だぞ」
「やだー」
「だめ。10時に閉店しないと、僕が寝れなくなるんだから」
残念ながら、これだけはマスターは譲ってくれない。仕方なく荷物をバッグにすべてしまって、帰る準備をし始める。
「明日も来るからね。急に、今日はお休みです、なんてやめてよ」
「はいはい、分かっ……」
不自然なところで返事を切ったマスター。マスターの方を見ると、意味ありげに入り口のドアを見つめている。いつも見ている気迫のない顔ではなく、とても険しい表情で。
不意に私の方を見たマスターは、
「2階に荷物があるんだけど、持ってきてくれないかな。カップなんだけど」
「なんで私が。それに……場所分からないよ?」
「上のテーブル席にあるから、頼むよ」
「……100円おまけしてね」
毎日お世話になっているので、多少のお手伝いは苦ではない。私はマスターにお手伝いの対価を求め、
「分かった。ささ、速く速く」
マスターは了承したものの、なぜか私を急かす。私は少しおかしいと感じたものの、言われた通り、近くの階段から2階へ。周りを見渡すが、それらしきものは存在しない。
「あれ……」
1階に戻ってもう1度マスターに聞こうと階段を降りようとする。
そのとき、聞き覚えのない声が耳に入った。
「店主さん。ここに、向かいの家の娘が来ているな?」
誰か知らない、分からない。私の知り合いじゃない。
「申し訳ありませんが、その質問には答えられません」
マスターが返答した瞬間、何かが破裂した音が聞こえる。耳を貫く高い音だった。
「……出せ」
「困ります」
また何かが破裂する音。そしてガラスが割れる音が聞こえる。
何が起こっているか分からないけれど、今降りたら危険だ。それだけは分かる。
「最後だ。次はお前の頭になるぞ」
頭。今までの破裂音とガラスが割れる音。私の中に嫌な予感が芽生える。
マスターが危険だ。携帯電話を出して、警察に連絡しようとするが、いつもはどこにでも電話できるはずの喫茶店の中なのに、画面には圏外という表示が出ている。
何かまずいことが起こっている。それだけは分かった。その原因が下に来ているマスターと話している変な奴だということ。
「どうしよう……」
と口にはしてみたものの、何も思いつかないし、だんだんとそんな状況が怖くなってくる。
「ここにいるのは分かってる。出せ!」
出せとは私のことだろうか。いったいどうして。何か恨まれることをしてしまったのだろうか。そんな覚えはまったくない。
ガラスが割れる音がした。破片が階段のすぐそこまで飛んできている。
何をしに来たのだろう。私になんの用なのだろう。謝ったら許してもらえるかな。
そんなことを考え始めている中で、マスターは信じられない言葉を言い放った。
「……お引き取りください。この店でトラブルを起こさないでいただきたい」
まさかの挑発。あり得ない。あのマスターは馬鹿なのか、と本気で疑った。
その後はもうめちゃくちゃだった。下から聞き得てくる音は日常では絶対に起こらないものばかり。
破裂音。何かが壊れる音。ガラスが割れる音。破裂音。破裂音。破裂音。壊れる音。何かが崩れる音。
怖い。下で何かが起こっている。何が起こっているかは分からなかったけれど、とてもまずいことになっているのは分かった。
何かが壊れる音と破裂音はまだずっと続く。
殺される。
なんの根拠もないのに、そんなことを思ってしまう。2階の隅にゆっくりと歩いて逃げた。
破裂音。そして何かが壊れる音。
まだ続くと思われたその音がついに止まった。
コツ、コツ。
階段をゆっくりあがってくる音がする。誰かが2階に来ようとしている。
マスターでありますように。そう祈りながら階段の方を見る。
見えたのは赤い服。マスターが着ていた服には少なくとも赤はなかったと覚えている。
終わりだ。何をされるか分からないけれど、きっとひどいことをされるに決まっている。
目を閉じた。開けるのは怖かった。
体が持ち上げられたのが分かる。一応健康体で結構な体重である私を軽々と持ち上げたその人はそのまま喫茶店の外に出たのは、夜風を感じたから分かる。
今からどうなってしまうのだろう。これ以上を考えると怖くて何も考えられない。
「どうして目を閉じてるの。開けて」
ふんわりと割れ物を扱うように体を下ろされた。
目を開けると、家の前にいた。
「ふえ……」
自然と涙がでてくる。近くにいたのはマスターだったから。先ほど見えた赤い色は服についた汚れだった。あまりにも鮮やかで湿っぽいので、血、などとよからぬことを思ってしまったが、それこそドラマの中の話。実際に、そんなことはない――と思う。
「怖かった?」
いつもと同じように私に微笑みかけるマスター。でもいつもに比べてとても頼もしい顔に見えたのは気のせいではあるまい。
ふと、喫茶店はどうなったか気になった。窓は割れ、外から見える範囲みても、中がひどい有様なのは頷けた。黒いスーツのようなものを着ている人が入り口近くで倒れているのはまさか、マスターの仕業だろうか。
「ちょっと、野蛮な人たちが来てしまってね。ちょっと店を荒らされちゃった。しばらくお休みして店を直さなきゃね……」
「マスター、大丈夫なの……? なんか、すごい音してたけど……」
「大丈夫だよ。……いや、ちょっと大丈夫じゃないかも。店が……」
落ち込んだ様子を見せるマスターが少し汗をかいていたように見えた。
「さあ、今日はお帰り、これ以上は営業できないからね」
それだけ言って帰っていくマスター。服の後ろが破れている。普段はだらしないと思うが、今は格好いいと思った。
家に帰ると涙目になった父が玄関で私の帰りを迎えたのは驚いた。話を聞くと、今まで私をついてきていたお兄さんはボディーガードではなく、私を狙うよからぬ人だったらしい。ボディーガードなど雇った覚えのない父は、私のストーカー発言が気になっていたらしい。もしかしたら、喫茶店を狙った人たちだったのか。
では、マスターはまさか――いや、そんなことはないだろう。
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