第4話 7月から夏休み

 体力のない俺には毎日の自主練は辛かった。何度も心がくじけそうになった。ひどい言葉も確定一名からかなり言われた。しかし、まだ頑張れる。その気持ちが少しでも残っていると練習を続けた。

 一か月して七月になった頃。変化は現れた。

練習はいつものようにトレーニングから始まる。マラソンは部の中で上位に入った。その後のトレーニングもすべてこなして、全く疲れを感じなかった。

 香美先輩は俺の急な変化に、毎回驚いている。

「すごいねー本当に……何があったの」

 一か月の自主練で変わった自分を、俺はやっと実感できてきたところだ。そしてうれしかった。

 練習の休み時間、由佳里が話しかけてきた。

「なに?」

「すごいね」

 いきなり褒められたので、俺は変な気持ち悪さを感じた。

「いきなり、なんだよ」

「よかったね、部活についていけて」

 懸けられたこの言葉は、俺が部活に入って一番うれしいものだった。やっと認めてもらえたと思った。同級生に認められるというのは、おかしな話だ。しかし本当にそう思った。

「歌唱練習始めるよー」

 部長の声が響く。功補はやっとスタートラインに立った心地がした。

 そしてこの日から、部活がだんだんと楽しくなってきた。

 一か月前の自分を思い出すと、なんて情けない奴なのだろうと思わず笑ってしまう。

「最近楽しそうだよな」

 俺が部活に行こうとしたとき、章が話かけてきた。

「まーね」

「一か月前のお前を見ると、笑っちゃうよ」

 章も同じことを言った。俺はそれについ笑ってしまう。

 章は言葉を続ける。

「歌唱部は週一でいいよな」

「いや、自主練してるから毎日練習だし」

「毎日やってそんな生き生きできんの。ありえねえー」

 俺はにやりとした顔で言った。

「まあ、本気でやってるからね」

 そして功補は音楽室に走っていた。

 今の功補は、音楽室が自分の場所のように恋しく思っている。扉も今となっては、とても軽く感じる。

 部活が始まり、俺はボイストレーニングを軽々こなした。

次は歌唱練習。のはずが、部長が部員を集合させた。

 何故かはさっぱり見当もつかない。

 功補は、何を言われるか緊張した。

 部長の口が開く。

「九月の文化祭に向けて、テーマに合わせて今から個人曲を決めてください。今回のテーマは映画の主題歌。来週までに私に曲名を言ってください」

 それは夏休みをはさんで、初の発表の場が来るということ。

 それを聞いて功補は、胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。


 八月


 夏休み中である八月の部活は、一日、十五日、三十日の三回。

今日はその三日のどれでもないある日、音楽室の隅で、俺は一人悩んでいた。

 俺の声、俺のアイデンティティーとは。

 同じような言葉だけが頭をめぐって、全く答えが見つからなかった。おかげで全く練習に集中できない。

 なぜ悩んでいるか、それは夏休みに入る前に、部長とのやり取りにある。



「功補君、ちょっといい?」

「はい」

 夏休み前最後の部活、珍しく部長に呼ばれた。まさかもう戦力外通告を受けるのかと、ヒヤヒヤしてしまった。

「君も文化祭からデビューってわけだけど」

「はい、そうですね」

「今のままじゃ無理だね」

「えっ」

 嫌な予感が本当になってしまいショックを受けた。俺は自分でも人生の中で一番努力してきたここ一か月だったと思っていたので、この通知には、何とも言えなくなってしまった。

「……無理ですか、僕じゃ。お話にならないですか」

 涙がにじみ出そうになる。

 それを見た香美先輩はいきなり慌てだす。

「いや、あの、ち、違う、違うよ?」

「え?」

 だったらいったい何だというのか。俺には意味が分からなかった。

「君はまだ、自分の歌声が未完成だから、夏の間に完成させてほしいなって」

 そして部長は自らの体験談をふまえ、俺のやるべきことを話してくれたのだ。

 話の七割が体験談だったため割愛し自分なりに話の要点を求めると、文化祭で歌う歌声は合唱の時に歌う時のそれとはわけが違うらしい。一人で歌うため、一人の声で人を魅了しなければならない。そのため求められるのはプロの歌手のような、アイデンティティーのある声だ、とのこと。

 俺はとりあえず、戦力外通告でなかったことにほっとする。

 しかし、新たな問題が発生したことは言うまでもない。

「自分らしい歌声、ですか」

 はっきり言って全く想像がつかない。

「一か月ちょっとじゃ、難しいかもしれないけど。これが歌唱部の厳しさだって思って、頑張って」

 明らかな無理難題を笑顔で言ってくる。しかし、部長の言うことには基本的に逆らってはいけないのが後輩の悲しい宿命というもの。これだって、別に悪意のあるいじめではない以上、断っていい理由はどこにもない。

それに、大会に出る以上は、大会のための練習をしなければならないのは当然のことだ。

この言葉は、以前章から聞いていたが、ようやくその意味が分かった気がする。

残念ながら逃げ場はないのは確実で、前のめりになるしかないようだった。

「はい、頑張ります」

 壁を乗り越えたら、また壁がある。まだまだ前途多難そうに思えたが、それでもやるしかない。



 しかし今俺は半径二ミリくらいの穴が規則的に開いている壁とにらめっこしている。そしてその穴を覗きながら、頭の中は焦る自分を落ち着かせるのに全力を投じている。

しかし周りから普通に見たら頭がおかしい奴にしか見えない。

 そして見ても、話しかけないのが一般人。しかしこの部活にはそれに属さない鬼が一人いる。

「やめて、見ていて気持ち悪くなる」

 人の心を察することなく、由佳里が放つ言葉は鋭く、功補の心にまっすぐ突き刺さった。

「もう少し言葉を選べよ」

 と、功補は顔を上げて由佳里の方を見た。

由佳里は何も変わったことがないように、練習を続けている。

「相変わらずだな、おい」

 返答はない。

 頭を掻いた。このまま引き下がるのはなんだか悔しいのでまだまだ言うことにする。

「そうゆうお前は、大丈夫なのかよ」

 それに由佳里はわざわざ練習を止めて、

「君とは違うから、大丈夫」

 と、勝ち誇ったような顔でこちらを見ながら言葉を放つ。俺にまた突き刺さった。ひどい女だぜ、と言いたいのを舌打ち一つで我慢。

 俺は、由佳里にいちいち楯突いている場合ではないことは自覚している。いちいちケンカする必要はない。

とりあえず、なにかするか。

と、いつもの準備運動を始めた。



「で、本当にどうすんの?」

 練習の途中で珍しく由佳里から話しかけてきた。床に寝転びながら俺は目を見開く。

「え、ん?」

由佳里の目つきが急に鋭くなった。

「ねえ、なに、その眼。私がしゃべりかけるのが、そんなにおかしいの?」

俺はそんな顔をしていたという自覚はなかった。なぜこのような言われ方をするのか、さっぱりわからなかった。

「それより、どうするの?」

 由佳里の言葉に体を起こした俺はうなだれる。

「正直わかんない。こればっかりは努力だけじゃなんともならないし」

「助けてほしい?」

 いきなり救いの手が差し伸べられた。俺はすぐさまうなずこうと思った。

「土下座して、助けてくださいって言って?」

 と、やはり慈悲と言う言葉はこの女には似合わない。その言葉に俺はぴたりと体を止めた。

最低だな、この女。

 救いはプライドと交換という、いかにも彼女らしい俺のいじめ方だ。この要求は受け入れられるものじゃない。

しかし俺にはここで迷っていても答えが出ないかもしれないという不安があった。この女は、明らかに俺よりすごい人間だ。助けを求めることは決して悪手ではない。

だからこそ、その悪魔の誘いになるかどうか迷う。

「今しか助けてあげないよー」

 どうやら最終手段として残しておくことすら許されないらしい。由佳里は意地の悪い笑顔で選択を迫る。

 


「アイデンティティーのある歌ってそんなに難しく考えなくていいんだって。人が出せる歌声は基本的に一種類しかない。モノマネ芸人は知らないけどね。自分の声をありのまま出すのが第一歩。そこから少しづつ調整していくの。まあ、人それぞれの感覚があるみたいだからあまりほかの人が口出ししても意味ないみたい。つまり自分でどうにかしろってことじゃない」

 さすがに恥ずかしいことをしただけあって、いつもは短い言葉で俺を罵倒するだけのこの女も、少し長くしゃべってくれた。

 しかし具体策は何一つ出ていない。これでは土下座の意味がない。俺はこの場での自分のすべての行動に後悔した。

「まあ、練習なら暇なときに付き合ってあげるから」

「え……」

 またもこの女らしくない提案だった。

「もう、土下座は」

「別に良いわよ! やる気があるなら手伝うってこと。私はやさしいから」

 と言うと、彼女は荷物を持つ。

「これから、しばらくおばあちゃんの家に行くから無理だけど。そのあとならいつでも言って」

 とだけ言って、彼女は音楽室を後にする。

 さてどうしようか。音楽室に一人と言うのはあまりにも珍しい。

 俺はもじもじしていても仕方ないと思い、一回トイレに行くために音楽室をでた。

 功補は廊下を歩きながら、自分の声について考えてみた。

俺って、どんな声なんだろう。

 空き教室に入って扉を閉めた。ありのままの声を出してみた。

「たーらーらー」

 なぜこの言葉が出てきたかはわからない。それよりも問題なのは声。自分で聞いてみると、歌手のような魅力があるとはとてもじゃないが言えない声だった。

「一か月ちょっとでよくなるかな」

 不安のみが残ってこの日は過ぎていった。


 

 八月二十日、俺が自主練習に来ると、由佳里が一人で練習していた。まだ朝七時半。俺は彼女の努力には感服する。

「おはよー」

 功補は何と声をかければいいかわからなかったので、とりあえず挨拶をした。しかし由佳里は歌っている途中だったので、返事はしなかった。

 歌っていたのは、高音を多く必要とするバラード。高音は声にぶれが生じやすく、プロ歌手でない歌唱部では、失敗の可能性が高いためあまり謳われてこなかったらしい。しかし、彼女にその心配はない。あまり音楽について詳しいことが言えないゆえ、稚拙な表現になってしまうが、心がリラックスできるやさしい歌声だった。

 俺は部屋の端に荷物を置いて準備運動を始める。

 しばらくして、由佳里が近くの椅子に座り、

「調子どう?」

 むこうなりの挨拶であろうものを受け取った。

「いや、全然。もしかしたら間に合わないかも」

「私も」

 この言葉に俺は少し驚いた。もう少し追及してみる。

「俺より歌うのうまいのに?」

「まだ、満足いかない」

 上級者の典型的な悩みだろう。いつかは言ってみたい一言だ。その言葉をさらっと言う由佳里は、まだ自分には追いつけない存在であることが分かる。

こんなこと考えたら、気分がおちる。

自分に言い聞かせる。

 バッグからペットボトルを出した。中身は凍っているのでおでこに当てると頭が冷える。

「聞かせてよ、俺聞きたい」

 由佳里が本当に満足いかない歌声なのか、疑問だった。という建前になるだろうが、実際は単に聞きたいだけだ。

「人に聞かせられるものじゃないよ」

 と、言いながら、由佳里は俺の前に出ると、歌い始めた。

 歌声に文句はつけようがない。前に聞いたときより、魅力ある声だった。元気があってはっきりとした声だ。そしてこの声に歌詞がよく合っている。さらに驚くべきは顔だった。ずっと笑顔が絶えない。その笑顔のなかでも微妙に変化がある。聞いていて飽きないのでなく、見ていて飽きなかった。

 最後の礼まできちんとこなした彼女は一回ため息をついた。

「どう?」

「よかったよ。それでいいじゃん。そのまま本番いっちゃえばいいのに」

 彼女はその言葉に顔色一つ変えなかった。

「あんたに聞いたのがバカだった」 

 褒めたはずなのに、文句を言われ俺はショックを受ける。

「私やったんだから、次あんた」

「ええ!」

「いいじゃん」

「俺、下手だよ」

「知ってる」

 事実だが容赦のない言葉がまた向かってきた。俺はため息をつく。

仕方なく前に出て、一回深呼吸。気持ちを落ち着けた。

「じゃ、いきまーす」

 功補は歌い始めた。今のところの練習の成果をすべて出すように。自分らしい声、魅力ある声を意識しながら歌った。


 

 歌い終わると同時に由佳里は笑い始めた。

「な、何がおかしいんだよ」

「へ、下手だなって。ふふ」

 さすがにこの言葉は傷つく。今までの中で一番きつい。功補は一瞬泣きそうになった。

「さすがにそれは傷つくぞ、お前」

「ふふ、い、いや。ごめん」

 その言葉も笑いながら放たれた。

 約三分。彼女は笑い終わってから言った。

「あんた、力入りすぎなんじゃない?」

「え、そう?」

「なんか、見苦しかったよ」

 指摘はいつもの言葉と違って、的確なうえ柔らかかった。それが以外で首を傾げる。

「もっと楽しくやらなきゃ。自分を作ろうと思っているみたいだけど。本当の自分ってやっぱ楽しいときに出るものじゃん。今の君の声は君じゃないって感じ。もっと楽しく、それがまず君の声を作る第一歩だと思う」

 いつになくまじめでやさしい言葉に、俺は戸惑い、リアクションに困ってしまう。

「どうしたの?」

「いや、こんなしっかりした助言がもらえるとは思ってなかったからさ」

「私は、どうしようもないドヘタさんに仕方ないからアドバイスしただけ」

 やはり、先ほどの柔らかな言葉は気のせいだ。

彼女はニヤリと笑みを浮かべまた自分の練習に戻った。

気を張りすぎていたのかもしれない。

功補は自分が前のめりになりすぎていたことに気付いた。由佳里をみて、すごいと思った。厳しい練習の中で楽しむ心を持っていた。

 いや、逆か。

 楽しいから、あのような練習ができているのかもしれない。

どちらにしても、今自分に足りていなかったものが明白になったことに、功補はすっきりした気持ちになった。

 功補は三回深呼吸した。気持ちが落ち着いたところで、ちょうど小休止を入れている由佳里に言った。

「なあ、また今度見てくれないかな」

「いいよ」

 すぐに承諾してくれるとは思わず、またリアクションに困ってしまった。

 それから一か月、とにかく楽しく練習をした。



 八月三十日、夏休みがもうすぐ終わる。この日も功補は由佳里に歌を聴いてもらっていた。

 俺はとにかく楽しく歌った。

一か月間の練習で、自分らしさを探そうとはしなかった。楽しく歌っていた。そしてその歌をより良くしようと工夫をした。それだけをやっていた。

歌い終わると、由佳里は笑うことなく、拍手をした。

「良くなったよ。これならみんなの前で歌っても大丈夫」

 褒められてうれしかった。

「じゃあ、次お前な」

「私はいい」

「なんで?」

「本番までのお楽しみにしておいて」

 そう言って笑うと、由佳里は荷物を片付けた。

「私もう帰るね」

そう言って、帰って行った。

 俺は言われた通り、楽しみに待つことに。文化祭まであと一週間。もっと工夫や改善をして、本番に由佳里を驚かせてやろう。

 そう決意し、練習に励む。

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