高校1年生の歌唱部月記

第1話 4月

 窓の外には最後の花を咲かせている桜の木が何本か見える。この頃俺は放課後、ねずみ色で真ん中に線が入っている、左側通行を訴えかける学校の廊下を歩いていた。

「ホッケー面白いよ。一緒にやろうよ」

 いきなり話しかけられることも結構ある。ユニフォームを着ている上級生が気持ち悪い作り笑い浮かべながら俺に寄ってくるのだ。こちらに期待を寄せている眼は、俺にとって心地が悪いものだった。しかし相手は上級生。失礼のないように振り切るのはなかなかに難しい。

「あ、すいません。ありがとうございます」

 適当に言葉を繕い、逃げるように早歩きでその場から脱出するのがいつもの手段だ。

 三時間ほど適当に歩きながら、様々な場所を眺め、最後にハンドボール部が活動しているコートを見た。結局何もしないまま、俺は家に帰ることにした。教室は最上階の三階、今無駄な労力を使った上に、遠い三階の自分の荷物を取りに行かなければならない。この状況にうなだれる。

 学校を意味もなく徘徊する理由は、毎年の一年生に与えられる大きな選択のためだった。

この高校に入学したのは二週間前。偏差値だけで決めた学校だったからか、特にやりたいことはなかった。

 しかし、それはいかがなものか、と入学する前に考えたのだ。なぜなら世間一般では花の高校生活とよく言われている。それだけ高校という場所は楽しい場所になる可能性があるという事を示していると考えられる。

 ならば俺も何かはやってやろう。

 そんなことを考えながら、入学式の日この学校に足を踏み入れたのだ。

 一週間前にホームルームで部活動加入の話が出たとき、俺には天啓を得るようなひらめきに頭を支配された。しかし他の人にとっては至極当たり前の事だった。部活に入る。それが俺の望む楽しい高校生活というものに近づく第一歩なのではないかと考えたのだ。

 俺は中学の頃は部活に入っていなかった。自分の時間を奪われ、授業以外の時間に教師のご機嫌を伺いながら、自分のためになるかどうかも分からない事をやらなければならない。部活に入ることに何の意味があるのか全く分からず入る気になれなかった。

 しかし、俺の周りの部活をやっている人間は、何か俺と違う顔をしていた。すがすがしさを感じさせるような快い顔を。俺には出来ない顔だと思ったものだ。

 奴らが何故そんな顔が出来たのか俺には分からない。しかし、俺と奴らの違いは部活に入っているか入っていないか。きっと、部活には俺の認識出来ない、奴らをあんな顔にする何かがあったのだ。

 そして今、再び部活に入るチャンスが目の前にある。中学とは違う楽しい生活をしたい。そう思う俺にとって部活に入る事は、きっと俺の理解を超える楽しさがある、と期待させてくれている。

 だからこそ部活を探さなければならない。そう思い、部活見学、仮入部の期間中、俺は運動部、文化部、関係なく様々な部活を見回りながら、自分の入りたい部活がどこにあるのか吟味していた。その期間はおよそ二週間。

しかし、やりたい部活が全く見つからない。まるで、俺には部活に入る権利がないとでも言われているように、どの部活を見ても全くやりたいと思わないのだ。やりたくないことをやっても辛いだけだというのは、受験の時に嫌と言うほど自覚している。だからこそ少しでもやりたいと思うところを探していたのだが。

書類の手続きの関係上明日には入部届を出さなければならない。

「やばい、どうしよう」

 昇降口を入り、木の下駄箱に自分の靴を入れて、すぐ正面にある階段をのぼりながらその言葉を何度もつぶやく。

たどり着いた教室にはすでに俺の荷物しかなかった。不幸な事に教壇のすぐ前にある俺の席の上にあるそれを持って帰路につくことを決める。

 結局俺は何にも入らない事に決めた。自分に合うのがないので仕方がない。そう自分に言い聞かせる。

そして再び階段を下りている途中、歌声が微かに聞こえてきた。どこかで聞いたことがあるような歌だ、しかしはっきりと聞こえない。俺は何を歌っているかが気になった。

頭の中に生じた疑問が、功補の足を自然に動かす。普段は特に気にも留めないと思うのだが、このときは自然に足が動いた。初めて通る二階の廊下。二年生の教室が並んでいる教室群が一年のものと同じように平列しているが、それより近くに音楽室があった。

 入口の分厚い扉は防音の役割があるが、その扉は少し開いていてその奥から女性特有の高音の声が聞こえてくる。

「一人……なのかな」

 扉を開けようとした。しかし扉は思った以上に重く、まるで俺には、これを開ける資格がないかと訴えているように感じられる。

 それを無理に開き、少し顔を出すように中をのぞく。

美しい歌声が聞こえた。

 数人に見られているなかで、一人の女子が有名なバラードを歌っている。伴奏はなく、それでも十分な音量がある。それほどの大きな声を出しながらも、音程がぶれない。

俺は衝撃を受けた。歌で心が震えた自分がいたから。

 確かに昔から歌を聴くのはそこまで嫌いではなかった。しかし、歌がこうも心を震わせるとは思っていなかった。

 歌を歌うことに興味が出てきた。

 今自分の知らない世界の入口にいる心地がしていた。もし自分がこの中に入ったらどうなるか。少し怖じ気ついてもいるが、面白そうにも思える。お化け屋敷に入るまえの緊張にも似ているが、違う気がした。とにかく、不思議な感覚だった。

「あっ、見学の人?」

 自分の中で考えを巡らせているうちに歌はすでに終わっていた。いつの間にか視線が集まっていることに全く気が付いていなかった。

「部長、男子、男子だよ!」

 二年生の証である、赤い校章をつけている女子が、俺の方を指さしながら部長と呼ばれる人の方を見て言った。

 よく見ると、女子しかいない。

やばい。入ってはいけないところに入ってしまった。

と、思わずにはいられなかった。そしてこの場合、逃げるほうがいい、と、頭の中で結論が出る。

「いや、あの、すみません。間違えました」

 何とか言葉を繕った。逃げようとしたが、

「間違ってないよ、間違ってない!」

「中入って」

「カモンカモン!」

 期待の目で見られながら襲いかかる、先輩二人の「おいでよ」攻撃にとうとう負けてしまった。俺は中へ連れられ、椅子に座らせられ長話を聞くことになった。

歌唱部は文化部で、歴史も三十年ほどとそこそこある。内容は、歌を歌うこと。しかし、合唱部と違うのは、基本一人で、しかも、曲はジャンルを問わずに練習し、毎年九月に行われる文化祭と、三月に行われるコンサートで発表するのが活動の中心になるという。

現在二年生三人、三年生は部長一人と少し寂しい感じだ。

「それで、活動日だけど……」

 俺は部活動の加入希望者と間違えられているこの状況、何とかしなければと考える。

「で、こんな感じだけど」

 最後が全く聞こえなかった。状況の克服のために頭をすべて使ってしまっていたため、全く話が頭に入っていなかった。

「入るよね、もちろん!」

 上級生からのプレッシャーは凄まじい。ただでは帰さないというような雰囲気出している。そして自分以外居るのは全員女子。言葉を間違えるととんでもないことになりかねない。俺はますます返す言葉が決められない。

「ねえ」

その時いきなり後ろから話しかけられた。先ほど歌っていた女子だった。胸の交渉は青。つまり俺と同じ一年生ということだろう。

「嫌なんでしょ。邪魔だから早く帰って」

 冷たい言葉が突き刺さる。

「い、いや。ちょっと迷ってて」

「どうせバカにしに来たんでしょ!」

 険しい顔でまったく見当違いのことで怒鳴られた。俺はまだ何もしていないというのに。

「由佳里ちゃん、そんなことを言うのはよくないでしょ」

「……」

 先輩が由佳里と呼ばれたその女子を諫める。

「このままだと、一年生あなただけになっちゃうよ」

「いいですそれで」

 そして、彼女はこちらを睨んだ。

「邪魔」

息も許さないような時間で徹底的に俺を邪魔者扱いする言葉の数々。せっかくこうして配慮の上で部屋に入ったというのに。

さすがに気分が悪くなったので功補は音楽室を出ていった。

 しかし上級生が後ろから走って追いかけてくる足音が聞こえた。

「ごめんね。気を悪くしたよね」

 俺の前に来て、頭を下げて謝られたので、その真摯な姿勢にさすがに俺は一瞬足を止めずにはいられなかった。

「どうしたんですか、わざわざ」

「由佳里ちゃんが感じ悪いこと言っちゃったから……」

「なんで先輩が頭下げに来るんですか」

「理由があるの。由佳里ちゃんがあんなこと言う理由。それだけでも分かってもらわないとって思って」

なぜあんな言われ方をされなければならないかは気になるところだ。

「今年の一年生、歌唱部をバカにする人がなんか多いみたいで。ここに聞こえるように、嫌味を言いにくる人もいて。気に入らなかったみたいで。あんなこと言っちゃったの」

 だからといって、自分に当たられるのは困る。

「やっぱり、入部してはくれない、かな」

 たったそれだけで入部してくれなど普通言わない。しかし新入部員が一人というのは、部の将来が危うくなるということだ。そもそも上級生の数が少ないこの状況で、なぜこんなことを聞くのか、簡単に想像できた。

 先輩にここまでさせておいて、入らないとは、とてもじゃないが面に向かって言えない。

それにおかしな話、音楽室に入るとき感じたあの感覚。きっと興味がないということはないのだろうと思った。

入るか入らないかは少し迷うところではある。

「……ちょっと考えてみます」

 これは気を使ったわけでなく、本心からの言葉だった。

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