第3話 忘れられない光景

 月が上にある。まるで僕と沙紀を見ているようだった。

 沙紀は僕に町の外のことを聞いてきた。今何が流行っているのか、そもそもどんな日常を送っているのかなど、だからいろいろ教えてあげた。そして沙紀は、聞いてもいないのにいろいろな話をしてきた、築茅場の夏祭り、竹細工の話、普段の農業の話、普段は何の感動もない言葉たちだったけれど、不思議とつまらなくはなかった。徹夜は初めてだった。それでも、不思議と眠くはならず楽しい一夜だった。



 そして、朝日の光が山の影を大きく映し出す頃。

「もう、ここ以外ねえなー」

 神社の外から声が聞こえた。

「あ……、そろそろお別れしないとね」

「え……」

「きっと君を探しに来た人だよ。そうじゃないと、こんなところに人は来ないから」

 彼女は神社の裏道からこの場を去るつもりだ。

「あ、あのさ!」

 あまりにもあっさりした別れに納得がいかず、ちゃんとお礼とさよならを言いたかった。

「ありがと! 楽しかった!」

 とだけ言うと、急ぎ足で去って行った。

 あとを追いかけようとしたが、

「お、君、東都第一中学校の子かい?」

 ホテルの作業着を着た知らないおじさんに発見されて、無事救助されることになった。

 どうやらこのおじさんは北之輪ホテルの社長らしく、北之輪町の出身だそうだ。しかし、町が機能しなくなって長い時間がたつのに、町がきれいに残り、多くの稲穂を見かけたときには驚いたらしい。

 しかし、社長が驚いた理由を聞くと、

「最近、北之輪町が一時期話題になったことがあってね。山の中で道に迷った人が偶然たどり着いたらしいんだけど、そこで奇跡を見たって言うんだよ。誰もいないはずの町では今も多くの作物がつくられていて人が住んでいるって。……だれも信じちゃいなかったさ。誰も住んでいるはずのないそこで、そんなことはありえないからね。私は町がなくなる二年前に、町の限界を感じて都会に出たんだが、結局ここに戻ってきてしまった。しかし、町はもうないと近くの役場から聞かされて、故郷に住みなおすこともできず、それでも、あの地を忘れることなんかできなくてね。あそこにホテルを建てて、せめてあの町の近くで生きたいと思ったんだ。いつでも帰ろうと思えば帰れたのだろうけど。田舎の母さんのことを思いだして帰れなかったよ。一人残したお母さんが死んだのは、毎月届いていた手紙が届かなくなったときに悟った。そんなこともあってね、さっきは久しぶりに故郷に帰った。そしたら、町がまだ生きているのを目の当たりにして、帰らなかった自分が情けなくて、涙を流したよ。きっとあそこには神様がいるんだな。神様が、あの村を守ってくれていたんだろうな。これからは俺も、あの町を守っていかんとな」

 沙紀のことを聞いても、知らないと答えたこのおじさんは、沙紀が守ってきた故郷を見て涙したという。おじさんの故郷愛に、ではなく、おじさんにここまで思わせるあの町の凄みに敬意を覚えた。

 遭難から無事に救助されて、どこか安心しているからこそ思うことだが、あの町で見たこと、聞いたこと、話したこと、すべてはこれからも忘れることはないと思う。

 別にあの綺麗な光景を見たからって、自然を愛そうという高尚な思いは一ミリも浮かんでこない。

 あの神社からパワーみたいなものをもらった気分もない。

 不思議な少女、沙紀と友達になったわけでもない。

 特に何も得たものはないのに、それでも、ここに来てよかった気がする。

 それはきっと、学校が用意したくだらない自然体験なんかよりも、尊い何かを得て、ここにきてよかったと心から思っているから。

「ははは、らしくないな……」

 と思いつつも、遠くなっていくその町の方を眺め続けていた。


 **************************


 東都農業研究大学。日本最後の農業専門学校。長い長い夏の研修と授業が終わり、だんだんと気温が下がっていく秋の日。この学校は夏休みがない代わりに、秋休みという名の実地研修期間に入る。日本全国の農家さんに自分で交渉をして、収穫を手伝い、作物のレポートをレポート用紙五枚以上で簡潔にまとめなさい、という、無茶苦茶な宿題が出される。期間は三か月あるが、交渉に行き詰まると達成できない学生も発生し、これのせいだけで留年という最悪な課題である。

 その課題を出された瞬間、迷わず僕は信州県に向かった。

 北之輪町で彼女に交渉してみるつもりだ。

 最近免許を取った、スカイカーに乗り込み、空から北之輪ホテルに向かう。北之輪町の話を出すと、林間学校で遭難した生徒だと思い出され赤面する羽目になった。それでも快くホテルの一室を半額で貸してくれることになったので恨み言は言うべきではないだろう。

 しかし、最初にホテルには向かわなかった。北之輪町の直行するつもりで、危うい記憶を頼りにしつつ、降りるべき場所を探したが見つからない。

 捜索を断念し一度ホテルに向かった。

 ホテルに着いてすぐ、今度は徒歩で探し始めた。林間学校のバイキングコースを辿る。

 やがてたどり着いた分かれ道で、深呼吸をしてからあの日迷い込んだ道へ足を踏み入れた。

 そして。

 二時間の徒歩による移動の後にようやく北之輪町と書かれた看板を発見。さらに進む。

 そしてさらに一時間。ようやくたどり着いた。

「あ……」

 聞き覚えのある言葉が、町についたとたん聞こえてきた。しかし声が違う、あの時に比べ大人びているような声。

「沙紀……さん?」

 その名を呼ぶと足音がし始めた。今となっては懐かしいあの日、もう八年も前だと思うと驚きだ。

 その足音を追いかける。

 しかしそれは以前のように神社ではなくて、ある民家の前で止まった。

「ここは……」

 右に見覚えのある民家、そして左は――。

 美しい景色だった。

 穏やかな風に揺らされる稲は、目の前の一面を支配していた。どこまでも続いている、ということはないが、目の前の田は、すべて夕日を浴び、黄金に輝いていた。金属と金とは違う、神秘的という言葉を使うにふさわしい金色だった。

 あの日見た景色と、全く同じだった。

 しかし見飽きない景色だ。

 時に夢にまで出るほどに、僕はこの景色に夢中になっていた。いつかまたもう一度見たい、そう思い続けてきた。

「また……来てくれたんだ」

 隣に人を感じた。見ると、そこに立っていたのは、同い年くらいの綺麗な人だった。あの日見た沙紀とは見た目が違う。

「うん……ちょっと用があってね」

「なあに?」

「しばらくここに住んで、収穫を手伝いたいんだ。いいかな?」

「……いいよ」

「ありがとう。……そういえば、成長してるんだね」

「君に出会ったあの日からだよ。また会えないかなってずっと待ってたら、歳を取るようになったの」

 その言葉に不思議と悪い気はしない。しかし、はっきり言っておかなければならない。

「僕のせいじゃないからな」

「ふふ、きっと君のせいだよ」


 **************************


 北之輪町、人々から忘れ去れた多くの小さな町の一つに過ぎない。しかしその町はまだ生き続ける。今日も、そしてこれからも。

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