第2話 守り神

 この家に入ってきているのだから、きっとこの家の人だ。

「待って」

 という僕の言葉を完全に無視し、家の外へ出て行こうとするその足音を追いかける。

 外へ続く戸が勝手に開いた。見間違いではない。そこには誰もいないはずだった。戸はすぐに閉められた。

 しかし、足音はまだする。その奥から。

「待ってって!」

 僕は和式スライドドアの前に立った。しかし動かない。自動ドアが全ての家に取り付けられるようになったのは五十年ほど前だったのを思い出し、この家に無いと気付き、手でドアをスライドさせて開けた。

 光がちょうど目に入る角度で太陽から来るので、家の前までは目を閉じなければいけなかった。

 そしてその家の前に来たとき、瞼から感じる光が弱まり、ようやく目を開くことができた。

 その時、最初に目に入ってきた光景が視線を釘付けにした。

 初めて見る景色だった。

 穏やかな風に揺らされる稲は、目の前の一面を支配していた。どこまでも続いている、ということはないが、目の前の田は、すべて夕日を浴び、黄金に輝いていた。金属と金とは違う、神秘的という言葉を使うにふさわしい金色だった。

 稲には小さな粒がたくさんついている。風によって揺らされる稲が奏でる音は、どんなTVでも聞いたことのない、電子音とは違うきれいな音。

 かつてここまで、視界に入ったものが、耳に入った音が、心を震わせることはあっただろうか。

 その光景とは十秒ほどで別れが来た。太陽の角度が変わり、稲の色は、よく教科書で見るありきたりな何の感動も呼ばない色になり、風はそれに合わせるように止んだ。

 一瞬、たった一瞬の出来事だった。

 あまりにも急に現れた景色に、言葉が出たのは、その奇跡ともいうべき状況が終わった後だった。

「うわぁ……」

 終わった後もしばらく足を止めていた。

 追いかけていた誰かはもういなくなってしまっただろうか。先ほどの言葉からさらに何秒か経ってしまっている。

「あ……」

 そんなことはなかった。先ほどの声がまた近くから聞こえ、足音もし始めた。

 その方向を見ても誰もいない。しかし、足音は確かにする。周りからは人や機械の音がしないため、足音がはっきり聞こえる。僕から逃げているその足音を再び追いかける。

 走りながら、周りを見渡した。

 人はいない。すでになくなってしまった村に見える。しかし、それにしてはおかしいことがいくつもある。家はボロボロになってないし、先ほどみた稲のように様々な植物が人の手で育てられているのが見て取れる。

 周りを見渡してみると山ばかり、どうやら盆地にできた村だったようだ。途中、役所の看板を見ると、『北之輪町役場』という看板を見つけた。北之輪と聞き宿泊するはずのホテルを思い出す。何か関係があるのかが気になった。

 見えない存在の足音はどんどんと町のはずれの方に向かって行く。

途中に見えた小学校も人の気配はない。さすがにここは何年も使われていないのが分かる。校庭に雑草が生い茂っていて、教室の中の椅子も乱雑に置かれていた。

「こわ……」

 足音はさらに町はずれの方へ。

 町の中では時々竹細工を見る。この村の特産品なのだろう。たまに道端にも落ちていて、綺麗につくられたそれを拾ってじっくり見てみたいとも思うが、今は僕から逃げている足音を追うことを優先した。



 たどり着いたのは、町はずれに存在する鳥居の下。この寂れた町にもあるのには少し驚いた。

 鳥居をくぐりさらに石造りの階段を上がると、賽銭箱が置いてある神社と呼ばれる建物があった。すでに長い年月が経ち、いたるところが傷ついているにも関わらず、それでも漂っている独特の雰囲気は、ここがまだ、神聖な場所であることを示しているようだった。

「ひゃわ」

 そして、賽銭箱の近くに、一人の少女が立っていた。

「君は……」

「……追いかけてきたのですね」

 あの足音を出していた人だった。

「あの、僕は」

「……賽銭箱の横にお座りになってください」

 木の段差になっているところに、彼女の言う通り腰を掛ける。彼女は僕の隣に座った。

 まず、一番最初に聞いておきたいことから聞くことにした。

「あの、僕運んでくれたの」

「すみません。勝手に私の家に運んでしまいました」

「あ、いや、そんなこと」

 十二歳、十三歳くらいの女の子、つまり同い年に近いように見える。目も髪の色も黒色で純粋な日本人。

「……驚きましたよね。いきなり知らないところに連れてこられてしまって」

「い、いや、その、そんなことないよ。もしあのまま気絶していたら危険だったと思うし、……ありがとう」

「それなら……よかった」

 彼女は立ち上がり三歩前に出ると、僕の方に振り返った。

「驚きましたよね」

「え……」

「だって、何もいないはずのところで物音がするんだもの」

「ああ、それは……まあ、驚いたよ」

「怖かったんじゃないですか?」

「それは、逃げた人にはそう思わないって」

「ふふ、面白い人ですね」

 いきなり面白い人呼ばわりとはいかがなものかと思うが、不思議と悪い気分ではない。

「ということは、僕が追いかけていたのは君ってことでいいんだよね?」

「はい」

「まるで透明人間だな。いったいどうやってやってるの?」

 聞くと、彼女は返答に困ったようで苦笑した。

「えーっと、わ、笑わないでくださいね」

 僕はコクリとうなずいてみせる。

「神様の力です」

「え……」

 科学が生活を支配しているこの時代に神様の力、そうは信じられなかった。

「信じられません……よね」

「ま、まあ」

「でも、本当なんです」

 彼女は神社の屋根を見つめて話を続けた。

「北之輪町の夏祭り。そこで十二歳になった子供は儀式を受けるんです。神々の御子として祀り上げられることで、その子供には不思議な力が宿るんです。例えば、人の心が読めるようになったり、神社以外で他人に感知されなくなったり」

「二つ目は君が?」

「そうです。なぜか年も取らなくなっちゃって、とても大変でしたよ。街じゃ誰も私のことに気付いてくれない。神社にいたら幽霊呼ばわりされちゃうし。あ、儀式の日以降、どうやら私はこの世に存在しない設定になったみたいで……ここまですごい力を授かった子供はかつていなかったみたいですよ」

「感知できない? でも足音はしたけどなぁ」

「たまーにいるんですよ、子供で感覚が鋭いと、音だけは聞こえるという人が」

「じゃあ、誇っていいわけ?」

「はい、素晴らしい感覚の持ち主です」

「そういわれてもな」

 しかし、自分の意外な才能が見つかったのはちょっと嬉しい。

「それにしてもずいぶん面白い文化だね。神々の御子か、全くいつの時代の儀式なんだか。今でもやってるの?」

「……いいえ」

 彼女声から急に活力が感じられなくなった。

「町はもうないですから」

「え……」

「最後の住人がお亡くなりになって、町には誰もいなくなってしまいました。それ以来人は来ていません」

「そうなんだ……でも、町の植物は」

「全部、私が育てています。私も元々農業をしていた家の娘でしたから。食べないと死んでしまうし、自給自足のためにも、食べ物はしっかり手に入れておかないと。幸い、一人分であれば難なく作ることができますから。……それに、寂しくないです。こうやってものを育てていると」

「そう……なんだ」

 たった一人であの多くの植物の世話をしていた。人力で。

 凄い。

 普通なら、そんな退屈な作業はみなロボットにやらせる。それを人力ですべてやるのは大変だろう。仮に農業用の機械を使っていたとしてもその仕事量は計り知れない。見回りだけでも半日は時間を食われるはずだ。

 寂しくないです。と言っていた。

「それでも、一人で寂しいと思うときだってあるんじゃないか?」

「そうですね。でも、しょうがないです。誰もいないから」

「都会に出ようとは思わないの? 向こうなら、夜中でも騒がしいし」

「私の家はここにしかありません。誰もいなくなっても、ここは私の故郷ですから、私はここで暮らしたいです」

「そう……そんなもんかね」

「でも、さっき見とれてたじゃないですか。あの綺麗な」

「ああ、あれは、まあ、確かにきれいだったけど」

「北之輪の土地は、季節季節でいろいろな顔を見せてくれる。年によっても違う。きっとここは神様に愛された村で、ここで生きる私たちにいろいろ景色を見せてくれるんです、だから私はこの町が好きだし、ここでずっと暮らしたいと思います」

 故郷を語る彼女の顔は、すでにこの世に存在しない町のことなのに、笑顔だった。

 なぜかそれが痛々しく見えてしまう。

「そういえば、あの稲、何に使うの?」

「何って、お米を食べるためですけど、他に何か?」

「いや、お米なんて酒に使うだけだろ?」

「え……日本人ですよね?」

「ああ、生まれ育ちも東都中央区」

「トウト……チュウオウク?」

「聞いたことないの?」

「え、ええ、東京じゃないのですか?」

「東京……ああ、五年くらい前に関東地方の七つの県は合併したんだ。急激な人口減少で、合併でもしないと何とかかんとかとか言ってね」

「そうなんですか……」

「テレビとか観てないの? 電気はあるみたいだったけど……」

「……忙しいので、あまり見ません。でも、多分そのせいじゃないです。きっとどこかで知ってたんだろうけど、私、どんどん忘れちゃう。覚えているのは、夏祭りのあの日の記憶と、今年田植えをしたころの記憶からだけです」

「そんな……」

「だから、私が何年この状態で、あの夏祭りから何年の時間が流れたかもわかりません」

「でもさっき町がなくなったのは覚えてた」

「それも、本当は今年知ったことです。その人は死ぬ間際に誰にも見られることがないと分かっていながら、最後に北之輪は良い街だったと思い出を書き綴った遺書を残していました。その人、最後に日にちと『ありが』だけ書いて、そのあとは……」

「……」

 孤独死した。誰にも看取ってもらえないまま人生の最後を迎えたということだとは想像に難くない。

「その人が最後の人だってことは分かりました。なんとなくですけど。それからは私は一人……みたいです」

「……へえ」

 僕は考えた。

 あんなにきれいな景色を見ることができる土地なのに、人がいなければ廃れていき、やがてその景色は二度と見れなくなる。先ほどの心惹かれるあの光景は、彼女が北之輪町を必死に守ってきた結晶なのだろう。

「守り神」

「へ……?」

「北之輪町の守り神だね……君」

「そんなこと」

「少なくとも、君がいたから、僕はあの光景を見ることができたんだから。それに君がいなかったら、僕はあそこで野生生物に殺されていたかもしれないし、仮にあの町についていたとしても、絶望していただろうね。なんせ知らない土地で遭難している中で、ようやくついたのは死んだ町じゃさ」

「そんな……なんか、恥ずかしい」

 大人びている物言いの彼女だが、照れる姿は外見相応に可愛かった。

「そうだ、遭難しているって言いましたよね……?」

「そうなんだよ。このまま助けが来なかったらどうしようかなぁ」

 すでに夕日は沈み、月が見え始めている。神社のライトが灯り、肌寒くなってきた。

「お腹すきません?」

「うん……さすがに少し」

「おにぎりあります、食べますか?」

「何それ」

「見ればわかると思います」

 彼女は腰に掛けていた竹細工の籠から、竹の葉でくるんだ何かを出すと、むずびの紐を解く。

 中から出てきたのは、米がたくさん集まっている三角の物体、塩がかかっている。

「おひとつどうぞ」

 二つは言っている一つを手渡された。米のくせにやけに柔らかく粘着性がある。初めて見るその物体に、大きくかぶりついた。

 甘さ、しょっぱさ、いろいろ感じるが、一言で感想を述べるならまずくはない。決して最高の美味というわけではないが、程よいおいしさと言うべきか、もう一口が欲しくなるような。

「本当に初めて見たって顔をしてますね……」

「……僕の家はそんなに金持ちじゃないから。お米はもう高級品さ」

「そうなんですか? お米は日本の食文化を代表する主食だと習ったのですけど」

「……もう、ですます口調はいいよ。日本の農業は二千五十年から衰退したらしいよ。後継者がいなくなっていよいよ農業をやる人がいなくなっているんだってさ。はるか昔はお米だけは自給率が高かったらしいけど、今はもう五パーセントくらいしかないよ。だから高価。一キロ三十万円」

「高い……」

「でしょ、他の食材なんてもっと高いよ。だから民間人は、キューブ状の固形食糧が基本的な食事。あれなら必要最低限の栄養素はとれるし、空腹感覚も麻痺させてくれて気が紛れるから、みんなそんなの食べてる」

「……どんな味?」

「味なんて、甘味が少しでもあればいい方さ。特に気にしたことないけど、少なくとも、このおにぎりだっけ、これの方が三倍はおいしいね。これは、食べたいって思えるものだから」

 そこまで言ってもう一口。自分の言ったことが間違いではないことを、生まれて初めて感じたこの高揚感と共に噛みしめた。

「変なところ……私の知ってる日本と違うな」

「……変?」

「うん」

「そうか……変……か」

 今まで自分が暮らしてきた世界に何の疑問も持たなかったけれど、今思うとそうかもしれない。

 日本人は何故、このおにぎりと言う美味いものを捨てて、進化の道を選んでしまったのだろうか。今となっては疑問に思えてならない。

「あ、名前聞いてなかったね。私は沙紀、安藤沙紀」

「僕は――」

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